メッセージ


2018年4月22日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第50章4節~11節、新約 ルカによる福音書 第22章63節~71節
説教題「見よ、主なる神が助けてくださる」    
讃美歌:546、12、162、250、539   

<第22章の最後>
私が東村山教会に着任した3年前から読み続けておりますルカ福音書も今朝の御言葉で第22章が終わります。来週から第23章に入ります。来週は、主イエスがピラトとヘロデから尋問される場面を読みます。その後、主イエスは死刑の判決を受け、十字架につけられ、息を引き取られるのです。そのような第23章に入る直前の今朝の御言葉は、あまり目立たない箇所かもしれません。けれども、今朝の御言葉も非常に重要なのです。早速、63節から読んでまいりましょう。

<お前を殴ったのはだれか>
 さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。
主イエスが激しい暴行を受けております。新共同訳聖書でも主の痛みを想像することは可能ですが、岩波書店訳(佐藤研訳)ですと、主の痛みが心に突き刺さります。「そして彼の番をしていた男たちは、彼を殴ってなぶりものにし続け、また彼に目隠しを巻きつけては彼にたずねて言うのであった、『予言して見ろ、お前を打ったのは誰か』。そして、冒瀆しながらそのほかの多くのことを彼に向かって言い続けた」。新共同訳と岩波訳で違うのは、新共同訳は、「侮辱したり殴ったりした」「イエスをののしった」と訳しておりますが、岩波訳では、「なぶりものにし続け」「彼に向かって言い続けた」と訳しているところです。つまり、岩波訳は連続の行為として訳しているのです。ただ一度、侮辱され、殴られたのではない。主はなぶりものにされ続け、ののしられ続けたのです。
見張りをしていた者たちは、主イエスに目隠しを巻き、叫びました。「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」主は沈黙を貫きます。主は真の人であると同時に真の神です。つまり、彼らに暴行をやめさせることは簡単なことです。しかし主は、彼らが殴り疲れるまで、ののしり疲れるまで抵抗することなく、忍耐し続けたのです。当然、主イエスの顔面は膨れ上がり、眼もただれたはずです。まさにボクシングでノックアウトを受けた選手のようになってしまった。いったい、主イエスを殴り続けたのは誰なのか?何と、御子を殴り続けたのは、父なる神なのです。もちろん、実際に殴ったのは見張りをしていた者たちです。けれども、そのような者を用いて殴り続けたのは、父なる神なのです。だからこそ、主は肉体の痛みに加え、ののしりという心の痛みにも耐えているのです。神は、御子に激痛を強いるほど、私たちの罪を本気で赦そうと願っておられる。さらに、私たちが経験する痛み、嘲(あざけ)りを神は御子に経験させているのです。

<主の僕>
今朝はルカ福音書に加え、旧約聖書イザヤ書第50章も朗読して頂きました。徹底的に侮辱された主イエスは、イザヤが預言した主の僕と重なります。6節と7節を改めて朗読いたします。打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。
激痛と嘲りに顔を歪める主イエスの姿と重なります。御子はひたすら、神の義が成就されることを祈り、嘲りをいといませんでした。私たちキリスト者は、イザヤ書の「主の僕」が神の民イスラエルを指すからこそ、主イエスにおいて「主の僕」が成就したと信じるのです。今、苦しみの中にある人は、苦しみが永遠に続くように思うはずです。けれども、人は苦しみの中に置かれたとき、今まで見えなかったものが見えるようになる。そして、主の僕のように「見よ、主なる神が助けてくださる」との信仰が与えられるのです。何の苦労もなく、順風満帆なとき、今朝のイザヤ書、またルカ福音書を読んでも、「主の僕は辛い、主イエスはかわいそう、見張りをしていた者たちはとんでもない罪人」と思うだけかもしれません。けれども今、激しい痛み、苦難の中にあれば、主の僕である主イエスに慰められ、励まされ、すでに主は私と同じ痛みを経験しておられるとの確信が与えられ、主は私の痛みと共に苦しみ、共に争ってくださり、共に立ってくださる。主なる神が必ず助けてくださるとの信仰が与えられるのです。

<主イエス・キリストとは>
ルカ福音書に戻ります。66節。夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。
 冒頭で第22章の最後の部分も非常に重要と語りました。その根拠が66節以下です。最高法院での裁判は66節から71節の6節からなる短い箇所です。しかし、この6節に私たちが信じる主イエスはどのような御方なのか凝縮して書かれているのです。だから、私たちキリスト者にとって、第22章の最後は非常に重要なのです。丁寧に読んでいきたいのですが、まず67節に「お前がメシアなら」とあり、69節に「人の子」、さらに70節に「お前は神の子か」とあります。この「メシア」、「人の子」、「神の子」は、いずれも主の「称号」です。御子の名前はイエス。同時に、「メシア」、「人の子」、そして「神の子」とも呼ばれている。主イエスはこの世に何を実現するために生まれて下さったのか?それを「メシア」、「人の子」、「神の子」という三つの称号で言い表すのです。
「メシア」は、ヘブライ語の表記です。ギリシア語では、「キリスト」です。キリストは、油を注がれた王を意味します。神の民に決定的な救いをもたらす王です。今朝の御言葉では、主イエスが私たちに、神から送られた王としての務めをなさるということです。
次に「人の子」は、神が支配する永遠の世界において、神の支配を実現する担い手です。神の支配は、全能の神の右に座しておられる人の子を通じて実現するのです。神の真理、神の義が、永遠に世を支配するように働かれる御方が人の子、主イエスです。
また「神の子」は、真の支配者である神と人の子が、どのような関係にあるかを示しております。人の子は真の人であると同時に真の神です。主イエスをキリストと告白することは、主イエスを真の神、真の王として迎えることです。たとえ厳しい試練に襲われても、私たちの心にキリストを受け入れ続けたい。このような信仰が私たちキリスト者にとって非常に重要なのです。主イエスを裁いた民の長老会、祭司長、律法学者は、それが出来ませんでした。邪魔者は殺せ!と主イエスを処刑したのです。
主イエスを救い主と信じる信仰は、今、現在において信じるのは当然ですが、自分が生まれる前、また死んだ後も「私を支配するのは、主キリストである」と信じることが大切です。主をメシア、人の子、神の子と信じ続けることは、私たちキリスト者にとって非常に重要なことなのです。

<葬儀を終えて>
 先週の月曜日は、M兄弟の葬儀を執り行いました。葬儀ではMさんが愛された御言葉を読み、愛された讃美歌を賛美しました。葬儀が終わり、火葬も終わり、御遺骨になると、御遺族の悲しみは大変な厳しさだと思います。Mさんを約10年もの間、献身的に介護し続けたM姉妹の喪失感は言葉にすることのできないほど深いものであると思います。キリスト者のM姉妹は、主イエスの復活と再臨を信じておられます。もちろん、私たちも信じている。しかし、愛する者の死を経験したとき、改めて神から問われるのだと思います。「あなたは、心から永遠の生命を信じますか?」。そのとき、私たちは改めて主イエスとはどのような存在であるのかをしっかりと心に刻むことが大切だと思うのです。「主イエスはどのような方かわからないがただ何となく信じます」では、愛する者の死というもっとも厳しい人生の危機に立ったとき、私たちの信仰はグラグラし、最悪は信仰を保ち続けることが困難になるかもしれません。では、どうすれば私たちは信仰を保ち続けることができるのでしょう?それは、礼拝を守り続けることです。礼拝において同じ痛みを経験した兄弟姉妹と共に、御言葉に耳を傾け、十字架と復活そして再臨の主を賛美し、主の憐れみを祈り続ける。そのとき、私たちに聖霊が注がれ、どんなに弱く崩れそうになっても、主が支え、主が守り、主が私たちの全存在を永遠に助けてくださるのです。

<『獄中の朝の祈り』より>
 ドイツの神学者であり、牧師であったディートリッヒ・ボンヘッファーは、ヒトラー暗殺計画に参画したかどで投獄され、僅か39歳で処刑されました。ボンヘッファーの獄中の朝の祈りがあります。一部を紹介します。主イエス・キリストよ。あなたは私のように貧しく、みじめで、捕われ、見捨てられ給いました。あなたはあらゆる人間の困窮を知り給います。たとえ一人の人間も私の側にいなくても、あなたは留まり給います。私を忘れることなく探ね求め給います。私があなたを認め、あなたのもとに帰ることを、あなたは望んでおられます。主よ、あなたの呼び声をきいて御跡に従います。私に助けをお与え下さい。
ボンヘッファーが絞首刑になって僅か3週間後、ヒトラーが自ら命を絶ち、ナチス体制は崩壊しました。私たちの人生はいつ何が起きてもおかしくない。キリスト者も例外ではありません。しかし、主イエスは私たちの困窮をご存じであられる。それも主イエスが侮辱され、殴られ、目隠しをされ、ののしられ、最後は十字架の上で絞首刑のように一気に処刑されるのではなく、ジワジワと十字架刑で処刑されたのです。だからこそ、厳しい試練の中にあっても、深い喪失感に襲われ、茫然としても、メシアであり、人の子であり、神の子であり、今は全能の神の右に座し、日々、私たちに聖霊を注ぎ続けてくださる主イエスに祈り続けることができるのです。獄中のボンヘッファーのように。「主よ、あなたの呼び声をきいて御跡に従います。私に助けをお与え下さい。」
主は私たちの祈りを心から喜んでくださいます。そして、どんなに神様から見捨てられたように感じるときも、主は私たちを見捨てることなく、私たちを必ず助け続けてくださるのです。そのためにも、礼拝から礼拝への歩みを大切にしたい。主は、私たちの歩むべき道を必ず備えてくださるのです。

(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・M兄弟の奥様 M姉妹、御遺族の皆さまの上に主の慰めと励ましを溢れるほどに注ぎ続けてください。
・今朝も朝9時からこの礼拝堂で教会学校の礼拝が行われました。主よ、教会の子どもたちを祝福してください。また子どもたちのために朝早くから仕えている教会学校の教師を強め、励ましてください。
・今、洗礼を志願している姉妹、病床洗礼を志願している兄弟、転入会を志願している姉妹を強め、励ましてください。求道生活を続けているお一人お一人をこれからも守り、導いてください。
・手術をされた兄弟姉妹、入院、手術を控えている兄弟姉妹、療養を続けている兄弟姉妹、献身的に介護しておられる兄弟姉妹を強め、励ましてください。
・本日、同じときに国分寺教会で説教を担っておられる加藤常昭先生の心身の御健康をお守りください。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年4月15日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 民数記 第6章22節~27節、新約 ルカによる福音書 第22章54節~62節
説教題「まなざしを向けてくださる主」    
讃美歌:546、27、248、259、545B

<ペトロの涙>
主イエスを捕縛した人々は、主をオリーブ山から大祭司の家に連行しました。家には中庭があり、夜が明ければ長老や祭司長、律法学者が集まり、主イエスの裁判のために最高法院が開かれます。
ペトロは、自らも捕縛される不安を抱きつつ、主から遠く離れて従いました。そして、人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、共に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろしたのです。
 ペトロがいるのは、イスラエルの南に位置するユダヤ地方の首都エルサレムです。主イエスと弟子たちは、北のガリラヤ地方の出身のため、ガリラヤ訛りで喋ります。ペトロは、そのガリラヤ訛りで主イエスとの関係を全面否定したのです。そして三度目に「あなたの言うことは分からない」と言った瞬間、鶏が鳴き、主は振り向いてペトロを見つめられました。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出し、外に出て、激しく泣いたのです。
 では、ペトロはこの後、どうしたでしょう?おそらく、自宅に身を潜め、悶々としていたはずです。「私は、主の予告通り、主を三度も裏切ってしまった」と、日々、悔い改めの祈りを献げていたに違いありません。
では、主イエスはそのとき何をしておられたでしょう?十字架で苦しみつつ、ペトロの信仰が無くならないように祈り続けたはずです。主イエスの執り成しの祈りは、復活されてからも変わりません。主イエスは日々、私たちの信仰が無くならないように祈り続けておられるのです。

<ペトロの試練>
ペトロが立ち直るために、主イエスの執り成しの祈りは不可欠です。同時に、ペトロが立ち直る具体的なきっかけを作ったのは、婦人たちでした。 
ペトロは、主イエスの復活を証言したマグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、また一緒にいた婦人たちの「主は甦られた」に心が震えたのです。裏切りの罪と真摯に向き合い続けたペトロだけが立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞきました。すると、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰ったのです。
 ペトロが主を三度も裏切った行為は重大な罪であることは間違いありません。同時に、その後のペトロを導いた神様からの試練であったことも間違いないのです。私たちは知っています。あの時、あのような試練がなければ、今の私はないという出来事を。私たちは、どんなに完璧に生きようと思っても神様ではないので、必ず失敗し、必ず罪を犯し、必ず挫折します。しかも、突然に罪を指摘されると大いに動揺し、「私は間違っておりました」と素直に言えない。「絶対にそんなことはしておりません。私は全く関係ありません」と平気で嘘をついてしまうことがある。私たちに絶対とか、全くとか、100%正しいということはないのだと思います。必ず隙がある。ペトロも大いに動揺しました。むきになったのです。女中のまなざしに震えたのです。元漁師のいかつい男が、当時の社会において、もっとも低い立場の女中にじっと見つめられ、「この人も一緒にいました」との証言に大いに慌てた。その結果、「わたしはあの人を知らない」と主イエスとの関係を全面否定したのです。こんなに悲しいことはありません。こんなに情けないことはありません。しかし、主イエスはすべてご存じです。ペトロは必ず私を知らないと言うだろうと。同時に、主イエスはペトロには徹底的に自分の弱さ、罪を心に刻みつけて欲しいと思ったはずです。中途半端な弱さではダメだ、中途半端な罪でもダメだ。徹底的に自分は弱い、徹底的に自分は罪深いと心に刻んで欲しいと。その意味で、ペトロにとって、主イエスを三度も否定した事実と、その瞬間に鶏が鳴いたこと、そのもっとも情けない瞬間に主イエスが振り向いて見つめられた眼差し、そして激しい涙はどうしても必要だったのです。

<ペトロの説教>
 ペトロは、聖霊降臨の日、神の赦しと憐れみによって、御子の復活の喜びを説教しました。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。(使徒言行録2:32)」説教に耳を傾けていた人々は、大いに心を打たれ、ペトロたちに尋ねました。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか。」ペトロは彼らに命じました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。(使徒言行録2:38〜39)」どうでしょう。あの情けない、号泣したペトロが堂々と「悔い改めなさい」と語っている。決して上から目線ではありません。ペトロは、説教でこのように語ったかもしれません。
 「私は、主を裏切りました。しかも、三度も。主イエスに深く愛され、主に赦され、主に期待された私が、主が大祭司の家に連行されたとき、私は女中の『この人も一緒にいました』の一言で動揺し、主をあっさり裏切ったのです。一回なら、言い訳ができたかもしれません。しかし、少したってから、ほかの人から同じように言われたのです。『お前もあの連中の仲間だ』。すぐ裏切りました。『いや、そうではない』。さらに一時間後、また別な人が言うのです。『確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから』。私は、『ガリラヤの者だから』で頭が真っ白になったのです。ガリラヤ訛りは隠すことができません。皆さんもおわかりでしょう。でも、ガリラヤ訛りの私、ガリラヤの漁師に声をかけてくださったのは十字架と復活の主イエス・キリストでした。それなのに、私は『あなたの言うことは分からない』と言ってしまったのです。今も、その瞬間を忘れたことはありません。あの瞬間、私の裏切りを待っていた鶏(にわとり)が鳴いたのです。すると、主が振り向いて、悲しい憐れみに満ちた顔でまなざしを向けてくださったのです。主の瞳に捕らえられた瞬間、私は心の底から悔い改めました。『主よ、憐れみたまえ』と祈ったのです。だからこそ、私は語り続けます。私の裏切りを、私の涙を、主イエスの赦しと復活の生命を。皆さん、悔い改めて欲しい。『私は絶対に間違っていない』と言い張るのではなく、本気で悔い改めて欲しい。そして洗礼を受けて欲しいのです。すると、本当に罪が赦されます。私も赦されました。だからこそ、説教しているのです。赦されなければ、どうして説教することができるでしょうか?女中にまで嘘をついた私が。それほどまで主の十字架の赦し、復活による永遠の生命は大きな恵みなのです。」
 その日、ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、三千人ほどが仲間に加わりました。これが主イエスの御業です。情けないペトロを用いて、三千人の信徒を加えられた。そうです。私たちも弱さを誇ってよいのです。なぜなら、そのような者こそ、主イエスのまなざしの深さ、愛の深さ、赦しの深さ、憐れみの深さを強く感じ、心から主に感謝することができるからです。

<アロンの祝福>
 今朝の旧約聖書の御言葉は、「アロンの祝福」と呼ばれております。東村山教会では第一の主日に、「アロンの祝福」が祈られます。改めて、朗読させて頂きます。民数記第6章24節以下。主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。(6:24~26) 
アロンの祝福では、主の御名が三度繰り返されております。主の御名が三度繰り返されることの中に神学者たちは伝統的に三位一体の神、つまり父なる神、子なる神(キリスト)、そして聖霊なる神が示されていると指摘しております。主を御子キリストと理解することは私たちキリスト者にとって大切なことです。三度も主を否定したペトロのみならず、罪深く、弱さを抱えている私たちこそ、御子に祝福され、守られ、御顔を向けて光を照らされ、さらに、御顔を向けて頂き、平安を賜ることは本当に大切なことであり、永遠の喜びとなるのです。

<葬儀を控えて>
 明日は、午後1時からM兄の葬儀が執り行われます。昨日、納棺式を終えて教会に戻り、今夜の前夜棺前祈祷会、さらに明日の葬儀の準備をしていたとき、M兄が最後に主日礼拝に出席されたのはいつだったか気になり、出席名簿を確認しました。すると、2011年12月18日でした。残念ながら、翌週12月25日クリスマス礼拝には〇がありません。その後も、M兄の欄は空欄。つまり、6年4ヶ月も礼拝から離れていたのです。だからこそ、主はM兄に慈愛に満ちたまなざしを注ぎ続けました。大変な闘病生活であったことは皆さんの方がご存じであると思います。約10年間、懸命に介護し続けたM姉は心身ともに限界だったはずです。M兄は生命の危機を主のまなざしによって何度も乗り越えさせて頂いた。そして今、すべての痛み、苦しみから解放され、神の懐で安らかに憩っておられる。そのM兄を囲んでの最後の礼拝が執り行われます。もちろん、喪主としてM姉も6年4ヶ月振りに教会にいらっしゃいます。ぜひ、今日と明日と続きますが、体力の許される方は明日も教会にいらして頂けたら有難く存じます。そして、M兄が愛唱された聖句に耳を傾け、愛唱された讃美歌を共に賛美したいと願います。罪赦されたペトロが語り続けたのは、キリストの復活であり、魂の救いであったことは間違いありません。

<魂の救い>
最後に「ペトロの手紙一」の御言葉を共に心に刻みましょう。あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。(1:7~9)
 M兄も約10年間の闘病生活で厳しい試練に悩み続けたはずです。また、懸命に介護し続けたM姉も厳しい試練に悩み続けたはずです。そして今、厳しい痛みに襲われている。しかし、あの裏切りを三度も繰り返したペトロは宣言するのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。そうです。どんなに礼拝から遠ざかり、どんなに厳しい試練に襲われ、また、どんなに主を裏切ってしまっても、罪を悔い改め、十字架と復活、そして再臨の主イエスへの信仰を告白し、洗礼を受けたキリスト者は例外なく、魂の救い、永遠の生命が約束されているのです。私たちもペトロのように大胆に自らの罪、弱さを証し続けたい。それが今朝も私たちに憐れみに満ちたまなざしを向けてくださる主イエスの愛と赦しに応える唯一の道なのです。

(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・M兄弟が召されました。深い悲しみの中にあるM姉妹、御遺族をお支えください。慰めを注ぎ続けてください。明日の葬儀に一人でも多くの教会員が出席することができますようお導きください。
・手術をなさられた兄弟姉妹、手術を控えている兄弟姉妹、療養を続けている兄弟姉妹、また献身的に介護しておられる兄弟姉妹を強め、励ましてください。特に、先週に引き続き、今朝も礼拝を欠席された加藤常昭先生の心身の健康をお守りください。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年4月8日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第29章13節~16節、新約 ルカによる福音書 第22章47節~53節
説教題「闇を恐れず、神を畏れる」    
讃美歌:546、7、156A、523、545A、Ⅱ-167  

<主に近づくユダ>
先週はイースター礼拝でしたので、ルカ福音書から離れて、ヨハネ福音書の御言葉を共に味わいました。本日から、再びルカ福音書に戻ります。
主イエスは、いつものようにオリーブ山に行かれると、ひざまずいて祈りました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください(22:42)。」主は、苦しみもだえ、いよいよ切に祈られたのです。
主が祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいたのです。主は言われました。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。(22:46)」それからも、主は祈りについて話しておりました。その「時」です。群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、主に接吻をしようと近づいたのです。主イエスは言われました。「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか(22:48)」。
 「接吻」と訳されたのは、φιληματι(フィレィ マティ)という原語です。「愛する」と訳されることの多い言葉です。アメリカのペンシルベニア州にフィラデルフィアという都市がありますが、ギリシア語のフィロス(愛)とアデルフォス(兄弟)から命名された地名です。このような愛、つまり「友愛」を意味する言葉が、「くちづけをする」という意味を持ったのです。ですから、主イエスの言葉をこのように訳すことができます。「ユダ、あなたは愛をもってわたしを裏切るのか」。大変に厳しいお言葉です。同時に、主イエスの憐れみに満ちたまなざしを感じます。
 ユダはユダなりに主イエスを愛していたはずです。しかし、ユダは死の恐れに取り憑かれているようです。主が殺される。そして、いずれ自分も殺される。死の恐れに取り憑かれた結果、ユダは祭司長たちの所に行き、主イエスを引き渡すことを相談し、オリーブ山の祈りの場、ゲツセマネの園に来たのです。

<闇を恐れる弟子>
 続く49節。イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。剣を振るったのは、ヨハネ福音書にはシモン・ペトロと明記されております(18:10)。この行為は、信仰的ではありません。主の御心に従わず、剣を振り回しただけです。それも、狙って切り落としたというよりも、わーっ!と叫び、剣を振り回したら、切り落としてしまったというのが正しいように感じます。つまり、ペトロもユダと同じように死を恐れた。剣は、自分たちが抱いている恐怖のしるしなのです。
主は言われました。「やめなさい。もうそれでよい」。主は、「彼らのやる通りにさせなさい」と命じた。主イエスの覚悟を感じます。主は死から逃げておりません。捕縛を意識しているからこそ、直前まで血の汗を滴らせ神に祈り続けた。主は祈りによって、十字架の死を御心として受け入れました。だからこそ、主は「やめなさい。もうそれでよい」と言われたのです。
この後、「その耳に触れていやされた」とありますから、主は弟子の行動を全面的には肯定されていないことは確かです。主の愛、主の憐れみは、大祭司の手下をも包み込むのです。主は、剣によって御国を建設することは反対です。同時に、弟子たちの剣を振り回す行為に、主イエスを命がけで守ろうとする心を感じつつ、実際は、弟子たちも闇を恐れる心に支配されていることを、主は強く感じているのです。

<闇を恐れる祭司長たち>
 続く52節。それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」 
恐れに支配されているのは、ユダを含む十二弟子に加え、御子を捕縛しようとする「群衆」や、彼らを引きつれてきた「祭司長、神殿守衛長、長老たち」も同じです。彼らは民衆を恐れています。だからこそ、エルサレム神殿の境内で主イエスの言葉尻を捕らえて、主を捕まえようとしましたが失敗したのです。しかし、ユダの裏切りによって、主を暗闇に紛れて捕縛する機会に恵まれた。彼らは群衆を引き連れ、ゲツセマネの園にやって来たのです。剣や武器になる棒を持って。そこで主は、「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」と言われたのです。
「闇が力を振るっている」は、ルカ福音書だけが伝える主イエスの言葉です。この言葉は意訳です。では、原文はどうなのか。直訳すると、こうなります。「これはあなたがたの時、そして闇の支配」。目の前に闇の支配がある。目の前に闇が満ちている。愛をもって、主である私を裏切るという行為が、私の目の前で起こっている。「闇の支配」そのものです。ここで、「闇」と訳されたのは、σκοτους(スコトゥース)という原語。意味は「暗闇の」となる。まさに、主イエスの目の前に暗闇がある。復活の光から遮断された空間がある。真の光である主イエスのお言葉と考えると、闇はより深く、より暗く感じます。
 ジェームス・デニーというスコットランド教会を代表する神学者がおります。デニーが『闇の中の歩み』という書物に、このような言葉を記しております。「心の中に、神からも、人間からも隠された何かがある時には、闇は可能な限り深く、恐ろしいものになっている。」確かにその通り。私たちはそのようなことは不可能であると知っていながら、犯してしまった罪を神に隠そうとします。今、さかんに「隠蔽(故意におおいかくす)」という言葉が様々な報道を通して登場します。実際、「隠蔽」で検索すると、「イラク日報隠蔽」、「防衛大臣『隠蔽にあたるか、厳密に調べる』陸自日報」と出てまいります。罪を「隠蔽」したいと思ってしまう心は、私たちすべてにある。私たちは皆、「私にも闇があります」と罪を認め、悔い改めなければなりません。反対に、罪を認め、悔い改めつつ、主イエスに信仰を告白すれば、私たちの罪は十字架と復活の主によって完全に赦されるのです。けれども、どこまでも隠し、どこまでも罪を認めなければ、私たちの闇は限りなく深く、限りなく恐ろしいものになってしまうのです。

<イザヤ書第29章から>
 今朝は、ルカ福音書に加えて、旧約聖書イザヤ書第29章を朗読して頂きました。改めて朗読させて頂きます。13節以下。主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別(ふんべつ)は隠される。」災いだ、主を避けてその謀(はかりごと)を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らを見るものか/誰が我らに気づくものか」と。お前たちはなんとゆがんでいることか。陶工が粘土と同じに見なされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか/「彼がわたしを造ったのではない」と。陶器が、陶工に言いうるのか/「彼には分別(ふんべつ)がない」と(29:13~16)。 
心の奥に突き刺さります。まさに神を畏れず、闇を恐れる私たちの心、隠蔽の罪を暴露される御言葉です。神は語ります。「神を畏れ敬うことに、真実の心が伴わなければ、真の礼拝ではなくなる。あなたは今、真実の心で私を礼拝しているか。ただ形式的に礼拝していないか。私があなたを創造した。当然、あなたの心をすべて知っている。だから隠そうとしなくていい。無駄な行為だ。それなのにあなたはまだ罪を隠そうとするのか、隠そうとすることがもっとも深い罪であり、闇なのだ。」

<闇を恐れず、神を畏れる>
 最後に、今朝の説教題を御一緒に心に刻んで終わりたいと思います。今回も悩みましたが、最終的に「闇を恐れず、神を畏れる」としました。私たちは様々なものを恐れます。失敗を恐れ、他者の評価を恐れ、病を恐れ、死を恐れる。それら恐怖の対象を強引ですが一言でまとめると「闇」になるかもしれません。けれども、インマヌエルの主イエスへの信仰を告白した私たちキリスト者は、闇を恐れる者から、神を畏れる者へと変えられたのです。
「神を畏れる」の「畏れ」は、「闇を恐れず」の「恐れ」という字ではありません。なぜなら、創造主なる神は、被造物である私たちにとって恐怖の対象ではないからです。神を畏れるの「畏れ」は、「畏怖」の「畏」、畏れ敬うという字を使います。この「畏怖」の「畏」には、神に心から信頼する、という意味が含まれているのです。私たちキリスト者は、ただ神のみを神として畏れ、敬い、礼拝する群れです。その意味で、礼拝を疎かにすると、途端に私たちの心は暗闇に覆われ、神の眼差しに鈍くなってしまうのです。すでに新しい年度がスタートしております。今年度も東村山教会に連なる私たちは、闇を恐れる者でなく、神を畏れる者として、神にすべてを委ねて歩み続けたい。そのとき、私たちの心から闇は去り、主イエスの復活の光に包まれるのです。


(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・今、様々な心の闇に悩み、苦しんでいる方々を守り、導いてください。特に、様々な困難を強いられている被災地の方々にあなたさまが寄り添ってくださり、生きる力を日々、注ぎ続けてください。
・新しい環境に必死に慣れようとしているお一人お一人を強め、励ましてください。また、色々なことが動き出す季節、思うように心も身体も動かすことができず、社会から取り残されたような思いに苦しんでいる方々がおられます。主よ、どうかそのような方々にこそ、復活の光を注ぎ続けてください。お願いいたします。
・手術をなさられた兄弟姉妹、手術を控えている兄弟姉妹、療養を続けている兄弟姉妹、また献身的に介護しておられる兄弟姉妹を強め、励ましてください。
・5月20日のペンテコステ礼拝で洗礼を希望している姉妹、病床洗礼を希望している兄弟、転入会を希望している姉妹を導いてください。また求道生活を続けている兄弟姉妹を導いてください。
・今朝も病のため、また様々な理由のため、礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2018年4月1日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第126篇1節~6節、新約 ヨハネによる福音書 第20章11節~18節
説教題「嘆きの涙を喜びの歌に」    
讃美歌:546、151、154、Ⅱ-1、522、544     

<マグダラのマリアの涙>
 愛する人の死。私たちはその痛みをいつの日か経験しなければなりません。
マグダラのマリアもその痛みを経験しました。心の底から愛した主イエスが、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られたからです。
マグダラのマリアは、私たちの想像力をかきたてる婦人です。ルカ福音書は、主イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人として、マリアを登場させます(ルカ福音書8:2)。そのこともあって、直前(7:36~50)に登場する「罪深い女」もマグダラのマリアではないかと推測されるようになったのです。そのマリアが、すべての福音書の十字架と復活の場面に登場する。以上より、初代教会に於いて、マグダラのマリアの存在がいかに大きかったかを、その事実は示しています。
マグダラのマリアは、主イエスの十字架のそばに立っていました。おそらく、主イエスが衰弱していく様子を見つめていたはずです。そして最期、主が頭を垂れて息を引き取られた。その瞬間、頭が真っ白になり、座り込んだかもしれません。私たちは大きなショックを経験すると、泣けないことがある。ある方から伺いましたが、愛する伴侶が召された。その直後は葬儀や相続の手続きに追われ、心の底から泣くことが出来なかった。数ヵ月後に、色々なことも落ち着き、ふと伴侶がいないことに気がつく。その瞬間、まるで津波のように一気に悲しみが押し寄せ、涙が溢れ、泣き続けた。すべての人がそうなのかわかりません。けれども、その方はそのように語ってくださいました。マリアの涙は、そこまで深い涙ではなかったかもしれません。それでも、主イエスの御遺体にいつまでも寄り添いたい!香油を注ぎ続けたい!そう願ったはずです。そこで安息日が明けた日曜の朝、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは香油を持って墓に行ったのです。
ところがです。墓の石が取りのけてある。動転したマリアは、走り出したのです。まず、シモン・ペトロのところへ、また、主が愛しておられたもう一人の弟子のところへ。マリアは告げたのです。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」マリアは、大いに動転し、何が何だか分からなくなっています。けれども、主イエスの墓へ再び向かっているのです。マリアは墓の外に立って泣いています。どのように泣いていたのか聖書に書いてありません。さめざめと泣いていたかもしれません。 
マリアは泣きながら身をかがめて墓の中を見ました。すると、白い衣を着た二人の天使が見えたのです。マリアはこの段階で相当に混乱していたはずです。石はない。主イエスの御遺体もない。泣きながら墓の中を見ると、見たこともない白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っている。本来なら、逃げ出すところかもしれません。しかし、マリアにはそのような気力もない。ただ、その場にへたり込んでしまったのです。
マリアの耳に、天使たちの声が響きました。「婦人よ、なぜ泣いているのか」。マリアは言いました。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」

<主イエスの声>
 そのときです。マリアは二人の天使とは違う人の気配を感じた。私たちにもあります。何となく人の気配を感じるとき。気になって後ろを振り向く。でも誰もいない。あるいは、人の気配を感じ、後ろを振り向く。本当に人が立っていることがある。しかし、深い悲しみの中でうずくまっているとき、人の気配を感じ、後ろを振り向いても、その人が誰だかわからないことがある。まして、泣いているときは、涙で目が滲み、目の前に立っている人が分からない。そのようなことは私たちも経験したことがあります。しかし、不思議なことですが、私たちはその人の表情より声でその人の心を強く感じるときがある。ときに、声にならない声で、その人がいかに自分のことを強く感じているのかが伝わるときがある。「呻き」が良い例です。「ああ、この人は呻くほどに私のことを強く憐れんでくれている」と感じるときがある。その意味で声は、文字や表情とは違う感覚を私たちに与えてくれるものだと思います。
 マリアは、まさにそのような声を聴いたのです。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」復活の主イエスの最初の声は、二人の天使の声と全く同じ。「婦人よ、なぜ泣いているのか。」もちろん、マリアも天使の声ではないことはわかったはずです。しかし、全く同じ質問ですから、まさか復活の主イエスの声だとは思いもしなかった。声の主は園丁だと思ったのです。しかし、声の主は言葉を続けた。「だれを捜しているのか。」マリアは、少しイラついたかもしれません。わかりきっていることを聞かれると私たちもイラつくことがある。しかも、色々な人から同じことを繰り返し問われる。我慢も限界!となることもある。嬉しい質問なら、何回でも答えるでしょう。喜んで。しかし、触れられたくない質問を不躾に繰り返し問われると、頭に血が上る。マリアは、少し相手を責めるような口調だったかもしれません。こう言ったのです。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
 その瞬間は、突然訪れました。「マリア」。マリアの胸はドキンとしたはずです。それまで色々な感情がごちゃ混ぜになり、泣いたり、イライラしたり、落ち込んだり、興奮したり、それが、主イエスの「マリア」で解き放たれた。それまで園丁だと思い、おそらく下を向いて、相手を責めるように答えていた。「わたしが、あの方を引き取ります。」それが、「マリア」によって、明確な意思によって振り向き、「ラボニ(先生)」と復活の主に答えたのです。
16節に「振り向いて」とあります。確かに、マリアは振り向いた。同時に、「振り向いて」は、単に行為としての「振り向いて」ではなく、自分を捨て、本当の意味で全てを主イエスに献げる。自分の全存在を主に委ねる。今までの罪を悔い改める。まさに方向転換。今まで「私は罪人、私は哀れ」と、自分にばかり向いていた心を、180度グルっと回転し、主イエスに全てを委ねる。そのような「振り向いて」なのです。
復活の主イエスもマリアの「ラボニ(先生)」を心から喜ばれたはずです。だからこそ、マリアに伝えなければならないことがある。罪人マリア、誰にも相手にされないマリア、誰よりも私を愛しているマリア、だからこそ、復活の主イエスは、マリアに深い愛情を持って告げたのです。

<わたしは上る>
17節。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
 主イエスは明確に言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。」
ここで「すがりつくのはよしなさい」と訳された言葉は、注目すべき言葉です。ヨハネ福音書では、ここだけに登場するαπτου(アプトゥー)という原語です。手で触るという感じではない。くっつくとかひっつくとかいう密着する感じの言葉のようです。では、いったいなぜ、すがってはいけないのでしょう?密着してはならないのでしょう?主イエスは神様だからです。すがりついて、抱え込んで、マリアだけの愛する男性にすることのできない御方だからです。主イエスはそのような愛を断ち切る。主イエスの聖さがここに現れています。
私たちも、主イエスの復活に慣れてしまったらとんでもないことになります。キリストが甦られたことは、畏るべき神の真実、出来事です。人類の歴史に、これほど明確に神の光が輝いたことはないのです。その認識がないと、復活を本当の意味で喜び、感謝することは出来ないのだと思います。 
では、主イエスはマリアに冷たく接したのでしょうか?反対です。「マリア」と名前を呼んでくださった。復活された主が最初に呼ばれた名前は、「マリア」なのです。母マリアでなく、マグダラのマリア。人々に虐げられ、馬鹿にされ、悪女の中の悪女と言われた「マリア」。そのマリアに、大きな使命を託された。それは、復活の証言者として語り続けること。復活の主が、今から何をなそうとしているのか、その大切な御業を宣べ伝えて欲しい!という使命なのです。
 マリアは、主イエスの言葉に深い愛と慰めと励ましを感じたはずです。そうでなければ、「ラボニ、なぜあなたはそのような言葉を私にぶつけるのですか!」と泣き続けたはずです。しかし、そうでなかった。むしろ、「そうなのか!」と心が熱くなり、「主は甦られました!私は復活された主イエスを見たのです!声を聴いたのです!『なぜ泣いているのか』と言われたのです!そうです。私はもう泣かなくてよいのです!泣かないどころか、喜んでいいのです!だって、主は本当に甦られたから!そして、もう私がギュッツと主の御足、御腕を抱え続けなくてよいのです!いつ私から去ってしまうか、いつ別な人に連れていかれるかとビクビクしなくてよくなったのです!だって、主は甦られ、これから父なる神のもとへ上っていかれるのですから。確かに、もう主の足の温もりを感じることはできなくなる。でも私の耳には、永遠に「マリア」が響くのです。主イエスの耳にも、私の「ラボニ」が永遠に残る。こんなに嬉しいことはない。こんなに喜ばしいことはないのです!」マリアの喜びは、信仰告白し、洗礼を受けた私たちすべてのキリスト者に全く同じようにおこるのです。

<嘆きの涙を喜びの歌に>
今朝、ヨハネ福音書と共に朗読して頂いた詩編第126篇には慰めに満ちた御言葉が記されております。5節。涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌を歌いながら帰ってくる。ドイツの神学者クラウス・ヴェスターマンは、5節、6節について、このように解説しております。個人の生活の断片が、深刻な危機(「涙をもって種を蒔くこと」)の中から開始する。だが、その最終点でその人を待っているものは、素晴らしい人生の大転換である。この数節には、単に可能性や願望が描かれているのではなく、そのような時が必ずや来るという確信が語られている。
旧約の民は、主イエスが甦られたことを知りません。けれども、いつの日か神によって御子が遣わされ、死から生を造り出すと信じ、御子の復活によって嘆きの涙を喜びの歌にすることができると信じ続けたのです。そうであるなら、復活の主イエスに名前を呼ばれた私たちは、たとえ復活の主イエスを目で見ることができなくても、たとえ復活の主イエスの足にすがりつくことができなくても、たとえ愛する伴侶、祖父母、両親、子ども、孫、隣人が召され、嘆きの涙がいつまでも渇くことがなくても、泣きながら、喜びの歌を賛美することができる。死の闇に復活の光を注ぎ、嘆きの涙を喜びの歌にするのは、甦られた主イエス・キリストなのです。
 主イエスは甦られました。そして、地上から神のもとへ上っていかれます。その時、悪霊の虜になっていたマリア、体を売っていたマリア、世の人々から見下され、捨て去られたマリアが、主イエスに名前を呼ばれ、「わたしは主を見ました!」と告げ、喜びと感謝をもって「主は復活されたのです!」と証言しているのです。新しい年度、2018年度がスタートしました。今年度も、礼拝から礼拝への歩みを大切に、復活の主イエスを喜び、誇りつつ共に歩んでまいりましょう。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、マグダラのマリアの物語が私たちの物語となり、私たちもまた、それぞれにマリアのように主によって生かされている、その喜び、さいわいを分かち合うことができ感謝いたします。甦りの信仰に生かされ、主の生命に生き続ける教会であることができますように。主はお甦りになられました。ここに私たちの信仰の確かさがあり、愛の確かさもそこに根ざすことをはっきり知ることができますように。主イエス・キリストの甦りの生命の光を、どうぞ私たちも心一杯に、身体一杯に受けることができますよう導いてください。み言葉を聞かせてください。人の言葉でなく、主の言葉が、私たちに分かりますように。そこに生まれる心燃える思いに生かしてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。
(執り成しと主の祈り)→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、私たちに聖霊を注ぎ続けて下さい。
・新年度が始まりました。新しい環境で、その一歩をスタートする一人一人を強め、励まし、導いてください。
・大きな手術を行い、療養を続けている兄弟姉妹、これから手術を控えている兄弟姉妹、献身的に介護しておられる兄弟姉妹を強め、励ましてください。
・受洗を志願している姉妹、転入会を志願している姉妹を強め、励ましてください。熱心に求道生活を続けている兄弟姉妹を強め、励ましてください。
・今朝も病のため、また様々な理由のために、イースター礼拝に集えない兄弟姉妹の上に私たちと等しい祝福と慰めをお与え下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。