メッセージ


2018年10月28日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第143篇1節~2節、新約 ガラテヤの信徒への手紙 第2章15節~16節
説教題「信仰のみが義とする」    
讃美歌:546、10、304、354、542          

<信仰義認>
 今週の水曜日、10月31日は宗教改革記念日です。プロテスタント教会にとって大切な日となります。1517年10月31日、ドイツの改革者ルターがヴィッテンベルク城(しろ)教会に95箇条の提題を貼り出した日と言われております。そのルターが、ガラテヤの信徒への手紙第2章16節の御言葉を説教するとこうなります。「あなたは惑わされないように、信仰から逸れて行(おこな)いへと流されてしまわないように気をつけなさい。人はよい行いをすべきであるが、よい行いにではなく、キリストの行いに信頼すべきであり、罪や死や地獄をわたしたちの行いによって減らそうとするのではなく、それらを私たちから、義としてくださる救い主、シオンの王へと向けなければならない。」
 ルターは「信仰義認」を語ります。「信仰義認」とは、「ただ信仰によって義と認められる」という教理。この教理を示している御言葉の一つが、ガラテヤの信徒への手紙第2章16節なのです。
 私たちは、祈りと黙想を積み重ねることで義と認められることはありません。どんなに真剣に祈りと黙想を積み重ねても罪人です。しかし神は、そのような私たちを、キリストの十字架によって完全に赦し、義しい者と認めて下さるのです。ルターが95箇条の提題を貼り出した理由の一つは、「信仰義認」を破壊することへの怒りであったと思います。キリストへの信仰と悔い改め抜きに、罪の償いを軽減する証明書である贖宥状の購入によって罪の赦しが与えられるという教えは、キリストの死を無意味にするもので、ルターには耐えられないものだったのです。
 パウロも、ペトロの行為を見過ごすことはできませんでした。エルサレムでの使徒会議でそれぞれの働きを認め、割礼を受けた人々はペトロ、異邦人にはパウロが中心となりキリストの福音を宣べ伝えることを決めた。それなのに、ペトロがアンティオキアに来たとき、割礼を受けている者たちを恐れて食事の席から身を引こうとした。しかも、一緒に伝道していたバルナバさえも彼らの見せかけ行いに引きずり込まれてしまったのですから、パウロの怒りは頂点に達した。そこでパウロは、キリスト者の恵み、キリスト者の救いの根拠を定義したのです。
 16節「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」
パウロの全存在をかけたメッセージです。私たちも誰かに何かをどうしても伝えたい!と思うときは、同じ言葉を繰り返します。相手から「しつこい」と言われようと、「もうわかった」と言われようと、本当にこのことを心の奥底にしっかりと刻みつけて欲しい!と真剣に求めるからこそ、繰り返すことがある。 
パウロは16節で「律法の実行ではなく」を二度繰り返し、さらに念を押すように「律法の実行によっては」と続ける。また「キリストへの信仰によって義とされる」を繰り返す。つまりガラテヤ書の一つの山が第2章16節であり、ルターも16節の御言葉に大いに支えられて、改革を行ったと思うのです。
 パウロは確信しております。「私たちは律法を全うすることは不可能。よって、律法の実行によっては、だれ一人として義とされず、救われない。けれども、キリストが十字架で死なれたことで、私たちは義とされた。キリストの義こそ、私たちの恵みであり、救いだ。それなのに、なぜ割礼の有無にこだわるのか?ユダヤ人でありながら、異邦人のように生活しているのに、どうして