メッセージ

 

2024年4月14日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ゼカリヤ書 第9章9節~10節、新約 ヨハネによる福音書 第12章12節~19節
説教題:「恐れるな あなたの王が来られる」
讃美歌:546、11、129、294、539、Ⅱ-167 

昨年からヨハネによる福音書を少しずつ読み進めてきておりますが、今朝、わたしどもに与えられた み言葉には、主イエスが ろばの子にお乗りになって、エルサレムに入城された出来事が記されております。ゴシックの小見出しには「エルサレムに迎えられる」とあります。主イエスが、十字架に架けられる前の一週間、受難週の最初の日の出来事です。わたしどもは、3月31日にイースター礼拝をまもりましたので、教会の暦に少し遅れて、追いかけるような形となりましたが、むしろそのために、改めて、わたしどもは主の復活の光の中で、主の ご受難の道をたどることが許されているのだという恵みが、迫ってくるように思われます。大切に読んでまいりたいと思います。
先週は、第12章の1節から11節までを読みました。主イエスによって復活させていただいたラザロのきょうだいマリアが、夕食の席で主イエスの足に香油を注ぎ、自分の髪の毛でぬぐった、という記事です。説教では、9節から11節までの箇所は触れることができませんでしたが、このとき、主イエスを一目見たい、また死後三日も経っていたのに生き返った、というラザロをこの目で見たいという人が、大勢押し寄せました。9節に「大群衆」とありますからベタニア村は、人でごったがえしていたかもしれません。そしてこの騒ぎを知ったユダヤ教の指導者たちは、イエスばかりでなく、ラザロをも殺そうと陰謀をめぐらせました。それは、11節に、「多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。」とあります。人々の心が、自分たちが教えることから離れ、イエスに移ってしまうことを恐れたのです。「大群衆」のフィーバーは、翌日になっても収まるどころか、ますます、熱を帯びてゆきました。
折しも、過越祭が間近に迫っており、エルサレムには国内外から、神殿に お参りをするために大勢の群衆が集まってきていました。そして、17節に「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。」とあるように、主イエスが死者を復活させたという噂はどんどん広がり、エルサレムはすでに主イエスの噂で もちきりであったのです。その噂のイエスが、エルサレムへ来られると聞きつけて、人々は、こぞって迎えに出ました。手には なつめやしの枝を持って。なつめやしの枝は長く、細長い葉が細かく綺麗に並んでいて、美しいものです。かつて日本では、あまり知られていない植物だったために、棕梠の葉と訳され、この日を棕梠の主日、と呼んできましたが、実は棕梠とは違う種類だそうです。最近では大きなスーパーにまいりますと、「デーツ」の名で、なつめやしの実のドライフルーツが売られております。鉄分やミネラルを多く含む大変栄養価の高い実が、びっくりするくらいどっさり実るそうです。詩編にも、「神に従う人は なつめやしのように茂り/レバノンの杉のようにそびえます。主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります。(92:13~14)」とあります。優美と勝利、また祝福を意味する植物とされているようです。その なつめやしの枝を持って、大群衆が迎えに出てきたのです。13節には、「なつめやしの枝を持って迎えに出た。」とあります。また18節には、「イエスを出迎えた」と書いてありますが、実はこの「迎える」、「出迎える」という言葉は、ただ単に「誰かに会う」とか、「迎える」ということではなく、戦いに勝利して凱旋して来る王さまを迎える時に用いられる特別な表現であるようです。この頃のイスラエルは、自治が認められていたとはいえ、長く続くローマ帝国の支配のもとで、政治は腐敗。民衆は生活に困窮。人々は望みを失い、信仰も萎えていました。
そこへ、死者を復活させるほどの力を持つ人物が現れた。これは神が我々に与えたもうた指導者に違いない、自分たちの王さまがついに現れた、と大きな期待と喜びを抱いて、叫び続けたのです。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」「ホサナ」とは、「救いが私にあるように」という意味の言葉です。
けれども、この群衆の熱狂ぶりに反して、主イエスが用いられたのは立派な軍馬ではなく、ろば。しかも、まだ子どもの ろばでありました。王の凱旋と言えば、艶やかな毛並みの、大きく勇ましい馬に颯爽とまたがる姿を連想します。けれども、主イエスは、子ろばにお乗りになりました。まったく絵にならない。しかし、そこに父なる神さまの み心が示されています。ろばは、パレスチナにおいては、ひき臼をひいたり、重い荷物を運ぶための家畜として重宝(ちょうほう)されていました。また、極めて従順に、同じ所を一日中でも回るということが知られています。さらに、馬と違って、いつでも頭を垂れている容姿から、謙遜を連想します。軍馬が、戦いを象徴するなら、ろばは、平和を象徴する。主イエスは、平和の王として、エルサレムの街に入られたのです。
今朝、ヨハネ福音書と共に朗読していただいた旧約聖書 ゼカリヤ書 第9章に記されている預言が、主イエスのエルサレム入城のお姿にぴったりと重なります。改めて、ゼカリヤ書 第9章9節を朗読いたします。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌(め)ろばの子である ろばに乗って。」また、続く10節には、このように書かれています。「わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」
けれども、ヨハネ福音書 第12章16節には、その姿を見ていた弟子たちには、その意味が「分からなかった」と書かれています。もちろん、「ホサナ、ホサナ」と歓呼の声をあげている大群衆にも、分かっていませんでした。わたしどもは、この熱狂している群衆がこのあと何日もたたないうちに「イエスを十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び出すことを知っております。ではわたしどもは、主イエスが平和の王ということの意味が分かっているのでしょうか。わたしどもは、このまったく信用ならない群衆に対して、批判的な思いを持ちます。けれども、主イエスは違うのです。主イエスは、わたしどもが知っている以上に、群衆の信仰の頼りなさを知っておられます。この群衆が罪の人間の集まりであることを、分かり過ぎるほど分かっておられました。この群衆によって、ご自分が十字架の上に上げられて、殺されることを、知っておられた。それなのに、「お前たちは信用ならない。お前たちは敵だ。」とはおっしゃらなかったのです。「ホサナ、ホサナ」という歓呼の声を、拒絶なさることなく、受け入れてくださいました。それも、立派な馬にまたがって人々から見上げられるのではなく、見栄えのしない子ろばに乗って。もしかしたら、イエスの姿を一目見ようと背伸びをしたり、飛び  はねたりしている群衆よりも、子ろばに座る主イエスの方が低く、見下ろされていたかもしれません。主イエスはそのように、まったく信用ならない罪の人間をとことん信頼し、ご自分の方が低くなって、群衆の歓迎を受け入れてくださったのです。わたしどもはどうでしょうか。群集を批判しているということは、群衆よりもさらに高いところに立って見下ろしているということになりはしないでしょうか。平和の王を見下ろし、期待していたような強い王ではないと判断するやいなや、平和の王をさっさと捨ててしまう、どこまでも傲慢な恐ろしい罪は、まぎれもなく、わたしどもすべての者の罪です。それでも、ヨハネ福音書は、「恐れるな。」と書きました。   15節、「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」は、ゼカリヤ書 第9章9節の引用です。ゼカリヤ書と比べていただきますと気がつきますが、ゼカリヤ書では、「娘シオンよ、大いに踊れ。」となっているところが、ヨハネ福音書では、「シオンの娘よ、恐れるな。」と言い換えられています。ヨハネ福音書は、「それでも恐れずに、主イエスをあなたの王さまとして、平和の王さまとして、あなたの中に迎え入れなさい。」と告げるのです。神さまは、こんなに傲慢なわたしどもを、どこまでも信頼して、「どうか、わたしのたった独りの大切な子イエスを、あなたの王として迎え入れて欲しい。」とおっしゃって、わたしどもに主イエスを与えてくださったのです。
今朝の み言葉は、ファリサイ派の人々の呟きで終わっています。19節。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」主イエスを受け入れることを拒んだ人々の呟きです。しかし、それでも、主イエスは十字架の死へと向かって、歩みを進めてゆかれます。低く低く、神さまの み心にどこまでも従順に、死んでゆかれます。そして神さまは、主イエスを復活させてくださいました。それは、このように呟く者たちにも、救いの道を拓(ひら)くためでありました。わたしどもは何度もつまずきます。失敗する。傲慢になる。それでも主は、諦めたり、「もう我慢ならん」とはおっしゃらなかったのです。十字架から降りてしまわれることなく、審(さば)きを受けなくてはならないわたしどもの代わりに、死んでくださいました。そして、神さまは主イエスを甦らせてくださり、わたしどもが救われるための道を拓(ひら)いてくださったのです。どこまでもわたしどもを信頼し、悔い改めて主イエスと共に生きる者となることを、今か今かと待ち望んでいてくださるのです。どこまでも低くなってくださった平和の王さまが、わたしどもの心の扉をノックしておられます。この方を王さまとして迎え入れることができますように。この方に従って日々を歩んでいくことができますように。わたしどもをどこまでも諦めないでいてくださる主の愛に、信頼することができますように。

<祈祷>
 主よ、「恐れるな。」との み言葉を主イエスの十字架の死と復活によって真実の言葉としてくださり、感謝いたします。わたしどもは、あなたの愛をどれだけ裏切ってきたことでしょう。にもかかわらず、あなたはわたしどもを諦めることなく、どこまでも信頼し、わたしどもの罪を み子の十字架によってすべて赦し、あなたの裁きを恐れる者ではなく、あなたと共にある平和を与えてくださいましたから感謝いたします。どうか、あなたの愛に喜んで応える者としてください。み子が与えてくださる平和の中に立ち続ける者としてください。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、今朝も教会での礼拝を望みつつ、様々な理由で礼拝に出席することの叶わない者にわたしどもと等しい祝福を注いでください。特に病と闘っている者、4月の誕生感謝のときを楽しみにしていたにもかかわらず、転倒により、急遽、欠席を余儀なくされた姉妹、施設や病院のベッドで過ごしている者を顧みてください。1月1日に発生した能登半島地震で被害を受けた者、4月3日に発生した台湾地震で被害を受けた者、各地域で被災し傷ついた者をあなたの み手をもっていやし、強め、励ましてください。わたしどもも、忘れることなく祈り続ける者としてください。今もウクライナで、ガザ地区で、ミャンマーで、またあらゆる地域で争い、紛争が続いております。軍馬ではなく、平和の王さまとして、ろばの子にお乗りになられた み子主イエスを迎え入れる世を、築いてゆくことができますように。政治にたずさわる者を、またわたしども一人一人をも、平和を祈る者として、平和を実現する者として歩ませてください。悲しみ、嘆きの中にある者を憐れんでください。あなたにある望みがすべての者に与えられていることを、世のすべての者が知ることができますように。礼拝後、2024年度 最初の各委員会がもたれます。本年度、それぞれの委員会であなたに仕える者を強め、励ましてください。また、教会学校の教師、オルガニスト、さらに見えるところ、見えないところであなたに仕えるすべての者を み国のために存分に用いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年4月7日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第116篇1節~19節、新約 ヨハネによる福音書 第12章1節~11節
説教題:「キリストへのささげもの」
讃美歌:546、6、321、Ⅱ-1、332、545B 

 2024年度がスタートしました。わたしが東村山教会に遣わされて、10年目を迎えます。改めて、新たな思いで、愛する皆さんと一緒に、主の栄光を現していきたいと願っています。
 先週は、主イエスの復活を喜ぶ、イースター礼拝をささげました。礼拝では、一組のご夫妻の転入会式と1歳になったばかりのこどもの小児洗礼式を執り行いました。さらに、新しく4月から歩みだす神学生も与えられ、主の復活の喜びが二重にも、三重にも広がりました。そして迎えた月曜日の夜、一本の電話が入りました。それは、3月10日までわたしどもと一緒に礼拝をささげてくださった愛澤豊重先生が重篤な状態であるとの連絡でした。少し体調を崩しておられると伺っていましたが、まさか、それほど悪いとは思っておりませんで、少々慌てながら、ご自宅に駆けつけました。荒い息遣いの先生を、ご家族と共に囲んで、先生の愛する聖句を読みました。また、愛唱讃美歌を歌い、祈りを合わせて、その夜はいったん帰宅しました。翌日は東京神学大学の入学式に妻と共に出席、4月から東村山教会に加えられる二人の神学生と喜びを分かち合いました。今日は お二人とも礼拝に出席していますので、のちほど紹介させていただきます。入学式のあと、その足で、今月で95歳になられる加藤常昭先生が入所された施設を訪問しました。体力が衰えているように感じました。枕元で聖書を朗読し、讃美歌を歌い、早い快復を祈り、教会に帰ってきました。それから前夜の愛澤先生の様子が気になっていましたので、電話をしたところ、前日の夜、わたしの帰宅後 間もなく、先生が亡くなったことを知らされました。水曜日に納棺式、金曜日に前夜式、そして土曜日に葬儀となりました。先週は、改めて「献身」について考えることになった一週間でした。
 今朝、わたしどもに与えられた み言葉も、大きなテーマは「献身」ではないでしょうか。本日の説教題は、「キリストへのささげもの」といたしました。「献身」というと、まずはじめに述べたような「伝道献身者」を思い浮かべます。けれども、伝道者になることだけが「献身」でないことは申すまでもありません。
 今朝の み言葉は、大変に有名な、また昔から多くの人に愛されてきた物語です。わたしどもは約ひと月かけて少しずつラザロの復活の物語を読んでまいりましたが、そのラザロのきょうだいマリアが、主イエスを招いての食事の席で、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、主イエスの足に注ぎ、髪の毛で主イエスの足をぬぐったというのです。
この夜の翌日は棕梠の主日、主イエスのエルサレム入城ですから、食事は土曜日。翌日から受難週が始まり、その週の金曜日に十字架の死を迎える。このときすでに、主イエスの逮捕は決定されておりました。ラザロ、マルタ、マリアと食事を楽しむことは、おそらく最後となる。そのことを、マリアが知っていたわけではなかったと思います。マリアは純粋に、主からいただいた恵みに対して、感謝したかったのだと思うのです。しかし、主イエスからいただいた恵みに価する感謝の方法が見つからない。考えあぐねたマリアが行き着いた答えが、自分が知る限り最も高価で、よい香りの香油をたっぷり使って、主イエスの足を洗って差し上げたいという思いだったのではないでしょうか。本来、食事の前に、お客の足を洗う行為は奴隷の仕事です。また、1デナリオンが労働者1日の賃金であったと伝えられていますから、300デナリオンといえば、1年分の給料です。マリアにとっては、全財産といっても過言ではない額であったかもしれません。そして、香油で洗った主イエスの足を、自分の髪の毛でぬぐいました。髪の毛は、女性の命とも言われます。  まして、この時代のユダヤの女性にとって髪の毛は、滅多なことでは人に触らせたりしない、非常に大切なものでした。その大切な髪の毛をも、喜んで主のためにささげたのです。その行為には、「あなたはわたしの救い主。わたしはあなたの僕です。わたしはあなたにすべてをささげ、あなたに従って、生涯、生きてゆきます」という、マリアの信仰告白と献身とがあらわれていると思います。
けれども、このマリアの信仰告白と献身をとがめた者がいました。12弟子のひとり、イスカリオテのユダです。「なぜ、この香油を売って、貧しい人々に施さなかったのか。」この言葉について、ヨハネ福音書はこのように書き添えました。6節。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」わたしどもは、このあとユダが主イエスを裏切ることを知っておりますから、これをユダたけの問題として見て、わたしどもには関係ないこととして、み言葉を読んでしまうかもしれません。しかし、これは決して、ユダだけの問題ではありません。わたしどもひとりひとりのことが書かれています。ユダだけが盗人ではないのです。少なくとも、「主から財布を預かっている」ことにおいては、わたしどももまた、ユダと同じ。わたしどもの持っているもの何もかも、命さえも、すべては、主から賜わった恵みです。即ち、それらすべてが、主の財布にほかなりません。わたしどもが、この主の財布の中身を、常に自分のことだけを考えて使っているとしたら、どうでしょう。わたしどもは盗人ではない、ユダのようでないと言い切れるでしょうか。主イエスは、マリアをとがめるユダにおっしゃいました。7節。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
主イエスは、マリアの信仰告白の行動を静かに受け止めてくださりながら、ユダの言い分を否定なさってもいません。主イエスは、このように言っておられるのではないでしょうか。「貧しい人々は、いつでもあなたのそばにいる。でも、わたしは、これからあなたと一緒に旅を続けることはできなくなる。だからあなたは、そのときこそ、貧しい人々のことを心にかけていてほしい。自分の利益でなく、いつもあなたのそばにいる人のために、わたしの財布を用いてほしい。」
イースターを迎え、主のご復活を祝ったわたしどもにとって、何にも勝る恵みは、主の十字架による罪の赦しであり、主と共に歩む永遠の命です。主が、命を捨てて、わたしどもの罪を赦し、救ってくださいました。主から赦していただいているのに、わたしどもに、もし、どうしても赦せない人がいるとしたら、わたしどもはユダと同じ、盗人であります。
2024年度の年間主題が、週報の左下に小さく書いてあります。読みにくいかもしれませんが、こう記されています。「それぞれの賜物を主に献げる」。マリアは、自分の考え得るもっとも良い方法で、持っているものすべてをささげ、主イエスに感謝し、自分の信仰をあらわしました。マリアが献げたものも、主から賜ったものです。それを、そのまま献げたにすぎません。それでも、主はそれで良いのだ、するままにさせておきなさいと受け止めてくださいました。改めて5月に年間主題による説教を行いますが、2024年度最初の礼拝で、与えられた賜物を喜んで主にささげたマリアの姿を心に刻みたいと思います。
今朝は、ヨハネ福音書とあわせて詩編第116篇をご一緒に読みました。最後に12節以降をもう一度 共に味わいたいと思います。「主は わたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。救いの杯を上げて主の御名を呼び/満願の献げ物を主にささげよう/主の民すべての見守る前で。(116:12~14)」今、恵みでいっぱいの主の財布がここにあります。わたしどもひとりひとりに託されています。主の財布の恵みは、どんなにささげても、どんなに配っても、減るどころか、ますます豊かになるのです。
これより聖餐に与ります。わたしどもの救いの杯をいただきます。主の み名を呼び、満たされている恵みを感謝して、主から賜わっているすべてを献げて、赦し合い、仕え合う一年となりますように。

<祈祷>
天の父なる神さま、あなたの僕として、あなたから託された賜物を用いて、あなたに、となりびとに、仕える者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、愛澤豊重先生がみもとへと召されました。悲しみの中にあるご遺族の上に、溢れるほどの慰めをお与えください。新年度が始まりました。あなたから伝道者としてのお召しを受けた神学生がさらに2名加えられ、これから3名の神学生と共に歩むことになりました。どうか、神学生の歩みを支え、導いてください。主よ、能登半島地震で被害を受けた者、台湾地震で被害を受けた者、各地域で被災された者を強め、励まし、聖霊を注いでください。争いの続く世を憐れんでください。あなたから託された財布を、自分の利益、自国の利益だけに用いるのではなく、貧しい人々のために、苦しんでいる人々のために用いることができるよう導いてください。礼拝を慕いつつ、今日も病床で祈りをささげている兄弟姉妹がおります。その場にあって、愛と祝福で満たしてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年3月31日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第16篇7節~11節、新約 ヨハネによる福音書 第20章1節~10節
説教題:「復活されたキリスト」
讃美歌:546、148、151、21-81、352、545A 

説教を始めるにあたり、お集まりの皆さんに、また、この場を慕いつつ離れたところにおられる皆さんに、イースターの祝福をお祈りいたします。今朝は、いつもより早く、教会にまいりました。教会学校のイースター墓前礼拝をささげるためです。朝8時から、小平霊園にある教区墓地で子どもたちと礼拝をまもり、朝食をいただき、たまご探しを楽しみました。なぜ お墓で礼拝を守るのかというと、イースターの出来事のはじまりの舞台は、お墓だからです。第20章1節。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。」
最初に、マグダラのマリアという女性が登場します。ガリラヤ湖の西岸マグダラ出身なので、「マグダラのマリア」と呼ばれております。ルカによる福音書 第8章2節には、こう記されています。「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」。七つもの悪霊にとりつかれた苦しみが、どのようなものであったかは、わかりません。けれども、とにかく身も心も救い難く病んでおり、孤独であったことが、「七つの悪霊」という言葉によって示されていると思います。同じくルカ福音書の第7章には「罪深い女」と記されており、芝居や映画等では娼婦として描かれることが多い女性です。いずれにしましても、主イエスに出会っていただくまで、おそらく誰からも愛されず、まわりから向けられる さげすみの目にさらされながら生きてきたことでありましょう。どんなに辛い人生であったことかと思います。しかし、だからこそ、主イエスと出会って、すべての苦しみから解放していただいた恵みは、その後のマリアの生き方を、まさに180度、ひっくり返しました。主イエスの愛を知ってからは、ただただ、主イエスのそばで生きたい、その愛に応えたい、と願い、自分の持ち物をすべてささげ、主イエスに仕える者へと変えられたのです。その生き方は、主が捕らえられ、十字架に架けられても変わりませんでした。マグダラのマリアは、十字架の下に立ち続けたのです。ヨハネによる福音書 第19章25節には、このように記されています。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」苦しみの中から救い出していただいたマグダラのマリアにとって、十字架のもとに立ち続ける以外の選択肢はなかったのです。
主イエスの十字架のもとに立ち続け、主イエスのために何ができるか?ということだけを考えていたマリアの生き方は、主が死んでしまっても変わりませんでした。他にどうしたらよいのか、わからなかったとも言えるかもしれません。マリアは、「何もしてはならない。」と定められている安息日が終わるのを、どんなに じりじりした思いで待ったことかと思います。そして、とにかくイエスさまの近くにいたい!と願い、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに」主イエスのご遺体が埋葬されている墓に行ったのです。すると、予想もしない光景を目の当たりにしました。何と、墓穴を塞いでいた大きな石が、取りのけられていたのです。マリアは、主イエスのご遺体が何者かに奪い去られてしまったと思い込み、慌てて走り出しました。向かったのは、主イエスの十二人の弟子の一人、シモン・ペトロの家。そして、主イエスが愛しておられたもう一人の弟子の家でした。マリアは告げました。「主が墓から取り去られました。  どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」驚いたシモン・ペトロと、もう一人の弟子は、それぞれの家から外へ飛び出し、走り出しました。そして、おそらく途中で合流し、二人は一緒に墓に向かって、夢中で走ったのです。もう一人の弟子の方がペトロよりも若く、足が速かったのかもしれません。彼は先に墓に到着しましたが、覗いてみただけで、ペトロが来るのを待っていました。年長者であり、弟子たちのリーダー的な立場であったペトロを待っていたのでしょう。あるいはひとりで入るのは怖かったのかもしれません。
やがてペトロも墓に到着しました。シモン・ペトロが、恐る恐る墓に入ると、亜麻布が置いてあるのが見えました。また、主イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所ではなく、離れた所に丸めてあることに気づきました。ペトロはもう一人の弟子を手招きし、「お前も中に入って、確認してくれないか。」と言ったかもしれません。恐る恐る墓に入ったもう一人の弟子は、「見て、信じた。」と福音書には記されています。
聖書学者 雨宮 慧(あめみや さとし)先生は、この「見て、信じた。」という言葉について、非常に興味深いことを書いておられます。「見て」は、「エイドン」というギリシア語で、「心の目で洞察する」という意味があるのだそうです。「信じる」ことが可能となるためには、本質を見抜く心の目が必要なのです。最初に信じることのできた弟子は、「イエスが愛しておられた」弟子でありました。その主イエスの愛が、信じるための前提となるのだと、雨宮先生は言っておられます。主イエスの愛を受けて開かれた目で見るとき、信じることが可能となるのです。
わたしどもの中に、復活されたイエスさまを肉の目で見た者はおりません。けれども、主イエスは復活されました。神さまが、復活させてくださいました。それは、主イエスを信じる者がひとりも滅びずに、主イエスと同じ復活の命に生きるようになることを、神さまが望んでくださったからです。わたしどもが復活の命に与って生きるなら、たとえ地上の命を終えるときも、まるで隣りの部屋に移るような軽やかさでいることができます。主の愛が、生きるときも死ぬときも信じる者を包み込んでいるからです。主の愛に終わりはありません。わたしどもは心の目で、復活の主イエスを見ています。主イエスに出会っていただき、愛を注いでいただいて、信仰の目を開いていただいたのです。それでも、愛する者の死を目の当たりにするとき、信仰がぐらつくことがあるかもしれません。火葬が終わり、骨を拾う。そのとき、「復活の命なんて、ほんとうだろうか?」そう考えてしまうこともあるかもしれません。しかし、これ以上 確かなものはない主イエスの愛が、わたしどもの目を開き、信仰を支えてくださるのです。主イエスが愛しておられたもう一人の弟子は、ヨハネ福音書だけに登場します。名前は明らかにされておりません。ヨハネ福音書はなぜこういう書き方をしているのでしょうか?それは、ヨハネ福音書を生んだ教会の信仰によるところが大きいと思います。「主イエスが愛しておられたもう一人の弟子、それは、このわたしだ。わたしたちだ。さらに、この福音書を読むすべての者たちだ。わたしたちはみんな、主の墓に向かって走る。力の限り、それぞれの全速力で走る。そして空(から)の墓を主の愛によって開かれた目で見て、信じる。マグダラのマリアに続く者、ペトロに続く者なのだ。」と言っているのではないでしょうか。ヨハネによる福音書は、今、ここにいるわたしどもをも巻き込むようにして、主の墓の前に立たせるのです。
 しかし一方で、9節以下にはこのように書いてあります。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。」「見て、信じた」のに、まだ聖書の言葉がさっぱりわかっていなかった、というのでは、矛盾しているように感じます。けれども、よく考えてみれば、わたしどものありさまをよく言い表しているかもしれません。主イエスが復活された。そのことを、自分とはまるっきり関わりがないとは言わないまでも、どこか遠い、神話のようなものとしてぼんやり信じている。少なくとも、主の復活が、わたしども自身の死をも照らす、光であるというところまで、なかなか実感が湧いてこない。そのような感覚が、ありはしないでしょうか。だからペトロも、もう一人の弟子も、  家に帰ってしまったのかもしれません。「みんなにこの喜びを知らせたい!」と飛び出して行くことはなかった。だからこそ、わたしどもには、聖書の み言葉が必要なのです。
改革者カルヴァンの言葉があります。「わたしたちの信仰に欠けているものはすべて、わたしたちの内にある聖書に対する無知のせいである。」わたしどもの信仰に何かが欠けている。その欠けている原因は何か。それは、わたしどもが聖書を知らないからだと言うのです。聖書にすべてが書いてある。だから、聖霊の助けを祈り求めながら、聖書を理解させていただくということが大切です。ペトロと、もう一人の弟子は家へ帰って行きましたが、マグダラのマリアは一人残って、墓の前で泣いていました。そして泣いていたマリアに、主イエスはいちばんはじめに、会ってくださいました。マリアが、主イエスの言葉を100%すべて理解していたから会ってくださったというのではありません。弟子たちと同様、理解はしていなかったと思います。でも、十字架のもとに立ち続けたときと同じように、墓の前に、立ち続けていたのです。主イエスを求め、主イエスを慕い、主イエスを愛し、ただ、立ち続けたのです。マグダラのマリアは、わたしどもの信仰の手本です。わたしども主イエスに従う群れの、いちばん先頭に立っている人です。暗闇の中で、主の限りない愛を知って、何とかして、主の愛に応えるすべはないものかと考えて、わからなくても、わからないなりに、主のそばに居続けたマリアの生き方を、わたしどもは信仰の模範として、生きてゆきたい。聖書の み言葉のそばに立ち続けたい。
只今から聖餐の祝いに与ります。死を越えて続く命の主が、わたしどもと出会ってくださり、愛してくださり、繋がってくださり、わたしどもと一つになっていてくださいます。その恵みを聖餐によって確かめつつ、十字架のもとに立ち続ける群れでありたいと願います。そしていつの日か、ここにいるすべての人が、今日 小児洗礼を受けた子どもも、教会学校の子どもたちも、みんなで一緒に、  聖餐の祝いに与る日が与えられるよう祈り続けてまいりましょう。

<祈祷>
天の父なる神さま、主イエスは死に勝利してくださいましたから感謝いたします。主よ、どのようなときも、十字架による赦しと、復活の命を信じて、あなたの愛の中で永遠に生き続ける者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、イースター礼拝において、一組の夫婦の転入会式と、子どもの小児洗礼式の恵みをお与えくださり、深く感謝いたします。これから共に力を合わせ、主の栄光を現すことができますよう導いてください。今朝も礼拝を欠席しなければならなかった者に、どうか、その場にあってあなたの祝福を溢れるほどに注いでください。特に、病と闘っている者をあなたの愛によってお支えください。信仰が萎えてしまっている者がおりましたら、聖霊をもって支えてください。明日から新年度を迎えます。環境の変化により、不安を抱いている者がおりましたら、あなたの愛の中で、安心して一日一日を歩むことができますよう導いてください。東村山教会にも4月から新しい神学生、また青年があなたから託されます。主よ、それぞれの歩みを力強く導いてください。主よ、能登半島地震で被害を受けた一人一人を、あなたの慈しみの中に置いてください。望みをもって歩むことができますよう聖霊を注いでください。主よ、争いの続く世を憐れんでください。政治を託されている者を、あなたの みもとに立ち帰らせてください。驕り高ぶりを捨て去り、互いに敬い、共に平和をつくる者となることができますように。わたしどもをも平和を祈り続ける者として用いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年3月24日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第23篇1節~6節、新約 ヨハネによる福音書 第11章45節~57節
説教題:「十字架の死が我らを生かす 」
讃美歌:546、138、262、495、544 

本日の礼拝は、受難週礼拝としてささげております。主イエスが十字架の死に向かって受難の道を歩まれる。その第一歩は、ロバの子に乗って、エルサレムに入城される場面です。今、ヨハネによる福音書 第11章45節から57節が記されているページを開いている方は、1ページめくると、192ページ、上の段のはじめ、第12章12節を読むことができます。小見出しに「エルサレムに迎えられる」とあります。この記事が、今日から始まる受難週の、最初の日の出来事です。今日この日に、わたしどもに与えられております み言葉は、その第12章に入る直前であり、少しずつ読み進めてまいりましたラザロの復活の物語に続く場面です。主イエスから、「ラザロ、出て来なさい」と呼ばれ、死んでいたラザロが、手足を布で巻かれたまま墓から出て来た。ラザロのきょうだい、マルタとマリアは、主イエスを神から遣わされた救い主と信じていました。二人は、どれほどの感動と、喜びをもって、神さまと主イエスに感謝したことでしょう。その場にいた多くの人々も、この方こそ、神から遣わされた救い主、メシアだと、主イエスを信じました。
けれども中には、この驚くべき みわざが、神の力であると信じることができない者たちもいました。死んでいた者が、生きかえった。得体の知れない、おそろしさを感じたのかもしれません。神さまの力の働きを信じることができなければ、これほどおそろしいことはないと思います。あるいは何か、からくりがあるのではないか?と疑う人もいたかもしれません。そしてそのような、主イエスを信じない心が、53節の「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」というところにまで行ってしまうのです。
これまでも、主イエスは、ユダヤ人たちから殺意を抱かれてきました。石で打ち殺されそうになったこともありました。けれども、この53節は、これまでとは違う。第11章の最後は、このように締めくくられています。57節。「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。」ユダヤ教の指導者たちが、正式に主イエスの指名手配を決定したのです。そして、第12章からの受難の物語へと続いていきます。主イエスが、「ラザロ、出て来なさい」と墓に向かって呼びかけてくださり、暗闇に光が輝きました。死から命へ。信じる者にとっての慰めと希望の光が天から射した。その一方で、その同じ出来事によって、人の世の暗闇は、さらに深さを増してゆくのです。けれども、それゆえにこそ、神さまはご自分の計画を進めてゆかれます。
51節に、「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」とあります。預言とは、神さまからお預かりした言葉です。ですから、これは、カイアファという人の思いではなく、神さまの思いとして語られた言葉なのだと、ヨハネによる福音書は告げているのです。どのような預言かというと、49節。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」という言葉です。ヨハネ福音書は、主イエスの死は、国民全体が滅びないで済むための身代わりとしての死なのだと、告げているのです。この、カイアファを通して語られた神さまの思いを、わたしどもは受難週礼拝の今朝、心に刻みたいと思います。本来であれば、罰を受け、滅びなければならないのは、主イエスではなく、わたしどもです。しかし神さまは、わたしどもの身代わりとして、主イエスを十字架の死に向かわせられたのです。罪のわたしどもを生かすために。死んでも生きる者とするために。神の み子が犠牲となる。カイアファがそれを理解していたというのではありません。主イエスを救い主と信じていたのでもないでしょう。しかし、カイアファの口が語った言葉は、神さまが授けた言葉であったのです。神さまは、み心の実現のために、カイアファをも用いられたのです。そして、ヨハネ福音書はカイアファの預言に、さらに解説を加えています。52節。「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」国民とは、ユダヤ人のことですが、主イエスが十字架で死なれたのは、ユダヤ人の救いのためだけではない。散らさせている神さまの子どもたち、ユダヤ人だけでなく、パレスチナ人でも、ドイツ人でも、韓国人でも、中国人でも、日本人でも、そのほかのすべての国で、神さまの子どもとして生かされている者たちが、主イエスの死によって、一つに集められるために主イエスは死ぬのだ、と言うのです。世界中のすべての人間が、主イエスの死によって罪を赦されて、そのことを信じて、互いに赦し合って、一つに集められる。神さまはそれを望んでおられるのです。決して、国と国で争い、殺し合うためではない。そのことを今こそ、心に刻みたいと思います。
先日、『映像の世紀バタフライエフェクト』というNHKの番組で「イスラエル」の特集が放送されました。ご覧になった方もおられると思います。第一次世界大戦より前、ユダヤ人によるパレスチナへの入植は、はじめは平和な共存関係がありました。しかし、次第にそれぞれの立場、思惑の違いが明らかになっていきます。そして国家という形を求めるあまり、大国の二枚舌の誘惑に、まんまと  のせられて戦争に巻き込まれてしまったのです。そのようにして、一度始まった戦争は大きな渦(うず)となって何もかもを巻き込んでいってしまいました。戦いは止むどころか、どんどん激しさを増しています。そのような、人間が神さまの思いからどんどん離れていってしまう過程を、何とも言い難い、苦(にが)く、苦(くる)しい思いで見ました。主イエスは、ラザロの死を嘆くマルタ、マリアの涙に激しい憤りを覚え、興奮し、涙を流されたように、今、世界の各地で流されている多くの涙に、激しく心を揺さぶられながら涙を流しておられるのではないでしょうか。わたしどもは、主イエスが、ユダヤの「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死」なれたことを、決して忘れてはならない、と思います。
ところで、47節に記されている「最高法院」とは、ユダヤ教の律法に関する最高法廷であり、ローマ帝国の支配下にあるユダヤ人の自治機関でもありました。大祭司が議長で、71人の議員がいたようです。行政権と、死刑判決を含む司法権を持っていましたが、その執行には、ローマ総督の最終認可が必要でした。裏を返せば、ローマに征服されて自分たちの国を持たないユダヤ人でしたが、皮肉なことに、ローマに従うことによってその立場は保障されていました。もしイエスが革命でも起こしたら。イエスにその気がなくても、群衆が彼をかつぎ上げ、ローマに反旗をひるがえしたら。その恐怖が、48節にあらわれています。「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」そこへ、カイアファによる預言がお墨付きを与えました。結果、57節に「イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。」とあるように、指名手配が決定されたのです。
主イエスは、この後、「もはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。(11:54)」と記されております。そして、過越祭が近づいてまいりました。多くの人が都エルサレムへ上って行きます。エルサレムは、死者をよみがえらせたという主イエスの噂で持ち切りであったことでしょう。「過越祭」は、ユダヤ教の三大祭のひとつです。旧約聖書 出エジプト記に祭の由来が記されております。紀元前1300年ごろ、エジプトの奴隷となっていたユダヤ人たちが、指導者モーセに導かれてエジプトを脱出しようということになりました。しかし、エジプトの王は、労働力を失うことを嫌って、奴隷の解放を渋りました。そこで神さまは、エジプトにさまざまな災いを与えられたのです。このとき、ユダヤ人には災いがふりかかることのないように、ユダヤ人たちは、神さまから命じられて小羊を殺し、その血を目印として家の門口に塗りました。そして災いをもたらす天の使いがやって来たとき、門口に塗られた血が目印となって、天の使いたちはユダヤ人の家は素通りして行ったので、災いを免れました。ユダヤ人たちは小羊の犠牲によって、無事にエジプトを脱出することができたのです。神さまがくだされた災いが、小羊の犠牲によって過越した。この出来事を記念する祭りが、過越祭です。そしてこの過越祭を、神さまは救いのときとしてお定めになり、神自らが、犠牲の小羊を備えられました。神の み子が、犠牲の小羊として、十字架に架けられたのです。み子主イエスが、過ぎ越しの小羊として十字架で死なれ、三日目の朝に復活なさったことを信じる者が、滅びを免れ、死んでも生きる者となるために。
今日は、ヨハネ福音書と共に、詩編 第23篇を朗読していただきました。4節。「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/  それがわたしを力づける。」来週のイースター礼拝をはさんで、再来週からは主のご受難の物語を読んでまいります。主イエスが、死の陰の谷へ向かって歩んでいかれます。主が過越の小羊として、わたしどもが救われるために死んでいてくださる。だからわたしどもは、たとえ死の陰の谷を行くときも災いを恐れなくてよいのです。
おとといの金曜日に、愛する兄弟の自宅で執り行われた納棺式、ならびに棺前祈祷会では、この詩編 第23篇を ご遺族の皆さんと一緒に味わいました。わたしどもは皆、死の陰の谷を歩くときにも、恐れなくてよい。どんなときも、主イエスがわたしどもと共におられます。たとえ死んでも、わたしどもは主から与えられた永遠の命の中にいます。この恵み、神さまの慈しみに、終わりはありません。来週はイースター礼拝です。主イエスの十字架の死の先には復活の喜びがあることを感謝し、先に眠りについた兄弟の信仰に励まされながら、ひとりでも多くの人に、主イエスと共に歩む平安を届けたい。ひとりでも多くの人に、罪の赦しと永遠の命の約束を届けたい。心から願います。

<祈祷>
天の父なる神さま、み子が十字架で死んでくださった意味を心に刻むことが許され、感謝いたします。罪を赦され、滅びを免れた者として、互いに愛し合い、赦し合い、支え合う者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、昨日は、愛する兄弟の葬儀をあなたのおまもりの内に執り行うことが許され、感謝いたします。言葉にならない喪失感を抱いている ご遺族に、慰めを注いでください。今週は、み子が十字架で息を引き取られた受難日を覚えて金曜日に祈祷会を行います。み心なら、ひとりでも多くの兄弟姉妹と共に祈りをささげることができますように。来週は、イースター礼拝となります。先週の礼拝後、伝道委員の者たちがポスティングを行いました。イースター礼拝に新来者がひとりでも与えられますよう聖霊を注いでください。イースター礼拝で東村山教会への転入会を希望している夫婦を与えてくださり感謝いたします。さらに、お子さんの小児洗礼式も予定しております。礼拝後、臨時長老会を執り行います。主よ、あなたの み心が示され、お二人の転入会式と小児洗礼式を執り行うことができますよう導いてください。主よ、世界を覆う闇をあなたの光で照らしてください。世界中で流されている悲しみの涙を、喜びの涙へと変えてください。礼拝出席を望みつつ、出席の叶わない兄弟姉妹がおります。主よ、来週のイースター礼拝にはそれぞれの状況が整い、ひとりでも多くの者と主イエスの復活を喜び合うことができますように。礼拝後に行われる婦人会総会を祝福し、新年度も婦人会の歩みを力強く導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年3月17日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ハバクク書 第2章1節~5節、新約 ヨハネによる福音書 第11章38節~44節
説教題:「神の栄光の約束」
讃美歌:546、24、151、316、543

ヨハネによる福音書 第11章を読み続けております。主イエスは、兄弟ラザロの死を悲しむマルタにおっしゃいました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。(11:25~26)」主イエスが命をかけて、マルタに、そしてわたしどもにくださった約束です。「わたしの命をかけた、この約束を信じるか?信じてほしい!」と言われています。今朝の み言葉、38節から44節でラザロの復活の物語は頂点に達します。信じるか?と尋ねてくださった その約束の通り、ラザロが墓穴から出て来たからです。ラザロだけが、特別扱いされているのではありません。わたしどもすべての者が、同じ恵みの中へと招かれております。わたしどもにも、ラザロのように、主イエスから「出て来なさい」と呼んでいただける朝が約束されています。ラザロだけではなく、わたしども皆に約束されている、復活の約束の み言葉を、ご一緒に味わってまいりましょう。
38節。「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。」この み言葉の直前に、人々の呟きが記されています。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか(11:37)」。人々の心を捕らえている、死の途方もない闇、あらがい難い暗さは、わたしどもの心をも、捕えようと待ちかまえています。当時のお墓は、そのような死の闇を象徴するかのような洞穴でした。現代のような保存技術はありませんから、遺体は腐って臭いを発してきます。そのため、洞穴の入口を石で塞ぎ、遺体が腐っていく臭いが外に漏れないようにしたのです。しかし、主イエスは、おっしゃいました。「その石を取りのけなさい」。マルタは恐れて、抵抗しました。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」。石を取りのければ、暗闇がぽっかりと口を開きます。そして、そこにただよっているであろう兄弟ラザロの死の臭い。それらは、マルタにとって、怖ろしく、耐え難いものでした。それでも、主イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」とおっしゃいました。既に読みましたように、マルタは主イエスに「あなたこそ、神の子キリストです。」と信仰を告白しました。それなのに、死の暗闇を怖れるマルタに、主は神さまの光を指し示してくださったのです。
 わたしどももマルタと同じです。既に主イエスへの信仰を告白し、洗礼を受け、永遠の命を信じていても、愛する者が衰え、遂に死んでしまう、そのとき、死の力に圧倒されてしまうのではないでしょうか。真っ暗な洞穴のように、ぽっかりと口を開けて、愛する人を飲み込んでしまった死の力が絶対なのだ、と信じてしまう。神の力といえども、死んで、腐ってしまったものを、焼かれて灰になってしまったものを、甦らせるなんてできるわけがない、と絶望する。神の力よりも、死の力の方が絶対と信じてしまう。けれども、そのようなわたしどもに、主イエスは心を震わせ、涙を流し、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。復活であり、命であるわたしが約束したではないか。」と語りかけてくださるのです。「神の栄光」という言葉は、既に記されています。主は、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。(11:4)」と、明確に語っておられます。
当時、病による死は、罪の結果と信じられていました。確かに、わたしどもは皆、神さまの み心に背く罪人です。口では平和を語りながら、いざ自分がおろそかにされれば腹を立て、攻撃されればやり返し、優れた人を見ればうらやみねたむ、そのような弱い者です。赦すよりも赦されることを求め、愛するよりも愛されることを求めてしまう者です。誰もが神さまに審かれる時、滅びの中に立つしかありません。しかし、主イエスへの信仰を告白し、洗礼を受け、キリストと結ばれるなら、そこに希望が生まれます。絶望しなくてよい。キリストと結ばれることによって、キリストと共に死に、キリストと共に復活する。本来の わたしどもには、滅びを免れる可能性などまったくないのに、神さまはわたしどもに、キリストのように生きるための まったく新しい命を与えてくださるのです。あなたの立つべき場所はここ、十字架の死による赦しの中だと、言っていただけるのです。まったく新しく造られた者、まったく新しい命に生きる者として、生きる希望が与えられる。そしてこの希望は、死をも超える。死を突き破るのです。
主イエスに言われた通りに、人々が石を取りのけると、主イエスは天を仰いで祈られました。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたが わたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」主イエスは、神さまに祈られたのです。「あなたはいつも、わたしの願いを聞いてくださいます。それでも、わたしがここで天を仰いであなたを呼ぶのは、ここにいる、すべての人びとが、あなたがわたしを天から遣わされたことを信じるようになるためです。」主イエスが神さまに対して、ある意味、パフォーマンスをするかのように祈っておられることに驚きを覚えます。しかし、そこには理由がある。主イエスが、人々の前で天を仰いで祈られた理由。それは、ただただ、この人たちみんなが、わたしを信じて、死んでも生きる者となって欲しい。死なない者となって欲しい。死の闇から救われて欲しい。主イエスの願いはただ、そこにつきるのです。
 そして主イエスは、墓に向かって大声で叫ばれました。「ラザロ、出て来なさい」。すると、神さまによって復活させられたラザロが、手と足を布で巻かれたまま、顔も覆いで包まれたまま、歩いて出て来たのです。福音書の記者は、このときラザロが、主イエスに何を言ったかも記さないし、マルタとマリアが何を言ったのかも記していません。その代わりに記されているのは、主イエスから人々への「ほどいてやって、行かせなさい」との言葉です。主イエスによる、死からの解放の宣言だけが、書き記されているのです。
 このあと間もなく、主イエスは、ラザロたちの住むベタニアに近い、エルサレムの郊外ゴルゴタの丘で、十字架に磔にされ、死んでいかれました。ラザロも、自分を墓の中から呼び出してくださった主イエスが死なれたことを知ったことでしょう。そのとき、ラザロが、マルタやマリアが、どう思ったのか、どうしていたのか、聖書は何も語っていません。だから、想像するしかありません。ラザロが死んだときのように三人とも涙に暮れたかもしれません。しかし、主イエスの頬をつたった涙を忘れることはなかったと思います。主の約束の言葉を忘れてしまうことはなかったに違いない。そして、「信じます」、「信じています」と繰り返し祈り、神さまの答えを、待っていたのではないかと思うのです。そして三日目の朝、愛する主イエスが復活なさった!という知らせを、踊り上がるような喜びを持って、聞くことができたのではないでしょうか。
週報にも記しましたが、先週の木曜日の深夜、病床にあったわたしどもの教会に連なる兄弟が、天に召されました。長く教会のために祈り、神さまの栄光を現し続けた長老経験者です。亡くなる二日前の火曜日、雨が降りしきる午後でしたが、病床を訪問することができました。あたたかな手と額に触れながら、愛唱聖句を読み、讃美歌を歌い、祈るうちに、目には見えなくても、今、確かに復活の主イエスが、ここにおられると、心の底から信じることができました。復活と再臨の主イエスが、兄弟の傍らにおられる。いや、傍らというよりも、兄弟の中におられることを確信して、教会に戻ってまいりました。
わたしどもは、主イエスの十字架の死と復活を信じて、信仰を告白し、洗礼を受けるなら、復活の主イエスと結ばれ、主イエスの復活の命をいただいて生きる者となります。その約束が、わたしどもに与えられているのです。
墓の洞穴のような、真っ暗闇が、ぽっかり口を開けている、そのような死の前に立ち、恐怖に足がすくむときも、「出て来なさい」と大声で叫ばれた主の み声が、わたしどもの耳に響く。さらに、復活なさった主イエスが、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように(20:19)」と言ってくださった声が、響くのです。墓の穴の暗闇に射した命の光に、わたしどもは既に照らされています。わたしどもは、復活の主の命をいただいて、イースターの朝の光に照らされながら、死を迎えることができる。わたしどもの中で生きて働いていてくださる主によって、死の暗闇と対決して、勝利することができるのです。
愛する者の死は、とてつもなく大きな痛みです。火葬され、骨になる。いずれ墓に納骨される。墓の中は、現実には光が遮断され、真っ暗です。しかし、わたしどもは今朝、そして、この数回の礼拝においてラザロの死と甦りを心に刻みました。わたしどもは、この驚くべき出来事を信じてよい。愛する者が死に、いよいよ墓に納められるとき、「ああ、ここにイエスさまがおられたら、イエスさまが愛する者の名前を呼び、『墓から出て来なさい』と叫んでくださったなら。」と思いたくなります。しかし、その必要はない。なぜなら、骨になっても、真っ暗闇の墓の中に納められても、そこには、主の復活の光が射しているからです。永遠に輝き続ける主イエスの み言葉が、与えられているからです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。(11:25~26)」
「信じます」と信仰を告白したマルタ。また、自分自身の中に生きておられる主イエスを信じて、復活の命を信じて、地上での命を終えた多くの兄弟姉妹。わたしどもは、そのあとに続く者です。「主よ、信じます」と、復活の約束を信じて、恐れることなく、安心して、一日一日を主と共に歩んでよいのです。
洗礼は、わたしどもの魂と肉体を新しくします。洗礼は、復活の主イエスとわたしどもを結びつけるからです。死んだあと、わたしどもはどうなるのか、確かなところはわかりません。でも、希望がある。それも、神さまが主イエスによって約束してくださった希望。主が、その命をかけて約束してくださった希望です。ですから、どんなに衰えた体にも、声を発することのできない体にも、復活の主イエスが宿っていてくださるのです。たとえ、すべてを忘れてしまっても、洗礼によって新しくされ、主イエスと共にある命は永遠です。そして、主イエスが再び世にいらしてくださる再臨のとき、まったく新しい体を持った人間として、神さまの み前に立つことが約束されているのです。その希望の中で、地上の命を終えることができるのです。そのように、わたしどもは死において、神の栄光を見ます。信じる者は、死で終わらない事実に、光を見る。神の栄光を見る。主は、わたしどもと、どんなときも、どこにあっても、永遠に、共におられます。わたしどもの中に生きていてくださいます。これこそ、主イエスがラザロ、マルタ、マリア、そしてわたしどもすべての者に与えてくださる祝福の約束なのです。

<祈祷>
天の父なる御神、慰めと励ましに満ちた み言葉を感謝いたします。復活によって死に勝利された み子の救いを信じ、どのようなときも、あなたの栄光を現す者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、先週の木曜日、愛する兄弟が召されました。今週の土曜日、葬儀を執り行います。この葬りの業を、ひとりでも多くの者が、み子を信じる信仰へと導かれるために用いてください。あなたの栄光を現すことができますように。深い悲しみの中にあるご遺族の上に、溢れるほどに慰め、聖霊を注いでください。世界の至るところで、争いが続いています。主よ、悲しみの中にある者、飢えの中にある者、望みを失っている者を、あなたの愛で包んでください。争っている者たちが互いに武器を捨て、和解に向けて努力することができますように。赦し合うことができますように。震災によって傷つき、苦しんでいる多くの人に、あなたの慰めが届きますように。能登半島にある輪島教会、七尾教会、羽咋教会、富来(とぎ)伝道所の歩みをお支えください。主よ、礼拝を慕いつつ様々な理由のためにその願いが叶わない者がおります。特に入院を余儀なくされている者、痛みを抱えている者を み手をもってお支えください。東日本連合長老会に属する諸教会を強め、励ましてください。特に、増田将平牧師が闘病中である青山教会の歩みをお支えください。再び、説教壇に立つ日を信じ、厳しい病と闘っている増田牧師の病を癒やしてください。また、4月から牧師不在となる小金井西ノ台教会の歩みをお支えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年3月10日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ホセア書 第11章8節~12節、新約 ヨハネによる福音書 第11章28節~37節
説教題:「主の憤り、主の涙」
讃美歌:546、13、255、304、542、427

ヨハネによる福音書 第11章の長い物語を、少しずつ区切って読んでおります。マルタとマリアの兄弟ラザロが病のため死んでしまい、墓に葬られて四日も経っている。そのとき、主イエスがようやくベタニアに到着された。姉であったと思われるマルタが、まず主イエスを迎えに出て行き、妹マリアは家で泣き続けていました。  マルタは、主イエスとの対話によって信仰へと導かれてゆきます。そして、大急ぎで家に帰り、妹のマリアを呼んで、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と、そっと耳打ちしました。
28節の「先生がいらして」と訳された言葉には、特別な表現が用いられています。「傍らに立つ」と訳せる言葉で、「助けを与える」という意味にもなります。また、「呼ぶ」という言葉は、「声を出す」という意味を持つ表現が用いられています。「イエスさまが、わたしたちを助けに来てくださった!そしてマリア、あなたを呼んでおられるから、急いで行きなさい」と、マルタはマリアに伝えたのです。「先生がいらして、あなたをお呼びです」。マルタの この言葉は、何気ない一行です。けれども、ここにも、わたしどもがどのように主に招かれて、どのように救いの中へと入れられるかが、示されていると思います。主が、わたしどもを救うために来てくださり、傍らに立って、一人一人の名前を、呼んでいてくださる。その声を、先に聞き取った誰かが伝えてくれる。そのように、わたしどもは主のもとへ招かれて、信仰の中へと入れていただくのではないでしょうか。
さて、マリアは、主の招きを知ると、すぐに立ち上がり、主イエスのもとに駆けつけました。マリアが急に立ち上がって出て行くのを見て、家の中でマリアと共にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、きっと墓に行って泣くのだろうと思い、マリアの後を追いました。主イエスは、まだベタニア村には入らず、そのまま、マルタが出迎えた場所で、待っておられました。マリアは、主イエスの姿を見つけるやいなや、抱えていた悲しみをすべてぶつけるように、主の足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と泣き崩れました。その後は、もう言葉が続かなかった。主の足もとにひれ伏し、オイオイと泣き続けたのです。もしかしたら、マリアもマルタのように、「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と、言葉を続けたかったのかもしれません。でも言葉にならないほど、涙があとからあとから溢れてきて、しまいには自分の涙におぼれるように、泣き続けることしかできませんでした。それを見ていた人々もつられて泣きだす。
主イエスは、マリアがご自分の足もとにひれ伏し、泣き崩れている姿を見て、また、そのマリアと一緒になって泣いているユダヤ人たちを見て、「心に憤りを覚え、興奮した」と聖書は告げています。「憤り」と訳された言葉は、馬が興奮して、激しく鼻を鳴らす姿を描く言葉と言われております。「怒って鼻を鳴らす」という意味から、不機嫌になる、不快や憤りを表にあらわす、という意味の言葉になりました。憤りが、その場にいたすべての者に伝わるほど、激しい興奮を あらわになさったのです。
主イエスが憤りの感情を、周りにもそれとわかるほど、むき出しにしておられる。主イエスは何に対して、こんなに激しく憤っておられるのでしょうか?見えない人の目を見えるようにし、歩けない人を歩けるようにしてきたイエスさまでも、死に対してはさすがに無力だと、あなどる人々の不信仰に対して、憤られたのでしょうか?人々をこれほどまでに嘆き悲しませ、恐れさせる死に対し、憤っておられるのでしょうか?その両方でしょうか?あるいは、「わたしが、すべての人に復活の命を与えるために、神から遣わされて、ここにいるのに、それが伝わらない。」そのようなもどかしさ、苛立ちもあったかもしれません。まるで、神が生きておられないかのように、主イエスがどこにもおられないかのように、オイオイと嘆くマリアとユダヤ人たちの涙を、主イエスは断ち切るように、憤然として言われました。「どこに葬ったのか。」そこで泣いていたユダヤ人たちは、「主よ、来て、御覧ください」と、墓まで案内して行きました。すると何と、今度は主イエスが涙を流された。主イエスの両眼から、涙が溢れたのです。
主イエスの涙は、単に感傷にかられた涙でも、絶望の涙でもありません。「イエスは涙を流された。」と訳された言葉には、マリアやユダヤ人たちのそれとは違う、特別な表現が用いられています。「実際に、「主イエスの両眼から涙が溢れて、頬をつたった」という表現です。そして、主の涙を見た人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言ったと福音書は告げています。この、36節で、「愛しておられた」と訳された言葉は、11節で、主がラザロのことを「わたしたちの友」と呼んでくださいましたが、この、「友」という言葉と語源は同じで、友への愛を示す言葉です。「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」。一見、傍観者による意味のない感想とも思える言葉ですが、それでも、わざわざ、「御覧なさい」、「見なさい」と命じ、主の目から溢れ出し、頬を つたう涙に、わたしどもの目を向けさせているのです。この一言を、ここに書き添えた、ヨハネ福音書を書いた人の切実な思いが、伝わってくるように思います。「ご覧なさい、見なさい、目から溢れ出し、頬をつたって落ちていく主の涙を。友のために流された涙を、目に焼きつけなさい。」と、わたしどもは言われているのではないでしょうか。「復活であり、命である」主イエスが、わたしどもを友として愛し、このわたしどものために、涙を流しておられる、わたしどもは死ぬ時、その涙を見つめながら、神さまのもとへ帰ることができる。また、親しい人の死に際しても、その人のためにも主が涙を流しておられる、その涙を見つめながら、愛する者を神の みもとへと送ることができるのです。これから死んでゆく、そのときに、わたしを友として名前を呼んでくださり、涙を流してくださる、その涙に支えられ、死んでゆける。決して闇に赴くのではありません。主イエスの命の光に導かれて死に赴くのだと確信して、死んでゆくことができる。主イエスの涙は、その確信を支えてくださる涙なのです。
明日は、3月11日です。東日本大震災から13年。「あの日から13年」というタイトルで様々な報道がされておりますが、そのひとつ、先週の火曜日の東京新聞 社会面で「悲しみ 我慢せず話して」と題した記事を読みました。宮城県 山元町(やまもとちょう)は、宮城県最南端の町で、津波で大きな被害を受けました。その一人が現在53歳の亀井さん。亀井さんは妻と当時1歳だった次女を失いました。あれから13年。新聞記事は亀井さんの言葉を伝えていました。「1月、能登半島地震で親族を全員失った同じ年の男性をテレビで見て、『力になりたい』と思い、最近話していなかった経験を再び語ろうと決めた。『つらい時は我慢しなくていい。前に進もうと思わなくていい。暗闇にともる明かりのようなものがいつか必ず現れる』。」 わたしどもには、亀井さんの涙の重さを想像することしかできません。しかし、主イエスは、一人一人の傍らで、一人一人と同じ涙を流すことができる方であります。そしてわたしどもに、死を越えた命を与えることがおできになる方です。マルタがマリアに「イエスさまが側に来てくださって あなたの名前を呼んでおられます」と耳打ちしたように、わたしどもも主の涙を指し示し、「主が、あなたの名前を呼んでおられます」と伝えながら、生きていきたいと切に願います。
この後、ご一緒に賛美する讃美歌304番の3節は、このように賛美します。「わざわいとくるしみ/われをかこむとも、まごころを ささげて/主によりすがらば、おもいにまされる/安きを身にうけん。」辛いとき、苦しいとき、悲しいとき、涙が溢れるとき、泣きじゃくってよい。無理に言葉を紡ぐ必要もない。けれども、ただあてもなく泣くのではない。主イエスにすがりついて泣くことができる。ただ涙を流すしかできないときにも、わたしどもを友として愛し、名前を呼んでくださり、涙を流してくださる主イエスが、側にいてくださいます。そして、わたしどもには考えも及ばないような平安を与えてくださるのです。主の頬をつたった涙が、わたしどもを支え、導く光です。
ラザロが病気になり、マルタとマリアが必死に祈って、「イエスさまどうかすぐに来てください」と願ったのに、主イエスはすぐには来てくださいませんでした。そのように、主が与えてくださる答えは、いつもわたしどもの思い通りのものとは限りませんし、今、この時にも、世界中で目を覆いたくなるような殺され方で死んでいる人がいることを、わたしどもは知っています。それでも、主イエスはそのような一人一人の友の死に心を痛め、涙を流しておられると、わたしどもは信じています。主の み心が行われますように。み国が来ますように。主の愛の業のために、わたしどもを用いようとしておられる主に、従うことができますように。

<祈祷>
天の父なる神さま、至るところで悲しみの涙が流されております。しかし主イエスは、わたしどもの悲しむ姿を ご覧になって憤りを覚え、ご自身も涙を流してくださいますから感謝いたします。愛する者の死に涙が溢れるときにも、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」と約束してくださった み子の約束を信じ続ける者としてください。この地上に あなたの み心が行われ、悲しんでいる者の涙が かわく日を、来たらしめてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、東日本大震災から明日で13年となります。あの日、多くの命が奪われました。さらに、原発事故により故郷を奪われ、今も苦しんでいる者がおります。けれども主よ、どれだけの涙が流され、今も流され続けているか、あなたはすべてご存知でいてくださいます。主よ、愛する者を救えなかったと自分を責め続けている者を憐れみ、あなたの救いの中へ招き入れてください。まことの平安に生きる日が与えられるよう、聖霊を注いでください。主よ、ウクライナで、ガザ地区で、ミャンマーで、また至るところで続いている争いを一日も早く終結へと導いてください。特に、食べるもの、飲む水すらなく、泣いている子どもたちの必要を満たしてください。主よ、わたしどもの教会に連なる者の中にも入院している者、痛みを抱えている者、不安の中にある者が大勢おります。それらの者が、決して一人ではない。どんなときも、どこにあっても、インマヌエルの主が共におられることを忘れることがありませんように。あなたと共にある喜びで包んでください。3月、卒園、卒業、進級の時期を迎えております。4月から新しい生活を始める者たちの歩みを導き、お支えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年3月3日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第40章27節~31節、新約 ヨハネによる福音書 第11章17節~27節
説教題:「愛といのちのまなざしの中で」
讃美歌:546、11、128、21-81、525、541

先週から、ヨハネによる福音書 第11章に入りました。そして、今日は17節以下を読み進めてまいります。本当のところを言えば、毎回、第11章を通して朗読したいと思う箇所です。全体を通して読むことで見えてくる恵みがある。受難節の間、それぞれの自宅で繰り返し、第11章全体を読むことを、わたしども皆の共通の課題としても良いのではないかと思うほどです。第11章の最後、45節以下には「イエスを殺す計画」という小見出しがつけられているとおり、ラザロの死と復活の出来事のゆえに、主イエスは死ななければならなくなります。主の ご受難と死が決定づけられた出来事を、大切に読んでまいりたいと思います。
主イエスが愛しておられた、マルタとマリアの兄弟ラザロが重い病気にかかってしまいました。マルタとマリアは、ラザロにまだ息があるときに、主イエスに癒して頂きたいと願い、人をやってラザロの容態を伝えましたが、主イエスが三人のもとへ出かけて行かれたのは、連絡が来てから二日後のことで、到着されたときには、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていたのです。「四日」という期間には意味があります。その頃は、現代のような診断の技術があったわけではありませんから、てっきり死んだと思っていたところが、数日たって息を吹き返す、ということが実際にあったようです。そのため、三日間は様子を見て、四日目になってから、「完全に死んだ」と判断したのです。マルタとマリアは、ラザロが生きていた間はもちろんのこと、せめてこの四日の間にでも、イエスさまが間に合ってくださったらと、切実に願い続けていたことでしょう。「イエスさまさえ、来てくださったら!」ただただ、そこに賭けていた二人の望みが絶たれてしまった、ちょうどそのときに、イエスさまがいらっしゃって、死んだラザロを御覧になったのです。17節の「行って御覧になる」という表現は、日本語だと伝わりにくいのですが、原文では「行く」よりも、「見る」という意味に重きが置かれています。ラザロは既に息をしておらず、遺体となって墓にありましたが、このとき確かに、主のまなざしに包まれた。墓を塞ぐ石など、まるでそこにないかのように、主イエスのまなざしが、洞穴に埋葬されているラザロを包み込んだのです。
さて、そのころ、「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来て」おりました。これは、葬式が続いていたことを意味します。当時のユダヤの葬儀は一週間も続いたと伝えられています。その葬儀の間に、主イエスがようやくベタニアにやって来られたというニュースがマルタの耳に入り、マルタはすぐに迎えに出ました。葬式の最中に、おおぜいの弔問客をほったらかして、姉妹そろっていなくなるわけにもいかなかったでしょうから、マルタは、マリアには告げずに、そっと抜け出したのかもしれません。
マルタは、主イエスを見つけるやいなや、この数日間ずっと祈り、待ちこがれていた思いを全部、主イエスの前に注ぎ出しました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」主イエスを心から信頼し、マルタは言うのです。「主よ、あなたが一緒にいてくださったならラザロは死ななくてすんだはずです。でも、祈ってくださったなら、求めてくださったなら、神さまが働いてくださる。わたしは、そのことを今でも信じています。」マルタの素朴な信仰の言葉です。しかし、マルタの信仰は、このときにはまだ、ユダヤ教の伝統的な信仰の中にとどまっていました。主イエスが、「あなたの兄弟は復活する」とおっしゃってくださっても、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えました。ユダヤの人々の信仰は、「人間の罪の結果、最後にはすべてが滅んで、消え去ってしまう。」というのではなく、「最後には必ず、甦りの命の希望が見えてくる。そういう望みの日として、終わりの日が与えられる。」というものでした。マルタも熱心な信仰者として生きておりましたから、「主よ、終わりの日の復活の時に復活することは信じて、望みとしています。」と言いました。イエスさまが、神さまにお願いすれば、神さまは何でも叶えてくださる。そのことは少しも疑っていない。でも、死んで四日もたってしまったのだから、いつかおとずれる終わりの日に望みをかけるほかないのだと諦めていた。目の前の現実である死の、圧倒的な力に飲み込まれて、イエスさまといえども死の力にはかなわないと思い込んでしまっていたのです。
しかし、主イエスはこのような信仰から、マルタをグイッと引き上げようとなさるのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」いつか、ではなく、今、ここに、わたしが来ている。わたしが、復活である。わたしが、命である。と、主は言われます。マルタは、兄弟ラザロの死に直面し、死の圧倒的な力に飲み込まれてしまっています。けれども主イエスは、その死の中に手を突っ込んでマルタを引っ張り出すように、いや、手どころか全身で飛び込んでマルタを抱きしめて、引っ張り出して、わたしが復活だ、命だと、言われたのです。実際、主イエスはこの出来事ののち、十字架の死へ、マルタが絶対だと思い込んでいる死の中へと突き進んでゆかれます。そして、ご自身も復活なさって、墓の中から出て来られます。マルタに対し「わたしは復活であり、命である。」とおっしゃったときには、まだ、主イエスの十字架の死と復活の出来事は起こっていませんが、主イエスは既に、はっきりと、ご自分の死と復活を、ご自身が必ずなすべき務めとして、見据えておられたに違いありません。だから、『わたしは復活であり、命である。』」と、主イエスはおっしゃったのです。マルタは死の力の中から主イエスに引っ張り出して頂き、主の前に立ちました。わたしどもも今、マルタと一緒に、主イエスの前に立ち、主の宣言を聞いています。「わたしは復活であり、命である。」
マルタやユダヤの人々が、いつか訪れる「終わりの日」に望みを託していたように、わたしどもにもまた、それぞれ勝手に思い描いている ふんわりとした期待があるかもしれません。『まもなくかなたの』という聖歌があります。昔、日曜学校で歌ったことがある、という方もおられるかもしれません。死んでしまっても天国の綺麗な川の流れのほとりで、懐かしい人たちと会えるから、楽しく再会しましょう、という内容の歌詞です。
しかし、主は、「それどころではないのだ。」とおっしゃるのです。わたしどものおぼろげな空想が本当であろうが、なかろうが、そういう問題ではない。将来の話でもない。今、ここに、わたしがいるのだ。あなたと共にいるのだ。今、この、死が世界を覆っているようにしか思えない世界、痛みや苦しみや不安に満ちている現実の只中に、わたしが来た、わたしがいる。復活であるわたしがいる。命であるわたしがいる。あなたと共にいると、主はおっしゃるのです。そして、わたしが共にいるところには、死はないのだ。このことを信じるか?と主イエスがお尋ねになっています。わたしども一人一人に、お尋ねになっているのです。ラザロを包んでいるまなざしが、マルタをも、そしてわたしどもをも、包んでいます。
主がマルタを、そのまなざしで包んで、ご自分がどのような方であるかを示してくださったそのとき、マルタがそれまで自分で信仰だと思っていたものが、ひっくり返るような大事件が起こりました。マルタは答えました。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」死んでも生きる。決して死なない。それは不老不死というようなことではありません。ラザロもマルタもマリアも、いつまでもこの世に存在しているわけではありませんし、わたしどもの地上の命にも、終わりがあります。そのあとどうなるかは誰も知りません。でも、独り子を差し出すほどにわたしどもを愛していてくださる神さまが、知っていてくださいます。そして神の み子キリストが、信じる者の中に生きておられます。なぜなら、主の「わたしは復活であり、命である。」との み言葉を信じて洗礼を受けるとき、神の子、キリストがわたしどもの内に宿ってくださるからです。このキリストと共にある命は、永遠です。
マルタの「信じます。」ではなく、「信じております。」という言葉は、「これまでもそう信じてきました。」という表現です。信じてきたのであれば、なぜ、兄弟の死に直面したときに、死の力に飲み込まれてしまったのか、矛盾があります。けれども、わたしども自身、マルタの嘆きや動揺がよくわかるのではないでしょうか。わたしどもも、自分自身や愛する者の死に際して、うろたえずにはいられません。死ぬことに対する恐怖、大切な人を失う怖ろしさ、不安をマルタのように、主イエスの前で、おいおいと嘆き、注ぎ出すことしかできないときがあります。しかし、そこでこそ、主イエスは「わたしは復活であり、命である。」との み言葉をもって、死の中に飲み込まれているわたしどもを引っ張り上げてくださるのです。そのとき、わたしどもは主のまなざしの中にとらえていただきながら、改めて気づく。「そうだ、わたしは決して一人ではない。復活であり命であるイエスさまと共に、これまで生きてきた、いや生かされてきたではなかったか!」と、恵みに、立ち帰ることができるのです。
「神の子が、キリストが、この世に来てくださった。あなたこそ、キリスト。」というマルタの答えは、マルタ自身が、その存在まるごと、死の中から引っ張り出され、既に主イエスの復活の命の中に移っている、という奇跡が起っていることを表しています。わたしどもも、主の、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」との問いかけに、すでに自分が死の中から命の中に引っ張り上げていただいている恵みを確かめながら、「はい、主よ、信じております。あなたこそ生ける神の子キリストです。わたしの救い主です。」と、答えることができるのです。
只今から聖餐の祝いに与ります。主イエスがマルタに宣言された「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」との約束を信じ、その恵みを目で見て、口で味わう。聖餐のパンと杯は、わたしどもが死んでも生きる者となるために、何の罪も犯していない神の子 主イエスが、わたしどもに代わって十字架で肉を裂かれ、血を流して、死んでくださった「しるし」です。神の み子の尊い命によって、「だれも、決して死ぬことはない。」者としていただいていることを、聖餐によって改めて心に刻むのです。主はそのように、信じる者の歩みを整えてくださっています。命の主と共に、今までも、これからも、歩んでいく幸いを、恵みの事実を、み言葉と聖餐の食卓によって確認しつつ、受難節の日々を祈りをもって過ごしたいと思います。

<祈祷>
天の父なる神さま、愛する者の死にうろたえ、取り乱すわたしどもです。だからこそ、あなたは み子を世に遣わし、み子を信じるすべての者に永遠の命を約束してくださいましたら感謝いたします。死の闇に飲み込まれそうになるとき、主のまなざしと、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」との み声を思い起こさせてください。日々、罪の赦しと永遠の命の恵みを心に刻み、ただ一度の地上の命をあなたと共に平安のうちに歩むものとしてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。能登半島地震から2ヶ月が経ちました。それでも輪島の町はほとんど1月1日と変わっていないと報道されています。主よ、被災して、今も困難な生活を強いられている方々を慰め、励まし続けてください。わたしどもも祈り、また具体的に支える者として用いてください。礼拝後、4年振りに対面での臨時教会総会(長老選挙)を行います。どうか、あなたのみ心が行われますように。今日も様々な理由のため、どうしても礼拝に出席することのできない仲間が大勢おります。特に、病を患い入院している者の上に、溢れるほどの聖霊を注いでください。今、死を怖れている者がおりましたら、どうか主よ、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」とのあなたの約束を、主の十字架と復活を、思い起こさせてください。主よ、ウクライナ、ガザ地区、世界の紛争地域に一日も早く平和をもたらしてください。それぞれの国益ではなく、あなたから与えられた一人一人のいのちを何よりも大切にする世へと導いてください。み国が来ますように。み心がなりますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年2月25日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第59章9節~20節、新約 ヨハネによる福音書 第11章1節~16節
説教題:「いのちの光」
讃美歌:546、55、154、533、540

わたしどもは今、受難節、レントの日々を過ごしています。そのタイミングで今日から、ヨハネによる福音書 第11章に入ります。神さまが、「受難節の今、ラザロの死と甦りを心に刻みなさい。」と言っておられるように感じます。実際、このラザロの死と甦りから、主イエスの十字架への歩みが具体的に進んでいくのです。
第11章に登場するのは、主イエスと弟子たち。そして主が、「わたしたちの友ラザロ」と呼ぶほどに愛しておられたラザロと、そのきょうだい、マルタとマリアです。ここに登場するマリアは、2節に「主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。」とわざわざ記されています。このあとの第12章の冒頭に記されているエピソードです。マリアが主イエスの足に塗った香油は、非常に高価なものでした。そのため、主イエスの弟子の一人、イスカリオテのユダから「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。(12:5)」と、マリアは叱られてしまいますが、主イエスご自身は、マリアのしたことに深い慰めを得て言われました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。(12:7)」主イエスは、ご自分の死を覚悟しておられたのです。そして、第12章12節から、わたしどもが受難週と呼んでおります、主イエスの死に向かう一週間が始まります。そのように、第11章のラザロの死と復活の出来事を伝える記事は、主の十字架の死と三日目の甦りを先取りするような、とても大切な み言葉です。そのことを心にとめながら、第11章を数回に分けて読んでまいりたいと思います。
み言葉を読み始めますと、ベタニア出身のラザロが病気であったことがわかります。ラザロのきょうだいマルタとマリアは、以前から交流があり尊敬していた主イエスなら、病気を治してくださるに違いないと、人を遣わして、伝えさせました。3節。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。すると主は、こう言われました。4節。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」主イエスは、ラザロの病気は「死に至るような ひどい病ではない。」と見立てをしておられるのではありません。主イエスは、ラザロが死ぬことを、すでに知っておられる。けれども、それでおしまいではないのだ、とおっしゃるのです。この言葉は、主イエスと特に親しかったマルタ、マリア、ラザロだけに与えられたものではありません。主イエスは、弟子たちにも、主を殺そうとしていた人々にも、のちの世のわたしどもにも、すべての人に向かって、おっしゃったのです。「この病気は死で終わるものではない。」。主イエスはすべての人を、死で終わることのない、いのちの中へ、招き入れようとなさっています。「このいのちを受けなさい」と、呼んでおられるのです。
この いのちは、主イエスを信じるすべての人に与えられます。主イエスへの信仰を告白し、洗礼を受け、主イエスと結ばれる者は、どんなに重く深刻な病気に冒されようとも、たとえ、今、この瞬間に、神さまから与えられた いのちを神さまにお返しするときが訪れようとも、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」と信じ、望みをもって死ぬことができる。洗礼は、その約束のしるしです。
さて、主イエスは、マルタとマリアからの伝言を受け、すぐにラザロのもとに駆けつけられたかというと、何と、「なお二日間同じ所に滞在された。」と書かれています。5節には、わざわざ「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」と書いてあるのに、わたしどもの期待に反するように、なお二日間 動かれなかった。 いったいなぜすぐに行動してくださらなかったのか?一つの確かな理由は、主ご自身が14節で、「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。」とおっしゃっているように、あえてラザロが死ぬときを待っておられた、ということがあります。けれども、それだけではなかったであろうとも思います。ここで、「あなたがたにとってよかった。」と訳されている言葉は、原文通りに直訳すると、「そして、わたしは喜びます。あなたたちに。それは あなたたちが信じるようになるために。」となります。驚くべきことに、「喜ぶ」という単語が使われているのです。すべては、あなたたちのために。「あなたたちが信じるようになるために。」。主イエスの喜びは、そこにあるのです。神が望んでおられるのは、ただただ、そのことなのです。すべての人に、死が終わりでないことを知って欲しい。終わらない いのちに生きて欲しい、そのことだけなのです。
ですから主イエスは二日の間、ただラザロが死ぬのを待っておられただけではなく、父なる神さまに祈り続けておられたのだと思います。すぐにでも駆けつけたい思いを抱きつつ、しかし父なる神さまの み心が行われることを、即ち、すべての人が信じるようになることを、祈っておられたに違いない。ラザロの死という、目の前で起こる現実の中で、しかし「死が決して終わりではない」ことを信じる信仰が生まれることを、祈っておられた。すべての人が信じる者となるよう、祈っていてくださったのです。
二日後、主イエスは決心をなさって、もう一度ユダヤに行こうと弟子たちに言われました。弟子たちは、答えて言いました。「ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」弟子たちはこれまで、主イエスとユダヤ人たちの論争の現場に幾度となく遭遇していました。主がいつ石で打ち殺されてしまうかと、気が気ではなかったことでしょう。もしもそうなれば、弟子である我々だってひどい目にあうにちがいない。再びユダヤに行かれるなんて無謀だ。そんな思いだったはずです。けれども、主イエスははっきりと言われたのです。9節。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。」ヨハネ福音書は、冒頭でキリストについて、このように語っています。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(1:9)」また、第8章では、主イエスご自身が「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。(8:12)」と言われました。主は、おっしゃるのです。「昼間は明るい。昼のうちに歩けば、誰もつまずかない。まして、光であるわたしと一緒に歩いてゆけば、たとえ今、闇の中にあっても、あなたがたは何も恐れることはないではないか。」  
さらに主は、続けて言われました。10節。「しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」夜、闇、主イエスの光がない状態。もしも、主イエスが一緒にいてくださらなかったとしたら。わたしどもが一人で、どんなに、明るく生きよう、この世に明るい光を灯そうと努力しても、限界があります。主は言われるのです。「自分の光でなく、わたしの光に頼って欲しい。わたしについてきて欲しい。」と、主イエスは、わたしどもを呼んでおられるのです。
主イエスは、そのように弟子たちを励ましてから、おっしゃいました。11節。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」主イエスはラザロを、「わたしたちの友なのだ」と言われるのです。主イエスはラザロを、また主に従う弟子たちをも、友と呼んでくださっている。またすべての者を、友の輪の中に巻き込もうとなさっているように感じます。ヨハネ福音書を読み進めてまいりますと、第15章に「ぶどうの木の譬え」があります。そのすぐあとで、主イエスは、こう言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(15:13)」第11章で、ラザロを「わたしたちの友」と呼ばれたとき、主の心の中には、すでに、ご自分が後ほど語られるこの み言葉があったに違いありません。「わたしたちの友ラザロ」という主の み言葉には、ラザロを、また弟子たちを、ひいては弟子たちに続くすべてのキリスト者を、ご自分の命を捨てて愛してくださるという意味が、込められているのです。そして実際に、主イエスはわたしどものために、十字架の上で いのちを捨ててくださったのです。
本来であれば、わたしどもには、「友」と呼んでいただく資格などありません。わたしどもの代表として、16節に、トマスという弟子が登場します。トマスは仲間の弟子たちに勇ましく呼びかけます。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」。このときトマスの心は、本当にそう思っていたのだと思います。しかし、実際に主イエスが捕まってしまったとき、トマスは、ほかの弟子たちと一緒に、一目散に逃げ出してしまいます。その姿に、わたしどもの姿が重なります。まことに誰かの友となることの、何と難しいことかと痛感させられます。また、トマスは主イエスがお甦りになったときにも、最後まで信じないと言い張った男です。ラザロの死と復活を、その目で見ていたはずなのに。勇ましいことを言っても、結局は、死の力に圧倒されてしまったのです。死が絶対だと思ってしまっていた。神さまの力よりも、死の力を信じてしまっていた。その姿の中にも、わたしどもは自分の姿を見るのではないでしょうか。それでも、主イエスは、甦られた後にトマスのところへ赴いて、「十字架で負った傷痕に指をあててごらん、手を入れてごらん」と、諦めずに呼びかけてくださいました。そしてそのとき、トマスの中にも光が灯りました。光であられる主イエスが、トマスの心の真ん中に入って来てくださって、光と共に生きることができるように、つまずかないで歩けるように、トマスを変えてくださったのです。
このあと、主イエスがユダヤに到着なさったとき、ラザロは墓に葬られて既に4日も経っていました。けれども、主イエスがそのラザロの墓を訪れてくださって、わたしどもには真っ暗闇としか思えない墓に、主イエスの光が射し込みました。死んでいたラザロがキリストの光に包まれて、まるで、その光のあまりのまぶしさに目を開いたように、手と足を布で巻かれたまま墓から出て来た。
わたしどもの教会では洗礼は頭に水をつけて行いますが、今でも、水槽や川で行う教会は多くあります。どぶんと、頭まで水に沈められる。息ができない。それは死を意味します。そして水の中から起こされるとき、新しいいのちに甦る。ラザロに起きた復活の奇跡がわたしどもにも起こる。洗礼は、そのことを表しているのです。ヨハネによる福音書 第3章16節は、神は、その独り子をわたしどもに与えてくださるほどに、世を愛してくださった、と書きました。そして、続いてこう書きました。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」主イエスを信じる者が、みんなラザロになるのです。ラザロはこの後、いつまでもそのままの姿で生きたわけではありません。同じようにわたしどもも、必ず死にます。しかし、洗礼によって主と結ばれた者の死は、希望の中の死です。主イエスが十字架で死んで、甦って、わたしどもといつまでも一緒にいてくださる、そして、神さまがお定めになったときに、主の まばゆい光に包まれて目を覚ますことが、聖書の中に約束されています。
これまで何度か葬儀の司式をさせて頂きました。参列されたキリスト者でない方から、式の後で、「教会の葬儀は明るいですね。」と感想を言われたことがあります。わたしどもの死は、死で終わりではない。死によって、主の いのちの光が輝く。その光を何となく感じ取られたのかもしれないと思いました。そして、いつの日か、この感想を言われた方も、主イエスが望んでくださったように、主を信じ、主と共に、生きていって欲しい、と祈らずにはおれません。
わたしが伝道者となって初めて葬儀をした方は、亡くなる3ヶ月前に胆管癌の診断を受け、余命を宣告されていました。医師の見立て通り、3ヶ月で天に召されましたが、それでも、うろたえる新米伝道者のわたしを励まし、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と、固く信じて、激しい痛みと闘い抜かれました。その方のお嬢さんは、ご両親の信仰によって、小児洗礼を受けておられましたが、昨年、ご自身の口で信仰告白をなさいました。お母さまの葬儀のときに耳にした、わたしの出身教会の名前を記憶しておられて、通うようになり、信仰告白まで導かれたと聞いて、キリストと共にある信仰者の死には神の栄光が現れることを、改めて知った思いです。ラザロの死と甦りを通して、信仰が生まれることを喜んでくださる主は、ラザロを友と呼び、わたしどもを友と呼び、主イエスをまだ知らない人も友と呼んで、信じる者になって欲しい、光の中を歩んで欲しい、と招いておられます。いつか必ず訪れるわたしどもの死も、キリストの光の中で、そのように用いていただけることでしょう。何と喜ばしいことかと思います。キリストと共に歩む幸いが、キリストの光が、一人でも多くの人に届きますように。

<祈祷>
天の父なる神さま、病を患うと、たじろいでしまいます。病は死で終わると思ってしまいます。けれども、あなたのみ子は、「病は死で終わらない。」と宣言してくださいましたからありがとうございます。あなたの み子がどんなときもわたしどもと一緒におられ、いのちの光となってくださいますから、ありがとうございます。主よ、あなたから与えられたただ一度の地上のいのちを、キリストの光を見失うことなく生きる者としてください。そして、まだあなたと一緒に歩む幸いを知らないたくさんの人びとが、いつの日か、死の闇に勝利してくださった み子を信じ、永遠のいのちに生きる喜びを味わうことができますよう、すべての者に聖霊を注いで導いてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、ロシアがウクライナへの軍事侵攻を開始し、2年となりましたが、いまだ終結のきざしすら見えません。そればかりか、紛争は世界中のいたるところで起っています。人間の罪の何と深いことでしょう。主よ、どうか、わたしども一人一人があなたの み声に聞き従うことができますように。主が命を捨ててくださったように、わたしどもも隣人のために自己を捨てることができますように。地震で被災し、愛する人を失い、望みを失っている者にあなたの愛を注ぎ続けてください。そして、いつの日か、いのちの光が教会にあることを知り、信仰へと導かれますよう祈ります。病を患っているため、入院生活を続けているため、礼拝出席の叶わない者がおります。それらの者に、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」と信じる信仰を お与えください。来週の主の日、臨時教会総会を行います。主よ、一人でも多くの者を礼拝へと招き、共に聖餐の祝いに与り、み心を問いつつ、長老選挙にのぞむことができますよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年2月18日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第82篇1節~8節、新約 ヨハネによる福音書 第10章31節~42節
説教題:「神のわざが始まっている」
讃美歌:546、68、190、324、539

石を握りしめた手を振り上げて、今にも襲いかかろうとしている人たちの、まん中に、主イエスがおられます。誰か一人が石をぶつければ、ほかの人たちも次々に投げつけるに違いないのです。しかし、それでもなお、主イエスは、この人たちのことを諦めてはおられません。今にも自分を殺そうとしている人たちに、主イエスはお尋ねになりました。32節。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えました。33節。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」
「冒瀆」とは、「神聖なもの、清らかなものをけがすこと。」です。今こうして礼拝をささげているわたしどもは、聖書を通して、主イエスが、父なる神さまと同質な方であることを知っています。主イエスが30節で「わたしと父とは一つである。」とおっしゃったことは、真実であり、何ら神さまを冒瀆することにはならないと、知っている。しかしです。もしも、わたしどもがこの場にいたら、どうしていたでしょう。今にも石を投げつけて主イエスを殺そうと息まいている人たちに向かって、「この方のおっしゃることは正しい。この方こそ、生ける神の子キリストだ。」と言えるでしょうか?逆らえば、自分まで石打ちにされてしまうかもしれません。それでも「あなたがたは間違っている。」と言えるだろうか。あやふやな態度でその場を取り繕い、「わたしにはよくわかりません。」と、石を握りしめている人びとに同調して、そそくさと逃げ出してしまうのではないか。その姿は、罪の奴隷です。罪の言いなりになってしまって、主イエスを捨ててしまう。しかしそれでも、主イエスがわたしどもをお見捨てになることはないのです。丁寧に、心を尽くして、語りかけてくださっているのです。
主イエスは、自分を殺そうとしている人々におっしゃいました。34節。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃(すた)れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか。」主イエスが引用された聖書の み言葉は、今朝、ヨハネ福音書と一緒に朗読して頂いた旧約聖書 詩編 第82篇の み言葉です。詩編について旧約学者の雨宮 慧(あめみや・さとし)先生は、「詩編の書はヘブライ語で『テヒラー』と呼ばれるが、この語は『賛美』を意味している。しかし、詩編を読んでみると、その多くは嘆きの歌である。嘆きの歌が多いのに『賛美』と呼ばれるのは、詩編の嘆きは神の介入を求める祈りであり、神の介入を確信する賛美でもあるからだ。」と、解説しておられます。現状を嘆きつつ、神さま助けてください、あなたは必ず、わたしを救ってくださる方だと、神を賛美するうた。それが詩編なのであります。
詩編 第82篇はこのように始まります。1節。「賛歌。アサフの詩。神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。」父なる神さまが、神聖な会議の場に立っておられる。そこに居並ぶ神々の裁判が行われるのです。ここで言われている「神々」とは、神さまの言葉を託された、イスラエル人の指導者たちを指しています。スイスの改革者カルヴァンの注解書にも、「聖書が神々と呼んでいるのは、神が名誉あるつとめを与えたひとたちのことである。(中略)かれらがこの世を管理するため、神のしもべとして立てられているからである」と記されています。主イエスは、そのことを指して、おっしゃったのです。「詩編 第82篇に書かれているように、神の言葉を託された者たちは、『神々』と呼ばれるほど、神の大切な同志として用いられてきたではないか。それならば、わたしが神の子だと言ったことが、どうして冒瀆になるのか。」と。また同時に、主イエスがこの詩編の言葉を引用されたことには、もう一つの意味が隠れていると思います。詩編 第82篇を続けて読んでまいりますと、「神々」と呼ばれる人々、神さまから大切な責任を託された者たちの罪が、描かれているのです。2節。「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏(とぼ)しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」
詩編 第82篇は、アサフによる詩とあります。アサフはダビデの幕屋礼拝における賛美のリーダーの一人だったようです。彼は礼拝の中で、王国の政治を司る指導者たちに、賛美の歌を通して、人間の最も深い罪の問題に切り込んで、悔い改めを促し、神さまに救いを願い求めたのです。「あなたがたは全能なる神の信頼を受け、神の み心を行うために立てられたのではなかったか。それなのに弱い人、貧しい人が虐げられ、弱者や孤児のための正しい裁きが行われていないのはどういうことか。」アサフによる、「神々」と呼ばれた指導者たちの告発はさらに続きます。6節。「わたしは言った/『あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか』と。しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。」
アサフは、「あなたがたは『神々』として働くことを期待されているのに、神さまの思いを無視し、力ある者におもねり、苦しんでいる人を見殺しにしている。あなたがたは、『神々』ではないか。神の子ではないか。それなのに、驕り高ぶる王たちのように、滅んでいってしまうと嘆いているのです。
わたしどももまた、神さまの み言葉を受け、主イエスから「すべてのものより偉大であり」と言っていただいたものとして、詩編 第82篇の厳しい裁きの言葉に耳を塞いではならない。そして、この詩編を主イエスが引用されたことも、忘れてはならないと思います。主イエスは、石を握りしめて ご自分を打ち殺そうとしているユダヤ人たちに、また、わたしどもに、愛をもって、自分の罪を見つめ、神さまに救いを求めなさい、と勧告しておられるのではないでしょうか。
先週の水曜日から受難節に入りました。主イエスのご受難をおぼえる大切な日々であります。主イエスは、「神々」の名にまったく価しないわたしどもが滅んでしまわないように、わたしどもの罪をすべて引き受けて、十字架に架かって死んでくださいました。主イエスはそのために、クリスマスの日、この世に生まれてくださいました。神さまの愛が、人間のかたちをとって、わたしどものところに来てくださったのです。第3章16節に書かれている通りです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
主イエスは、神さまの愛によって世に生まれてくださり、父なる神さまの み心にどこまでも従順に、十字架への道を歩まれ、石を握りしめて襲いかかろうとするユダヤ人たちにも向き合って、諦めることなく語り続けてくださったのです。第10章37節以下。「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」ヨハネによる福音書は、第9章において、主イエスが生まれつきの盲人を癒された記事を伝えています。弟子たちが、「先生、この人の目が見えないのは誰のせいですか。」と尋ねたのに対し、主は「誰が悪いのでもなく神の業がこの人に現れるためである。」とおっしゃって、この人の目を見えるようにしてくださいました。それと同じ奇跡が、わたしどもにも起こるのです。神さまの業が、わたしどもにも、現れるのです。主イエスは、「わたしを信じなくても、その業を信じなさい。」と言われました。「その業」とは、今まで行われた主イエスの多くの奇跡の業だけでなく、何よりも、これから成し遂げられる最も大きな愛の業を、指し示しています。
主イエスが十字架で死なれ、甦ってくださった、その業を信じる、そのとき、そこに神さまの奇跡が現れる。弱く、罪の奴隷となっているような者が、神の子とされる。神さまから「我が子」と呼んでいただけるのです。「あなたは、どんなものよりも偉大な、大切な宝もの。誰もあなたをわたしの手から奪うことはできない。」と言っていただけるのです。洗礼は、その約束のしるしです。洗礼は、キリストとわたしどもをしっかり結び合わせます。神の子の一人として数えていただくほどに、強く、しっかりと結び合わせていただくのです。もしも、石を握りしめて主イエスを取り囲んだユダヤ人たちが言うように、主イエスが神の子でないなら、わたしどもは、いつまでも変わらず、罪の奴隷のままです。しかし主イエスは、「わたしが行う業を信じなさい。十字架と復活を信じなさい。」と粘り強く、呼びかけていてくださいます。「そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」と、待ってくださっています。洗礼は、神の み子主イエスとわたしどもを一つに結び合わせるのですから、即ち、わたしどもも父なる神さまの中におり、わたしどもの中にも、父なる神さまがいてくださるということです。ただ、信じるだけでよい。そのとき、神さまが「このわたし」の内にすでに宿っていてくださったことを、知るのです。悟るのです。すでに、救いの道は拓かれています。主イエスが命を捨てて、わたしどものために拓いてくださった奇跡の道を、心から信じることができますように。わたしども自身の中に起こっている奇跡を、神さまの業を、信じ抜くことができますように。父なる神さまのどこまでも深い愛を、信じることができますように。

<祈祷>
天の父なる御神、あなたを悲しませることを繰り返すわたしどもの罪を、み前に懺悔いたします。そのようなわたしどもを諦めることなく、み子を与えてくださり、十字架の死と甦りの業を成し遂げてくださり感謝いたします。どうか、あなたの愛と赦しを信じ続ける者としてください。救われた者として、あなたの み心に従って生きてゆくことができますように。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、受難節に入りました。わたしどもの罪が赦されるために、み子が命を捨ててくださったことを、片時も忘れることなく、この時を過ごす者としてください。み子がそこまでしてわたしどもの罪を赦し、滅びから救い出してくださったにもかかわらず、世界では、この時も殺し合いが続いております。主よ、各国の指導者たちにあなたを畏れる心をお与えください。これ以上、無益な血が流されることがないよう導いてください。3月3日の礼拝後、臨時教会総会を行います。主よ、祈りつつ選挙に備えることができますように。様々な働きを担っている長老たちに聖霊を注ぎ、これからもみ心のままに用いてください。今日の礼拝にも様々な理由で出席の叶わなかった者がおります。体調を崩している者、手術を終えた者、入院を余儀なくされている者、新しい環境での生活を始めた者、あなたを信じる心、あなたに頼る心が萎えてしまった者を顧みてください。そして再び、共にあなたを礼拝することができますよう導いてください。昨日は教区伝道部主催の「教誨師の働きをおぼえる集会」が相愛教会で行われました。教区には4人の教誨師の牧師たちがおります。大切な働きを担っている教誨師をお支えください。罪を犯した者たちが、あなたの愛と赦しを信じ、望みを持って生きることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年2月11日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第50章4節~11節、新約 ヨハネによる福音書 第10章22節~30節
説教題:「キリストの声」
讃美歌:546、9、140、527、545B、Ⅱ-167

 ユダヤ教には、仮庵祭、過越祭等、たくさんの祭りがあります。
その一つに、「ハヌカーの祭り」があります。ハヌカーとは、建物が完成する、あるいはそれを神に献げることを意味する言葉で、新共同訳聖書では、「神殿奉献記念祭」と丁寧な訳語になっています。ちなみに、口語訳聖書では、「宮きよめの祭」と訳されておりました。この祭りの起源は、一つには、ソロモン王によるエルサレム神殿の奉献やバビロン捕囚後の神殿再建を記念したものであると考えられますが、こんにち、この祭りの由来とされている歴史的な出来事が示す意味としては、神殿を清めるという意味の「宮きよめの祭」という訳の方がしっくりくるかもしれません。旧約聖書の続編のマカバイ記に、詳しい顛末(てんまつ)が語られておりますが、軍事侵攻によって征服され、神殿にゼウス像をおいて拝むことを強いられ、汚されてしまった神殿を奪還したことを記念する祭りです。
その「神殿奉献記念祭」が行われたある冬の日、主イエスが、「神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた」ところ、ユダヤ人たちが待ち構えていて、サッと、主イエスを取り囲み、このように問いただしました。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」ここで、「気をもませる」と訳された原文ギリシア語は、「上に物をあげる」という意味の言葉です。ちなみに、口語訳では、「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。」と訳しています。「お前のせいで我々の心は宙ぶらりんになったままで落ち着かない。いいかげん白黒はっきりさせようじゃないか」ということではないかと思います。
 メシアというのはキリスト、救い主を指すヘブライ語です。ユダヤ人たちの聖書、わたしどもも用いている旧約聖書ですが、そこには、メシアの到来を預言する言葉がいくつも散りばめられています。メシアが到来するそのときには、歩けない人が歩くようになる。そのときには、目の見えない者が見えるようになる・・・。何度も何度も繰り返して、預言者たちが語っているのです。そして、主イエスは、何度も何度も、そのようなわざを行い、「わたしは神の元から遣わされて来たのだ」と、何度も何度も証言しておられたことは、これまでヨハネによる福音書を通して、わたしどもも聴いてまいりました。
主イエスが、神の み子が、メシアとして世に来られた。まさに、間違った信仰によって汚されてしまった神殿を清め、建て直すために、来られた。そのような大きな出来事が、起こっているのです。状況証拠は出そろっている。主イエスご自身も証言なさっている。あとは人々が素直に信じれば良いだけなのです。けれどもユダヤ人たちは信じない。心の扉を固く閉ざしたまま、主イエスの言葉に耳を傾けようとしませんでした。イエスが目障りでたまらない。そんな心が伝わってきます。今日も、ガザ地区で戦闘が続いています。譬えとしてはあまり相応しくないかもしれませんが、パレスチナ人を執拗に攻撃するイスラエル軍と重なります。イスラエルにガザ地区があることが目障り。ガザ地区にパレスチナ人が住んでいるのが目障り。だから、テロリストを滅ぼすという大義名分をかかげて、これでもかと攻撃を続けるイスラエルを、父なる神さまは、どれだけ悲しんでおられるだろうかと思うのです。悲しいかな、そのような心は、わたしどもにもあります。考えや、生活環境や、肌の色、目の色、なんにしても、少しでも自分と異なる者を見ると、縄張りを荒らされるのではと怖れてしまう。
教会も例外ではありません。むしろ教会こそ、その中だけで通じる考えや、言葉や、慣習に囚われてしまっているかもしれません。少しでも異なる雰囲気の人が教会にやって来ると、何だか落ち着かない。「そのようなことはない」と言い切れるでしょうか。もしも、わたしどもの心の、ほんの片隅にでも、変化を恐れる排他的な気持ちがあるとしたら、その気持ちは、主イエスの到来に落ち着かなくなっている者たちと同じものかもしれません。
主イエスは、言われました。27節。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」主イエスの お言葉をそのまま信じたい。主イエスは、ユダヤ人たちだけでなく、わたしどもにも、心を込めて語りかけてくださっています。「信じないものではなく、信じるものになりなさい」と、呼ばれています。そして、続く29節には驚くべき救いの恵みが語られています。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。」「わたしの父がわたしにくださったもの」。それは、主イエスがわたしの羊と呼んでいてくださる、主イエスの声を聞いて、従う者たちのことです。主イエスに従うしるしとして、主イエスへの信仰を公に自分の口で言い表し、洗礼を受けたキリスト者たちです。主イエスは言われるのです。「父である神が、わたしにくださったあなたがたキリスト者は、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできないのだ。」「え?」と思います。ひっかかる。「父なる神さまがすべてのものより偉大である。」というのなら、もっともなことです。しかし、今、ここに座っているわたしどもキリスト者が、すべてのものより偉大とは、どういうことか。
実は、この箇所は異なる写本がいくつも存在し、こんにちでも、解釈が定まっていません。2018年に発行された聖書協会共同訳は、29節をこのように訳し直しました。「私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父の手から奪うことはできない。」「神さまが、偉大」こちらの方が、すんなり読むことができると思います。聖書という書物は、元の一つの文章が多くの人々の手によって書き写され、伝えられてきました。従って、写す人のミスであったり、写した人がよく理解できないと感じるところがあれば、そこにその人の解釈が加えられたりしてしまうことが、あったのだと思います。ここは、その典型と言ってもよいところかもしれません。いくつもの異なる写本が存在し、その中でも、ただ今紹介しました二つのパターンが有力とされている。そして、どちらが元の意味を正確に伝えているものなのかが、わからなくなっているのだそうです。しかし、誰もがすんなり読める、納得する言葉とは別の言葉が、あえて残されている。読み継がれ、語り伝えられてきている。そのことはとても大切で、無視してはいけないことなのではないかとわたしは思います。
主イエスは石を持って、自分を打ち殺そうとする人たちを前に、命懸けで、「わたしを信じ、わたしの羊となったものは皆、すべてのものより偉大である」と宣言してくださったのではないかと思うのです。主イエスが、おっしゃってくださる。「わたしへの信仰を告白し、洗礼を受ける者は皆、わたしの羊。あなたは、父なる神がわたしにくださった大切な宝。あなたはすべてのものより偉大であり、誰も、わたしの手から、また父なる神さまの み手から、あなたを奪うことはできないのだ。」と。
今朝の み言葉を読む中で、わたしの心に一つの み言葉が与えられました。テモテへの手紙二 第2章の み言葉です。朗読しますので、そのままお聞きください。「次の言葉は真実です。『わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。』(2:11~13)」
キリストと共に死に、共に生きるようにされた者とは、即ち、主イエスの十字架の死による罪の赦しと、復活による永遠の命の約束を、ただ信じて、洗礼を受けた者のことです。洗礼を授けていただいた者が、神さまの み手から奪われてしまうことは、決して、ないのです。わたしどもはいつも誠実ではいられない者です。わたしどもは挫折します。愛そうとして、赦そうとして、失敗します。しかしそのように主に対して誠実になれないときでも、主にすがって立ち直ることが許されているのです。なぜなら、キリストはいつも真実な方であり、約束を反故(ほご)にしてしまわれることなど、決してない方だからです。洗礼は、わたしどもとキリストを、それほどまでに強く結びつけるのです。主に固く固く結ばれたわたしどもは、誰も奪うことができない者として、生きることが許されている。その主イエスの約束の お言葉をわたしどもは信じ、心に刻んでよいのです。主イエスによって、一つの群れとされた教会に連なるわたしも、今、隣りに座っているこの人も、今日はお休みのあの人も、すでに天に召されたあの人も、皆、すべてのものより偉大なものとしていただいた。たとえ地上の命を神さまにお返しする日がやってきても、決して滅びず、だれも、神さまの手から奪うことができないものとされている。そのことをただ信じてほしいと、言われているのです。
この後、讃美歌527番を共に賛美いたします。「ひるたたえ、よるうたいて なお足らぬをおもう。」常に真実であられる主イエスが、キリストの者としていただいたわたしどもを、「すべてのものより偉大」と言ってくださり、父なる神さまから誰も、何ものも、死すらも、わたしどもを奪うことはできない。主イエスが、そのように約束してくださいました。この お約束をただ信じて、「わがのぞみ、わがいのちは とわに主にあれや。」と賛美し続けることができますように。主の羊として、わたしどもの心に響く主の み声に聞き従い、互いに愛し合い、赦し合い、平和をつくる歩みに、いそしむことができますように。

<祈祷>
天の父なる神さま、わたしどもに み子を お与えてくださり、感謝いたします。み子を わたしの救い主と信じ、信仰を告白し、洗礼を受けるすべての者に永遠の命を与えてくださるという約束を、重ねて感謝いたします。あなたの招きを、呼んでいてくださる み子 主イエスの声を、日々の歩みの中で聞き分け、従い続けることができますように。主イエス・キリストの み名に よって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、あなたの救いの恵みを知らない者がおります。どうか、それらの者に聖霊を注ぎ、教会へと導いてください。とくに、能登半島で被災された方々、望みを失っている者、死の不安を抱えている者に、あなたの み子を信じる信仰を与え、洗礼へと導いてください。今、入院しておられる加藤常昭先生、リハビリに励んでおられる芳賀 力先生、病を患っている兄弟姉妹、手術を控えている者にあなたが寄り添ってください。望みをもって、あなたから与えられる一日一日をあなたと共に生きる者としてください。ガザ地区での争いが続いております。ウクライナでの争いも続いております。ほかにも世界中の至るところで紛争や暴力があり、多くの涙が流されています。主よ、地上に平和がなりますように。み心が行われますように。今日も病のため、寒さのため、痛みを抱えているため、さらにあなたの声を聞き分ける思いが薄れてしまったため、礼拝に出席することの叶わなかった者がおります。それらの者に、わたしどもと等しい祝福と平安を お与えください。どこにいても、何をしていても、主の羊である幸いを、忘れることがありませんように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年2月4日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第55章1節~5節、新約 ヨハネによる福音書 第10章7節~21節
説教題:「主イエスが あなたの羊飼い」
讃美歌:546、53、211、Ⅱ-1、354、545A

能登の震災から1ヶ月が経ちました。報道を通して感じるのは、被災されたすべての方に、今の悲しみ、嘆きを訴えるすべを知って欲しい、み言葉が届いて欲しい、という思いです。知っていれば、少なくとも、「主よ、なぜですか?どうして、わたしにこんなにも厳しい悲しみを与えられるのですか?」と訴えることができます。でも、そうするすべを知らなければ、悲しみ、嘆きは自分に向かうばかりです。「愛する人を救えなかった。わたしだけが生き延びてしまった。」と自分を責めてしまう。テレビに映し出されるその姿に、胸が詰まります。
神さまは今朝、わたしどもに、そして、ここにはおられなくともすべての人に向けて、ヨハネによる福音書 第10章7節から21節の み言葉をお与えくださいました。被災され、打ちひしがれているお一人お一人にも、主イエスの招きが届くようにと祈りつつ、み言葉を心に刻んでいきたいと思います。
先週から第10章に入っておりますが、主イエスとファリサイ派の人々との対話が続いております。主イエスは、「わたしは羊の門である。」とおっしゃいました。加藤常昭先生は、以前この箇所を説教なさったとき、このように語っておられます。「初めは 門については何もおっしゃっていなかった。ただ羊飼いが門を出入(い)りするということだけ語っておられたのに、ここでは『わたしが羊の門である』と言われる。どうしてもそう言いたかった。 なぜかというと私どもを守るためです。また門というのは、はっきりとした道を示すものです。ほかの門ではなくてこの門を通る道 こそ いのちの道だということであります。そしてしかもこの門は守るものです。門が閉じられる時、確かに守られます。」
加藤先生がおっしゃっているように、どうにかして伝えたい、という主イエスのほとばしるような思いが、ここにあるのです。6節に、「彼らはその話が何のことか分からなかった。」とあるように、主イエスの み言葉を聞いても、何を訳のわからないことを話しているのか、と見下すばかりのファリサイ派の人たちにも、どうしても伝えたくて、「わたしは門である。あなたがたにこそ、わたしの言葉が届いてほしい。門であるわたしを通って救われて欲しい。」と、言葉を尽くしておられるのです。
主イエスは続けて、こうもおっしゃいました。11節。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」命を捨てる!たいへんなことが言われています。主が、神の み子が、わたしどもを救うために命を捨てる、とおっしゃっている。ガツンと頭を殴られるような、あるいはそれ以上の衝撃をもって聞くべき言葉です。しかし、もしかしたら、わたしどもはあまりにも、この恵みに慣れっこになってしまっているかもしれません。当たり前のことのように、自分は、命をかけて救っていただく価値のある者であるかのように、錯覚しているのではないか。例えば、わたしどもが「主の祈り」を祈るとき。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」と祈る。いささか古い言い回しなので言いかえますと、「わたしたちに罪を犯した者を わたしたちが赦しましたから、わたしたちの罪を赦してください。」という祈りです。わたしどもは、そのように、祈りの言葉を口にしながら、何だかとても祈りにくいと思いつつ祈っているのではないでしょうか。これは、逆ではないのか。逆ならば祈りやすいのに、と思う。「神さま、あなたがわたしたちの罪を赦してくださったように、わたしたちも、他人(ひと)の罪を赦すことができますように」と祈るほうが、祈りやすいと思っている。その心の中に、わたしどもの傲慢があります。罪がある。神さまがわたしどもを赦してくださることが大前提になってしまっている。赦していただくことが当たり前になってしまっている。しかし、神さまがわたしどもを赦すことは、当たり前のことなのでしょうか。また、わたしどもは自分が他人(ひと)の罪を赦すことなどできなくて当たり前と思っていますが、本当にそうなのでしょうか。そして、そのように自分の傲慢さに気づこうともしないわたしどものために、主イエスが「命を捨てる」とおっしゃったことは、当たり前のことなのでしょうか。主イエスは、わたしどもを、わたしどもの心の中を、よくよく知っておられます。知っておられるのに、いや、知っておられるからこそ、とても放っておけない、迷子のままにしておけない、だから、命を捨てるのだ、とおっしゃるのです。主イエスは14節で、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」とおっしゃいました。聖書において、「知っている」とは、「愛する」ということと同じことを意味します。主イエスは、わたしどもを知っておられる。愛しておられる。傲慢なわたしどもを知っておられるのに、ご自分の命を捨てるほどに、愛していてくださる。大切に思っていてくださるのです。
主は、続けておっしゃいました。16節。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」主は言われます。「その羊をも導かなければならない。」ここで、「ねばならない」と訳されている言葉ですが、マルコによる福音書 第8章に、このような み言葉があります。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後(のち)に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。(8:31)」ここで、「復活することになっている」と訳されている言葉にも、ヨハネによる福音書の「導かなければならない」と同じ言葉が用いられています。ですから、16節は「わたしは、この囲いに入っていないほかの羊をも導くことになっている」と訳すこともできます。導くことになっている。そのように定められている。父なる神さまによって。主イエスが命を捨てて羊を導き守ること、即ち、すでに囲いの中にいる者だけでなく、すべての人を導き守ることは、父なる神さまがお決めになったことであると言われているのです。主イエスは、神さまの命(めい)を受け、十字架で死なれたのです。命を捨てることによって、わたしどもの傲慢を、罪を、バッサリ絶ち切って、ほら、もう切れているよ、あなたたちは自由だよ、もう赦すことができるのだよ、とわたしどもを呼んでおられるのです。わたしの声を聞いてほしい、聞き分けて、ついて来てほしい。わたしが命を捨てたのは、あなたのためなのだから、あなたは、わたしの声を知っているのだ。わたしの声を聞き分けることができるはずだと、呼んでくださっているのです。そのように呼び集められた羊たちの群れ、それが教会です。今、ここに座っているわたしどもは羊たちの群れ。囲いの外から、主イエスに呼ばれて導かれ、門を通って囲いの中へ入れていただき、一つの群れとしていただいて、ここに在るのです。
昨年の秋に特別伝道礼拝で説教を担ってくださいました遠藤勝信(まさのぶ)先生が属しておられる日本同盟基督教団で用いられている聖書は、新改訳聖書ですが、第10章18節は、このように訳されています。「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」新共同訳聖書では、隠れてしまった言葉があることを お気づきになられたと思います。それは、「権威」と訳されている言葉です。「εξουσιαν(エクスシアン)」というギリシア語で、「自由、権威、力」という意味をもつ言葉です。主イエスは、「わたしは、命を奪われるのではない。わたしには父なる神の み心を受けて、命を捨てる権威がある。」とおっしゃっているのです。「力」、「自由」と表現してもよい。主イエスはご自分の命を捨てる力をもっておられる。何ものにも束縛されず、自由に、命を捨てることがおできになる。そしてまた、再び命を受けることがおできになる。その力を、自由を持っておられる。それほどの力あるお方、権威あるお方、自由を持っておられるお方が、わたしどもの群れを導き、わたしどもの羊飼いとして、日々、わたしども一人一人を、心にかけていてくださる。文字どおり命懸けで愛していてくださる。しかも、この権威は、父なる神さまが直接、み子主イエスに命令として与えられたのです。新改訳2017で「命令」、新共同訳では「掟」と訳されていますが、それは、こうでなければいけないと定めることです。主イエスが、羊である わたしどもを救ってくださり、その一人一人の羊飼いになってくださるというのは、父なる神さまが定められたこと、必ず そうでなければいけなくなっていることなのです。16節で「導かなければならない」とおっしゃったように、マルコ福音書で「復活することになっている」とおっしゃったように、父なる神さまが望んでくださり、そうなるように定めて、主イエスを遣わしてくださったのです。
主イエスは、ファリサイ派の人々に十字架の死と三日目の甦りについて、このように語っておられます。17節。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」信仰告白し、洗礼を受けるということは、このお言葉を語られた主イエスと結び合わされ、一つにしていただくということです。一つにしていただくということは、主イエスの捨てられた命と共に死に、主イエスが神さまから受けられた復活の命と共に生きるということです。主イエスとぴったり一つになって、罪人のわたしは死に、復活の命をいただいて、主イエスと共に永遠に生きていく、その「しるし」が洗礼です。主イエスと一つにされているから、「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈れるだろう?祈れるはずだと、主イエスはおっしゃるのです。
けれども、主イエスが神さまのもとから、神さまの命(めい)を受けて、神さまの権威を帯びて世に来られたことを認めたくない人々は、「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。」と言いました。わたしどもはどうでしょうか。さすがに「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。」とは思っていないと言いたい。しかし、もし、心のどこかに、わたしがあの日犯したあの罪は、絶対に赦されない、と疑う心があるとしたら。神さまがどうであろうとわたし自身が赦せないと思う心があるとしたら。また、あの人のわたしに対する態度は何があっても赦せないと思いながら、まるで固いものを飲み込むように「主の祈り」を祈っているのだとしたら。それらの心は、ファリサイ派の人々の心と同じ場所に立っています。
只今から聖餐の祝いに与ります。なぜ毎月聖餐に与るのか。それは、すぐに主イエスの権威を忘れてしまうからです。神の み子主イエスが、このわたしを、罪の鎖から救い出すために命を捨ててくださったことを、当たり前のことのように思ってしまったり、なかったことにしてしまったりするからです。聖餐によって、わたしは羊。主の羊。主に結ばれて、主と共に生きる命に与っている羊。そのことを改めて心に、からだに刻みつけるのです。
主イエスは羊の門です。「あなたたちを守りたい、導きたい、わたしを通って中へ入って来てほしい。互いに赦し合い、愛し合う群れに加わってほしい。」と呼んでおられます。主イエスは良い羊飼いです。「あなたたちは一人残らず、わたしが命を捨てて守ることになっているわたしの羊だ。」とおっしゃっています。わたしどもはそのように呼んでいただいています。主イエスはすでに囲いの中にいる羊も、囲いの外の羊も、呼んでおられます。主イエスの呼んでおられる声を、誰かを呼んでいる声ではなく、このわたしを呼んでくださる声として、聞くことができますように!主イエスの み声が、一人でも多くの人に届きますように!

<祈祷>
天の父なる神さま、あなたの み声を信じる信仰をお与えください。わたしどもが他人(ひと)を赦す自由を得るために、み子が命を捨ててくださったことを、いつも、忘れることがありませんように。この自由を、手離してしまうことがありませんように。み恵みの中に、生き続けることができますように。あなたの愛を知らず、傷ついている羊を聖霊の働きによって、あなたの門の中へ導いてください。主の み声を届けるために、どうか、わたしどもを用いてください。主イエス・キリストの み名に よって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、能登半島地震から1ヶ月が経ちました。良い羊飼いを知らないために、すべての嘆きを自分に向け、自分を責め続けている者がおります。あなたの愛で包んでください。慰めを与えてください。被災地の教会を強め、励まし、そして用いてください。共に礼拝をささげておりました加藤常昭先生が入院しておられます。芳賀 力先生も、なおリハビリを続けておられます。また、今日も様々な事情により礼拝出席が叶わない者がおります。主よ、あなたがまなざしを注ぎ、慰め、励ましてください。離れていても、わたしどもは主によって一つの群れであることを、信じさせてください。世界の各地に争いがあります。多くの人たちが苦しみ、嘆いています。その嘆きをあなたが、あなたの み子がすべてご存知であり、いつの日か必ず嘆きを喜びへ変えてくださると信じます。すべての人が主にある望みに生きることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年1月28日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第34章11節~14節、新約 ヨハネによる福音書 第10章1節~6節
説教題:「主イエスの声が聞こえるか」
讃美歌:546、19、Ⅱ-83、448、544

 さきほど、讃美歌 第2編83番『呼ばれています』をご一緒に歌いました。これまで、歌ったことがない方もおられたかもしれません。今朝の み言葉から思い浮かんだのが、この『呼ばれています』でした。「呼ばれています いつも、聞こえていますか いつも。」歌詞とメロディーが、静かにわたしどもの心に迫ってくる、そんな思いが致します。わたしども一人一人を呼ぶ主イエスの声がいつも心に響いているかと、この讃美歌は問いかけます。わたしどもの心の中は、いつも静かという訳にはいきません。雑音が入ってくる日があります。いろんな声が聞こえてくるときもあります。そういうとき、うっかり雑音に気を取られないように、耳障りのよい誘惑の声についていかないように。人から何かされたら、やり返したくなる、そんな自分の欲望の声にも、耳を貸さないように。キリストの声だけに耳をすます。日々の暮らしの中で、いつでも、どこでも、み声を聞き取って生きていく。そのために、今朝も み言葉が備えられています。
 今日からヨハネによる福音書 第10章に入ります。第10章に入り、場面や内容が変わるかというと、そうではありません。第9章で、主イエスによって目を見えるようにしていただいた人を追い出してしまったファリサイ派と、主イエスとの間の議論が展開していきます。ファリサイ派の人々は、先週もお話しいたしましたが、非常に真面目に神さまを礼拝し、古くからの掟の道を究めようと日々努力をしていた人々です。当時さまざまな掟が定められていましたが、それらの掟の根本にありますのは、わたしどもも主の日の礼拝において唱えている十戒です。わたしどもも、十戒を唱えて、一週間の歩みの一歩を踏み出します。
しかし、気をつけなくてはならないのは、十戒は、わたしどもを縛る規則ではないということです。礼拝のしおり10頁のはじめには、こう書かれています。「※私たちはこの十戒を、私たちを縛る戒律としてではなく、福音の自由に主と共に生きる、神の招きとして受け止め、唱和します。」わたしたちは神さまのもの。神さま以外のものにはついていきません。神さまに従って生きていく。その生活は、敵対する者にやり返したり、むやみに恐れて相手を殺そうとする必要などありません。人のものを欲しがったり、盗みとったりする必要もない。わたしどもを守り、必要を満たしていてくださる神が、わたしどもの神さまなのですから。その信頼に立つとき、わたしどもの耳に聞こえてくる呼び声は、クリアなものとなります。雑音や、ほかのものの声がしていても、ラジオの周波数がピタリと合ったときのように、飼い主の声だけが、スパーンと、クリアに、聞こえるのです。主イエス・キリストの父なる神が、わたしの神さま。その信頼が、わたしどもの耳の周波数を、主の声に合わせるのです。
ファリサイ派の人々は、自分たちは、「よい耳」を持っていると信じていました。だから、よい耳を持たない民衆を率い、導くのが使命であると勝手に思っていました。いろんな雑音の中で、「我々は耳がよいのだから」と、自分の耳を信頼し、周波数が合わないままで一所懸命に神さまの み声を聴き取ろうとし、また聴き取っているつもり。そんな状態であったかもしれません。その彼らに、主イエスは、羊の囲いの譬え話をなさいました。わたしどもは残念ながら、当時の羊飼いの仕事をよく知りません。それでも主イエスがここで丁寧に話してくださっていますから、イメージすることはできます。
囲いがあります。狼などの外敵から襲われないように、柵で囲われた牧場でありましょう。羊飼いたちが共同経営していた牧場かもしれません。その囲いに、1ヶ所だけ門がある。門には常に門番がいて、悪い者が侵入し、大切な羊を盗んでいってしまわないように見張っています。門番が、知らない者に対して門を開けることは決してありません。朝、夜が明ける頃、羊飼いたちがやって来て、自分の羊の名前を一匹一匹呼びます。羊の方でも自分の飼い主の声がわかっていて、羊飼いのところへ飛んでいきます。すべての羊が揃ったところで、羊飼いは先頭に立って、歩き始めます。あとから羊がぞろぞろメェメェついていく。おいしい草がたくさん生えている場所まで、羊飼いが連れて行ってくれる。そして夕方になると、また囲いの門へと戻ってくるのです。
主イエスがなさったお話ですから、大切なメッセージが隠れています。羊飼いと羊の関係に譬えて、ファリサイ派の人々にメッセージを伝えようとしておられるのです。ですから、この話には、ファリサイ派の人々も、何かに譬えられて、登場しています。それは、門を通らないでやってくる者たちです。彼らは、門を通らないで柵を乗り越えてやって来て、羊を連れ出そうとします。門番の許可を得ずに強引に侵入する。そして、羊たちを自分たちの思いのままに間違った方向に連れて行こうとする。けれども、羊は、ついて行かない。その声を聞いても逃げ去るのです。
第9章を思い出してみましょう。主イエスによって、目を見えるようにしていただいた男は、ファリサイ派から厳しい尋問を受けました。「お前の目を見えるようにした人物は、律法に従わない罪人であることを認めろ」と、答えを強要されたのです。しかし彼は、「あの方は、神のもとから来られた方に違いない。」と証言し続けました。ファリサイ派に従うことを、明確に拒んだのです。主イエスの譬え話の中で、羊飼いの声と盗人の声をちゃんと聞き分けて、盗人から逃げ去った羊の姿が重なります。
3節を読みますと、「羊はその声を聞き分ける。」とあります。どうして羊は、羊飼いの声をちゃんと聞き分けることができるのでしょうか。それは、羊飼いが、はるか遠くから呼んでいるのではなく、ちゃんと迎えに来てくれて、一匹一匹名前を呼んでくれるから。そして、羊の方でも、羊飼いを信頼しているからです。
主イエスは、目の見えない男を見つめてくださり、地面にかがみ込んで、手を泥で汚しながら、見えない目に塗って、見えるようにしてくださいました。さきほどの讃美歌では「はるかな とおい声だから」と歌いましたが、神さまは、高く、遠いところにおられるだけではありませんでした。主イエスは、高く、遠いところにおられたのに、わたしどものところに降りてきてくださいました。クリスマスの夜、家畜小屋に生まれてくださり、わたしどもの罪をすべて赦すために、十字架で死んでくださった。さらに、三日目の朝、死に勝利してくださった。そして今日も、愛をもってわたしどもに語りかけてくださいます。「あなたがたは、わたしの愛する大切な羊。わたしは、あなたがたの名前を呼んでいる。毎日呼んでいる。わたしは、絶対にあなたがたを見捨てない。だから、わたしを信頼し、わたしの声を聞き続けなさい。」
 けれども、ファリサイ派の人々は、主イエスの譬えが何のことか全く分かりませんでした。何度も申し上げているように、ファリサイ派は、神さまを信じ、真面目に生きようとした人々です。それなのに、手を泥だらけにしながら、目の見えない男を癒された主イエスの お姿の中に、神さまの存在を見ることができませんでした。主イエスの声に、神さまの声を聴きとることができませんでした。主イエスが、すべての者をご自分の羊として愛し、赦し、救い、導こうとしておられることがまったく分からなかった。このあと、主イエスが「わたしは良い羊飼いである。」と語られても、自分たちこそが民を正しく導く者であると言って、まことの羊飼いを十字架に磔にし、殺してしまいました。最後まで、主イエスに信頼することができなかったのです。
今日は、ヨハネによる福音書に加え、旧約聖書 エゼキエル書 第34章を朗読して頂きました。冒頭には、「イスラエルの牧者」と小見出しがついております。エゼキエルは預言しました。11節。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。」
神さまは、主イエスを十字架の死から甦らせ、エゼキエルの預言を成就してくださいました。そして今、主イエスがご自分の羊を呼ぶ声は、すべての者に向けられています。わたしどもは羊です。まことの羊飼い、主イエスの羊です。わたしどもは皆、一人残らず、主イエスの尊い命と引き換えに罪を赦していただいたから、神さまの み前に立つことができます。主イエスが、その命をかけて、羊飼いのようにわたしどもを率い、神さまのもとへと連れていってくださるのです。主イエスは、わたしどもの痛みも、弱さもすべて知っておられます。主イエスだけが、父なる神さまの み国へ、平安の中へ、導いてくださいます。ただ主イエスに信頼し、主イエスの み声に導かれるままに、主なる神を愛し、隣り人を愛し、敵をも思いやり、慈しむ道を歩み続けてゆく者でありたい。心から願います。

<祈祷>
天の父なる神さま、「わたしは良い羊飼いである」と、おっしゃってくださるその み声を、耳元ではっきり聞かせていただける幸いを、心から感謝いたします。日々、主イエスに信頼し、み声を聞き、従い続ける者としてください。主イエス・キリストの み名に よって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。能登半島地震から約1ヶ月となります。愛する人を失った者がおります。住み慣れた地から離れるべきか、とどまるべきか、身を切られるような選択を迫られている者がおります。不安の中で受験を控えている者がおります。主よ、あなたの励ましと慰めを与えてください。突然の試練によって、あなたのみ声を受け入れることのできない者の耳を開いてください。あなたの声に力を受け、「主よ、信じます」と信仰を告白する日が与えられますよう聖霊を注ぎ続けてください。被災地にある教会を強め、励まし、用いてください。世界の各地で争いが続いております。国を導く者の耳を開いてください。あなたの愛と赦しの声を聞き、共に愛し合い、共に赦し合う心へ変えてください。主よ、今日もあなたを慕いつつ、病のため、寒さのため、痛みを抱えているため、仕事のため、礼拝に来ることのできない仲間がおります。主よ、それぞれの場にあって、祝福と平安をお与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年1月21日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第13章1節~9節、新約 ヨハネによる福音書 第9章35節~41節
説教題:「主イエスが導いてくださるから」
讃美歌:546、6、240、529、543

わたしどもは今朝、主イエスに導かれ、礼拝へと招かれました。本日ご一緒に読んでまいります み言葉の中に、「ひざまずく」と訳されている言葉があります。この言葉はしばしば「礼拝する」とも訳されます。主イエスの十字架の死によって罪を赦され、わたしどもの心は今、神さまの み前にひざまずいています。
1月7日の新年礼拝からヨハネによる福音書第9章を読み始め、今日で読み終えます。生まれつき目の見えない人に主イエスが目を注いでくださり、唾で土をこねてその人の目にお塗りになられた。そして、その人がシロアムの池で洗うと目が開かれ、見えるようになったことを読んでまいりました。その後、その人は、ファリサイ派の人々、ユダヤ人たちから繰り返し尋問され、それを通して、主イエスへの信仰が強められた。けれども、そのためにファリサイ派の人々、ユダヤ人たちの反感を買い、外に追い出されてしまいました。
34節。「彼らは、『お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか』と言い返し、彼を外に追い出した。」「外に追い出した。」とは、具体的には、「神殿の外に追い出した。」ということでしょう。ユダヤ人にとって神殿への出入りを禁じられることは、もうそのコミュニティの中で生きていくことができないということであり、「お前は神の民ではない」とジャッジされ、神の救いからの脱落を宣言されることでした。しかし彼は、宗教的に、また社会的にも権威ある人々からどんなに脅されても、親から見放されても、社会から追放されても、「わたしの目を開いてくださったのは、罪ある人間ではない。神さまのもとから来られた方だ」と証言し続けました。主イエスが肉体の目だけではなく、心の目をも、開いてくださったのです。シロアムの池の水で目を洗い、暗闇だったところに、初めて光が射し、明るくなり、「見える」ということがどういうことかを生まれて初めて知った喜びと同じように、開かれた心の目で見た真実は、どんなひどい目にあったとしても、とうてい否定などできない、明るい希望の光だったのです。これを否定することは、もとの暗闇に戻ってしまうのと同じ。そんな思いだったかもしれません。そして、生まれて初めて知った真実の光を手放さなかったために、親にも見放されてひとりぼっちになってしまったそのときに、主イエスが、出会ってくださったのです。そして、尋ねられました。「あなたは人の子を信じるか」。 
「人の子」とは、主イエスが ご自身を表すときに用いられた言葉ですが、ヨハネによる福音書においては、わたしどもと同じ人間であると同時に、神の救いそのものである救い主を表す言葉として用いられています。当時の人びとが待望していたメシア(救い主)は、そのような存在でした。人間の姿で現れる神の救い。そのような「人の子」を、「あなたは信じたいと思うか?」、「信じてみないか?」そのように、主イエスは救いの中へと招かれたのです。
彼は答えました。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」「主よ(キュリエ)」という言葉に、主イエスに対する信頼の心が現れています。すると、主は言われました。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼は、「主よ、信じます」と言って、ひざまずきました。
「ひざまずく」と訳された言葉は、「礼拝する」とも訳すことができると冒頭で申しました。群馬県草津町にあります、ハンセン病療養所の中に聖慰主(せいなぐさめぬし)教会という聖公会の教会があります。畳敷きの礼拝堂で、そこで実際にひざまずく礼拝を初めて経験しました。見よう見まねでひざまずき、手を合わせ、祈り、聖餐の祝いはひざまずいたまま、前の方ににじり寄り、聖餐に与り、またそのままの姿勢、つまり、ひざまずいたまま元の場所へ戻りました。わたしは初めてのことに戸惑いながら、小さい子どもになったような、「こっちへおいで」と呼ばれてよちよち歩いていく、そんな嬉しさを感じていました。得難い経験でありました。
わたしどもの礼拝では、具体的にひざまずくことはありません。それでも、心はひざまずいています。わたしどもの心がひざまずいていないなら、礼拝は成り立ちません。神さまの み前に、主イエスの み前に自分を小さく、低くし、ひざまずいて祈る。その姿勢は、わたしどもがひとりで、自分の信念や、自分の義(ただ)しさを貫いて、守り通す、そのようなものではありません。生まれつき目が見えず、見えるようにしていただいた この人が尋問を受けている間も、外に追い出されたときも、そこに主イエスの お姿はありませんでした。けれども、その間も、主イエスはこの人をじっと見つめ、支えておられたに違いありません。だから、出会ってくださった。35節で「出会う」と訳された言葉は「見た」という言葉です。彼が追放されたことを聞いて、彼を見つけてくださった。そして、その眼差しで包んでくださった。さらに「信じてごらん」と招いてくださった。「わたしの救いが、ここにある」と信仰を告白するまで、主イエスが、導いてくださったのです。わたしどもも皆、同じではないでしょうか。主イエスの十字架によって、すべての罪を赦していただき、心の目を開いていただいて、支え、導いていただき、主の眼差しの中で ひとりぼっちではなかったことを知り、「信じるか?信じてごらん」と招いていただいて、信仰を告白し、今ここに、主の み前に、ひざまずいているのです。
主イエスは、彼の信仰告白の言葉を聞き、ひざまずく姿をご覧になっておっしゃいました。39節。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」「裁く」と訳されている言葉は、もともとは「切れ目を入れる」、「分け目を入れる」、という意味だそうです。線を引くのです。はじめから見える人と見えない人がいて、白黒はっきりと分かれているのではなく、混ざっている。そこへ線を引く、というと、普通はこのように考えるかもしれません。混ざっているところへ線を引き、「はい、あなたは見えるから右へ。あなたは見えないから左へ行きなさい」。しかし、そうではない。主イエスの裁きは、そういう線引きではない。混ざっているところに、線が引かれる。そのとき、人間が思ってもみなかった事件が起こるのです。「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」主イエスの登場によって、闇の中でうずくまっていた者に光が与えられ、明るい光の中を堂々と歩いていると思っていた者が、実は真実が見えていなかったことが明らかになる。それまでの価値がひっくり返る。義しいと思っていたことがひっくり返る。大事件です。
主イエスは、「自分たちの信仰こそ、完全な信仰。」と信じていたファリサイ派の人々に言われました。41節。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」わたしどもは、ファリサイ派というと、主イエスを十字架で殺した一派と理解してしまいます。けれども、それはあまりにも短絡的です。ファリサイ派は、真剣に救いを求め、モーセの戒めを大切に生きていた人々です。義しい生き方、神さまから誉めていただける生き方を追及して一所懸命、清く正しくあろうとした。しかし、その思いはキリストを必要としなくなっていました。自分たちは清く正しいと思い込んでいますから、救い主など来なくてよい。むしろ邪魔になってしまっていたのです。神の救いを見る目を曇らせてしまった。だから神さまの前に義しいことと信じて、胸を張って、主イエスを殺したのです。真実が見えているつもりで見えていない。そのままでは、あなたたちは罪の中に取り残されてしまうと主は言われます。愛を持って、「そのままでいてはダメだ。それでは、あなたたちの罪は赦されずに残ってしまう」と警告されたのです。
では、ここで、「見えない」と認めていれば、罪にならなかったのか?というと、そうではありません。「見えない」ということは神が見えていないということ、それは、罪です。しかし、そこで主イエスの言葉を聴かせていただき、光をいただき、真実を、神さまの愛を、主イエスの お姿を見せていただき、招いていただく。事件が起こる。救いが起こる。そのとき、救いを受け入れるのか否か。感謝し、ひざまずくことができるのか否か。そこにかかっています。主イエスによって、裁きの線は引かれました。しかし、この線はさきほど申しましたようにわたしどもを分けて追い出す線ではありません。線が引かれるそこで、事件が起こる。奇跡が起るのです。主イエスは、ファリサイ派の人々の心の目をも開こうとしておられる。わたしには、そう思えます。
わたしどももまた、真面目に生きようとすればするほど、ファリサイ派の人びとと同じ過ちを犯してしまう者です。主イエスに目を開いていただき、信仰を与えていただき、救っていただいたその瞬間から、もう、ひざまずく自分がひとかどの者のように思えてくる。真実が見えている目覚めた人間だと勘違いしてしまう。主イエスに導かれ、救っていただいただけにすぎないのに。それほどに、わたしどもは罪深い。いみじくもファリサイ派が34節で言っているように「全く罪の中に生まれた者」以外の何者でもありません。しかしそのような者だからこそ、主イエスの十字架がなくてはならなかったのです。神の み子の命でなければ、救われないほどに、どうしようもないわたしどもであることは、わたしども人間の戦いの歴史、今も続く争いの現実が証明しています。そこまでしなくとも、自分自身の心の奥を覗き込めば一目瞭然です。自分の思うようにしてくれない近しい他者(ひと)に腹を立てたり、自分は義しいと胸を張って、あの人はよい人、あの人はダメ、とジャッジしたりするわたしどもは、いったい何者でしょうか。しかし、何度も言います。そのようなわたしどものために、主が天からいらしてくださいました。命を捨ててくださいました。神さまの み心に従って真実の線を引いて、人間が勝手に引いた線によってつくり上げた世界をひっくり返す、奇跡を行ってくださいました。そして「この奇跡の中へおいで」と、わたしどもすべての者を呼んでおられます。神さまは、諦めておられないのです。
 この後、ご一緒に賛美する讃美歌は皆さんもお好きな讃美歌ではないでしょうか。わたしも大好きな讃美歌です。メロディーも素敵ですが、歌詞が心に深く響くのです。信仰を告白し、洗礼を受ける者の心が歌われていると思います。救われた者に見えるのは、3節の歌詞「われもなく、世もなく、ただ主のみいませり」。主イエスの十字架によって罪を赦され、主イエスの甦りによって、永遠の命が与えられて、ただ主に手を引かれ、支えられて、主イエスだけが見える。その幸いの中で、ひざまずき、主イエスだけを仰ぎ見て歌うのです。「うたわでや あるべき、すくわれし身のさち、たたえでや あるべき、みすくいのかしこさ」と。共に、目を開いていただいた喜びに満たされて、主の み前にひざまずき、主の み心が実現することを信じて、主に従い歩む者でありたい。

<祈祷>
天の父なる御神、真実にあなたの み前にひざまずく者としてください。み子の死によって罪を赦していただき、み子の甦りによって永遠の命を与えていただいた恵みを感謝いたします。罪を赦していただいた者として、永遠の命を与えていただいた者として、み心を行う者としてください。主イエス・キリストの み名に よって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、能登の地で被災された方々を慰め、励ましてください。被災された方々を支えている方々を支えてください。愛する者を失い厳しい痛みを抱えているひとがいます。これからどうやって生きていけばよいかと途方に暮れているひとがいます。どうか、あなたのおそばに招き寄せ、励ましてください。慰めてください。被災地で礼拝をささげている兄弟姉妹がおります。礼拝堂を用いることができず、避難所の廊下でささげられている礼拝があると聞いています。けれども主よ、どこにあってもあなたが共にいてくださいます。それぞれの場所で礼拝をささげている仲間たちを強め、励ましてください。わたしどもを支える者として用いてください。今日も礼拝を慕いつつ、様々な理由によって、礼拝を欠席している兄弟姉妹がおります。主よ、その場にあって、わたしどもと等しい祝福をお与えください。至る所で続いている争いにより嘆きの中にある者を慰めてください。一日も早く争いを終結へと導いてください。各国の指導者の目を開き、それぞれの正義によって相手を裁くのではなく、互いに愛し合い、赦し合う関係を構築していくことができますよう、導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年1月14日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ホセア書 第11章1節~9節、新約 ヨハネによる福音書 第9章13節~34節
説教題:「信仰の成長」
讃美歌:546、8、277、Ⅱ-167、542、427

 信仰とは何でしょうか。わたしが神学生のとき、修士論文の指導をしてくださった近藤勝彦先生の著書『癒しと信仰』には、このように書かれています。「信仰とは何でしょうか。それは、主イエスの中に働いている恵みの力を『わがものとして感じ取る能力』だと言ってよいと思います。(中略)信仰は、そのようにされる資格も能力もないのに、にもかかわらず、恵みの力を受け取ること、癒しの力に捉えられることです。(中略)自分はふさわしくない、自分には価値がない、しかしその価値なき状態にもかかわらず、それを越えて生かされること、赦され、癒されたことを受け取ること、それが信仰です。そしてそれは聖霊によるのです。」
今朝、わたしどもに与えられたのは、ヨハネによる福音書 第9章13節から34節の み言葉となりました。長い箇所を朗読して頂きました。途中で切って、2回に分けて説教することも考えましたが、生まれつき目の見えなかった男が、主イエスに癒していただいて、変化していく。彼が、自分におこった救いの出来事の確かさに気づき、信仰が形づくられていったプロセスを、ひと息に読んでみたいと思いました。
生まれつき目の見えない人がいました。まさか自分の目が開かれるとは、まったく予想していないし、そもそも見えるとか、明るいとかが、どういうことなのかも知らなかった。しかしある日、話し声が近づいてきました。そして突然、一度も開かれたことのない瞼(まぶた)に、何かが塗られる ひんやりとした感覚を味わったのです。そして、声が聞こえました。「シロアムの池に行って洗いなさい」。
盲人は何が何だかわかりません。けれども、彼はシロアムの池に行ったのです。なぜでしょう。わけがわからないなりに、何かを感じたのだと思います。近藤先生の言葉を借りるなら、聖霊が働いたとしか思えません。そうでなければ、「わざわざ行って何になる。みんなから馬鹿にされるだけだ。」そう思ったかもしれません。しかし、言われた通りにしてみることにしました。よくわからないがイエスという名前であるらしい方を信用してみることにした。聖霊の力によって、この人の中に、信仰の種が蒔かれ、小さなふたばが芽生えたのです。その意味で、池に向かって歩き始めた時、すでに救いの出来事は起こり始めていました。男の中に信仰が芽生えたのです。池の水で目を洗い、目が見えるようになって戻ってきた男を見て、周囲の人々は驚き、不思議がりました。男は人々に証言しました。「イエスという方が、土をこねて わたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」「イエスという方」と答えているように、主イエスに対する感謝の思いを抱きながらも、主イエスが自分にとってどのようなお方なのかは、この時点ではまだわかっていなかったと思います。
 さて、目の見えるようになった男は、人々によって、ファリサイ派の人々のところに連れて行かれました。「ファリサイ派」とは、「分離」という意味の言葉から生まれた言葉です。日本語にすれば「分離派」となるでしょう。我々は、他の人々とは違う。清貧を心がけ、祈りを重んじ、律法を重んじ、一点の曇りもない清く、正しい生活をしている。そうやって真面目に生きていた人々です。彼らの考える信仰は、自分たちを汚(けが)れから分離し、清く保つことであり、その行いによって神に「善し」としていただけると信じていたのです。
14節に、「イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。」とわざわざ書かれています。ユダヤ教の信仰の決まりで、安息日には、いかなる労働もしてはならないことになっていました。決まりを重んじるファリサイ派の人々にとって、土をこねたり、病を癒やしたりする行為は、短い時間でも立派な労働であり、許されないことであったのです。
 けれども、ファリサイ派の人々の中にも、冷静な判断のできる人がいたようです。「安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者がいる一方、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいました。しかし、安息日でも癒しを行うイエスを認めてしまったら、今までファリサイ派が厳格に守り、人々に教えてきたことが間違っていたことになってしまいます。ファリサイ派に聞けば何でも明解。はっきりわかる。そう思っていた人々は戸惑いました。そして、盲人であった男に再び尋ねました。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は言いました。「あの方は預言者です」。預言者。神さまから言葉を預かり、人々を諭し、励ます、神さまから選ばれた大切な働き手です。「わたしの目を開いてくださったイエスという方は、イザヤのような預言者、エレミヤのような預言者に違いない。」そんなイメージを抱いたのかもしれません。
 しかし、ユダヤ人たちは目が見えるようになった男の言葉を信じない。いや、信じたくない。そんなことをすれば、自分たちの立場が危うくなると脅えているのです。そこでこんどは、男の親を呼びつけ、尋問しました。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」愛の無い言葉です。生まれつき目の見えなかった息子が、何と見えるようになったのです。「よかった。息子さん、目が見えるようになったのですね。」と一緒に喜べたら、どんなによかったことかと思います。けれども神さまのわざが現れたことを喜ぶことができなかった。神さまを見失い、主イエスをねたみ、自分たちの立場が脅かされることを恐れたのです。
自分の立場を守るために、真実を隠してしまう思いは、目が見えるようになった息子の両親も例外ではありませんでした。両親は、このように答えました。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開(あ)けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」聖書にも書いてあるように、ユダヤ人たちは既に、「イエスをメシアである」と公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていました。要するに村八分です。明るい場所を歩けない。社会からのけ者にされてしまう。両親は恐れていました。ファリサイ派の人々、社会的に権威を持っている人々が、イエスに対して明らかに殺意を抱いている。余計な証言をしたら、息子だけでなく、自分たちまで追い出されてしまう。そこで、息子に丸投げしたのです。はっきり言ってしまえば、自分たちの生活を守るために息子を捨てた。両親を責めることは簡単です。しかし、人間にとって、自分の生活している社会の中から締め出されることほど、おそろしいことがあるでしょうか。この両親の立場であったなら、息子を守りきることができるだろうか。息子を信じて、一緒に闘うことができるだろうか。せめ立てるユダヤ人たちと一緒になって、イエスを殺す側に立ってしまうのではないだろうか。似たような局面は、わたしどもにも訪れることがあります。悪口に同意を求められる。パワハラや、いじめに気づいても止めることができない。仕方なかった。そうするしかなかったのだと言い訳をして主イエスを殺す側につくのか。それとも心の中に響いている主の み声を聞き取って従うのか。決して他人事ではありません。これは、わたしども、ひとりひとりの問題です。
さて、自分たちの信じる掟に従わないイエスを一刻も早く罪人として抹殺しなければ!と鼻息を荒くしているユダヤ人たちは、もう一度、盲人であった男を呼び出しました。しかし、神さまは、そのような試練をも用いて、男の信仰を鍛え、成長させてくださったのです。キリストに従うか、キリストを殺す側にまわるかの局面で、一緒に苦しんでくださる方がいる。一人ではなかった。キリストが共にいてくださる。その お姿を、見ることができた。頼ることができた。恵みの力を、受けるにふさわしくないのに、悪魔に対抗する力をいただけたのです。
ユダヤ人たちは、再び問いただしました。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」「お前の返答次第では、お前も罪人だ」と脅したのです。質問していながら、ひとつの答えしか認めていない。ここで、「神の前で正直に答えなさい。」と訳されている元の言葉は、「神に栄光を帰しなさい」という意味の言葉です。彼はすでに何度も「わたしの目をイエスという預言者であろう お方が開いてくださいました」と証言しています。この証言こそ、神に栄光を帰しているのに、その証言を撤回させようとしている。偽りの証言によって、神に栄光を帰しなさいと命じている。もうめちゃくちゃです。それでも、その場の空気を読むなら、「これ以上 抵抗しない方がいいな。せっかく見えるようになったんだ。イエスという方は、どこにおられるのかわらかない。適当にユダヤ人たちが求める通りの答えをして、解放してもらい、両親のもとに帰り、人生を楽しもう」と思ってもよいところです。
しかし、彼の心に芽生えた信仰は、恵みの力をいただいて、音を立てるようにグングンと成長していくのです。神さまによって。聖霊の働きによって。もうこの喜びを消すことはできない。誤魔化すこともできない。男は、さらに大きな声で、開かれた目で、まっすぐにユダヤ人たちの目を見て、こう答えました。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
ユダヤ人たちも負けていません。いや、すでに完敗しているが、負けを認めたくない。だからしつこく、ねちっこく、何度も何度も同じ質問を繰り返すのです。「あの者は お前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開(あ)けたのか。」目の見えるようになった男は、声のトーンが明らかに上がったに違いありません。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」
この場面に主イエスは登場しません。また、この人も主イエスを直接見たことはありませんでした。それでも、彼の開かれた目は、はっきりと主イエスを見ている。救い主を見ているのです。そして、「わたしは、あの方、イエスという方の弟子だ。」と、自分でも知らないうちにそう言っていたのです。「あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。わたしは、イエスという人に癒された。誰からも見捨てられていたわたしを、あの方は救ってくださった。誰が何と言おうと、わたしは、あの方について行きます。」そんな勢いを感じる言葉です。
これを聞いたユダヤ人たちは逆上し、男をののしって言いました。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」先ほどまで目が見えず、物乞いをし、ユダヤ人たちに見向きもされていなかった男が、主イエスによって目を開かれ、聖霊の働きによって力をいただいて、主の弟子として、権力者の圧力をものともせず堂々と神の栄光を現している。それなのに、そのことを認めたくないユダヤ人たちは、モーセの弟子として、十戒を完璧に守っている自負と共に、今度は「あの者がどこから来たのかは知らない。」と逃げに入っている姿は滑稽にも映ります。
男は、ひるまず答えました。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開(あ)けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開(あ)けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」小兵の関取が、からだの大きな関取を鮮やかな決まり手で倒したような、信仰告白の言葉です。
ノックアウトされたユダヤ人たちは捨てゼリフを吐きました。「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」そして、言葉で完敗したので、実力行使に出ました。男を外に追い出してしまいました。しかしそこで、主イエスが出会ってくださるのです。その場面は、来週、ご一緒に読んでまいりましょう。
最初は「イエスという方が」と呼んでいた男が、「イエスさまが、神のもとから来られたのでなければ、わたしの目を開くことなどできるわけがない。」と主イエスを心から信頼し、主イエスへの信仰を告白するに到りました。わたしどもも皆、このようにして信仰を成長させて頂いています。これからも試練があるかもしれません。痛みがあるかもしれません。けれども、何があっても、それらの出来事をも用いて信仰を成長させてくださる神さまに信頼し、与えられる一日、一日を主と共に歩んでいきたい。心から願います。

<祈祷>
天の父なる神さま、何ものでもない わたしどもに、信仰をお与えくださり、感謝いたします。どうか、わたしどもの信仰を日々、成長させてください。主イエスの中に働いている恵みの力を『わがものとして感じ取る能力』を聖霊の み力によって磨き、強めてください。主イエス・キリストの み名に よって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、被災された方々、被災された諸教会、教会に連なる方々を守り、慰め、導いてください。生きる望みを失っている人がいるなら、どうか、そばにいてください。平安を与えてください。そして、悲しみ、痛み、試練を越えて、あなたを完全に頼る信仰に生きる者をひとりでも多く、み救いの中に入れてください。今日も礼拝を慕いつつ、入院しているため、体調を崩しているため、高齢のため、家族への介護があるため、仕事のため、様々な理由のため、礼拝を欠席している仲間が多くおります。主よ、そのひとり、ひとりに、わたしどもと等しい祝福を注いでください。今も世界各地で続いている争いを、どうか終結へと導いてください。お互いが お互いの違いを認め、相手の声に耳を傾け、励まし合って平和をつくっていくことができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2024年1月7日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第66章10節~14節、新約 ヨハネによる福音書 第9章1節~12節
説教題:「因果応報の鎖からの解放」
讃美歌:546、1、411、21-81、309、541

新しい年が明けました。「心新たに、新しい年を歩んでいこう」と思っていた矢先の元日の夕方、長い揺れを感じました。あわてて確認すると、能登半島で大地震が発生したことを知りました。何日か経って、少しずつ被害の状況が明らかになるにつれ、心が痛み、重くなっていきます。中部教区ホームページの情報によると、輪島教会では、幸い死傷者はなかったものの、自宅が全壊してしまった教会員がおられるようです。礼拝堂の窓ガラスは割れ、壁も大きく損傷しており、本日の礼拝は、牧師館で守る準備をしている、とのことでした。しかし、その牧師館も、隣りの家が倒壊して壁を突き破ったために、大きな穴があいてしまっているとのこと。周辺の道路も、地割れがあるようです。被災された方々に心を寄せ、思いを尽くし、祈りを集め、支えていきたいと願っています。主の慰めと平安がありますように!
このようなことが起こりますと、往々にしてわたしどもは、原因と結果を結び付けて理解しようとしてしまいがちです。「何の因果で、こんなことになってしまったのか。呪われているかもしれない。」そのような思いが頭をよぎる。天災に限りません。病気や、事故なども、そうです。「因果応報」という言葉があります。なぜ。どうして。「わたしに原因があるのか、先祖に原因があるのではないか」そう考えてしまう。「不幸が続くのは、あなた自身のせい。」そう言って、苦しんでいる人をさらに苦しめる。このような考えは、主イエスが登場した聖書の時代にもあったようです。しかし、主イエスは、このような考え方に、はっきりと、「それは違う」と、おっしゃいました。
今日から、ヨハネによる福音書 第9章に入ります。ここに、生まれつき目の見えない人が登場します。主イエスは、通りすがりに、その人を見かけられました。弟子たちは、主イエスに尋ねました。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」弟子たちはいたって真面目です。家族から見捨てられ、物乞いをして日々の生活を続けなければならない哀れな人。そのような人は本人、もしくは両親が罪を犯した報いを受けている、という考えは、弟子たちだけでなく、当時の人々を縛っていたのです。ですから主イエスの答えは、弟子たちにとって、驚くべき言葉でした。3節。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業(わざ)がこの人に現れるためである。」
この み言葉に触れるたびに、わたしの心に浮かぶ二人のキリスト者がおります。一人は、これまでも何度か紹介したことのある元ハンセン病患者で詩人の桜井哲夫さんです。群馬県草津町の療養所を訪問するたびに、このように語ってくださいました。「わたしの本名は長峰利造。青森県津軽の りんご農家に生まれ育った。けれども、17歳で発症したため、ふるさとから遠く離れた土地で、何もかも、名前さえも奪われ、桜井哲夫として生きることになった。つらいことがたくさんあった。でも、そのすべてが神からのギフトなんだ。『らい』になったから、キリストに出会えた。あなたにも会えたんだ。」その言葉に、ハッ!としました。当時、上司のパワハラに悩み、「どうして、自分ばかりがこんな目にあうのか」と下を向いて呟いていたわたしの目は、今、思い返すと、神さまを見失っていました。そのようなわたしに神さまは、ハンセン病の後遺症によって、両目の眼球を失った桜井さんとの出会いを与えてくださり、その生きざまを通して、神さまの み業を見せてくださったのです。
主イエスは続けておっしゃいました。4節。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」主イエスは「わたしは」ではなく、「わたしたちは」とおっしゃいました。伝道の業、救いの業に弟子たちを巻き込もうとしておられます。わたしと共に、神さまの み業を行って欲しいと招いておられます。わたしどももまた、主の弟子として招かれています。主イエスは、わたしどもにも、語っておられます。「あなたがたは、この盲人がどうしてこんな目に遭っているのかと問うている。しかし大切なのは、この人に神の業が起こるかどうか、この人が救われるかどうか、なのだ。この人に神の業が現れるために、共に働いてくれないか。」
 主イエスは、「だれも働くことのできない夜が来る。」とおっしゃいました。ご自身の十字架の死を見据えておられます。その上で、「わたしは、世にいる間、世の光である。」と宣言なさいました。「世にいる間」とおっしゃっているのは、十字架の死で終わってしまうのではありません。十字架の死は、甦りの命に繋がっているからです。主イエスが お甦りになる、そのときこそ、信じるすべての者に、神の救いの業が現れるのだと、約束してくださいました。その約束の光の中で、主イエスは不思議とも思える行動をとられました。主イエスは、しゃがんで、地面に唾をし、唾で土をこねて、その人の目にお塗りになり、そして、シロアムの池に「行って洗いなさい」と言われたのです。
ある神学者は、「目に泥を塗られて、シロアムの池に行くこの人は、洗礼を受けようとする人の姿」と言っています。たとえ肉体の目が見えていても、神さまの光が見えていなかった心の目に、主イエスが触れてくださる。癒やしてくださる。「水で洗いなさい」とおっしゃる。その言葉を信じ、洗礼を受ける。そのようにして、神さまの光が見えるようにしていただくのです。
目に泥がべったり塗られたままシロアムの池まで歩いていく盲人の姿を見て、周りの人は馬鹿にして笑ったかもしれません。それでもこの人は、主イエスがお命じになられた「行って洗いなさい」を信じ、歩き始めたのです。もしかすると、弟子たちがシロアムの池まで寄り添ったかもしれません。
わたしたちに求められている働きも、そのような働きかもしれません。今、心が塞いでいる人、救いが見えない人、望みを失っている人。わたしどもに、その人たちを救うことはできなくても、寄り添い、主イエスがおられる教会に連れていくことはできます。自分に起きた救いの業、神の み業を証しすることもできるのです。
生まれつき目の見えなかった人は、シロアムの池に到着すると、すぐに目を洗いました。すると、目の前にキラキラと輝くシロアムの池が飛び込んで来た、その瞬間、その人の両目からは大粒の涙が溢れたに違いありません。そして、喜んで元いた場所に帰って来たのです。すると、近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、わいわい寄って来ました。「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言う人、同意する人、反対する人。すると、この人ははっきりと証言しました。「わたしがそうなのです」。ここで、「わたしがそうなのです」と訳されたギリシア語は、εγω ειμιエゴゥ エイミ。先週の み言葉である第8章58節で主イエスが、アブラハムが生まれる前から、「わたしはある。」と言われた言葉とまったく同じ言葉であり、神さまがご自身を顕されるときに用いられた言葉です。
目が見えるようになった人は、このような思いだったのではないでしょうか。「わたしは、わたしとして、ここに在ります。『わたしはわたしです』。わたしはイエスという人をわたしの救い主と信じます。物乞いとして生き、物乞いとして死ぬと思って人生を諦めていたわたしに、イエスさまが目を注いでくださいました。そればかりか、唾で土をこねて、わたしの目に塗ってくださり、『シロアムの池に行って洗いなさい』と命じてくださいました。そうして、わたしは救われたのです。目が見えるようになったのです。わたしが救われた本人です。わたしはわたしとしてここにいるのです。わたしはこれから、救われた者としてイエスさまと共に、神さまの み業の中で生きていきます。」
わたしどもはどうでしょう。この人のように神さまに救っていただいた喜びを、証言し続ける者でありたいと願います。かつては見えていなかった。神さまの光が見えず、次々と襲ってくる苦しみに脅えていた。しかし今は違う。わたしを見てください。そのように証言し続ける者でありたいと重ねて願います。
先ほどお話ししました草津の桜井さんと共に、静岡県御殿場市にある駿河療養所で生活しておられた上野忠昭さんも、忘れられない信仰の先輩です。この方も本名を公開なさる前は長い間、「神村」と名乗っておられました。毎年、正月休みには家族と共に上野さんを訪ねておりましたが、昨年、天に召されました。週に三度の透析を受け、まったく目が見えないながら、毎朝、2時間かけて北から南までひとりひとりの名前を声に出し祈っておられました。療養所を訪問すると、わたしが、うっかり忘れてしまっていたあの人、この人の悩みを覚えておられ、「先生、あの方はその後、どうしておられますか?」と質問攻めにあうのです。「上野さんは、目は見えなくても見えている。毎日、心を込めて祈っておられる。目が見えているはずのわたしは何をしているのか」と教えられたのです。草津の桜井さんも、御殿場の上野さんも、「わたしがそうなのです」と、神さまの み業を証しして生き抜かれました。「わたしが『らい』に冒されたのは、わたしが罪を犯したからではありません。両親が罪を犯したからでもありません。ただ神の み業が わたしに現れるためです。救われた わたしを見てください。わたしに現れた神さまの み業を見てください」と生き続けられた姿に、わたしは今も、励ましを受けています。
只今から聖餐に与ります。聖餐は、主イエスがわたしどもを生かすために十字架で死んでくださり、甦ってくださって、今日も、わたしどもと共に生きておられ、世を照らす まことの光でいてくださることを信じ、洗礼を受けるならば、誰でも、与ることができます。時に信仰が弱くなる日があります。光を見失う日がある。それでも、聖餐に与ることで、イエスさまの十字架の死と甦りにより、因果応報の鎖から解き放たれて、主イエスに繋がっている喜びと望みを新たにしていただけます。神さまの確かさが、わたしどもの信仰を、新たにしてくださるのです。
新しい一年、何があるかはわかりません。けれども、何が起ころうとも、主がわたしどもを み業の中に用いようとしてくださっております。命の限り、喜んで主に仕える日々を送っていきたいと願います。

<祈祷>
天の父なる御神、心騒ぐ新年の幕開けとなりました。主よ、どんなことがあっても、あなたの救いを信じ、あなたに従い続ける者としてください。辛い日も、心が折れる日も、主の十字架の死と甦りの命によって救われた者として、あなたの ご栄光を現す者として、用いてください。主イエス・キリストの み名に よって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けをいただかなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、被災地で寒さと、緊張と、想像を絶する深い嘆きの中に人たちを、どうか、あなたの おそば近くに招き寄せ、慰めてください。わたしどもも、成し得る限りの祈りと支援をもって、支え続けることができますように。能登伝道のために、あなたがお建てくださった輪島教会、七尾教会、羽咋(はくい)教会、富来(とぎ)伝道所の歩みをお支えください。主よ、被災された教会、教会に連なる兄弟姉妹に寄り添ってくださり、あなたの愛と憐みによって、深く傷ついた心を癒してくださいますように。世界では、激しい殺し合いが続いております。わたしどもを正しい道に導いてください。因果応報の論理に立つ傍観者ではなく、寄り添い、執り成しを祈り続ける者としてください。この新年礼拝にも、病のため、仕事のため、心が塞いでいるため、やむなく欠席している兄弟姉妹があります。主よ、それぞれの場で祈りをささげている者に、祝福と平安を与えてください。新しい年も、あなたから与えられた賜物を存分に用いて、あなたの栄光を証しする者としてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年12月31日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第12章1節~4節、新約 ヨハネによる福音書 第8章48節~59節
説教題:「死に勝つことば」
讃美歌:546、120、121、161、540

2023年、今年最後の主の日が、大晦日と重なりました。クリスマスの喜びの中で今日の朝を迎え、皆さんと一緒に礼拝を守り、新しい年へと向かうことが許された恵みを、主に感謝します。
先週は、わたしにとりまして東村山教会で迎える9度目のクリスマス礼拝でした。出席してくださった大学時代の先輩から、「田村が痩せてしまったので、別な牧師が説教していると思った」と真顔で感想を言われました。学生時代は顔がパンパンだったので、もっともなことですが、歳月を重ね、いつの間にか人生の折り返し点を過ぎたのだなぁと思わされました。皆さんから、「56歳ならまだ若い」と言われてしまいそうですが、最近、「えっ?」と思うことが多くなりました。同世代、あるいは若い世代の中にも、突然亡くなったと知らせを受けたり、病を患い、入院中の牧師がいたりします。両親も80代に入り、これまでと同じようにはいかないことが増えてまいりました。年を重ねていくことに対する不安は、その立場になってみて初めてわかることが多いと思わされております。では、若い人たちは、そのような憂いや不安とは無縁かと言えば、そんなことはないでしょう。強い者が弱い者を蹂躙(じゅうりん)する社会で、傷つかないように生きていくには、ときに心を押し殺さなければ、とてもやって行けるものではありません。感じやすい心の持ち主であればあるほど、病気になってしまうような世の中です。ひとつ間違えば、ぱっくりと大きな口を開けている死という穴の中へ落ちてしまいかねません。
若かろうが、年を重ねていようが、わたしどもは、丸腰で死に対抗することは不可能です。丸腰では、負けは目に見えています。 死に飲み込まれてしまう。恐ろしくて、不安で、心を病んでしまったり、「どうせ死ぬのだから」と、やぶれかぶれになってしまう。
しかし、神さまは、わたしどもに闘うための武具を与えてくださいました。それも条件なしで。今朝の み言葉でユダヤ人たちが胸を張って、誇っているように、アブラハムの血筋だから与えられるとか、善い行いを積み重ねたから与えられる、というのではありません。まったくの無条件です。では、その武具とは何でしょうか。
わたしどもがヨハネによる福音書を読み始めたのは、今年の1月22日の主の日でした。そして一年を終える今日、第8章を読み終えます。今日まで色々な み言葉を読んでまいりましたが、どんな み言葉を読むときにも、わたしどもの心に響いているのは、第1章1節の み言葉でした。「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。」言語(げんご)の言(げん)という一(ひと)文字を用いて「ことば」と読みます。ヨハネ福音書は、いつも神と共に在り、神の中の燃えたぎるような愛であり、心であり、情熱であり、魂(たましい)であるような、神そのものともいえる存在を、「言(ことば)」と表現しました。そして、第1章14節で「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」と記しました。
東村山にも住んでおられた島崎光正さんというキリスト者詩人の詩に、クリスマスをうたった「聖誕」という短い詩があります。「言(ことば)は/耐えられずに/形となり/地球への旅を急いでいた/約束の時は/ふるえ/ベツレヘムの夜更けに/嬰児(みどりご)となった言(ことば)は/ふと/花のように瞳(め)を開いていた/馬小屋の片隅で。」父なる神さまが、わたしどものありさまをご覧になって、神さまの中の愛、情熱、魂と言ってもよい存在であられる「言(ことば)」が、どうにもこうにも耐え切れず、形をもって、命をもって、人となって、父なる神さまの中から飛び出し、地上にいらしてくださった。弱く、小さな赤ちゃんの姿で、 生まれてくださった。それが、わたしどもの主、イエス・キリストです。そしてこの「言(ことば)」、肉体をとって人となられた「言(ことば)」、キリストこそが、わたしどものための武具なのです。
その主イエスが、第8章51節で、「はっきり言っておく」と前置きしておっしゃいました。この「はっきり言っておく」との み言葉は、これまで何度か話したように、「アーメン、アーメン」という言葉です。「わたしが今から語ることは、まことにまことに、本当のこと!だからよく聴き、信じて欲しい」と前置きした上で、おっしゃったのです。「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」
ここで、「わたしの言葉を守る」の「守る」と訳された元の言葉は、「見張る」、「番をする」、「(見張って)守る、保持する」という意味の言葉です。日本語だと、「言葉を守る」というと、「いいつけを守る」という意味にとりがちです。けれども、もとは、「見る」という意味が大きく、「よく見て守る」、「見守る」、「大事にする」。そういう成り立ちの言葉なのです。神さまそのものであられる「言(ことば)」、すなわち主イエスを見る。見続ける。見張りをするように、そばで目を離さない。主イエスから離れない。片時も離れない。そういう意味なのです。
この「守る」という言葉は、55節後半の「わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。」の「守っている」と同じ言葉です。神さまの愛そのもの、お心そのものであられ、神さまの中から飛び出してわたしどものもとへ来てくださった「言(ことば)」、すなわち主イエスが、父なる神さまをいつも見ておられるように、「あなたたちも、わたしから決して目を離さずにいなさい。どんなときも、見続けていなさい。」と主はおっしゃっています。
もう一度、51節を読みます。「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」「死ぬことがない」という言葉は、52節でユダヤ人たちが言い換えているように「その人は決して死を味わうことがない」ということでもあり、「死を経験しない」とも訳すことができます。これは、わたしどもが死ななくて済むということではありません。わたしどもは必ず、死にます。しかしそのとき、死んでいながら死を味わっていない、死を経験しない。主イエスは、わたしどもにそのように約束されたのです。
ふるくから、多くの人々に愛誦されてきた詩編 第23篇はうたいます。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い/魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。(23:1~4)」また、キリスト者を徹底的に迫害する者から、喜んで福音を宣べ伝える者へと変えられ、異邦人伝道に残りの生涯をささげたパウロは、ローマの信徒たちに向けて手紙を書き送りました。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他(た)のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマの信徒への手紙8:38~39)」命をもち、肉体をもって世に来てくださった「言(ことば)」であり、神そのものであられる主が、死ぬときであっても共にいてくださることを喜び、証しする力強い聖書の言葉です。
主イエスは、ユダヤ人たちに、こう言われました。58節。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」「わたしはある」とは、神さまがご自分をお示しになるときに使われる表現です。神さまが、旧約聖書において「わたしはある」と言われたように、主イエスも、まことの神として「わたしはある」とおっしゃったのです。主イエスは、ユダヤ人たちが大切にしている先祖アブラハムが生まれる前から、「わたしはある」と言われました。何と神さまが来てくださったのですから、喜ぶべきところです。しかし、ユダヤ人たちは、石を取り、主イエスに投げつけて、殺そうとしました。自分たちの正義によって、神を裁いて、殺そうとしたのです。しかし、主イエスは、このときは身を隠して、神殿の境内から出て行かれました。
主イエスは、ご自分の命が惜しくて、身を隠されたのではありません。父なる神さまをいつも見ておられる主イエスは、神さまの み心に従い、神さまが定められた時が来るのを待つために、身を隠されたのです。主イエスは、その後、群衆の「殺せ。殺せ。十字架につけろ。(19:15)」という叫びの中で死んでゆかれました。神の言(ことば)であられる主イエスが、神ご自身が、死を味わってくださったのです。けれども主イエスは、死んだままでおられたのではなく、甦られました。そして、「わたしを見なさい。わたしを見続けなさい。わたしをあなたの中に受け入れて、いつもわたしから目を離さず、わたしから片時も離れずにいて欲しい!」とおっしゃっています。主イエスを受け入れて、主イエスから片時も離れず一緒にいるから、わたしどもは死ぬときでも、青草の茂っている原っぱにいるような心持ちでいられる。おいしい水が、こんこんと湧いている泉のほとりにいるように、安心していられる。死も、わたしどもから主を引き離すことはできません。主イエスが、わたしどもを守っていてくださいます。
今年のクリスマスも、多くの皆さんからクリスマスカードが届きました。その中に、母教会の信仰の大先輩のカードがありました。こう書かれていました。「クリスマスおめでとうございます。主の光の中を歩ませて頂き/本当に幸せでございます。皆様お健やかでお過ごしでしょうか/今年一年 私は 原発性胆汁性肝硬変、副腎不全、十二月になって転倒し/病人生活をしております/でも楽しい毎日を感謝しております」。
父なる神から賜った、最強の武具に守られて生きる強さに溢れるメッセージと思いました。この方が立派なのではありません。主イエスがいつも共にいてくださる。その真実を見つめている。わたしと共に、わたしの代わりに、病気と、死への恐れと闘っていてくださる。しかも、すでに勝利して、甦っていてくださる。そのお姿から目を離さずに、じっと見つめている。ただそれだけです。
新年が始まります。「言(ことば)」が耐え切れずに世に来てくださった、クリスマスの喜びの中で、主イエスから片時も目を離さず、主と共に、新しい年の歩みを踏み出していきたいと願います。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる御神、この一年も み言葉を与えてくださり感謝いたします。たとえ死の陰の谷を行くときも、わたしどもは恐れません。主イエスがわたしどもと一緒にいてくださるからです。どうか、どんなときも主イエスから離れることのないようにしてください。生涯、あなたの恵みから目をそらさずに歩むことができますように、守り導いてください。主イエス・キリストの み名によって、祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、この一年も、様々な理由によって一度も礼拝に出席することのできなかった仲間がおります。仕事のため、肉体の弱さのため、信仰が揺らいでいるため、礼拝から遠ざかっている仲間を深く憐れんでください。共にいてくださる主イエスを見失うことがありませんように。礼拝の喜びの中へと導いてください。主よ、今日も病と闘っている者がおります。リハビリに励んでいる者がおります。新しい環境に馴染もうと努力している者がおります。どうか、どこにあっても、真の神であられる主イエス・キリストが共におられることを心に刻み、主と共に歩む喜びを日々、お与えください。主よ、この一年、多くの災いがあり、争いがあり、たくさんの命が失われ続けています。日本でも、日々の生活に困窮している者が多くいます。どうか、途方に暮れている者に望みを与え、すべての者に、互いに赦し合い、支え合う心を与えてください。あなたと共にある平安の中へ導いてください。今日は、佐藤 晏神学生、大阪教会で説教者として立てられております。佐藤神学生はじめ、献身の志を与えられた者たちが、あなたのお召しを信じ、望みをもって神学の研鑽に励むことができますよう守り、導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年12月24日(日)日本基督教団 東村山教会 クリスマス讃美夕礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:新約聖書 マタイによる福音書 第1章18節~25節
説教題:「神は我々と共におられる」    
讃美歌:100、103、108、112

今夜は、クリスマス讃美夕礼拝へようこそおいでくださいました。皆さんとご一緒に、神さまの み子 主イエスがお生まれくださったクリスマスを祝うことが許された恵みを主に感謝いたします。
マタイによる福音書は、「イエス・キリストの誕生の次第」をこのように語り始めます。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」ヨセフと婚約中のマリアが、神の力によって妊娠したこと。妊娠を知ったヨセフは、ひそかにマリアと縁を切ろうと決心したことが、淡々と書かれています。
マリアは、少女のような年齢であったと言われています。ヨセフもマリアより年上であったと思いますが、まだ若かったことでしょう。当時、結婚の約束をしているにもかかわらず、婚約者以外の子を妊娠することは、石で打ち殺されてしまうほどの重罪とされていました。ヨセフは、苦しんだことでしょう。誰にも知られないように、縁を切ってしまえば、マリアの命を守ることができると思ったかもしれません。
縁を切るしかないと思い詰めていたヨセフに、主の天使が夢に現れて語りかけました。「あなたは、この娘と離縁してはならない。恐れず妻として迎えなさい。そして、産まれた子を、自分の子どもとして引き受けなさい。マリアのお腹の あかんぼうは、神の力によって宿った。名前は、『イエス』。忘れてはならない。神があなたに託された子は、すべての人を罪から救う者となるのだ。」
ヨセフが眠りから覚めると、脂汗をかいていたかもしれません。天使の言葉に戸惑い、理解することができなかったかもしれない。それでもヨセフは、天使に命じられた通り、マリアを妻に迎えました。マリアが産む子どもは、神さまから託されたと信じ、自分の子どもと して受け入れたのです。そして、天使が命じた通り、生まれた子を「イエス」と名付けました。ヨセフは、神さまの み心を、ただ信じて、受け入れたのです。
そして、このあとマタイによる福音書のクリスマス物語において、大切な み言葉が続きます。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。(1:22~23)」
このように、マタイによる福音書は、その冒頭に、主イエスの名が「インマヌエルと呼ばれる」と記し、さらに丁寧に、その言葉の意味は、「『神は我々と共におられる』という意味である。」と記しました。それだけではありません。福音書のいちばん最後。締めくくりの言葉にも同じ言葉が記されているのです。それも、今度は、主イエスの約束の お言葉として記されています。主イエスはおっしゃいました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(28:20)」
もしかすると、筆者であるマタイは、このただ一つの真実を、何とかして伝えたいと願い、福音書を記したのかもしれません。どんなときも神さまは、そして主イエスは、わたしどもと共におられる。
わたしどもは、今はこうして厳(おごそ)かな気持ちでロウソクの光をみつめ、共に礼拝をささげています。それでも、礼拝が終われば、それぞれの生活の場へと戻っていく。日々の歩みにおいて、強烈な孤独を感じる日があるかもしれません。ヨセフのように、「どうしたらよいのか」ともがき、苦しむ日があるかもしれません。誰にも相談できない悩みを抱え、「いっそこのまま死んでしまいたい」と思う日もあるかもしれない。しかし、どのようなときであっても、わたしどもの身代わりとなって十字架の上で命を捨ててくださったほどにわたしどもを愛しておられる主イエスが、約束してくださいました。ご自分の命と引き換えに、約束を確かなものとしてくださったのです。「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたと共にいる。神は、いつでも、いつまでも、あなたと共にいてくださる。」
「世の終わりまで」です。わたしどもが地上の命を終えるときも、終えたのちも、わたしどもはひとりではないのです。この真実を、わたしどもひとりひとりが受け入れ、主が共にいてくださる平安の中で生きることができますように。マリアのように、ヨセフのように、クリスマスに生まれてくださった幼子(おさなご)主イエス・キリストを、ひとりひとりの心に、お迎えすることができますように。

<祈祷>
天の父なる神さま、闇に閉ざされてしまったと思うときも、どんなときも、世の終わりの日まで、あなたは、わたしどもと共にいてくださいますから感謝いたします。この恵みを忘れず、望みをもって歩む者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

2023年12月24日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第9章5節~6節、新約 ルカによる福音書 第2章8節~20節
説教題:「キリストの平和」
讃美歌:546、102、106、Ⅱ-1、114、539

世界で最初のクリスマスの夜。ベツレヘムという小さな町の近郊の野原では、羊飼たちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。羊飼いという仕事は、皆が休んでいる、寒く、真っ暗な夜中でも、羊の群れの番をしなければなりません。誰もが、「できることならやりたくない」と考える、厳しい仕事でした。しかし、神さまは、そのような羊飼いたちに、天使を遣わし、ほかの誰よりも早く、救い主(ぬし)誕生のニュースを知らせました。突然、天からの眩(まばゆ)いばかりの光が、暗闇の中にいた羊飼いたちを照らし、天使が現れて言いました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主が お生まれになった。この方こそ主メシアである。(2:10~11)」
そして、天から ぞくぞくと天使たちが降(くだ)って来て、神の栄光を賛美したのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心(みこころ)に適(かな)う人にあれ。(2:14)」。この賛美は、「天使の歌、グローリア・イン・エクセルシス」と言われ、世界中で賛美されるようになりました。クリスマスを祝った最初の讃美歌です。物凄い景色であったことでしょう。さきほど、わたしどもも「グローリア・イン・エクセルシス・デオ」と賛美し、クリスマスの喜びが礼拝堂に響きましたが、その何万倍、何億倍もの爆発的な喜びが、天からこぼれ落ちて来たような大合唱を思い浮べると、ドキドキします。
今日はルカによる福音書とともに、旧約聖書 イザヤ書 第9章の み言葉も朗読していただきました。預言者イザヤによって語られた神さまの約束です。
「ひとりの みどりごが わたしたちのために生まれた。ひとりの男の子が わたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。(9:5~6)」  
この預言にあるように、「平和の王として、救い主が与えられる。」という幻の実現は、国を持たず、他国に支配され、散らばったユダヤの人々にとって、切実な祈りでした。その祈りが、今、実現したと、天使は羊飼いたちに告げたのです。「喜びなさい。平和の王があなたがたのために生まれた。この方こそ、あなたがたが待ち焦がれていた救い主です。」羊飼いたちは、大喜びで主イエスのお生まれになった馬小屋を目指して出発したのです。
平和の王は確かにお生まれになりました。ところが、どうしたことでしょう。それから2千年以上を経た今も、争いは絶えることなく、主イエスがお生まれになったベツレヘムから僅か70キロほどの距離にある「ガザ地区」では日々、悲惨な戦闘が繰り広げられています。先日、ニュース映像が目に飛び込んで来たとき、胸が潰されるような心もちになり、「何で、こんなことになってしまったのか!」と叫びそうになりました。ガザ地区で生活している少年が「お父さんが死んじゃった。お母さんも死んじゃった。お兄ちゃんも死んじゃった。」とカメラに向かって泣き叫んでいたのです。
今、暖房の効いた会堂で、礼拝をささげながら、「あの少年は今、どうしているのか?食べるものも、飲むものも手に入らない人々はどうしているのか?」考えずにはおれません。ガザ地区だけでなく、世界の至るところで、強い者は武力で相手を脅(おど)し、暴力の応酬は止みません。日本とて、例外ではありません。平和憲法などまるで無視。とうとう武器の輸出が可能になると報じられています。現実に、絶望しそうになります。平和なんて所詮、幻にすぎないのではないかと、わたしどもの心は闇に覆われてしまう。
しかしです。主イエスは確かに、生まれてくださいました。憎み合い、殺し合う世界に平和の王として、救い主として、神が お遣わしくださったのです。人間は、救い主を喜んで迎えるどころか、受け入れることを拒みました。宿屋には臨月の母マリアが休む場所はなく、ようやく見つけた場所は、粗末な家畜小屋でした。貧しく、希望の見えない生活を強いられていた羊飼いたち以外には、救い主の到来を歓迎する者はいなかったのです。誰も見向きもしなかった。それどころか、ついには、神が遣わされた救い主、平和の王を、十字架につけて殺してしまいました。そして今も、わたしども人間は、救い主をひとりひとりの心へお迎えすることより、それぞれの正義によって相手を裁き、敵対する者を殺すことに夢中になっているのです。しかし、だからこそ、今こそわたしどもは、毎年の恒例行事としてクリスマスを祝うのではなく、本気で、心から平和を祈りつつ、わたしどもひとりひとりの魂の内に、平和の王であられる主イエスを、お迎えしたいのです。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」という天使の歌は、昔から様々な解釈がなされてまいりました。ひとつの解釈は、「天の神さまに栄光があるように。地に生きる善意の人々に平和があるように」と、人々の行い、善い業(わざ)を強調する読み方です。「神さまに喜ばれる生き方、善意をもって生きているならば、平和が与えられる。」と読む。しかし、それでは、いったい誰が救われるでしょうか。人間は、神から遣わされて来た救い主を歓迎しないどころか、殺してしまったのです。そして、主イエスがお生まれになってから2千年も経(た)つのに、未(いま)だに互いに殺し合っている。「紛争地」だけの問題ではありません。わたしどもの心はどうでしょう?ひとを傷つけたことのない人などいるでしょうか。自分は正しいと信じ、「あんな人いなければいいのに」と、ひとを裁く思いに囚われてしまう。あるいは、自分を他者と引き比べ、一喜一憂しては、自慢したり、卑屈になったり。そんなふうに、わたしどもはいつも何かを恐れ、自分を守るためにひとを傷つけたり、あるいはまた自分を傷つけたりしているのではないでしょうか。
それでは、「御心(みこころ)に適(かな)う人」とは、どんな人なのでしょうか。神さまは、神さまに背を向け、互いに裁き合い、傷つけ合っているわたしどもを「救いたい」、ただその一心で、大切な独り子 主イエスをわたしどものところへ遣わしてくださいました。そして、このイエスを、「どうか、ひとりひとりの平和の王として、受け入れて欲しい」と願っておられます。この、神さまがわたしどもに寄せてくださる好意、神さまの愛こそ「御心」です。わたしどもは、神さまの愛を受けるのに ふさわしくない者です。それにもかかわらず、神の方で「善し」としていてくださる。「赦す」とおっしゃってくださるのです。み子の十字架の死と引き換えに。それほどの神の愛、神の ご好意を、素直に「ありがとうございます。」と、貧しく、何も持たない羊飼いたちのように、受け入れる者が、「御心に適う人」なのです。平和の王 主イエスを心にお迎えすれば、主イエスが導いてくださいます。
主イエスは、神さまの独り子として、神さまのふところにおられたのに、そこを飛び出して、十字架への道を歩み出すために、誰よりも低く、弱く、小さい無力な乳飲み子となって、馬小屋で生まれてくださいました。そのお姿を見つけることができたのは、世間で最も弱い立場にあった羊飼いたちだけでした。そして、主イエスは、地上におられた間、貧しい人々、病に苦しんでいる人々、社会からつまはじきにされている人々と共に歩んでくださり、立ち上がらせてくださり、敵対する者に対してすら、「わたしは、神さまとあなたがたとを和解させるために遣わされた平和の使者なのだから信じて欲しい、受け入れて欲しい。」と道を示し続けてくださいました。その主イエスを、わたしどもは拒み続け、十字架につけて殺してしまったのです。しかしそれでもなお、神さまはわたしどもを お見捨てになっていない。「わたしの愛の中へ帰って来て欲しい!」と、待っておられます。
神さまは、わたしどもの究極の罪である主イエスの十字架を、わたしどものための赦しの印(しるし)に代えておしまいになりました。人間にはとても理解できない奇跡です。神さまは、この十字架による赦しを信じて欲しい、わたしの愛を信じて欲しいと、待っていてくださるのです。わたしどもが、ニュース映像を胸が潰れる思いで眺めているよりも、もっともっと深く、腸(はらわた)が ちぎれるほどの痛みを持って待っていてくださいます。
この後、聖餐に与ります。先ほど、洗礼を受けた姉妹にとっては、生まれて初めての聖餐の祝いです。わたしどもは、聖餐にふさわしいよい行いをしてきたから、これに与ることができるのではありません。その反対。神の愛を信じることができず、互いに裁き合い、傷つけ合い、望みを失っていたわたしどもを、神さまは愛してくださって、主イエスを遣わしてくださいました。わたしどもの背きや過(あやま)ちをすべてわたしどもの代わりに背負い、十字架に架かってくださった主イエスを、「わたしの王さまになってください。わたしの中に住み、導き、守り、救ってください」と、ひとりひとりの心にお迎えすることだけが、聖餐を受けるために必要な、ただひとつの資格なのです。
今日は、多くの皆さんがクリスマス礼拝に招かれました。とっても嬉しいです。主イエスは待っておられます。「信じます」と主イエスを迎えれば、どんなときも、永遠に、主イエスは、わたしどもと共に生きてくださいます。平和の王として、わたしどもを必ず良い方向に導き、わたしどものことを「平和の使者」として用いてくださいます。クリスマスに、無力な赤ちゃんの姿で生まれてくださった主イエスを、喜んでお迎えすることができますように。

<祈祷>
天の父なる御神、わたしどもに主イエスを与えてくださいました恵みを感謝いたします。すべてのひとに、クリスマスの出来事が、「このわたしのための恵みなのだ。」と信じる心を お与えください。主イエスは、わたしどものために貧しさの中に生まれ、追い出され、十字架に架けられることを受け入れてくださったのですから、裁き合い、傷つけ合うのではなく、イエスさまを わたしの平和の王として喜んで受け入れ、主イエスから賜わる平和を携え、周りの人々に届けることができますように。主の平和が世界を包み、互いに大切にし合うことができますように。主イエス・キリストの お名前によって、祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、わたしどもの群れに新たに加えられた一人の姉妹と二人の幼子(おさなご)たちの歩みを祝福し、溢れるほどに聖霊を注いでください。クリスマスの喜びに包まれているわたしどもの群れの中には、今日も病と闘っている者、心身の痛みを抱えている者がおります。それぞれの場に、クリスマスの喜びが届きますように。インマヌエルの み子がどんなときも共におられることを喜び、与えられる一日、一日を平安のうちに歩む者としてください。主よ、平和の王であられる み子をわたしどもの内にお迎えし、今も続いている悲惨な争いがなくなり、皆がそれぞれの存在を認め合う世界をつくっていくことができますように。主の み国が来ますように。今日、クリスマス礼拝に招かれたすべての者が、いつの日か洗礼を受け、罪の赦し、永遠の命、聖餐の祝いに与ることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメ

2023年12月17日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第32章1節~6節、新約 ヨハネによる福音書 第8章39節~47節
説教題:「神か、悪魔か。」
讃美歌:546、96、Ⅱ-112、387、545B

来週の主日は、いよいよクリスマス礼拝をささげます。この季節になりますと、なぜか、初めてこちらの礼拝堂に足を踏み入れた日のことを思い起こします。わたしが、東京神学大学の学部4年生になったとき、クラス担任は芳賀先生でした。毎年、年度始めの4月に、クラス集会が行われるのですが、その年の会場は、献堂直後の東村山教会でした。建ったばかりの美しい会堂に座ると、初めての場所なのに何だか懐かしいような、心落ち着く気持ちになったことを覚えています。
あの日から、もう17年が経とうとしています。わたしが、こちらへ赴任して、皆さんと一緒に礼拝をまもるようになってからは、9回目のクリスマスとなりますが、「礼拝から始まり、また礼拝へと繋いでいく歩み」を、神さまの守りと導きのうちにここまで続けることが許され、感謝なことだなあと、しみじみと、思います。
今朝、わたしどもに与えられたヨハネ福音書の み言葉は、先週に続く、主イエスとユダヤ人たちとの激しい論争の場面です。主の言葉が熱を帯びて、響いています。「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。(43節)」厳しい言葉です。けれども、同時に、何としても分かって欲しい、という、熱い呼びかけです。礼拝から礼拝へと続く歩みを大切にしてきて、ある意味においては当然のように、今年もクリスマスを迎えようとしているわたしどもに今朝、備えられた主イエスのメッセージを、耳をすまし、心を静かにして、聴き取っていきたいと願います。
ユダヤの人たちにとって、アブラハムという人物は民族のご先祖さまです。それも、ただ先祖というだけでなく、神に選ばれた特別な人物でありましたから、その「アブラハムの子孫である」ということは、信仰において、特別な誇りでありました。「自分たちは異邦人とは違う。神によって特別に選ばれたアブラハムの信仰を受け継いだ、純血の、混じりっけなしの、直系の子孫である。」その誇りの上に立っていたのです。
けれども、そのような彼らに向かい、主イエスは、「アブラハムの子だと言うのならば、アブラハムと同じように生きるはずだ」とおっしゃいました。このとき、主イエスの心にあったのは、創世記 第18章に記されている、アブラハムが主の使いたちを丁寧にもてなし、そのことのゆえに祝福を受け、年老いた不妊の妻サラとの間に息子が授けられた出来事だったかもしれません。主イエスは問うておられます。「アブラハムは、神から派遣された主の使いたちを受け入れた。あなたがたがアブラハムの子だと言うのであれば、どうして、わたしを受け入れないのか?」
ユダヤ人たちは反論しました。41節後半。「わたしたちは姦淫(かんいん)によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」。ここで彼らは、「アブラハムが父だ」と言った言葉を、「父は神だ」と言い換えています。これは言い間違いではありません。アブラハムは神を父とあがめ、どんなときも信頼して神に従って生きました。つまり、「アブラハムを父として生きる」ことは、「神を父として生きる」こととイコールなのです。父なる神さまも、アブラハムを愛し、その子孫たちを愛して、祝福なさいました。そのことを、主イエスもわかっておられました。わかっておられたからこそ、「本来ならば神の子である あなたがたなのに、なぜ、神の子ではなく、悪魔の子になってしまったのか!」と激しく、ほんとうに激しく嘆きながら、問うておられるのです。
主イエスは おっしゃいました。42節。「神が あなたたちの父であれば、あなたたちは わたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神が わたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。」わたしどもは今、アドヴェントの時を過ごしております。神の独り子であられる主イエス・キリストは、どなたによって世に遣わされたのか?父なる神さまによってです。よそ見ばかりで、すぐに神さまの眼差しを忘れてしまうわたしどもを、神さまは愛してくださいました。愛して<愛して<どうしようもないほどに大事に思ってくださって、「このまま、あなたがたが悪魔の手下になってしまうのを見たくない。」その一心で、主イエスを わたしどもに遣わしてくださいました。だから主イエスは、求めておられるのです。「あなたがたが本当に、神を父として生きる神の子ならば、神のもとから遣わされたわたしを、あなたがたが愛さないはずがないではないか。素直に、わたしを受け入れて欲しい。わたしを信じて欲しい。」
ユダヤ人たちは「われわれは、アブラハムの子孫、神の子として生きる者。」そう固く信じていました。その意味で、実は彼らユダヤ人たちとわたしどもは紙一重の存在かもしれません。ひとつ間違うと、彼らのような間違いを犯しかねない。もしも、わたしどもの心の片隅に、「我々は礼拝から礼拝へ。礼拝中心の生活を大事にしている。それクリスマスだ!と言って、クリスマスの本当の真味をよく考えもしないで浮かれている街の人々とは違う。」そんな思いがあるなら、そのように「わたしは義(ただ)しい者」と誇る心は、真理(しんり)を必要としていません。神さまによって清めていただくまでもなく、自分は他者を裁くことができるほど清い者だと思っているからです。神さまの真理(まこと)を必要としていないのです。神の真理(まこと)がなくても、自分は義(ただ)しいと思い込んでしまっているから、他者を裁くのです。主イエスは、「それは、悪魔の子としての生き方である」とおっしゃいます。
それでも神さまは、そのようにフラフラと悪魔の方へついて行きそうになる わたしどもだからこそ、放っておくことができず、主イエス・キリストを お遣わしくださったのです。神さまの真理(まこと)を求めることを忘れ、「わたしこそ正義。」とすぐに勘違いするわたしどもに、「どうして、神の愛がわからないのか。どうして、悪魔についていこうとするのか!」と、声をからして、呼び続けてくださるのです。
先週、ある教会員の病床を訪ねました。兄弟は今、口から食事を摂ることが難しい状況ですが、わたしの到着を今か今かと待っておられたようで、喜びを全身で表現してくださいました。それだけで、涙が溢れてきました。「院長先生の許可を得ていますから、ここで久し振りに礼拝をささげましょう」と伝えると、兄弟は繰り返し、「嬉しいです。嬉しいです。」と喜びの声をあげてくださいました。いくつかの み言葉を読み、短い説教、祈りのあとで、共に「主の祈り」を祈り、讃美歌を歌いました。ベッドに横たわりながらでしたが、しっかりした お声でした。病室なのに、まるで一緒に礼拝堂に座っているような心持ちでした。「ああ、この方はこんなにも教会を愛し、礼拝を心底(しんそこ)求めておられる。」そう思いました。クリスマスは目の前なのに、大好きな教会に行けない。行きたいのに行くことができない。心の底から、キリストの眼差しを求めておられる。渇望しておられる。その心が、ひしひしと伝わってまいりました。そして、主イエスが、わたしどもに求めておられるのも、このような「渇いた心」、「打ち砕かれた心」だけなのだと、つくづく思い知りました。
わたしどもの教会では、「主の日の礼拝を霊と真理(まこと)とをもって、わたしたちの主にささげます」と言って礼拝を始めますが、霊も、真理(まこと)も、わたしどもが用意し、携えていくものではありません。霊は、聖霊なる神さまであり、真理(まこと)は、神さまが与えてくださった み子主イエスです。父なる神さまが備えてくださった霊と真理(まこと)によって清めていただいて、神さまの み前に、進み出る。それが礼拝です。そして、そのときに、わたしどもに求められているものは、渇き、打ち砕かれた心だけです。そこにおいてのみ、わたしどもは赦しの み言葉を聴くことができるのです。
自分の正しさの上に立ち、他者の過ちを裁くとき、わたしどもは悪魔の子どもになっています。神さまの子どもでなくなっている。それでも、手遅れということはありません。何度でも、「神さま、ごめんなさい。これからも『父よ』と呼ばせてください」と祈る。すると、主イエスのもとに帰る道が既に備えられていることに気がつくのです。主イエスは、「わたしを信じるなら、十字架に架かり死んであげよう」とおっしゃっているのではありません。すでに主イエスは、わたしどもの代わりに、十字架に架かって死んでくださっています。三日目の朝、甦ってくださっています。悪魔と闘い、勝利してくださっているのです。神さま、主イエスの愛は、わたしどもの誠意や、行いの代償として与えられるようなものではないのです。神さまは、主イエスは、わたしどもが悪魔の子の歩みをしているにもかかわらず、愛していてくださるのです。わたしどもはただ、それほどの神の愛、主イエスの愛を、「ありがとうございます」と受け入れる。悪魔の誘惑に負けそうなとき、負けてしまったとき、「主よ、わたしの中に住み続けてください。主よ、信仰の弱いわたしを聖霊によって支え、あなたの真理(まこと)によって清めてください。」と何度も繰り返し、祈り続ければよいのです。
この後、讃美歌387番を賛美いたします。2節は、このように賛美します。「力の もとなる/主ともにませば、悪魔のたくみも/などかは おそれん、勝利(かち)は つねに/主の御手(みて)にあり。」シンプルながら力強いメロディーにのって、皆さんと主を賛美したい。たとえ、悪魔の誘惑に負けそうになっても、主イエスにすがりつき、「主よ、助けてください!」と祈る。父なる神さまから離れ、ふらふらと悪魔についていきそうなときこそ、主を高らかに賛美したいと思います。讃美歌を開くと、関連する聖句が記されています。387番の関連聖句の一つとして、ヤコブの手紙 第4章7節とありました。最後に、ヤコブ書 第4章の み言葉を朗読いたします。「神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔は あなたがたから逃げて行きます。」

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの計り知れないほどの深い愛のゆえに、大切な み子を贈ってくださり、ありがとうございます。み子を信じる心を与えてくださった恵みを、ありがとうございます。それにもかかわらず、悪魔の誘惑に負け、自らの業を誇り、思い上がることがあります。反対に、自分を他者と比較し、「自分なんて」と呟くこともあります。そのようなときこそ、悪魔に勝利された十字架と甦りの主イエスを思い起こすことができますよう導いてください。たとえ試練に襲われる日があっても、不安の中にあっても、どんなときも、インマヌエルの主イエスが共におられることを忘れることがないようにしてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みを、聖霊によって支えてください。主よ、今日も病と闘っている兄弟姉妹がおります。礼拝を慕いつつ、それぞれの場で主の日を祈りつつ過ごしている者がおります。主よ、どこにあってもあなたが共におられることを忘れず、あなたの子どもとして、平安のうちに歩むことができますように。主よ、来週のクリスマス礼拝では、姉妹の洗礼式と子どもたちの小児洗礼式を執り行います。どうかクリスマス礼拝にひとりでも多くの者を招いてください。み心ならば、芳賀 力先生も一緒に 主の御降誕を祝い、洗礼を受ける者たちと喜びを分かち合うことができますよう導いてください。今、この時も世界の至るところで悲惨な争いが続いております。主よ、諦めることなく、「主の み国が来ますように」と祈り続ける者としてください。望みを失い、さまよっている者たちに溢れるほどに聖霊を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年12月10日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第51篇12節~14節、新約 ヨハネによる福音書 第8章31節~38節
説教題:「自由をもたらす真理」
讃美歌:546、Ⅱ-96、265、267、545A、Ⅱ-167

4回の日曜日を、礼拝を繰り返しつつ、クリスマスを迎える備えをいたしますアドヴェント。今日は、第2アドヴェントです。アドヴェントは、主イエスの ご降誕の祝いの日、クリスマスまでの備えの季節ですが、もう一つ、伝統的な暦を守っている教会で大切にされているのは、主が再び来られる、再臨の主イエスをお迎えするための備えの期間、という理解です。自分自身を顧みて、主をお迎えするための備えができているだろうか?そのように自分自身の生活を整えつつクリスマスを待ち、24日の夜にクリスマスの前祝い、そして25日、26日と二日に亘(わた)ってクリスマスを祝い、その喜びが新年へと受け継がれていくのだそうです。わたしどもの教会は、そこまで厳格にそういった伝統的な暦を守ってはいませんが、その心は大切にしながら、過ごしていきたいと思います。
今朝、わたしどもに与えられたヨハネ福音書 第8章31節以下の み言葉は、そのようにアドヴェントの日々を整えたいと願うわたしどもに、ただひとつの道を示す大切な み言葉です。31節。イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」主イエスの言葉の中にとどまり続ける。生涯、主の弟子として生き続ける。それは、具体的には、「主イエスよ、あなたをわたしの救い主と信じます。あなたの弟子となり、生涯、あなたと共に歩みます。」と信仰を告白し、洗礼を受け、主イエスの言葉に守られながら力をいただき、励まされ、導かれながら生きることです。主イエスは、「わたしと、わたしをあなたのもとに遣わした父なる神を信じて欲しい。」と、わたしどもを招いておられるのです。
そのうえで主は、続けておっしゃいました。32節。「あなたたちは真理を知り、真理は あなたたちを自由にする。」「わたしは、神さまを信じている。聖書もよく勉強して、生きる指針としたい。だけど、洗礼となると、縛られてしまうような、自由がないような気がして、遠慮したい。」そういう人は多くいます。けれども、主イエスは、「まったく逆だ」とおっしゃる。「洗礼によってわたしの中にとどまり続けるならば、あなたたちは自由だ」とおっしゃるのです。いったいどういうことか?主イエスの言葉を聞いたユダヤ人たちも同じ思いでした。
彼らは言いました。33節。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」彼らは、自分たちが何ものかにとらわれているなどとは思ってもいません。自分たちは奴隷ではない。誰からも束縛されていないと思っている わたしどももまた、この人たちと同じように、そのように思い込んでいるところがあります。しかし、本当にそうでしょうか?自由とは何でしょう。
キリストの弟子であるキリスト者の「自由」について、わたしどもの身近な生活の中で、子どもたちにもわかるように語られた言葉があります。教会にも関係しておられる方があります「友の会」や自由学園を創立した羽仁もと子先生が、学園の生徒たちに語った「靴を そろえてぬぐ自由」というものです。わたしどもは思います。靴を揃えてぬがなければならないことが、どうして自由なのか?むしろ束縛されて不自由なのではないか?そう思う。ではなぜなのでしょう。もちろん、履くときに不自由、ということもあります。けれども、この言葉の根っこにあることであり、また、わたしどもが自分自身を顧みて、つくづく感じずにはいられないのは、人間は、放っておけば、易きに流れてしまうということです。怠け心に支配され、簡単な方へ、楽な方へと流されてしまう。しかしそこで、「わたしは靴を揃えてぬぐ。断固として、怠け心と戦う。流されないように自由の旗をしっかり立て、イエスさまをただ一人の先生として、生きよう」と、羽仁先生は生徒を励ましたのです。「靴を揃えてぬぐ」などということは些細なことです。でも、そんな些細なことさえ怠け心に負けて疎かにしてしまうのが人間です。
わたしどもの心は弱いのです。叩かれれば、叩き返したくなる。それが自然な心の流れです。流れに身を任せる方が楽です。相手を赦すことの方が余程むずかしい。まして、主イエスが教えてくださったように敵を愛することなど、どうしてできるでしょう。あるいはまた、正しいと思うことでも周りの空気を読んで口をつぐんでしまう。せいぜい、匿名でつぶやく位が関の山です。長いものに巻かれてしまう。その方が楽なのです。自分は自由だと思い込んでいるわたしどもですが、実は、多くのものに縛られ、流されて生きている。そういうわたしどもに、主イエスはおっしゃるのです。「ここへおいで」と。「わたしの中へ飛び込み、留まり続けるなら、わたしがいつもあなたと共にある。あなたを守り、助け、導き、励ます。だから、あなたは自由なのだ」と。
主イエスは、自分たちは自由だと思い込んでいるユダヤ人たちに「はっきり言っておく」と念を押して、言われました。これは、「アーメン、アーメン。まことに、まことに。わたしが、これからあなたがたに語ることは本当に、本当に、真理である」という意味の言葉です。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。」主イエスはここで、「奴隷」と「子」を対比し、「何とかして、わかって欲しい」と、教えてくださっています。子どもであれば、いつまでも自由に家にいることができます。しかし、奴隷はいつまでもいられません。主人に売り飛ばされたらそれまでです。家とは、誰の家でしょう?父なる神さまの家です。神さまの子どもである主イエスは、いつまでも、永遠に、父の家におられるのです。
35節で、「いつまでも」と訳されているギリシア語は、「永遠に」という言葉です。父なる神さまの独り子であられる主イエス・キリストは、永遠に神の家におられる。父なる神と共におられる。けれどもそこで、主イエスは、「その恵みは、あなたにも開かれているのだ」と教えてくださっている。「わたしを信じ、わたしの招きに応え、わたしの懐に飛び込み、とどまりつづけるなら、わたしは喜んであなたを受け入れ、あなたを自由にする。わたしの十字架のゆえに、あなたも神の子となれる。罪に縛られることなく、真実に自由な神の子となれるのだ。」と約束してくださったのです。
しかし、主イエスの言葉は、次第に「嘆き」へと変わっていってしまいました。「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちは わたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」
最後38節の「ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」を読み、「おやっ?」と思います。38節前半の「わたしは父のもとで見たことを話している。」は、主イエスが「父」と呼んでいるので、父なる神さまを意味するのは間違いありません。けれども、38節後半の「父」がわからない。主が「あなたたちは父から聞いたことを行っている。」の「父」が神さまなら、ユダヤ人たちは悪いことはしていないことになる。では、「あなたたちの父」と言われているのは、いったい誰なのでしょう?答えは、来週読む み言葉へ続いていきます。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺(ごろ)しであって、真理をよりどころとしていない。」と続く。「あなたたちの父」は、「悪魔」だとおっしゃっているのです。
わたしどもは、主イエスの言葉の中にとどまっていないと、簡単に悪魔の誘惑に負けてしまいます。今朝は、ヨハネ福音書とあわせ詩編 第51篇を読みました。イスラエルの王ダビデによる、悔い改めの祈りです。神さまから選ばれ、民からも尊敬される王として君臨していたダビデでしたが、部下であるウリヤの妻バト・シェバの美貌にほだされ、夫の留守中に奪ってしまい、妊娠させた挙句、夫である部下を戦いの最前線へ送り、戦死させてしまいました。余談ですが、日本語の「ほだされる」という言葉、今では「情(じょう)にほだされる」という使い方くらいしかしないと思いますが、辞書を引くと、最初に、「身の自由を束縛される」と書かれていました。ダビデは、まさに悪魔の誘惑に からめとられ、身の自由を束縛されてしまったのです。自分の罪の恐ろしさを知ったダビデは、悔い改め、神に祈りました。その祈りが詩編 第51篇です。「あなたに背いたことを わたしは知っています。わたしの罪は常に わたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目(おんめ)に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。」ダビデは、神さまに祈り続けました。救いを求め、罪の奴隷状態からの解放を求め、真実の自由を求めて。「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。御前(みまえ)から わたしを退(しりぞ)けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御(み)救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。」わたしどもも日々、ダビデのように、悔い改めを祈りつつ、自由の霊、真理の霊、神の言葉の中で歩み続けたい。
 この後、讃美歌267番「かみは わがやぐら」を賛美します。3節ではこう賛美します。「神の真理(まこと)こそ/わがうちにあれ。」さらに4節では、「主の みことばこそ/進みにすすめ。」主イエスの み言葉こそが、わたしを罪の束縛から解き放ち、守り、導く。主イエスこそが、わたしの王。み言葉こそが、わたしを守るとりでの塔。主の み言葉から離れてしまっては、わたしには何もできない。み言葉の中にとどまり続けるなら、み言葉が守ってくださる。すでにわたしは、神の国に生きている。そのような信仰告白の賛美です。
 わたしどもが 主の中にとどまり、主が わたしどもの中にとどまってくださるならば、わたしどもは自由です。罪の誘惑からも、死からも、恐れからも自由です。主イエスが ご自分の命を捨てて、わたしどもに神の子の身分を与えてくださったから、わたしどもは永遠に自由なのです。主の弟子とされ、主と共にある限り、何ものをも恐れず、何ものにも流されず、縛られず、愛に生きることができる。自由に生きることができる。それがどんなに難しくとも、必ず、わたしどもを守ってくださる方が支えていてくださる。その「しるし」が、洗礼です。だから洗礼は、主イエスがご自分の命を十字架で捨ててまで、成し遂げてくださったわたしどもへの恵みです。父なる神さまが、世界で初めてのクリスマスに、たった独りの み子を世に遣わしてまで、成し遂げてくださったわたしどもへのギフトです。主イエスの言葉が、力をくださり、守り、助け、励まし、導いてくださいます。幼子のように信じ切って、飛び込むことができますように。信じ、受け入れ、とどまり続けることができますように。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、み言葉の中にとどまらせてください。み言葉の中に生き続ける者としてください。主イエスの弟子であることに大きな喜びを抱く者としてください。主の弟子として知る真実な自由に生きる者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの歩みのひと足ひと足を、聖霊によってお支えください。主よ、あなたの導きによって、ひとりの姉妹の洗礼の恵み、ふたりの子どもたちの小児洗礼の恵みをクリスマス礼拝で味わえる喜びを感謝いたします。当日、あなたの祝福の中で洗礼式を執り行うことができますように。芳賀 力先生の退院が今週の金曜日に決まりました。感謝いたします。退院後の先生の歩み、支えておられるご家族の歩みをこれからもお支えください。今日も病と闘っている兄弟姉妹がおります。病院で、施設で、自宅で、礼拝を慕いつつそれぞれの場所で主の日を過ごしている者がおります。主よ、どこにあってもあなたが共におられることを感謝し、平安のうちに今週も歩むことができますように。主よ、世界の各地で激しい争いが続いております。主の平和を一日も早くもたらしてください。すべての者が敵を愛し、敵を赦す自由に生きることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年12月3日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 出エジプト記 第3章11節~20節、新約 ヨハネによる福音書 第8章21節~30節
説教題:「神は存在される」
讃美歌:546、94、162、Ⅱ-1、334、544

今朝、神さまからわたしどもに与えられた み言葉に、ゴシックで小見出しがつけられております。「わたしの行く所にあなたたちは来ることができない」。主イエスが語られた み言葉です。主の み心を、祈りつつ問わなければなりません。
先週は別の箇所を読みましたので、この箇所の前の部分を読んだのは先々週です。主イエスが「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」とおっしゃった み言葉を読みました。クリスマスの光が、この み言葉の中にあります。天からの光です。けれども、この光を信じないで闇の中にとどまり続けようとする者たちに、主イエスは諦めることなく呼びかけておられるのです。
「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」
「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」主イエスは、この厳しい み言葉を、すぐあとの24節では、二度も語っておられます。「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」繰り返されているこの主イエスからの警告を、わたしどもは今朝、しっかりと心に刻まなければなりません。
主イエスは、天から、世を照らす光として、いらしてくださいました。父なる神さまが、罪の現実の中であえいでいるわたしどものために、闇の中で神さまを見失っているわたしどものために、光を贈ってくださったのです。それが、クリスマスの出来事です。わたしどもは皆、例外なく、自分の罪のうちに死ぬべき罪人です。いやそんなに悪くはないと思いたい。しかし、水が高いところから低いところへ流れるように、わたしどもは、誰かから悪口を言われれば黙ってはおれません。敵のために祈ることなどできません。世界で起きている戦争、紛争はすべて、そういうわたしどもの成れの果ての姿です。これがわたしどもの現実。ひとごとではないのです。主イエスは、そのようなわたしどもの身代わりとなって、たった独りで、わたしどもすべての者の罪を背負うために、十字架に架かってくださいました。そのために、天からいらしてくださったのです。
主イエスは、「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」と言われました。まことにその通りです。わたしどもの誰が、自分を殺そうと狙っている人のために命を捨てることができるでしょうか。天とは、それほどまでに清く、まぶしいほどに真っ白な方のための居場所です。わたしどもの行けるような場所ではないのです。
ところがです。ヨハネによる福音書を読み進めてまいりますと、驚くような み言葉が備えられているのです。第14章1節から3節を朗読いたします。どうぞそのままお聞きください。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
主イエスは、わたしどもが思ってもみなかったなさり方で、わたしどもを天に迎え入れようとしておられるのです。自分自身の罪のために滅ぶべきわたしどもの代わりに、十字架に架かり、命を捨てようとなさっている。「そのことを信じ、わたしに繋がりさえすれば、天は、あなたがたの居場所となる。信じさえすれば、あなたも真っ白な清い者となれる。だから信じて欲しい、繋がって欲しい。繋がり続けて欲しい。そうでなければ、あなたたちは自分の罪の うちに死んでしまう。」と、主イエスは命を賭けて、必死になって、わたしどもを招いてくださるのです。
そのように、すべての人間の罪を背負って死のうとしておられる主イエスの覚悟など、想像もしていないユダヤ人たちは、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と呟きました。すると主イエスは、こう言われたのです。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
「上のものに属する者」とは、「神に属している者」という意味です。どこまでも清い方の居場所である天に属している。ユダヤ人たちは、我々こそ、上のもの、神に属するもの、天に属する神の民と信じ込んでいました。ですから、三度も繰り返して、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」と言われ、頭が混乱したかもしれません。思わず、「あなたは、いったい、どなたですか」と尋ねました。すると主イエスは、答えておっしゃいました。
25節後半。「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしを お遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」主イエスは、罪を罪とも思わず、神に背を向け続ける人間の罪の赦しのために、神から世に遣わされた救い主であることを、明かしてくださっているのです。けれども、ユダヤ人たちは、父なる神さまとナザレのイエスを「父と子」として結びつけて受け入れること、悟ることが、できませんでした。主イエスはおっしゃいました。
28節。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしを お遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしを ひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」「人の子」という表現を、主イエスがお使いになっているときには、世の救いをもたらす人、つまり、主イエスご自身を表しています。その人の子、主イエスを「上げる」。「十字架に上げる」のです。主イエスは、ご自分が十字架に上げられることをすでに覚悟しておられました。そして、十字架に上げられることが、父なる神さまの ご意志であることも知っておられたのです。ご自分が神さまの ご意志によって、また人々の手によって、十字架に上げられるそのとき、あなたたちは知ることに なる、と主イエスは言われました。主イエスが父なる神さまの み心に従う、まことに清い方である、そのことを、ようやく知ることになる。今はまだ分からない、ということです。30節に「多くの人々がイエスを信じた。」とありますが、本当には信じていない。主イエスの十字架の死だけが、天の国への扉を開くからです。主の死によって、まことに清い方の居場所の扉が開かれるのです。
ところで、今朝の み言葉で、24節と28節に登場する大切なキーワードがあります。「わたしはある」です。24節。「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪の うちに死ぬことになる。」また28節以下で主イエスは、ご自分が十字架に上げられたときに初めて、あなたたちは「わたしはある」ということが分かるだろうと言われました。「わたしはある」を信じること、分かることは、わたしたちが生きるか死ぬか、罪人として滅びるか、罪を赦された者として永遠の命をいただけるか、その分かれ目となるのです。
「わたしはある」ということを信じ、分かるために、避けることのできない旧約聖書の み言葉があります。それが今朝の旧約聖書 出エジプト記 第3章11節以下の み言葉です。モーセは、神さまから、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から導き出す指導者に選ばれたことに驚き、辞退しようとしました。けれども、父なる神さまは、「わたしは必ずあなたと共にいる。」と告げ、モーセを励ましてくださったのです。そのときモーセは、「では、わたしと一緒にいてくださるあなたを、イスラエルの民にいったい、どのように紹介したらいいでしょうか?」と尋ねました。すると神さまは、モーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々に こう言うがよい。『わたしはある』という方が わたしをあなたたちに遣わされたのだと。」と命じられたのです。
 主イエスは、おっしゃいます。「十字架を見なさい。十字架に上げられたわたしを見なさい。『わたしはある』という お方、父なる神がわたしと共におられる。わたしは十字架の上で、神の み心によって、あなたがたのために肉を裂かれ、血を流し、命を捨てる。だから、わたしを信じて欲しい。わたしに繋がって欲しい。信仰を告白して欲しい。洗礼を受けて欲しい。洗礼は、わたしとあなたを繋ぐしるしだ。父なる神と共にあるわたしと、あなたを繋ぐ。だから、あなたがたは、わたしと共に天の国に行けるのだ。」今朝、主イエスは、わたしどもをそのように招いておられるのです。
 今、目の前に備えられている聖餐のパンと杯が、神さまの愛、主イエスの赦し、主イエスの招きの真実な証しです。皆さんの中に、祝いの食卓に与ることのできない方がいることを誰よりも悲しんでおられるのは主イエスです。「このままでは、あなたは、わたしの行く所に来ることができない。このままでは、あなたは、自分の罪のうちに死んでしまう。」と悲しんでおられます。ぜひ、主イエスの招きに心を開いてください。ぜひ、主イエスを「わたしの救い主」として受け入れてください。ぜひ、主イエスを信じる者として望みを持って生きる者となってください。主イエスが、十字架の上から、あなたを呼んでおられるのですから。

<祈祷>
天の父なる神さま、罪のうちに死ぬべきわたしどもを、み子の死によって赦し、永遠の命を約束してくださった恵みを感謝いたします。どんなときも、あなたが み子と共におられ、み子をひとりにしてはおかれないように、わたしどもと共におられ、わたしどもをも、ひとりにしてはおかれないことを信じ、望みをもって歩む者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。わたしどもの刃を砕いてください。わたしどもを常に、聖霊によって導き、愛に生きることができるよう助けてください。主よ、様々な地域で争いが続いております。激しい憎悪の故に街が破壊され、たくさんの命が失われています。争い続ける世を憐れみのうちに覚えてください。特に、力ある者を謙遜にしてください。心からの悔い改めをもって平和のクリスマスを迎えることができますように。主よ、厳しい病と闘っている者がおります。肉体の痛み、心の痛みを抱え、生きる望みを失いそうになっている者もおります。様々な理由のため、訪ねたくても訪ねることのできない兄弟姉妹がおります。主よ、愛する仲間たちの病床にあなたが共におられ、日々、祝福と憐れみの眼差しを注いでください。礼拝の後、クリスマス礼拝での洗礼を希望している者たちの試問会が行われます。主よ、確信を持って信仰を告白することができます よう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年11月26日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第121篇1節~8節、新約 ヨハネによる福音書 第11章17節~27節
説教題:「ただ、信ぜよ」
讃美歌:546、82、296、288、543

わたしどもは今朝、わたしどもに先立って天に召された親しい人たちを記念する礼拝をささげております。父、母、兄弟、伴侶、子ども、孫、祖父、祖母。また、信仰の兄であり、姉である人たち。その、地上での歩みを懐かしむ思いと共に、何より、その人たちが、何があろうとも立ち続けて生きた信仰を、そしてその人たちを、地上の誰が愛するよりも深く愛された、否、今も愛し続けていてくださる主イエスの愛を、ご一緒に心に刻むときとなりますように。祈りつつ、読んでまいりましょう。
今日は、ヨハネによる福音書 第11章17節から27節を中心に み言葉を味わってまいりますが、今朝の物語は、第11章1節から44節までの比較的長い物語です。ゴシックの小見出しを確認すると、第11章1節から16節は「ラザロの死」、今朝の17節から27節は「イエスは復活と命」、28節から37節は「イエス、涙を流す」、そして38節から44節は「イエス、ラザロを生き返らせる」と続きます。今日は残念ながら、この長い物語を筋を追って読む暇(いとま)はありません。ものすごく簡単にまとめてしまえば、主イエスと親交のあったマルタ、マリアの姉妹のラザロという兄弟が死んでしまい、4日後に、主イエスによって復活させられた、という奇跡の話です。ばかばかしい。だから聖書なんて、『キリスト教』なんて信じられない、そう思う方もいるかもしれません。実際、わたしどもの親しい人たちは、死んでしまいました。思い出すことはできても、生前のように語り合ったり、抱き合ったりはできません。わたしどももまた、ときが来れば親しい者たちを地上に残して死なねばなりません。今日の み言葉に登場する、主イエスによって一度は復活させていただいたラザロにしたところで、このあといつまでも生きたわけではない。マルタも、マリアも、ラザロも死んだのです。
本日の週報の報告欄に記載した通り、先週の月曜日、共に礼拝を守り、水曜日の「御言葉と祈りの会」も大切にしてこられた姉妹が、天に召されました。85年の生涯でした。献体を希望しておられたため、病院の遺体安置所で短い祈りのときを持ったのち、遺体は大学病院へと運ばれて行きました。11月7日には、手を握り、一緒に「主の祈り」を祈り合うことができたのに、もうそれは叶いません。実は数ヶ月前から、今年の逝去者記念主日礼拝では、主イエスがマルタに語られた「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は だれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」との み言葉を読もうと決めておりました。ですから、この姉妹の病室を訪問するときには、いつも、姉妹の耳もとで、また その隣りで一緒に祈ってくださった息子さんと共に、繰り返し読み続けていました。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』マルタは言った。『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。』」
そして今、わたしは、わたし自身にも、さらに、ここに集っておられる皆さんにも、主イエスが信じて欲しいと、祈りを込めて問うてくださる「信じるか。」の声に、真正面から向き合いたいと思うのです。ラザロだけの問題ではないのです。マルタだけが問われているのでもありません。ラザロも、マルタも、マリアも、わたしどもの代表です。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と主イエスはおっしゃいました。主イエスを信じるということは、主イエスが十字架の上で死なれたのは、このわたしの罪を赦し、真っ白な、真新しい状態にして、父なる神さまの子どもとしてくださるためであったと信じることです。そして、そのようにして死なれた主イエスを死人の中から復活させてくださった父なる神さまを、信じるということです。これを信じるなら、肉体の死を経験しても、その死は主イエスと同じ、神の子としての死であり、決定的な滅びではないのだ、と主イエスはわたしどもに教えてくださったのです。死んでも生きる。永遠に、父である神さまの懐(ふところ)の中の、憩いの中にある。平安の中にある。そして、この平安な命は、死んだあとだけでのものではありません。この地上にある今から、生き始めることができるのです。「このことを信じるか。」と、わたしどもは今日、問われている。招かれているのです。
マルタが、主イエスから問われているこの時点では、主イエスはまだ十字架に架けられていませんし、死んでおられません。復活もまだ先の出来事です。けれども主イエスは、このとき、すでに、知っておられました。ご自分が、わたしどもの罪を赦すために十字架で死んで復活されることを。そしてそのことを信じ、信仰を告白し、洗礼を受ける者にも、ご自分と同じ永遠の命が与えられることを。主イエスはそのために殺されなければならないことを覚悟しながら、マルタに問われたのです。「このことを信じるか。」マルタは、主イエスへの信仰を告白しました。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」信仰とは、主イエスに見つめられ、主イエスから「このことを信じるか。」と問われ、全面的に、受け入れることです。もちろん、信じるのはわたしどもです。しかし信仰とは、歯を食い縛り信じ抜くのではなく、イエスさまがおっしゃることを、イエスさまが甦られることを、イエスさまと同じ永遠の命が与えられることを、よくわからないけど、説明できないけど、ご自分の命をこのわたしを救うために捨ててくださったイエスさまが、そうおっしゃるなら信じますと告白する。それが、「信仰」ということではないかと思います。
わたしどもの親しい人たちも、そうだったはずです。わたしどもはつい、「あの方の信仰は立派だった」と言います。そして、「あの方にくらべてわたしの信仰は貧しいと。」呟くことがある。でも、主イエスは、「ただ、信ぜよ。」と小さな子どものように素直な信仰を求めておられるのです。ただ主イエスの言葉を信じ、ただ主イエスの甦りを信じ、自分にも甦りの命が与えられることをただ信じ、信仰を告白する。洗礼を受ける。そのことだけを、今日、礼拝に招かれた皆さん、ひとりひとりに、主イエスは祈りを込めて、求めておられるのです。
マルタは、兄弟ラザロの死によって、激しい痛みを抱えていたことでしょう。けれども、主イエスが神さまにお願いになることは何でも神さまはかなえてくださると、信じているのです。神さまの絶対的な力を信じている。神さまが、痛みを抱えているわたしと共におられ、今、この時も生きて働いてくださると、ただ信じているのです。
わたしどもが今日、教会に招かれたのは、マルタのように、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と信仰を告白して欲しいからです。先に主の みもとへと召された信仰の先輩方が生前、共通して口にされていたのは、「いつの日か伴侶、息子、娘、孫が信仰を告白し、洗礼を受け、わたしと同じ永遠の命に与る者となって欲しい。」という願いでした。皆さんが祈っておられましたし、東村山教会制定の「信仰の遺言書」に家族へのメッセージとして記しておられます。
わたしどもは、いつの日か必ず地上の命を終える日がまいります。泣いても、笑っても、人間は必ず地上の命を終える。愛する人も、憎んだ人も死ぬ。父も、母も、伴侶も、子どもも、孫も死ぬ。生涯の先生と仰いだ人も、友人も、地上の命を終える日が来るのです。そのときわたしどもは「死」に対していかに無力な者であるか突き付けられる。絶対に越えることができない高い山が、そこにあります。今日、ヨハネによる福音書と合わせて読みました詩編 第121篇は、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。(1~2)」と始まり、「あなたの出(い)で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。(8)」と結ばれています。高い山々、生きているときにぶつかる困難だけでなく、「死」という山の前で立ちすくむときも、天地をつくり、わたしどもに命をお与えになられた神ご自身が、とこしえに共にいてくださり、守ってくださる。だから、安心して行きなさいとおっしゃってくださる。わたしを信じて、永遠に生きなさいと励ましてくださる。わたしどもには、天から主の み声が響くのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」わたしにとって先週の一週間は、どんなに祈っても、どんなに病室に通っても、死の前にわたしは無力な者である。そのことを突き付けられた日々でした。けれども、この み言葉が天に召されていった姉妹、またわたしをも励まし、力づけました。「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
主イエスはマルタだけでなく、今日、礼拝に招かれたわたしどもすべての者に祈りを込めて問うておられます。「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」主イエスが待っておられる答えは、ただひとつ。「はい、主よ、信じます。」です。わたしどもが、主イエスに「はい、主よ、信じます。」と信仰を告白するとき、主イエスは喜んで何度でも、繰り返し語ってくださいます。「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
主イエスは、「だれも」と告げてくださいました。「あなたは、信仰が強いから生きる。あなたは、信仰が弱いから死ぬ。」ではないのです。「主よ、信じます。信仰の弱いわたしを助けてください。」と、すべてを委ねるなら、「あなたも決して死ぬことはない。」と宣言してくださったのです。
礼拝堂の後ろに並べられている信仰の先輩方のお写真を見つめるとき、ああ、あの人も、ああ、この人も、皆、信仰を告白し、洗礼を受け、甦りのキリストと結び合わされたのだ。ああ、あの人も、ああ、この人も、皆、決して滅んでしまったのではない。皆、キリストと同じ甦りの命を与えられている。そう信じることができる。そう慰め合うことができる。ここにおられるすべての皆さんが、マルタのように、「はい、主よ、あなたが世に来られた神の子、メシア、救い主キリストであるとわたしは信じます。」と信仰を告白し、すでに召された愛する人たちと同じ永遠の命を与えられるよう祈り願います。

<祈祷>
天の父なる神さま、あなたが永遠の命を約束してくださいましたから感謝いたします。主よ、「ただ、信じます」とまっすぐに日々、信仰を告白する者としてください。今日、礼拝に招かれたすべての者がいつの日か、信仰を告白し、洗礼を受け、永遠の命に与る者となりますよう聖霊を注ぎ続けてください。主イエス・キリストの お名前によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。逝去者記念主日礼拝の恵みを感謝いたします。今日、礼拝に招かれたひとりひとりの上に、甦りと再臨の主イエスの深い慰めを祈ります。痛みを感じるときも、孤独を感じるときも、あなたがいつも共にいてくださる喜びを思い起こすことができますよう、聖霊を注いでください。主よ、病と闘っている者、痛みを抱えている者を強め、励ましてください。戦争によって、愛する人を失った者、住む家を失った者に、主にある望みを お与えください。すべての者に、特に諸国の指導者に、あなたを畏れる思い、主の平和を祈る心をお与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年11月19日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第17章9節~18節、新約 ヨハネによる福音書 第8章12節~20節
説教題:「光の中に立とう」
讃美歌:546、3、Ⅱ-28、360、542

主イエスは、仮庵祭の余韻の残る、神殿の境内で、再び語り始められました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」主イエスは、今朝、わたしどもにも語っておられます。「あなたが、この世を生きるとき、あなたの道を照らす光がわたしである。」
これまでも礼拝の中で何度か お話したことがありますが、娘が生後半年のとき、髄膜炎を発症しました。緊急入院した病院に職場からかけつけると、娘はたくさんの管に繋がれ、目を閉じていました。その姿だけでもショックでしたが、暫くすると、主治医の先生が病室に入って来られ、低い声で言われたのです。「娘さんの命は、今夜が山です。今の段階で生きる確率と亡くなる確率は、それぞれ50%です。」その瞬間、頭が真っ白になり、すべての色が消えました。病院から家へ帰る道は、夜だからというだけではなく、真っ暗闇でした。その2週間ほど前のクリスマス礼拝。娘は、小児洗礼を授けられました。長男、次男に続き、娘も小児洗礼を授けて頂いた。子どもたちの生涯はすべて神さまに委ねた。あとは、いつの日か信仰を告白する日が与えられるよう、日々、祈り続けようと誓い、新年を迎えた。その数日後、家族は暗闇に襲われたのです。幸い、当時2種類あった特効薬の一つが炎症を抑え、娘の命は助かりました。あれから20年以上が経過しましたが、今でもあの夜の暗闇を忘れることはありません。
わたしどもは、誰でも、それぞれに経験は違っても、暗闇に吸い込まれてしまうような「時」を知っているのではないでしょうか。たとえ、ある人から見れば、そんなこと?と言われてしまうような経験であったとしても、暗闇に濃いも薄いもありません。その人にとっては、暗闇は、暗闇なのです。暗闇の中にあるとき、誰かが優しい言葉をかけてくれたとしても、その言葉は、暗闇には届かないものです。妻に確認すると、娘が入院した約3ヶ月間の日々を思い出そうとしても、病院での出来事は覚えていても、家庭や教会でのことはほとんど記憶からスッポリ抜けているようです。きっとたくさんの人が妻を励まし、慰めてくれたはずなのに。
しかし、主イエスは、わたしどものすべてをご存知です。わたしどもが、今どんな状態であるか、主イエスは、わたしども以上に、深くご存知であられます。そして、そのことを知っているか、いないかは、わたしどもの生命線です。ほかの誰の声が届かなくても、主イエスの、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」との み声が、今 暗闇の中にある方に届き、安心して一日、一日を歩むことができますよう祈ります。
先週は、姦通の罪を犯した女性への罪の赦しを心に刻みました。主イエスは、この女性の心の暗闇も、ご存知でした。女性の孤独、カラカラに渇いた心。すべてを諦めて犯してしまった罪。さらに、律法学者やファリサイ派の人々が無意識のうちに犯している裁きの罪もご存知でした。彼らは、本当に正しい方、真実の光であられる主イエスが、見えていなかったのです。ファリサイ派と呼ばれた人々は、旧約聖書の掟をとても真面目に研究し、実践していた人々です。「民衆の先頭に立って道を照らし、義(ただ)しさへと導く者は我々である」という自負を持っていました。けれども主イエスは、その人々に、言われたのです。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
主イエスは、わたしどもが吸い込まれ、迷い込んでいる「暗闇」をご存知です。だからこそ、告げてくださったのです。「わたしに従いなさい。わたしから離れず、一緒に歩こう。」主イエスがわたしどもに求めておられることは、決して、そんなに難しいことではありません。「わたしを、あなたの歩む道を照らす光だと、小さな子どもが、親に信頼するように信じ、わたしについて来なさい。」ということだけです。それは、具体的には、主イエスを、「わたしのキリスト」、「わたしの救い主」と信じ、洗礼を受けることです。信仰告白や洗礼というと、窮屈な気がして、躊躇する人がいます。あるいは、「わたしには、光の道など必要ない。わたしには暗闇が似合っている」とうそぶいてしまう人もあるかもしれません。あるいはまた、ファリサイ派の人々のように、「わたしには、キリストの光など必要ない。暗闇の世にあっても、わたしは神の掟に忠実に生きている。すでに光の道を歩んでいる。」と信じ込んでいる人もいます。でも、どうか知って頂きたいのです。主イエスに従う道がどんなに平安であるか。どんなに辛く、真っ暗闇でも、光なるキリストがわたしを見ていてくださる、知っていてくださる、照らしていてくださる。その光の恵みを。
ファリサイ派の人びとは、「自分たちこそ、道を照らす光だ」と信じ込み、主イエスを罪に定めようとして言いました。13節。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」「証し」と訳されたのは、裁判で用いられる言葉です。裁判所で、「わたしは潔白です。」とただ主張しても無駄です。裁判では、証拠を提出し、身の潔白を証明する必要があります。ファリサイ派の人々は、この世における権威によって、神の元から来られた方を裁こうとしています。「あなたが境内で、『わたしは世の光』と主張しても、何の効力もない。あなたが真の預言者か、偽りの預言者か、ファリサイ派の我々がジャッジする。」と通告したのです。
すると主イエスは、答えて言われました。14節。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。」さらに主イエスは、ご自分の証言が真実である理由を続けておっしゃいました。「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」
わたしどもが、暗闇の中に立ち尽くしてしまうのは、光を見失うからです。天の父なる神さまのもとからいらっしゃって、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と宣言してくださった主イエスの み声が聞こえなくなってしまう。「そんなのは まやかしだ」と決めつけ、裁いてしまう。けれども、光は確かにあります。天の光です。ここにいる洗礼を受け、信仰告白した者ひとりひとりが、暗闇の中で この光に救われた証人です。主イエスは、今日の み言葉の中で語ってくださっているように、父なる神さまのもとから、この世にいらしてくださいました。わたしどもが、暗闇の中で、命の光を持つために。わたしどもの命の、本来の居場所である、父なる神さまの愛の中で、わたしどもが永遠に生きることができるために。
主イエスは、続けておっしゃいました。15節。「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。」わたしどもがどんなに神さまの愛に背を向けようとも、光を無視して闇雲に歩こうとも、主イエスはおっしゃるのです。「わたしはだれをも裁かない。」主イエスは、この後、「わたしはだれをも裁かない。」とおっしゃったその言葉を真実とするために、十字架への道を歩まれ、そして十字架の死を成し遂げてくださいました。それほどの犠牲を払って、わたしどもの罪は赦されており、「もうひとりで暗闇の中を歩かなくてよい。わたしが照らすから、わたしについておいで!」と、光の中へ招かれているのです。
先月、ある教会員を訪問しました。時間の許す限り、93年間の歩みを語ってくださいました。途中、愛唱聖句への思いを伺ったのですが、み言葉の力を強く感じたのです。愛唱聖句の一つは、旧約聖書 詩編 第119篇105節でした。新共同訳聖書は、「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯(ともしび)。」ですが、その方は、文語訳の み言葉を、心の支えとして生きてこられました。「なんぢの聖書(みことば)は  わがあしの燈火(ともしび)わが路(みち)の ひかりなり」。今朝の み言葉「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と重なります。若い者も、年を重ねた者も、暗闇に覆われてしまった、としか思えない日があるかもしれません。けれども、主イエスは、わたしどもが経験するよりももっともっと深い暗闇を、すべて、十字架で経験してくださいました。暗闇に吸い込まれ、うろたえ、すぐに罪に足をからめとられてしまうわたしどもの光となってくださるために。「わたしが世の光だ。わたしについておいで!」と言って、天の父なる神さまの愛の中へ、わたしどもを導いてくださる主イエスを信じて、ついて行きたい。小さなこどものような素直さで、ただ信じて、ついて行きたい。

<祈祷>
 父なる神さま、み子の光に照らされるとき、闇の世としか思えなくても、光の中に立つことができますから、感謝いたします。どうか、これからも、わたしどもと歩み続けてください。闇の中をさまよっているとしか思えないときこそ、み言葉の光で わたしどもの足をともし続けてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。一日、一日、聖霊を注いでください。主よ、クリスマス礼拝での信仰告白、洗礼を祈り求めている者がおります。また、子どもたちへの小児洗礼を祈り求めている夫婦もおります。どうか、それぞれの思いを強め、クリスマス礼拝での喜びの洗礼式へと導いてください。主よ、病床にある者たち、看取っている者たちを強め、励ましてください。たとえ、暗闇の中を歩むような思いになったとしても、光なるあなたを信じ、望みを持って一日、一日を歩むことができますよう力強く導いてください。ウクライナ、ガザ、世界の至るところで争いが激しさを増しております。キリストの平和が、世界を覆いますように。政治に責任をもつ者に、人ではなく、あなたを畏れる心を思い起こさせ、これ以上、無益な死を増やすことのないよう導いてください。先週は、芳賀 力先生のお見舞いに伺うことができましたから感謝いたします。どうか、これからもリハビリの日々を お支えください。そして、み心ならば、クリスマス礼拝の喜びを この礼拝堂で共に味わうことができますよう聖霊を注いでください。来週の主日に予定している逝去者記念主日礼拝に、ひとりでも多くの者を招き、共に甦りと再臨の主イエスを賛美することができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年11月12日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第17章9節~14節、新約 ヨハネによる福音書 第8章1節~11節
説教題:「神を殺す者」
讃美歌:546、72、138、250、541、427

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」第7章37節の、主イエスのみ言葉を、礼拝で繰り返し皆さんと一緒に読みながら、「渇いている」ということを、考えておりました。「渇いている人」。助けを必要としている人。助けが必要なのに、自分で何とかしなくちゃと水を求め砂漠を歩くように一所懸命に歩いて、へとへとになっている。もうこれ以上無理。人には言わずにずっと頑張ってきた。ギリギリまで頑張った。でも、もう無理。頑張ってきた心が、パキンと折れてしまった。もうどうとでもなれ・・・。イエスさまはおっしゃるのです。「そんなあなたのために、わたしは来た。ここへおいで。」主イエスは今朝も、呼んでおられます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」この言葉を、主イエスは神殿で、大きな声でおっしゃいました。神殿は、神さまを礼拝するところ。わたしたちにとっては教会です。主イエスは教会で、呼んでおられます。「ここへおいで、あなたのために、わたしは来たよ。」
しかし、聖書には、それを良く思わない人々が描かれています。それは、聖書に定められている掟を研究し、厳しく守ることに熱心であった「律法学者」や「ファリサイ派」と呼ばれた人たちでした。この人たちは、「自分たちこそが、神さまに最も近いところにいる」と信じていました。朝に夕に聖書を読み、掟に忠実に生きていた人たちです。そう考えると、雨が降ろうが、風が吹こうが、忠実に教会へ通っているわたしどもは、もしかしたら、この人たちに近い存在かもしれません。少なくとも、わたしども教会に通っている者、それも教会生活が長くなればなるほど、そして、わたしの ような牧師こそが、うっかりはまりかねない、そのような罪がここにあることを、今日の み言葉と共に、肝に命じておかなくてはならないと思います。
皆さんも、お気づきになられたと思いますが、第7章53節から第8章11節は、括弧の中に入れられています。それは、今日の み言葉は、元来のヨハネ福音書にはなかったからです。後の人たちによって、加えられた部分であるらしいのです。それも、他の場所ではなくここに。「どうにかこうにか踏ん張ってきた、それでも、もう駄目だ、もう無理だ。気持ちがプツンと切れてしまった。そういう人は、わたしのところへおいで。あなたのために、わたしは神さまのところから来たんだよ。」そう大声で言われた主イエスを、殺そうと企てている聖職者たち。誰もが陥る可能性のある罪があらわになったところで、今日の み言葉が挿入された。だからこそ、わたしどもは今日、神さまから、「この物語に耳を傾けなさい。」と示された み言葉として、ご一緒に読みたいと思います。
今日の み言葉に登場するのは、主イエス。姦通の罪を犯した女。律法学者たちやファリサイ派の人々。そして民衆です。場面は早朝のひんやりした空気に包まれた神殿の境内。主イエスは、朝早く、境内に入られると、集まって来ていた民衆の中に座り、語り始められました。民衆も、主イエスのもとに座り聴き始めました。静かな礼拝の輪ができた。そこへ、その静けさを打ち破るように、律法学者たちやファリサイ派の人々が、どやどやと入って来たのです。姦通の現場で、現行犯逮捕された女を連れて来て、人々の輪の真ん中に立たせ、鬼の首をとったようにイエスに訴えました。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
石打ちの刑。ただ石を投げるだけではない。皆で寄ってたかって石を投げつけ、打ち殺すのです。それが旧約聖書で律法と呼ばれる掟に定められている、昔から行われてきた刑罰でした。
申命記 第22章に、石打ちの刑の規定が記されています。「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床(とこ)を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。(22:22~24)」
ならば、どうして男も一緒に連れて来なかったのか?と思いますが、連行してきた人たちにとって、そんなことは二の次の問題でした。律法学者たちやファリサイ派の人々にとって、目的は主イエスを陥れることであったからです。当時、ローマ帝国の支配下にあったユダヤ民族は、ローマの法のもとにあり、刑の執行権はありませんでした。ですから、もし、「この女は、石打ちの刑にしなければならない。」と答えれば、ローマへの反逆罪で捕らえ、ローマ政府に引き渡すことができます。また、「女の罪は赦された。」と答えるなら、律法をないがしろにしたととがめ、民衆を扇動して捕らえることができたでしょう。あろうことか、天の神さまのもとから遣わされて来られた方を、正義の名のもとに審き、殺す口実をつくろうとしている。それが罪だとは思ってもいないのです。自分は正しいと思い込んでいる。自分は神の み心に添っている。そう確信して審いているのです。正義のためには、悪を排除しなくてはならない。だから、罪を犯した女を石で打ち殺す。同じように正義のために、神のもとから来られた方を罠にはめ、殺そうとしている。もしもこれが演劇の舞台であれば、照明が舞台を真っ赤に照らしているかもしれません。そこでパッと舞台は暗くなり、地面にかがみ込んでいる主イエスにスポットライトが当たる。光の中に浮かび上がるのは、指で地面に何やら書いている主イエス。正義のこぶしを振り下ろそうとしている律法学者やファリサイ派の人々は闇の中。そんな場面かもしれません。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」言葉は丁寧ですが、殺気立ってまくしたてている学者たち。その声など、まるで聞こえないかのように、かがみ込んで、何も言わずに静かに、何かを地面に書き続けておられる主イエス。主はいったい、この緊迫した場面で、何を地面に書いておられたのでしょうか?ある注解書には、「わからない」と書いてありました。わからないので、いろいろな考察をすることが許されると思いますし、実際さまざまなことが言われています。しかし、何を書いておられたにせよ、そのお姿を、わたしどもは決して、忘れてはならないと思います。わたしどもは自分の正しさを確信して相手を責めているとき、黙って地面に何かを書いておられる主イエスを忘れているからです。見事に忘れて、相手を責め立てながら、「わたしは、こんなに祈っている。それなのに神さまはちっとも答えてくださらない。ちっともこっちを向いてくださらない。」と腹を立て、神さまをも責めているのです。主イエスと、連行されて来た女を取り囲み、見下ろしている人々のように。
けれども、こんなに身勝手な問いかけでも、しつこく問い続けているうちに、主イエスは答えてくださいました。かがんで下を向いておられた主イエスは、からだを起こして、彼らの方にまなざしを向けて、おっしゃいました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そして再び、かがみ込んで、地面に指で何かを書き始められました。
すると、そこにいて、主イエスの お言葉を聴いた人々は、まず年長者から始まって、一人、また一人と、境内から立ち去っていきました。主イエスの お言葉により、主イエスを照らしていた天の光が、神のまなざしが、自分にも注がれていることに気づかされたのではないかと思います。「あなたは、天の光の中でこの人に石を投げられるか?神のまなざしの中で、この人を罰することができるか?あなたは、審く者なのか?あなたは、神なのか?あなたもまた、審きを受けるべき者ではないか?」
主イエスと罪を犯して連行されて来た女を取り囲んでいた人々は、いつの間にか一人もいなくなっていました。主イエスは、再びゆっくりとからだを起こして、その女性を見つめて、おっしゃいました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」婦人は、声を震わせて答えました。「主よ、だれも」。すると、主イエスは言われたのです。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
わたしどもは、下を向いて地面に何かを書いておられる主イエスのお姿を忘れ、神のまなざしを忘れて、罪を犯します。この女性と同じです。彼女がどのような人生を送ってきた人なのかはわかりません。一所懸命に生き、もうこれ以上は無理というところまで追い詰められ、投げやりになったのかもしれません。罪を犯したとき、神のまなざしを感じることができなくなっていたことだけは確かでありましょう。主イエスと婦人を取り囲み審こうとした人々も同じです。神さまのまなざしを忘れ、自分も審かれるべき者であることを忘れ、人を審くのです。主イエスは沈黙しておられます。かがみ込み、指で地面に何か書いておられる。そして、わたしどもにまなざしを向けて、おっしゃるのです。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
世界の至るところで争いを続けるわたしどもに語り続けておられます。主イエスから呼びかけられているのは、わたしどもです。「いや、わたしは手に石など持っていない」とは言えません。自らが神となり、相手の罪を裁き、「これは正義のためだから殺しても構わない」と主張し合って、世界は今、嘆きの声に溢れています。今朝ご一緒に読みました旧約聖書 エレミヤ書 第17章にあるとおりです。「あなたを離れ去る者は/地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ。(エレミヤ書17:13)」
わたしどもは皆、審きを受けるべき者です。審くことがおできになる方は、主イエスだけです。罪を犯した女性は、そのことを知りました。女性も、その場から立ち去ってしまってもよかったのに、そうしなかった。そこに残りました。「主よ、わたしを審く者は誰もいなくなりました。主よ、あなただけが、わたしを審くことがおできになります。あなたの審きを免れる者はいません。わたしは、あなたの審きを受けなくてはならない者です。」そう知ったから、主イエスのもとに残ったのです。そして残ったところで、主イエスから赦しの言葉を聴くことができました。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
今日、主の日の礼拝に招かれたわたしどもも言われています。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」この、「犯してはならない。」は、たいへん強い力を持っている言葉です。「あなたはもう罪を犯すことができなくなった。」そのように訳してもおかしくない言葉です。わたしどもは、罪を犯すことができなくなりました。主イエスが、わたしどもの身代わりとなり十字架の上で罰を受けてくださったから。審かれ、罰を受けるべきわたしどもに代わって罰を受け、死んでくださったから。そして、甦られて、その死による罪の赦しを信じるなら、永遠に、神の光の中に立つことができるのだと教えてくださったからです。それほどの恵み、喜びを知っていながら、どうして投げやりな人生を送ることができるでしょうか。人を審き、責めることができるでしょうか。わたしはあなたのために天から降(くだ)って来た、あなたの代わりに、罰を受けるために来た。あなたをこれ以上放っておけなくて来た。そのように言ってくださる主イエスに、日々、心を開くことができますように。
<祈祷>
父なる神よ、み言葉を通して、主イエスの赦しを心に刻むことが許され、感謝いたします。主よ、争いが続いています。裁きの言葉が溢れています。圧倒的な破壊力を持つ、ミサイルでこれでもかと殺し合いが続いています。主よ、わたしどものどうしようもない罪をお赦しください。黙ってかがみ込み、静かに何かを地面に書いておられる主の お姿を、わたしどもに思い起こさせてください。あなたのまなざしに気づかせてください。み子の十字架の死によって、罪赦されたわたしどもが、諦めることなく、必ず、み心がなると信じて、主の平和を祈り続けることができるよう、み霊を注いでください。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。一日、一日、聖霊を注いでください。主よ、一日も早く主の平和がなりますように。み国が来ますように。み心がなりますように。クリスマス礼拝に信仰を告白し、洗礼を受けようと求めている者があります。同じく、小児洗礼を授けて欲しいと願っている夫婦もおります。主よ、どうぞそれぞれの思いを聖霊によって強め、み心ならばクリスマス礼拝に洗礼の恵みをお与えください。本日、久し振りに礼拝に招かれた兄弟姉妹がおります。同時に、礼拝を慕いつつ、今日も礼拝に出席できなかった兄弟姉妹もおります。どうぞ一人一人に愛を注ぎ、どこにあっても、あなたが共におられると信じる信仰を日々、お与えください。病を患い、病床で主の日を過ごしている兄弟姉妹を深く憐れみ、わたしどもと等しい祝福を日々、注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年11月5日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第26章7節~15節、新約 ヨハネによる福音書 第7章40節~53節
説教題:「イエスを裁くもの」
讃美歌:546、10、120、21-81、332、540

主イエスは立ち上がって大声で言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」今、わたしたちも、主イエスから、大きな声で呼びかけられています。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」
当時、主イエスからこう呼びかけられた人々のうち、いったいどれだけの人々が、その言葉に従って、主イエスのもとに飛び込んでいったか?聖書には書かれておりません。ある注解書には、誰ひとり、主イエスの招きに応えた者はいなかったと書いてありました。
中には、主の招きの言葉に、今までにない力を感じた者もいました。ある人は、「この人は、本当に あの預言者だ」と言いました。またある人は、「この人はメシアだ」と言いました。
「本当に あの預言者だ」とは、イスラエルの民をエジプトからカナンの地へ導いたモーセのように、民を力強く導く預言者が再び来てくれる。そのように信じられていたことから出た発言です。また、「メシア」とは、キリスト、救い主です。神さまが、救い主を送ってくださらなければ、どうしようもない、というほど、民衆の渇いた心は、メシア、キリストを求めていたのです。
しかし、これらの人々も、「この人はメシアだ」と言いながら、主イエスの懐に飛び込みはしなかったのです。主イエスに従ったのではなく、主イエスそっちのけで、対立する者との論争に熱中してしまいました。主イエスは、「ただ信じなさい。幼子のように。安心してここへおいで。」とおっしゃっているだけなのに。
群衆の中には、はっきりと、「ナザレのイエスは、救い主ではない」と否定する人たちもいました。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」エルサレムの人たちからすると、ナザレはへんぴな田舎の小さな村であり、ベツレヘムから離れたところにあります。今では、主イエスがユダヤのベツレヘムというダビデの町でお生まれになられたことは、教会学校に通っていたり、キリスト教保育の幼稚園、保育園で育ったならば、誰でも知っています。しかし、エルサレムの群衆は、ナザレのイエスが、まさかダビデの出身地ベツレヘムで生まれたとは、想像もできないことだったのでしょう。
一方には、「メシアかもしれない」と言いながらも、当のキリストはそっちのけで論争に熱中する者がおり、もう一方には、せっかく待ちこがれていたキリストが神さまのもとからいらしてくださったというのに、そのキリストを裁く者がいる。そのようにして、群衆の間には対立が生まれたと福音書記者は記しております。それぞれが、相手の言葉をよく聞きもせずに、自分の思いを勝手に述べる。互いに裁き合い、対立する人間社会の構図は、聖書の時代も、今も変わらないのかもしれません。
そして、さらに第7章の最後、45節から53節には、主イエスを殺そうと狙うユダヤ教の指導者たちの姿が描かれます。45節。「さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、『どうして、あの男を連れて来なかったのか』と言った。下役たちは、『今まで、あの人のように話した人はいません』と答えた。」この下役たちは、第7章32節以下に登場していた者たちです。32節に、「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。」とありました。「祭司長たち」とは、ユダヤ教の最高の権威者たちです。ファリサイ派の人々は、行いにおいても、知識においても、民衆の尊敬を集めており、誇り高い人びとでした。いわばユダヤ教のエリート集団が、イエスを捕まえさせようと部下である下役たちをイエスのもとへ送り込んだのです。ところが、下役たちは主イエスの言葉に圧倒され、そのまま何もせずに帰って来てしまいました。彼らは報告しました。46節。「今まで、あの人のように話した人はいません」。
下役たちは、主イエスの言葉を聞いたとき、言葉の意味は分からなかったかもしれません。それでも、主イエスの言葉に圧倒されてしまったのです。祭司長たちやファリサイ派の人々は、激しく怒(おこ)りました。下役たちが命令に従わなかったばかりか、「今まで、あの人のように話した人はいません」と反論したからです。イエスをこのまま生かしておいたら、我々の立場まで危うくなってしまう。その恐れの心は、下役たちへの激しい叱責となりました。47節。「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」「惑わされ」るとは、誘惑され、信仰の道から逸れる、つまり、「異端の教えに導かれてしまう」という意味が含まれています。はっきり言えば、「お前たちは悪魔の教えに惑わされている。」と言っているのです。ユダヤ教の指導者たちには、「われわれこそ、神の言葉の専門家」という自負がありました。エルサレムでしっかりした教育を受けた者の中に、あんな田舎者のイエスをメシア、救い主と信じる者などいるわけがない。まさか、お前たちまで悪魔の教えに惑わされるとは情けない。あの男をメシア、救い主と信じている連中は、神に呪われている。」と怒鳴ったのです。わたしども自身の罪の醜さに、胸がしめつけられます。自分の意見が否定されると、相手を徹底的にこき下ろす。「あなたは間違っている」と罪に定めようとしてしまう。それが、わたしどもの本性であり、すべての争いの根源にあるものではないでしょうか。
今朝の40節から53節の み言葉には、主イエスは一度も登場しておりません。キリストについて話していながら、キリストそっちのけ、イエスさまそっちのけで議論を戦わせているのです。主はどれだけ心を痛め、悲しんでおられたことでしょう。しかし、このような対立、呪いの言葉は、2000年前の出来事、ではすみません。2023年11月。今こうしている間にも、相手を呪う言葉は飛び交っており、殺し合いが続いている。キリストは、どこまでも無視されたままです。
祭司長たちやファリサイ派の人々の怒鳴り声に意気消沈した下役たちは、沈黙してしまいました。わたしどもも、下役たちと同じ罪を犯す。周りの空気を読み、黙ってしまう。その場を支配している人々の顔色を見て、キリスト者としての責任を放棄してしまう。
第7章には、「ナザレのイエスは人々を惑わし、扇動する異端者である」という誤った裁きが、「正論」と認められてしまった経緯が記されています。そして、そのような誤った裁きに黙ってしまう罪は、わたしどもの罪です。
僅かな救いは、この誤った流れに、抵抗しようと試みた男がいたことです。ニコデモであります。第3章1節以下が伝える物語に登場した人物です。ニコデモは、ファリサイ派のひとりでしたが、主イエスの教えに惹かれ、日が暮れてからそっと、主イエスを訪ねて行き、教えを乞うたのです。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。(3:2)」そのようにニコデモは、主イエスを尊敬していましたから、何とか流れを変えようと、勇気を出して申し出ました。第7章51節。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」なぜ裁判を開くこともせず、イエスを異端者と断罪するのか?それはおかしい!と訴えたのです。しかし、ニコデモの抵抗はそこまででした。主イエスが神のもとから来られた方だと知っていながら、イエスを殺そうと息巻いている仲間たちの中で、「この方こそメシアだ」、とは証言できなかった。怖かった。命をかけてイエスに従うことができず、結局はキリストを裁く側に立ち続けてしまいました。言うまでもなく、ニコデモの姿の中にも、わたしどもの惨めさがあります。
しかし、キリストそっちのけで、それぞれの意見をぶつけるだけぶつけ合って、人々はどうしたかというと、第7章は、あっけなく終わります。53節。「人々はおのおの家へ帰って行った。」激しいやり取りが続いた第7章。しかし最後は、何事もなかったかのように、人々はおのおの家へ帰って行ったのです。僅か一行の短い言葉ですが、ここには、わたしどもがどんなにやっきになって神を否定しようとも、神さまの救いのご計画は、神さまの時の中で、着々と進んでいくのだ、という強いメッセージが込められているように思います。人の手によって神さまの救いのご計画がとん挫してしまうことはないのです。主イエスが捕らえられ、十字架に架けられたのは、もうしばらくあとのこと。過越祭での出来事でした。それが、神さまの定められた「時」でありました。主は、過越祭にほふられる いけにえの小羊のように、十字架の上で殺されたのです。主イエスそっちのけで議論に熱中する者のために。己の知恵を誇り、真実を見失っている者のために。み子を裁き、罪に定める者のために。「間違っている」と気づいていながら、声を上げられない者のために。とどのつまり、わたしどもすべての者のために。
今、わたしどもの前に、聖餐の祝いが備えられました。聖餐は、十字架で裂かれた主イエスのからだと流された血潮をあらわしています。これをいただくとき、わたしどもは自分が赦されていることを心とからだに刻むのです。すべての者が、聖餐の祝いに招かれています。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と、わたしどもは招かれているのです。主イエスの招きに応え、主の懐の中に飛び込む。それが信仰告白であり、洗礼です。神さまが遣わしてくださったキリストを、遠くから眺めて、議論の対象としてあれこれ論評するような知恵を捨てたい。己の正しさを捨て、神さまの恵みの中へ飛び込みたい。主イエスは、ただ、そのことだけを待っていてくださいます。「安心して、わたしに全部、任せてほしい。」と待ってくださっているのです。
<祈祷>
 主よ、あなたの呼びかけに素直になることのできない世を憐れみ、すべての者に聖霊を注いでください。すべての者をあなたのもとへ立ち帰らせてください。一日も早く、争いから和解へとわたしどもの世を導いてください。主の み名によって祈ります。アーメン

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。一日、一日、聖霊を注いでください。主よ、日々新たに生かされる力を必要としている兄弟姉妹が病床にあります。あなたの癒しの み手で触れてください。それぞれの痛み、苦しみを和らげてください。ウクライナ、イスラエル、世界の至るところで争いが激しさを増しております。どうか、争いをしずめてください。嘆きの中にある者たち、悲しみの中にある者たち、望みを失ってしまった者たちを憐れんでください。政治に責任をもつ者に、あなたを畏れる心を思い起こさせ、世界に対する責任を果たし、これ以上、無益な死を増やすことのないよう導いてください。求道生活を続けている者に聖霊を注いでください。どうか、あなたの招きを信じ、あなたの懐に飛び込むことができますように。信仰告白、洗礼への思いを強めてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年10月29日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第63篇2節~9節、新約 ヨハネによる福音書 第7章37節~39節
説教題:「キリストこそ、いのちの水」
讃美歌:546、Ⅱ-78、238、270、539

年に一度の家族礼拝としてまもっております本日の礼拝。この朝、わたしどもに与えられております み言葉は、主イエスから、すべての者への招きの言葉です。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」「だれでも」と、主イエスはおっしゃいました。子どもでも、大人でも「主イエスはすべてのひとを、このわたしをも、呼んでいてくださる。」この恵みを おのおの胸に刻みつつ、ご一緒に読んでまいりましょう。
この み言葉は、ユダヤの民にとって大切な祭り、仮庵祭が最も盛り上がる最終日に、主イエスが言われた言葉です。祭りといえば、学園祭でも体育祭でも気持ちが高ぶり、興奮するものです。まして、民族あげての一週間の祭りの最終日ともなれば、なおさらでありましょう。人々の心がもっとも満たされるときと言えるかもしれません。しかしそのとき、主イエスは、立ち上がって、大声で言われたのです。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」主イエスは、満足しているように見える人々の心が、実は、カラカラに渇いていることをご存知でいらっしゃいました。ひととき、祭りの雰囲気に酔っていても、祭りが終わればそれぞれの現実へと戻らなくてはなりません。
たとえ表面はそうは見えなくても、人にはそれぞれ大なり小なり、思い悩みがあるものです。それは、わたしどもにも言えることです。新聞やラジオの「悩み相談」を時おり読んだり聞いたりいたしますが、相手にどう思われるのかが気になり、身動きがとれなくなっている者の悲鳴で溢れています。先日、ラジオから流れてきたのは、新しい職場になじめない、という相談メールでした。先輩に話しかけたいけれど、そのタイミングがわからない。ささいなことと言ってしまえばそれまでですが、思い悩みの根っこにあるのは「恐れ」です。まわりの人を信頼することができず、壁をつくって閉じこもる。そうすると、余計に心配になって外へ出るのが怖くなる。孤独です。しかし、だからこそ、そのような現実の中へこそ、主イエスは降りて来てくださいました。父なる神さまの温かいふところを離れて、天から降りて来てくださったのです。そして、天に向かって祈るように、大きな声を張り上げて、おっしゃいました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」主イエスは、決して、難しいことを求めておられるのではありません。高いところから、「ここまでのぼって来い」と呼んでおられるのではないのです。わたしどもと同じ場所。匿名でなければ、人に言えないような孤独の中に立ってくださって、「わたしがここにいるよ。そのままの姿でここへおいで。重たい荷物をおろしにおいで。」と呼んでくださっているのです。わたしどもと同じ場所と申しましたが、実際には、もっともっと低い場所です。十字架の死という、誰よりも低い、誰よりも孤独なところに立っておられる。しかしそれゆえに、この方は、信じる者にとっては、命の水の水源でいらっしゃいます。地中深くから湧き出す清水のように、主イエスの み言葉はわたしどもを潤すのです。
ところで、38節に、「聖書に書いてあるとおり」とあります。主イエスが語っておられる「聖書」とは、わたしどもも用いております旧約聖書のことです。ここで主イエスは旧約聖書の、どの部分を指して話しておられるのでしょうか。調べてみますと、いくつかの箇所がその候補としてあげられます。その中の一つ、ゼカリヤ書 第14章の み言葉を朗読いたします。そのままお聞きください。「その日、エルサレムから命の水が湧き出(い)で/半分は東の 海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける。(14:8)」預言者ゼカリヤは、幻を見ました。わたしどもを生かす命の水が、やがて神の都エルサレムから湧き出る時がくる。神さまの定められた時、命の水は神の都エルサレムから湧き出(い)で、東西に絶えず流れ、やがて死海や地中海にまで達する。そのとき、湧き出る流れが、乾いた石の土地を青々と茂る緑の大地に変貌させる、という幻です。預言者ゼカリヤは、その幻を、信じて、語ったのです。主イエスは、ゼカリヤの預言を、「今こそ、わたしが成就するのだ」と宣言なさったのです。しかし、そのように理解すると、38節後半に記されている「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」と言われた「その人」とは、いったい誰を指すのか、少し混乱するかもしれません。
「わたしを信じる者は」、と書かれていますから、主キリストを信じる者、キリスト者と捉えるのが自然です。しかし、ゼカリヤ書の み言葉を合わせて読むならば、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」存在は、誰よりも、主イエスご自身であります。そして、主イエスから湧き出る水を飲む者、すなわち主イエスを信じる者もまた、主イエスからいただいた命の水をあふれさせ、流れとなり、周囲を潤す者となる。主イエスは、「これを信ぜよ」とおっしゃいます。「信じて飲みなさい」と言っておられるのです。
ここで、すでにご一緒に読みましたヨハネによる福音書 第4章の み言葉が思い起こされます。そこには、主イエスとサマリアの女の物語が記されておりました。主イエスは、心が渇ききっていたサマリアの女に言われました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(4:13~14)」サマリアの女は、主イエスとの対話の中で、「この人こそ、キリストと呼ばれるメシアではないか」と感じていきます。女は大喜びで、サマリアの人々に「メシアが到来したかもしれません」と伝えました。そしてこの女性を介して主イエスと出会った、サマリアの多くの人々は、次々と「主イエスこそ、メシア、救い主である」と信仰を告白していきました。主イエスに、渇きを癒やしていただいた者は、ただ癒やされてお終いとはなりません。その人の内から癒やされた喜びが溢れ出て来る。その喜びが周りの人々に溢れ、周りの人々をも、潤すのです。
また、ヨハネ福音書は第19章34節に、そこだけを拾って読むとよくわからない、不思議な言葉を記しています。そのままお聞きください。「しかし、兵士の一人が槍(やり)でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。」これだけを読むと、不思議な言葉ですが、サマリアの女のエピソードをはじめ、ヨハネ福音書を通して読んでいきますと、それこそ渇いた土地に水が染み入るように、わたしどもの心の奥に恵みが染み入ってくるように感じられます。主イエスの十字架の死によって、わたしどもを生かす水が流れ出たのです。主は、「命の水」をわたしどもに与えるために、十字架に架かってくださったのです。そこまでして、わたしどもに「生きて欲しい、渇きを癒やして欲しい、永遠の命を得て欲しい」と願っておられます。そして「渇き、苦しんでいる者は、だれでも、わたしのところに来なさい。罪の赦しを信じなさい。」と、救いの中へ招いてくださるのです。主イエスは、すべての者にとっての、「命の水」の源です。わたしどもは、主イエスの お言葉をただ信じて、どんなときも、「主よ」と呼び続ける。そのとき、わたしどもは主イエスのもとにいます。主イエスが「ここへおいで」と み手を広げて待っていてくださる、その手の中にいて、永遠に湧き出る水を受けているのです。
ヨハネによる福音書は、主イエスの約束を記したあとでこう言いました。39節。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降(くだ)っていなかったからである。」「栄光を受ける」とは、主イエスが十字架に架けられたのち、お甦りになられた、死に対する勝利の栄光を意味します。主イエスのすべてのわざが成し遂げられた時、神の霊の力が天から降り、主イエスを甦らせ、主イエスに栄光が与えられる。そして、これを信じるわたしどもにも神の霊が注がれ、わたしどもを満たし、永遠に生かすのです。この主イエスのお約束があるから、死がどんなに決定的であろうとも、超えることのできない深い谷であろうとも、わたしどもは自由です。死の谷のこちら側にある今も、わたしどもは主の命の水に生かされており、むこう側へ行ったとしても、わたしどもを満たしている主の命の水、神の霊に限りはないからです。そして、わたしどもを満たした霊は、こんどは、わたしどもから溢れ出し、あの渇いているひとにも、この渇いているひとにも届き、潤していく。「あなたも、わたしのところに来て飲みなさい」との、主イエスの招きが届けられていく。預言者ゼカリヤが、エルサレムから湧き出す命の水が大地を潤す幻を信じたように、わたしどもも、この幻を信じたい。わたしども自身の、リアルなヴィジョンとしてはっきりと心に描き、持ち続けていきたいと願います。
 今日は、ヨハネによる福音書と共に、詩編 第63篇を朗読して頂きました。先ほどは新共同訳でしたが、新しい聖書協会共同訳で朗読いたします。どうぞそのまま、お聞きください。「神よ、あなたこそわが神。私はあなたを探し求めます。魂はあなたに渇き/体はあなたを慕います/水のない乾ききった荒れ果てた地で。聖所であなたの力と栄光にまみえるため/私はあなたを仰ぎます。あなたの慈しみは命にもまさる恵み。私の唇はあなたをほめたたえます。命のあるかぎり、あなたをたたえ/その名によって、手を高く上げよう。極上の食物(しょくもつ)にあずかるように/私の魂は満ち足り/唇は喜び歌い、口は賛美の声を上げます。私が床(とこ)であなたを思い起こし/夜回りのとき、あなたに思いをはせるなら/あなたは必ずわが助けとなってくださる。あなたの翼の陰で、私は喜び歌います。私の魂はあなたに付き従い/あなたの右の手は私を支えてくださいます。(詩編 63:2~9)」
 人どうしが信頼できず、壁をつくり、互いを恐れる。挙句の果てには、互いを攻め、殺し合うような渇ききった今の世ですが、主イエスは変わらず、「わたしのところへ来なさい」と呼んでいてくださいます。「命の水がここにあるよ」と呼んでいてくださいます。わたしどもは、ただその水を飲みなさいと、ここに集められ、主の命の水で満たしていただいています。今、この水はわたしどもから溢れ出します。すべての人に、主イエスが、ここへおいでと呼んでおられることを伝えたい。人の目におびえ、孤独の中で、どうしてよいかわからなくなり、声にならない悲鳴を上げる者にも。戦禍で震えている人々にも。貧困に喘ぐ子どもたちにも。主イエスの招きを届けたい。祈りをあつくしたい。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、あなたが約束してくださった溢れる恵みを信じさせてください。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と招いてくださいました主イエスの お言葉を、しっかりと聴き取ることができますように。素直に、「命の水をください」と、主のもとへ行く者としてください。わたしどもを命の水で満たし、溢れさせてください。主の み名によって祈ります。アーメン。

2023年10月15日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第32章15節~20節、新約 ヨハネによる福音書 第7章25節~36節
説教題:「神の明るい光の中へ」
讃美歌:546、28、265、352、545A

「死んだらどうなるのか?」誰もが一度は考えたことがあるのではないでしょうか。わたしも小学生の頃、「死んだらどうなってしまうんだろう」と考え始めると、怖くなり、夜、なかなか眠れない時期がありました。もちろん、わたしどもは死んだことがありません。ですから、そういう意味では死んだらどうなるかを知りません。けれども、「主イエスは、わたしの救い主、キリストと信じます。」と信仰を告白し、洗礼を受ける者は誰でも、キリストに結ばれて、主イエスと同じ甦りの命を生きる者とされます。たとえ死んでも、それでおしまいではありません。父なる神さまの みもとへ、天の光の中へ移されると、わたしどもは固く信じています。
今、ヨハネによる福音書を少しずつ読み進めています。第7章に入り、人間の罪の問題が、どんどん浮き彫りにされてくるのを感じながら、読んでおりますが、そうして浮き彫りにされ、形を現してきた人間の罪が、まるで息をしはじめて、何か巨大な化け物となって立ち上がって迫って来るような出来事が、現実に起こってしまいました。
10月7日の土曜日、パレスチナ暫定自治区のガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスが、突如、イスラエルへの攻撃を開始し、イスラエル側も激しい空爆で応酬。双方の死者は、すでに3,500人を超えているといいます。「神さま、あなたは、どこに隠れてしまったのですか!」と叫びたくなるような、悲惨な映像が目に飛び込んでまいります。イスラエル側、ハマス側、双方が「自分たちは正しい」と主張し、相手を攻撃している。結果、犠牲になるのは弱い立場の者たちです。34節の主イエスの み言葉が、現実となっています。「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることができない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」しかし、だからこそ、今朝「ここに立ち帰りなさい」と示されている み言葉を、大切に読んでまいりたいと思います。
今朝のヨハネによる福音書 第7章25節から36節は、主イエスが、「ご自分が、どこへ帰ることになるか」を、初めてお語りになった み言葉です。すでにわたしどもは、主イエスがどこからいらしたかを語られた み言葉を読みました。第6章51節。「わたしは、天から降(くだ)って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」これはやがて、わたしどもが毎月与ります聖餐へと繋がった み言葉です。主イエスが、天から降って来られた救い主、キリストと信じ、洗礼と聖餐によってキリストと一つにされるとき、わたしどもは永遠に生きる者とされる。もちろん、はじめに申しましたように、地上での命には限りがあります。どんなに長生きしたとしても、地上での命を神さまにお返しする日が必ずまいります。だからこそ、主イエスがどこへお帰りになられるかを語られた今朝の み言葉は、わたしどもにとって大切であり、闇の中の光であります。
主イエスは、故郷ガリラヤから、仮庵祭でにぎわうエルサレムへ、人目を避け、隠れるようにして上って行かれました。そして、祭りも半ばとなったころ、神殿の境内で聖書を教え始められました。エルサレムの人々の中には、主イエスのことばを聞いて呟く者たちがいました。25節。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」
「公然と」と訳されている言葉は、「大胆に」、あるいは「自由に」と訳すことのできる言葉です。エルサレムの人々は、主イエスがユダヤ教の指導者たちから指名手配されていることを知っていました。それなのに主イエスが、まるで誰からも、何の束縛も受けていないかのように、何も恐れずに、大胆に、自由に、聖書を教える姿に、本当にお尋ね者なのかと驚いたのです。「議員たち」とは、ユダヤ人の社会における最高の権力機関である議会の「議員たち」です。その議員たちが、大胆に語っているイエスを黙認している。ということは、ナザレのイエスを「メシア(救い主)」と認めたのだろうか?しかしです。エルサレムの人々は、イエスの出自を知っていました。ナザレ出身の大工の息子がメシアだなんてことがあるものか。我々が待ち続けているメシアは、神のところから来るのだから、神秘のベールに包まれているに違いないと、つぶやき合ったのです。すると、神殿の境内で教えておられた主イエスは、「大声」で言われました。28節。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」
旧約聖書において、「大声」は、父なる神に向かって叫ぶときに用いられる表現です。神さまに向かう叫びは祈りです。主イエスは、神に叫ぶように、祈るように、エルサレムの人々に宣言なさったのです。「わたしは、自分勝手にあなたがたの前へ出て来て、自分勝手にしゃべりたいことを語っているのではない。神がわたしを世にお遣わしになり、神から授けられた言葉を語っている。神は真実な お方。あなたがたは神を知らないが、わたしは神のもとから来た。だから、つぶやいていないでわたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きなさい。」
ひそひそささやき合うエルサレムの人々の疑問であった、何者も恐れずに大胆に、自由に語ることがおできになった理由を、主イエスは大声で、宣言なさいました。エルサレムの人々は、主イエスのメッセージに圧倒されたことでしょう。同時に、「あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。(7:28~29)」と言われた言葉の前に、素直になることができませんでした。「主よ、本当にそのとおりです。どうか、み言葉をください」と求めることができず、聞き捨てならない言葉として受け取ってしまった。なぜなら、「自分たちこそ、神に近いところに立っている。お前なんかよりも神のことをよく知っている」という高慢な思いがあったからです。そして、「お前は何様のつもりだ。神を冒瀆する気か?」と、イエスを捕らえようとしました。けれども、誰一人、主イエスに手をかける者はいませんでした。その理由をヨハネ福音書は「イエスのときはまだ来ていなかったからである」と書いています。神さまが、お許しにならなかったということです。神さまが、今はまだそのときではないと、人々の手を止められたのです。しかし、そのことを知る由もない人々の反応は、様々でした。31節以下。「しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、『メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか』と言った。ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。」ここにも、人間の高慢が描き出されているように思えてなりません。「信じる者が大勢いて」、とありますが、それでも、その言葉には、自分が本物か否かを判別してやろうという気持ちが見え隠れしているのではないでしょうか。素直に信じて従うのではなく、評論家のように高いところから眺めて、ささやき合い、周りの人の出方をうかがっているだけのように感じます。そして、そのささやき声が大きくなることを恐れる者たち、ファリサイ派の人々と、祭司長たちは結託し、イエスを捕らえるために下役たちをイエスのもとへ遣わしました。
主イエスは、ユダヤ人たちにお告げになりました。33節。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」主イエスは、はっきりおっしゃいました。「わたしは、今は、こうして神殿の境内で聖書を説き明かしており、あなたがたもわたしの言葉を聞くことができる。けれども、父なる神さまがお定めになったときに、わたしは、わたしを世に お遣わしになった神さまのもとへ帰るのだ」と言われたのです。「ちゃんと勉強したこともない田舎ものが何を言うか」と見下している人々には、主イエスの お言葉の意味が理解できませんでした。我々は神のことをよく知っているという傲慢な思いが、この み言葉の中に隠れている神さまの恵みの光を見る目を曇らせてしまったのです。主イエスの お言葉の意味が、まったくわからないユダヤ人たちは、互いにささやき合いました。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。(7:35~36)」
わたしどももまた、本来であれば、誰ひとり、主イエスを捜しても、見つけることができない者です。おごり、高ぶり、自分が神であるかのように他者を裁き、争う。すぐに神さまを見失ってしまう。わたしども自身の力では、主イエスのおられる所に行くことなどできません。しかし、そのような罪人であるからこそ、父なる神さまは主イエスをわたしどものところへ遣わしてくださいました。主イエスは十字架の死に向かって歩み続けてくださいました。そして、父なる神さまの み心に従って、「わたしのところに来なさい」とわたしどもを招き続けていてくださるのです。しかし、それでは、34節以下に記されている主のお言葉は矛盾しているのではないかと思われるかもしれません。けれども、それは違います。
先週の金曜日、もう口から食べることができなくなってしまい、点滴だけで生かされている教会員が入院している病室を訪ねました。長くても9月末までと余命宣告を受けておられますが、かすかな声ではありましたが、「主の祈り」を共に祈ることができました。そのとき、姉妹の耳元で朗読したのは、主イエスが、最後の晩餐の席で弟子たちに語られた み言葉でした。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。(14:1~4)」ヨハネ福音書が、第7章34節で終わるなら、わたしどもは闇の中で地上の命を終えるしかなかったことでしょう。けれども、福音書は続きます。第14章で主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。(14:6)」とおっしゃいました。主イエスがお帰りになられた神さまの懐、父の家に、わたしどもも住むことが許される。主イエスが、その場所を確保してくださっているのです。主イエス ご自身が、そこへ行く道となってくださり、その道を照らす明るい光となってくださいました。
主は言われます。「自分の義しさにどこまでもこだわって主張し続けるあなたがたがわたしを捜しても、確かに見つけることはできない。しかし、あなたがたのその罪を赦すために、わたしは十字架の死を成し遂げた。たとえ、あなたがたがわたしを捜せなくても、見つけることができなくても、来ることができなくても、わたしがあなたがたを捜し、見つけ、招く。」
主イエスは、十字架の死という、どんな死よりも屈辱に満ちた、もっとも低く みすぼらしい死を、成し遂げてくださいました。その死によって、わたしどもの罪を赦すために。しかし、その主イエスを、神さまは放っておかれることはなく、三日目に復活させてくださいました。キリストは死に負けたままではなかったのです。主イエスは、十字架と復活によって、罪と死に勝利してくださいました。そのうえで、「わたしのもとに来なさい。遠くから、高いところから眺めていないで、わたしの十字架のもとに来なさい」と呼んでいてくださいます。十字架という、最も低いところに立ってくださった主イエスが、「わたしのもとに来なさい、わたしこそ、神さまの明るい光の中へ入るための入口だ」と呼んでいてくださるのです。己の高さを誇り、まるで自分が神であるかのように裁き合い、殺し合いを続ける世にあるわたしどもこそ、誰よりも低くなってくださった主イエスの前に、何も持たず、立ち帰らねばなりません。そこにこそ光が、わたしどもの場所が備えられているのですから。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる神さま、あなたがわたしどもに与えてくださった溢れる恵みを感謝します。わたしどもは、すでに神さまの明るい光の中へ招かれております。主よ、あなたの招きを素直に信じ、あなたの招きが、わたしどもだけでなく、すべての者への招きであると信じ、主の平和を、主の祝福を日々、祈り続ける者としてください。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。一日、一日、聖霊を注いでください。主よ、ウクライナでの争いが終結する前に、今度はイスラエルで、争いが始まってしまいました。お互いにミサイルを撃ち合い、多くの命が失われています。主よ、攻撃を怖れ、不安な夜を過ごしている者、家族の命を奪われ、家を失い、怪我を負って嘆きの中にある者、人質として拉致され、震えている者、望みを失ってしまった者にあなたの慰めが行き渡りますように。あなたによって
与えられる、生きる力を必要としている者が多くいます。どうか、あなたの言葉が届きますように。来週の主日は、秋の特別伝道礼拝となります。祈りつつ準備しておられる遠藤勝信(まさのぶ)先生の上にあなたの祝福と導きを祈ります。わたしどもも、家族、友人に声をかけ、礼拝へと招く者としてください。たとえ、礼拝出席が困難でも、ライブ配信を紹介する者としてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年10月8日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第42章1節~7節、新約 ヨハネによる福音書 第7章10節~24節
説教題:「うわべだけで裁くな」
讃美歌:546、27、132、357、544、Ⅱ-167

 10月に入り、厳しかった暑さもようやく峠を越えて、心地よい季節となりました。秋、収穫の季節。この時季、ユダヤの人たちにとって大切な祭りがあります。仮庵祭です。この祭りは収穫感謝祭の側面もありますが、由来は、出エジプトの出来事です。エジプトでの奴隷生活からの脱出と、荒れ野での40年もの放浪生活を忘れないための祭りです。40年間、定住することなく、荒れ野を転々としていた。当然テント暮らしです。しかしその間、神さまはいつも守り導いてくださった。そのことを覚えて、人々は自分の家を出て、仮庵と訳されておりますが、小さなテントをこしらえて、そこで一週間暮らすのです。強い風が吹けば飛ばされてしまうような小さなテントで暮らしながら、自分たちの存在がいかに小さく、弱く、頼りないものであるか、そして、そのよるべない存在を助け、支えていてくださるのはどなたであるのかを、思うときなのです。わたしどももまた、自分のこれまでの歩みを思うとき、思うようにいかない、先の見えない、不安なときがあった。今も、その渦中にあるかもしれません。嵐の中でひとり、テントの中で夜明けを待つような心細さ。しかし、その心細い存在のわたしどもの心が、ぽっきり折れてしまわないように、支えていてくださる方が、おられるのです。目には見えなくとも。声は聞こえなくとも。それはどなたであるのか。わたしどももまた、そのことに思いを馳せながら、み言葉を読んでいきたいと思います。
先週から、ヨハネ福音書 第7章に入りました。主イエスの兄弟たちが、主イエスに、仮庵祭でにぎわう都エルサレムで一旗上げるように勧めた、というところをご一緒に読みました。けれども、主イエスは、「まだ、わたしの時が来ていない」とガリラヤにとどまられたとありました。けれども話は続いておりまして、今日の箇所では、兄弟たちが主イエスを残して、都エルサレムに上って行ったとき、あとから主イエス御自身も、「人目(ひとめ)を避け、隠れるようにして上って行かれた」のです。第7章の1節には、すでにユダヤ人たちは主イエスを殺そうと狙っていたことが書かれていました。いわば「お尋ね者」です。ですから主イエスは、ひっそりとエルサレムに上って行かれました。
案の定、ユダヤ人たちは「あの男はどこにいるのか」とイエスを懸命に捜していました。ここで「ユダヤ人」とありますのは、ユダヤ教の指導者たちのことです。すでに、エルサレムでも、イエスの噂がささやかれていました。「『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群衆を惑わしている』と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。」とあります。面倒なことには巻き込まれたくないとヒソヒソうわさ話をするだけだった、ということです。そのようなエピソードを、わざわざここに挟んだ福音書記者の意図を思うとき、わたしどもは、この、無責任で危うい群衆の中に、見たくないのですが、自分自身の姿を見ざるを得ません。ここに、わたしがいる。しかし、だからこそ、主イエスは十字架に向かって歩み続けてくださったのです。
祭りも半ばになったころ、主イエスは、エルサレムの神殿の境内で、人びとの前に姿を現し、聖書を語り始められました。あまりに見事な説教にユダヤ教の指導者たちは驚きました。彼らは、驚いて言いました。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」。今でも特に芸能の世界などでは有名な先生に師事した、というプロフィールが重んじられます。師事することで箔がつく。それに似ているかもしれません。「あのイエスという男は、どの先生の教えも受けていない。それなのに、なぜ、見事な説教ができるのか?」その思いは、やっかみ、嫉妬に通じる思いです。
ご覧になっていた方もおられると思いますが、朝の連続テレビ小説「らんまん」の主人公は、小学校中退という学歴で、当時の東京帝国大学で働くことになりました。目立つ功績をあげるたびに、いつもついてきたのは、「この人は学歴もないのに」というつぶやきでした。やっかんだり、やっかまれたり。わたしどもにも多かれ少なかれ覚えがあります。ユダヤ教の教育を受けた者たちは、それぞれ、「わたしは有名な先生の教えを受けた。わたしこそ正統派の聖書学者」と胸を張っていた。それなのに、学歴もない、大工の息子であるナザレのイエスが堂々と教えを説いている。そのことばを、一方では認めながらも、嫉妬心が邪魔をして、つぶやいたのです。
主イエスは、彼らに お答えになりました。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心(みこころ)を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」主イエスは、わたしは自分勝手な話はしない。神さまが与えてくださった言葉を、語っているだけである、とおっしゃるのです。18節に、「自分勝手に話す」とありますが、直訳は、「自身から語る」という言葉です。わたしどもが話す、その言葉がどこから生まれるのかというと、そのほとんどは、自分の中にある考えです。しかし、主イエスは、「わたしは自分の中から出てくる言葉は語らない。」とおっしゃいます。自分の中から出てくる言葉を語る者は、神さまの栄光よりも、語っている自分が尊敬され、何という偉い先生だろう、凄い先生だ、と褒められることを、心の中で求めている。「栄光」という言葉は、もともと「光」という意味の言葉です。神さまにのみ、光が当たることを求めて生きる。その人は真実な人であり、不義がない。反対に、「自分たちこそ正義」と思い込み、自分にスポットライトが当たることを求める生き方は、道を間違えていると、主は言われるのです。
さらに主イエスは、モーセの名前をあげ、ユダヤ人たちに語りました。「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」ユダヤ人たちの顔色は、怒りに満ちた表情に変わったに違いありません。なぜなら、我々こそが、律法を忠実に守っていると思い込んでいたからです。自分の過ちが明らかにされるときのわたしどもの反応はひとつ。相手への攻撃です。その声はユダヤ教の指導者たちではなく、群衆から上がりました。20節。「あなたは悪霊に取りつかれている。」そして、主イエスから見透かされてしまった殺意をやっきになって否定しました。「だれがあなたを殺そうというのか。」この群衆の言葉が、むしろ彼らの殺意を明らかにしています。
ここで、「だれがあなたを殺そうというのか。」と言っている群衆たちこそ、今朝もご一緒に告白した使徒信条に登場するポンテオ・ピラトのもとで主イエスが裁判にかけられたとき、一斉に「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」と狂ったように叫び続けました。これが、わたしどもの罪の現実であります。自分こそが正義だと思っている。そして、わたしの正しさを否定する神なんかいらない。何の役にも立たない、我々の罪のことばかり言ううるさいキリストはいらないと殺す。群衆の罪は、他人事ではありません。わたしどもの現実なのです。
主イエスは、最後に こう言われました。21節。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆 驚いている。しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」
主イエスが21節で語っておられる「一つの業」とは、第5章に記されている一つの事件です。エルサレムにある「べトザタの池」のほとりで、38年もの間、病に苦しみ続けていた人を、主イエスが癒やされたのです。その日は、ユダヤ人たちが必ず休まなくてはならない日として大切にしている安息日でした。そのため、ユダヤ人たちは怒ったのです。「お前は、安息日にやってはいけないことをやった。安息日に働いてはいけない。安息日が過ぎるのを待たなければならない。」この事件をきっかけに、ユダヤ人たちは主イエスを迫害し始めました。
一方、ユダヤの人たちは、男の赤ん坊が生まれますと八日目に割礼を施します。ユダヤの民族のしるしを、赤ん坊のからだに刻むのです。割礼もまた、「一つの業」です。当然、安息日規定が問題となります。そこでユダヤ人たちは、「割礼は例外」と定めました。なぜなら、割礼を施さなければ、息子が神さまの祝福から漏れてしまうと考えたからです。だから、愛する息子に割礼を施すためならば、医者を呼んでもよいと定めたのです。
主イエスは、ユダヤ人たちに、深い愛と憐れみを抱きつつ、おっしゃるのです。「あなたがたは、自分たちの矛盾にまだ気がつかないのか。愛する息子の祝福のための割礼なら、安息日の掟に例外を認めている。それなのになぜ、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。」ここで、「全身」と訳されている言葉は、「全存在」と訳してもよい言葉です。「ベトザタの池で肉体の病だけでなく、生きる望みを失っていた人の『全存在』を癒やした。それなのになぜ、あなたがたは、この人に起こった救いの出来事を一緒に喜んでくれないのか?なぜ、腹を立てるのか?」主イエスの深い嘆きがわたしどもに迫ってまいります。
主イエスは、ユダヤ教の指導者たち、群衆、そしてわたしどもに、「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」と命じられます。「腹を立てる」人間は、「わたしは間違っていない。わたしには不義がない。」と思い込んでいます。わたしは正しい。その思いは相手に腹を立てます。正義を振りかざして相手を裁く。裁きの行き着くところは殺しです。実際に殺さなくても相手を否定して「あの人さえいなければ」とか、「お前なんかいらない、消えてしまえ」と思う。それは、心の中で犯す殺人です。これまでの人生の中で、わたしはいったい何人の人を殺してきたか?と思うと、おそろしくなります。
主イエスは、このときすでに十字架の死を覚悟しておられました。そのときユダヤ教の指導者たちから「神を冒瀆した。」と裁かれることも、群衆から「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」と裁かれることも、ご存知であられた。すべてをご存知の上で、わたしどもの罪による間違った裁きを受けて、十字架刑に処せられました。自分勝手な正義を振りかざすわたしどもの罪を赦すために。ヨハネ福音書を貫いているのは、それは、神さまの愛のご計画によるのだ、というメッセージです。第3章16節以下。そのままお聞きください。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」主イエスは、わたしどもの全存在が赦され、癒やされることを真実に望み、十字架の死を受けてくださいました。それが父なる神さまの み心であることを知っておられたからです。その主イエスが、わたしどもを呼んでおられます。「あなたの罪は、わたしの十字架の死によってすべて赦された。だから呟くのはやめなさい。正義を振りかざして腹を立て、自分の正しさで裁くこともやめなさい。そして、わたしの十字架の もとに来なさい。後悔も、悲しみも、苦しみも、あなたの心の中にあるものを全部、わたしのもとに注ぎ出しなさい」と招いておられるのです。神さまは、わたしどもを裁くためではなく、わたしどもを救うために、主イエスを お遣わしくださいました。罪を赦された者どうし、お互いに裁き合うのではなく、赦し合い、支え合い、祈り合う日々を共に過ごしたい。心から願います。

<祈祷>
主よ、み言葉の光の中で見えてくる恐ろしい罪を、はっきり認めることができますように。主イエスを心で殺しているから、み言葉を聞かないふりをしているから、となりびとを真実に愛することができません。自分の正しさをふりかざし、だれかを裁いてしまいます。病んでしまっているわたしどもを癒やしてください。罪を赦された者として、自分勝手な言葉を捨て、ただ、あなたの栄光を現す者として、あなたの教えに、あなたの み言葉に真実に生きる者としてください。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。一日、一日、聖霊を注いでください。主よ、今日も争いが続いています。子どもたちが犠牲になり、住み慣れた街が破壊され、望みを失っている者がおります。わたしどもを諦めることなく、平和への祈りを続ける者としてください。望みを失っている者に、主にある平安を お与えください。主よ、年老いて、ここに来ることができなくなった者がおります。病を患い苦しんでいる者もおります。たとえここに来ることができなくとも、どこにあってもあなたが共におられることを信じることができますように。今日は、礼拝後に各委員会が行われます。それぞれの委員を強め、存分に用いてください。伝道委員会は、10月22日の秋の特別伝道礼拝のためのポスティングを行います。その業を祝し、一人でも多くの者を礼拝へと招いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年10月1日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ヨブ記 第24章1節~12節、新約 ヨハネによる福音書 第7章1節~9節
説教題:「キリストの『とき』」
讃美歌:546、52、195、Ⅱ-1、290、543

10月を迎えました。ご一緒に読んでいるヨハネ福音書も、今日から第7章に入ります。第7章の舞台は、ユダヤ地方のエルサレムです。けれども、今朝の箇所では、主イエスはエルサレムから遠く離れた ご自分の故郷(ふるさと)ガリラヤに留まっておられます。時に、「ユダヤ人の仮庵祭が近づいて」おりました。
「仮庵祭」とは、過越祭や五旬節と並ぶ、ユダヤ教の3大祝祭の一つです。毎年9月から10月に行われます。ちなみに、今年は9月29日(金)の夕方から10月6日(金)の夕方までの一週間ということで、ちょうど真最中のようです。この期間、人々は「仮庵」、仮設の家で過ごします。テントのようなものを想像していただくとよいと思います。しっかり建てられている家を出て、一週間、テント暮らしをするのです。旧約聖書レビ記 第23章42節以下には、このように記されています。どうぞそのままお聞きください。「あなたたちは七日の間、仮庵に住まねばならない。イスラエルの土地に生まれた者はすべて仮庵に住まねばならない。これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々(よよ)の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である。(23:42~43)」このように、「仮庵祭」は神さまのご臨在を深く思う時です。同時に、主イエスが活動なさっていた頃の人びとにとって、嘆きの時でもあったといいます。
今日は、ヨハネ福音書と共に、旧約聖書ヨブ記 第24章を朗読していただきました。冒頭1節には、健康や家族など、多くのものを失ったヨブの深い嘆きが記されています。「なぜ、全能者のもとには/さまざまな時が蓄えられていないのか。なぜ、神を愛する者が/神の日を見ることができないのか。」ローマの支配下でイスラエルの国の復興をどれだけ待っても、どれだけ祈っても、神の救いが見えてこない状況にあったイスラエルの民にとって、ヨブの嘆きはそのまま、自分たちのものでありました。荒れ野(あれの)を旅したモーセが率いる祖先たちは、昼は 雲の柱、夜は 火の柱を与えて導いてくださった神の力を仰ぐことができたし、飢え渇いた時にはマンナが与えられ、岩からほとばしる水をもって養われた。しかし、我々は、長くローマ帝国の圧制によって、虐げられている。「主よ、あなたは本当に今も生きておられるのですか?いつになったら、『救いの時』が訪れるのですか?」毎年「仮庵祭」が近づくたびに、そのような思いをつのらせずにはいられなかった。そんなときに、主イエスが現れたのです。病人を癒やすなどの多くの奇跡を行っておられたイエスを見て、兄弟たちは言いました。第7章3節。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世に はっきり示しなさい。」
 兄弟たちとは、いとこの範囲ぐらいの広い関係のようです。自分たちと同じ血を分けた者の中に、イエスという男がいる。彼は、人々の病を癒やし、悪霊に取りつかれた者を自由にし、驚くような力を発揮している。もしかしたらローマ帝国からの解放をもたらす救世主になってくれるのではないか。こんな田舎で くすぶっていないでエルサレムへ行って、一旗(ひとはた)揚げて来い、と促している。今、まさに仮庵祭が近づいて、エルサレムは大勢の人でごった返している。そこで特別な力を見せつければ、間違いなく注目される。絶好の機会じゃないか。
そこまで言っているのですから、兄弟たちは、自分たちの身内であるイエスを、神さまから世に遣わされた救い主と信じていたのかというと、5節には、「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」と書かれています。兄弟たちは、イエスの驚くべき数々の奇跡の業を見て驚いた。何か凄いことをやってくれるんじゃないか。救世主だ。世直しをして欲しい!と願った。けれども、ヨハネ福音書の記者は、「その思いは信仰ではない」とはっきり言うのです。
主イエスは、兄弟たちに答えて言われました。6節。「わたしの時は まだ来ていない。しかし、あなたがたの時は いつも備えられている。」不思議な言葉です。「わたしの時は まだ来ていない。」ということは、今ではないが、将来必ず来るということです。ヨハネによる福音書第1章1節には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」とありました。言語の言(げん)、ひと文字で表記されている「言(ことば)」は、神さまの み子であられる主イエスを示すと読んでまいりました。世の始めから存在しておられる主イエス。すべてのものの創造主でいらっしゃる神さまと始めから共におられ、すべてのものは主イエスによって成った。その主イエスが、「わたしの時は まだ来ていない。」と告げられました。あなたがたは自分の都合のよいときに好きなことができる。「さあ仮庵祭だ。今この時を逃してはならない」と言う。しかし、わたしはあなたがたには従わない。わたしは父なる神が定められた時に、エルサレムに上り、神の救いの業をあなたがたに示す。わたしの手の中に「時」はない。わたしは、父なる神と共に働き、父なる神のご意志を実現する以外の使命を持っていない。わたしは、父なる神に従うのみ。神の「時」に従う者なのだ。と言われるのです。
 主イエスが、「わたしの時」と言われる「時」は、ギリシア語でκαιροςカイロスという言葉です。辞典には「ふさわしい時期、好機、頃合」とありました。主イエスにふさわしい、主イエスの時。それは、永遠なる神さまが人間の歴史に触れてくださる時と言ってもよいでしょう。神さまがわたしどもの罪を赦し、その み手の中へ、わたしどもを取り戻してくださる時。父なる神がそれを実現なさる時を、主イエスは待っておられる。「時」を支配しておられるのは、神さまです。み子 主イエスですら、勝手に操ることはできない。けれども主イエスは、ご存知でいらっしゃいました。その時には、先週も説教で触れたように、ご自身で選ばれた弟子ユダに裏切られ、逮捕され、十字架に架けられることを。弟子たちが皆、自分を捨てて逃げてしまうことも。「ホサナ。ホサナ。」と主イエスを歓迎した大勢の群衆が、手のひらを返すように、「殺せ。殺せ。十字架につけろ。(19:15)」と叫ぶことも。
主イエスは、続けてこのように語っておられます。「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。」ヨハネ福音書の記者は、第7章に入った途端、「その後(のち)、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。」と記していることに、敏感でありたい。主イエスに向けられる世の憎しみが、わたしどもは見えているだろうか?この、主イエスに向けられている世の憎しみが見えていないということは、先程読みました5節の「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」という み言葉に、繋がっていると思います。主イエスへの世の憎しみが見えていないで、それ仮庵祭だ、一旗揚げてこいと言っている。何かしてくれるんじゃないかと、自分に都合のよいキリストを求めている。その思いは、信頼しているように見えて利用しているにすぎません。利用できない、価値がないと見るや、簡単にひっくり返る。憎しみに変わってしまう。これは、わたしどもにとって、たいへん深刻な問題です。父なる神さまから差し伸べていただいている救いの み手を振り払い、「利用価値のない救い主なら必要なし」と、キリストを殺す。これは、ひとごとではありません。わたしども自身の問題なのです。
7節後半。「わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。」主イエスが、「世の行っている業は悪い」と証ししておられる。そのことを わたしどもは、しっかりと心に刻む必要があります。聖書に書かれているのは、心地よい言葉ばかりではありません。耳の痛い言葉がある。うっかりすると「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」と、主の言葉をうるさいと思う。そして自分が「時」の支配者であるかのように勘違いし、祈りがきかれないといらだち、キリストを信じたって何も変わらない、こんなはずじゃなかった、とキリストを憎み、恨む者となってしまう。その姿は、「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」と叫んだ群衆であり、主イエスを裏切ってしまった弟子たちです。自分では信じていると思っているところに、罪が隠れているのです。
 はっきりと言えることは、今日の主イエスの み言葉は、審きの言葉であるということです。主イエスの み前にひざまずき、神さまがご計画してくださっている時を信じてすべてをお任せし、まことに信じる者としていただくのか、自分の都合のよい時を決め、都合のよい神の像を描いて、自分勝手に期待するのか。しかし、審きの言葉は、同時に、招きの言葉でもあります。主イエスは、すでに十字架に架かってくださり、その死をもって、わたしどもを父なる神さまのもとへ帰っておいでと、招いてくださっているからです。
 主イエスは、わたしどもひとりひとりに、日々、罪を悔い改めて立ち帰れと呼んでおられます。わたしと一緒に生きよう。わたしの甦りの命は、あなたのものだと、呼んでおられます。主イエスは、父なる神さまから示された「時」に、都エルサレムに入城されました。それは、仮庵祭ではなく、過越祭のときでした。過越祭とは、イスラエルの民が、モーセに導かれてエジプトを脱出するとき、小羊を殺し、その血を玄関の柱と鴨居(かもい)に塗ることによって、神さまが下される災いを避けた出来事に由来する祭りです。
主イエスは、「過越のいけにえ」とされた小羊のように、十字架に磔にされ、その肉を裂かれ、血潮を流してくださいました。その死によって、わたしどもの罪は赦されました。わたしどもが父なる神さまの救いの み手の中に戻って来ることができるために。わたしどもが神さまの愛の中で、永遠の時の中で、平安に過ごすことができるようになるために。主イエスは、その命を わたしどものために差し出してくださったのです。今から、聖餐の祝いに与ります。本来ならば、聖餐の祝いに与る資格などないわたしどもです。そのようなわたしどものために、主イエスは命を捨ててくださいました。わたしどもが洗礼を受け、聖餐に与るのは、その主イエスとひとつにしていただくためです。洗礼と聖餐は、十字架と甦りの主イエスが、自分勝手で不信仰な わたしどもをそのまま抱きしめ、ひとつになってくださる「しるし」です。わたしどもは、主イエスに審かれて当然である自分を知るところで、主の十字架によって「赦されている」恵みを知ることができます。主は、ご自分の命を小羊のように神さまにおささげになられました。そのようにして、父なる神さまが定められた「時」を、その身に引き受けてくださいました。その十字架の赦しのゆえに、わたしどもは、今から聖餐の祝いに与ることができます。主にのみ、栄光がありますように。

<祈祷> 
主イエス・キリストの父なる御神、すぐに頑なになるわたしどもの心を柔らかにしてください。わたしどものために流された主イエスの血潮、裂かれた肉を思い、そこで救い取られているわたしどもであること、それゆえになお、あなたを「父」と呼び得る者であることを、感謝して受け入れ直すことができますように。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。


<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、み言葉をありがとうございます。共に み前につどい ささげる礼拝を、ありがとうございます。この場所を慕いながら、ここに来ることができない者がおります。悲しみの中にあります者、痛みを覚えております者、それらすべての者を、どうか、あなたが励ましてください。肉体の力が衰えても、霊の力は変わらざる思いに生きることができますように。どこにあっても、あなたが共におられ、日々、み言葉をもって養ってくださることを忘れることがないようにしてください。争いの絶えない世界を顧みてください。わたしどもすべてのひとが、ことに国々の指導者たちが、あなたの愛に気づき、み前に立ち帰り、一日も早く争いを終わらせることができますように導いてください。あなたの み国を来らしめてください。10月22日の秋の特別伝道礼拝、10月29日の家族礼拝、11月12日、19日のバザー、11月26日の逝去者記念主日礼拝、12月24日のクリスマス礼拝、こどもクリスマス、クリスマス讃美夕礼拝への祈りを深めていくことができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年9月24日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第18章21節~32節、新約 ヨハネによる福音書 第6章60節~71節
説教題:「立ち帰って、生きよ。」
讃美歌:546、1、183、524、542

ヨハネによる福音書を少しずつ、読み進めております。今日で第6章が終わり、来週は第7章へ移っていきますが、いよいよあらわにされていくのは、わたしども人間の罪であります。しかしそこにこそ、わたしどもの救いが備えられています。目をそむけずに、耳をふさがずに、大切に読んでいきたいと思います。
今日の箇所に描かれるのは、主イエスの弟子たちです。主イエスを信じ、従ってきていた人たちです。弟子たちというと、まず12弟子を思い浮べますが、12弟子のほかにも、主イエスが行われた奇跡を目の当たりにした多くの者が自発的に主イエスについて来ていました。主イエスが政治的なリーダーとなってくれることを期待したのです。その人たちが、主イエスの言葉を聞いて、「こんなことを言いだすなんて、とんだ見込み違いだ。」と離れていこうとしているのです。彼らは、主イエスが、「わたしを食べなさい、そうすれば永遠の命が与えられる」と繰り返す言葉を聞き、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」とつぶやきました。その人たちに主イエスは、問いかけられました。「あなたがたは このことにつまずくのか。」このようなつまずきは、この時代の、この人たちだけのものではありません。ここは良い言葉だけれど、ここは信じられないと、自分の理解が及ばない み言葉を否定してみたり、洗礼を受ければ、行き詰まりを感じている今の自分が劇的に変わるのではないかと、大いに期待して洗礼を受けた。それなのに、実感として何も変わらないとがっかりしたり。下手をすると、「こんなことなら、洗礼など受けなければよかった。」とつぶやいてしまう。主イエスは今朝、わたしどもにも問うておられるのです。「あなたがたは、わたしの言葉に つまずいていないか?」
主イエスは続けておっしゃいました。「それでは、人の子がもといた所に上(のぼ)るのを見るならば……。」「このこと」とは、主イエスが、ご自分を「命のパン」と言われたことです。そのことでつまずくならば、「人の子が もといた所に上(のぼ)るのを見るならば……。」「……。(てんてんてん)」と、聖書の中ではほかにほとんど見当たらない、珍しい表現が用いられております。主イエスが言葉に詰まっておられる。「より深く つまずいてしまうに違いない。」と深く悲しんでおられるのです。
「人の子」とは、主イエスご自身をあらわす言葉です。「もといた所」とは、神さまのおられる所、主イエスがおられた所です。そこへ、主イエスが、上っていかれる。主イエスがもともとおられたところ、天に帰られることを指していると理解できますが、ヨハネ福音書においては、「もといた所に上る」を、「十字架に上げられる」という意味でも理解されます。どういうことかと言うと、主イエスが、十字架で殺されることによって、わたしどもが天に向かう道をこじ開けてくださる。主イエスが、「わたしが、もといた所である天に、あなたがたも帰ることができるよう、わたしは十字架への道を通らなければならないのだ。」と、十字架の死を覚悟しておられるのです。しかし、今ここでつまずいてしまうなら、十字架を目の前にしたときには、あなたたちは天に向かう道がますます見えないにちがいない、このままでは神さまの救いの み手からこぼれ落ちてしまうと、わたしどものために言葉を詰まらせながら、心配してくださっているのです。
主イエスは再び語り始められました。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」主イエスが「霊」について語られるとき、強く念じておられるのは、「霊」は、「救いにあずかりたい!」と願うすべての者に与えられる、そして皆、「霊」によって生かされるのだという思いです。人は皆、神さまから吹き入れられる命の息である聖なる「霊」によって、生かされると言われる。さらに主は、「わたしの言葉が霊であり、命である。わたしの言葉に耳を傾け、『アーメン』と信じ、委ねる時、あなたがたは永遠の命に生きる。」と宣言してくださっているのです。
けれども、主イエスは悲しみつつおっしゃいました。「しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」主は、信じない者たちが誰であるか、また、ご自分を裏切る者が誰であるかを知っておられました。主イエスは、それらの人びとが一人また一人と自分から離れ去っていくようすを見つめておられたに違いありません。深い悲しみのまなざしをもって。「父よ、霊を求める思いを、この人にも、どうか与えてください。」との熱い願いをもって。主イエスは、残った12弟子を見つめ、言われました。「あなたがたも離れて行きたいか」。シモン・ペトロが間髪を入れずに答えました。「主よ、わたしたちは だれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
すると、主イエスは言われました。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」もしも今朝、初めて教会にいらした方がいましたら、優しいイエスさまに救いを求めて来たのに、従ってきた弟子にまで「悪魔だ。」とおっしゃるなんて、と、それこそつまずいてしまうかもしれません。確かに、イスカリオテのユダは、12弟子の一人でありながら、主イエスを裏切りました。主イエスを、十字架の死に追いやる決定的な役割を担ったのはユダです。それでも主イエスは、ユダも含めて、「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。」と言っておられます。ユダを除いて、「あなたがた11人」ではありません。「あなたがた11人は選んだが、裏切り者のユダは、はじめから諦めていた。」と言われたのではないのです。
今日は、ヨハネによる福音書と共に、旧約聖書から、エゼキエル書 第18章を朗読して頂きました。預言者エゼキエルの言葉です。27節以下に、こうありました。「しかし、悪人が自分の行(おこな)った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。」悪人であっても、自分の犯した悪から離れて神さまのところへ帰って行くなら、「必ず生きる。死ぬことはない。」のです。それなのに、イスラエルの民は、罪を悔い改めることなく、「神さまの方が間違っている」と、つぶやきました。ヨハネによる福音書において、神の み子 主イエスに対し、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」とつぶやいた弟子たちの姿が重なります。
エゼキエル書、そしてヨハネによる福音書に登場するぶつぶつとつぶやく人々。神さま、主イエスを責める人々。その中に、わたしどもがおります。どこまでも、わたしどもを愛し、赦し続けてくださる神さまの愛、主イエスの十字架による赦しを疑い、そんなことが信じられるものかと開き直る。あるいは、我々が必要としているのはそんなことではない。もっと具体的な、願いが叶うとか、運が開けるとか、敵が倒れるとか、そういうことを欲している。それが、神さまの愛を見失っているわたしどもの罪の姿です。
かつて、共に礼拝をまもっていた仲間の中にも、教会から離れてしまった者は少なくありません。お顔を思い浮べては心が重くなります。また、わたしどもも、今はこうして礼拝をまもっておりますが、突然の試練に襲われたとき、ユダのように、主イエスから離れ去ることなど絶対にないと、誰が言い切れるでしょうか。ここでは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは 永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と、主イエスに威勢の良い返事をしたペトロですら、主イエスが捕まったときには三度も「イエスとわたしは何の関係もない」と言ってしまったのです。その夜、ペトロは悪魔に負けました。その場をしのぐために、主イエスを裏切ってしまった。主イエスは、12人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と問われたとき、すでに、ユダだけでなく、ペトロが三度、主イエスとの関わりを否定することも、自らが選んだ愛する弟子たちが皆、自分を捨てて逃げ去ってしまうことも、ご存知であられたに違いありません。
しかし主イエスは、わたしどもを諦めない。簡単に悪魔の誘惑に負けてしまう わたしどもを、弱い者だからこそ、見捨てない。「わたしのもとに、帰って来なさい。」と招き続けてくださるのです。愛する弟子たちの裏切りがわかっていたからこそ、主イエスは、ユダのためにも、ペトロのためにも、「わたしは十字架で必ず死ななければならない」と覚悟を強められたのではないかと思います。弟子たちに、ユダヤ人たちに、群衆に、またわたしどもにも、「永遠の命に与って欲しい。わたしを食べ、わたしを飲む、聖餐に与って欲しい。」と願い、十字架の死へと歩み抜いてくださったのです。
主イエスは、63節で、「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」と言われました。このとき、主イエスの お心には、預言者エゼキエルの言葉があったのではないかと思います。エゼキエル書には、神の霊が注がれて、石の心が柔らかな心に変えられることが記されています。エゼキエルが、神からの激しい呼びかけの言葉を取り次ぎます。「新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ(18:31)」。
 ヨハネ福音書は、第13章に、ひざまずいて弟子たち一人一人の足を洗ってくださった主イエスのお姿を記しています。その後、主イエスは十字架の死へと向かわれました。ユダの罪も、ペトロの罪も、主イエスが洗ってくださいました。わたしどもの罪も、主イエスが洗ってくださいました。主イエスがお独りで担われた十字架の死によって、わたしどもは罪を赦され、永遠の命に生きよ、と招かれているのです。
 今朝の主イエスの激しい お言葉は、深い愛です。深い憐れみです。主イエスは、悪魔に魂を乗っ取られてしまったユダの罪が赦されるために、十字架の死を選ばれました。威勢の良いことを言っていても悪魔に負けてしまう弱いペトロのために、また、すぐに「実にひどい話だ。」とつぶやいてしまうわたしどもの罪を赦すために、十字架の死を選んでくださったのです。わたしどもは皆、いつでも悪魔になり得る。しかし主イエスは、悪魔に勝利されました。復活によって、死にも勝利してくださいました。そして、わたしどもに日々、「父なる神の愛、十字架の赦し、聖霊なる神に立ち帰り、わたしと共に生きなさい。」と力強く招き続けてくださっています。日々、主の愛に立ち帰りたい。主の愛から離れてしまっている仲間たちのために祈り続けたい。いつの日か、必ず、主の愛に、永遠の命に立ち帰り、共に礼拝する日が来ることを信じて。

<祈祷>
天の父なる神さま、どこまでも深いあなたの愛、どこまでも深いあなたの赦しを知っていながら、あなたの言葉につまずき、あなたを疑い、ぶつぶつとつぶやいてしまう罪を、今、み前に懺悔いたします。主よ、あなたの愛を裏切ることなく、日々、あなたに立ち帰り、あなたと共に生きる者としてください。あなたから、また教会から離れてしまった者に、これからも聖霊を注ぎ続けてください。いつの日か、あなたに立ち帰り、再び、一緒に礼拝をささげる日がきますように。主イエス・キリストの お名前によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、この場所を慕いながら、ここに来ることができない人がいます。病床にあります者たち、旅にあります者、この朝も この世のさまざまな営みに巻き込まれています者たち、その魂ひとつひとつに、あなたに向かう思い、あなたに立ち帰る思いを与えてください。厳しい迫害に遭い、闘いを強いられている者たちを顧みてくださいますように。貧しさの故に、小ささの故に、病の故に、老いの故に、望みを失いがちな者を特別にあなたが支えてくださいますように。主よ、世界の平和を祈ります。どうか、一日も早く愚かな争いを終結へと導いてください。10月22日に予定しております「秋の特別伝道礼拝」まで1ヶ月となりました。多忙な中、説教を担ってくださいます遠藤勝信(まさのぶ)先生の ご健康を守り、聖霊を溢れるほどに注いでください。わたしどもを、特別伝道礼拝のために祈る者としてください。当日、一人でも多くの者を教会へ招いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年9月17日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第53章6節~10節、新約 ヨハネによる福音書 第6章52節~59節
説教題:「わたしたちをつくるたべもの」
讃美歌:546、86、156A、298、541

今朝の み言葉を読み、今から8年前に与った聖餐の祝いを思い起こしました。2015年8月。東村山教会に赴任して初めての夏休み。群馬県草津町にある国立療養所 栗生楽泉園の中にある日本聖公会 聖慰主(せいなぐさめぬし)教会で聖餐礼拝をささげました。木造の礼拝堂。椅子ではなく、畳の上に座布団が並べられておりました。朝9時から礼拝が始まり、ハンセン病から快復された入所者の信徒さん方と一緒に聖餐に与りました。まず信徒が順に前に進み出て、祭壇の前にひざまずき、目を閉じ、手を前に合わせて口を開けます。そして司祭は、そのひとりひとりの口に、「汝のために裂かれたまいし、イエス・キリストのからだ。」と告げながら、ウエハースを入れ、「汝のために流したまいし、イエス・キリストの血。」と告げながら、ひとさじの葡萄酒を注いでいきます。いつもとは異なる手順に少し戸惑いながら聖餐に与りましたが、改めて、「ああ、イエスさまが、わたしのために体を裂かれてくださった」、「イエスさまが、わたしのために血を流してくださった」と心に刻んだ、感謝のときとなりました。
 東村山教会では、皆さんの席に長老がパンと杯を運びます。これもまた恵みです。パンと杯が主イエスですから、長老がパンと杯を持って近づくとき、主イエスがわたしどもひとりひとりのところに近づいて来てくださる。そして、「わたしを食べ、飲みなさい。」とおっしゃってくださることを心に刻みながら感謝してパンと杯に与るのです。
今朝、わたしどもに与えられた み言葉には、聖餐の恵みが至るところに散りばめられております。けれども、ここに登場しているユダヤ人たちは、どうしても同郷の大工ヨセフとマリアの息子である主イエスの言葉を信じることができません。「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めたのです。主イエスは言われました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」
ドキリとするような み言葉です。しかし、何度も繰り返して、聖餐を受けるときと同じように心の中で噛みしめるように読むと、深い慰めと励ましが響いてまいります。たとえ、孤独の中にあっても、将来への不安を抱えていても、キリストの十字架による救いを受け入れて聖餐の祝いに与る者は、誰でも、いつも、主イエスの内にとどまる。そして、そのひとの内にも、主イエスがいつも、とどまってくださる。み言葉を受け、聖餐を受けることによって、わたしどもは主イエスとどんなときも、どこにあっても、いつも、ひとつに結ばれている。み言葉と、聖餐によって、主イエスの存在の確かさを、目と耳と口で味わうことができる。この恵みは、聖餐の時だけに限定されるものではありません。一時的なものではない。今日は第3主日なので聖餐はありません。けれども、聖餐に与る日であろうとなかろうと、わたしどもの内には、いつも主イエスがとどまっていてくださいます。そして、わたしどもも、主イエスの内にとどまっています。主イエスが、それをここに、この み言葉によって、約束してくださっているのです。
今朝の み言葉には、「食べる」という言葉が繰り返し登場します。人間の体は、食べたり飲んだりできなくなると弱っていってしまいます。病院や施設を訪問するとき、たいへん気になることは、お食事を口から食べておられるかどうかです。口から食べることができていれば少し安心します。でも、口から食べる力が衰えたり、嚥下障害があると、厳しい思いになるのです。それは、若い人でも同じです。食べる意欲がなくなると危険信号です。実際、食べ物が健康な体をつくる。わたしどもの体は、細胞によって成り立っております。その細胞のひとつひとつは、毎日の食事によって絶えず生まれ変わっています。新陳代謝です。新しい細胞が古い細胞と入れかわるのです。食事をとることができなければ、細胞は壊れる一方で新しいものに入れかわることができません。わたしどもの信仰も、これに似ていると思います。わたしどもの信仰は、主イエスの肉を食べ、主イエスの血を飲み続けることで生きる。食べ物の中の栄養分によって古い細胞が新しく生まれる細胞と入れかわるように、生きる力が日々、新しくされる。主イエスの命が行きわたるのです。主イエスはおっしゃるのです。「あなたが生きるために、わたしは わたしの肉を差し出す。あなたが生きるために、わたしはわたしの血を差し出す。だから食べなさい。飲みなさい。わたしをあなたの中に入れなさい。わたしの十字架による赦しを受け入れ、わたしをあなたの体の隅々にまでゆきわたらせなさい。」と。
57節では主イエスは次のようにおっしゃっています。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」ここで、「生きる」という言葉が、3回も繰り返されております。永遠に生きておられる父なる神さまの命が み子主イエスを生かし、主イエスの命によって、わたしどもも生きるのです。
主イエスは、その み体を、わたしどもを生かすために、ゴルゴタの丘で神さまに差し出されました。十字架の死です。その前夜、主イエスは天を仰いで長い祈りをなさいました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。(17:21)」主イエスの祈り、そして十字架の死と甦りによって、わたしどもは今、主イエスの中で生きています。主イエスもまた、わたしどもの中で生きていてくださいます。この驚くべき恵みを主に感謝しつつ、わたしどもは、聖餐の祝いに与り続けるのです。そして、この真実を教える み言葉を日々、食事を食べるように読む。口ずさむ。それが、わたしどもの命を生かします。皆さんがおうちで聖書を読むとき、ぜひおすすめしたいのは、声に出して読むことです。小さな声で大丈夫です。この み言葉が、わたしを生かす。わたしの細胞をつくる。信仰を日々新しくする。そう信じて口ずさむと、不思議と力が湧いてきます。キリストによって、聖餐と、み言葉によって、わたしどもは日々、新たにされてゆくのです。
先週の火曜日、数年前まで共に礼拝をささげ、聖餐に与っていた姉妹を、面会時間5分という制限がありましたが、病床を訪問することが許されました。息子さんから連絡があり、転倒をきっかけに衰え、今、口から食事をとることが困難になっていると伺い、本当に驚きました。病床を訪ねると、すっかり小さくなってしまった姉妹が横になっておられました。そのとき、今すぐ、聖餐に与っていただきたいと願いました。しかし残念ながら今、病院や施設では、感染症のリスクがあるため、聖餐を執行することが難しくなっておりますから、これまで何度も一緒に聖餐に与ってきたこと、共に永遠の命を得て、そして、イエスさまが再び、世にいらしてくださる日には、みな一緒に、甦りの朝を迎えることを、共に確かめて、帰ってまいりました。洗礼を受けて教会に連なるわたしどもすべての者の中に、永遠の命であられるキリストがおられます。また、キリストの中にも、わたしどもひとりひとりが住んでいるのですから、すべてを主に委ねて、安心して一日、一日を主と共に歩むことができるのです。
主イエスは続けておっしゃいました。58節。「これは天から降(くだ)って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」このメッセージは、カファルナウムの会堂、つまり神さまの お言葉が聞かれるべき礼拝堂で語られました。今、この東村山教会の礼拝堂にも、同じ主イエスの お言葉が響いています。草津の療養所にある聖公会の礼拝堂にも響いています。世界中の、どんな小さな群れであっても、キリストを信じる者たちに、そして、大切な神の家族が入院している病床にも響いているのです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」

<祈祷>
天の父なる御神、わたしどもはいつの日か死すべき者です。死はいつ訪れるかわかりません。来週の主日に、ここに来る力が与えられるかどうかもわからないのです。一緒に聖餐を祝い続けた多くの兄弟姉妹が世を去りました。しかし、誰の内にも、み子は共におられますし、今も共におられますから感謝いたします。東村山教会、全国、全世界の諸教会が、永遠の命に生きる群れとして、主において一つとなり、高らかにあなたのご栄光を賛美し続けることができますよう導いてください。キリストの平和、キリストの命が、わたしたちの心のすみずみにまで、ゆきわたりますように。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。今日も礼拝を慕いつつ、病のため、痛みのため、家族の介護のため、礼拝に出席することの難しい者がおります。主よ、その場にあって聖霊で満たしてください。どこにあっても、あなたが共におられ、見捨てることがないことを思い起こさせてください。迫害の下にある教会、望みを失いかけている教会を、あなたの体なる教会として正しく導いてください。主よ、この国の歩みに深く憂いを抱いています。この世界の流れに大きな恐れを抱いています。どうか、いたずらに揺れ動くことなく、確かな思いをもちながら、何を祈り、何をなし、何を語るべきかをわきまえて生きることができますように。突然の災害で途方に暮れている者を慰め、励ましてください。先週は、芳賀 力先生のお見舞いに伺うことが許され感謝いたします。あなたのお支えにより一所懸命にリハビリに励んでおられる先生を強め、励ましてください。み心ならば、12月24日のクリスマス礼拝には一緒に み子のご降誕をお祝いすることができますよう導いてください。浜松の遠州教会で説教を担っている佐藤神学生を強め、励ましてください。神学生に説教の機会を与えてくださった遠州教会の歩みをこれからも導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年9月10日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 サムエル記上 第2章1節~11節、新約 ヨハネによる福音書 第6章41節~51節
説教題:「つぶやきを、祈りにかえて」
讃美歌:546、16、309、361、540、427

すでに天に召されましたが、数年前、わたしどもの教会の群れに、ひとりの夫人が転入会されました。少しおかしな表現かもしれませんが、信仰の背骨がシャンとしている、そんな印象の方でした。その方から、ある日、相談を受けました。「先生、夫が病に おかされ、今、施設で生活しております。ぜひ、夫のところに行ってお祈りしてもらえないでしょうか。」コロナ禍前でしたので、面会制限もなく、すぐに面会が叶いました。その後も、定期的に訪問を重ねていましたが、ある日、余命がもう長くはないことがわかり、再び、相談を受けました。「先生、夫は礼拝に通うこと、洗礼準備の学びも難しいです。それでも、洗礼を授けて頂きたいのですが。」長老会で協議し、病床で洗礼を授けることが決まりました。当日は、数名の長老と一緒に病院へ行き、明るい光のさすオープンスペースで洗礼式を執り行いました。すでに寝たきりになっておられましたが、その日は、車椅子に座り、わたしたちの到着を今か今かと待っておられたようです。「永遠の命を求めておられますか。イエスさまを『わたしの救い主』と信じますか。」と尋ねましたら、はっきり頷かれました。そして教会でなされる洗礼と同じように、「父と子と聖霊との み名によって、バプテスマを授ける。アーメン。」と洗礼を授け、そのあと、聖餐を執り行いました。そのときのことは今でも鮮明に思い出すことができます。聖餐に与った瞬間、表情がパーッと明るくなり、笑顔になられたのです。パンと杯を、大切に味わうようす、ニコニコと嬉しそうな表情が、忘れられません。その後、お医者さまの診断通り、3ヶ月後、天に召されました。数ヶ月でしたが、永遠の命を得たキリスト者として生き、キリスト者として天に移されたのです。わたしどももまた、いつの日か、地上の命を終えます。けれども、洗礼によって主イエスに結び合わされ、聖餐によって主イエスの命をいただいて、わたしどもは皆、死んでも生きる。神さまの愛の中に、永遠に生きるのです。
今朝の み言葉の中で、主イエスが宣言されたように、わたしどもは皆、自分の力で主イエスのもとへ来たのではありません。父なる神さまが、主イエスのもとへと引き寄せてくださいました。先ほど紹介いたしました病床洗礼と聖餐も、夫人の祈りと伝道によるところが大きいことは確かですが、そこに神さまの み力が働いてくださらなければ実現しませんでした。ここにいるわたしども、洗礼を受けた者も、まだ洗礼を受けていない者も、皆、ひとり残らず、み子主イエスを世に遣わしてくださった父なる神さまの力によって引き寄せられ、今、ここに座っております。わたしどもはそのようにして、「わたしは、天から降って来た生きたパンである」と宣言してくださった主イエスのもとに集められ、「わたしを信じてほしい。永遠の命に生きてほしい」と、招かれているのです。
けれども、今朝の聖書の み言葉に登場するのは、なかなか素直に主イエスを信じることのできない人々です。彼らは、主イエスと縁もゆかりもない人々ではありませんでした。むしろ、主イエスを小さい頃から知っていた同郷の人たちです。彼らは、つぶやきました。「これは、われわれのよく知っている大工ヨセフのせがれではないか。それがどうして、『わたしは天から降って来た』などとバチ当たりなことを言うのか。」彼らの反応を、わたしどもは笑ったり、非難したりできるでしょうか。わたしどもも、つぶやくことがあります。たとえ口に出さなくても、心の中でうつむき、ぶつぶつ言うことがある。
言葉は、相手に思いを届けるためのものです。それに対し、つぶやきは、宛先不明。口の中でモゴモゴとはんすうするか、あるいは地面に吐き捨てられる、心の闇です。つぶやくとき、人は相手を信用せず、疑っています。交わろうとしていません。「あんな人、いなきゃいいのに。」また、神さまの方を見てもいません。「いったい、神が何をしてくれるというのか。」「祈ったって、無駄じゃないか。」つぶやきは、わたしどもと決して無縁なものではないのです。
主イエスは、そのようなわたしどもにおっしゃいます。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしを お遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」
主イエスが言われた父なる神が「引き寄せる」という言葉には、引きずってでも連れて行くという、とても強い意味があります。父なる神さまが、力づくで、思いを込めて、わたしどもを主イエスのもとに引き寄せてくださる。神さまが、「わたしを信じ、十字架の赦しと永遠の命を信じ、キリストのもとに来なさい!」とグイグイ引っ張って、連れて行ってくださるのです。つぶやき合ってもわたしどもの心は晴れません。ますます、疑心暗鬼になるだけです。主はおっしゃいます。つぶやきを祈りに変えなさい。あなたがたの心を、神に向けなさい。父なる神は、祈りの言葉を聞いて、応えてくださる。あなたを、わたしのもとへ連れて来てくださる。わたしを信じさせてくださる。そのようにして、神が連れて来てくださった者を、「わたしは決して追い出さない(6:37)」とおっしゃった主イエスの言葉を、わたしどもは先週ご一緒に読みました。そして神さまがお定めになった日に、ひとり残らず、わたしの手によって抱き起こし、復活させるのだ、とおっしゃいます。
46節で主イエスがおっしゃっているように、父なる神さまを見た者はひとりもいません。神さまの元からおいでになった方、み子主イエスだけが、神さまを直接知っておられる唯一の お方です。その方が、おっしゃるのです。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降(くだ)って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠(えいえん)に生きる。」
信じるとは、この み言葉をそのまま、丸ごと飲み込んでお腹の中へ入れることです。主イエスの み言葉に頼り切って、この救いの証しである聖餐のパンを食べるのです。わたしが洗礼を受ける前、周りの人がうやうやしく聖餐のパンをいただく様子を見て羨ましく思いました。それは、わたしが食いしん坊だったからだけではありません。死ぬのが怖かった。「このパンを食べれば、死んでも生きる。それなら、僕も食べたい。信じたい。安心したい。」そういう単純な思いでした。そんな単純なことでいいの?と言われるかもしれません。でもこのとき、神さまがそういう思いをわたしにお与えになった。そのようにしてわたしを主イエスの元へひきずって連れて来てくださったのです。
主イエスは、念を押すように、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」と言われました。「世を生かす」と訳された原文は、「この世の命」という言葉です。主イエスによって、この世の命と、永遠の命とがひとつになる。境い目がないのです。どこまでも続く。聖餐をいただくたびに、わたしどもは そのことを確信し、この喜びをひとりでも多くの者と一緒に分かち合いたいという伝道の志と、互いに赦し合い、仕え合う思いを、日々、新たにしていただくのです。
わたしどもは今朝、主イエスから「つぶやき合うのはやめなさい。」と言われました。主は言われるのです。「あなた方は父なる神によって呼ばれ、わたしのもとに連れて来られた。わたしを信じなさいと連れて来られた。だから、つぶやきは捨てなさい。あなたの口も、心も、神に向かって祈るために備えられているのだ。」
先ほど、サムエル記上第2章が伝える、預言者サムエルの母になりましたハンナの祈りを朗読して頂きました。ハンナは、第1章の記すところによりますと、夫エルカナとの間に子どもがなかったことを悲しみ、神さまに非常に長い祈りをささげました。そのとき、唇は動いていましたが声は聞こえなかったのです。そのため、神殿に仕えている祭司エリは、ハンナが酒に酔ってブツブツつぶやいていると思い込んでしまいました。そのようすをとがめた祭司エリに、ハンナは伝えました。「わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。(1:15)」ハンナは、神さまを信頼し、神さまに向かって、心からの願いを注ぎ出していた。それは決してつぶやきではなく、祈りでありました。
わたしどもは、主イエスの十字架で裂かれた肉と流された血潮によって、今日も罪を赦され、こうして生かされております。「永遠の神の、愛の み手の中で生きよ」と、招かれています。ひとりうつむいてブツブツつぶやくのでなく、神さまを仰ぎ、神さまに向かって、心の中に湧き上がる願いを全部注ぎ出したい。誰にも言えないようなドロドロした思いが心に湧いてきてしまう、そんなときであっても、「神さま、どうしても赦せないんです。神さま、どうしてもわからないんです。どうぞ助けてください、力をください!」と、わたしどもの内で働いてくださる主イエスを信じて、祈りつつ生きたい。地上の命を神さまにお返しするその日まで。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもを み子のもとへ力を込めて、思いを込めて、グイと引き寄せ、導いてくださった恵みを感謝いたします。すぐにブツブツとつぶやきそうになるわたしどもを憐れんでください。試練の中にあっても、不安の中にあっても、悲しみの中にあっても、誰かに傷つけられるときも、つぶやくことなく、ただ、あなたの愛と永遠の命を信じ、あなたを信頼し、祈り、赦し合うことができますよう、導いてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、今朝も教会での礼拝を望みつつ、様々な理由で礼拝に出席することのできなかった者がおります。病を抱えている者、痛みを抱えている者、仕事をしている者、それぞれの上に、聖霊を注いでください。つぶやきそうになるそれぞれの心を、あなたへの祈りへと導いてください。北アフリカのモロッコで大きな地震が発生しました。日本でも大雨の被害を受けた地域があります。悲しみをあなたが癒し、望みを失うことのないよう、慰め、励ましてください。世界を分断しているわたしども人間のとどまることを知らない欲望を、神さまどうか せき止めてください。みもとに立ち帰らせてください。互いにつぶやいて責め合い、殺し合う愚かな心を捨てて、互いに執り成しを祈りつつ助け合う心へと導いてください。来週の主日礼拝の後、敬老感謝の時を持ちます。当日、皆の体調を整えてください。ひとりでも多くの兄弟姉妹と共に礼拝をまもり、感謝の時を持つことができますように。感染症の拡大により、どの教会も礼拝出席者が減少しております。東村山教会も例外ではありません。この数年間で教会から足が遠のいてしまった兄弟姉妹に、再び、あなたを信じ、賛美する喜びを思い起こさせてください。そして、礼拝堂の空席をいつの日かいっぱいに埋めてくださいますよう聖霊を注ぎ続けてください。特に、道を求めている者に、永遠の命を求めている者に、信仰を告白し、洗礼、聖餐の恵みを一日も早く お与えください。約1ヶ月の大阪東教会での夏の教会実習を終えて、佐藤神学生が戻って来ました。お導きを感謝します。ご指導をくださった大阪東教会の吉浦牧師、教会の皆さんの上に、あなたの祝福を注いでください。

キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年9月3日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第26章16節~19節、新約 ヨハネによる福音書 第6章34節~40節
説教題:「わたしが命のパンである」
讃美歌:546、14、187、21-81、493、539

先週の主の日は、夏の休暇を頂いたため、愛澤豊重先生に説教を担って頂きました。わたしは一年振りに母教会である鎌倉雪ノ下教会の礼拝にあずかりました。高校3年生の秋に洗礼を受け、献身の志が与えられ、釧路へ遣わされるまで、転勤で浜松の遠州教会に通った数年を除きますと、毎週、通い続けた教会での礼拝は、恵みの時となりました。たくさんの兄弟姉妹との再会も嬉しいことでしたが、特別な再会がありました。わたしたち家族が鎌倉を去り、春採教会に遣わされてから6年間、大変にお世話になった役員さんがいました。その方のお嬢さんと、先週の主の日、鎌倉の教会で再会することができたのです。それだけでも嬉しいのですが、その方が、本日、9月3日の礼拝で信仰告白をなさることを知ったのです。先週の主の日は、礼拝後に臨時長老会が開かれ、信仰告白の試問会でした。そして本日、初めての聖餐に与るのです。飛び上がりたいほど嬉しい気持ちです。
わたしども、信仰を告白し、洗礼を受けたキリスト者は、聖餐に与ります。主イエスを信じていないひとから見ると、小さなパンと、小さな杯に注がれているぶどうの液を喜んで頂く姿は、不思議な光景かもしれません。それでもわたしどもは、聖餐に与るとき、大きな力を頂きます。永遠の命が約束されていることに慰めを与えられるのです。
今朝、わたしどもに与えられております み言葉は、主イエスから、すべての者への、聖餐の食卓への招きの言葉です。主イエスは言われました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
湖を渡って主イエスを追いかけて来た人々は、主イエスに、自分たちの必要を満たしてくれる便利な王になってくれることを求めていました。人々が求めていたのは、空腹を満たすパンでした。腹が減ったら食べさせてくれる便利な王です。けれども、主イエスは おっしゃったのです。「わたし自身が、あなたがたの命を養う  パン」だと。主イエスの お心の中にあるのは、ご自身の命によって、すべての者が、神さまの救いの中に入れられることです。間違っても、いっときの空腹を しのぐための、便利な王になることではない。「困ったときの神頼み」のような、そんなことではない。主イエスは言われるのです。「わたしは、わたしのからだを、あなたのために、父なる神に献げる。神は、わたしの十字架の死ゆえに、あなたを赦してくださる。だから、わたしのもとに来なさい。わたしを信じて欲しい。受け入れて欲しい。」と。けれども、人々には主イエスの真実が届いていない。だから主イエスは、こう言われたのです。36節。「しかし、前にも言ったように、あなたがたは わたしを見ているのに、信じない。」主は、どれほどの深い嘆きを持って、この言葉を語られたことでありましょう。
「あなたがたは、わたしを見ている。それなのに、わたしを信じない。」と深く深く、悲しんでおられる。だからこそ、言葉を続けられました。37節。「父がわたしに お与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」わたしたちの信仰は弱いものです。日々、神さまから信仰を与えて頂かなければ、すぐに涸れてなくなってしまう。そのことは、主イエスが誰よりも ご存知です。それでも、いや、それだからこそ、主イエスが、わたしどもへの招きを諦めてしまうことはありません。「いつでも、わたしのところに帰っておいで」と招き続けてくださいます。
父なる神さまは、すべてのものの造り主です。誰をも招いておられます。主イエスは、「神が招いておられるのだから、わたしが わたしのもとに来る人を、追い出すことは絶対にない」と約束してくださったのです。そこには根拠がある。それが38節以下に書かれています。「わたしが天から降(くだ)って来たのは、自分の 意志を行うためではなく、わたしを お遣わしになった方の御心を行うためである。わたしを お遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活 させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆  永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活 させることだからである。」
なぜ、主イエスが世に遣わされたのか。なぜ、主は、わたしたち信仰の薄い者たちを諦めることなく招き続けてくださるのか。その理由が丁寧に、また具体的に記されています。主イエスは、神さまの み心を行うために、世に遣わされました。神さまはわたしどもの中の たとえひとりであっても、滅びてはならない、永遠の命に生かしたい、と願っておられる。そして、わたしどもの地上の命が終わっても、神さまがお定めになった日には、主イエスが起こしてくださる。ひとりひとり、「起きなさい。甦りの朝が来たよ。」と、起こしてくださる。主イエスは、「わたしは、そのために天から 降って来たのであり、これから、神の み心に従って、あなたがたのために命を捨てるのだ。」と言っておられるのです。
主イエスの この み言葉は、主イエスが肉体を持って地上におられたときに語られたものです。わたしどもは、主イエスの姿を肉の目で見ていません。しかし、主イエスへの信仰を告白し、洗礼を受け、今日もこの後、聖餐に与ります。そのとき心に刻むのは、父なる神さまに、大切な み子を差し出させてしまったほどの、わたしどもの罪です。主イエスを、十字架の上で殺してしまったほどの、どうしようもない罪です。命ある すべてのものの父であられる神さまの愛を、信じ切ることができない。独り子さえ惜しまずに与えてくださるほどの神さまの愛に、委ね切ることができない。自分の願いに簡単に応えてくれない、便利な王ではない主イエスを裁き、呟き、「こんな王ならいらない。十字架で殺してしまえ」と、捨ててしまう。これは他でもない、わたしどもの罪です。けれども、そのような罪深い者だからこそ、主イエスの十字架の前に立ち、不信仰を悔い改め、甦りの主イエスのもとへ立ち帰る。そのとき主は、憐れに思い、黙って抱きしめ、「よく帰って来た」と喜んでくださる。「わたしは決して追い出さない。」と、約束してくださったのです。
先週、母教会での礼拝で感じたのは、あの方も、この方も衰えておられるという思いです。小学校1年生の春から通い始めた母なる教会。あれから50年が経ちました。当時、30代の方は80代。40代の方は90代になるのですから当然です。ずっと、祈り支え続けてくださった信仰の先輩たちが次々と召されている。やはり、淋しい思いになります。それでも、今朝の み言葉によって、淋しく思う必要などない、と励まされました。なぜなら、十字架で死なれた主イエスを、神さまは復活させてくださったから。さらに、世を創造された神さまが定めておられる終わりの日に、主は再び、わたしどものもとに来てくださると、約束してくださったからです。
甦りと再臨の主イエスが、ご自身の口で、神さまの み心を語ってくださった39節以下をもう一度読みます。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆 永遠の命を得ることであり、わたしが その人を終わりの日に復活させることだからである。」
愛する者が召されたとき、自らの死を恐れるとき、主イエスの み言葉を思い起こしたい。愛する者と一緒に聖餐に与った日々を思い起こしたい。甦りの主は、これまでも、今も、これからも、招き続けてくださいます。「さあ、わたしのもとに来なさい。わたしにすべてを委ね、わたしを食べ、わたしを飲みなさい。」聖餐の食卓は準備万端、常に整えられています。あとは、わたしどもが永遠の命を信じて、祝いの食卓に着くだけです。
 わたしどものために命を差し出してくださった主が、「わたしが命のパンである。」と言われました。わたしどもは皆、主イエスから、「わたしを受け入れて欲しい。信じて欲しい。信仰を告白し、洗礼を受けて欲しい。わたしのからだを食べて欲しい。わたしの血を飲んで欲しい」と招かれています。月に一度、またクリスマス、イースター、ペンテコステに、聖餐に与るそのとき、信仰の薄い わたしどもに、主イエスが宿ってくださいます。たとえ、わたしどもの肉体が灰になっても、主が宿ってくださる真実は消えません。聖餐に与るとき、わたしどもは、終わりの日の復活を喜び、待ち望む信仰を新たに与えられるのです。
主イエスは今朝も、わたしどもに語りかけておられます。「わたしが命のパンである。わたしを食べ、わたしを飲みなさい。あなたが永遠に神の み手の中で生きるため、わたしは十字架で肉を裂かれた。あなたが永遠に神の愛の中で生きるため、わたしは十字架で血潮を流した。だから、わたしの肉であるパンと、血潮である杯を受けなさい。あなたは、決して飢えることはない。決して渇くこともない。わたしが、あなたの中で永遠に生きるのだから。」

<祈祷>
天の父なる神さま、あなたの み子が命のパンとなって、わたしどもを飢えから解放してくださいましたから感謝いたします。まだ聖餐の喜びを知らず、救いを求めてさまよっている者たちを み心にとめてください。そして、地上での命を与えられたすべての者が、信仰を告白し、共に聖餐の恵みに与り、永遠の命を得ることができますように。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、聖餐の恵みに与ることを願いつつ、病のため、痛みを抱えているため、暑さのため、仕事のため、信仰が萎えているため、聖餐に与り得ない者たちを 御(おん)憐れみのうちにおいて強め、励ましてください。争いの続く世に、互いの命を大切にする思いを強めてください。他者の痛みに気づき、愛のわざを喜ぶ心を育んでください。疑いの心ではなく、互いに信じ、赦し合う心を授けてください。世界のさまざまなことに責任を負っている者のために、あなたの導きと支えがありますように。すべての者を用いて、あなたが世界の平和を確かなものとしてください。この日も愛のわざにいそしんでいる者を、医療、介護に従事している者を、あなたが強め励ましてください。新学期が始まりました。不安を抱えている子ども、教師がおりましたら、あなたの溢れる愛で包んでください。決して「ひとりぼっち」ではないと、信じさせてください。主よ、今、わたしどもの群れには4名のオルガニストが与えられておりますが、み心でしたら、さらに奉仕者が立てられますよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年8月20日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 出エジプト記 第16章1節~5節、新約 ヨハネによる福音書 第6章22節~35節
説教題:「人を永遠に生かすたべもの」
讃美歌:546、13、287、Ⅱ-95、545A

ヨハネによる福音書 第6章の、主イエスが「わたしが命のパンである。(6:35)」とおっしゃった み言葉を中心とした部分を読んでおります。教会が大切に守り続けてきた聖餐に込められている神さま、主イエスの想いを、数回かけて大事に読んでいきたいと思います。
今朝ご一緒に読む場面は、5千人以上もの群衆がすべて満腹した奇跡から一夜明けた、ガリラヤ湖の湖畔から始まります。主イエスの奇跡を目の当たりにし、興奮した群衆は、「何としても、イエスを我々の王にしよう。」と主イエスを捜しました。しかし、どこにも見当たりません。群衆が血まなこになって捜すと、近くの湖畔には小舟が一そうしかなかったこと、また、小舟には弟子たちだけが乗り込み、向こう岸へと出かけたことに気づいた。「イエスはいったいどこに隠れてしまったのか?何とかして見つけなくては!」と興奮している群衆。そのとき、ティベリアスという町から小舟が数そう、やって来たのです。噂を聞き付けたほかの人々が、「奇跡なんて本当か?イエスという男に会いたい。」そのような好奇心で朝一番でやって来たのかもしれません。向こう岸へ渡って捜しに行こうにも、舟がなくて困っていた群衆にとって、まさに渡りに舟。「便乗させてほしい」と、舟でやって来た人々に頭を下げました。男性だけで5千人という群衆が皆、乗ることはさすがにできなかったでしょうから、群衆の代表が、主イエスに直談判しようと、乗り込んだと考えられます。そして、対岸にあるカファルナウムの会堂で、主イエスを発見したのです。群衆は、主イエスを見つけるやいなや、なじるように訴えました。
25節。「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」。主イエスが、自分たちの前から姿を消したことに腹を立て、「あなたはなぜ、我々の王になってくれないのか。」と、くってかかったのです。しかし主イエスは、きっぱりとおっしゃいました。26節。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」主イエスの このお答えをよく味わうために、先ほど読み過ごしてしまった箇所に戻ります。23節です。「主が感謝の祈りを唱えられた後(のち)に人々がパンを食べた場所」とあります。「人々がパンを食べた場所」だけでも十分通じるところを、「主が感謝の祈りを唱えられた後(のち)に」と丁寧に記しているのです。それが、とても大切なことであるからです。主イエスは、5つのパンと2匹の魚を手に取り、神に感謝の祈りをささげられました。この感謝の祈りを父なる神さまが受け入れてくださり、神の力が働き、5千人以上の人々が満腹した。「しかし、あなたたちはパンだけを見ている。」と、主イエスは言われます。先週の説教の中で、後(のち)の教会において、このときの主イエスの「感謝の祈り」が、「聖餐の代名詞」となったと申しました。聖餐もまた、父なる神さまが、そこに働いていてくださることを信仰の目で見なければ、ただのパンとぶどうの液です。しかし神さまは、争い、奪い合っているわたしどもの世界を深く憐れみ、み子イエスを与えてくださいました。み子は、ご自分を、わたしどもの救いのために差し出してくださいました。聖餐は、その救いのしるしです。そのことを信じるわたしどもは、聖餐のパンとぶどうの液を、十字架の上で裂かれた み子の肉と、流された血潮として、いただく。わたしどもひとりひとりのための、父なる神さまの救いのしるしとして、いただく。「わたしを食べなさい。わたしを飲みなさい。わたしが、あなたたちの中に住み、神の業を行う力を与えよう」とおっしゃる み子に信頼して、いただくのです。
群衆は、自分たちの意のままに動き、常に腹を満たしてくれる王を求めていました。だから、思い通りに動いてくれない主イエスをなじりました。ここに描き出されているのは、わたしどもの罪の姿です。自分の望みを叶えてくれる神を求め、思い通りに動いてくれないと言って、神をなじる。それでも神さまは、人の思いを遥かに超えて、わたしどもを愛してくださっています。神さまは、「わたしが与えるこのキリストを、あなたの中に据えて生きよ」と、大切な み子イエスをわたしどもに与えてくださった。その神さまの大切な み子が、わたしどものためにおっしゃいました。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。(6:27)」永遠の命に至る食べ物のために働くとは、いったい何をしたらよいのでしょう?人々は、主に尋ねました。28節、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」。主イエスは答えて言われました。29節。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」「神の業」を行うために、「永遠の命に至る食べ物のために」、働くとは、神さまが主イエスを、わたしどもに お遣わしくださった救い主と信じること。主イエスに信頼し、すべてを委ねること。それが、「永遠の命に至る」はじめの一歩であると、主イエスは答えてくださったのです。
また、これに先立って、主イエスはもうひとつ大切な み言葉を、わたしどもにくださいました。永遠の命に至る食べ物について、27節で、「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」とおっしゃっています。「人の子」とは、旧約聖書の時代からイスラエルの人々が待ち望んでいたキリストです。主イエスは、ご自身のことを言っておられる。また群衆も、ある意味においてはイエスこそキリスト、と見込んで、自分たちの望みを賭けたのです。しかし、彼らが求めていたのは、神の業を行われるキリストではなく、自分たちの生活と身分をローマ帝国から取り戻し、保障してくれるリーダーでした。
そこで、彼らは言いました。30節。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。」どこまでも上から目線です。しかし、よくよく自分の心の底を覗き込むと、わたしどもの中にもこのような思いがあるのではないでしょうか。主イエスが「わたしだ。恐れることはない。」と言ってくださっているのに、あのこと、このこと、不安がある。恐れもある。幼子(おさなご)が親に全ぷくの信頼を寄せるようには、信じ切ることができない。それは、ここに描かれている人々の、「しるしを見せてください。あなたが信じるに値する方であることを、あなたの方で証明してほしい。そうすれば、あなたを救い主と信じよう」、という姿と、よく似てはいないでしょうか。
彼らはなお続けます。31節。「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」「イエスよ、あなたも、それをして見せてくれ」と言うのです。今朝は、旧約聖書 出エジプト記 第16章を朗読して頂きました。改めて2節以下を朗読いたします。「荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。『我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。』(16:2~3)」。
エジプトの奴隷であったイスラエルの人々がエジプトを脱出し、荒れ野で放浪生活をしていたときの出来事です。腹を空かせた人々は、指導者たちに文句を言った。そこで、指導者であったモーセは神さまに願い、神さまはマンナと呼ばれる食べものを彼らにお与えになりました。人々は、その出来事を引き合いに出し、主イエスに再び奇跡を要求したのです。
主イエスは、ここでも愛を持って答えてくださいました。32節。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降(くだ)って来て、世に命を与えるものである。」主は、言われます。「あなたがたは、パンを与えたのはモーセであり、しかも、それは過去のことと考えている。だが、モーセは自分の力で与えたのではない。父なる神が天から与えてくださったからモーセにそれができたのだ。マンナは、神が あなたがたを思い、養っていてくださることを示す『しるし』なのだ。それなのに、かつてのイスラエルの民も、そしてあなたがたも、神が、いつでもあなたがたを愛してくださっていることを忘れている。神のパンは、あなたがたのために、天から降(くだ)って来る。神のパンは、あなたがた自身の手で確保しなければならないものではない。わたしが天から降(くだ)って来て、あなたがたを生かす命のパンである。『神のパン』とは、わたし自身のこと。わたしを食べなさい。そうすれば、あなたがたは飢えることはない。わたしを飲みなさい。そうすれば、あなたがたは渇くことがない。わたしを食べれば、あなたがたは強い。わたしを飲めば、恐れは消える。わたしがあなたの中に居るのだから。」
主がおっしゃったように、「神の業」とは、主イエスが、天から降って来られた方であることを信じ、激しい嵐の中でも「わたしだ。恐れることはない。」と言ってくださる主イエスに、信頼することです。不安も、恐れも、できそうもないことも、わたしの中にいてくださる主イエスならできる。親の腕の中で、スヤスヤと眠る幼子のように、少しも疑わず、信じ切って、すべてを主イエスに委ねることにより、わたしたちは互いに仕え合うことができる。愛し合うことができるのです。
わたしどもも群衆のように、主イエスを自分の欲望を満たすための道具として扱ってしまう罪を悔い改めなければなりません。欲望が満たされないと主イエスを疑い、なじってしまう。しかし、主イエスは、そのような弱さを抱えているわたしどもに、どこまでも誠実に語り続けてくださる。「わたしを信じなさい。神の愛を信じなさい。わたしは、あなたに必要なものとして神によって与えられた命のパンである。恐れることはない。わたしを食べなさい。わたしをあなたの中に受け入れ、愛の業に生きて欲しい。どんなに自信がなくても、あなたの中に在る わたしには何でもできるのだから。」 
永遠に生きておられる主イエスが、わたしどもの内に永遠にいらしてくださるから、わたしどもも死の壁を超え、永遠に、神の愛の中に在ります。主イエスに信頼し、神さまから与えられている賜物を用いて、主の栄光を共に現し続けたい。

<祈祷>
天の父なる神さま、わたしどもを永遠に生かす食べ物として、み子を世に お遣わしくださり、感謝いたします。あなたがわたしどもを養ってくださいます。み子が、わたしどもの糧となって、わたしどもを決して飢えることも、渇くこともない命に生きる者としてくださいます。主のために働く者としてくださいます。そのことを、信じ切ることができますように。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。今こうしている間にも、世界中の各地で争いが続いていることに恥を覚え、あなたの導きを真剣に願うことができますように。奪い合うのではなく、分かち合うことが国々の間で、そしてわたしどもひとりひとりの間で、あなたの み心に適ったこととして実現してまいりますように。病床にあります者に、連日の猛暑で体調を崩している者に、看取りの疲れをおぼえる者に、肉体は健康であっても心があなたから離れたために病んでおります者のために、あなたの顧みがありますように。もしそれがあなたの み心であるならば、わたしどもの言葉と行いが、あなたの慰めを語る器として用いられますように。来週の主日は、愛澤豊重先生が説教を担ってくださいます。先生の上に、あなたの導きを祈ります。一年間の学びのために、アメリカに留学される教師と姉妹を お守りください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年8月13日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第31章1節~8節、新約 ヨハネによる福音書 第6章16節~21節
説教題:「わたしだ。恐れることはない」
讃美歌:546、9、292、519、544、Ⅱ-167

 先週の主の日、主イエスが非常に多くの人々にパンを分け与え、そこにいたすべての人が満腹した奇跡の出来事に耳を傾けました。主イエスのなさったこの驚くべきわざを目の当たりにした人々は、「この人こそ、我々が待ち焦がれていた預言者だ!」と興奮し、主イエスを、ローマを打ち倒すための王に担ぎ上げようとしました。しかし主イエスは、そのような人々の望む王となることを、良しとなさいませんでした。群衆から離れ、弟子たちもそこへ残して、ひとり、山に登られたのです。主イエスは、しばしばおひとりで祈るために山に登られました。祈りというと、わたしどもの祈りは、「ああして欲しい」、「こうしてください」というようなものになりがちですが、主イエスの祈り、それもおひとりで祈られる祈りは、父なる神さまの み心に、耳を傾けるときであったのではないかと思います。「父よ、お話しください。み心を教えてください。」と、静かなところで、ひとりで、心を静めて聴く。そのための、大切な時間であったのではないでしょうか。
ところで、残された弟子たちは、主イエスから、戻って来るのが遅いようなら日の暮れないうちに向こう岸へ先に渡っているようにと、あらかじめ言われていたのでしょう。夕方になってから、湖畔へ下りて行きました。まもなく日も沈み、暗くなる。弟子たちの中には元漁師のシモン・ペトロと兄弟アンデレや、ゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネがいましたが、それでも日暮れ時、主イエスのおられない舟で移動することには、不安があったかもしれません。湖の天気の急変は何度も経験していたからです。
すると嫌な予感が的中。ガリラヤ湖名物の強い風が吹き降ろし、湖は荒れ始めました。弟子たちがいくら一所懸命に舟を漕いでも、逆風に押し戻され、いっこうに前に進まない。そんなとき、予想もしなかったことが起こりました。なんと人影が、湖の上を歩いて、舟に近づいて来たのです。弟子たちは恐れました。幽霊と思ったかもしれません。おそろしかった。けれども、その人影は主イエスでありました。
 主は言われました。「わたしだ。恐れることはない。」日が暮れてすっかり暗くなってしまった湖で、波風にもまれて今にも沈没してしまうのではないかという不安と、得体の知れない人影にすっかりおびえ、パニックになった弟子たちの耳に、聞き覚えのある、尊敬してやまない主イエスの声が響いた。「わたしだ。」その み声は、慌てふためく弟子たちの心に、どれほど深く響いたことでしょう。弟子たちだけでなく、のちの時代、教会という名の舟に乗り込み、迫害を受けていたキリスト者たちも、この物語から繰り返し力を、勇気をいただいてきたに違いありません。今、わたしどもが読んでおりますヨハネによる福音書が記された頃、キリストの名のもとに集まり、礼拝をささげるのは、命がけの行為でした。ローマ帝国による迫害が続いていたのです。300年にもわたって迫害が続いた時期。教会は、突風が吹き付ける湖のまん中で、もがき続ける小舟のようでした。常に命の危険にさらされ、おびえながら、ヨハネ福音書を生み出した教会は、それでも主イエスが「わたしだ。恐れることはない。」とおっしゃって、われわれと共にいてくださる、という確信を、記したのです。わたしどもの国の教会にも、かつて、そのような時代がありました。皆さんの中にも、子ども時代に見聞きした記憶をお持ちの方がおられるかもしれません。国を挙げて、天皇を神と崇めていた時代の中で、まことの神さまを礼拝することは、命がけの行為でした。礼拝も、当時の警察によって見張られており、説教の言葉をとがめられて、牧師がつかまることもあったと聞いています。そういう命がけの時代を踏ん張っていたわたしどもの先輩方にも、この み言葉は変わらずに響いていた。「わたしだ。恐れることはない。」この み言葉に勇気をいただいて主キリストに立ち続けた先輩方がいたから、今のわたしどもがおります。現代の日本に生きるわたしどもは、主イエスを信じているからといって、命の危険を感じることはありません。その意味では、湖は凪の状態かもしれない。教会の建物も、立派なものが与えられております。ヨハネ福音書を生んだ教会よりも、わたしどもの先輩の時代の教会よりも、間違いなく大きな、立派な建物です。波に もまれて沈む心配はないはずです。だから何の不安もなく希望に満ちて伝道し、皆、力が みなぎって舟を漕いでいるかというと・・・。
 先週の東村山教会の礼拝出席者は50名でした。猛暑ということもありますが、やはり空席が目立ちました。50名の中の5名は、教会員以外ですので、教会員は45名。さらにその中の5名は、教職者ですから、教職者を除くと、教会員は40名です。聖餐の杯がたくさん余った。コロナウイルスによる脅威がある程度落ち着いたと言える2023年の夏。観光地には、たくさんの人々が戻った。けれども、教会には戻って来ていない。舟に乗っているわたしどもの数は、確実に減っているのです。わたしどもは思う。「この先、教会はどうなってしまうのか。そこで、はたと立ち止まり、考える。もしかしたら、わたしどもは、大きな舟に乗り、気心の知れた仲間たちと共に舟の外の波風から守られている安心感の中で、今は凪だと思い込んでいただけなのかもしれません。「伝道の困難さ」という点では、現代も、昔とは違う意味で「嵐の時代」と言ってよいのではないかと思います。皆、忙しく、隣りにいる人を顧みる余裕を失っている。人々は溢れかえる情報と言葉の大波に飲まれて傷ついている。傷つけ合って、信じ合うことができなくなっている。そのような、わたしどもを囲む現状を、目を背けずに見つめると、恐ろしくなります。しかし、そのときこそ、まことに主イエスの み声が響いてくるのです。「わたしだ。恐れることはない。」
ヨハネ福音書には、この後、「わたしは○○である」との み言葉が繰り返し登場します。第6章、「わたしが命のパンである。(6:35)」。第8章、「わたしは世の光である。(8:12)」第10章、「わたしは良い羊飼いである。(10:11)」第11章、「わたしは復活であり、命である。(11:25)」第14章、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(14:6)」第15章、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(15:5)」
そのように、主イエスは、いくつもの言葉を用いておっしゃったのです。繰り返し、繰り返し、「わたしだ。わたしはここにいる。」と。目に見えるものに囚われ、「もう駄目だ」と諦めてしまう弱いわたしどもにも、主イエスは「わたしだ。安心しなさい。」と語りかけてくださるのです。夜の闇の中、荒れ狂う嵐の湖で、大波に もまれながら おびえていた弟子たちは、「わたしだ。恐れることはない。」という主イエスの み声を聴いて、主を舟に迎え入れようとしました。すると間もなく舟は目指す地に着いた、と福音書は告げます。「迎え入れようとした。」であって、「迎え入れた」とは書かれていない。不思議な感じを受けます。それでも、信仰告白、洗礼へと導かれる過程を思うと、合点がいく気がいたします。恐れと、不安に囚われている中で、近づいて来られる主イエスの姿すら恐ろしく見えるとき、主イエスの み声が響く。「わたしだ。恐れることはない。」その み声が心に届く。ホッとする。安心する。それは、主イエスに、「わたしの舟に乗ってください」と、わたしどもが口にする前から、主イエスはわたしどもを救いたい、安心させたい、父なる神さまのもとへ連れて帰りたいと願っておられるからです。主イエスの愛が、いつでも先回りをして、わたしどもを迎え入れてくださる。わたしどもが、主を迎え入れようとするときにはもう、主は わたしどもと共におられ、父なる神さまの みもとへ連れて行ってくださるのです。。
主イエスは、「わたしだ。」と声をかけてくださり、わたしどもの不安を、恐れを取り除いてくださいます。主イエス抜きで恐れや、不安を取り除くことは絶対にできません。ひとつの不安が解消されると、新たな不安が生まれる。それがわたしたちです。主イエスは、そのようなわたしたちの弱さをご自分の痛みとして受け止めてくださり、寄り添ってくださり、わたしどものために配慮してくださり、「わたしだ。恐れることはない。」と語り続けてくださるのです。それでも不安なとき、天を仰ぎ、「主よ」と祈る。すると、天から神さまの眼差しが注がれていることがわかる。聖霊が注がれていることがわかる。主イエスの「わたしだ。恐れることはない。」が聞こえてくるのです。わたしどもは、「主よ、今日も、わたしの舟に乗ってください。」と申し上げればよいのです。
勤務している学校が夏休みに入り、できるだけ皆さんとの面談を大切にしたいと願っております。先週も、ある教会員を訪問させて頂きました。その姉妹は、今朝もオンラインで礼拝をささげていることでしょう。残念ながら、礼拝出席名簿の「出席」欄に〇はされません。それでも今、自宅のパソコンを通して共に礼拝をささげているのです。姉妹は、「主イエスの奇跡物語から、元気と励ましを頂きました」と語ってくださり、わたしも姉妹から元気と励ましを頂きました。また、「オンラインで同じ時間に礼拝をささげている方が10数名おりました。その中には教会員でない方もおられると思います。嬉しいですね。」と報告してくださいました。
「東村山教会」という舟に乗るわたしどもにも、主イエスは声をかけていてくださいます。「わたしだ。恐れることはない。」わたしどもひとりひとりという小舟にも、いつも声をかけていてくださいます。「わたしだ。恐れることはない。」主イエスの み声を信じ、共にいてくださる主に委ね、舟を漕いでいきたい。喜んで語り続けたい。主イエスと共に生きる喜びを。喜んで語り続けたい。主と共に歩む旅には恐れがないことを。喜んで語り続けたい。主と共に歩む旅の目指す地は、神さまの懐であることを。

<祈祷>
天の父なる神さま、恐れの中にあっても、主イエスの「わたしだ。恐れることはない。」との み声を信じ、「東村山教会」という名の舟を漕ぎ続ける者としてください。わたしどもと共に乗り込んでいてくださる主イエスを信じ、喜んで生き、伝道への思いを篤くする者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。8月は平和を祈る月です。世界各地で続いている争いを一日も早く終結へと導いてください。わたしどもをそのために用い、平和のための祈りを日々、怠ることのないよう導いてください。教会に連なる者の中で病を患っている者、痛みを抱えている者、体調を崩している者がおります。どうか、それぞれの病、痛みを癒やしてください。また、看取っている者を強め、励ましてください。台風が接近しております。み心なら、少しでも被害が少なくすむように。全国、全世界の諸教会を強め、励ましてください。ひとりでも多くの者が、真実の救いを得ることができますように。求道生活を続けている者、夏の課題で礼拝に出席している若き魂が、いつの日か、あなたの招きに気づき、信仰を告白し、洗礼へ導かれますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年8月6日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第145篇10節~16節、新約 ヨハネによる福音書 第6章1節~15節
説教題:「少しも無駄にならない恵み」
讃美歌:546、2、93、Ⅱ-1、259、543

わたしたちは皆、神さまから素晴らしい賜物を与えられています。それなのに、気がつけば「あれが足りない、これが足りない」と嘆いて下を向いている。しかし、そのようなわたしたちに今朝、み言葉が与えられました。下を向いてしまうわたしたちを生かす、命の み言葉です。「この言葉をただ信じなさい」と、わたしたちは神さまから、今日、ここへ呼ばれ、集まって来ました。
今日の み言葉にも、主イエスの元へ集まった群衆が登場します。主イエスがたくさんの病人を癒やされた奇跡を見て、熱狂し、押し寄せて来たのです。そのようすをご覧になった主イエスは、山に登り、弟子たちと一緒にお座りになりました。見晴らしの良い丘のような山の上からは、続々と集まってくる群衆が見えます。そのとき、主イエスは、弟子のフィリポに一つの質問をなさいました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。フィリポは予想もしなかった問いかけにまごつきました。目の前には物凄い数の人々が迫っています。そんなの無理に決まっていると思いながらも、慌てて頭の中でそろばんをはじく。そして答えました。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。1デナリオンは、大人が一日働いて得る賃金。ですから、8ヶ月ぐらいの収入をつぎ込んでも足りないと思うほどの群衆が迫って来ていたのです。10節の後半に、男たちの数はおよそ5千人とありますから、女性、子どもを入れると1万人以上であったかもしれません。たとえ今、200デナリオンが手元にあったとしても、そんなに大量のパンを用意している店などあるはずがない。そんなの無理に決まっている、とのフィリポの思いがありありと伝わってまいります。
また、弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが主イエスに言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」しかしです。主イエスは言われました。「人々を座らせなさい」。主イエスのご命令です。フィリポも、アンデレも、他の弟子たちも、主イエスのなさろうとしていることがわかりませんでした。わからなかったのですが、主の ご命令に従いました。改革者カルヴァンは、この場面について、こう言っています。「かれらの速かな服従ぶりは、大いに賞賛されるに値するものである。かれらはいま、キリストの意図がなんであるかを知らず、自分たちがしていることがどんな役に立つかも知らずに、ただキリストの命令にしたがっているのだ。」どう逆立ちしても人々の胃袋を満足させることは不可能と思い込んでいる弟子たちですが、それでも、キリストの命令に、すぐに従ったのです。この弟子たちの速やかな服従は、わたしたちにとっても、大切な姿勢です。「僅か数人の教会員で、何ができるというのか。」「高齢化した教会で伝道など困難。」「教会学校もこのままでは子どもたちがゼロになってしまう。」どうしても悲観的な意見ばかりになる。しかし、目の前の現実に心を囚われ、下を向くわたしたちの心を、主は打ち破るように命じられるのです。「わたしを信じ、わたしの言葉を信じ、わたしに従いなさい。」と。
主イエスは、大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年からパンを受け取り、感謝の祈りを唱えられました。そして、座っている人々に、分け与えられました。きっと、パンを差し出した少年が最初にいただいたことでしょう。続いて、魚も同じように、少年から受け取り、感謝の祈りをささげてから、人々が欲しいだけ、分け与えられました。すると、12節にあるよう、すべての人が満腹したのです。でも、主イエスの恵みはこれで終わらないのです。主イエスは弟子たちに命じられました。12節。「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」。
弟子たちは、おのおの籠を抱えて、パン屑を集めて回りました。すると、12の籠がいっぱいになったのです。頭の中で計算して、主イエスの問いかけに、そんなの無理に決まっていると決め込んでいた、信仰の貧しい12人の弟子たち一人一人が抱える籠が、ちょうどいっぱいになる恵みが、残ったのです。このとき主イエスが言われた、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」という み言葉の「無駄になる」という言葉の元のギリシア語には、「殺す」、「失う」、「滅びる」という意味があります。ヨハネによる福音書には、よく用いられている言葉です。たとえば第3章16節。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この「滅びる」という言葉と「無駄になる」という言葉が同じものなのです。主イエスは、「一人も失いたくない。一人でも滅びるのは耐えられない。あなたがたがわたしの前に座るなら、わたしの恵みはあなたにも、あなたにも溢れる。わたしの恵みがあなたにいっぱいになり、こぼれる。わたしの恵みを無駄にして欲しくない。あの人にも、この人にも、喜んで届けて欲しい。」と、心の底から願っておられる、わたしはそう思います。
ところで、第6章6節にはこう書かれています。「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。」主が、何をしようとしているか、それは、このときの出来事だけではありませんでした。主イエスは、すでに決心しておられたのです。ご自分の身体をすべての人のために、差し出すことを。熱狂して集まって来ている目の前の群衆が、いずれ「十字架につけろ」と叫び出すことも、知っておられたに違いありません。そのような人間の身勝手な罪が、主を十字架につけました。けれども、この主イエスの死こそが、すべての人の罪が赦されるための代償であったのです。うっかりすると、サラッと読み過ごしてしまいそうですが、4節に、このような み言葉が挟まれています。「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。」
過越祭は、昔、エジプトの奴隷であったユダヤ人たちを救い出すために、神さまが備えられた恵みを記念する祭りです。そのとき、ユダヤ人は、神さまに命じられた通り、小羊を「いけにえ」とし、その小羊の血によって、生きてエジプトを脱出することができました。主イエスは、ご自分が小羊のように、すべての人のために、神さまによって遣わされた「いけにえ」であることを、知っておられたのです。
主イエスは、ご自分の十字架の死のゆえに、「すべての人の罪を赦して欲しい」と、神さまに執り成すために、天から降って来られました。罪の赦しが、神さまから与えられた使命でありました。「ご自分では何をしようとしているか知っておられた」という み言葉には、このとてつもない恵みが含まれているのです。
教会では月に一度、聖餐式を行います。聖餐式で配られるパンとぶどうの液は、十字架で裂かれた主イエスの身体と流された血を、あらわしています。今朝もここに聖餐が備えられています。今朝の み言葉では、主イエスがパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられました。これは、ヨハネによる福音書における、聖餐制定の起源を示しています。ここに、聖餐の原形がある。11節の「感謝の祈り」という言葉は、のちに聖餐の代名詞となりました。聖餐式では、司式者である牧師がまず祈りをささげます。この祈りによって、今朝も、主イエスがわたしたちのために感謝の祈りを唱えてくださっていること、また一人一人に「わたしの身体を食べなさい。わたしの血を飲みなさい」と渡してくださることを心に刻むのです。
 聖餐は、心で信じ、口で公に信仰を言い表した者、つまり、信仰告白をし、洗礼を受けた者だけが与ることができます。けれども、この食卓について欲しい、と招かれているのは、すべての人です。主イエスは、すべての人のために、わたしを信じて、食べなさいとご自身の身体を差し出してくださったのです。「みな一人残らず、わたしを信じて欲しい。わたしの言葉を信じて欲しい。わたしの前に座って欲しい」と、主は呼んでおられます。主が与えてくださる食べ物は尽きることがありません。主の恵みは涸れることがない。一人の例外もなく満たされるだけでなく、主の恵みをたくさんの人に伝える働き人として、籠いっぱい、手いっぱいの恵みをいただけるのです。「あれもない」、「これもない」と下を向く必要はない。恵みは溢れている。「わたしを信じなさい」とわたしたちは招かれており、ここから遣わされてゆくのです。今、罪の赦しと永遠の命に至る聖餐の食卓を、主イエスご自身からいただく大いなる恵みとして、感謝して与りたい。

<祈祷>
天の父なる神さま、ただあなたと、あなたの言葉を信じ、あなたからの溢れる恵みに生きる者としてください。今日の礼拝にあなたから招かれたすべての者が、いつの日か、聖餐の祝いに与ることができますよう聖霊を注ぎ続けてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。今日から夏期伝道実習生として大阪東教会に遣わされた佐藤神学生を強め、あなたに仕える僕として用いてください。今日、8月6日は広島、9日は長崎に原爆が投下された記念の日を迎えます。二度と戦争は行わないとあなたに誓ったにもかかわらず、世界の至るところで争いがあり、紛争があります。平和を来らせてください。平和をつくる者をひとりでも多くし、特に力ある者の中に、ひたすら平和に生きる願いを呼び起こしてください。なお厳しい猛暑が続きます。台風、大雨の被害も各地で発生しております。その中で、病床にある者を、望みを失ったような中でなお生き続けようとしている者を、あなたが深く顧みのうちに覚え、支えてくださいますように。永遠に変わらぬ望みを与えてくださいますようにお願いいたします。リハビリに励んでおられる芳賀力先生の一日も早い快復を祈ります。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年7月30日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第12章8節~12節、新約 ヨハネによる福音書 第5章41節~47節
説教題:「信じることができるために」
讃美歌:546、24、274、Ⅱ-195、542

第5章19節から、主イエスを神の み子と信じることのできないユダヤ人たちへの、主イエスのメッセージが続いています。先週も申しましたが、主イエスは、ユダヤ人たちを潰そうとしておられるのではありません。「わたしを信じて、神さまの救いの み手の中で生きて欲しい」と、切に願っておられるのです。「わたしたちは神を信じ、信仰生活を大事にしている。だから、わたしたちはほかの人々よりも神の近くにいる」と、思い込んでいるユダヤ人たちへの、主イエスのメッセージを、大切に読んでいきたいと思います。
主イエスは言われます。41節。「わたしは、人からの誉れは受けない。」「誉れ」という言葉は、44節にも登場します。元のギリシア語は、「ドクサ」という言葉です。辞書を調べると、「意見」、「評価」、「賞賛」、「栄光」とありました。ちなみに、2018年に新しく発行されました聖書協会共同訳は、41節を「私は、人からの栄光は受けない。」と訳しています。「誉れ」、「栄光」は、魅力的です。誰でも褒められれば嬉しい。晴れがましいことは苦手と言う人でも、誰の目にも止まらなかったり、人から誤解を受けるのを、喜びはしません。しかしそれは、あなたたちの中に神さまへの愛がないためだ、と主イエスはおっしゃるのです。
42節以下。「しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。」「神さまへの愛が、あなたたちの中にあるなら、あなたたちは神さまに喜んでいただくことだけを求めるはずだ」と主イエスは言われます。「そうであれば、神さまの元からあなたたちのために遣わされてきたわたしを、喜んで迎え入れるはずだ」と。何度も申し上げているとおり、ここに登場しているユダヤ人たちは、神さまを信じ、聖書を隅から隅までよく研究し、熱心に礼拝をささげていた人たちです。「信仰熱心」と、人々から高く評価されてもいました。しかし、そうやって神に近い生活を追及し、人からの誉れを喜んでいるうちに、まるで自分が神さまのとなりに並んだかのように勘違いしてしまいました。
旧約聖書の「バベルの塔」の物語は、自分たちの技術を誇り、人々から注目されることを喜ぶ人間の、罪の物語です。天まで届く塔を建てて、神に近づき、神と並ぼうとした。神さまの愛に頼らず、自分の力に頼る生き方は、自分を神さまにしてしまうのです。今も続いている世界の争いも、正義の名のもとに、相手を悪魔と決めつけ、神さまの眼差しを忘れ、殺し合っている。その意味で、主イエスがユダヤ人たちに告げているメッセージは、争いの時代を生かされているわたしたちこそ、心に刻むべき、平和、和解へのメッセージであります。
「もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。」と主イエスはおっしゃいました。自分が神と同等であると錯覚してしまった人間は、他人(ひと)が自分より高いところにいることを許せません。互いに受け入れて誉め合うのも、自分の方が高いところにいると、安心して、誉めているに過ぎないのです。主イエスは、自分の名によっては来られませんでした。主イエスは、父なる神さまの名によって、神さまから、この世に遣わされて来られました。神さまのわたしたちへの愛によって、この世に遣わされたのです。人間よりも、遥かに高いところから来られた。そのような方として、主イエスは、わたしたちの信仰の急所を、告げておられます。「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」
主イエスは、「あなたたちは、神さまの愛が見えなくなっている。神さまが、『あなたは、わたしにとって尊い者だ』とおっしゃってくださる声が、聞こえなくなっている。」と悲しんでおられます。「その にぶくなっている目と耳を開くためにわたしはあなたたちのもとへ来たのだ。」と、訴えておられるのです。
わたしたちは今、どこに立っているでしょうか?神さまの慈愛に満ちた眼差しの中に自分の身を置き、ただ神さまから喜ばれることだけを求めているでしょうか?人から誉められなくても、たとえ、良かれと思って人にした行いが一方通行であっても、人から愛されなくても、神さまが、知っていてくださる。神さまが、愛していてくださる。そのことだけのために、喜んで生きているでしょうか?主イエスは、神さまの望まれることを行って誉れを受けるために、天から降って来られました。神さまが望まれたため、人々から受け入れられなくても、鞭打たれても、あざけられても、神さまの み心に従って、十字架に架けられ、死なれました。神さまの み心によって、誰よりも低く、低く、これ以上なく低くなってくださったのです。神さまからの誉れを受けることだけを喜びとして。そのイエスさまから、わたしたちは今朝、問われています。あなたたちは、どこに立っているか?
45節以下。「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」
主イエスは、ユダヤ人たちが尊敬し、自分たちの「生きる規範」として重んじるモーセの名をあげ、メッセージを伝えられました。モーセは、エジプトの奴隷であったユダヤ人を救い、神が与えられた土地へと導いた偉大な預言者、指導者です。当時のユダヤ人は、「聖書を記したのはモーセ」と信じていたので、旧約聖書のはじめの5つの文書は「モーセ五書」と呼ばれています。主イエスは、「あなたたちがモーセ五書を信じているなら、わたしが語ることを信じないはずがない。もし、あなたたちがわたしを救い主と信じることができないのなら、あなたたちはモーセ五書を信じていないことになる。そしてわたしを信じないことによって、あなたたちの罪はモーセから神に告発されているのだ。なぜなら、モーセ五書が指し示しているのはわたしなのだから」と言われたのです。
 今朝は、モーセ五書の一つである、申命記 第12章を朗読して頂きました。改めて8節と13節を朗読いたします。「あなたたちは、我々が今日、ここでそうしているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを決して行ってはならない。」「あなたは、自分の好む場所で焼き尽くす献げ物をささげないように注意しなさい。」ここでは、「まことの礼拝」について語られています。「自分が正しいと思うような礼拝をするな。」「自分が好むような礼拝をすれば、神さまを拝んだことになると思うな。」神さまから、イスラエルの民に対する戒めです。この神さまからの戒めは、わたしたちへの戒めでもあります。あなたはどこにいるか?わたしの愛の中にいるか?まことの神に並んで立とうとしていないか?わたしから誉れを受けることだけを喜びとしているか?
主イエスは、わたしたちのために、「わたしを信じる者になりなさい」と語り続けてくださっています。その根拠が、45節です。「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。」主イエスは、ご自身を罪に定め、殺そうと狙っているユダヤ人たちに対して、「わたしが神から遣わされて来たことを信じて欲しい。わたしは、あなたがたを訴えない。わたしは、神さまに対して、『わたしに免じてこの人たちを赦して欲しい』と、あなたたちを執り成す者なのだ」と言っておられるのです。
主は、ご自分を殺そうと狙っている者にすら、「わたしはあなたたちを父なる神に執り成すために、あなたたちのもとへやって来たのだ」と言われました。「信じない者でなく、信じる者になりなさい」と、主イエスは招いてくださっています。信じる者となるために必要なこと。それは、ただ、素直になることだけです。受け入れられなくても、嘲られても、父なる神さまから喜ばれ、誉れを受けるために十字架に架けられた主イエスが、この命に免じて赦して欲しいと、わたしたちを神さまに執り成してくださいます。父なる神さまが、そのことを望まれました。神さまが、主イエスの十字架の死による執り成しを望まれたのです。そして主イエスが神さまの望まれたとおりのことを成し遂げられましたから、神さまは主イエスに栄光を、誉れを、お与えになりました。それほどまでに、大切なみ子の命をひきかえに差し出すほどに、わたしたちは神さまから愛されています。信じられないようなこの恵みの中に、ただ素直に立つ、それだけが、わたしたちに求められている、ただひとつのことなのです。
この後、第2編195番を賛美いたします。「キリストにはかえられません」と繰り返し賛美します。「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。」と語り続けてくださる主キリストの前に素直に立ちたい。人からの誉れでなく、神さまが喜んでくださることだけを喜び、賛美したい。「世の楽しみよ、去れ、世のほまれよ、行け。キリストにはかえられません、世のなにものも。」

<祈祷>
天の父なる御神、人からの誉れに一喜一憂するわたしどもの罪をお赦しください。主よ、唯一の神さまであられるあなたからの誉れを求め、自分の体で主の栄光を現す者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。連日の猛暑が続いております。礼拝を欠席している者たちのことが気にかかります。主よ、どうか、一人一人と共にあって祝福を与え、お守りください。連日、痛ましい事件、事故、災害、争いが続いております。愛する家族を失った者、生きる気力を失った者、住む家を奪われた者、今日の食事にも困窮する者を憐れんでください。体調を崩している者、病を抱えている者を憐れんでください。特に、リハビリに励んでおられる芳賀 力先生を強め、励ましてください。今日はこの後、夏のコイノニア・ミーティングを行います。共に、それぞれの課題を共有し、祈り合うときとなりますよう、導いてください。来週の主日から大阪東教会において夏期伝道実習に臨まれる佐藤神学生を強め、励ましてください。約1ヶ月の実習を通し、あなたからの召命を益々、強くすることができますよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年7月23日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第33章22節、新約 ヨハネによる福音書 第5章31節~40節
説教題:「真実の証し」
讃美歌:546、10、190、239、541

主イエスが語られた み言葉を読んでおります。主イエスに対し、心の中に殺意をふつふつとたぎらせているユダヤ人たちに向けて語られたメッセージです。31節。「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。」
主イエスは、はっきりおっしゃいました。「わたしは自分自身について証しをしない」と。主イエスは、ご自身を証しするために世に来られたのではありません。父なる神さまが、神さまご自身の意志を証しするために、主イエスを世に お遣わしになったのです。
今朝の み言葉に先立って、主イエスは言われました。30節。「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」主イエスのなさるひとつひとつのわざは、主イエスご自身の意志によるのではなく、父なる神さまのご意志なのです。
主イエスは、続けておっしゃいました。33節。「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。」主イエスは、洗礼者ヨハネの証言を「必要ない」と、はねつけておられるのではありません。主イエスは第14章でこのようにおっしゃいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。(14:6)」主イエスは、「洗礼者ヨハネは真理について証しをしたが、確かな証しがここにある」と言われます。神さまのご意志、み心そのものであられる主イエス・キリストこそが、真理であるからです。
今日の第5章31節から40節までの間に、何と11回も登場する言葉があります。それは、「証し」という言葉です。新共同訳では「証し」と訳されておりますが、元来のギリシア語では「証言」という法廷用語として訳すことのできる言葉です。
今日は、旧約聖書イザヤ書第33章の み言葉を朗読して頂きました。「まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。(33:22)」ヨハネによる福音書第5章の み言葉では、ユダヤ人が裁判官であるような印象です。ユダヤ人たちは、聖書を研究している者として、聖書の言葉をもって主を裁こうとしています。「お前は、聖書で定められた安息日を守らないばかりか、自身を『神の子』と称し、神と等しい者であると言ってはばからない。お前の罪は死刑に値する」と、裁こうとしている。主イエスは、被告として証言を求められているように見える。けれども、実はここで問われているのは、主イエスこそ、真実の裁き手であられることを信じるか、ということです。あなたたちは自分が裁判官だと思っている。しかしそれは真実であろうかと問われているのです。そしてその問いは、ユダヤ人たちだけではない。わたしどもへの問いでもあります。「ユダヤ人たち」とここで書かれている人々は、決して、みだらな行いにふけったり、あくどいことをしていた人々ではありません。掟を守り、礼拝をささげ、まじめに、聖書を隅から隅まで研究していた人々です。それゆえに、自分たちこそが神にもっとも近く、神の み心をよく知っており、裁き手にふさわしい者であると思ってしまったのです。
今、わたしどもは「主イエスを殺そうなどと考えるはずがない」と思っていますが、果たして本当にそうだろうか。この人たちに、わたしどもは よく似ていないだろうか。毎週教会へ通い、聖書に親しみ、奉仕にいそしみ、正しい生活を心がけている。けれども、いつの間にか、そのことが目的になってしまい、同じようにできない他者を裁いてしまったり、年を重ねてだんだん人の世話になることが多くなっていってしまう自分を裁いてしまったりはしていないでしょうか。「ただ、わたしにつながっていなさい」とそれだけを求めていてくださる主イエスの み手を振り払い、自分ひとりで歩こうとしていないでしょうか。まことの正しい裁き主に、わたしの王となっていただくことが、何より大切です。
また、ここでは、もうひとつ、大切なことが問われています。それは、主イエスが神の子か、否か、という問題です。先週の み言葉である第5章25節。「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」主イエスが「アーメン、アーメン。これは本当のこと。」と念を押して言われた、「神の子であるわたしの声を聞く時が来た。今やその時である。」との言葉を、信じるか否か。信頼して、「アーメン、あなたこそ神の子キリストです。わたしを救ってください」と言えるのか、言えないのか。それは、先週ご一緒に読んだように、わたしどもの命に関わる重大なことです。滅びか、永遠の命かの瀬戸際です。
けれども、そのとき、主イエスは、このように言ってくださるのです。34節。「しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。」主イエスは言われたのです。「相手がまことの裁き主であることも知らずに裁こうとしているあなたたちが救われるために。わたしを殺そうとしているあなたたちが救われるために。このことだけは言っておきたい。わたしは、あなたたちを救いたい。あなたたちが避けて避けて無視してきたサマリアの人々が次々とわたしを救い主と信じ、死から命へと移されたように、あなたたちも、死から命へと移されて欲しい。」と真剣に望んでおられる。だからこそ、主イエスは、今、目の前にいるユダヤ人たちにとって、またわたしどもにとっても、耳の痛い厳しい言葉を続けられるのです。くどいようですが、それは、わたしどもを滅ぼすためではありません。その反対。「何としても救い出したい。聞いたことも見たこともない神を信じることができる道に、あなたたちを招きたい。」そのようにおっしゃってくださっているのです。
35節。「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。」主イエスは再び、洗礼者ヨハネについて話されました。洗礼者ヨハネがヨルダンのほとりで神の言葉を説いていたとき、あなたたちは裁判官のつもりになって、それが真実かどうかを確かめに行った。そして、「ヨハネの言葉にもなかなかいいところがある」などと上から目線で論評していた。こういうところにも、わたしどもの罪が見え隠れします。聖書の み言葉の都合のよいところだけ拾い読みして、理解できない言葉は避けたり、勝手な解釈を加えたりする。しかし、それではいつまでたっても、真理にはたどりつけないと、主イエスはわたしどもをまっすぐに見つめて言っておられるのです。
主イエスは、ただただ「あなたがたを救いたい!」と願い続けられます。36節以下。「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」
相手への真実の愛がなければ、相手を救いたい、いや、救わなければならないと思わなければ、これほど厳しい言葉は言えません。あなたたちが救われるためにと、主イエスは言われます。まことの裁判官が自ら、今からでも遅くはない。真理であるわたしのもとに来なさい、わたしと繋がりなさいと、招いておられます。主イエスはおっしゃるのです。「あなたがたは権威ある者として聖書を学び研究している。そこにこそ永遠の命があると思って研究している。でも、それではいつまで経っても、永遠の命を見つけること、得ることはできない。なぜなら、『聖書は わたしについて証しを するもの』だから。
旧約聖書も、新約聖書も、聖書が語っているのは、イエスを主と信じるなら誰にでも永遠の命が与えられる、ということです。主イエスを抜きに、聖書を読み、いくら研究しても、聖書の中に永遠の命を見つけることなどできないのです。主イエス・キリストは、「あなたに、一日も早く、そのことに気がついて欲しい。わたしのところに来て欲しい。」と、愛をもって呼んでおられます。
この後、讃美歌239番を賛美します。この讃美歌を賛美すると、主イエスのお声、主イエスのお姿を聞いたことも見たこともないはずなのに、本当に今、目の前でわたしどもを見つめ、憐れみ、わたしの涙を拭い続けてくださるイエスさまのお顔が迫ってまいります。日々、十字架の上から血潮したたる み手をひろげ、「生命(いのち)をうけよ」と招き続けてくださるイエスさまが、グイと迫ってくるように感じる。勉強が必要なのではない。立派で正しいことが求められているのでもない。十字架につけて殺してしまおうと命を狙う者さえも、主イエスは絶対に諦めない。匙を投げない。主イエスこそが神さまの み心そのものであり、真理であられるからです。どこまでも探し、どこまでも招き続けてくださる。呼び続け、待ち続けていてくださるのです。
聖書は、研究するための書物ではありません。聖書は、主イエスと出会うための書物です。主イエスと出会うために、み言葉に触れ続けたい。厳しくとも、よくわからなくとも、触れ続けるのです。主イエスこそ、わたしどもを父なる神さまのもとへと導く道です。真理です。命です。主イエスのもとにいれば、主イエスにつながっていれば、わたしどもは何も恐れる必要がありません。たとえ、死の間際にあっても恐れなくてよい。こわがらなくてよい。何の心配もいらない。つながっていてくださる主イエスにただ頼る。そこにこそ、永遠の命、永遠の安らぎがあるのです。

<祈祷>
天の父なる御神、日々、み言葉を通してわたしたちに「生きよ」と語りかけてくださり感謝いたします。日々、自分の力に頼るのではなく、ただ主イエスにつながって、主の み力に頼り切る者としてください。主よ、すべての者があなたの懐に帰り、永遠の命を得ることができますよう導いてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。梅雨が明け、厳しい暑さが続いております。主よ、体調を崩している者、痛みを抱えている者を憐れんでください。先週は、芳賀先生のご家族が礼拝に出席され、近況を伺うことが許され感謝いたします。今日も礼拝を慕いつつ、病院でリハビリに励んでおられる先生を強め、クリスマス礼拝をご一緒にささげることができますように。今日はこの後、教会学校サマーフェスティバルが行われます。子どもたちと共に「主の祈りは、わたしたちの祈り」というテーマのもとで過ごします。主よ、「主の祈り」の心を子どもたちの心に刻んでください。世界の平和のために祈ります。わたしどもが戦いを一日も早く終わらせることができますよう、主よ どうか、導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年7月16日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第37章11節~14節、新約 ヨハネによる福音書 第5章19節~30節
説教題:「死から命へ」
讃美歌:546、8、151、502、540

もしも突然、友人から、「あなたが信じている永遠の命について説明して」と言われたら、わたしたちはどう答えたらよいでしょうか。今朝の礼拝の備えをしながら、そんなことを考えました。言うまでもなく、伝説の吸血鬼ドラキュラのように100年も200年も生き続ける、という類(たぐい)のことではない。地上の命にはいつか必ず、終わりがきます。うまく伝えることができないかもしれません。それでも、これだけは言える。主イエスの言葉に、心の耳を澄まして、聴き続ける。それが永遠の命に生きるためのカギになる。すべてのものをお造りになり、命を与え、永遠を生きておられる神さまが、主イエスの言葉を通して、わたしたちに語りかけてくださるから。
主イエスの言葉には、触(ふ)れるたびに、新しい発見があります。「発見する」というより、言葉によって自分自身が「発見される」ような感覚、と言った方がよいかもしれません。繰り返し読んで良く知っていると思っていた言葉が、まったく違う響きをもって迫ってくる。この世をお造りくださり、わたしたちをもお造りくださった、すべての命ある者の父でいらっしゃる神さま。その神さまが、わたしどもひとりひとりに、「わたしと共に健やかに、平安に、生きて欲しい」と、主イエスを通して語りかけ、招いてくださるのです。
永遠の命は、聖書を研究し尽くせば理解できるものではありません。主イエスの言葉を聞き続ける。すると、主イエスをわたしたちのために お遣わしになられた神さまの愛が、心に響いてくるのです。主イエスの言葉を聞き、受け入れるとき、永遠に生きておられる神さまとの深い交わりが生まれます。神さまと一緒に、生きる者とされるのです。地上の命が終わっても、神さまとの交わりは終わることがありません。生きているときも、死ぬときも、主のお守りの中で健やかに、安心して、生きることができるのです。
今日わたしたちに与えられているヨハネによる福音書の み言葉は、主イエスのお言葉ですが、神さまの救いの奥義と言ってよい み言葉です。これを主イエスは誰に向かって話しておられるのか、というと、弟子たちではなく、大勢の群衆でもありません。何と、主イエスは、ご自分を迫害し、殺そうと命を狙っているユダヤ人たちに向けて語っておられるのです。神さまとご自分の関係、そしてなぜ、ご自分が神さまからこの世に遣わされて来たのか、その意味を、一所懸命、伝えてくださったのです。このように語り始められました。「はっきり言っておく。」
「はっきり言っておく。」と訳されている元の言葉は、「アーメン、アーメン」です。わたしたちが祈りの最後に唱える「アーメン」を、2回も繰り返しています。それは、「今からわたしが語る言葉は本当であり、真実である」と、主イエスが全存在を賭け保証してくださる言葉、約束です。今朝のヨハネによる福音書 第5章19節から30節には、この「アーメン、アーメン」が、何と三度も出てきます。この言葉を、よくよく、あなたがたに伝えておく、これは本当のこと、どうか信じて欲しいと、主イエスはご自分の命を狙う人たちに向かい、祈るように語られたのです。
最初の「(アーメン、アーメン)はっきり言っておく。」は19節。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。」何と、主イエスは、殺意を抱いているユダヤ人たちに「わたしは無力である」と言われました。さらに30節でも「わたしは無力なのだ」と、念を押すように繰り返しておられます。「父なる神さまなしでは、子であるわたしは何もできない」と。しかし主イエスは、続けて言われたのです。「父なる神さまの みわざを、神の子であるわたしはそのとおりに行なう。なぜなら、父なる神さまは子であるわたしを愛して、ご自分のなさることをすべて、子であるわたしにひとつ、ひとつ、示してくださるから。」
主イエスは続けておっしゃいます。20節後半。「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」
ここで主イエスは、これから起ころうとしている神さまの秘密を打ち明けておられます。父なる神さまが、これからなさろうとしているすべての人間に対する救いのわざを、予告しておられるのです。「あなたがたは驚くことになる。これは、これまで誰も想像しなかった救いのわざだ。勉強すればわかるというものではない。あなたがたの思いを遥か高く超える、神の み心であるからだ。わたしは十字架で死ぬ。しかし、父なる神さまによって、復活させられる。神さまが新しい命を与えてくださる。そして同じように新しく命を与える権限をも、お与えくださるのだ。」と。ここで言われている命が、永遠の命です。主イエスは、ご自分を殺そうと狙っている人々に、あなたがたも、わたしの言葉を聞いて、信じて欲しい、永遠の命を受けて欲しいと、招いておられるのです。この予告どおり、主イエスは、十字架に架けられ、死なれました。しかし、三日目の朝、墓の中にはおられませんでした。神さまによって、復活させられたのです。そして、復活なさった主イエスは、主イエスの言葉を聞き、「アーメン、本当のことです」と信じる者たちに、ご自分が神さまから与えられた復活の命を、同じように与えよう、と約束しておられるのです。
2番目の「(アーメン、アーメン)はっきり言っておく。」は、24節。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」神学を勉強して、1から10までしっかり理解すれば救われるとか、何か立派なよいことを一所懸命に積み重ねていけば、最後には救われる、というのではないのです。主イエスが、これは本当のことですと、アーメン、アーメンと言われたその言葉を聞いて、主イエスをお遣わしになった神さまをただ素直に、幼い子どもが親を信じるように、信じるなら、あなたはそのときにはもうすでに、永遠の命を生きている、死から命へともうすでに移っているのだ、と宣言してくださったのです。
永遠の命について、うまく話せなくても、主イエスの言葉を聞き、信じるとき、そのときあなたはすでに永遠の命の中にいる、永遠の命を生きているのだ、と宣言されているのです。主イエスの言葉にすべてを委ねて受け入れる。主イエスをわたしたちに与えてくださった神さまの愛を信じる。そのときすでに、わたしたちは死をこえて、わたしたちを抱(だ)きかかえて守ってくださる神さまの愛の中にいる。ですからわたしたちは、恐れなくてよいのです。生きているときも死ぬときも、わたしたちは主のもの。神さまの み手の中で安心して過ごせる。平安の中にいる。それこそが、永遠の命なのです。
3番目の「(アーメン、アーメン)はっきり言っておく。」は、25節。「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」現代社会を生きるわたしたちにとって、これを信じることは困難かもしれません。すでに死んだ者が、墓に入ってしまった者が、どうして神の子、主イエス・キリストの声を聞くことができるのか?しかし、主イエスは「驚いてはならない。」と言われました。28節以下。「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」
「人の子」とは、主イエスがご自分のことを指して言われた言葉です。「神さまがお定めになったときが来れば、死んで墓の中にいる者たちもわたしの声を聞くのだ」と主イエスは言われます。必ず甦りの朝を迎えるのだ、わたしがあなたがたを起こすのだ、と主は約束してくださっているのです。そのために主イエスは、父なる神さまから遣わされ、十字架で死に、甦ってくださったのです。ですから、わたしたちの教会では死ぬことを「永眠」とは言いません。永遠なのは眠りではなく、命です。しかも「永遠の命」への道は、主イエスを殺そうと狙った者にすら開かれているのですから、この恵みから漏れる人は一人もいません。すべての人が「永遠の命」の中へ、神さまの愛の み手の中へと、招かれている。呼ばれているのです。主イエスは、「永遠の命」について第3章でも語っておられました。16節。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
わたしたちは、これほどの神さまの愛を知らずに過ごしておりました。それでも神さまは、ご自分の大切な独り子を、世に遣わしてくださいました。ご自分の命を狙うような者にも、神さまの救いの秘密を知らせ、何とかして、神さまの愛の中に帰って来て欲しい、信じて欲しいと、招いてくださったのです。父なる神さまは、神に背を向け、好き勝手に奪い合い、争い合っている人間を、見捨てることができない、何としても、罪を赦し、「死から命へと移って」ほしい。死んだらおしまい、そうなってほしくない。わたしの愛の中で永遠に生きてほしい。わたしがあなたがたを愛しているようにあなたがたも互いに愛し合い、大切に思い、赦し合って、安心して生きてほしい。その一心で、父なる神さまは、独り子なる主イエスを世にお遣わしくださったのです。そして、主イエスを通して、ご自身のほとばしるような愛を教えてくださったのです。
この後、わたしの大好きな讃美歌の一つ502番をご一緒に賛美いたします。この讃美歌を賛美すると、わたしはいつも涙が溢れてきます。洗礼を受けた頃、銀行員として働いていた頃、転職に失敗し、途方に暮れていた頃、神学生として歩んでいた頃、北の大地で園長の重い責任に、潰れそうになっていた頃、そして今も、ひとつ、ひとつの歌詞に「アーメン、アーメン」と繰り返したくなる讃美歌です。父なる神さまに背を向けて歩いてきたわたしどもです。本来であれば、罪の中で死んでいたこの身に主イエスは「永遠の命」を喜んで与えてくださいました。滅ぶべき この身が裁かれることなく、死を恐れる必要もなく、神さまの愛に入れられている。この驚くべき喜びを、すべての人に知ってほしい、信じてほしい。心から願います。

<祈祷>
天の父なる神さま、み子 主イエスへの信仰によって、死から命へと移っている幸いを感謝いたします。永遠の命の恵みをわたしたちだけの喜びで終わらせるのではなく、世のすべての者に宣べ伝える者としてください。死を恐れている者、望みを失っている者に、主イエスにある希望を お与えください。主イエス・キリストの み名によって、祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。連日の猛暑により教会での礼拝を望みつつ、礼拝に出席できない兄弟姉妹がおります。主よ、その場にあって、わたしたちと等しい祝福を お与えください。リハビリに励んでいる芳賀力先生、体調を崩している者、痛みを抱えている者、不安を感じている者に、主よ、あなたが寄り添ってください。昨日は、わたしたちの群れに連なる者の結婚式が執り行われました。主よ、新しい家庭の上に、祝福を注いでください。新しい家庭が、あなたの み言葉にどんなときも耳を傾けることができますよう導いてください。豪雨災害により、悲しみの中にある者を顧みてください。来週は、教会学校サマーフェスティバルを予定しております。み心なら一人でも多くの子どもを招いてください。主にある喜びを、子どもたちの心にお与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年7月9日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第42篇1節~9節、新約 ヨハネによる福音書 第5章1節~18節
説教題:「休みなく働いてくださる主」
讃美歌:546、6、242、258、539、427

 ヨハネによる福音書を第1章1節から順に、少しずつ読み進めています。今日から、第5章に入ります。冒頭「その後(のち)」とありますから、第4章の最後、故郷ガリラヤで過ごされた後、主イエスはユダヤ教の祭りに合わせて聖地エルサレムへと、上られたのです。エルサレムの神殿をぐるりと囲む高い城壁には、九つの門がありました。その内の一つ、羊の門と呼ばれる門のそばに、「べトザタ」と呼ばれる池がありました。当時、四角い二つの池があり、池の周りと二つの池の間に五つの回廊が巡らされていたそうです。そこには、色々な病を患っている人が大勢横たわっていました。なぜ大勢の病人が横たわっていたのか、ここには書かれていませんが、1節から順に読んでいきますと、3節と5節の間に、本来記されているはずの4節が抜けていることがわかります。小さな♰のマークがあるだけです。そこでヨハネ福音書の最後のページを開くと、下の段の最後に「底本に節が欠けている箇所の異本による訳文」とあり、第5章3節bから4節が書かれています。つまり、いくつかの写本には記述があるけれども、底本にはなかった、という理由で、省略されているのです。新共同訳では、本文に記すことはせず、巻末に記されているのです。こう書いてあります。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」天使がたまに降りてきて水を揺らす、その時、いの一番に飛び込めば病気が癒されると信じられていたのです。迷信の類(たぐい)でありましょうけれども、要するにもう治る見込のない病人が藁にもすがる思いで、水面(みなも)が動く瞬間を今か今かと息をのんで待ち構えていたのです。想像してみただけでも異様な緊張感と静けさが伝わってくる気がいたします。
さて、回廊に横たわる大勢の人々の中に、38年も病気で苦しんでいる人がいました。思うように体を動かせない。38年です。しかも、この人には、水が動いても水の中に入れてくれる人がいない。動いた!と思ったときには、ほかの人々が我先にと水に飛び込んでいく。その様子をただ見つめているだけ。38年間。主イエスは、その人に「良くなりたいか」と尋ねられました。「良くなりたいか」を原文に忠実に訳すと、「あなたは欲するか。健康になることを」です。そんなの当たり前のことじゃないか、と思われるかもしれません。でも、どうでしょう。ほかの人々が我先にと池に入る。本当に病気が治って家に帰る人がいたのか?今となっては確かめようもありませんが、この人には池に入る方法がない。池に入ることさえできればいくらかの可能性はあるかもしれませんが、その僅かな可能性すらない。そのような38年を思うと、もうこの人はとうの昔に「良くなること」という望みをなくしてしまっていたのではないかと思うのです。希望を失って、暗闇に包まれた心で、ただ池を眺めていた。大勢の病人たちが息をひそめるようにして水が動くのを今か今かと待っているのに、この人だけが、どこか他人事のような、遠い目をして、眺めている。そんなようすが浮んできます。だからこそ主イエスは、この人に声をかけてくださったのではないかと思うのです。この人にしてみれば、暗闇に突然、声が響いた。「良くなりたいか」と。
 わたくしごとになりますが、銀行員であったとき、38年の病の苦しみには遠く及びませんが、劣等感で心が死んだようになっていました。周りの人たちが成果をあげ、出世していくのを横目に、惰性で通勤する日々。心の中は「どうせ」という言葉でいっぱいでした。心が病んでいた。38年も病を患っていた人も、「どうせ、池には入れない。このまま死んでいくしかないのだ」と望みを失い、「良くなりたい」という心を捨てていたと思うのです。そのような諦めの心を主イエスはすべて知ってくださった。そして、「良くなりたいか」とのひとことによって、彼が捨てていた希望の光を、ともしてくださったのではないでしょうか。
 病人は答えました。7節。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」「主よ、無理なんです。自力であの池に飛び込むことはできないのです。」そう訴えた。「主よ、わたしの主よ」と希望の光をともしてくださった主イエスにすがったのです。
 そのとき主は、この人に癒しの言葉をかけてくださいました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに足腰がしゃんとし、自分の寝床を担いで歩き出したのです。けれどもこの話は、めでたしめでたしで終わらない。続きがあるのです。ページをめくると、「その日は安息日であった。」と書いてある。そして、ユダヤ人たちが登場するのです。ユダヤ人たちは、寝床を担いで歩いている人を見つけるやいなや、「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」と叱責しました。
ちょうど今、水曜日の「御言葉と祈りの会」で安息日規定について学んでおりますが、旧約学者の雨宮慧(あめみや さとし)先生は、安息日規定について、こう記しておられます。「安息日とは単純な骨休めの日ではありません。自分の過去において神が払った配慮に目を向け、社会的弱者に取るべき態度を思い起こし、残りの六日間をその心で生き抜くための日なのです。新約聖書のイエスの態度もこのような流れの中で見るべきです。イエスは安息日そのものを否定したのではなく、安息日に禁止されている仕事の細則に目を奪われ、安息日の本質を忘れ去った人々を厳しく批判しました。ですから、イエスは安息日を否定したのではなく、安息日の基本に立ち帰ろうとしたと言うべきです。」
安息日の基本とは何でしょう。旧約聖書 出エジプト記 第23章にこのような み言葉があります。「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛や ろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。(23:12)」社会的に弱い立場の者を守る。そのための安息日なのです。ですから主イエスが38年も病に苦しみ、希望を失っていた人に癒しと望みを与えられたのは、安息日に最もふさわしい行為でありました。雨宮先生が書いておられるように、主イエスは、安息日を否定しておられるのではありません。38年、休む間もなく苦しみ続けていた人に、安息を与えてくださったのです。
それでも、病気を癒やしていただいた人は、律法違反を指摘されて、困ってしまい、咄嗟にこう言い訳しました。「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」。人間の弱さがボロッと出てしまうのは、こういうときであると我が身を振り返ってつくづく思います。そして、聖書のはじめに記されている人間の罪の歴史の発端を思い起こす。食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまったアダムは、神さまに、あなたがわたしに与えた女が食べろと言ったから食べたのだと言い、エバはエバで、蛇が食べろと言ったからだと、神さまに訴えた。わたしが悪いのではない、神さま、あなたが与えた女が悪い、あなたのつくった蛇が悪い。つまりは神さま、あなたのせいだ。病を癒やしていただいた人は、自分を癒やしてくれたのが誰なのか、わかっていませんでしたが、結果的に、同じことを言ってしまったのです。この人は、わたしたちの代表です。
しかし主は、神殿の境内を歩いていたこの人に再び出会ってくださいました。そして、再び言葉を与えられたのです。14節。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」これはいったいどういうことでしょうか。主イエスは、因果応報、罪を犯せば、また病気になるぞ、それももっとひどいことになるぞ、と脅しておられるのでしょうか。けれども先を読みすすめていくと、第9章で主イエスははっきりと、人の不幸や病気と、罪との関係を否定しておられる。では、どういうことか。
食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまったアダムとエバは、どうなったでしょうか。楽園を追い出されてしまったのです。アダムとエバが、あのとき「ごめんなさい」と、神さまの前に心から悔い改めていたら、また違う結末があったでしょうか。それはわかりません。わかりませんが、アダムは、あなたがわたしに与えた女が食べろと言ったから食べたのだと言った、エバは、蛇がそそのかしたのだと言った、二人はその言葉によって、自分自身で神さまの愛の外へ飛び出して行ってしまったのではないかと、わたしは思う。この病を癒やされた人に、主イエスがもっと悪いことがおこるかもしれないと言われたのも、そういうことではないでしょうか。あなたは、せっかく良くなったのだ。わたしの言葉によって癒された。わたしの業が、あなたに働いた。このわたしの救いの中に立ちつづけてほしい。神の愛の中に、いつづけてほしい。神の愛の外に飛び出していかないでほしい。神の愛の外ほど、惨めで悲しい生き方はないのだから、と言っておられるのではないかと思うのです。
しかし、この人は、境内から立ち去り、ユダヤの人々に「自分をいやしたのはイエスだ」と知らせました。神さまに救っていただいた、神さまの救いのわざがわたしに働いてくださった。その喜びの中で生きることよりも、社会的に認められ、ユダヤ民族の共同体の中に受け入れられることを選んだのです。この人の選択を責めることは、わたしたちにはできません。わたしたちもまた、社会的に孤立することを恐れてしまう者であるからです。癒された人の、またわたしたちの、そのような心によって何が起こったか。結果的に、「ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。」のです。迫害を強めるユダヤ人たちに、主イエスはおっしゃいました。17節。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」この言葉によって、ユダヤ人たちの怒りは殺意に変わりました。聖書には、その理由が書かれています。18節。「イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」どこの馬の骨かわからないこの男が、我々の共同体の規則を破っただけでなく、神に対し、「わたしの父」と言った。「自分は神と等しい者だ」と平然と言ってのけた。とうてい生かしてはおけない。ユダヤ人たちの中にも、わたしたちの罪の姿があります。主イエスを受け入れようとしない闇は、けっして他人事ではないのです。わたしたちは、もしもそこにいたとしても、主イエスを殺そうなどと考えるはずがないと思っているかもしれませんが、大事な祭の日、皆で礼拝している最中、田舎者の正体不明の男が我々の大事な決まりを破って、働いている。あろうことか、神の名を語って病人を癒やしている。許せないと殺意を抱いたのはほかでもない、敬虔なユダヤ教の指導者たちでした。神を信じているはずの者たちが、神から遣わされた方を殺そうとしたのです。そのようにして、まことの王であられる神さまを自分たちの決まりの中へ閉じ込める心が、自分たちの信じたい、信じやすい神の像をつくりあげて神さまをその中に閉じ込めようとする心が、まことの神を殺すのです。
主イエスは、今朝もわたしたちに語りかけてくださいます。望みを失い、「どうせわたしは」と呟くわたしたちに。せっかく立ち上がらせて頂いたのに、またぞろ救いの中から迷い出ようとしてしまうわたしたちに。勝手に神さまの像をつくり上げ、まことの神さまに背を向けようとしてしまうわたしたちに。「わたしの愛にとどまりなさい。どんなときも、わたしを頼りなさい。わたしは休むことなく、あなたを支えている。」と。主イエスの十字架が、罪の中にあったわたしたちを立ち上がらせてくださいました。神の み手の中へ、立ち帰らせてくださいました。
今日、主の日は、わたしたちの安息の日です。わたしたちが寝ていた床を担ぎ、歩き出した日です。主にある希望を与えて頂いた日です。わたしたちは、床を担いで、歩き続けることができる。証しすることができる。証しとは、じっと横たわっているしかなかった自分が、寝床を担いで歩くことです。「わたしはかつて、この寝床に横たわっていた。誰も助けてくれないとうらんでいた。良くなることを諦めていた。でも、主イエスが近づいて来られ、心を寄せてくださった。『あなたも良くなれる。健やかになれる。』と救いへと招き入れてくださった。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』と言ってくださった。だからわたしは、床を担いで歩く者となった。わたしを見てください。わたしがその証人です。」と、歩み続けることです。胸を張って語り続けたい。どんなときも、主の み声を聞き続けたい。わたしたちの病は、良くなったのですから。

<祈祷>
天の父なる御神、あなたに頼ることを忘れ、「どうせ」と呟いてしまう罪を赦し、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。」と宣言してくださいました恵みを感謝いたします。日々、あなたから迷い出ることのないようにしてください。どんなときも働いてくださるあなたに信頼し、あなたの愛を証しする者としてください。主イエス・キリストの み名によって、祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。猛暑の日々が続いております。暑さのため、体調を崩している者を憐れみ、力をお与えください。各地で豪雨災害も発生しております。望みを失っている者を憐れみ、生きる力をお与えください。ウクライナでの戦いは今も収束の気配すらありません。主よ、戦争を終わらせる知恵と勇気を、政治を司る者に、お与えください。諦めることなく、あなたの平和がなりますようにと日々、祈る者としてください。リハビリに励んでおられる芳賀力先生をお支えください。祈りつつ看取っておられるご家族の健康もお守りください。今朝も礼拝を慕いつつ、様々な理由で礼拝に出席できない者がおります。その場にあって、あなたの愛で満たし、どこにあっても、あなたが共におられることを信じる者としてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年7月2日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ハバクク書 第3章17節~19節a、新約 ヨハネによる福音書 第4章43節~54節
説教題:「信じるということ」
讃美歌:546、12、280、21-81、522、545B

ヨハネによる福音書を、少しずつ読み進めております。6月は、主イエスとサマリアの女性の対話と、それに続いて、サマリア地方のシカルの町の多くの人々が、主イエスを救い主と信じた、というエピソードを読んでまいりました。ユダヤ人とは犬猿の中であったサマリアの多くの人々が、主イエスの言葉を聞いて、主イエスこそが、待ち望んでいた救い主、メシアだと信じたのです。この出来事は、ユダヤ人である弟子たちにとって、これまで味わったことのないほどの衝撃であったことでしょう。その後、主イエスと弟子たちはそこを立ち、目的地、ガリラヤのカナへ向かいました。
ヨハネによる福音書を書いた記者は、マタイ福音書、マルコ福音書、そしてルカ福音書にもそれぞれ記されている、印象深い主イエスの お言葉を記しています。44節。「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある。」ちなみにマタイ福音書は、このような主イエスの お言葉です。「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである(マタイ福音書13:57)」。マルコ福音書は、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである(マルコ福音書6:4)」。そしてルカ福音書は、「はっきり言っておく、預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。(ルカ福音書4:24)」それぞれ表現は微妙に違っていますが、基本的には同じことを記しています。四つの福音書の記者が、「この言葉は削ることができない」と考えて記したのですから、やはり特別な意味があると思います。
「故郷(こきょう)」とは、主イエスがお育ちになったナザレの村を含む、ガリラヤ地方一帯のことでありましょう。主イエスは、サマリア地方では、ユダヤ人から見下されていたサマリアの人々との深い交わりを喜ばれた。一方、ご自分の故郷ガリラヤ地方においては、かつて、「故郷では敬われないものだ」と言わざるを得ないような体験をなさった。そのような主イエスの お言葉を、ヨハネ福音書は、ここにわざわざ挟んで記しているのです。
けれども、それに続いて書かれているのは、ガリラヤの人々の、主イエスに対する意外な反応です。45節。「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。」しかしそのあとに、ただし書きが続きます。「彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。」ガリラヤの人たちは主イエスを歓迎しました。しかしそれはあくまでも、祭りのためにエルサレムへ行っていたときに、ちょうど主イエスが奇跡を行われたのを見ていたからだ、とはっきり記されているのです。わたしどもが既に第2章で読みました23節以下には「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。」とありました。多くの人が奇跡を見たから信じた。しかし主イエスは、そのような信仰を信用されなかったのです。そのように、わたしどもの信仰は、まったく当てにならない。主が守ってくださるのでなければ、もろいのです。信じているつもりでも、自分の思い通りに動いてくれるキリストでないと、がっかりして、いとも簡単に信じることをやめてしまう。ガリラヤの人たちが主イエスを歓迎したことは事実でしょう。しかし、それは、主イエスに信用されない信仰の心を持って歓迎したに過ぎないのだと、ヨハネ福音書ははっきり書いているのです。それはのちに、主イエスが ろばの子に乗ってエルサレム神殿に入城されたときの光景を、わたしたちに思い起こさせます。大勢の群衆が喜んで「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。(12:13)」と、主イエスを喜んで迎えた。なつめやしの枝を振って「ホサナ、ホサナ、万歳、万歳」と喜んだ。ところが、その数日後には、「殺せ。殺せ。十字架につけろ。(19:15)」と叫び、主イエスは十字架に上げられたのです。調子のよいときは神さまに守られていると感謝しても、何かことが起これば、自分の思い通りに動いてくれない救い主など必要ないと、簡単に捨ててしまう。いかにわたしどもの信仰が危ういものであるか。ヨハネ福音書が、「イエス御自身は彼らを信用されなかった」と書いていること、「故郷では敬われないものだ」と記していることを、忘れてはなりません。また、ヨハネ福音書は、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と第1章5節に記しました。世を照らすために天から降って来られた光である主イエスを、暗闇であるわたしたちは、理解しなかった。信じなかった。受け入れなかった。こんな弱くみすぼらしい男は我々の救い主ではないと追い出し、捨てた。十字架につけて殺してしまったのだと、福音書は冒頭からズバッと指摘しているのです。このことはヨハネ福音書を貫いている一本の芯と言って良いと思います。わたしたちは、自分の内面そのものであるこの現実から目を逸らしてはなりません。しかし、それでも、主イエスは、「もう二度と故郷には行かない」とはおっしゃらなかったのです。「敬われない」とわかっていても、来てくださった。再びガリラヤのカナの地を訪ねてくださいました。諦めてはおられなかった。さらには、十字架が待っていると知りつつ、数日後には捨てられることを承知の上で、エルサレムへ入られた。「ホサナ、ホサナ」という歓迎を、あえて受け入れてくださった。このことはわたしどもにとって決して忘れてはならない痛みであると同時に、限りなく大きな慰めであり、恵みであり、希望です。
46節以下。「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。」いつも思うのです。主イエスの行動は、偶然のようでありながら、必然であると。それぞれにふさわしいときに、思いもよらないなさり方で、一人、一人に、出会ってくださる。例えば、ルカによる福音書になりますが、嫌われ者の取税人ザアカイの物語。ザアカイは、まさか自分の名前が呼ばれるとは思ってもいなかった。それでも、主イエスはエリコの町に行き、ザアカイに声をかけてくださった。ザアカイだけでなく、サマリアの女性、12人の弟子たちも、それぞれ予想もしないときに、主イエスから声をかけて頂いた。招かれた。その結果、それまでとは180度違う人生を、それぞれ生きることになりました。今日の み言葉に登場する王の役人も同じだったと思うのです。ただ藁にもすがる思いで、主イエスのもとに行ったのです。
王の役人ですから、王の権威によって何でも命じることができる人でしょう。その役人が、王の権威を笠に着て命じるのではなく、なりふりかまわず頼んだ。もしかすると、主イエスの足もとにひれ伏したかもしれません。それほど必死であった。わたしたちも、もしも自分の愛する家族、まして、自分よりも年齢の若い、これからという人が瀕死の状態にあれば、「何としても癒してください。お願いいたします。」地面に頭をこすりつけて、イエスさまにただただ お願いするに違いない。そして、「あなたの信仰があなたを救った」とすぐに癒していただけると思い込んでいるようなところがあるかもしれません。けれども、主イエスは、まるで意地悪をしておられるかのように、言われたのです。
48節。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」。ここでも、わたしたちの信仰がどれほどあてにならないものであるかが、突き付けられます。意地悪ではない。信仰が問われている。主イエスは、「あなたは」、でなく、「あなたがたは」と言われました。あなたがたの信仰は しるしを求める信仰ではないか?病が治るのをその目で見なければ信じることができないのではないか?わたしの言葉をそのまま、ただ素直に、受け入れることができるか?わたしたちは、そのように問われているのではないでしょうか。
49節。「役人は、『主よ、子供が死なないうちに、おいでください』と言った。」早くしないと死んでしまう、と焦る王の役人に、主イエスは何と言われたでしょうか。再び、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と突っぱねられたでしょうか。そうではありませんでした。主イエスは、役人に、約束の言葉を与えられたのです。すぐに見えるしるしの代わりに、言葉を与えられた。ただ一言。50節。「イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』」救いの約束の言葉を、与えられたのです。あなたの息子は死ぬことなく、生きる、だからこのまま帰りなさいと。そのとき役人は、主イエスの約束の お言葉を、100%信じました。50節後半。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」ただ主イエスの言葉を信じた。約束を、信じた。信じて、帰って行きました。半信半疑であったら、帰ることはできません。「いや、何としても一緒に来て欲しい」と願ったことでしょう。100%大丈夫。必ず息子は生きると、主イエスの言葉をそのまま信じた。見なくても、ただ素直に信じた。だから帰って行ったのです。結果は、51節以下にあるとおりです。「ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、『きのうの午後一時に熱が下がりました』と言った。 それは、イエスが『あなたの息子は生きる』と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。」
主は、「あなたがたは?」と問うておられます。あなたがたは、わたしと繋がっているのだから、死をこえて、生きる者とされている。わたしのように生きることができる。赦し合うことができる。互いに仕え愛し合うことができる。その言葉、約束を、アーメンと100%信じて、それぞれの家へ安心して帰りなさいと、主は わたしたちに語りかけておられるのです。
今から聖餐に与ります。聖餐は永遠の命の約束です。王の役人に言われた言葉、「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」と同じ、救いの約束です。わたしたちも王の役人の信仰に生きることができる。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(3:16)」との 主イエスの み言葉に、ただ、「アーメン。主よ、本当にその通りです。」と応え、信じ、それぞれの歩みへと旅立つことができるのです。
信仰は、自分の力で獲得するものではありません。今は洗礼を受けていない者にも、主ご自身が、それぞれにふさわしいときにキリストを見る心の目を、み言葉を聞き取る心の耳を、開いてくださいます。そして聖霊が、日々、わたしたちの信仰を強めてくださいます。王の役人のように、わたしたちだけでなく、家族もこぞって、また、わたしたちに委ねられている隣(とな)り人が皆、信仰を告白する日が来ると信じ、今、それぞれに与えられている所で、キリストを証する者でありたい。わたしたちの中に住んでくださるキリストを信じ、キリストに委ね、安心して、み霊の導きのままに、キリストがそうしてくださったように隣(とな)り人を愛し、隣(とな)り人に仕えることができますように。
<祈祷>
天の父なる御神、日々、あなたを信じる信仰をお与えください。突然の試練に襲われても、厳しい病を患うことになっても、役人が主イエスの言われた言葉を信じて帰って行ったように、主イエスが約束してくださった永遠の命を信じ、望みを持って生きる者としてください。主イエス・キリストの み名によって、祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは み霊(みたま)の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も み霊を注いでください。主よ、何年も礼拝から足が遠のいている兄弟姉妹がおります。主よ、どうか、み霊を注いでください。いつの日か、教会に帰って来ることができますよう祈ります。芳賀 力先生はじめ、闘い続けている病床の者を顧みてください。不安を抱えながら過ごしている者をしっかりと支えてください。日々、祈りに生きようとしている者をあなたが支え、導いてください。また大きな災害がおこってしまいました。被災地にあって苦しんでいる人々を、教会を、お守りください。立ち上がる力を与えてください。世界には日々、多くの悲しみ、深い嘆きがあります。争いが続き、命が失われております。あなたが与えてくださった理性、愛によって秩序ある平和な世界を作るべきであるのに、国と国が争い、民と民が争いを続けております。主よ、争いのあるところに平和をもたらしてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年6月25日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第55章8節~13節、新約 ヨハネによる福音書 第4章39節~42節
説教題:「キリストの言葉の力」
讃美歌:546、67、Ⅱ-80、284、545A

6月は、主イエスとサマリアの女性の対話を ご一緒に読んでまいりました。今日はその最後、39節から42節を読みます。これまでのいきさつを振り返りつつ、読み進めてまいりましょう。サマリア地方の、シカルの町の近くにある「ヤコブの井戸」と呼ばれる由緒ある井戸での出来事です。主イエスは、ユダヤからガリラヤへ向かう旅の途中、井戸端に座って休んでおられました。そこへ、桶を担いだサマリアの女性が、水をくみに来たのです。主は、その女性に、「水を飲ませてください」と言われました。女性は、驚きました。なぜなら、9節にあるように、「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないから」です。なぜ、ユダヤ人のあなたが、サマリア人のわたしに頼むのですか?そのようにして対話が始まり、ついには、この女性は、主イエスから、「あなたが待っているキリストと呼ばれるメシアは、このわたしである」との宣言を受けたのです。
 ちょうどそのとき、買いものから戻って来た弟子たちは、驚いてしまいました。律法の教師が、サマリアの女性と言葉を交わすことなど、ありえない、と言うのが当時の常識で、彼らもそのように考えていたからです。それほど、男女の差別、ユダヤ人とサマリア人の間の差別は深刻でした。しかし、主イエスは、人の思いを遥かに越えてすべての者に注がれている神さまの思いを弟子たちに伝え、さとし、励まされました。
そのとき、シカルの町の多くのサマリア人が、主イエスのもとにやって来たのです。39節。「さて、その町の多くのサマリア人は、『この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。」女性の顔がいつもと違う。言葉の調子も違う。驚き、興奮し、あるいはおそらく涙を流して、「あなたも来てごらんなさい」、「あなたも来てごらんなさい」と誰彼かまわず誘い続けたのです。主イエスのもとへ。結果、サマリアの人々は、彼女の言葉に心動かされて、敵対しているユダヤ人 主イエスのもとにやって来たのです。この女性には、かつて5人の夫がいましたが、今連れ添っているのは夫ではないという経歴があり、町の人々からは良く思われていませんでした。その女性が、目をキラキラ輝かせて伝道している。主イエスについて証言し、サマリアの人びとを主イエスのもとへグイと引き寄せていることに、驚きを覚えます。町の人々自身も驚いていたかもしれません。「なぜ、わたしたちは、この女性の言葉を信じたのだろう?」と、不思議な思いを抱きつつ、これが神さまの力、聖霊の働きなのだろうかと感じていたかもしれない。ともあれ、サマリアの人たちは、主イエスのもとにやって来たのです。
40節。「そこで、このサマリア人(じん)たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。」「とどまる」、「滞在する」という言葉は、ヨハネ福音書を理解する上で鍵となる大切な言葉です。主イエスが、十字架で処刑される前夜、弟子たちに語られた「ぶどうの木の譬え」にも登場します。第15章4節。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」
この譬え話に登場する「つながる」という言葉が、今朝の箇所の「とどまる」、「滞在する」と同じ言葉なのです。主イエスは、サマリアの人たちの願いに応えてくださり、二日間、彼らのもとに滞在されました。どこかに行ってしまわずに そこにとどまってくださった。サマリアの人たちと、つながってくださるために。弟子たちにしてみれば、内心穏やかでなかったはずです。サマリアの町などに滞在したことが、エルサレムの都の権力者たちや、故郷ガリラヤに聞こえたりしたら、いったいどんなことになるやらと、不安を抱えたに違いない。それほど、ユダヤ人とサマリア人の間の断絶は深刻でした。しかし、主イエスが二日間滞在してくださり、シカルの町の人々は、主が語られる言葉に心を震わせ、主イエスをキリスト(救い主)と信じました。主につながっていただいて、まことに神さまを礼拝する者として主から招かれ、その招きに応えることができたのです。
聖書には、わたしたちの常識では考えられない出来事がいくつも記されています。そのうちの一つが、この41節かもしれません。主イエスが二日間滞在してくださり、み言葉を聞かせてくださり、対立していたサマリアの多くの人々の心に信仰が生まれました。それも、主イエスの驚くべき奇跡を目の当たりにしたからではなく、主「イエスの言葉を聞いて信じた」のです。この出来事は、ともすれば教勢が衰えていると言って下を向きがちな わたしどもを、奮い立たせてくれます。教会への励ましであり、慰めです。信仰が生まれるのは、ただただ、主がつながってくださり、言葉を語ってくださったことによるからです。主イエスの言葉によって、礼拝する群れが生まれるのです。それは、聖書の時代も、今も、変わらないのです。
使徒言行録には、聖霊降臨日、教会が生まれた日のようすが描かれています。主イエスが捕らえられてしまったとき、「わたしは、イエスの弟子ではない」と三度も否認してしまった弱いペトロが、聖霊に満たされ、立ち上がり、声を張り上げ、話し始めたのです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。(使徒言行録2:38~39)」ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わりました。神さまがペトロに言葉を与えてくださり、三千人もの人々に主イエスがつながってくださったのです。主イエスを救い主と信じたサマリアの人々や、ペトロを通して信じた人々と同じように、わたしたちも、主イエスによって「わたしにつながりなさい」と招いていただいて、ここに集めていただいているのです。
サマリア人たちは、水がめを井戸に置いたまま駆け付けた女性に言いました。42節。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」ユダヤ人から差別を受け続けていたサマリアの人びとにとって、このような言葉を口にすることなど思いもよらないことでした。まったく驚くべき、新しいことでした。42節の後半に、「世の救い主」とあります。世に生きる者すべてに対して与えられる「救い主」です。シカルの町の人々は、ユダヤ人が語っている救いが、サマリア人の救いでもあり、この世に生きる者すべての救いでもあると分かって、主イエスを信じたのです。そのように、神さまの救いは、人間が勝手に築く壁を越えます。差別、いさかいを、ポーンと飛び越える。そして、まさか自分が神に呼ばれているなどとは思ってもみなかった者に、神の招きの声、神の言葉を聞かせてくださるのです。ユダヤでも、ガリラヤでもなく、ユダヤ人に敵対されていたサマリアで、まことの礼拝を献げる群れが生まれた。その事実が、主イエスが「世の救い主」であることをよく示しています。
わたしたち信仰を告白し、洗礼を受け、主イエスと結ばれた者は皆、この日 信じたシカルの町の人々と同じように、「永遠の命に至る実」です。「永遠の命に至る実」として刈り入れられたのです。それは同時に、喜んで、望みを持って、種を蒔く者とされた ということでもあります。種を蒔くとは、ぶどうの枝がぶどうの木につながるように、主イエスにつながって、主イエスの言葉に生かされ、自分に与えられている場所で主イエスに従って生きることです。サマリア人たちが、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」と言ったように、わたしたちも、「わたしが信じるのは、誰に誘われたからとか、家族がキリスト者だからではない。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」と告白しつつ、ひたすら主イエスに頼り、主イエスを手本として生きるのです。その生き方によって、祈りによって、一人、また一人と主につながる者が増えていく。神の国が広がっていく。それが種を蒔くことであり、収穫の わざです。
主イエスと出会い、二日間、主イエスと共に生活をしたサマリアの人びと、この後、キリスト者としてどのように成長したでしょうか。主イエスは、十字架で処刑されます。その時、サマリアの人びとは、どうしたでしょう。命が惜しくて、主イエスから離れてしまったかもしれません。しかしそれでもなお、主イエスが蒔いてくださった言葉の種は消えなかったはずです。もう駄目だ、と思われた主イエスの十字架こそが、神さまの み心であったからです。人間の目には完全に負けと思われる死が、すべての人間のために神さまが用意してくださった救いの道であったからです。そして神さまは主イエスを復活させてくださいました。人間は「もうおしまい」と思っていたのに、「完全に負け」と思っていたのに、大逆転。キリストは世に勝利してくださった。死という壁をも越えてくださったのです。「終わりではない。負けではない。だから安心して、あなたの場所で生きなさい、わたしは既に世に勝っている」と、キリストは、わたしたちを日々、励ましてくださるのです。
種を蒔くことが困難な日もある。蒔いても蒔いても、刈り取ることのできない日が続くこともある。しかし神さまは、み言葉によって、わたしたちを励まし、勇気づけてくださいます。イザヤ書 第55章10節以下を朗読いたします。「雨も雪も、ひとたび天から降(ふ)れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」
 慰めと励ましに満ちた言葉です。サマリアの女性が確信を持って人々に伝えた言葉が たとえ消えてしまっても、わたしたちが伝える言葉がいっこうに実る気配が見えなくても、神の言葉は むなしく天に戻ることはない。むなしくはならない主の言葉によって、キリストによって、教会は生き続けています。今ここで主イエスと共にわたしどもは生かされています。主イエスの愛に信頼して、互いに愛し合い、互いに祈り合う喜びを大切にしたい。ここに、「イエスの言葉を聞いて信じた」者の喜びがあり、救いがあり、望みがあるのです。

<祈祷>
天の父なる御神、わたしたちはどうしても目の前の現実に不安を抱え、うろたえる者です。しかし、そのような者であるからこそ、あなたはわたしたちの世に大切な独り子、主イエスを お遣わしくださいましたから、感謝いたします。不安を抱え、うろたえるときに、主イエスの言葉を聞かせてください。福音の種を蒔き続ける者としてください。主イエス・キリストの み名によって、祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、争いにより、差別により、貧困により、自然災害により、いじめにより、嘆きの中にある者がおります。主よ、うずくまって苦しんでいる者にあなたの愛を注いでください。誰もわたしのことなど必要としていないと思い込んでいる者に、「安心しなさい。わたしは いつもあなたと共にいる」と語りかけてください。病と闘っている者、痛みと闘っている者がおります。主よ、癒しの み手でそれらの者に触れてください。リハビリに励んでおられる芳賀 力先生を強めてください。不安の中にある ご家族を お支えください。教会から遠ざかっている者がおります。主よ、どこにあっても、あなたが共におられることを信じ、再び、教会に帰ってくることができますよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年6月18日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第126篇1節~6節、新約 ヨハネによる福音書 第4章31節~38節
説教題:「実りの喜びを共に」
讃美歌:546、28、224、503、544

6月4日、11日と二週続けて、主イエスとサマリアの女性との対話を読んでまいりました。ここまで、主イエスの弟子たちはほとんど登場しておりません。なぜなら、第4章8節にあるように、「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた」からです。暫くすると食事を調達した弟子たちが主イエスのところに戻ってまいりました。すると、ユダヤ人とは敵対しているサマリア人の女性と、主イエスが話をしておられるのを目撃し、驚いてしまったのです。その後、サマリアの女性は水がめを置いたまま町の方へ行ってしまいました。弟子たちはサマリアの女性のことには一切触れずに、主イエスに勧めました。「先生、食事はいかがですか」。すると、主は言われました。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」。弟子たちは、主イエスのおっしゃる意味がわからず、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言い合いました。確認しておきたいのは、主イエスは神の子だから、食事がなくても大丈夫というわけではなかった、ということです。サマリアの女性との対話も、主イエスが、「喉が渇いているから水をください」と言われたことから始まりました。おそらくこのときも、主イエスは喉が渇いておられたであろうし、お腹も空いておられたに違いない。けれどもこのとき、主イエスは、弟子たちが調達してきた食べ物とは違う食べ物によって満たされておられたのです。わたしたちも思いがけない喜びを経験するとき、胸がいっぱいになって食欲を忘れることがあります。主イエスは、「わたしは今、満ち足りている。あなたがたも、共にこの喜びを味わってほしい」と弟子たちを招いておられるのです。では、主イエスのおっしゃる「あなたがたの知らない食べ物」とはいったいどんな食べ物なのでしょう。
34節。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」父なる神さまの「御心」とは何でしょうか。主イエスは、第4章23節で教えてくださいました。「父はこのように礼拝する者を求めておられる」。父なる神さまは、「まことの礼拝」を求めておられる。主イエスは、ご自分を世に送り出された、父なる神さまの み心を告げることができた喜びに溢れておられるのです。ご自分の告げた神さまの み心が、サマリアの女性によって受け入れられ、また、この女性によってほかのサマリアの人々へも広がろうとしている。サマリアの女性との対話を通して、神さまが求めておられるまことの礼拝がここに始まった、という確かな手応えを感じておられる。そのことを空腹を忘れるほど喜んでおられるのではないかと思います。
また、主イエスは、「その業を成し遂げること」とも言われました。ヨハネによる福音書 第19章には、主イエスの十字架の死がこのように記されております。「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭(あたま)を垂れて息を引き取られた。(19:30)」サマリアの井戸端で、喉の渇きを覚えながら、女性と対話を始められ、その対話の中で渇きをひととき忘れるほどの喜びを味わい、その喜びの中へ弟子たちを招き入れようと話しておられる主イエス。そのとき、主イエスは、いずれご自身が十字架に上げられ、「成し遂げられた」と宣言する時が来ることを、既に覚悟しておられたのではないかと思います。十字架の死と甦りによる救いを信じる者に、永遠の命を与えることが、父なる神の み心であり、わたしの成し遂げる神のわざなのだと、空腹も、喉の渇きも忘れるほどの喜びとして語っておられる。わたしの成し遂げる恵みを食べなさい。あなたの食事としなさい。わたしの十字架を飲み込むように、朝にも、昼にも、夜にも、あなたの腹(はら)の中に わたしの十字架を入れなさい。あなたの中を十字架で満たしなさい、と言っておられるのではないかと思うのです。
続く35節。「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」この み言葉が語られた季節がいつであったかは わかりません。刈り入れまで4ヶ月もある、というのですから、ちょうど6月ころ、今ごろの季節かもしれません。しかし主イエスは、わざわざ「わたしは言っておく」と念を押して、「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」と言われました。目の前の畑を見るのに、わざわざ目を上げる必要があるでしょうか。しかし、主イエスは「目を上げて畑を見るがよい」と言われました。すでに黄金色(こがねいろ)に色づいて刈り入れを待っている畑。目を上げて見る畑。主イエスが言っておられるのは、目の前に見える麦の畑とは違う、「神さまの畑」です。目を天に上げれば、神さまが今か今かと収穫の時を待っておられる「神さまの畑」が「色づいて刈り入れを待っている」のです。「色づいている」と訳されたギリシア語(λευκαιリューカイ)の意味は、「きらきら光る」、「輝いている」です。30節を読みますと、「人々は町を出て、イエスのもとへやって来た」と書いてあります。サマリアの人びとが女性から「さあ、見に来てください。わたしが行(おこな)ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」と聞いて、町を出て、主イエスのもとへやって来た。そのとき主は、ご自分の言葉が通じて、サマリアの人びとの心が刈り入れを待つ麦畑のようにきらきら輝くのをご覧になったのです。主イエスが心を動かしておられる。喜んでおられる。伝道の喜び、「神さまの畑」の収穫の喜び、この喜びを共に喜んで欲しいと、主イエスは、弟子たちを、そして、わたしたちをも、招いておられます。
主イエスは続けて言われました。36節以下。「刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他(た)の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」主の十字架をいつも自分の中いっぱいに満たして神さまの み心を行い、礼拝を守り続け、主の恵みを伝えていく歩みは、決して簡単ではありません。しかし、それこそが、あなたたちを永遠に生かす食べ物だとおっしゃいます。福音の種を蒔き続けることは、根気のいることです。思うように伝わらない悲しみも経験する。けれども、喜びが約束されているのです。たとえ自分で収穫することができなくても、父なる神さまがそれを望んでいてくださり、聖霊が働いてくださるから、別な人が刈り入れる日が来るのです。そのとき、種を蒔いた人も、刈り入れる者も共に喜ぶ、と主イエスは語っておられます。主イエスは、ご自分と共に働く者、福音の種を共に蒔き、「神さまの畑」での実りの刈り入れを共に喜ぶ者を求めておられるのです。ここで「実りにあずかっている」と訳されている言葉のギリシア語の表現は、「実りの中へ入(はい)らされる」あるいは「入(はい)らされている」という表現なのだ、と加藤常昭先生の説教集にありました。それを読み、今朝の み言葉の黙想を重ねながら、ある信仰の先輩を思い出しました。その方は、生まれつきの心臓の病のために若くして召されました。わたしが教会に通い始めた幼い頃から、可愛がっていただいた青年でした。名前は実(みのる)さん。大好きな教会のお兄さんでした。鎌倉雪ノ下教会が伝道開始70年を記念して発行した書物『神の力に生かされて』に、実さんの歩みを加藤先生が記しておられます。「この世的には、何の痕跡も残さなかったようであるが、多くの人々の心に染み通る信仰の歩みをなし、愛され、若い友人たちは、その死を悼んで、のちに追悼文集まで刊行している。肉体的な欠陥から、すべてのことを人並みにすることができないことを口惜しく思っていたに違いないが、それに耐え、父母をはじめとする肉親の愛に支えられ、それに象徴される神の愛を信じて精一杯に生きた若者であった。」実さんが召されたのは、1984年1月21日でした。その翌年、1985年10月6日にわたしは洗礼を受けました。わたしが小さい頃から高校生になるまで「たかお」と声をかけてくださり、自宅へ招き、江ノ島にも連れて行ってくださった実さんは、わたしが洗礼を受けたことを知ることなく召されました。皆さんにもそれぞれ、教会に導いてくれた人がいることでしょう。中には亡くなられた人もいるかもしれません。しかし、それらの人々もまた、わたしたちと共に、主の愛の み手の中で、永遠の命に至る実りの喜びの中に入(はい)らされている。入(はい)りこんでいる。そして、その喜びのために、わたしたちは、主イエスから、遣わされているのです。
世界は今、憎しみの連鎖が広がっております。憎しみに憎しみをもって応酬する限り、世界は滅びへ突き進むしかありません。滅びへの歩みを止めるためには、自分を愛するように隣人を愛することのほか、残された道はありません。主イエスとサマリアの女性の対話の始まりは、主イエスが、ユダヤ人と敵対しているサマリアの女性に「水を飲ませてください」と言われたことです。弟子たちは、食料を調達し、主イエスのところに帰って来ました。そのとき、まさか主イエスがサマリアの女性と話し合っておられるなど、想像もしておりませんでした。主イエスに対し、弟子のように尊敬の眼差しを向けているサマリアの女性。そのサマリアの女性を慈しんで恵みを宣言しておられる主イエスに驚いてしまったのです。しかし、弟子たちはそれ以上、深くかかわろうとしなかった。「『何か御用ですか』とか、『何をこの人と話しておられるのですか』と言う者はいなかった。」とはっきり書かれている。要するに無視です。何の関心も示さなかった。弟子たちはそれほど、サマリアの人々を見下していた。この人たちも神の恵みの中に入(い)れられているとは、夢にも思っていなかったのです。
主イエスは、弟子たちに語りかけておられます。「あなたがたのこころは憎しみに囚(とら)われて冷たくなっているのではないか。この女性と、その同胞との間に神さまの み心が行われようとしているのに気づいていないのではないか。」主イエスは、神さまの み心が人の憎しみの壁を突き破って行われることを、あなたがたも共に喜ぶ者となって欲しいと、招いておられるのです。
主イエスが天から世に遣わされたのは、第3章16節にあるよう「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」でした。「独り子を信じるユダヤの民が」、とは書いてありません。ユダヤ人であろうと、サマリア人であろうと、日本人であろうとも、独り子を信じ、信仰を告白し、洗礼を受けるなら、一人の例外もなく、皆、永遠の命を得ることができる。誰もが救われてよいのです。いや、救われなければならないのです。そして、救われた者が、喜んで愛し合い、赦し合い、祈り合って歩み続ける。神さまから頂いた恵みを感謝し、福音の種を蒔き、刈り入れる喜びの中に入(い)れられることを主は望んでおられるのです。
 主イエスが38節で言っておられます。「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。」わたしどももまた主の弟子です。主ご自身が、わたしどもをそれぞれの場へと遣わしてくださっているのです。主と一諸に喜ぶことができる。わたしたちの蒔く福音の種も、わたしたちの生きている間に刈り入れられることはないかもしれません。けれども、「目を上げて畑を見るがよい」、と言われています。実りの喜びの中に入(い)れられています。おのおの遣わされている持ち場で、喜んで主の み心を行う者でありたいと願います。

<祈祷>
天の父なる神さま、どんなときも目を上げてあなたの畑を見る者としてください。わたしどもの腹の中を主の十字架で満たし、折が良くても悪くても福音の種を蒔き続ける者としてください。永遠の命に至る実(み)の刈り入れをあなたと共に喜ぶ者としてください。主イエス・キリストの み名によって、祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。芳賀 力先生が今週の火曜日、リハビリ専門の病院に転院することになりました。一歩一歩、快復に向かっていることを感謝いたします。主よ、あなたが芳賀先生と共におられ、リハビリの日々を お支えください。看取っておられるご家族の歩みも お支えください。日々の歩みに疲れ果てている者に、望みを失っている者に、誰の励ましの言葉も通じなくなっている者に、あなたの励ましが聞こえますように。世界の平和のために祈ります。み心に適った方法で争いが解決し、ひとりでも多くの者が無益の血を流さなくてすみますよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年6月11日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第36章25節~32節、新約 ヨハネによる福音書 第4章16節~30節
説教題:「神と出会うところ」
讃美歌:546、19、252、273B、543、Ⅱ-167

 今朝の み言葉について思いを巡らしながら、これまで経験してまいりました礼拝を思い起こしておりました。何百人もが一同に会してささげる礼拝。牧師を含め数人という礼拝。思い起こしながら改めて気づかされたのは、どの礼拝も、父なる神さまが必要としておられ、礼拝のためのさまざまな備えをしてくださっていることでした。主が望まれ、わたしたちに出会ってくださり、対話してくださるところに、礼拝が生まれるのです。
 今日も先週に引き続き、主イエスとサマリアの女性の対話を朗読して頂きました。ユダヤ人とサマリア人は互いに敵対し合っていました。しかし主イエスは、言ってみれば敵対勢力の真ん中に入って来られたのです。そのうえ、「水を飲ませてください」とお願いをなさいました。そこから、主イエスと女性との対話が始まったのです。主イエスは、女性に言われました。「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女性は、それが何を指すのか、本当の意味はわからなかったかもしれません。それでも、わからないなりに、一所懸命に求めました。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」主イエスが思いがけなく訪ねて来てくださり、語りかけてくださり、対話を始めてくださったことで、女性の中に、「主よ、永遠の命に至る水を与えてください」と願う、信仰の芽が芽生えたのです。先週も申しましたが、このサマリアの女性の物語は、わたしたち自身の物語であると思います。喉の渇きを潤すために井戸に水をくみに来た女性のように、わたしたちも心に渇きを覚える者として、潤いを求め、教会の敷居をまたいだ。そして、後の方の席に座って礼拝を守る。そこで思いがけない聖書の言葉と出会うのです。「永遠の水を与えよう」と言われる。主イエスから語りかけられ、対話が始まる。キリストのおられるところに、礼拝が始まるのです。
サマリアの井戸端で、すでに礼拝が始まっています。女性は、主イエスがすぐに水を与えてくださる、と思っていたことでしょう。それなのに、主イエスがおっしゃったのは思いがけない言葉でした。その言葉によって、女性はさらに深い対話へと、導かれていきます。主イエスはおっしゃいました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」。主イエスは、女性が隠しておきたい、触れて欲しくない心の奥の扉をノックなさったのです。女性は驚き、少し怖くなったかもしれません。女性は、決して嘘ではないが、すべてを告白するわけでもない言葉で答えました。「わたしには夫はいません」。すると主イエスは言われました。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
 「ありのまま」と訳されたのは、αληθες(アレィセス)というギリシア語で、「真実に」、「まことに」、「本当に」という意味の言葉です。この女性と6人の男性との間に起こった事は、わたしたちには分かりません。しかし主イエスは、すべてを知っておられます。主イエスは、すべてをご存知の上で言われました。「あなたは真実を言ったのだ」。女性は、あえて核心の部分を隠して答えたのですが、隠したはずの6人の男性との関係を言い当てられたことにびっくりしました。また、それだけではなく、「あなたは真実を言っている」と言われたことに、もっとびっくりしたと思います。状況から推し量れば、これまで、この女性の言い分など誰も本気で聞いてくれなかったことでしょう。ところが、初めて、「あなたの言ったことは真実だ」と言っていただいた。そのとき、主イエスの言葉によって、女性の心の中に、ひとつの問いが生まれたのです。「この方は、神が遣わされたキリストかもしれない。」問い、ではなく、願いかもしれません。「この方が、救い主であって欲しい。」女性は高鳴る胸を押さえて対話を続ける。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」この頃、サマリア人(じん)は、ゲリジム山に神殿を築いて礼拝をしていました。ユダヤ人は、シオンの山の上にエルサレム神殿を築き、そこに神がおられると信じ、礼拝していました。サマリアの女性は、「どちらが、本当の礼拝なのでしょう?」と尋ねたのです。いささか唐突な言葉にも思えます。しかし、それだけこの女性の心の渇きが深刻だった、ということだと思います。心の底から救いを求めていた。まことの礼拝をささげ、過去から解放されたい。赦して欲しい。罪から解放されたい。真剣に願っていたと思うのです。主イエスは婦人の願いに答えてくださいました。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
主イエスは、「わたしを信じなさい。」と言われました。サマリアの女性の問いに、答えてくださいました。神の独り子キリストが世に遣わされた今、もはやエルサレムとゲリジム山どちらがまことの礼拝にふさわしい場所か などと議論する必要はない。主イエスを信じ、主イエスの名のもとにささげられる礼拝こそ、まことの礼拝なのだと、主イエスは言われます。そして、まことの礼拝は、「霊と真理」をもって、父なる神にささげられる礼拝だとおっしゃるのです。「場所」や「建物」は関係ない。「霊と真理」が必要と言われます。既にご一緒に読みました第3章34節に洗礼者ヨハネの言葉がありました。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。」神さまがお遣わしになった主イエスが、神の言葉を話される。それは、父なる神さまがご自分の“霊”を、み子に限りなくお与えになるから。み子は、神の霊によって与えられた言葉を、わたしどもに お与えくださる。神の霊によって真理の言葉を与えてくださる。だから「霊と真理」は一体。決して切り離すことはできないのです。
ヨハネによる福音書において、霊は聖霊、神の霊であり、真理は主イエスです。主イエスは、自らをこう言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(14:6)」
暗闇に覆われた世に、父なる神さまは、み子主イエスを遣わしてくださいました。争いに明け暮れ、弱い者が虐(しいた)げられる世を憐れみ、大切な独り子を遣わしてくださいました。そして、み子に霊を惜しみなく与え、み子を十字架につけ、復活させることによって世を救うという、わたしども人間には思いもよらない救いを実行してくださいました。それほどまでに、神さまはわたしどもを愛しておられる。愛する独り子に、わたしどもの罪の責任をすべて背負わせて十字架刑にするほど、わたしどもを救いたい、と願っておられる。そのことをただ信じ、「主イエスこそ、わたしの救い」と信仰を告白し、洗礼を受ける者は、一人の例外もなく、キリストと結ばれ、永遠の命を得る。神さまの懐で平安に生きる者となる。そのような救いの道を、切り拓いてくださったのです。
主イエスは父なる神さまに至る道。主イエスは真理。主イエスは命です。主イエスは、神さまの み心にどこまでも従順に生きられました。霊の命じられるままに生き、死なれました。十字架に磔にされ、父なる神さまから打ち捨てられるという、過酷な渇きを経験されながら、霊の望まれることがすべて成し遂げられたことを宣言して、息を引き取られたのです。その主イエスを、父なる神さまは、三日目の朝、復活させられた。キリストに、復活の命を与えてくださいました。そのことを信じ、洗礼を受け、キリストと結ばれた者が、一人残らずキリストと同じ復活の命を得て、死をこえて、永遠に生きるようになるために!
24節に「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」とあります。荘厳な礼拝堂で礼拝をささげていても、主イエスによる罪の赦し、永遠の命が語られることがなければ、真理はありません。霊のおられるところに真理があります。キリストがおられます。ここを切り離して、神の存在は信じるが、イエスは信じられないとか、復活は信じられないということは成り立たない。キリストの死と、復活こそ、神さまの愛の証です。キリストが命をかけて、神さまの まことの愛を示してくださったのです。そして、その真理を、わたしたちに与え、信じさせてくださるのが聖霊の力です。霊の働きなしに、キリストの十字架の死と復活を信じることはできません。霊が働いてくださるから、わたしたちは神さまの愛を信じることができるのです。
サマリアの女性は、主イエスが語られた「まことの礼拝」について、このときすべてを悟ったわけではないでしょう。しかし、救い主は、もしかするとこの方ではないか、その思いをまっすぐに主に伝えました。25節。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」主イエスは、サマリアの女性に宣言されました。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」女性はいてもたってもいられなくなり、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に告げました。「さあ、見に来てください。わたしが行(おこな)ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」すると、人々は町を出て、主イエスのもとへやって来たのです。
主イエスは、神さまが求めておられることを教えてくださいました。神さまは、霊と真理をもって礼拝する者を切に求めておられる。救い主が今、世に来た。救い主は、わたしだ。今こそ まことの礼拝をささげるときが来たのだ、と言われました。父なる神さまは、わたしたちにも、霊と真理をもって礼拝することを求めておられます。「まことの礼拝」を求めておられます。キリストの十字架のもとで、わたしと出会って欲しい。わたしの言葉を聞き、言葉に応えて欲しいと、対話を、礼拝を、わたしたちに求めてくださるのです。霊も真理も、神さまが備えてくださる。わたしたちは、ただ「アーメン」と受け入れるだけでよいのです。神さまが日々、与えてくださる霊と、み子が与えてくださったキリストのまことを感謝して受け入れる。固く閉ざしていた心の扉を開き、主に入っていただく。自分自身を明け渡し、み子を受け入れる。そのとき、はじめて、わたしたちの礼拝は、神さまの求めに応えるものとなります。すべては主が備えていてくださるのです。主の真理が支配してくださることを喜んで、主にすべてを委ねて、主の求めに応えてまいりましょう。そして、生きていくために不可欠な水がめを置き、今まで避けていた人々の真ん中に飛び込んで行ったサマリアの女性のように、ご一緒に、礼拝から、それぞれの持ち場へ遣わされてまいりましょう。

<祈祷>
父なる神さま、毎週の礼拝を霊と真理をもってささげる者としてください。礼拝において、あなたの言葉を伺い、あなたを賛美し、「父よ」と祈り、「子よ」と語りかけて頂く喜びに満たされます。この喜びを、悲しみの中にある者、嘆きの中にある者、不安の中にある者に届ける者としてください。主イエス・キリストの み名によって、祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、芳賀力先生が今、病と闘っておられます。本来であれば、本日、春の特別伝道礼拝の説教を担ってくださる予定でした。主よ、芳賀先生に聖霊を注ぎ、病を癒やしてください。一日も早く共に礼拝をささげることができますように。ご家族のこともおまもりください。主よ、争いがあり、自然災害があり、貧困があり、対立があります。悲しんでいる者、望みを失った者、嘆いている者に聖霊を注ぎ、あなたの愛で包んでください。教会での礼拝を慕いつつ、様々な理由で教会に来ることの難しい者を憐れみ、聖霊を溢れるほどに注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年6月4日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ホセア書 第2章16節~22節、新約 ヨハネによる福音書 第4章1節~26節
説教題:「永遠に渇きを癒やす水」
讃美歌:546、7、179、Ⅱ-1、217、542

 今日からヨハネによる福音書 第4章に入ります。ゴシックの小見出しには、「イエスとサマリアの女」とあります。この箇所は、1節から42節までと長い箇所です。今日は1節から26節までを朗読して頂きましたが、1節から26節までも盛りだくさんの内容なので、今日は前半部分、1節から15節を中心にご一緒に読んでまいりましょう。
 福音書に記されている主イエスの伝道活動は、ガリラヤ地方と ユダヤ地方に集中しています。そのガリラヤ地方とユダヤ地方の間に挟(はさ)まれるようにして、今日の み言葉の舞台であるサマリア地方があります。ガリラヤ地方とユダヤ地方を行き来するには、サマリア地方を通る必要がありました。サマリアの人たちは、ユダヤ地方やガリラヤ地方の人々とは異なる、自分たち独自の礼拝の場所を持っており、ユダヤ人たちからは敵対視されていました。元々は、ガリラヤもユダヤもサマリアも、同じルーツを持つ神の民です。しかし歴史の流れの中でサマリアの人々の信仰が薄れてしまったことで、兄弟で憎み合うような対立が生まれてしまったのです。そのことを頭に入れておくことが必要です。
 主イエスがユダヤ地方から弟子たちと一緒にガリラヤ地方に行かれるとき、シカルというサマリアの町に来られました。主イエスは神さまだから、飢えることも渇くこともない、ということはありません。主イエスは神さまであられながら、人間として、わたしたちの真ん中に来てくださいました。まことの人として、わたしたちと同じように疲れる日もある。胃がキリキリする日もある。そのような主イエスが、ユダヤ地方からガリラヤ地方へ至る乾いた道を一歩一歩、弟子たちと共に歩いて行かれる。もう日が高く昇っています。足は疲れて喉もカラカラ。ちょうどシカルの町が見えてきた。そこには、ユダヤ人の先祖ヤコブが拓いた井戸がある。ひとやすみしよう、ということになったのでしょう。「正午ごろ」であったと記されています。弟子たちは食べ物を買うために、町に行き、主イエスは、井戸のそばに座っておられました。そこへサマリアの女性が水をくみに来ました。普通、水をくみに来るのは朝早い時間です。誰も好き好んでカンカン照りの中で水くみなどしません。女性には事情がありました。かつて5人の夫があった。今は6人目の パートナーがいるが夫ではない。何があったかはわかりません。 同情されるべき事情があったかもしれません。けれども、あることないことひそひそ噂され、白い目で見られていたことは間違いないでしょう。女性は人目を避けて、誰にも会わずに済む日中に、井戸に来たのです。しかし主イエスは、その女性に声をかけられました。「水を飲ませてください」。女性は、いきなり声をかけられて、さぞびっくりしたことでしょう。それも言葉の訛りや雰囲気で、 ああ、この人はサマリアの人ではないとすぐにわかる。だから、 驚いて言いました。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。
 聖書に書いてあるように、ユダヤ人とサマリア人とは交際しないのです。交際しないとは、敵対しているということです。交わろうとしない。声もかけない。ましてや頼みごとなどするわけがない。それなのに、ユダヤ人のあなたが、サマリアのわたしに、しかも男性のあなたが、女性のわたしに、頭を下げて頼むとは。本当に驚いているのです。すると、主イエスは、不思議な言葉で答えられました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
 サマリアの女性は、主イエスが何を言おうとしておられるか、わかりませんでした。しかし、何かを感じたのです。この人は、わたしを敵視していない。そして、預言者のような力がある。力を感じたのは、語り口だったかもしれません。語られた内容だったかもしれません。眼差しだったかもしれません。サマリアの女性は、驚きつつも、知らず知らず、主イエスに心を開き、心の中に湧いた問いをまっすぐに投げかけました。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
それまでこの女性は、目の前の男性を「ユダヤ人のあなた」と 呼んでいました。それが、ここでは「主よ」と呼んでいます。「主よ」と訳されたギリシア語は、「キュリエ」です。わたしたちが毎週の執り成しの祈りで「キュリエ・エレイゾン(主よ 憐れみたまえ)」と祈っているのと同じ言葉です。無意識であったかもしれません。しかし、いつも人から避けられ、自分でも人目を避けて生きてきた女性の心は、主イエスとの対話の中で少しずつ、自分でも 知らないうちに開かれていったのではないかと思います。「その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」と言われた「その人」とは、今、目の前に座っているこの方であるに違いない。だけど この方は、深い井戸から水をくむ物をもっておられない。どうやって井戸からくんで、わたしに与えることができるのか。特別な力を持っているお方であったとしても、井戸を与えてくれたわたしたちの父ヤコブよりも偉いのだろうか。女性は、心に浮かんだ問いを、そのまま主イエスに投げかけました。すると、返ってきたのは思ってもみない答えでした。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
 蛇口をひねれば飲める水が出てくる生活に慣れ切っているわたしたちにとっては、あまりピンとこないかもしれません。けれども、想像したい。乾いた大地の中を歩いて やっと たどり着く井戸。先祖が拓いて遺してくれた井戸。皆は、ジリジリと照りつける太陽を避けて早朝くみに来るのに、この女性は人目を避けて昼間くみに来なくてはならない。この女性にとって、喉の渇きの辛さもさることながら、それ以上に辛いのは心の渇きであった。そのことを主イエスは知っておられたのです。誰にも理解されず白い目で見られ、 後ろ指をさされる辛さ。孤独。カンカン照りの乾いた地をひとりで歩くような彼女の渇きを、ただ主イエスおひとりだけが、知っていてくださった。なぜなら、主イエスは、造り主であられる父なる神さまの懐から、神さまの み心を成し遂げるために 来てくださった方であるからです。主イエスご自身こそ、この先、この女性の 歩んで来た道よりもはるかに険しい道を進んで行かれます。カラカラに渇き切った孤独の中を行かれます。十字架が待っている。だからこそ、この女性の渇きに目をとめて、声をかけてくださいました。そして、「わたしが新たに拓こうとしている井戸の水を飲む者となって欲しい」、「わたしが与える永遠の命に至る水を飲んで欲しい」とおっしゃいます。主イエスが渇ききった人びとの心に天の国の水を引いてくださる。十字架の死によって。十字架の死こそが、主イエスがカラカラに渇くような孤独を背負って成し遂げられる、父なる神さまの み心でありました。十字架の死によって、主イエスは天の水がコンコンと湧き出る井戸を拓いてくださったのです。この水、この女性だけのものではありません。わたしたちすべての者に「どうか飲んで欲しい」と備えられています。この水は、洗礼の水であり、聖書の み言葉であり、聖餐です。しかし まだこの 段階では、「永遠の命に至る水」の意味は隠されています。だから、女性はこう答えました。「主よ、渇くことがないように、  また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
毎日の水くみから解放されたい。その一心で「主よ、その水を ください。」と求めました。ここでもサマリアの女性は「主よ (キュリエ)」と呼んでいます。永遠の命に至る水の本当の意味はわからなくても、「主よ」と呼んで、求めたのです。主イエスの 言葉によって、眼差しによって、この女性に小さな信仰が芽生えたのです。
この後、主イエスとサマリアの女の会話は、26節まで続きます。サマリアの女性は、主イエスから「婦人よ、わたしを信じな さい。」と招かれます。女性は言いました。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。」その言葉を受け、主イエスは「それは、あなたと話をしているこのわたしで  ある。」と宣言してくださいました。この対話により、女性は信仰へ導かれていきます。ゆっくりと、でも着実に主イエスによって 変えられていく。わたしたちも、サマリアの女性と同じではないでしょうか。疲れを覚えて教会に来る。いっときでいい。一息つければよい。そう思って来る。しかし、そこで主イエスの眼差しに捉えていただくのです。思いがけない み言葉に触れて、びっくりして、わからないなりに「主よ、その水をください。」と求めるのです。そして、主の招きに応えて洗礼をうけ、聖餐をいただく。死をも超えて、永遠に主イエスと結ばれて、神さまの懐の中に平安に生きる者とされる。どんなに辛いことが待っていても、どんなに厳しい試練が待っていても、わたしは独りではない。いつも父なる神さま、子なる神さま キリスト、聖霊なる神さまがわたしと共に永遠にいてくださる。その平安の中で、生き生きと生きることができるようになる。そしてその喜びを誰彼かまわず伝えたくなる。この 女性の物語は、わたしたちの物語なのです。
 この後、サマリアの女性は、水がめを井戸に置いたまま、今まで避け続けていた人々のところへ飛んで行きました。そして、人々に伝えました。「さあ、見に来てください。わたしが行(おこな) ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。(4:29)」人々は、主イエスのもとへ やって来ました。そして、主イエスの言葉を聞いて信じました。
すべては、主イエスの、サマリアの女性へのひとこと、「水を飲ませてください」から始まりました。サマリアの女性の、孤独でカラカラに渇いた心に、主イエスは語りかけてくださいました。しかも頼みごとをされた。「水を飲ませてください。あなたの その渇いた心が、神さまの国をつくるために必要なのだ」と主イエスは望んでくださるのです。なんという恵みでしょうか。渇き、力を失った あなたが必要と言ってくださる。そして信仰へと導いてくださる。永遠の命に至る水を、水源ごと、わたしたちにくださる。主イエスが命を賭けて拓いてくださったこの恵みに心を開いて、「主よ」と求めることができますように。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、永遠の命に至る水をお与えくださり、感謝いたします。わたしたちを決して渇かない者としてくださる主よ、この恵みに心を開いて、「主よ」と答える者としてください。喜びを語り続ける者として用いてください。主イエス・キリストの み名によって、祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、ここに来ていない兄弟姉妹のことを思わずにおれません。闘い続けている病床の者を顧みてください。不安の中で過ごしている者を特別にあなたが支えてください。いつ快復するか分からない思いの中で、日々、祈りに生きようとしている者をあなたが覚えてくださいますように。世界には多くの悲しみがあり、深い嘆きがあります。争いが続いています。自然災害があります。信じられない事件が起こり、不安なことが起こり、顔を上げることができないような悲しみを味わいます。あなたの み言葉の力が今こそ必要であると思わずにおれません。主よ、どうかわたしどもを憐れみ、わたしどもの願いを聞いてくださいますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年5月28日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第9章1節~6節、新約 ヨハネによる福音書 第3章31節~36節
説教題:「天から来られた方キリスト」
讃美歌:546、68、177、Ⅱ-1、344、541

 今日は聖霊降臨日、ペンテコステを記念する礼拝です。その日の出来事は使徒言行録に記されております。甦りの主イエスが天に昇って行かれてから、弟子たちは、主が約束してくださった聖霊が降ることを信じ、一つになって祈っていました。すると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いたのです。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、ひとりひとりの上にとどまり、一同は聖霊に満たされて、聖霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で神さまの みわざを話しだしました。そして、そこに、教会が生まれたのです。
今日の説教箇所を決めるとき、少なからず悩みました。実は今日ご一緒に読みます第3章31節から36節は、クリスマスに語られることの多い み言葉です。天におられる神さまの独り子が、世に与えられた真理が語られているからです。それでもわたしは、聖霊降臨の祝いの日に、聖餐の祝いに与るこの日に、ここを読むこともまた深い意味があると信じ、この箇所にさせて頂きました。
わたしたちが信じている神さまは、父なる神さま、子なる神さま(キリスト)、聖霊なる神さまからなる三位一体の神さまです。求道者の方と洗礼準備の学びをするとき、「父なる神さま、子なる神さま(キリスト)についてはイメージが浮かぶ。けれども、聖霊なる神さまは、何となくピンとこない。」という方がおられます。しかし、今朝の第3章34節を読むと、聖霊なる神さまの働きがどれほど大切であるか、なくてはならないものであるか、そのことがわかります。
34節に、こう書かれています。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。」父なる神さまは、わたしたちの救いのために、み子主イエスを遣わしてくださいました。主イエスは、父なる神さまの み子として、神さまの言葉を わたしたちに語ってくださいました。それは、聖霊なる神さまの働きによるのだと洗礼者ヨハネはここで自分の全存在をかけて証ししています。神さまが、主イエスに、聖霊を限りなく与えておられるから、主イエスは神の言葉を話される。父なる神さまの愛を、憐れみを、怒りを、嘆きを、話されるのです。 
先週は、年間主題にもとづく礼拝でしたので、ヨハネ福音書は お休みしました。そこで、先々週読んだ箇所を少し振り返ってみましょう。洗礼者ヨハネの弟子たちが、ヨハネ先生に訴えた。主イエスがヨルダン川の向こう側で洗礼を授けていること、ヨハネ先生から洗礼を受ける人より、主イエスから洗礼を受ける人が多いことを訴え、ヨハネが弟子たちに答える場面でした。ヨハネは、わたしの人生は、キリストを信じ、洗礼を受け、キリストと結ばれる者の群れが大きくなるためにあるのだから、キリストが栄え、わたしが衰えることは、わたしの大きな喜びだ、と答えました。今日の み言葉は、それに続く洗礼者ヨハネの言葉として書かれています。
ヨハネは、天から来られた方 主イエスを指し示して言うのです。「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」「上」、「天」とは、神さまがおられるところです。神さまは、神さまの懐の中から迷い出てしまったわたしたちを見捨てることなく、諦めることなく、何とか、懐の中に帰って来て欲しいと、その一心で、神さまのおられる天から、み子をお遣わしくださいました。神さまが、遣わしてくださった。だから主イエスは、すべてのものの上におられる。地に属する者を支配しておられるのだ、とヨハネは言います。支配といっても、 がんじがらめに縛りつけられるのではありません。み子がすっぽりと包んでくださる。誰でも信仰を告白し、洗礼を受けるとき、キリストにすっぽり包まれる。その安心の中で生きるようになるのです。
ヨハネは続けます。32節。「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。」これまでこつこつとヨハネ福音書を読んでおりますが、ところどころでドキッとする み言葉に出会います。ここはまさにその一つです。ここには、直視したくない わたしたちの罪の現実があります。主イエスは、父なる神さまの懐の中でご覧になってきたこと、神さまからお聞きになってきたことをそのまま証しなさる。この主イエスの証しという言葉は、明らかに、十字架の死と ご復活をも含んでいます。ですから、洗礼者ヨハネの言葉として書かれていますが、福音書を著(あらわ)した教会の告白と言ってもよいと思います。誰ひとり、真剣に耳を傾けようとしない。誰ひとり、神さまの み子を受け入れない。神さまの思いよりも、自分の思いで生きている。これがわたしたちの現実だ、と福音書は突き付けます。わたしたちの信仰はもろい。日々、聖霊を注いでいただかなければ、神さまの み心に従い得ません。わたしは真っ白で、偽りのない者ですと、天の光に照らされてもなお、胸を張れる者がいるでしょうか?わたしたちは、自分の心の中の闇が明るみに出るのを恐れます。み子を十字架につけようと画策したユダヤ人の指導者たちや、「殺せ。殺せ。十字架につけろ。(19:15)」と叫んだ群衆がそうであったように、わたしたちは皆、主イエスのまことの光、天の光に照らされて、自分の罪が暴かれることを恐れる者です。わたしたち人間は、子なる神さま(キリスト)を受け入れず、拒みました。十字架にはりつけて、神の み子を殺してしまいました。けれども、それで「ジ・エンド」ではありませんでした。闇のまま終わりではなかったのだと、福音書は わたしたちに救いの道を示すのです。
33節以下。「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。」ここで、「確認した」と訳された原語は、判を捺(お)すという意味の言葉です。神さまの み子が天からわたしたちのところにいらしてくださって、神さまの み心を証ししてくださった。神さまの愛を教えてくださった。それを受け入れることは、「神さまがこのわたしを愛してくださっているという真実を、確かに受け取りました。」と、受け取りのハンコを押すことなのだ、というのです。キリストが十字架で流された血が、わたしの罪を洗い清めると信じ、洗礼を受ける。その洗礼が、神さまの愛を受け取ったハンコとなる。神さまの懐の中で永遠に生きられる道となる。父なる神さまは、そこまでして、「わたしのもとへ帰って来て欲しい。わたしの懐の中で安心して生き続けて欲しい」と願ってくださって、わたしたちには思いもつかないようななさり方で救いの道を拓いてくださったのです。
み言葉は続きます。35節。「御父(おんちち)は御子(みこ)を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」「永遠の命」とは、わたしたちの体が、いつまでも長生きするというようなことではありません。わたしたちは皆、神さまが定めてくださった「時」に召され、墓に入る。また、わたしたちの霊魂だけが生き続けるというものでもありません。しかし、その滅ぶべきわたしたちがなお「永遠の命」を得ている。それは、生きるときも、死ぬときも、いつでもわたしたちは主のものである、という確信を得ていることです。神さまの懐の中に在る平安です。そしてそれは、ただ み子をわたしの救い主と信じる信仰によって得られるものなのです。主イエスの十字架の死と甦りを信じる、ただそのことによって、わたしたちは死も、神さまの怒りも、恐れなくてよいものとされているのです。
神さまは、神の怒りの上にわたしたちがとどまることを望んでおられません。怒りの炎で焼き滅ぼされるのではなく、何とか永遠の命を得る者として生きて欲しいと願っておられます。そのために、大切な み子を、この世に遣わしてくださいました。み子は、おひとりで神さまの怒りをすべて受け止めて、わたしたちの代わりに死んでくださったのです。身代わりとなってくださった。この方を信じることは、そのまま、永遠の命の中に在ることになる。神さまの愛の受け取りのハンコを捺して、確かに受け取った。キリストに包まれて、神さまの懐の中にいる。永遠に。
今から聖餐の祝いに与ります。主イエスが十字架の上で裂かれた肉と、流された血潮をいただきます。それほどまでのわたしたちの罪を思う。本来であれば、わたしたちが神の怒りを受けねばならなかった。けれども神さまは、そのすべてを愛する み子キリストに負わせられました。そこまでして わたしたちの罪を赦したい。そこまでして永遠の命を与えたい。そう願われたのです。それほどの神さまの愛、主イエスの赦しをいただいたわたしたちが、み子キリストに従わないという選択肢は考えられません。無理矢理、必死でみ子に従うのではありません。聖霊が助けてくださいます。み子に父なる神さまの言葉を語らしめ、聖霊降臨日に弟子たちに大きな力を与え、教会を生まれさせてくださった聖霊。その聖霊が、わたしたちにも注がれ、わたしたちを助けてくださるのです。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる神さま、聖霊降臨の恵みを感謝いたします。「御子を信じる人は永遠の命を得ている」との喜びを感謝いたします。どうか、神さまの愛は真実であると証しする者としてください。主の み名によって、祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、あなたの確かさの中で、病床にある者を支えてください。看病を続けている者を励ましてください。途方に暮れている者に救いの道を示してください。疲れを覚えている者に真実の安息を与えてください。今も世界の至るところで争いが続いております。嘆きの中にある者を憐れんでください。体調を崩している者が多くおります。心身に痛みを抱えている者もおります。主よ、聖霊を注いでください。礼拝を慕いつつ、ここに集まることのできない者にも、聖霊の働きを信じる信仰をお与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年5月21日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第37章1節~10節、新約 コリントの信徒への手紙一 第12章12節~26節
説教題:「共に苦しみ、共に喜ぶ」
讃美歌:546、61、191、385、540

今朝は、年間主題に基づく礼拝をささげております。礼拝の後、コイノニア・ミーティングを行い、年間主題について、4つの分団に分かれ、語り合います。今年度の年間主題は、「共に苦しみ、共に喜ぶ」です。実は、2021年度も同じ主題を選んだのですが、もう一度、この み言葉を皆さんと一緒に心に刻みたいと思ったのです。そのきっかけは、教会報『ぶどうの木』への一人の姉妹からの投稿でした。すでに皆さんのお手元に届いていると思いますが、改めて、一部を紹介させて頂きます。「高齢化が進んでいる現在、全ての人の問題として、せめて月一回の礼拝出席ができるような 形が作れないかと思いました。」切実な訴えだと感じています。礼拝を守りたい。この世の命の終わるときまで守り続けたい。わたしたち皆の願いです。色々なことを諦めても、最後に残るたった一つの願いではないでしょうか。
先週とその前の週は主の日の朝、雨が降りました。雨が降ると、足もとが滑りやすくなります。そうでなくとも、持病があったり、お年を召してふらつきや転倒の不安を抱えている方が増えています。実際、教会の帰りに転倒してしまい、それ以降、礼拝への出席が難しくなってしまった方もいます。このような問題の前に立っている今、神さまが、わたしたちに望んでいらっしゃることを、伝道者パウロの言葉を通し、改めて学びたいと思ったのです。パウロは、手紙に記しました。12節。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」決して、忘れてはならないのは、教会は、主イエス・キリストの体であるということです。天にいらっしゃるキリストを頭(かしら)として、キリストの み心が、地上に実現するために、わたしたちはキリストの手足として、目や耳として、教会という交わりをつくっているのです。
13節。「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」パウロの時代の教会には、ユダヤ人、ギリシア人、奴隷、自由な身分の者、さまざまな人びとがいました。ユダヤ人には、「わたしたちは、神から特別に選ばれた民である」という自負があります。ギリシア人には、知識人としての誇りがある。奴隷がおり、奴隷の主人もいる。ありとあらゆる人びとが信仰生活を共に営んでいたのです。ちょっと想像してみただけでも、大変そうです。案の定、「わたしは神に選ばれたユダヤ人であって、ギリシア人ではない」と言ってみたり、「わたしは知恵のあるギリシア人であって、ユダヤ人とは違う」と主張したり、「どうせわたしは奴隷」と卑屈になったり、「なぜ奴隷が偉そうな顔をしているのか」と呟く、といったことが実際にあって、それがコリント教会の存続をあやうくするような大きな課題であったのだと思います。では、わたしたちは、どうでしょうか。コリント教会ほどの目に見える互いの違いは感じないかもしれません。しかし、だからと言って、コリント教会のような危機はわたしたちの教会には起こらないということではありません。教会はキリストの体。その一点を忘れるとき、教会は教会でなくなってしまいます。改めて、14節から22節を朗読いたします。
「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」
ここ数年、教会員の皆さんからこのような言葉をよく聞くようになりました。「先生、わたしは教会のお荷物になっていませんか?何もできなくなってしまいました。わたしが教会に来ることは迷惑ではありませんか?」わたしは咄嗟に、「そんなことないですよ。教会にいらしてくださり、椅子に座り、最後まで礼拝を守り、挨拶してお帰りになられる。そのことが、どれだけわたしを含め、教会の皆さんの励ましと慰めになるか。神さまは喜んでおられると思います。」と伝えますが、「そうですか。でも、わたしは何もできなくなってしまいました。」と嘆き続ける方もおられます。それでも、聖書は宣言するのです。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」
わたしたちは皆、神さまに望まれて、キリストの体の一部にしていただきました。洗礼によってキリストの霊をいただき、キリストの体である教会の中に、「あなたはここで、わたしの心を現しなさい」と置いていただいたのです。神さまが望まれ、キリストの体の一部として置かれた者を、人が勝手に「もう要らない」などと、どうして言ってよいでしょうか。
電話連絡網、また週報でもお知らせしましたが、先週の火曜日、姉妹の一人が みもとに召されました。近年は少しずつ衰えて、礼拝に着ていらした ご自分の上着がわからなくなったり、主の日と間違え、平日に教会に来てしまったりしながらも、最後までキリストを慕い続けられました。その お姿にわたしはどれほど励まされたか知れません。体調を崩され、施設に入られてからは、なかなかおいでになれませんでしたが、2ヶ月ほど前の3月5日の主日礼拝に息子さんと出席。聖餐の祝いに喜んで与っておられました。わたしが東村山教会に着任した2015年、姉妹は、伝道委員会のメンバーの一人でした。ほとんど発言はありませんでしたが、存在感のある方でした。その後、伝道委員はお辞めになられましたが、体調を崩されるまで、ほとんど欠かさず、なかほどの席にちょこんと座って礼拝を守り、穏やかな笑顔で挨拶され、お帰りになられました。ちなみに、この方からは、一度も、「わたしは、何もできなくなって」という言葉を伺った記憶がありません。わたしたちはキリストの体。命ある限り、教会で礼拝を守る。礼拝者の喜びを、細い体を通して、わたしたちに教えてくださった姉妹でした。
パウロは続けます。23節以下。「わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。」
「見劣りのする部分をいっそう引き立たせて」とは、何を意味するのでしょうか?わたしたちの誰もが、何らかの弱さを抱えています。わたしも同じ。牧師も長老も教会員の皆さんも、常に強いわけではない。それぞれに、恰好が悪い部分、見栄えのしない部分を抱えている。しかし神さまは、その弱さを隠すことなく、むしろ引き立たせて、キリストの体である教会を組み立てられたと言うのです。驚きます。何でもお出来になる神さま。世のエリートを集め、キリストの体を組み立てることは簡単です。けれども、そうではない。弱さを抱えている者、深い傷を負っている者を選び、引き立たせて、教会を組み立てておられるのです。
パウロは記します。「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」「キリストの体」の一部としていただいた恵みを喜び、互いの弱さを認め合い、配慮し合う。一人の悲しみを一緒に担い、一人の苦しみを互いの苦しみとして配慮し合ってこそ、キリストの体である教会になる。キリストの体として生き続けることができる。そうパウロは今朝わたしたちに訴えているのです。
パウロは、コリントの信徒への手紙二第12章に、「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(12:9)」と記しました。わたしたちは、自分の罪、弱さ、無力さを知った時、神さまのどこまでも深い愛、憐れみ、赦しを全身で味わい、震える者です。こんなにも弱く、欠けだらけのわたし。それでも神さまは、わたしを見捨てることなく、引き立たせ、キリストの体の一つの部分として組み立ててくださった。それほどの神さまの愛、キリストの十字架の赦しに打たれ、聖霊の力を受けるとき、わたしたちは、恰好が悪い部分を覆わず、見苦しい部分をさらけだし、「わたしも、キリストの体の一部として頂いた」と喜んで証しすることができるのです。
教会は弱い者の集まり。弱い者だからこそ、神さまに選ばれた。何かができるから選ばれたのではない。弱い者であるわたしたちを神さまは選び、「見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられ」たのです。
最後に、ヘンリ・ナウエンが記した「中心にある最も弱いもの」と題したメッセージに耳を傾けましょう。「体の最も大事な部分は、リードし制御する頭や手ではありません。最も重要な部分は他よりも見栄えが悪いと思われる部分です。それが教会の神秘です。教会の中心を形作るのは、私たちの内で最も弱い人々(老人、幼子<おさなご>、障害を持った人、心の病を患う人、飢えている人、病気の人)です。(中略)貧しい人々が教会の最も大切な部分である時、神の民である教会は私たちの間におられる生けるキリストを真(しん)に姿、形ある方として示すことができます。貧しい人々を思いやることは、キリスト教的慈善事業をはるかに超えるものです。それは、キリストの体となることそのものです。」
今日から、「わたしは衰え、教会のお荷物になりました。」と嘆くことなく、「わたしは衰え、教会の中心を形作る者となりました。皆さん、わたしの苦しみを共に苦しんでください。弱い者が大切にされることを共に喜んでください。」そのように互いに励まし、配慮し合う群れとして成長したい。聖霊の導きをご一緒に祈り続けましょう。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる神さま、わたしたちを見捨てることなく、主イエスの十字架によって罪を赦し、主イエスの甦りによって永遠の命を与え、主イエスの体の部分として用いてくださることを深く感謝いたします。聖霊の力によって、共に苦しみ、共に喜ぶ群れとして成長させてください。主の み名によって、祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。愛する姉妹が みもとへと召されました。主よ、悲しみの中にある者に慰めを与えてください。明日の葬りの業の上に聖霊を注いでください。被爆地 広島でサミットが開催されています。広島、長崎に原子爆弾がもたらした悲しみと、平和の誓いを踏みにじるように戦争を続けている世を憐れみ、「平和の祈り」へと導いてください。主よ、病床にある者、望みを失っている者を顧みてください。永遠に変わることのない望みを与えてください。来週の主日、ペンテコステ礼拝に一人でも多くの者と共に礼拝をささげることができますよう聖霊を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年5月14日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 歴代誌上 第29章10節~20節、新約 ヨハネによる福音書 第3章22節~30節
説教題:「わたしたちの喜び」
讃美歌:546、54、265、527、539、427

 今日から3年2ヶ月振りにすべての讃美歌を賛美する礼拝に戻りました。2020年3月1日の礼拝から、最初の讃美歌、説教前の讃美歌、説教後の讃美歌を感染対策のため賛美することを中止しました。突然、賛美ができなくなり、毎週の礼拝を皆さんと共に守ることすら困難になるという試練は、辛く、厳しいものでした。あれから3年。ようやく、礼拝を以前の状態に戻すことになりました。感染症そのものが無くなった訳ではありませんが、改めて、共に前を向き、祈りつつ、主を賛美してまいりましょう。
これまでも週報には、声に出して歌わない讃美歌もすべて選び、記しておりましたが、今日からはすべて賛美できることになり、選曲にも力が入りました。今朝、最初に賛美したのは54番。「よろこびの日よ、ひかりの日よ」。わたしたちにとって、礼拝をささげる主の日は、喜びの日であり、光の日です。そして、説教前に賛美したのは265番。「世びとの友となりて 自由を あたうるため、わが主は世にくだりて 罪をきよめたまえり。」キリスト者の喜びは、自分が富み、栄えることではありません。神さまと同質であられる主イエスは、わたしたちの罪を清めるために、争い、悩みの中にある わたしたちの世に降って来てくださいました。そして、わたしたちを友と呼び、「友よ、わたしと共に神さまの事業に加わって欲しい。わたしと共に働いて欲しい。」と、招いていてくださいます。神さまの事業とは、神の国の建設です。国と言っても、わたしたちの考えるような国境で隔てられた国ではありません。すべての人と共に神さまの懐に抱かれ、互いに愛し合い、赦し合い、励まし合って生きる世を造ることです。神の国の完成に向かって前進することは、キリスト者の喜びなのです。
 もしかすると、キリスト者の喜びを世界で最初に味わったのは、洗礼者ヨハネだったかもしれません。ヨハネは言いました。「わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。(3:29~30)」「あの方、主イエス・キリストは栄光に輝き、みんながついて行く。わたしは栄えてはならないのだ」と、ヨハネは言うのです。負け惜しみでも、いじけているのでもなく、心から、主イエスが栄光に輝く お姿を喜んで言うのです。実際、ヨハネは、他の福音書に記されているように、領主ヘロデによって捕らえられ、牢に入れられ、首をはねられました。ヨハネ自身がそれを予感していたかもしれないと考えると、今朝の み言葉は、「ヨハネの遺言」と言ってもよいかもしれません。そのようなヨハネの喜びの証言に至る発端となったのは、「清めのことで」起こった論争でした。
 主イエスは、弟子たちと共にユダヤ地方に行き、人々に洗礼を授けておられました。一方、洗礼者ヨハネは、ガリラヤ湖から死海に向かって流れるヨルダン川中流の町アイノンで洗礼を授けておりました。23節に、「そこは水が豊かであった」と書かれています。アイノンは、「泉」という言葉が地名になったものです。恐らく、ヨルダン川が近いこともあり、新鮮な水が湧き出る泉があったと思われます。主イエスはユダヤ地方で、ヨハネはアイノンで洗礼を授けていた。それぞれの地で執り行われていた祝福と喜びに満ちた洗礼式を思い浮べます。
しかし福音書は、そこに「ヨハネはまだ投獄されていなかった」との言葉を入れ、さらに「清めのことで論争が起こった。」と記しました。当時、ユダヤの人々への洗礼は簡単なものではなく、論争の火種となることを、ヨハネは承知していたのだと思われます。
洗礼は、「清め」のしるしです。洗礼により、わたしたちの体も心も洗い清められるのです。この「清め」が、なぜ議論になったのか?ユダヤ人は、生まれたときから、神の民とされます。そして、そのしるしとして、生後まもなく割礼を受けるのです。ユダヤ人は、「わたしたちは割礼を受けているのだから、『清め』の洗礼など受ける必要はない。」と主張していました。それに対し、洗礼者ヨハネたちは、「割礼」で罪は清められない。洗礼によってこそ、清められる。」と主張。結果、昔からの考え方を持っているユダヤ人と、ヨハネの弟子との間で、論争が起こったのです。
さらに、そのような論争の中、ユダヤ人たちはヨハネの弟子たちを挑発したのかもしれません。「そういえば、ガリラヤからユダヤ地方にやって来たイエスという男と弟子たちも、洗礼を授けているようだが、お前たちの先生のところよりもずっと多くの人が集まっているぞ。」ヨハネの弟子たちは、ヨハネ先生のもとへ戻って来て訴えました。
26節。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」ヨハネの弟子たちの、「何とか言ってください、ヨハネ先生。」そんな声が聞こえてくるようです。ヨハネは冷静に、確信を持って、弟子たちを諭すように答えました。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。」
 ヨハネは言うのです。「なぜ、わたしが、『自分はメシアでない。自分は主イエスの前に神から遣わされた者だ』と言うことができるか。それは、わたしの考えからでなく、天から与えられた知識に基づくから。天から与えられたのでなければ、確信を持って このようなことを語ることはできない。そのことは、あなたがたもよく知っているだろう。」ヨハネは、天から語るべき言葉と知識を授けられて、神の国の到来が近いことを人々に告げ、主イエスに出会い、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と証言したのです。その喜びを、このように言いました。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人は そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
 「花婿」は、主イエスです。では、「花婿の介添え人」は、誰を指すのでしょう。「介添え人」は、「友」という言葉でもあります。結婚式で、最も信頼できる「友」に立ち合ってもらう。ヨハネは、心から喜んで語るのです。「わたしは、主イエスの友として、花婿主イエスが、わたしが連れて来た花嫁を迎えるのに立ち合う。花婿である主イエス。花嫁である教会。主イエスと教会が結ばれ、一つとなる喜びに、主イエスの友として立ち合える喜び。花婿の喜びの声。花嫁の喜びの声。それぞれの声が重なり二重唱となる。そこに友とされたわたし、ヨハネ自身の喜びも重なり三重唱になる。さらに続々と生まれるキリスト者の群れである教会の喜びも重なり、花婿である主イエス、花嫁なる教会の大合唱を喜ぶとき、わたしの務めは終わる。わたしが衰えても、わたしは喜びで満たされている。なぜなら、そこにこそ神の国は現れ、主の栄光は永遠に続くのだから。」
ヨハネだけでなく、わたしたちは皆、キリストの「友」と呼ばれています。ヨハネによる福音書 第15章14節以下で、主イエス御自身が語っておられます。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。(15:14~16)」
 「わたしの命じること」とは、ヨハネによる福音書の後半、「最後の晩餐」の場面において、繰り返し語られる「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(13:34)」との み言葉に尽きます。この み言葉が実現するところに、神の国があります。神の国の建設事業が前進します。神であられる主イエスが、わたしたちを「友」と呼んで、愛してくださいました。わたしたちに代わって、父なる神さまの審きを その身に受け、十字架に架かってくださり、そのことによりわたしたちの罪は清められました。それを信じ、洗礼を受けるなら、滅びることなく、永遠の命に生きることができるように、神さまの懐の中で平安に生きることができるように、そのための道を拓いてくださいました。洗礼者ヨハネは、主イエスが通られたその険しい道の先駆けとして、神さまから遣わされました。ヨハネは、喜びに満たされて断言するのです。「わたしは衰えねばならない。ついにそのときが、救いのときが、神の国が、近づいているのだ。」衰えてゆくことを喜ぶ、ヨハネの覚悟に満ちた遺言が、今朝、わたしたちに与えられているのです。
 ヨハネの喜びは、わたしたちの喜びでもあります。自分の手柄が認められ、褒められることでなく、神さまの国、神さまのご支配のもとで、神さまの栄光を現すため、自分を喜んで差し出す者となりたい。そのことを、そのことだけを、「わたしの喜び」としたい。そのための道を、主イエスは、第15章で教えてくださいました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(15:5)」「わたしにつながりなさい」と、主は言われます。ぶどうの枝が幹に繋がっていなければ実がならないように、主イエスと繋がっていなければ、わたしたちは人を赦したり、愛したりできません。洗礼は、ぶどうの枝が幹に繋がっているように、わたしたちが花婿 主イエスと結ばれるために、主が定めてくださった、救いの道なのです。    
 この後、讃美歌527番を賛美いたします。皆さんと「わがよろこび、わがのぞみ、わがいのちの主よ、ひるたたえ、よるうたいて なお足らぬを おもう。」と賛美できる幸いを感謝します。どんなに賛美しても足らない主の愛の中に、わたしたちは招かれています。わたしたちは誰もが衰え、地上の命を神さまにお返しする者です。そのたった一つ、神さまからいただいた命を、主に結ばれて、主から力をいただいて、主の栄光を賛美するために用いましょう。一人でも多くの人が救われるために、互いに赦し、互いに愛するために用いましょう。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる神さま、わたしたちを友と呼び、同労者として招いてくださり、感謝いたします。わたしたちに洗礼の喜びをお与えくださり感謝いたします。み子が お命じになられた「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」をいつも心に刻み、実践する者としてください。主の み名によって、祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、病に苦しんでいる者に力を与え、支えてください。み心ならば、どうか、再び、共に礼拝をささげることができますよう導いてください。日々、信じられない事件が起こっています。殺し合いも続いております。あなたが創ってくださった世を託されたわたしどもが、互いに愛し合い、赦し合うことを疎かにしております。その結果、弱い者がますます弱くされ、貧しい者がますます貧しくされています。どうか主よ、今、苦しみの中にある者、望みを失っている者、嘆きの中にある者に、あなたの愛と慰めを注いでください。主よどうか、愚かなわたしどもを憐れみ、世にあるわたしどもすべての者に、あなたの み顔を仰がしめてください。平和をつくる知恵と勇気を与えてください。今朝も礼拝を慕いつつ、様々な理由で教会に集うことのできない者がおります。主よ、その場にあって、励ましと慰めを与えてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年5月7日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 アモス書 第4章4節~8節、新約 ヨハネによる福音書 第3章16節~21節
説教題:「光の中で生きよう」
讃美歌:546、28、191、Ⅱ-1、276、545B

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」先週も紹介しましたオランダ出身のカトリックの司祭ヘンリ・ナウエンは、「永遠の命」について、次のように著(あらわ)しています。「イエスは、私たちの死ぬべき体に 死なないものを 着せるために来られました。(中略)私たちは、洗礼によって このいのちを与えられ、聖餐によって それを保ち、様々な霊的な活動によって深め、確固としたものにします。(中略)死はすべての ものを終わらせる敵ではなく、むしろ私たちの手を取って永遠の 愛の み国へと 導き入れてくれる友なのです。」「永遠の命」とは、神さまの懐(ふところ)に抱(いだ)かれて生きることです。「永遠の命」の対極にあるのは、「滅び」です。神さまの懐から飛び出して、闇の中で迷子になってしまうことです。神さまは、「独り子を信じる者が一人も滅びない」ですむように、独り子 主イエスを、わたしたちに与えてくださいました。神さまは、神さまに背中を向けて、てんでんばらばらに迷子になっている わたしたちを ご自分の懐の中に取り戻したい、その一心で、神 さまの懐の中におられた独り子 主イエスを、わたしたちに与えてくださったのです。「わたしの独り子を受け取って欲しい。受け 入れて、あなたも、わたしの懐の中で生きて欲しい。」と、神さまは無償で、独り子 主イエスという とてつもなく大きな贈物をくださったのです。み子の十字架と復活を、ただ信じる。そのことに よって、わたしたちが、死を、「私たちの手を取って永遠の愛の み国へと導き入れてくれる友」と呼べるようになる、その道を拓いてくださったのです。主イエスの言葉は続きます。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々は その行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」「裁く」と訳された言葉は、もともとは「区別する」という意味の言葉です。神さまは、わたしたちを一人も区別することなく、誰にでも、み子 主イエスを お与えくださいました。神さまは、わたしたちすべての者を、区別することなく、「わたしの懐で生きよ」と呼んでいてくださるのです。主イエスは、「わたしは、すべての人を救うために来た。だから、ただ わたしに信頼して、洗礼を受け、新しい命に生まれかわって欲しい」と、わたしたちを呼んでおられます。洗礼による新しい命。それは、永遠の命。神さまの懐で平安に生きる命です。けれども、主イエスに信頼しない限り、「神は、その独り子を お与えになった ほどに」このわたしを、今のままのわたしを、迷子のままのわたしを「愛された」その み言葉に信頼しない限り、迷子の状態は変わりません。闇の中で道を見失ったまま。その状態こそ、裁かれて いる状態にほかならないのだと。そこには、決定的な一線があるのです。曖昧はない。ナザレのイエスを救い主と信じるか、否か。 光か、闇か。わたしたちが、光よりも闇の方を好むことは、いちいち説明する必要はないと思います。ここで改めて思い起こしたいのは、ここで語られている主イエスの言葉が、もともと誰に向けられたものであったかということです。主イエスの教えを乞うために、ある夜、暗くなってからやって来たファリサイ派に属する、ユダヤ人たちの議員ニコデモです。ファリサイ派は、多くの人々がユダヤ人として堕落した道を歩んでいるのに対し、自分たちだけは清く、正しく、ユダヤの民として立派に生きようと努めていた人たちです。ほかの人はともかく、わたしたちは義しい。義しい行いによって、神さまの前に義しいと認めていただける、そう信じている人たち。ところが、そのファリサイ派のニコデモに、み子 主イエスは、愛をもっておっしゃたのです。「洗礼を受け、新しく生まれ、生き方そのものを変えなさい。」「どうして、そんなことができましょう。」と反論するニコデモ。自分の今までの生き方にしがみつき、信心深いつもりでいるニコデモに、主イエスはおっしゃいました。「光が世に来たのに、人々は その行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」この み言葉を、ある神学者は、こう訳しています。「裁きとは、これである。すなわち、光がこの世に来たが、人々は光よりも、暗やみを大切にした。自分たちの生き方が威圧的だったからである。うわべをつくろっている人はみな、光をきらい、光のほうへは来ない。自分の生き方をさらけ出したくないからである。」自分たちは義しい。自分たちは ひとより優れている。まさっている。ほかの人は裁かれても、自分たちは神さまの戒めをしっかり守っている。そういう生き方は、いつの間にか ひとに対して威圧的になっているのではないか?主イエスは、そのように問うておられるのではないでしょうか?神さまは、ひとりも滅びないことを望んでおられます。「うわべは、清く、正しく、体裁を整えていても、そのことで ひとを見くだしているとすれば、その生き方は神さまの方を向いていない生き方ではないのか?」この問いは、わたしたちに無縁なものでしょうか?わたしたちの信仰はどうでしょうか?ニコデモのようになっていないでしょうか?父なる神さまの懐から飛び出してしまっていないでしょうか?神さまは、すべての者に懐に戻って来て欲しい!と心から願われ、み子を世にお遣わしになりました。誰も区別せず、すべての人に。神さまの み子が、誰よりも低いところにいらしてくださった。それなのに、わたしたちが誰かより高いところに立っているとしたら。それは、誰よりも 低いところに立たれている、主イエスよりも高いところに立って いることになります。その状態は、まさに自滅です。自分で自分を区別し、裁き、滅ぼしているのです。これほど神さまを悲しませることはありません。「どうして、素直にわたしの懐に戻って来ないのか?なぜ、光の中に帰って来ないのか?」主イエスは続けて言われました。21節。「しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」「神に導かれてなされた」という言葉は、直訳すると「神にあってなされた」という文章です。先ほど 紹介しました神学者の訳は、「神の中で支えられている」となっていました。わたしたちは、真心を込めて平和のために働く人の姿を知って、「なぜあの人は、あのようなことができるのだろうか?」と驚きつつ、感心することがあります。主イエスは、おっしゃるのです。「その行いは、その人の力によるものではない。神さまの懐に抱(いだ)かれている喜びの中で、神に導かれ、神の力に支えられながら、行われている真理である」と。
先日、NHK BS1で放送されたドキュメンタリー番組を視聴しました。アフガニスタンで活躍された中村 哲 先生の歩みを振り返る番組「良心を束ねて河となす 医師・中村 哲 73年の 軌跡」です。再放送だったので、皆さんもご覧になったかもしれません。驚きをもって視聴しました。み子 主イエスが21節で語られた、「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に 導かれてなされたということが、明らかになるために。」の  み言葉が、そのまま、映し出されているように感じました。番組では中村先生の生い立ちから亡くなるまでの歩みが、先生を知る人々に取材して語られていました。貧しい人々に献身的であった祖父母や両親の影響を受けて育ち、若い日に西南学院で学び、盲目の牧師と出会い、洗礼を受けておられます。父なる神さまの懐に抱(いだ)かれ、生涯を、戦禍と貧しさに苦しむアフガニスタンの民衆のために献げたのです。「一隅(いちぐう)を照らす」という言葉を愛していたそうです。「一隅」とは「かたすみ」のこと。目立たない場所。そのような「一隅」を、明るく照らすのです。神さまに導かれ、神さまの懐の中で、神さまの力に支えられ、神さまに祈りつつ、苦しむ人に、み子 主イエスの光を、黙々と届け続けた人でありました。
アフガニスタンでは当時、干ばつが深刻で、医療以前に水の確保が喫緊の課題になっておりました。しかも、9・11後、アフガニスタンはテロリストの温床となっていると見なされ、報復攻撃を受けていました。その中で畑に引くための水路建設に身を投じておられたのです。実はその頃、ご次男を脳腫瘍で失っておられます。まだ小学生。中村先生は「わが子を失い、アフガンで、空爆や病気で子どもを亡くした親の気持ちがいっそうわかるようになった。他人事(ひとごと)でなくなった」と述懐しておられます。先生は、2019年12月4日、アフガニスタンで何者かに銃で撃たれ、亡くなりました。73歳でした。この世の闇の、何と深いことかと思います。わたしたちには、先生のような凄まじいまでの生き方はできないかもしれません。それでも、わたしたちに与えられている持ち場、持ち場で、神さまの懐の中で生きることはできます。神さまに導かれ、真理を行い、み子の光を照らすことができる。主イエスは そのために わたしたちすべての者のところに来てくださったのです。
只今から聖餐に与ります。20世紀最大の神学者カール・バルトが、1946年にボン大学で行った講義『教義学要綱』に聖餐の喜びを著(あわら)しています。「聖餐は、喜びの食事であります。すなわち、この方(イエス・キリスト)の肉を食し、この方の血を飲むことです。それは、私たちの生(せい)の只中にあって、永遠の生命(とこしえの いのち)に至る食べ物であり飲み物です。私たちは、この方の食卓の客であり、それゆえ、もはやこの方 御自身から分かたれることは ありません。(中略)イエス・キリストにおいて、私は、もはや私が死にうる場所にはいません。イエス・ キリストにおいて、私たちの肉体は、すでに天にあります。」 
洗礼を受けた者は、すでに「永遠の命」を生きています。主の懐の中に生きています。わたしたちは聖餐によって、この命を自らの内に確かめ、喜びを新たにします。この喜びは、わたしたちだけのものではありません。この食卓には、すべての人が招かれています。「洗礼を受けて、新しく生まれて、一緒に この食卓を囲んで 欲しい」と招かれています。洗礼を受け、新しい命に生まれ変わり、神さまの懐に生きる幸いの中に、招かれているのです。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる御神、あなたの独り子への信仰ゆえに永遠の命を お与えくださり感謝いたします。主よ、闇の中ではなく、光の中で生きる者としてください。うわべではなく、自らをあなたの光の中にさらけだし、照らしていただいて、あなたに抱(いだ)かれている喜びの中で、一所懸命に真理を行う者として ください。主イエス・キリストの み名によって、祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。大きな地震が石川県能登地方で発生しました。不安の中にある者を強め、励ましてください。能登伝道圏を構成する輪島教会、七尾教会、羽咋(はくい)教会、富来(とぎ)伝道所の歩みをお支えください。今も各地で争いが続いております。主よ、あなたを信じている者も、信じていない者も、平和と愛と義を作らんとするあなたのみ心に生きることができますよう導いてください。小さなわざにも、愛と望みをもって取り組むことができますよう力をお与えください。わたしたちをあなたの み言葉と み力の中で生かしてください。病んでいる者、望みを失っている者に、あなたの み声を聞かせてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2023年4月30日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第19篇2節~15節、新約 ヨハネによる福音書 第3章10節~21節
説教題:「神さまの愛」
讃美歌:546、82、Ⅱ-184、Ⅱ-194、545A

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 ヨハネによる福音書 第3章16節の み言葉は、クリスマスによく読まれる み言葉です。わたしも、小学校6年生のクリスマス。まだ木造の会堂だった鎌倉雪ノ下教会の礼拝堂で、教会学校の仲間たちと並び、暗唱したことを覚えております。会衆席に向かって、一人ずつ大きな声で暗唱しました。わたしにあてがわれたのが、この み言葉でした。当時は口語訳でしたが、クリスマスが過ぎても、不思議と、この聖句は、わたしの心に残り、神さまの愛を疑ったときも、不安に押し潰されたときも、この聖句が心の底から起き上がってきて、わたしを引き留めてくれました。皆さんの中にも、愛唱聖句としておられる方があるかもしれません。
ドイツの改革者ルターは、著書『卓上語録』に、印象深い言葉を残しています。見出しのタイトルは、「頭痛に対する処方」。ルターが、友人から、これはよく効く薬だから、と頭痛薬を貰ったとき、こう言ったのだそうです。「わたしの最上の処方箋はヨハネによる福音書に記されている『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』だ。これは、わたしが持っている最高の薬なのだ。」
今朝は、先週と重なるように、第3章10節から朗読して頂きました。主イエスは、厳しい言葉を語っておられます。「あなたがたは わたしたちの証しを受け入れない。」また第2章23節以下でも厳しい言葉を心に刻みました。「多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。」主イエスは、わたしたちをよく知っておられます。何が心の中にあるかをよく知っておられます。主イエスの奇跡の力に捉えられ、多くの人が主イエスの名を信じたときも、主イエス御自身は、彼らを信用なさいませんでした。わたしたちは、主イエスに何の反論もできません。なぜなら、わたしたちも、自分の心がいかにあてにならないかを知っているからです。どんなに愛している相手であっても、疑いはちょっとしたことで生まれるものです。そのうち妄想が膨らみ、妄想に支配されてしまう、ということがある。「疑心、暗鬼を生ず」という言葉があるように、疑いが生じると、ありもしない恐ろしい鬼が見える。悪魔が見える。心が病んでしまう。ルターは、そういうときでも、第3章16節を服用すれば、病が癒されると言いました。
 神さまは、そうして、すぐに疑心暗鬼になるようなわたしたちをどうなさったでしょうか?「あなたがたは、わたしの望むことではなく、望まないことを行っている。もういい。わたしは、あなたがたを裁く。」と言われたでしょうか?わたしたちは、一直線に滅びの道、裁きの道を突き進み、闇に向かって落ちていくしかないのでしょうか?もしもそうであったら、わたしたちは今、ここに座っていません。神さまは、そのように愚かなわたしたちを放っておくことは我慢ならない、と、どこまでも、わたしたちを愛し抜いてくださいました。大事にしてくださいました。第3章16節の み言葉が、その根拠です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 ルターは、この み言葉を「小さな聖書」とも呼んだそうです。この「小さな聖書」の中に、福音の全体がギュッと、凝縮されています。ルターは、心が病むと、「小さな聖書」を「最高の薬」として服用したのです。死の床にあり、地上の命の尽きるときも、「小さな聖書」と呼んだヨハネによる福音書 第3章16節の み言葉を口にして、祈りつつ息を引き取ったと伝わっています。その み言葉が今朝、わたしたちにも「今、あなたに必要だよ。」と、神さまから与えられています。
「世」とは、「この世」のことです。この世は、神さまの愛に対立しているように思われます。ウクライナ、ミャンマー、アフガニスタン、スーダン、シリアなど、たくさんの地域で紛争が続いています。この世の現実は、もう神さまから見捨てられ、顧みられることがなくなったのか、と思われるほどに、悲惨な状況です。決して目を逸らしてはならない。けれども、目を逸らしたくなる現実がある。
それでも、わたしたちには立ち帰ることのできる み言葉があるのです。心が暗くなり、落ち込んでしまうとき、服用できる み言葉が与えられているのです。それが第3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
この薬には、服用制限はありません。副作用もありません。一日に何度服用しても構わない。子どもも、食事制限を受けている大人でも、口から食事をとることが難しくなった者でも、服用できる薬です。皆、一人の例外もなく、滅びの道、裁きの道へ一直線のような者であるにもかかわらず、一人も滅びることなく、永遠の命を得させるために、父なる神さまは、大切な独り子 主イエス・キリストをわたしたちに与えてくださったのです。
第1章10節以下には、このように書かれていました。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」神さまの言、思いが世に降(くだ)り、主イエスが来られた時、世は主イエスを受け入れませんでした。これは、過去のことではありません。神さまの愛を無視し、争いに明け暮れるわたしたち。闇に支配されて、隣人を疑い、神さまの愛を疑ってしまうわたしたち。神さまから「あなたがたへの愛を諦める」と匙を投げられてもおかしくないのが、わたしたちの現実です。 
それなのに、いや、だからこそ、そのようなわたしたちを、父なる神さまは、しつこいほどに、愛して、愛して、愛し抜いてくださいました。いつまでも懐に抱えていたかった み子を手放し、人としての苦しみ、悩みをすべて経験させ、最後には、十字架の死を強いてくださいました。み子 主イエスも、神さまの思いを受け入れてくださり、十字架の上で、「成し遂げられた」と言って、死んでいかれたのです。そこまでしなければ、わたしたちの罪は赦されなかった。そこまでしなければ、わたしたちは裁きを免れることはなかったのです。み子の十字架を仰ぐまで、わたしたちは、自分の罪が それほど重いものであったことを知りませんでした。神さまの愛が、それほどまでに深いことを知りませんでした。主イエスの十字架が、神さまの溢れる愛を、わたしたちに教えてくださいました。
ヨハネの手紙一 第4章の み言葉は、今朝の み言葉と重なります。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。(ヨハネの手紙一4:9~11)」
「生きるようになる」とは、「永遠の命を得る」ことです。洗礼を受け、神さまの ご支配を受け入れて、神さまの み腕の中で生きるようになることです。主イエスが、世に遣わされなければ、誰も生きることはできなかった。神さまを礼拝することも、「父よ」と祈ることも、愛し合い、赦し合って生きることもできませんでした。「滅び」へとまっしぐらであったのです。ヨハネは、手紙を通して伝えます。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
わたしたちの愛は、「条件付きの愛」です。あの人から愛された。だからわたしもあの人を愛する。あの人から愛されなくなった。だからわたしもあの人を愛することをやめる。けれども、神さまの愛は、「条件付き」ではないのです。ただ愛したい。赦したい。神さまの愛は、わたしたちに日々、押し寄せてくるのです。神さまは、愛に貧しいわたしたちを お見捨てになって当然でした。しかし、神さまはわたしたちを お見捨てになりませんでした。大切な独り子をわたしたちに与えてくださいました。わたしたちは、神さまの信用を失っていたのです。わたしたちが何をしても神さまの信用を取り戻すことは不可能です。だからこそ神さまは、み子 主イエス・キリストの十字架の死によって、み子の十字架を信じるすべての人を、滅びから救い上げ、わたしたちへの信用を回復させてくださったのです。これが、神さまの愛です。み子 主イエスは、真の神さまでありながら、真の人として世に遣わされ、神さまの愛に一所懸命に生き、一所懸命に死んでくださいました。神さまと等しい方が、人間を愛するために、世にいらしてくださり、人間から「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」と叫ばれて十字架に架けられ、死んでくださった。そしてそのことによって、ようやく神さまの愛に気づいて信じた者が、滅びないですむ道を、拓いてくださったのです。
わたしにとって、敵としか思えないあの人であっても、主イエスは、その人のためにも、愛をもって死んでくださいました。この人さえいなければ、どんなに苦しまなくてすむかと思う、その人のためにも、愛をもって死んでくださいました。すべての者への「神さまの愛」を信じるとき、わたしたちの心は憎しみ、怒りの心から、ゆっくり解放されていきます。主の愛に生かされ、新しい命に生かされて、神さまが愛してくださったように、主イエスが愛してくださったように、愛する道が備えられているのです。光の道を歩きなさい。わたしたちはそのように招かれているのです。
最後にヘンリ・ナウエンのメッセージに耳を傾けたい。ナウエンは、20世紀を代表するキリスト教会の霊的指導者であり、カトリックの司祭です。「神の愛に立ち帰る」と題して、こう記しています。「神の無条件の愛とは、私たちが悪いことを言ったり考えたりする時ですら、神は私たちを愛し続けてくださるということです。神は、迷子になった子どもを待つ親のように、私たちを待ち続けておられます。私たちの行いが神を悲しませる時ですら、神は私たちを愛することを決して止(や)められることはないという真実を、私たちがしっかりと心に抱(いだ)き続けることが大切です。この真実は絶えることのない神の愛に私たちを立ち帰らせてくれます。」
 今日は礼拝の後、定期教会総会を開催いたします。対面での総会は、2020年3月1日の臨時教会総会以来ですから、3年振りとなります。3年間、コロナに振り回された日々でした。長老会は、迷いながら、悩みながら決断し、様々な制約を皆さんに強いてまいりました。今、思うのは、本当にこの3年間の対応が神さまの み心に適っていたのだろうか?という思いです。しかし、そのようなわたしたちに今朝、神さまは、僅か1節で聖書の福音を知ることのできる「小さな聖書」を備えてくださいました。敵であった者さえも愛してくださり、赦してくださる神さまの愛から、こぼれ落ちる者はひとりもいません。それほどの神さまの愛に包まれているわたしたちです。小さな聖書を、最高の薬を、いつも心に携えて、共に歩んでまいりましょう。

<祈祷> 
天の父なる御神、み子の十字架の死によって罪を赦され、そればかりか永遠の命をも与えてくださったあなたの愛に感謝いたします。主よ、あなたの愛に生きる者としてください。争い悩む世を憐れんでください。わたしたちも共に愛し合い、赦し合い、祈り合うことで、あなたの愛に応えることができますように。主イエス・キリストの お名前によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。今日も争いが続いています。無益な人殺しが続いているのです。しかし、これらすべて、あなたがお造りになられ、「極めて良かった」世界における出来事です。主よ、わたしたちの世を どうか み心に留めてください。み子によって成し遂げられた永遠の命の約束を、すべての者に果たしてください。争いの地であなたの約束に生きる教会を強め、励ましてください。信仰の仲間の中にも病んでいる者、心が萎えている者がおります。年老いて、ここに来ることができなくなった者もおります。人びとに介抱されながらようやく生き続けている者がおります。たとえ明瞭な言葉であなたを呼ぶことができなくなった者であっても、あなたがそばにいてくださることを信じることができますように。果てしなく続くかと思われる家族の看取りの労苦をあなたが支えてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年4月23日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第37章11節~14節、新約 ヨハネによる福音書 第2章23節~第3章15節
説教題:「新しく生まれなければ」
讃美歌:546、54、199、532、544

2023年度がスタートし、あっと言う間に第4主日を迎えました。ご承知のように、3年前から女子校で聖書科非常勤講師として働いております。先日、今年度最初の授業を終えました。毎年、はじめに自己紹介をします。まず黒板に名前を書きます。次に生年月日を記して、若い頃のエピソードをいくつか話し、それから再び、黒板に、1985年10月6日と記します。そして、伝えます。「わたしには二つの誕生日があります。一つは、母のお腹から生まれた1967年11月29日。もう一つは、1985年10月6日。この日、罪のわたしは洗礼によって死んで、同時に、まったく新しい命に生きる者となりました。」生徒たちは、不思議そうな顔を浮かべていました。わたしだけでなく、キリスト者には皆、二つの誕生日があります。二度目の誕生日である洗礼を受けた日、罪のわたしは死ぬ。そして、「水と霊とによって」まったく新しい命に生きる者とされる。十字架のキリストと共に死に、キリストの復活の命を与えられて、新しい存在として生まれ変わるのです。
主イエスは、過越祭の間、エルサレムにおられました。多くの人が、主イエスのなさったしるしを見て、主イエスをキリスト、救い主と信じました。しかし、主イエス ご自身は、彼らを信用なさいませんでした。なぜなら、主イエスは すべての人のことを知っておられ、何がわたしたちの心の中にあるかを、よく知っておられたからです。わたしたちの心はまったくあてになりません。くるくると変わる。主イエスは、わたしたち以上に、わたしたちの心の闇を ご存知であられたのです。
ここに、一人の人物が登場します。第3章1節。「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。」「ファリサイ派」と呼ばれた人々は、ほかの人はどうであれ、自分たちだけは、神さまに選ばれた民として、真面目な生活をしよう、誠実に生きようと、徹底して努力した人びとでした。さらにニコデモは議員でしたから、ファリサイ派の中でも一目置かれる存在であったと考えられます。そのニコデモが、ある夜(よ)、主イエスのもとに来て言ったのです。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
なぜニコデモは「夜」に、主イエスを訪ねたのでしょう?ヨハネによる福音書は、この時点では、主イエスとファリサイ派との対立を描いていませんが、徐々に明らかにされていきます。ファリサイ派の人々は、真面目に生きようとする余り、古くからのしきたりや決まりにとらわれて、主イエスが語られる真理がわからなかったのです。その対立がこの頃からすでに芽生えていたと考えると、もしかしたら、ニコデモは人目(ひとめ)を気にしていたのかもしれません。けれども、一方で、夜は、人がおきてを学ぶ時、神さまの み言葉を学ぶ時でした。仕事を終えて夜になると律法の教師を訪ねる習慣があったようです。ニコデモは、 神さまの真理を主イエスから学ぼうとする謙虚な男であったかもしれません。いずれにしても、そこには、どうにかして、この先生のお話を直接聞いてみたい、という情熱が感じられます。ニコデモは、「ラビ」と呼びかけました。普段はニコデモ自身が「ラビ」と呼ばれる立場にありました。「ラビ」とは、律法の教師に対する敬称です。あなたをわたしの先生として受け入れます、という主イエスへの敬意が感じられます。さらに、ニコデモは、「神があなたと共におられる」と素直に告白しています。ニコデモがこのとき、何歳であったか、想像するしかありませんが、おそらく、主イエスの方が年下だったのではないかと思われます。それでも、主イエスを「ラビ」と呼び、「あなたは神から遣わされた教師、あなたと共に神がおられるのでなければ、このような数々のしるしを行うことはできません」と伝えたのです。
主イエスは、心を込めて言われました。3節。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」「はっきり言っておく」と訳されているギリシア語は、「アーメン、アーメン」です。「まことに、まことに、あなたに告げる。よく聞いて欲しい。わたしがこれから言うことは本当のこと、現実のこと、真理である」と強調して、言われたのです。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
「新たに生まれなければ」の「新たに」と訳された言葉には、「上から」という意味があります。岩波書店訳は、「アーメン、 アーメン、あなたに言う。人は上から生まれなければ、神の王国を見ることはできない」と訳しています。そして、この「上から」という言葉は、時間的な意味では「初めから」と訳すことができます。人は上から注がれてくる力によって、初めから、生まれ直さなければ、「神の国を見ることはできない」のです。  
「神の国」とは、神さまの ご支配と言い換えることができます。ニコデモが真面目に問い続け、求め続けていたものこそ、「神の国」、神さまの ご支配でありました。ファリサイ派は、自分たちの行いを厳しく律することによって、神さまの ご支配を見たいと真剣に願っていた人びとです。この時代、神さまに選ばれた民であるイスラエルは、国を失っていました。ほかの神々を拝んでいる者たちによって征服されていた。イスラエルの民は、神さまを見失っていたのです。その結果、ローマ権力に へつらう者がいくらでもいました。そのようなユダヤ人たちに逆らうように、信仰の筋道を立てようと努力していたのが、ファリサイ派でした。ニコデモは、 ファリサイ派に属する者として、何とかして神の国、神さまの ご支配を この目で見たい、と切に求めていたのです。
主イエスは、「何が人間の心の中にあるかをよく知っておられ」ます。ニコデモの心の中も知っておられた。だから、お答えになりました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは、主イエスの言葉を真面目に受け止め、訴えました。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」ニコデモの必死の訴えに、主イエスはお答えになりました。5節。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
主イエスは「水と霊とによって生まれなければ」と、おっしゃいました。それは、洗礼を意味します。母の胎内に戻って、もう一度生まれるのではなく、天から授けられる霊によって、新しく生まれる。洗礼によって新しく生まれなさいと、主イエスは言われたのです。「ニコデモ、よく聞きなさい。あなたは生まれ変わらなければならない。神の国は、コツコツと徳を積んだ先にあるのではない。あなたの存在そのものが、まったく新しくならなければならないのだ。」
洗礼には水を用いますが、水そのものには罪を洗い清める霊的な力はありません。水が用いられるのは、お風呂やシャワーで体の汚(よご)れを洗い流すように、聖霊が働いてわたしたちの全存在が罪から洗い清められ、聖なる者とされることを示す、しるしです。ですから、本来洗礼は、全身を水に浸して行うものです。今も、 そのようにしている教会もあります。水の中に全身ざぶんと浸かり、まったく姿が見えなくなって、そこから再び姿を現すことで、キリストと共に死んで、キリストの復活の命を与えられて、まったく新しい存在として生まれ変わる。わたしたちの教会で行う洗礼も、全身は浸しませんが、それを表しています。
ニコデモは、覚悟を決めなければならないのです。自分の努力では生まれ変わることなどできません。天から注がれる力を信じて、自分が立っているところからざぶんと、洗礼の水の中へ飛び込まなくてはならないのです。主イエスはニコデモに、またすべての人に、勧めてくださるのです。「あなたも、霊によって、新しく生まれることができる。感謝して、また喜んで、生まれ変わって欲しい。」
主イエスは、「霊」を語られるとき、「風」を用いて教えてくださいました。8節。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」「風」と訳された言葉は、「霊」と訳すこともできる言葉です。ギリシア語でもヘブライ語でも、「風」と「霊」は、同じ一つの言葉で言い表されます。ですから、「霊は思いのままに働く。あなたは霊の音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊によって新しく生まれた者も、皆、霊のように、風のように、自由である」と訳すこともできるのです。霊は風のように、思いのままに、自由に、わたしたちを訪れてくださいます。
先日倒れてしまった教会の前の木は、幹が根元で分かれていて、双子のように生えていました。今は1本だけになってしまったその木の枝が、3階の窓からよく見えます。その枝の葉が、風に揺れている様子を見ていて、ふと思いました。なるほど、風は見えない、どこから吹いてきて、どこへ行くのかも、わたしたちには分からない。でも木(こ)の葉が揺れていることで、風が吹いていることが分かるし、木(こ)の葉は吹いてくる風に揺られて、時が来たら、風に乗って、風の行くところへと運ばれていく。霊もまた、思いのままに天から注がれる。それは見えないけれど、霊に心を震わせて、水で洗礼を授けていただいたキリスト者もまた、霊の導かれるままに生き、死んでゆく。天のご支配の中で生き、死んでいく。幸いなことだなあ、と思いました。
けれども、ニコデモの頭は、まだ混乱しています。9節。「どうして、そんなことがありえましょうか」。主イエスは、答えて言われました。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」
皆さんも、お気づきになられたと思いますが、主イエスは11節で「わたしたち」と言っておられます。主イエスの孤独と悲しみと、迫害に耐えながら福音書を著(あらわ)した教会の苦悩とが、重なって、響いてきます。「わたしや、わたしのことを語り続ける教会は、いつも証しをしているではないか。それなのに、あなたがたは証しを受け入れない。」
主イエスは、証しをしておられます。即ち、「人の子」について、つまりご自分の話をしておられるのです。「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降(くだ)って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上(のぼ)った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」
預言者モーセの名が記されているのは、旧約聖書 民数記 第21章4節から9節に記されている出来事です。神さまから遣わされた蛇が、罪を犯したイスラエルの民を噛み、多くの者が死んだのです。そのとき、ようやく人びとは自らの罪を思い知り、悔い改め、赦しを求めました。神さまはモーセにお求めになりました。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。(21:8)」モーセは、青銅で蛇をつくり、旗竿の先に掲げました。これを仰ぎ見たイスラエルの民は、死を免れました。審きをもたらす蛇が、悔い改めた民にとっては救いのしるしとなったのです。それが、「モーセが荒れ野で蛇を上げた」意味です。主イエスは、その蛇の姿にご自分の姿を重ねて語っておられるのです。旗竿に掲げられた蛇のように、ご自身が十字架に架けられるとき、神さまの審きのしるしである十字架が、悔い改め、洗礼を受けた者にとっては救いのしるしとなるのだと、ご自分を証ししておられるのです。
けれども、ニコデモは、このときは、残念ながら主イエスのおっしゃったことがわからず洗礼には至りませんでした。この後、ニコデモの名は第7章と、第19章に登場します。第19章では、主イエスが十字架で息を引き取られた後、アリマタヤのヨセフが、主イエスのご遺体を十字架から取り降ろしたときに駆け付けて、ヨセフと共に埋葬を行ったと書かれています。主イエスと対立していたファリサイ派に属する議員。にもかかわらず、十字架で息を引き取られた主イエスのもとに駆け付けたのです。主の十字架を見て、主の証しの み言葉を思い起こしたのかもしれません。そして、もしかしたら、主の復活の後には、この人も洗礼を受けて、キリスト者となったかもしれません。わかりませんが、そうであって欲しいと思います。
わたしたちキリスト者も皆、主イエスに信用されない者でした。聖霊の力なくして、救われることはありませんでした。ただ、聖霊が、思いのままに吹いて来てくださり、主の救いを知ることができました。そして、聖霊の導きにより、信仰告白、洗礼へと導かれ、新しく生まれ、神さまのご支配のもとで平安に喜んで生きる者とされました。死すらも、神さまとわたしたちを引き離すことはできないことを知りました。すべての人が、この恵みの中へ招かれています。だから、わたしたちは生涯をかけて、人々の間で証しをするのです。
わたしたちの証しは、わたしたちの生き方です。霊に導かれる生き方です。風に木(こ)の葉が揺れるように、霊の導かれるままに生きて、死んでゆく。主イエスが与えてくださる永遠の命を信じ、喜んで赦し合い、仕え合いつつ生きて、死んでゆく。神さまのご支配のもとで生き、希望をもって死んでゆく。霊の導きを祈りつつ。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる御神、あなたが私どもに与えてくださっている証しの言葉と、霊の導きを大切に受け入れることができますように。わがままを捨てて、主の お姿だけが大きく見えて、そこに見えてきているあなたの愛のご支配だけがはっきりと見えて、悩みに耐えて生き続けることができますように。愛する喜びに いつも勇んで生きることができますように。そのようにして、霊と水によって、新しく生きることを許された者が生きる喜びに終生 生きることができますように。主の み名によって祈り願います。アーメン

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。今、互いのためにも祈ることができますように。ここにあるとき、自分を送り出してくれた家族や、自分が傷つけてしまっているかもしれない人のためにも祈ることができますように。この国の社会の歩みを思います。世界の歩みを思います。み心に従うこと少なく、争いに満ち、殺し合いが続き、お互いに信じ合うことができず、真実の平和をもたらすことのできない世界を み心のうちに留めてください。愛する者を失い、悲しみの中にある者、手術を控えている者に、あなたが寄り添い、慰め、励まし続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年4月16日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第36章25節~36節、新約 ヨハネによる福音書 第2章13節~25節
説教題:「新しく清い心をいただこう」
讃美歌:546、11、Ⅱ-83、521、543

 先週は、主イエスの死への勝利を覚えて、85名の皆さんと共に感謝の礼拝を守りました。久し振りに出席された方もおり、嬉しく思うと同時に、この日も出席の叶わなかったお一人お一人を思いました。どのような状況にあろうとも、わたしたちは、主が、まことに死なれ、その死から、復活されたことを信じる仲間です。主のご復活をただ信じ、洗礼を受け、主とひとつにしていただきました。だから、わたしたちは神さまの子として、永遠の命の、希望の光の中を歩むことができます。たとえ今、自分の望む状況に置かれていなくても、たとえ明日、地上の命の終わる時が来るとしても、この希望の光は消えません。復活の主が、わたしたちとひとつになってくださったことを信じているからです。
 今朝、わたしたちに神さまから示された み言葉は、受難週礼拝でも読みました13節から22節、神殿から商人を追い出す主イエスによる宮清めの出来事と、それに続く23節から25節の厳しい み言葉です。23節から25節は、大きなエピソードが語られているわけではありませんので、うっかりするとサラッと通り過ぎてしまいそうになるかもしれません。しかし、ここは、わたしたちにとって、非常に大切な箇所です。わたしたちはともすると、信仰生活の中で、自分の現実に蓋をして、いつの間にか、その現実が無かったことにしてしまうからです。
主イエスは、過越祭の間、エルサレムに滞在されました。その間、数々の「しるし」をなさったと書かれています。「しるし」とは、非常に重い病を癒される、というようなことであったと思われます。奇跡を目の当たりにして、多くの人がナザレのイエスを救い主だと信じて喜んだのです。しかし、主イエスのお心の内にあったのは、喜びではありませんでした。ヨハネによる福音書ははっきりと告げます。「イエス御自身は彼らを信用されなかった。」痛烈なメッセージです。「イエス御自身は彼らを信用されなかった。」彼らとは、主イエスのしるしを見て、主イエスを救い主と信じた人々です。主イエスが、ガリラヤのカナで水をぶどう酒に変える「しるし」を行われたとき、弟子たちは主イエスを信じました。エルサレムの人々も主イエスの「しるし」を見て、「イエスこそ、メシア」と信じたのですから、彼らを信用してくださってもよいのに、と思ってしまいます。けれども、福音書記者は、「しかし」と書き始め、「イエス御自身は」と、わざわざ「御自身は」と書き加えて、主イエスは、彼らを信用なさらなかったと書きました。そして、み言葉は続きます。24節後半。「それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」。
主は、すべての人間の心の内を知っておられたから、信用されなかった。はっきりそう書いてあります。すべての人間です。わたしたちのことです。ヨハネ福音書を書いた人も、東村山教会に連なるわたしたちも。弟子たちすらも。例外はないのです。わたしは、これまで多くのキリスト者との出会いが与えられてきました。その中でも、神学生であったわたしに、ある信仰の大先輩が話してくださった言葉が、今もわたしの心に深く残っています。「わたしは、自分にとってプラスのことがあれば、『神さま、あなたを信じてよかったです。』と感謝した。でも、マイナスの試練に襲われたときには、『いったいなぜ、これほどの試練を経験しなければならないのか?』と、神さまに文句を言い、神さまから心が離れたこともある。人間というのは、本当に弱いものだ。キリスト者らしく生きて行こう!と決意しても、なかなかそのように生きられない。でも、神さまは、そんなわたしを見捨てることなく、今まで生かしてくださった。だから、君にはぜひ自分の弱さを隠すことなく、そのようなわたしをも愛し、用いてくださる神さまの愛、イエスさまの赦しを語り続けて欲しい。」
わたしたちは、第1章1節から18節を繰り返し読みました。第1章1節は、このように始まりました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(1:1)」神さまの み子 主イエスは、肉体をもって地上に顕れてくださった神さまのご意志そのものであり、神さまです。ですから、主イエスはわたしたちの心の中に何があるかをよく知っておられるのです。わたしたちが、どれほど口で「信じる」と言っていても、すぐに神さまの愛を疑い、心を閉じてしまうこと。自分に都合のよい、望み通りの「しるし」が見えていれば信じても、「しるし」が見えないと動揺し、信仰がぐらつくことを。そのような、わたしたちのこれまでの歩み、あの日あの時の不信仰をよく知っておられます。そのように、どうにも救いようがない人間だからこそ、主イエスは、この闇としかいいようのない世に、天から降って来てくださいました。神さまの懐(ふところ)から飛び出して、わたしたちの間に、飛び込んで来られたのです。
 もしも、ヨハネ福音書が第2章でおしまいだったら。そのような想像は、無意味かもしれません。それでも、ご一緒に想像したい。もしも、カナでの婚礼、宮清め、そして今朝の厳しい審きの言葉で終わってしまっていたら。わたしたちは、神さまの愛を知らず、人を恐れ、死を恐れ、闇の中で死んでいく存在でした。それで終わりでした。しかし、終わりではなかったのです。続きがあるのです。主イエスは、まことの神さまとして、わたしたち人間の心の中に何があるかを知っておられました。同じようにわたしたちと同じ人間として、人間の心がいかに信用ならないか、惨めなものであるか、病んでいるか、ご自身が まことの人間となられたからこそ、よく知っておられました。ご自身が十字架で死ななければ誰の罪も赦されない、ということ。ご自身が三日目の朝、死に勝利しなければ、誰も永遠の命を得ることはできない、ということを、よく知っておられたのです。そして、ご自分の命を、わたしたちの救いのために献げてくださいました。
 これは来週の箇所の先取りとなりますが、主イエスは、ユダヤ人たちの議員であったニコデモに、はっきり言われました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(3:16)」父なる神さまは、ご自分の大切な み子主イエスをわたしたちの代わりに十字架の上で審き、死なせるほどに、わたしたちを深く愛してくださいました。そして、主イエスを死の中から復活させて、復活を信じる者が一人も滅びないで、神の子として、永遠の命に生きる者としてくださいました。「一人も」です。すべての信用ならない者たちを、「一人残らず」です。どうしても、わたしたちを放っておけない、このまま、わたしたちを信用しないで終わりたくない、そういう神さまの燃えるような ご意志が肉体を持ち、わたしたちの元に降って来てくださいました。それが主イエスです。主イエスは、わたしたちの心の中に何があるかをよく知っておられる。いかに、わたしたちが信用ならぬ者であるかをよく知っておられる。だからこそ、ご自分が世に遣わされたのだということを、よく知っておられたのです。そして、十字架と復活への道を歩み通してくださったのです。
わたしたちは一人の例外もなく、信用に値しない者でした。それなのに神さまは、そういうわたしたちを諦めずに、救うために、主イエスに十字架の死を強いられました。主イエスも、十字架の死を受け入れて、完全に死んでくださいました。信用に値しないわたしたちの心を、十字架の上で打ち砕き、復活によって新しい心につくりかえて、三日目の朝、死の壁を打ち破り、復活してくださいました。わたしたちを父なる神さまのもとへ導いてくださるのです。十字架の死と、復活を信じて、洗礼を受けて、主イエスとひとつにしていただくとき、わたしたちは真新しく、神さまのもとで生きる新しい命をいただくのです。主イエスは、そのようにしてわたしたちを、「ここへ来なさい、ここが、あなたの居るべき場所だよ」と、神さまのもとへ連れて行ってくださるのです。神さまのもとで生きる命こそが、永遠の命です。十字架と復活こそ、わたしたちに与えられているまことの救いのしるし。わたしたちの喜びであり、希望です。これほどの神さまの愛に日々、立ち帰ることができますように。

<祈祷>
 天の父なる神さま、み子の甦りの勝利によって、あなたを「父」と呼べる幸いを感謝いたします。み子の信用に値しないわたしたちが、み子の十字架の死と、甦りの命による罪の赦しと永遠の命を信じる信仰を与えてください。確かな思いを込めて、新しく清い心に生きる者としてください。主の み名によって祈ります。アーメン

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、礼拝を慕いつつ、さまざまな理由によりここに来ることの叶わない仲間たちがおります。病床にあります友、痛みを抱えている友、あなたから心が離れてしまっている友、望みを失っている友、今日も働いている友に、あなたがその近くにいて、愛で満たし、聖霊を注いでください。家族のために祈ります。いつの日かまだ信仰を告白していない家族も、あなたの招きを信じ、信仰告白、洗礼へと導いてください。この国のために祈り、世界の平和のために祈ります。あなたを信じている者も、まだ疑っている者も、平和と愛と義を作らんとするあなたのみ心に生きることができますように。互いが互いの命を尊び、敬い合う社会を、つくっていくことができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年4月9日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第2章4節b~9節、新約 ヨハネによる福音書 第20章19節~23節
説教題:「あなたがたに平和があるように」
讃美歌:546、147、153、Ⅱ-1、358、542

今朝は、いつもより少し早起きをしました。そして、教会学校の子どもたちと一緒に、信仰の先輩方のお墓の前で礼拝をまもりました。主イエスが十字架に架けられて死なれた次の週の初めの日、イースターの朝の出来事を心に刻むためです。
その週の初めの日の朝早く、マグダラのマリアは主イエスのご遺体が埋葬された墓に行きました。すると、墓の入口を塞いでいた大きな石がどかされていたのです。驚いたマリアは、シモン・ペトロのところ、また、主イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ大慌てで飛んで行きました。そして、彼らに告げたのです。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。(20:2)」
驚いたペトロともう一人の弟子は墓に向かって走り出しました。墓に到着すると、マリアの言う通り、石が取りのけてあったのです。先に到着したもう一人の弟子は身をかがめて墓をのぞきました。すると、主イエスの身体に巻かれていた亜麻布が置いてあるのが見えました。でも、墓の中には入りませんでした。少し遅れて到着したペトロは、墓の中に入りました。ペトロは、亜麻布と、少し離れた所には、主の頭を包んでいた覆いも、丸めて置いてあるのを見つけました。二人の弟子は、主の ご遺体がないことを確かめて、ようやくマリアが言ったことがほんとうであったと知りました。けれども、このときはまだ、主イエスが復活されたとは思っていませんでした。
二人は、この出来事を受け止めきれないまま、家に帰って行きました。ところが暫くすると、マグダラのマリアがまた、血相を変えて飛んで来て告げたのです。「わたしは主を見ました(20:18)」! そして、甦られた主イエスから言われたことを伝えました。けれども、弟子たちはユダヤ人を恐れて、一つの家に集まって、誰も中に入って来られないように、家の扉にも窓にも、鍵をガチャ、ガチャとかけて、閉じこもってしまったのです。
「弟子たちはユダヤ人を恐れ(20:19)」ました。主イエスのご遺体がなくなった。「これはもしかしたら我々を犯人に仕立て上げ、捕まえて殺すための陰謀かもしれない。」そんなふうに思ったのかもしれません。また、もしかすると弟子たちは、自分たちでも気づいていないような心の奥深くで、主イエスをも恐れていたのかもしれません。「わたしたちは、主イエスを裏切り、見捨て、見殺しにした。もしも、主イエスが復活されたというのがほんとうなら、裏切りの罪を裁かれるかもしれない。」弟子たちは、あらゆる恐れに心を閉ざし、家の中にたてこもって、ガタガタ震えていたのです。
わたしたちにも、弟子たちの気持ちは想像がつきます。わたしたちも心の戸をピシャッと閉じてしまうことがあります。犯してしまった罪の自覚が深ければ深いほど、あの日の過ちは、誰にも見せたくない。自分でも忘れてしまいたい。弟子たちが家の戸に鍵をかけて閉じこもった姿は、まさにわたしたちが自分の罪を隠そうとする姿と重なります。そこへ、甦りの主イエスがやって来られたのです。
今朝の教会学校の子どもたちとのイースター墓前礼拝でも、同じヨハネによる福音書 第20章19節から23節の み言葉の話をしました。わたしが小学生のときは、イースターの朝は毎年、鎌倉の源氏山という小高い山の上で礼拝をまもっていました。そして、復活のイエスさまの身体はどうなっているのか?と不思議に思っていました。復活されたイエスさまは透明人間みたいに入って来られたのかな?と考えたり、弟子たちは本当に驚いただろうな?などと思ったものです。弟子たちは戸に鍵をかけていました。鍵が開く音、ギーっと戸が開く音もしないのに、気がついたら、甦りの主イエスが立っておられた。それも、弟子たちの真ん中に、立っておられたのです。
弟子たちは、「イエスさまが化けて出てこられた!」と思ったかもしれません。「お前たちは、なぜあのとき、わたしを見捨て、見殺しにしたのか。」と、叱られてしまう。いや、呪い殺されてしまうかもしれない。血の気が引いて、真っ青になりました。けれども主イエスのひと言で、みるみるうちに血の気が戻ったのです。甦りの主は、こうおっしゃいました。「あなたがたに平和があるように(20:19)」。それは、毎朝、主イエスと交わしていた挨拶の言葉でした。「あなたがたに平和があるように」。
主イエスが実際に語られた言葉、アラム語で「シャローム」という言葉です。シャローム。皆さんもどこかで聞いたことのある言葉だと思います。シャロームとは、「平和があるように」という意味の、日常の挨拶です。そしてこの挨拶の言葉の根っこにあるのは、「神さまが共におられる時、その時こそが平和」という心です。弟子たちはこの言葉によって、幽霊などではない、紛れもなく甦られた主イエスがわたしたちと共におられる。今、わたしたちの真ん中に立っておられるのだ、と分かったのです。主イエスは、自分を見捨て、見殺しにした弟子たちに、何よりもまずただひと言「シャローム」と声をかけられました。「大丈夫。もう恐れなくていい。何も心配しなくていい。あなたがたの罪は赦された。神さまは決して、あなたがたをお見捨てにならない。わたしがあなたがたと共にいる。だからあなたがたは平和だ。平安だ。脅えることはない。恐れることもない。あなたの罪は赦されたのだ。」弟子たちは、主イエスから罪の赦しの宣言を受けたのです。
主イエスは、手とわき腹とをお見せになりました。手には釘の痕があり、わき腹には槍で刺された傷があります。弟子たちは、改めて、自分たちが見殺しにした罪に心の傷がうずいたことでしょう。同時に、だからこそ、「シャローム」という赦しの言葉が心に迫ってきました。「このお方は、幻ではない。幽霊でもない。わたしたちと共に生活してくださり、祈ってくださり、励ましてくださり、慰めてくださった わたしたちの主、イエス・キリストだ!イエスさまは、十字架で死なれた。そして今、わたしたちを呪う言葉でなく、生かす言葉、平安を与える言葉、罪の赦しの宣言『シャローム』を告げてくださっているのだ。」
これは弟子たちが経験した出来事ですが、すべてのキリスト者に訪れた救いの瞬間の出来事と相違ありません。キリスト者とは、立派な人たちの集まりなどではありません。主の十字架によって罪を赦していただいた。「シャローム。あなたがたに平和があるように。あなたの罪は赦された。大丈夫、わたしがいつも共にいる。安心して行きなさい。」と言っていただいた者たちです。主イエスはすべての人を招いておられます。まだ洗礼を受けておられない方、小児洗礼を受けて信仰の告白を終えていない方。主イエスは「シャローム。あなたがたに平和があるように。あなたの罪は赦された。安心して行きなさい。」と、釘の痕のある手と わき腹の傷をお見せになりながら、赦されて生きる平安の中へと招いておられます。「わたしを信じて欲しい。わたしの仲間になって欲しい」と呼んでおられるのです。
主イエスは重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。(20:21)」そして続けて言われました。「父がわたしを お遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。(20:21)」
加藤常昭先生の説教集には、こう書かれていました。「『父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』という言葉は、私どもすべてに当てはまります。ここに用いられている『遣わす』という言葉から英語のエンジェルという言葉が生まれました。私どもは、主イエス・キリストの罪の赦しの恵みを告げて歩く天使になるのです。」神さまがわたしたちを赦すために主イエスを遣わしてくださったように、わたしたちも、誰かを赦すために天から遣わされているのです。わたしたちは罪を赦していただいたから、今度は、周りの人々への天使となって、赦しを届けに行くのです。
主イエスは、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言われてから、弟子たちにフ~っと息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。(20:22~23)」毎週の執り成しの祈りの冒頭で「わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。」と父なる神さまに祈るのは決して決まり文句ではないのです。本当にそうなのです。甦りの主イエスは、互いに赦し合うことができないわたしたちのことをよくご存知です。だから言われるのです。「聖霊を受けなさい。」と。自分の力であの人、この人を赦そうと思っても、それは無理。聖霊の助けが必要なのです。
甦りの主イエスは、今日も明日も、永遠に、わたしたちにフ~っと息を吹きかけてくださる、聖霊を注いでくださる。そのとき、わたしたちは、罪の赦しを告げる天使になれるのです。
今日も甦りの主イエスは、「シャローム。わたしはあなたを赦した。いつも、あなたと共にいる。あなたに平和があるように。そして聖霊を受けなさい。」と命の息を吹き入れてくださいます。そして、今日も、あの人、この人のもとへと遣わしてくださるのです。そのとき、たとえ相手が苦手だなと思う人であっても、聖霊の働きを信じて、まず「シャローム」と挨拶を交わす。それから互いに肩を並べて座る。甦りの主イエスを見上げて。わたしたちの真ん中に、甦りの主イエスが立っておられます。わたしたちの罪は赦されました。だから、わたしたちは平安です。互いの罪を裁き合う者から、互いの罪を赦し合う者として用いてくださる主イエスを、吹きかけてくださる聖霊の力を、信じきることができますように。
只今から聖餐の食卓に与ります。聖餐に与る時、甦りの主イエスが弟子たちに吹きかけてくださった同じ息が、わたしたちにも吹き入れられます。わたしたちの罪は赦され、永遠のいのちに生きているとの確信が与えられます。驚くばかりの恵みをいただいた者として、甦りの主イエスが命じられたように、罪の赦しを告げて歩く天使として、ここから歩み出して行きましょう。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる御神、甦りの主イエスが、今日も、わたしたちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と語ってくださいましたから感謝いたします。あなたの平和、平安を知っている者として、互いの罪を裁き合う者ではなく、互いの罪を赦し合う者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、教会から離れ、罪の思いに縛られている者がいましたら、甦りの主イエスが「あなたがたに平和があるように」と声をかけてくださり、手を差し伸べてくださっていることを、しっかりと信仰の心をもって受け入れることができますように。病床の闘いの中にある者に、人生の闘いに疲れている者に、「恐れることはない。甦りの主は共にいてくださる」との確信を与えてください。主よ、兄弟姉妹たちのために祈り、赦す心を与えてください。理解されることよりも、理解し、受け入れることを学ばせてください。自分の強さを誇るより、弱さを嘆き、助けを求めている人の助けとなることを、自分の恵みとすることができますように。隣人に赦しを届け、平和をつくることができますように。とくに、国々の指導者たちの心を、あなたの みもとへと導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年4月2日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第69篇8節~16節、新約 ヨハネによる福音書 第2章13節~22節
説教題:「神の家に生きる恵み」
讃美歌:546、72、191、Ⅱ-1、Ⅱ-99、541

今日は棕梠の主日です。今日与えられております み言葉は、「主イエスによる宮清め」と呼ばれる出来事を伝える記事ですが、ヨハネ以外の福音書は、これを棕梠の主日の翌日のこととして記しています。2023年度最初の礼拝、また受難週礼拝の日に、この み言葉が与えられたことに、神さまのお導きを感じます。
主イエスは、カナでの婚礼に出席された後、母、兄弟、弟子たちとガリラヤ湖畔のカファルナウムに幾日か滞在されました。その後、ユダヤ人の過越祭が近づいたので、エルサレムへ上って行かれたのです。過越祭とは、ユダヤ教の三大祭りの一つで、モーセが、エジプトの奴隷状態にあったイスラエルの民をエジプトから救い出した出エジプトの出来事を記念する重要な祭りです。ユダヤ人は、この祭りに合わせてエルサレムに上り、神殿に詣でることを大切にしていました。
エルサレム神殿は、柱廊に囲まれており、その内側は広い庭になっておりました。この庭は、異邦人でも入ることができたので、「異邦人の庭」と呼ばれていました。そこには、神さまへの献げ物とする羊や鳩などを売っている者たちや、両替をしている者たちがおりました。祭りのためにエルサレムに上ってくるユダヤ人たちは、遠い土地から何日もかけて旅をして来ます。その人たちが献げ物にするための羊や鳩などを運んで来るのは大変です。また、外国在住のユダヤ人にとっては、通貨の両替が不可欠。そのような人たちのために便宜をはかっていたのです。そこに、主イエスがやって来られました。そして、商売をしている者たちに鋭い眼差しを向けられたのです。主イエスは、「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われ」ました。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
商売人たちは皆、許可を貰って商いをしていたのでしょうから、訳が分からなかったに違いありません。また弟子たちも、主イエスの行動に、度肝を抜かれたことでしょう。わたしたちも、何もそこまでしなくても、という思いを抱きます。
スイスの改革者カルヴァンは、主イエスの行動をこのように註解しています。「キリストには別の思惑があったのだ。(中略)すべてのひとたちが かれの教えに注意深くなるためには、なにかあたらしい思いがけない行為によって、錆びつき眠りこけているかれらの精神を、目ざめさせなければならなかったのである。」確かに、わたしたちも、今までの慣習に従って行動することがほとんどです。日曜日に教会へ行くことが、習慣になっていることは悪いことではありません。けれども、主イエスの十字架の恵みが当たり前になっていないだろうか?十字架の恵みに慣れ、心が錆びつき、眠りこけていないだろうか?今朝、わたしたちは問われています。なぜ、主イエスはこんなにも激しくお怒りになられたのだろう?教会が神さまの家であることをわきまえているだろうか?信仰が錆びつき、心の目が眠りこけていないだろうか?わたしたちは、主イエスからの問いに立ち止まり、思い巡らさなくてはなりません。
弟子たちは、ある み言葉を思い出しました。「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」。これは、今朝の旧約聖書 詩編第69篇からの引用です。改めて10節を朗読いたします。「あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしているので/あなたを嘲(あざけ)る者の嘲りが/わたしの上にふりかかっています。」もしかすると、弟子たちがこの詩編の み言葉を主イエスと重ねて思い出したのは、主イエスが人々から嘲られ、十字架で死なれ、三日目に甦られた後だったかもしれません。そのときになって初めて、主イエスの、神殿に対する熱情が、祭司長たち、ファリサイ派の人々の敵意に火をつけ、十字架の死をもたらしたのだと、主イエスのこのときのご様子を詩編の み言葉に重ねて、思い至ったのではないかと思います。「食い尽くす」とは、文字通り「食べてなくしてしまう」ことです。「殺す」と訳す場合があれば、「焼き滅ぼす」と訳す場合もあります。主イエスは、父なる神さまの家である神殿を、ご自分の命をもって建て直そうとされました。それは、父の家である神殿が商売の家のままであるなら、誰も救われないからです。羊や鳩を屠り、献げても、あるいは高額な献金を献げても、礼拝にふさわしい、打ち砕かれた魂がないのであれば、意味がないのです。
主イエスは、カナでの婚礼で母マリアに言われました。「わたしの時はまだ来ていません。(2:4)」この時、すでに主イエスは、ご自分の時、つまり十字架の死と復活の時を見据えて、歩み始めておられました。主イエスは、心が眠りの中にある人々の目を覚まさせ、神殿とは、建物ではなく、主イエスご自身であることを人々に伝えるために、このような激しい行動をとられたのです。後の伝道者パウロは、「あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です。(コリントの信徒への手紙一12:27)」と言いました。教会は、神さまの家であり、キリストの体です。主イエスの十字架と甦り、罪の赦しと永遠の命を信じる者の群れです。一人一人が、心の目を開き、キリストの体の部分として、祈りの家を形作っていくのです。
けれども、エルサレムに住むユダヤ人たちは、ナザレの大工の息子イエスを見下して、こう言いました。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」。完全に上から目線で「しるし」を求めたのです。
ヨハネによる福音書には、「しるし」という言葉が、要所要所に登場します。皆、目に見える「しるし」を求める。その「しるし」次第では、「ナザレのイエス、お前をメシア、救い主、キリストと認めてやってもよい。お手並み拝見といこうじゃないか」、というわけです。
ヨハネによる福音書 第12章には、棕梠の主日に、主イエスがろばの子を見つけてお乗りになり、エルサレムに入城され、「多くのしるしを彼らの目の前で行われた(12:37)」とあります。それでも、「彼らはイエスを信じなかった。(12:37)」のです。さらに、その先にはこう書いてあります。「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。(12:42~43)」わたしたちの罪がはっきり示されている箇所の一つです。この世の権威を振りかざし、「どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と見下す心は、わたしたちと無縁ではありません。こんなに祈っているのに答えが与えられない。「しるし」が与えられない。そう言って、主イエスを疑う。また、この世の誉れを求める。見えない神さまに褒めてもらうより、ひとから称賛されたい。重んじられたい。大切にされたい。そのようなわたしたちの罪を、主イエスはご存知であられます。だからこそ、まことの救いの「しるし」をわたしたちに与えるために、主イエスは、十字架の死と三日目の甦りに向かって、歩みを進められるのです。主イエスは、まことの救いの「しるし」である十字架の死と甦りを見据えつつ、答えて言われました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
ユダヤ人たちは、主イエスが御自分の体のこと、死者の中からの復活について語っておられるとは思いもせず、こう反論しました。「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」。彼らにとって神殿とは、目の前にある壮麗な神殿でした。しかし、主イエスが三日で建て直すとおっしゃっているのは、そうではありませんでした。主イエスは宣言してくださったのです。「『わたしの時』が来れば、あなたがたはわたしを十字架の上で壊し、食い尽くす。しかし、わたしの体は、三日目の朝、父なる神によって復活させられる。そして、このことを信じてわたしの名のもとに集められた者たちによって、わたしの体である教会が形作られるのだ。」
わたしたちはそのように集められて、今朝、受難週礼拝をささげております。わたしたちの罪のために、主イエスが担ってくださった み苦しみをおぼえ、イースターに備えます。わたしたちは、ひとからの誉れに心を奪われていないだろうか?また、主イエスの眼差しを忘れ、ひとの視線に気を取られていないだろうか?何より、わたしたち自身がキリストの体であることを忘れ、互いに裁き合っていないだろうか?互いのためにどれだけ祈っているだろうか?自分自身に問いつつ、この大切な一週間を過ごしていきたいと思います。この問いの前に、わたしたちは皆、うなだれるしかない者たちです。しかし、だからこそ顔を上げ、主イエスの十字架を仰ぐ。すると、十字架で食い尽くされた主イエスのお姿が迫ってまいります。主イエスは十字架に架けられながら、「わたしは、わたしの命をもってあなたがたを赦したのだ。だからわたしの元に来なさい。わたしの体を共に作って欲しい」と、わたしたちを招いておられます。このあと、主の血潮によって示された救いの「しるし」である聖餐に与ります。赦しの「しるし」である主の食卓です。主イエスは、「これは、あなたのための祝いの食卓だ。ぜひこの食卓を一緒に囲んで欲しい。」とすべての人を招いておられます。主イエスの十字架による救いを信じ、洗礼を受ける者は誰でも、この食卓につくことができます。誰もが、キリストの体の部分となるために招かれています。もしも今、洗礼を受けることをためらっている方がいましたら、どうぞ、わたしたちと一緒に主の体をつくる者となっていただきたい。そして、神の家に生きる恵みを共に喜びたい。心から願います。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる神さま、今朝の み言葉を通して、主イエスが十字架で死ななければならなかった理由を心に刻むことが許され、感謝いたします。あなたは み子を十字架に架けるほどに、熱情を持ってわたしたちを愛し、あなたの家に生きる恵みをお与えくださいましたから感謝いたします。主よ、あなたの家に生きる恵みを知らない者が、聖霊の注ぎにより、信仰告白、洗礼を決断し、共に聖餐に与ることができますよう導いてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。ここに来ることができない人びとのために祈ります。誰もが、教会の祈りに支えられ、あなたに支えられていることの確信を得、力を得ますように。共に祈り合う群れをここに作らせてください。その祈りが、世界の教会、この国の教会のためのものとなり、共に生きる多くの人びとのためのものとなりますように。裁きではなく、赦すことから、共に生きる歩みが始まることを学ばせてください。わたしたちの愛の手が及ばないでいる人びとのためにも、それでも祈り続けることを止めることがありませんように。来週のイースター礼拝に、心身の健康が守られ、愛する仲間たちが礼拝に出席できますよう、聖霊を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年3月26日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第124篇1節~8節、新約 ヨハネによる福音書 第2章1節~12節
説教題:「神が、ここにいてくださるから」
讃美歌:546、79、121、296、540

ヨハネによる福音書を1月22日から読み始めて2ヶ月、今日から第2章に入ります。第2章の最初の み言葉は、主イエスが公に最初になさった奇跡を伝える「カナでの婚礼」です。結婚式。人生の中でいちばん華やぐ一日と言ってもよいかもしれません。その華やかな喜びの席に主イエスが出席なさっていました。主イエスの母マリアもいたといいますから親戚の婚礼であったかもしれません。
結婚式の主役は、一般的には花嫁と言われます。けれども、このエピソードに花嫁は登場しません。花婿が出てくるのも1回だけ。主イエスによって水がぶどう酒に変えられたことを知らない婚礼の世話役が花婿を呼び、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。(2:10)」と言った場面で「花婿」が登場するだけです。ここに描かれているのは、華やかな祝宴を表とするならば、その裏側で起こった出来事です。祝宴の、言ってみれば裏方として、花嫁も花婿も知らないところで、主イエスが神さまの み力を現されたのです。何だか不思議な感じがいたします。主イエスが公に初めてなさった奇跡が、病気を治すのでもない。歩けない人を立ち上がらせるのでもない。少々当てが外れるような気がしないでもありません。もしかしたら、わたしたちはそんなふうに、何か悲しいとき、苦しいときこそ主イエスが必要だと思っているのかもしれません。けれども主イエスは、わたしたちの喜びのときにも共にいてくださり、わたしたちの喜びも守ってくださる方です。
わたしも、結婚式の司式を行ったことがありますが、たいへん緊張いたします。失敗がないようにと普段以上に気を遣う。このカナでの婚礼を催した家でも、細心の注意を払って準備し、十分な量のぶどう酒を用意していたに違いありません。ところが、見込みが外れてしまったのです。結婚式の祝宴という新しい門出の席で、思いがけず躓きそうになっている。けれどもそこに、主イエスがいてくださいました。
この時代、女性は祝宴に出られませんでした。ですから主イエスの母マリアは、この祝宴の手伝いをしていたのでしょう。ぶどう酒が足りなくなりそうなのに気がついて、息子を呼び、困っていると伝えました。「ぶどう酒がなくなりました。あなたなら、何とかできるでしょう。」マリアも、今、聖書を読んでいるわたしたちも、期待する主イエスの返事は、このようなものだと思います。「愛するかあさん、わかりました。なんとかしましょう」。ところが、主イエスは、わたしたちがまったく予想もしない言葉を返されたのです。「婦人よ、わたしと どんなかかわりがあるのです。わたしの時は まだ来ていません。」ずいぶん冷たい返事です。もしわたしなら、あまりのショックに言葉を失うでしょう。「どうして、こんな子になってしまったのか。」しかし、マリアはそうではありませんでした。息子のつれない言葉に、一瞬「エッ?」とは、思ったかもしれません。けれどもマリアの次の行動は、揺るぎない信頼に満ちています。
マリアは召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、その とおりにしてください」と告げたのです。ヨハネによる福音書は、マリアについて多くを語っていません。ここにはただ、マリアの信頼だけが語られています。信仰と言ってよいと思います。息子に不思議な力を授けておられる神さまを信じていたのです。期待していた返事が返ってこなくても、息子の言葉の意味がよくわからなくても、揺るがない、まっすぐに信じるマリアの心を、わたしたちの心としたい。祈っても祈っても、自分の期待するような答えを神さまからいただけないとき、マリアのようにただ信じて待つ者でありたいと願います。
主イエスはおっしゃいました。「わたしの時はまだ来ていません」。「わたしの時」とは、父なる神さまが定められたとおりに、主イエスが「神の小羊」としての務めを果たされるとき。十字架で息を引き取られる時です。主イエスは天の神さまの独り子として神さまの懐(ふところ)におられたのに、争い悩むわたしたちすべての者の罪を赦すために地上に降(くだ)り、人間として生まれてくださいました。人の罪をすべて背負って十字架に架けられて死ぬ。それが、神さまによって定められた時であり、ミッションであったのです。だから、マリアの息子として穏やかに暮らして人生を全うするわけにはいかないのです。主イエスはここで、その覚悟を示しておられるのです。
母マリアは召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言いました。主イエスは召し使いたちにおっしゃいました。「水がめに水をいっぱい入れなさい」。召し使いたちは、ユダヤ人が清めに用いる六つの石の水がめの縁(ふち)まで水をなみなみと満たしました。そこで主イエスは召し使いたちに言われたのです。「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」。召し使いたちは、言われた通りに、それをくんで宴会の世話役のところへ運んで行き、世話役が味見をすると、今まで一度も味わったことのないほどの良いぶどう酒でした。六つの水がめは、「いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。」と書いてあります。1メトレテスは、約39リットル。一つの水がめに2ないし3メトレテスですから、少なくとも78リットル。それが六つで、468リットル。一升瓶は1.8リットルですから、一升瓶にして、260本以上になります。当時の婚礼の祝宴は一週間も続いたのだそうですが、飲み切ることは不可能だったことでしょう。細かい計算はさておき、これは、主イエスから頂く恵みが、とんでもない量であることを示しています。表面だけ読むと、主イエスは母マリアに対し、何て冷たいのか、と思ってしまう。けれども、実際には、母の願いも叶えられ、幸せな祝宴は何事もなく進行したのです。
主イエスは、この「最初のしるし」をガリラヤのカナで行われました。水を良いぶどう酒に変え、「その栄光を現された」と書かれています。この奇跡を見た弟子たちは、主イエスを信じる者とされました。わたしたちは、タイムマシーンに乗って、主イエスが水をぶどう酒に変えられた婚礼に出席することはできません。けれども、これまでのわたしたち自身の歩みを振り返るとき、主イエスの「しるし」、驚くばかりの恵みを、繰り返し、見せて頂いてきたのではないでしょうか。あるいは見えていなくても、守っていただいてきたのではないでしょうか。花嫁も花婿も招待客たちも、この出来事を知りませんでした。知っていたのは母マリアと召し使いたち、そして弟子たちだけです。花嫁も花婿も、気づいていないところで、神さまの力に守られていたのです。神さまは、わたしたちが「もう駄目だ」と思うときにも、気づかないでいるときにも、いつも一緒にいてくださるのです。信仰とは、そこで働いてくださる神さまのご栄光のしるしを見る目です。また、神さまなんかいないんじゃないかと思われるような現実の中でも、マリアのように信じて待つ心です。
結婚式は、そのようにいつも一緒にいて新しい家庭を導き、支えてくださる神さまを礼拝するときです。結婚式では、牧師として結婚の誓約を新郎新婦に求めますが、そのたびに、自らの結婚生活を振り返ります。「健やかな時も、病む時も、愛し、敬い、慰め、助け、いのちのかぎり、堅く節操を守ります。」その誓約を日々、どれだけ心に留めて生活しているだろうか?うなだれるしかありません。そのようにわたしたちは、自分の生活を自分の力で立派に生ききることはできません。結婚式の祝宴ひとつとっても、何が起こるかわからないのです。そこから始まる夫婦の生活も、思い通りに行かないことの連続です。愛しているはずの人を、深く傷つけてしまうことが起こる。ぶどう酒がなくなってしまったように、なくならないと思っていた愛の力が、気づいたら互いを赦せず、責め合い、枯れ果てていた、ということが起こりかねない。でも、そのときに、主イエスは水をぶどう酒に変えるように奇跡を行ってくださる。愛を与え、守ってくださるのです。主イエスはそのために、天の父なる神さまの懐(ふところ)から、わたしたちの世に来てくださいました。そして神さまは、主イエスにわたしたちの罪をすべて背負わせ、十字架に架け、主イエスの命と引き換えに、わたしたちを赦してくださったのです。すべては、わたしたちが互いに赦し合うために。愛し合うために。そのようにして神さま、主イエスは、わたしたちの喜びの生活を守ってくださる。いつでも、わたしたちの間にいてくださるのです。わたしたちの愛を守り、導いてくださる神さまに信頼する心を、神さまの栄光のしるしを見る目を、日毎に求め続けたいと思います。

<祈祷>
 主イエス・キリストの父なる神さま、み子 主イエスが、婚礼の席で、「わたしの時はまだ来ていません」と語られた覚悟を忘れることのないようにしてください。み子は、どんなときも十字架の死を覚悟して、あなたの御心に従ってくださいましたから、感謝いたします。この主イエスの救いを信じ、主の ご栄光をわたしたちの心にはっきりと映すことができますように。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。2022年度、最後の主日を迎えることが許され、深く感謝いたします。今年度の歩みを振り返るとき、教会から遠ざかっている者たちを思います。主よ、愛する者たちがどこにあってもあなたが共におられる喜びを忘れることのないよう聖霊を注いでください。家族を顧みてください。友人たちを祝福の中に置いてください。今もいたるところで争いが続いています。どうか、世界から憎しみの心を取り去ってください。怒りの心を和らげてください。誰もがあなたの み子の十字架によって罪赦された存在と信じ、わたしたちもあの人、この人の過ちを裁くのではなく、共に十字架の赦しに生きることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年3月19日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第32篇1節~5節、新約 ヨハネによる福音書 第1章43節~51節
説教題:「主に知られている恵み」
讃美歌:546、72、Ⅱ-83、249、539

先週は、ヨハネの弟子であった二人と、そのうちの一人アンデレの兄弟シモンが主イエスの弟子となり、シモンが主イエスから「岩」という意味の名前をいただいた箇所を読みました。その翌日、主イエスはガリラヤへ向かおうとしておられました。ちょうどそのとき、フィリポという名の青年に出会いました。フィリポは、アンデレとシモン・ペトロ兄弟と同じベトサイダの出身であった、とありますから、噂を聞きつけて朝一番に訪ねて来たのかもしれません。主イエスはフィリポに出会っておっしゃいました。「わたしに従いなさい」。主イエスから声をかけていただいたフィリポは、早速、ナタナエルのもとへ向かいました。主イエスが出会ってくださったことで、伝道が始まったのです。「出会って」と訳されている言葉は、「発見した」という意味の言葉でもあります。主イエスが弟子たちを発見し、出会ってくださったところから伝道が始まりました。主イエスがわたしたち一人一人を発見し、出会ってくださったそのルーツを辿っていくと、今日の み言葉に辿り着く。そう思うと、わくわくしてきます。
まず洗礼者ヨハネから「見よ、神の小羊だ」と主イエスを示された二人の弟子。そのうちの一人、アンデレから兄弟シモンへ。そしてアンデレとシモン・ペトロ兄弟と同郷のフィリポも主イエスから「わたしに従いなさい」と招かれて弟子となり、今度はフィリポからナタナエルへ。その経緯は詳しく書かれてはおりませんけれども、フィリポは喜んで、「イエスさまちょっと待っててください。今、もう一人呼んで来ますんで!」そう言ってイエスさまの返事も待たずに飛び出して行ったのではないか。想像が膨らみます。
フィリポは、ナタナエルに出会って言いました。45節。「『わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。』」フィリポはナタナエルに、主イエスを「預言者たちも書いている方」、つまり旧約聖書が到来を預言している「救い主」として紹介しました。その人は「ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と。しかし、ナタナエルの反応は、これまでの弟子たちとは明らかに違うのです。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」。偏見に満ちた呟きです。ナタナエルという名前は、ヨハネによる福音書にのみ登場しますが、主イエスの12人の弟子の一人の、バルトロマイと同一人物だと言われております。他の福音書がバルトロマイと呼ぶ人物を、ヨハネ福音書だけがナタナエルという名前で呼んでいるのです。ナタナエルは、ヘブル語の「ナータン」と「エル」が結びついた名前です。「ナータン」は「与える」という動詞。「エル」は「神」を表わすので、「神さまが与えてくださる」という意味になります。ヨハネによる福音書は、「神さまが与えてくださる」という意味をもつこの名前をわざわざ用いているのです。
その理由を探しながらヨハネ福音書を読み進めてまいりますと、第17章に行き当たります。主イエスが、最後の晩餐を弟子たちと一緒になさったときの祈りの み言葉です。主イエスが、弟子たちの足を洗って、互いに愛し合うことを教えてくださったあとで、神さまに祈られたのです。そこに、「わたしに与えてくださった人々(17:6)」あるいは「ゆだねられた人(17:2)」という言葉が出てきます。これらは原文では同じ言葉で、弟子たちのことを指します。弟子たちのことを主イエスは、神さまが「わたしに与えてくださった人々」と呼んでおられるのです。「神さまが与えてくださる」即ち、ナタナエルの名前の由来です。主イエスは、十字架の死を目の前に見据えながら、ナタナエルを始めとするすべての弟子たちのために「神さま、あなたがわたしに与えてくださった者たちを守ってください」と祈られたのです。ヨハネによる福音書を書いた福音書記者は、わたしもナタナエル。福音書を読むあなたがたもナタナエル。そのような思いで、あえて、この名前で記したのではないかと思います。
 とは言っても、ヨハネ福音書において、ナタナエルの名前が繰り返し登場するのかと言うと、この後に登場するのは、ずっと先、主イエスがお甦りになった後、ガリラヤ湖畔でもう一度弟子たちに出会ってくださった時、そこに居合わせた者として登場するだけです。第21章冒頭を朗読いたします。どうぞ、そのままお聞きください。「その後(のち)、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。(21:1~2)」
福音書の最後の最後にナタナエルがガリラヤのカナの出身であることがわかります。カナと言えば、来週ご一緒に読む予定にしております み言葉、カナでの婚礼が行なわれた場所です。カナもナザレもエルサレムから直線距離にして100㎞以上離れたガリラヤ地方の小さな村でした。そしてガリラヤ地方からは、熱狂的な狂信者や、ニセモノの自称「救い主」が何人も出ていたと言われています。だからナタナエルは、「あんな所から救い主が出るはずない」と呟いたのかもしれません。
さて、フィリポの伝道の情熱はそのようにナタナエルに水を差されましたが、消えることはありませんでした。「まあそう言わず、わたしと一緒に来て見て欲しい。来て見ればわかるから」と熱心に誘いました。ナタナエルは半信半疑でしたが、フィリポと一緒に歩き始めました。すると、そこには、主イエスのまなざしが待っていました。主イエスは、ナタナエルが ご自分の方へ来るのをご覧になり、驚くような言葉を発せられました。「見なさい。まことのイスラエル人(じん)だ。この人には偽りがない。」
ナタナエルは、初めて主イエスに出会うのに、主イエスは、ナタナエルのすべてをご存知のように、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と評されました。ナタナエルはびっくりして、言いました。「どうしてわたしを知っておられるのですか」。主イエスは答えて言われました。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」。いちじくの木の下にいる。そこに座る。というのは、み言葉を学ぶということや、平安をも意味したと言われています。ナタナエルが全く罪を犯したことのない人であった、ということではないと思います。自分の心の貧しさをよく知っていたからこそ、神さまの み言葉を慕い、学び、そこに平安を見出していたのでありましょう。このとき、ナタナエルは、主イエスを疑う者から、主イエスを信じる者へと変えられました。「この お方は、人知れず み言葉を慕うわたしを知っていてくださった。」その喜びの中で、ナタナエルは言いました。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
主イエスも、ナタナエルの信仰告白に応え、祝福に満ちた約束を告げられました。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降(くだ)りするのを、あなたがたは見ることになる。」
主イエスからナタナエルへの約束です。そしてこれは、主イエスから、わたしたちへの約束でもあります。その根拠は、「あなた」から「あなたがた」への変化です。50節で、「もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」と主は言われました。それが、続く51節では、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降(くだ)りするのを、あなたがたは見ることになる。」と「あなた」から「あなたがた」に変化しているのです。今、わたしたちも、ナタナエルと共に、主イエスに知っていただいている喜びの中で、主の約束の言葉を聞かせていただいているのです。
東海道線の保土ヶ谷駅からバスで2~30分ほどという少々不便な丘陵地に、英連邦戦死者墓地があります。広々とした芝生が広がり、季節には一つ一つの墓碑に添えて植えられたバラの花が美しい公園墓地で、第二次世界大戦時に日本軍の捕虜となり、そのまま収容所で亡くなった1,873人の兵士の墓が並んでいます。名前が掘られた墓碑もあれば、いわゆる無名戦士の墓も、たくさんあります。けれども、その無銘の墓の一つ一つには、「KNOWN UNTO GOD(神に知られている)」と彫られているのです。誰に知られていなくても、神が知っていてくださる。神から主イエスにゆだねられている。慰めに満ちた言葉です。この恵みから漏れる人は一人もいません。それなのに、人は相変わらず敵味方に分かれて戦っている現実があります。そのように、神さまの愛を受け入れないわたしたち人間の罪が、主イエスを十字架に追いやりました。それでも、主イエスは、「平安の中へ帰っておいで」と招いてくださるのです。罪を犯したわたしたちではなく、主イエスご自身が、十字架で血を流され、その み手をのべて、招いてくださるのです。主イエスが、ナタナエル、そして、わたしたちにしてくださった約束は、夢や幻ではありません。主イエスは約束のとおり、ご自分の死によって、神さまとわたしたちとの間を隔てる壁を打ち砕いてくださいました。主イエスの十字架によって、天が開けたのです。この約束を信じて、神さまの愛を受け入れて、主イエスに従うとき、わたしたち神さまの子としていただいて、いつも主と共に在る平安の内を歩ませていただけるのです。
主イエスを知る前のナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と呟いたように、わたしたちもまた、すぐに神さまの救いの約束を疑い、呟く者です。「そんな約束は、夢や幻にすぎない」と呟く。しかし主イエスは、わたしたちを知っていてくださり、諦めることなく、どこまでも探し求め、出会い、救ってくださいます。誰に知られていなくても、主が知っていてくださいます。疑い、呟く者をも、神さまから与えられた者として、神さまからゆだねられた者として、主イエスはわたしたちを受け入れ、本来、わたしたちが受けるべき審きをわたしたちに代わって十字架で受けてくださいました。そして「わたしに従いなさい」と招いてくださっています。天の神さまといつも繋がっている、その平安の中へ導いてくださるのです。

<祈祷>
天の父なる御神、わたしたちに注がれている主イエスのまなざしに、すべての者が気づくことができますように。み子は、呟くナタナエルにも、あなたを慕い、救いを求める信仰を見出し、「あなたには偽りがない。」と認めてくださいました。誰に知られていなくても、自分で自分を見失うようなときでも、あなたがわたしどもを知っていてくださいます。その深い恵みと慰めを、日々、思い起こし、あなたに立ち帰る者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、この地上、この世界を顧みてください。誰もが争うこと、殺し合うことの愚かさをよく知っていながら、争いが続き、争いの準備に多くの富を費やしています。主よ、一日も早く武器を捨て、すべての者があなたの愛に生きる者、あなたの平和に生きる者となることができますように。主よ、病のため、争いのため、自然災害のため、健康を損なっている者、心に深い傷を負っている者を特別に み心のうちに置いてください。誰一人、わたしのことなど祈ってくれていないと思わざるを得ない中にあって、それでも、神さまはわたしのことを知っておられる。イエスさまは、日々、わたしのために執り成して、祈っていてくださると信じる信仰を日々、お与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年3月12日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第31章27節~34節、新約 ヨハネによる福音書 第1章35節~42節
説教題:「キリストのまなざしの中で」
讃美歌:546、71、164、243、545B、427

 洗礼者ヨハネが二人の弟子と一緒におりましたところ、主イエスが歩いておられるのが見えました。ヨハネは主イエスをじっと見つめて言いました。「見よ、神の小羊だ」。それを聞いて、ヨハネの弟子であった二人は、ヨハネから離れ、主イエスに従いました。
 主イエスは、このヨハネの弟子であった二人の男が、従って来る気配を感じられたのでしょう。振り返り、二人をご覧になって、言われました。「何を求めているのか」。この一言が、ヨハネによる福音書における、主イエスの第一声です。「何を求めているのか」。第一声ですから、深い意味があるに違いありません。
今朝も、説教の後の「執り成しの祈り」に続いて、主イエスが教えてくださった「主の祈り」を祈ります。マタイによる福音書には、このように書かれています。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。』(6:8~9)」そうです。父なる神さまは、わたしたちが願う前から、わたしたちに何が必要なのかご存知であられます。主イエスも、真の神さまであられますから、わたしたちが願う前から、わたしたちに必要なものをご存知でいらっしゃいます。けれども、主イエスは、「神さまはわたしたちが願っていることをすべてご存知だから何も祈る必要はない」とはおっしゃいませんでした。祈ることを教えてくださいました。言葉に出して、神さまに求めることの大切さを教えてくださいました。そしてその祈りに、神さまが耳を傾けてくださることを、教えてくださいました。それと同じように、主イエスは「何を求めているのか」と尋ねてくださるのです。ご自分に従いたい、と願うすべての者に、振り返って、まなざしを向けてくださるのです。
 二人は、主イエスからの質問に、質問で答えています。「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」。ラビとは、律法の「先生」という意味の言葉です。これまでは洗礼者ヨハネを「先生」と呼んでいた。しかし、「これからは、わたしたちの先生は、イエス先生。」そんな思いで、「先生」と呼びかけました。それにしても「何を求めているのか」という問いに対して、「どこに泊まっておられるのですか」との質問で返すのは、少々 間が抜けているようにも感じられますが、当時、律法の先生に教えを乞う者の通例の問い方は、「どこに泊まっておられるのですか」だったそうです。その心は、「わたしは、あなたを律法の先生とし、あなたのところへ泊まり、先生と生活をしながら、先生から律法を学びたいのです。」という思いを示しているのです。何となく興味本位で、あなたが宿泊している場所を教えて欲しいという軽いものではない。二人の弟子は、覚悟を持って、今日からわたしたちは、あなたに従っていきたいのですと、意志を示していることがわかります。
 主イエスは、二人に応えておっしゃいました。「来なさい。そうすれば分かる」。主イエスの「来なさい」には、圧倒的な力があります。単なる命令ではない、力ある招きです。そして二人は、主に従い、どこに主が泊まっておられるかを見て、主のもとに泊まりました。時刻は「午後四時ごろのことである。」と記されています。
 ところで、今朝の み言葉に繰り返し登場する大切な言葉があります。それは、「見る」という言葉です。36節では、ヨハネが歩いておられる主イエスを「見つめ」ました。そして、「見よ、神の小羊だ」と言いました。38節では、主イエスは振り返り、彼らが従って来るのを「見て」、「何を求めているのか」とお尋ねになりました。目と目を合わせて、聞いてくださったのです。そして、「どこに泊まっておられるのですか」と問う二人に、「来なさい。そうすれば分かる」とおっしゃいました。実はこの「分かる」という言葉にも「見る」という意味があります。「来て見れば、よく分かるよ」ということです。そして、二人の弟子は、主イエスがどこに泊まっておられるかを「見た」。そしてその日、主のもとに泊まったのです。このように福音書記者は繰り返し、「見つめて」、「見よ」、「見て」、「見た」と記しています。
 見ると言えば、先週、こんな光景を目にしました。ベビーカーを押している母親が、いわゆる「歩きスマホ」をしていたのです。もちろん、ベビーカーには赤ちゃんが乗っていました。お母さんの顔が見える向きに寝かされています。赤ちゃんはお母さんを見ているのに、お母さんはスマホの画面を見ていました。もしかすると、行き先を確認していたのかもしれません。それにしても、ベビーカーを押しながら、街の中での歩きスマホは危ない、と思いました。そして、赤ちゃんのひとみの行く先に、お母さんのひとみがないことに、悲しい気持ちになりながら、案外、わたしも似たようなことをしてしまっているかもしれないとも思いました。目と一緒に、心が他に行ってしまっている。別のことに気をとられている。実際の肉体の目だけでなく、心の目も、見つめて、見つめられて、わたしたちの信頼関係は深まるのではないでしょうか。弟子たちが、主に従った最初のきっかけは、ヨハネの「見よ、神の小羊だ」との声であったと思いますが、その直後、主イエスが振り返り、自分たちが従って行くのを見つめられたその眼差しが、この先の二人の人生を決めたのではないか、そのようにも思うのです。
 もうひとつ、主イエスと弟子たちのやりとりで、心にかかる言葉があります。それは、「泊まる」という言葉です。先ほど、ユダヤでは、先生の家に住み込み、律法を学ぶことは自然なことであると申しました。しかし、どうも、それだけの理由ではないように思う。もっと特別な意味が「泊まる」にはあるのではないだろうか。そう考えていたとき、心に浮かんできたのは、「徴税人ザアカイ」の物語でした。
 ザアカイの物語は、ルカによる福音書だけに記されていますので、ヨハネ福音書と直接は関係ありません。それでも、木の茂みに隠れて、遠くから主イエスが近づいて来られるのを眺めていたザアカイに、主イエスは近づかれ、木の真下で立ち止まり、ザアカイを見上げて、声をかけてくださいました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。(19:5)」ザアカイは、主イエスに泊まっていただくために急いで降りて来て、喜んで主を迎えました。悔い改めの言葉を述べるザアカイに、主はおっしゃいました。「今日、救いがこの家を訪れた。(19:9)」このように、「泊まる」という言葉には、ただ数日の宿を融通してもらうということに留まらない、もっと深い、もっと決定的な意味があるのではないかと思うのです。徴税人ザアカイは、主イエスを迎え、食事を共にし、泊まっていただいたことで、主の愛と赦しを知り、回心して、主に従って生きる者へ変えられました。言い換えれば、主イエスのもとに泊まり続ける者とされた、ということではないでしょうか。
同じように、二人の弟子たちも、主のまなざしの中で「来なさい。そうすれば分かる」と招かれ、主が泊まっておられる場所を見て、主のもとに泊まり続ける者とされたのです。同時に、弟子たちの中にも主が入って来てくださり、泊まり続けてくださることでもあったと思うのです。いつも、主が共にいてくださる。この信仰が、「泊まる」という言葉によって語られているのと思うのです。それはさらに「午後四時ごろのことである。」と書かれていることからも、わかると思います。わたしたちも、大切な出来事があった日は、時間も覚えているものです。わたしも、献身の思いを牧師に伝えたその日の場面は今もはっきり覚えています。
二人の弟子たちは、この日を境に、主イエスに従う者、主の弟子として生涯をささげる者となった。その生涯忘れることのない時間が、「午後四時ごろ」だった。日の傾きかけた、夕暮れの景色と共に記憶していたかもしれません。そのときの弟子たちの心の震えが伝わってくるような思いになります。
 そういう心震える思いの中で、二人の弟子たちの一人、シモン・ペトロの兄弟アンデレは、聖霊に促され、最初の業を行いました。それは、兄弟シモンに主イエスを紹介することでした。アンデレは、シモン・ペトロに会って、こう言いました。「わたしたちはメシアに出会った」。この「出会った」という言葉は、「発見した」、「ついに見つけた!」という歓喜の言葉です。「おいシモン、聞いてくれ!ついに見つけたぞ!わたしたちのメシア、救い主を!」
 尋常ではない兄弟のようすに、シモン・ペトロはアンデレについて行き、主イエスにお目にかかりました。主イエスの眼差しを受けた。主に見つめられたのです。もちろん、シモン・ペトロも主イエスを見つめ返したに違いありません。主は、ペトロを見つめ、言われました。「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファと呼ぶことにする」。ケファ、ギリシア語でペトロス。つまり、「あなたは、ペトロ」と新しい名前をいただいたのです。
 ここに、主の弟子が三人生まれました。三人に共通するのは、主イエスに見つめて頂いたことです。わたしたちも、親であったり、先生であったり、兄弟であったり、友人であったり、誰かしらに「来て見てごらん、分かるから」と教会へいざなわれることが最初であることが多いと思います。あるいは、神さまから呼ばれた気がして教会の敷居をまたぐ、ということもあるかもしれません。いずれにしても、そこで、主イエスに見つめられている経験をするのです。主に見つけていただき、わたしのもとに泊まりなさい。あなたのところにも泊まらせてほしい、との み声を聞くのです。
 わたしたちは、問題を抱えていると、その問題しか見えなくなります。不安でたまらなくなります。主イエスのひとみ、まなざしが見えなくなる。主の「来なさい。そうすれば分かる」が聞こえなくなる。だからこそ、今朝の御言葉を通し、最初の弟子たちが生まれた恵みを心に刻みたいと思います。主イエスのひとみ、まなざしを受け、主のもとに泊まり、主に泊まっていただきたいと思います。
この後、讃美歌243番を賛美いたします。皆さんの中にも愛唱讃美歌の一つとしている方がおられるかもしれません。わたしたちの代表として、富める若人、ペトロ、そしてトマスが登場します。主イエスは彼らにひとみを向けてくださっています。そして4節「きのうもきょうも かわりなく、血しおしたたる み手をのべ、『友よ、かえれ』と まねきつつ 待てるはたれぞ、主ならずや。」これは、わたしたちすべての者への招きであり、赦しであり、愛の言葉です。「今、不安の中にあるなら、悲しみの中にあるなら、痛みの中にあるなら、わたしの招き、ひとみを感じて欲しい。どんなときもあなたに まなざしを注いでいるのだから。」とおっしゃってくださる主に、すべてを委ねることができますように。「そうだ、わたしは主に見つけていただいた。そうだ、わたしに主が泊まっていてくださる。そうだ、わたしも主に泊まっている。」その喜びに生きることができますように。

<祈祷>
主よ、どんなときも、あなたのみ子、主イエスを見ることができますように。主が私どもを見つめていてくださることを喜びとすることができますように。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。東日本大震災から12年が経ちました。今も後悔と悲しみの中に沈んでいる人がいることを、わたしたちが決して忘れることがありませんように。痛みを想い、祈ることができますように。神さまどうか、悲しみの中にあるひとりひとりに慰めを与えてください。わたしたちの群れの中にも、家族のこと、職場のこと、学校のことで重荷を抱え、疲れを覚えている者がおります。主の翼のもとに憩う安息を お与えください。力を与えてください。そのような力を必要としている者が、ここに来ることができないままに、家にあって、病床にあります。その願いにあなたが耳を傾け、主イエスの恵みをもって、主イエスのまなざしをもって、これに報いてください。あなたの名を呼ぶことを知らないまま、深く憂いの中にいる者がたくさんいることを思います。私どもの伝道の言葉、力の弱さ故に、それらの人びとの心を捉えることのできないことを申しわけなく思います。しかし、どうぞこの弱さを超えて、あなたの恵みがひとりでも多くの人を捉えてください。深い悲しみの中にある人に、憂いに閉ざされている人に、それに相応しい助けを与えてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年3月5日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第53章6節~10節、新約 ヨハネによる福音書 第1章19節~34節(Ⅱ)
説教題:「神さまの救い」
讃美歌:546、68、Ⅱ-86、Ⅱ-1、257、545A

今朝も先週に続き、ヨハネによる福音書第1章19節から34節まで朗読していただきました。今朝は、29節以下を中心に耳を傾けてゆきたいと思います。29節は、「その翌日」という言葉で始まります。実は、少し先35節にも「その翌日」とあり、さらにその先43節にも「その翌日」とあります。そして第2章1節に「三日目に」とあります。「その翌日」、また「その翌日」、「その翌日」と三日数えて、そのあと更に「三日目に」ですから、これで六日です。ということは、29節の前、つまり先週までご一緒に読んできました第1章1節から28節までを第一の日と理解するなら、第1章1節から、カナでの婚礼が終わる第2章11節までが、七日間の出来事として記されていることに気がつくのです。読んでおりますと「一日」と数えられている記述でも必ずしも時系列で書かれているわけではありません。ですが、むしろそうであるからこそ、この福音書の始まりが七日間という期間に重きを置いて書かれていることがわかります。
七日間と言えば、一週間です。そして、一週間がなぜ七日間に定められているかと言えば、神さまが、六日間をかけて天地を創造され、第七の日に、ご自分の仕事を離れ、安息なさったと、聖書に記されているからです。天地創造の みわざが記されている創世記の第1章1節は、こう始まります。「初めに、神は天地を創造された。」そして、まだ混沌としていて、その上を神さまの霊が漂っていた、濃く、深く、果てしない闇の中、静まりかえっていた世界に突然、神さまの言(ことば)が響き、その言によって、天地が創られていった。その様子が、次のように記されています。「地は混沌であって、闇が深淵(しんえん)の面(おもて)にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。(1:2~3)」その様子をなぞるように、ヨハネによる福音書はこう始まります。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(1:1~3)」創世記の冒頭と、ヨハネによる福音書の冒頭が重なります。そしてそのあとも、創世記が第一の日、第二の日、第三の日、と数えながら天地創造の みわざを描いていくのをなぞるように、ヨハネによる福音書も、その翌日、その翌日、と日を数えながら、主イエスが救い主として世に顕れてくださる、そのための備えの日々を描いているのです。今朝は、その「二日目」にあたる29節以下をご一緒に味わってまいりましょう。
29節。「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」ヨハネは叫ぶのです。「神さまが救いのわざをお始めになる。いや、もう始まっている。見なさい。わたしたちの罪を取り除くために、神の小羊がここに来てくださった。それは今、まさに、わたしの方に近寄ってきてくださっている、この方だ!」と。ヨハネの心の中には、旧約聖書イザヤ書 第53章の み言葉があったかもしれません。「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。(53:6~7)」
洗礼者ヨハネは、罪に罪を重ねているような世に、「世の罪を取り除く神の小羊」が来られる日が近いと信じ、祈り続けていました。だからこそ、ヨハネは、「お前はメシアなのか」と尋問する者たちに、証言しました。第1章26節。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」けれどもヨハネはここで、「あなたがたは知らないけれども、わたしだけは知っている」と得意になっているのではありません。わたしもついこの間まで、「この方を知らなかった。」と証言するのです。それも、31節、33節と、2回、「わたしはこの方を知らなかった。」と繰り返しています。
 ヨハネは、死海にほど近い荒野を拠点として声を上げ、人々に悔い改めを促してヨルダン川で洗礼を授けていました。次第に、その説教に耳を傾ける者、洗礼を受ける者たちが増えていきました。でも、そのときはまだ、ヨハネは主イエスを知らなかったのです。そんなある日、遠くナザレから、「洗礼を授けて欲しい」と一人の若者がヨハネを訪ねて来ました。そして、ヨハネが洗礼を授けたそのとき、霊が鳩のように降って、その人の上にとどまるのをヨハネは見たのです。そのとき、初めて知った。知ることができた。神さまが教えてくださったのです。その喜びを、ヨハネは証言しました。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。(1:32~34)」
そのように神さまが示してくださったから、ヨハネは、「この方を見なさい。この人こそ、世の罪を取り除く神の小羊である。この方は、神そのものであられる。何と、神さまがわたしの方へ近づいて来られた。わたしはこの方を知らなかったのに、神さまの方から近づいてきてくださって、ご自分がどのような方であるかを顕してくださったのだ!」と、ヨハネは証言することができたのです。
わたしたちの信仰も同じです。最初からナザレのイエスが救い主、世の罪を取り除く神の小羊である、と知っている者はいません。わたしも、幸いにもキリスト者の母のもとに生まれ、幼少から教会に通いましたが、信仰告白に至ったのは、ようやく高校3年生の秋でした。なかなか信仰告白に至らないわたしの方へ、甦りの主イエスが近づいて来てくださり、「わたしに委ね、わたしと共に生きよ!」と迫ってくださったから、信仰告白、洗礼の恵みへ導かれたのです。わたしたちは皆、そうして導かれ、今朝もここへ招かれております。そのように、主を知らない者から、主を信じる者へ変えられる喜びは、ヨハネを筆頭に、すべてのキリスト者に共通する恵みです。
わたしたちは今、受難節の日々を過ごしております。わたしたちの罪のために、主イエスが世の罪を取り除く神の小羊として十字架を負ってくださったことを心に刻むときです。罪に罪を重ねる歩みを続けているわたしたちです。それなのに、そういうわたしたちに向かって、主イエスは近づいて来てくださいました。父なる神さまのふところから飛び出し、わたしたちの代わりに罪を背負うために来てくださいました。そして、それだけではなくて甦ってくださったことをわたしたちは知っています。知らせていただいています。だから、わたしたちは、混沌へと逆戻りするかのような時代にあっても希望を失わずに、ヨハネが「見よ」と指さす方(かた)を仰ぐことができます。どんなにダメな自分に嫌気がさしても、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(16:33)」という、主イエスの勝利宣言を信じることができます。かつては知りませんでした。でも主が近づいて来てくださって、知らせてくださったのです。洗礼者ヨハネは、主イエスが自分の方へ来られるのを見たとき、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と証言しました。わたしたちも、かつては知らなかったのに、今はキリスト者として生きる幸いを知っています。ですから、わたしたちも洗礼者ヨハネのように、すべての人に向かって、「この方が、世の罪を取り除いてくださった神の小羊、主イエス・キリストです。この方が、死に勝利してくださり、良い羊飼いとして、世のすべての者を父なる神さまの元へと導いてくださる、わたしの主、イエス・キリストです!」と、主を指し示すのです。
今、わたしたちの前に聖餐の食卓が用意されています。主イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」として、わたしたちのために十字架で裂かれた肉と流された血潮です。神さまの方から、赦しと恵みをたずさえて近づいて来てくださり、恵みの食卓を備えていてくださるのです。主の死によってわたしたちの罪が取り除かれたことを、そして、主のお甦りによって約束されている永遠のいのちを、確信する喜びの食卓です。洗礼者ヨハネは、このあと捕らえられて、処刑されたと伝えられています。わたしたちがどのような死を迎えることになるのか、それはわかりません。けれども、必ず、神さまのみもとへと召されます。もしかすると、今日が地上での最後の聖餐になるかもしれません。でも、恐れる必要はないのです。なぜなら、わたしたちは「世の罪を取り除く神の小羊」によって罪を赦され、み子を知らない者から、み子を信じる者とされ、神さまを「父」と呼び、神さまから「子よ」と呼ばれる者としていただいたからです。わたしたちは、この神さまのお約束を信じてよいのです。もしも今、自分の至らなさ、ふがいなさに苦しみ、自分で自分を赦せない思いの中にあるとしたら、その自分とは何者でしょう。主が「赦す」とおっしゃっているのに、主の履物のひもを解く資格すらない者が、主の約束を否定するなど、あり得ないことです。主イエス・キリストが自分の方へ来てくださり、やさしく抱きしめてくださり、「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と立ち上がらせてくださるのです。ただ、主の み声を信じる、そのとき、すでにわたしたちは、神さまの救いの中にいるのです。
<祈祷>  
天の父なる神さま、あなたの深い愛のゆえに、み子を世の罪を取り除く神の小羊としてお遣わしくださり、深く感謝いたします。すでにその大いなる恵みを知っている者として、勇気を持って、大胆に、み子の救いを指し示す者として用いてください。主よ、罪に苦しむ者を救い、主の平安に生きる者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。3月を迎えました。学び舎を巣立ち、新しい生活に不安を抱えている者がおります。主よ、それらの者に寄り添い、これからも、これまでと同じように支え、導いてください。今も、争いが続いております。主よ、世界の指導者に武器を捨て、平和に生きる勇気を お与えください。わたしたちも諦めることなく、望みをもって、主の平和を祈り続けることができますように。主よ、真の救い主を知らず、さまよい続けている者がおります。真の救い主を信じ、信仰を告白し、洗礼を受けたにもかかわらず、あなたから離れている者もおります。たとえ、わたしたちがあなたに背を向けても、あなたはわたしたちに近づいてくださり、「立ち帰れ!」と語り続けてくださいますから、感謝いたします。どうか、さまよい続いている者を憐れみ、あなたへ立ち帰ることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年2月26日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第40章1節~11節、新約 ヨハネによる福音書 第1章19節~34節(Ⅰ)
説教題:「あなたは誰か」
讃美歌:546、10、139、266、544

ヨハネによる福音書を少しずつ読み進めております。今日から第1章19節に入ります。先週もご一緒に読みましたように、第1章17節になって、ようやく主イエスのお名前が登場。「これから、主イエスの物語が始まるぞ」とワクワクしますが、19節に入り、最初の言葉は、「さて、ヨハネの証しはこうである。」です。ヨハネが悪いわけではありませんが、いつになったらイエスさまの物語が始まるのか。ジリジリした気持ちの方もいらっしゃるかもしれません。それでも、19節から34節を省き、35節に飛ぶことはできません。なぜなら、19節から34節に書かれている洗礼者ヨハネの証しは、わたしたちにとって忘れてはならない大切な証しだからです。
 カトリックの作家、遠藤周作の著作に、『イエスの生涯』があります。小説家の視点で語られる聖書の世界が興味深い本ですが、今朝の み言葉の前半に書かれているユダヤ教の主流派であった祭司やレビ人たちの、洗礼者ヨハネに対する質問についても書かれています。そのときの雰囲気を思い描くための助けになるかと思いましたので、少し紹介いたします。「主流派は ただちに共同委員会をつくり、調査団を洗者ヨハネのところに送った。当時、ヨハネはヨルダンの彼方、ベタニアで布教していたので調査団とヨハネとはここで出会った。調査団の訊問は洗者ヨハネが救い主(メシヤ)を詐称しているか、いないかにあった。もしヨハネが自分を救い主(メシヤ)だと言っているならば、彼等は ただちに衆議会の緊急会議をひらき、ヨハネを裁判にかけるつもりだった。訊問にたいしてヨハネは 自分はメシヤではないと巧みに主張した。この訊問の模様はヨハネ福音書に記載されているが、調査団の追求はきびしく、彼等は洗者ヨハネがいかなる権利と資格で洗礼を人々に授けるのかと問うた。洗者ヨハネは あくまで自分がメシヤの伝達者であることを言いつづけ、ようやく難をまぬがれた。」
 マタイによる福音書には、洗礼者ヨハネは、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。(3:4)」と書かれています。彼は荒れ野に住み、徹底して禁欲的な生活をしていました。そして、ユダヤの民に、罪を悔い改めて洗礼を受けることを求めました。だから洗礼者ヨハネと呼ばれたのです。当時、ユダヤの民は、洗礼を受ける必要はないと思っていました。なぜなら、生まれながらの神の民だからです。一方、神の民でない異邦人が、ユダヤの神を信仰するには、洗礼を受けなければならないとされていました。しかし、洗礼者ヨハネは、ユダヤの民にも洗礼を勧めた。むしろ、ユダヤの民こそが洗礼を受けるべき!と勧めたのです。そして、これに多くの人びとが感銘を受け、従いました。
 このことは、エルサレムのユダヤ教の指導者にすれば、青天の霹靂でした。新共同訳は「あなたは、どなたですか」と訳していますが、実際は、「お前は誰だ」という訊問です。ヨハネは、はっきり答えました。20節。「わたしはメシアではない」。当たり前のように、サラッと読んでしまいますが、「わたしはメシアではない」。キリストではない。救い主ではない。そのように はっきり公に言い表すことは、わたしたちにとっても、たいへん重要なことです。胸に手を当てて、よく考えてみたい。「わたしはメシアではない」という真理を、わたしは、しっかりわきまえているだろうか。心のどこかで「自分の正しさによって、自分を救える」と思っていないだろうか。自分は正しい、自分は間違っていないという思いに取りつかれて、他人(ひと)を裁いていないだろうか。エルサレムのユダヤ教の指導者が、まさにその過ちの沼に足をとられていました。「自分たちは、自分たちの正しさゆえに、救われている」と信じていました。そのため、神さまによって遣わされたヨハネを罪に定めようとして問い詰めているのです。そしてやがては、キリストをも罪に定めました。「わたしはメシアではない」。「わたしは、自分の正しさで自分を救うことなどできない」。大切な言葉です。ひとつ間違えば、指導者たちの姿は、わたしたちの姿と重なってしまうのです。信仰者として神さまに喜ばれる生活をしたいと思う。それは自然なことです。けれども、自分の行いの清さによっては決して救われないのです。「わたしはメシアではありません。わたしは、自分の正しさでは自分を救えません。神さま、わたしを救ってください。」そのように祈り、心の中に救い主をお迎えすることこそが信仰です。そして、それを公に言い表すことが、信仰告白です。「わたしはメシアではない」というヨハネの言葉は、わたしたちの信仰の背骨なのです。
 ユダヤ教の指導者たちによるヨハネへの訊問は続きます。21節。「では何ですか。あなたはエリヤですか」。旧約聖書の預言者エリヤの名前が、エルサレムの祭司やレビ人から出てくるのは、旧約聖書の最後の書、マラキ書第3章の み言葉があるからです。「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。(3:23)」エリヤは、死なずに火の車によって天に移されたと、旧約聖書に書かれています。そして、み国の完成のときには、再び地上にやって来ることが期待されていました。けれどもヨハネは、ここでも「違う」と証言したのです。
祭司、レビ人たちは更に続けます。「あなたは、あの預言者なのですか」と訊問した。「あの預言者」とは、エジプトの奴隷状態であったユダヤの民を解放したモーセのような人物を指します。旧約聖書 申命記 第18章に、モーセの語ったことばが記されています。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。(18:15)」
エリヤ、モーセ、どちらも、ユダヤの民にとっての決定的な救いの時に現れるべき人物と信じられ、今か今かと待望されておりました。しかし、これも、ヨハネは否定しました。調査団は再び尋ねます。22節。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」
調査団としては、ヨハネの答えを本部に報告しなければならないのに、このままでは子どもの使いになってしまいます。「それじゃあ お前はいったい何者なのだ!」と言ったのです。ヨハネは、今朝の旧約聖書の み言葉、イザヤ書 第40章を用いて答えました。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
ヨハネは、自分を「叫ぶ声」だと言いました。イザヤ書 第40章には、「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。(40:3)」と記されています。その「呼びかける声」がわたしであると答えたのです。調査団の面々は、ジリジリしていたかもしれません。メシアではない。エリヤでもない。あの預言者でもない。叫ぶ声だとお前は言うが、いったい何の権限があって叫び、洗礼を授けているのか!どんな資格があってのことか!越権行為ではないか!と問いつめました。25節。「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」。
ヨハネは答えます。26節。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」ヨハネは、はっきり言うのです。「わたしは、メシアではない。エリヤでもない。モーセでもない。わたしは、わたしの後に来られる方のために道をととのえる声であるが、わたしにはその方の履物のひもを解く資格もない。」履物のひもを解くのは僕(奴隷)の仕事です。「わたしには僕の資格もない」とヨハネは言うのです。わたしは何者でもない、と公言することは何と難しいことかと思います。わたしたちは、自分と他人(ひと)を比べます。誰でも、他人(ひと)から一目置かれたいものです。「いやいや自分など」と、謙遜して見せたとしても、いざ、他人(ひと)に見下され、馬鹿にされると、ムッとするものです。そうであればこそ、このヨハネの証言はわたしたちが日々正さなくてはならない信仰の姿勢です。
福音書に記されている洗礼者ヨハネの証しを繰り返し読み、心に刻みたいと思います。「卑屈になれ」というのではありません。ただ心を神さまに向ける。神さまを仰ぐのです。他人(ひと)ではなく、神さまを仰ぐとき、わたしたちは自分が何ものでもないことを知るのです。主イエスの「履物のひもを解く資格もない。」者であることを知るのです。わたしたちは皆、主イエスの僕となる資格すらないのです。それなのに、主イエスは、十字架の死によって、僕どころか、神の子となる資格を与えてくださいました。その恵みが、迫ってくるのです。主イエスは、十字架で死なれる前の夜、弟子たちの履物のひもを解くどころか、「たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで(13:5)」ふいてくださいました。何ということでしょう。本来、僕がやるべき行為。それなのに神さまである主イエスが弟子たちの足を洗ってくださり、手ぬぐいで丁寧に水をふきとってくださり、ついには、その お命までも、差し出してくださったのです。
ヨハネは、メシアがいらっしゃる道をまっすぐにするため、叫ぶ声として神さまから遣わされました。ヨハネは言うのです。「荒れ野のようなこの世に、真の王が来られる。そのために、まず道を作らなければならない。だからわたしは、『メシアが来られる。悔い改めて、洗礼を受けよ』と叫ぶ。その声として生きる。『主の道をまっすぐにせよ』、あなたがたの心を、神さまにまっすぐに向けなさい、メシアにまっすぐ、入って来ていただけるように。」
 ヨハネは、指をまっすぐに伸ばし、今自分のすぐ後ろに来ておられる方を指し示し、「もう救いは始まっている」と語りました。わたしたちもまた、主イエスが再び来てくださる日のために、主の道を整える声になれと、召し出されました。主の「履物のひもを解く資格もない」者が、主に仕えていただいて、互いに仕え合う者に生まれ変わったのです。主の愛と恵みを指し示すために、主が、用いてくださるのです。感謝して、主を見あげ、主の み声に聴き従うことができますように。

<祈祷>  
天の父なる御神、洗礼者ヨハネのように、日々、「わたしはメシアではありません」と言い表し、あなたへの道をまっすぐに歩む者としてください。み子の履物のひもを解く資格もないわたしたちを、み子の十字架のゆえにあなたの子としてくださり、感謝いたします。恵みに応え、裁き合う者ではなく、仕え合う者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、わたしたちの世は、嘆きの声におおわれています。戦争や地震によって愛する者を失った者、家族の安否を心配しながら途方に暮れている者がおります。どうか、あなたの愛で包み、慰め、憐れんでください。わたしたちが今すぐ武器を置き、隣人と握手することができますように、勇気を与えてください。国々の指導者たちの心を、あなたに向かわしめてください。年を重ね、自らの衰えを痛感している者がおります。若さゆえに、様々な不安を抱えている者がおります。働き盛りでありながら、虚しさを抱えている者もおります。たくさんの後悔を抱えて眠れぬ夜をすごしている者もおります。子育てに疲れ、頼る人もなく不安に押し潰されそうな者もおります。それぞれの悩み、苦しみ、痛みをあなたはすべてご存知であられますから、それぞれの心に寄り添い、これからも「大丈夫。わたしは、いつもあなたと共にいる」と語り続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年2月19日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 出エジプト記 第33章18節~23節、新約 ヨハネによる福音書 第1章1節~18節(Ⅲ)
説教題:「押し寄せる恵み」
讃美歌:546、16、140、Ⅱ-15、543

ヨハネによる福音書 第1章1節から18節までの み言葉に繰り返し耳を傾けております。今日は、16節から18節を中心に味わいたいと思います。
スイスの改革者カルヴァンは、1542年、『ジュネーブ教会 信仰問答』を出版しました。カルヴァンは信仰問答について「牧師が問い、子供が答える対話の形式で作られた、子供たちをキリスト教に教育する文言集」と紹介しています。今朝、わたしたちも子どもに戻って、答えたいと思います。問1 人生の主な目的は何ですか。答 神を知ることであります。問3 では人間の最上の幸福は何ですか。答 それも同じであります。問1から問373までの問答で、問1は特別な意味を持ちます。問1が土台となり、問373まで続く。すべての問いに貫かれるのは、人生の主な目的は、神を知ること。さらに、最上の幸福は、美味しいものを食べたり、財産を蓄えたりすることではなく、神さまを知ることに尽きる。神さまを知るなら、たとえ、どれほど苦難の多い人生であっても、それは「最上の幸福」です。それは、ここにいるわたしたち皆が、証人でありましょう。今朝のヨハネによる福音書の み言葉は、主イエスを通して神さまを知る恵みへと、わたしたちを導きます。18節、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
わたしたちが、神さまを知るには、最上の幸福をいただくには、どうすればよいか、そのことが記されています。わたしたちが自分の力で神さまを見ることはできません。同じように、わたしたちが自分の力で神さまを知ることもできません。けれども、そのようなわたしたちのために、神さまは、父のふところにおられた独り子である神、主イエスを遣わしてくださいました。ですから、わたしたちは、主イエスによって、神さまを知ることができます。主イエスによって、わたしたちの人生は、かけがえのない、まことに幸せな人生となるです。
改めて18節を読みますと、「神を示された」とあります。「示された」と訳された言葉には、「外へ導く」という意味があります。大河ドラマなどを見ておりますと、位の高い人物の役の俳優さんが御簾(みす)の中にいて、姿が隠されていることがあります。そのように、神さまのお姿はわたしたちには隠されていた。けれども、その隠されていた神さまのお姿が、あたかも御簾(みす)の外へと現れ出るかのように、主イエスによってわたしたちの目の前に明らかにされた。神さまの お心が、わたしたちにわかるように、主イエスが示してくださったのです。
ヨハネによる福音書は第1章1節から始まり、17節になってようやく、言(ことば)は、主イエスであると明かしました。初めからおられ、神と共におられ、神であった言(ことば)が、わたしたちの世に人間の姿でいらしてくださり、神さまを示されたのです。わたしたちは、聖書を読み、主イエスの お言葉に触れ、十字架への道をたどり、甦りの喜びへと導かれていきます。そのすべてを通して、神さまを見る。神さまの み声を聴く。神さまを知っていく。それこそがわたしたちの人生の主な目的であり、最上の幸福です。
さて、この み言葉に先立って、モーセが登場します。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」律法は、神さまから、モーセを通してわたしたちに与えられました。十戒です。人間が、お互いを大切にして、平和に生きるために、神さまが与えてくださった大切な戒めです。ところが、人間は、戒めを重んじるあまりに、何のために神さまがこの戒めをくださったのか、という肝心なところを見失っていってしまいました。律法を守っていれば救われる。いつの間にか、戒めを守ることが目的になってしまいました。では、戒めを守れなければ救いはないのか?守れない人間を裁き、救いの中から締め出すことが、神さまの み心であるのか?主イエスは、明確に「それは違う。」と、神さまの み心を示してくださったのです。神さまは、わたしたちがどんなに神さまの み心に背を向けようとも、わたしたちをお見捨てにはなりません。わたしたちが、戒めを守ることができず、罪を重ねるばかりであっても、神さまは、何とかして救いたい。どうにかして平安の中を、神さまの愛の中を歩んで欲しいと願っておられる。その神さまの思いが、神の言(ことば)が、ご自分の恵みと真理を示してくださるために、人間の姿をとり、主イエス・キリストとして、わたしたちのところへいらしてくださいました。そして、十字架に磔(はりつけ)にされ、裁かれるべきわたしたちの罪をすべて背負い、わたしたちの代わりに裁きを受けてくださった。その上、甦ってくださり、そのことを信じさえすれば、わたしたちも主イエスの甦りの命をいただくことができる。そのようなわたしたちがまったく思ってもみなかったなさり方で、主イエス・キリストは、神さまの み心を示してくださったのです。このようにして、わたしたちにはまったく見えていなかった神さまの恵みと真理が、主イエス・キリストを通して現れました。まるで、御簾(みす)の中から出てくるかのように、出現したのです。
「いまだかつて、神を見た者はいない。」と記されているように、主イエスが来られるまで、神さまの恵みと真理が、人間には見えていませんでした。神さまの愛が、わかっていませんでした。神さまは、ただ遠い存在、おそろしい存在のように思っていました。神さまは、「それは違う。わたしはあなたがたを愛して止まない、あなたがたの父なのだ」と、わたしたちに教えるために、主イエスを差し出されたのです。「この方は、父なる神さまが、ふところに入れ、大事に大事に慈しんでいた独り子である神なのだ」と福音書はわたしたちに告げます。
幼少の頃、両親のふところに抱かれ、語りかけられることは、子どもなりに「ああ、わたしはこんなにも大事にされ、こんなにも愛されている」と安心できる大切な「時」であります。主イエスも、父なる神さまのふところに抱かれ、神さまの心臓の鼓動を聞いておられた。神さまが人間の罪に心を痛め、苦悶しておられるのをふところで感じておられた。それでもなお、神さまは人間を愛し、子として大切に思っておられる姿を肌で知っておられた。そして、とうとう神さまは、いつまでもふところに抱き、手放したくない愛する独り子を人間のために手放されました。そのときの、苦渋に満ちたお心も、それほどまでの人間への愛も、父のふところにおられた 独り子である主イエスだけが、知っておられたのです。その父なる神さまのふところにおられた主イエスが、わたしたちに示してくださいました。「父のふところに抱かれる平安は、わたしだけのものではない。あなたがたのものだ。わたしがあなたがたの罪をすべて背負う。だからあなたがたは安心して父なる神さまのふところへ、愛の中へ、飛び込んでよい。父なる神さまは、あなたがたの父でもあるのだ。」そのようにわたしたちを招いていてくださるのです。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」と16節にあるとおりです。主イエスの満ちあふれる豊かさは限りがありません。罪を重ね、神さまに背を向け、こんな世の中、神さまなどおられないと望みを失うわたしたちを、ご自分の死と甦りにより、父なる神さまの子として生きる者としてくださるのです。12節に、「しかし、言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」とあるように、主イエスは、過ちばかりを繰り返しているわたしたちを、神さまの愛の中へ、神さまのふところの中へと招いておられるのです。
今週の水曜日は、灰の水曜日です。主イエスのご受難をおぼえ、悔い改めつつ歩む受難節に入ります。愛する独り子を十字架に磔(はりつけ)にしてまで、わたしたちの罪を赦そうとされた神さまの愛を知るために、十字架の死を心深く刻む日々を、大切にしたいと思います。
この後、讃美歌第2編15番を賛美します。もしかすると皆さんの中には、あまり馴染みのない方もおられるかもしれません。この讃美歌は、中世の東方教会の修道院でつくられた讃美歌です。作詞者は、聖テオクティストゥスですが、19世紀イギリスの古典賛美歌学者ジョン・М・ニールが英訳したものを松山昌三郎牧師が日本語に訳しました。1節は、このような歌詞です。「いとしたわしき主イエスの み名を/呼べばあふるる めぐみのいずみ。みむねにこたえて み前にささぐるすべてを/きみのものとしたまえ。」主イエスの み名を呼べば、湧き出る泉のように、恵みがドンドンと湧いて、溢れる。わたしたちキリスト者には、食べればなくなり、死んでは所有することのできない財産とは次元の違う、真実の恵みが泉のように湧き出し、溢れています。次から次へと枯れることなく、恵みが湧き出して押し寄せてきます。主イエスは、神さまのふところに留まることなく、わたしたちのために苦しみを受けてくださいました。2節はこのように歌います。「いばらのかむり おおしくうけて、むちとあざけり  しのびし主イエス。その みくるしみは/われらを罪より あがなうためぞ」。ただただ、主イエスをわたしの主、わたしの神と信じて、主イエスの み名を呼ぶとき、それがたとえ死の間際であっても、わたしたちは幸福です。わたしたちは神さまの子どもであり、主イエスが共にいてくださるからです。受難節の日々、一日一日を、主のみ名を呼びながら、主が示してくださった神さまの愛に感謝しつつ、祈りつつすごしてまいりましょう。

<祈祷>  
天の父なる御神、本来なら、独り子なる主イエスにしか許されないあなたのふところに憩う恵みをお与えくださり、心より感謝いたします。そのあふれる恵みには、主イエスの み苦しみと十字架の死があることを忘れることのないように導いてください。あなたを知ることを生涯の目的、最大の喜びとする者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主のご受難と甦りを覚える季節に入ります。わたしたちの日々の歩みと、聖なる主の日の歩みとを整え、支えてください。主よ、大地震があり、戦争があり、疫病があります。日々の暮らしに困っている人々がいます。いったいどうすれば良いのか、途方に暮れる思いでおります。主よどうか、世を憐れんでください。私共に互いに仕え合う心を与えてください。痛みに苦しむひとの傍らに寄り添う「良きサマリヤ人」の歩みを、わたしたちの歩みとすることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年2月12日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第30章18節~19節、新約 ヨハネによる福音書 第1章1節~18節(Ⅱ)
説教題:「光を証しする者」
讃美歌:546、12、326、502、542、Ⅱ-167

ヨハネによる福音書 第1章1節から18節を ご一諸に読んでいます。天地が造られる前から、もちろん言うまでもなく、人間が、「言(ことば)」ロゴス、という単語をつくるよりずっとずっと前から、「言(ことば)」は神と共にあられました。それは、人間の考えるどんな言葉でもとても言い尽くせない恵みに溢れた神の思いであり、愛であり、神そのものであられました。神そのものであられる力ある「言(ことば)」が、神の愛を わたしたちに示してくださるために、人間となって、わたしたちのもとへ降って来てくださいました。わたしたちが神の み心に生きるために、わたしたちが迷わないですむように、わたしたちを照らす光となってくださいました。そういう宝のような み言葉を、繰り返し読んでいます。
新約聖書に収められている4つの福音書は、どれも、人間となって世にいらしてくださった神の み子、主イエス・キリストの地上における歩みを証しする書物ですが、ヨハネによる福音書に主イエスの名前が記されるのは、17節です。それに先立って、「神から遣わされた一人の人」「ヨハネ」の名前が登場します。ヨハネについて、ヨハネによる福音書は、このように紹介します。7節以下。「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」
わたしたちは、ヨハネと聞くと、すぐに「洗礼者」という肩書を思い浮かべます。洗礼者ヨハネ、バプテスマのヨハネと呼ばれる人物です。実際、マタイによる福音書では、「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え(3:1)」。と紹介しています。マルコによる福音書も、第1章4節で「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」と紹介しています。ルカによる福音書は、第3章2節で「ザカリアの子ヨハネ」と紹介し、3節で「ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」とあります。このように、ほかの3つの福音書では、ヨハネを「洗礼を授ける者」として紹介しているのに対して、ヨハネによる福音書だけが、「光を証しする者」として、ヨハネを紹介しています。天地が造られる前から神と共にあり、神の言であり、世を照らす光であり、神そのものであり、信じる者には神の子となる資格を与えてくださる主イエスを、「この方こそが主、キリストである」と証言する者として、ヨハネが登場するのです。
 ヨハネによる福音書を読み始めました1月の第4主日の説教で、ヨハネによる福音書の著者は誰であるのかわかっていない、と申しましたが、この福音書を生んだ教会は、もしかしたらですが、「我々は、キリストの証し人であったヨハネと、同じ思いを持ってキリストを証しする。この福音書は、すべての人がキリストを信じて、神の子となる資格を得るために、著(あらわ)すものだ」という決意表明のような思いで、証言者ヨハネの名前を借りて、「ヨハネによる福音書」という題にしたのかもしれない。そのように考えるのは想像力がたくましすぎるでしょうか。でも少なくとも、ヨハネ福音書の み言葉は、証言者ヨハネのようにキリストを証しし、わたしたちをキリストのもとへと導くものであります。心の耳をすまして、その福音の み言葉を聞きとっていきたいと願います。
ヨハネは、主イエスの証人として、「声を張り上げて」証言しました。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 
「声を張り上げて」とは、突然、大声を張り上げたというより、預言者の語り口を伝える聖書の表現です。ヨハネは神さまから遣わされた預言者として、主イエスについて証言したのです。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
このヨハネが歴史の中に登場してきたとき、「ヨハネこそが待望していた救い主かもしれない」と考えた人々が、少なからず、いたようです。ヨハネはそれをはっきりと打ち消して、「主イエスこそが救い主である」と指し示したのです。その証言者ヨハネが張り上げる声に唱和するように、ヨハネ福音書も、はっきり証言します。16節。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。(1:16)」
「わたしたちは皆」とあります。大切な言葉です。主イエスの満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けたのは、証言者、預言者として神に立てられたヨハネだけではない。この福音書を生んだ教会に連なる者たちだけでもない。証言者ヨハネを筆頭に、あとに続くすべてのキリスト者である。そのような思いが、ここにはあります。今、この み言葉を読んでいるわたしたちすべてのキリスト者に、キリストの恵みは降り注いでいる。恵みが次々追いかけてくるように注がれている。わたしたちもまた、その恵みの証言者として、この福音書の中に、今、立っているのです。「わたしは光ではなく、光について証しをする者である」と、預言者として証言したヨハネは、わたしたちキリスト者たちの群れのトップバッターとして、立てられたのです。
わたしには、「証し」について苦い経験があります。それまで勤めていた銀行を中途退職し、転職したキリスト教ラジオ放送局での経験です。正式に採用の契約を交わした後、突然、当時の代表から「田村さん、証しを書いてください」と言われたのです。それまでのわたしは、「証し」を書いたり、話したりした経験がほとんどありませんでしたので、何となくピンときませんでしたが、それまでのキリスト者としての歩みを書いて提出しました。ところが、その数日後、代表から大変に厳しい言葉を頂いたのです。「あなたの証しは、まったく証しになっていない。」その時、わたしの頭は真っ白になり、なぜ、証しになっていないのか、理解することができませんでした。今になって考えてみれば、当時のわたしが書いた文章は、「自分のような弱い者がこうして神さまに用いられる、銀行でお荷物の自分を神さまは用いてくださる」と、欠けている自分、弱い自分をどこか誇っているような、自分中心のものでした。キリストの光を指し示していなかったのです。
証人とは、自分を語るのではなく、ただ神さまの み手の中に立ち、暗闇を歩くわたしの光となってくださった主イエスの恵みを証しする者です。神さまの憐れみにより主イエスとの出会いを与えられ、主イエスの光に照らされ、恵みの上に恵みを受けた者として、ただ光であられるキリストを「この方こそ、救い主」と、指し示すのです。
ヨハネによる福音書の記者が、「洗礼者ヨハネ」ではなく、「証しをするために来たヨハネ」と紹介したのは、わたしたちへの強いメッセージではないでしょうか。証し人ヨハネだけでなく、わたしたちは皆、キリストによって、神の子とされています。神が、キリストが、その道を拓いてくださいました。わたしたちも皆、その証人のひとりとして、神さまから数えていただいています。すべての人が神さまの救いの中に入れられるために。キリストが与えてくださる喜びは、人に分けて減るものではありません。惜しまずに分かち合うほど、豊かに溢れる恵みです。
先週の金曜日、芳賀 力先生の東京神学大学での最終講義をオンラインで聴講することが許されました。先生は講義の後半でこのように語っておられました。「しかし その救いの歴史に神は人間を、聖霊の力の下(もと)で、その証言の業を用いて参与させてくださるのです。私たちは、人間の滅びの歴史の中に神の救いの歴史が始まっており、成就へと向かっていることを証言するために、特別に選ばれた民なのです。」
わたしは、「証し」と言うと、自分の経験を語るものと思っていました。しかし、それは間違いでした。主イエスの十字架の死によって、わたしたちの罪は赦されました。主イエスの甦りによって、わたしたちの命は死で終わりません。神の愛が、この救いを成し遂げてくださいました。キリストが、神の愛をわたしたちに示してくださいました。主イエスは、わたしたちを照らす光です。この光の中に飛び込んで生きることが、そのまま、「キリストを証しする」ということではないかと思います。何か立派なことを話さなければと頑張るのではない。恵みの光の中で、恵みを受けていることを喜んで、朗らかに、恵みを歌い、感謝して生きる。わたしたちはそのために、先に選ばれた民です。共に喜んで、主イエス・キリストの証人の群れとして仕え合い、赦し合って歩む、その一足一足が、まだこの救いを知らない人々への証しとなるのです。

<祈祷>  
天の父なる神さま、暗闇の中でさまよっていたわたしたちに光をくださり、平安の中へと招き入れてくださいましたあなたの溢れる恵みを感謝いたします。恵みの上に、更に恵みを受けた者として、あなたの愛を、あなたのみ子を証しする者として用い続けてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。わたしどもの国、わたしどもの世界を顧みのうちに置いてください。人が人として世界を作り続けていくということが、人間らしい生活を作っていくということがどんなに困難であるかを思い知らされる日々であります。争いがあり、憎しみがあり、自然災害もあります。このまま滅びるより他ないのではないかと思ってしまいます。どうぞ、そのような中で教会を支えてください。わたしどもの教会もあなたの平安によって生かされ、平安を告げることのできる教会として、立ち続けることができますように。皆で祈り、奉仕の手を差し伸べ合い、互いに助け、慰め、祈り合って生き続けることができますように。病の中にある者、教会から遠ざかっている兄弟姉妹をみ手のうちにおき、信仰を おまもりください。今週の火曜日、東京神学大学で2月入試が実施されます。主よ、受験を控えている者を強め、献身の思いを明確にしてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年2月5日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 箴言 第8章22節~36節、新約 ヨハネによる福音書 第1章1節~18節(Ⅰ)
説教題:「恵みと真理を示す言」
讃美歌:546、1、190、Ⅱ-1、334、541

今朝は、ヨハネによる福音書第1章1節から18節までを通して朗読して頂きました。来週も、またその翌週も1節から18節までを朗読して頂こうと思っています。たくさんの恵みに溢れている み言葉です。何度も何度も読み、恵みを心にしっかりと刻みたいと思うのです。
今から14年ほど前、2008年の夏に、教文館から『説教黙想集成 2 福音書』という分厚い書物が発行されました。その頃、わたしは東京神学大学の大学院2年生でしたが、少し背伸びして購入しました。ドイツで著(あらわ)された説教のための黙想集から、加藤常昭先生が精選し、編集翻訳なさった書物です。その中のハンス・ヨアヒム・イーヴァントの黙想の一部を紹介します。「ヨハネによる福音書 第1章1─14節に書き記されていることを、説教の言葉として語る準備をするときに、われわれが まずわきまえていなければならないことがある。それは、ここで語られているのが、われわれの信仰の中核にある事柄であるということである。ここで語られていることは、キリスト者の信仰が、これによって、立ちもし倒れもするような重要なことなのである。」この一言だけでも、説教者にとって、もちろん会衆にとっても、ここに著(あらわ)されている み言葉がどれほど大切であるかがわかります。
ヨハネによる福音書は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」 と語り始め、14節でこのように言います。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちは その栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
天地を創り、すべての命を創られた神さまのことばが、肉体を持って、わたしたちのところへいらっしゃった。わたしたち人間が、日々、悩みながら、明日のことを思い煩いながら、またたくさんの後悔を抱えながら生きている。その生活のど真ん中へ、わたしたちと一緒に生活するために人間となっていらしてくださったのだ、というのです。「どれどれ、どんな生活をしているか覗いてみよう」、というのではないのです。わたしたちの喜びも悲しみも、楽しみも痛みも、一緒に味わってくださるということです。神さまのことばの中に命があり、わたしたちの悩みの日々をあわれに思ってくださった。聖書でよく用いられている「あわれみ」と訳される言葉ですが、これは何度か説教の中で触れたことがありますが、「腸(はらわた)」という単語が元になっています。腸(はらわた)がちぎれるほどの痛みをもって、思いを寄せてくださる余り、ついに、肉体をもった人間となって、わたしたちの生活の中に入って来てくださったのです。
 わたしたちの教会の中には、年を重ねてきて一人で生活をしている人が少なからずいます。それぞれに努力をしながら、一人の生活を続けている。そのとき、大きな支えになるのは、家族や、ホームヘルパーの働きであると思います。けれども、ある時間になれば、その人たちもそれぞれの家へ帰ってしまう。夜になればまた一人。そのとき、「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」とのみ言葉は、夜の闇を照らす光です。「そうだ。神さまが、人間となって、わたしの生活の中におられる。今、ここにおられ、共に生活していてくださる。たとえ今、神さまから頂いた命を再び神さまにお返しすることになっても、わたしは一人ではない。」そう信じることができる。それがわたしたちキリスト者の慰めであり、暗闇を照らす光です。それは、福音書が、「わたしたちはその栄光を見た。」と言っているとおりです。
福音書は続けます。「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」「恵み」とは、相手の条件や資格にかかわらず一方的に、どこまでも追いかけてくる愛です。わたしたちが神さまを信じられないときにも、神さまの愛はわたしたちを追いかけてくる。神さまの わたしたちへの思いが、愛が、積りに積もって、あふれ出して、肉体をもって、神の独り子イエス・キリストとしてわたしたちに真理を示してくださいました。
「真理」とは本当のことです。嘘、偽りのない、本音とたてまえのようなおもてうらのない、まじりっけもない、義しいことです。わたしたちは、嘘のない生き方をしたいと願います。けれども、それはとてつもなく難しい。いつのまにか、この世の論理に流され、あきらめ、自分をあざむき、ごまかして生きている。いつも、真理に触れないように、まともに向き合わないようにして逃げて生きています。それでいて、自分以外の誰かの不正や嘘には非常に敏感になる。そういうわたしたちにとって、「真理は恵みだ」とはとても言えるものではありません。追いかけてきてもらっては困る。神の愛が、うるさいのです。だからキリストは十字架で殺されました。「暗闇は光を理解しなかった。」「世は言を認めなかった。」と書かれているとおりです。
そのように、わたしたちにとっては、なかなか結び付かない「真理」と「恵み」ですが、聖書においては、「真理」と「恵み」はいつも表裏一体、二つで一つです。主イエスは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。(14:6)」
主イエスは、真理そのものとして、真理を避けて通ろうとするわたしたちの罪を、罪として審かれます。けれども、バッサリと切り落として、立ち直れないようにし、立ち去ってしまう お方ではありません。罪に気づかせてくださり、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。(8:11)」と立ち上がらせてくださる お方です。真理から逃げ、罪に陥る わたしたちのために、主イエスは十字架への道を歩まれました。弟子たちから見捨てられ、父なる神さまからも見捨てられる孤独の中で、本来 審かれるべき わたしたちの身代わりとなって十字架で死んでくださいました。そこまでして、わたしたちが真理に生きる道を備えてくださったのです。わたしたちのすべての罪を赦してくださり、これからは清い、聖なる神の子として生きなさい、これからは、あなたは一人ではない、キリストと共に生きる者となったのだ、と立ち上がらせてくださいました。主イエスこそ真理です。主イエスこそ恵みです。主イエスこそ命です。主イエスこそ、神さまの救いに至る道、神の国へ至る道です。そのような主イエスと結ばれたわたしたちは皆、誰が何と言おうと、16節にあるように、「この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」者たちです。
わたしは教会に育てられました。教会に通い始めてからずっと、讃美歌が大好き。今朝も、教会学校の子どもたちと一緒に「こどもさんびか」を賛美しました。いくつもの愛する「こどもさんびか」がありますが、その中で、今朝の み言葉から思い起こされたのが「しゅイェスのみちを」でした。ご存知の方が多いと思います。「主イェスの道を歩こう まっすぐに/真理の道を 歩こう まよわずに/主イエスは 道です 真理です 命です/命の道を 歩こう 終わりまで」
1966年に作詞、作曲された古い「こどもさんびか」ですが、今もわたしの心に刻まれています。真理を避け、真理に向き合おうとしない、弱く、欠けの多いわたしたちです。わたしたちの生きているこの世も、真理とはほど遠く感じられる。しかし、それにもかかわらず、神さまのことばが肉体をもち、わたしたちの暗闇を照らす光として お生れくださいました。わたしたちの道となり、真理となり、命となってわたしたちの中に宿ってくださいました。そのことを信じるなら、わたしたちは終わりの日まで、主イエスと一緒に、一歩一歩、迷わずに、まっすぐに、真理の道を歩くことができます。これが、わたしたちに与えられている恵みであり、喜びなのです。
今から聖餐の祝いに与ります。聖餐は、主イエスがわたしたちの間に宿られた証しです。何度も失敗してくじけてしまうわたしたちが、主イエスと一緒に、一歩一歩、迷わずに、まっすぐに、真理の道を歩くために、真理に生きる力と喜びが、まるでわたしたちを追いかけてくるように、今日も備えられています。この恵みを感謝して頂き、今日から、また一歩を踏み出していきましょう。

<祈祷>  
天の父なる神さま、あなたの独り子をわたしたちの間に宿してくださり感謝いたします。主イエスこそ、わたしたちの恵みです。主イエスこそ、わたしたちの真理です。主イエスこそ、わたしたちの喜びです。これからも主イエスの道、真理の道、命の道を終わりまで歩む者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。
アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、あなたの恵みを必要としている者たちを顧みてください。病と闘っている者を励ましてください。年老いて、教会に来る力を失っている者に慰めを与えてください。それぞれの家にある悩みを顧みてください。自分の小さなわざが、虚しいのではないかと思ってしまう心を慰めてください。世界の各地で争い、対立が続き、嘆きの涙が流されています。主よ、それらの地にも、あなたの み子が宿っておられるとの確信を お与えください。指導者たちに、平和への道を選んで進む勇気を お与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年1月29日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第1章26節~31節、新約 ヨハネによる福音書 第1章1節~13節
説教題:「神の子となる資格」
讃美歌:546、21、288、360、540

先週から、ヨハネによる福音書を読み始めました。皆さんとご一緒に、一回、一回、ヨハネによる福音書に溢れる神さまの愛と恵みに触れ続けたいと願います。
 福音書は、このように語り始めます。「初めに言(ことば)があった。」言、即ち、主イエス・キリストは人間に命をもたらす光でした。命の光が暗闇の中に照ったのです。それなのに、「暗闇は光を理解しなかった。」また、10節以下には、「世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」とあります。主イエスがユダヤの民から拒絶され、苦しみを受けられた お姿が迫ってまいります。今、わたしたちもまた、主イエスのように愛し合い、赦し合い、祈り合うことを、軽んじてあざけるかのような世に生きています。そして、一つ間違えば、わたしたち自身でさえ、キリスト者として生きることに疲れ、世に迎合しそうになる。そのようなわたしたちに今朝、福音書は「しかし」と呼びかけるのです。励ますのです。12節。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」今朝、ご一緒にしっかりと心に刻みたい み言葉です。
 わたしたちは、先週も色々な思いを抱きながら生きてきました。喜びの日もあれば、嘆きの日もある。恵みの日もあれば、自分が嫌になる日もある。わたしたちの思いは、刻一刻と変化する。いつも穏やかでいることは難しいことです。突然、大きな不安に襲われる日もある。すべてを投げ出したいと思う日もある。キリスト者だからと言って、いつも泰然自若としていられるわけではありません。
しかし、です。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」のです。たとえ、どんなに心が沈んでも、主イエスを「わたしの救い主」と信仰を告白し、洗礼を受ける人々には、「神の子となる資格」が与えられるのです。もしかすると、福音書記者も、迫害にさらされている教会の現実に深く傷つき、心が暗闇に覆われる日もあったかもしれません。しかし、です。心を覆う暗闇が濃いものであればあるほど、その心の底にも、キリストの光が確実に届いているとの信仰に救われてきたのです。そして、キリストの光を知らずに暗闇の中でさまよっている者、望みを失っている者に何とかして、この光を伝えたい、その一心で、「しかし」と記したのではないでしょうか。たとえ、迫害にあっていても、主イエスを、「わたしの救い主、わたしの光、わたしの命」と信じ、受け入れるなら、神の子となる資格が与えられる。この事実こそ、わたしたちの喜びであり、希望である、と記すのです。
「資格」というと、国家資格のように、コツコツ勉強し、試験を受け、合格すると頂ける資格が思い浮かぶかもしれません。牧師も、正教師試験を受け、合格しなければ牧師の資格は得られません。では、「神の子となる資格」も、コツコツ勉強し、試験に合格しなければ頂くことができない資格なのでしょうか。様々な事情で教会に通えなくなり、献金をささげることが困難になった途端、神の子の資格は剥奪されてしまうのでしょうか。ヨハネ福音書は、ただ「その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と語ります。ある意味、拍子抜けするような言葉に思えます。「神の子となる資格」です。本来なら、み子イエスだけが持つ、特別な資格。それが、主イエスの名を信じるだけで、誰にでも与えられるとは、驚くべきことです。
新共同訳は「神の子となる資格」と訳していますが、口語訳は「神の子となる力」、聖書協会共同訳は「神の子となる権能」、新改訳2017は「神の子どもとなる特権」とそれぞれ訳しています。辞典で調べると、最初に「(何々する)自由」、「(何々してもよい)権限」、「(許容された)権威」とあります。どんな邪魔が入ろうとも、迫害にあっていても、わたしたちは神の子。キリストを信じ、キリストに委ね、キリストと生きる者。何者も、わたしたちを神の愛からひきはがすことはできない。わたしたちは、そのように胸を張って言うことができる。そういう自由を持っている。力を持っている。特権が神さまによって与えられている。そのように福音書は宣言しているのです。
それでは、キリスト者すなわち神の子は、何によって生まれたのでしょうか。13節。「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」福音書は、「血」、「肉の欲」、「人の欲」を打ち消して、わたしたちの出自を明らかにします。ユダヤの人々は、「ユダヤ人である」という血統を大事にしていました。けれども、キリスト者は、ユダヤ人であるなしにかかわらず、ただ、神の恵みによって、子とされるのです。もしも、「血」にこだわるなら、わたしたちにとって必要不可欠な血は、キリストの血です。わたしたちは、キリストの十字架の血によって罪を赦され、清められ、神の子となる資格を与えていただいたからです。また、「肉の欲」。「人の欲」とあります。これはほぼ同じ意味といってよいと思います。キリスト者は、男の欲によって生まれるものではない。女の欲によって生まれるものでもない。人間の欲は、キリスト者を生まないのです。ただ、神さまの愛だけが、キリスト者を生むのです。わたしたちの闇がどんなに深く、救いようがないように思えても、神さまの愛が、わたしたちをとらえてくださる。神さまが、「キリストの血によって、あなたがたは清い、あなたがたはわたしの子」と言ってくださるのです。
少し先の第3章16節を朗読します。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」神さまの愛は、わたしたちを見捨てられません。たとえ、わたしたちの心身が衰え、教会に通えなくなっても、たとえ、神さまに背を向けようとも、主イエス・キリストによって示された神さまの愛が、わたしたちから離れることはないのです。わたしたちには、自分が、日本が、世界が、これからどうなるか分かりません。けれども、不安になって思い煩ったり、絶望したりしなくていいのです。なぜなら、わたしたちは皆、世の初めから終わりまでを見通し、救いのご計画に置いてくださる神さまの子どもとされているのですから。また、神さまの愛によって与えられた「資格」には、有効期限がありません。運転免許証の更新のように適正検査を受ける必要もない。ただ神さまの愛に感謝し、キリストこそ、わが喜び、わが救いと賛美し続けてよいのです。
この後、讃美歌360番を賛美します。作詞は、ジョージ・マセソンという、スコットランドの牧師です。マセソンは、裕福な商人の子として生まれましたが、幼い時から極度の弱視で、いずれ失明するであろうとの宣告を受けていました。けれども彼はくじけず、エディンバラ大学で法律を学び、最優秀の成績で卒業します。その頃、彼は既に失明していましたが、さらに4年間神学を学び、牧師となり、2年間グラスゴーの教会で働いた後、イネランという海辺の保養地の小さな教会で18年、さらにエディンバラの教会で13年働きました。細やかな牧会と、熱情を込めた説教は、多くの人に感銘を与えたといいます。
この讃美歌が書かれたのは1882年。彼が40歳の年の、ある夜のことでした。その夜「自分だけが知っているある激しい苦しみ」に襲われ、無我夢中でわずか5分ぐらいの間に、内なる声に促されるようにこの讃美歌を書き上げた、と日記には記されています。「疲れしこころを なぐさむる愛よ」と始まる歌詞ですが、恵泉女学園で教鞭をとられ、賛美歌についての著作も多数残された大塚 野百合先生は、ここを直訳すると「私を決して手放すことがない『愛』よ、疲れた魂を あなたのうちに憩わせます。」となる、と書いておられます。「神から離れたい、よそへ行きたいと願っても、神の愛は決してお許しにならない。それほどに、わたしを愛してくださる神の愛よ。」マセソンは、そう歌い始めるのです。
神さまは、わたしたちが離れて行ってしまうことが、「心が引き裂かれるほど辛く、耐えられない」と言ってくださる。それほどに強い神さまの愛によって、わたしたちは神さまの子としていただいたのです。神さまからいただいた神の子としての命を、日々、神さまの愛の中にお返しすることで、わたしたちは平安を得、わたしたちの命はよりいっそう豊かなものとされてゆきます。先のことは誰にもわかりません。この世にあって日々、キリスト者として生きていくことは闘いの連続です。でも、心配しなくてよい。わたしたちは神によって生まれた神の子なのですから。わたしたちの命は、わたしたちを絶対に手放されることのない神さまの愛によって、生まれました。わたしたちは痛みも、涙も、すべて抱えたまま、この神さまの愛の中に飛び込んでよい。「お父さん、疲れました」と泣いてよい。み子の十字架の血がわたしたちを清め、その資格をわたしたちに与えてくださいました。これがわたしたちの光です。まことの光です。光を信じて、今週もここから歩み出してまいりましょう。

<祈祷>
天の父なる神さま、驚くべきあなたの愛に圧倒されます。どうか、あなたの愛を信じ、あなたの愛にすべてを委ねて生きる、幼子のような心を与えてください。それでも、あなたの愛を疑いそうになるとき、ただ、主の十字架を思い起こす者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。日々の報道を通して、あなたを畏れることを忘れてしまった世を思います。ただ、あなたの愛によってあなたの子としていただいたわたしたちも、本当にあなたはすべての者を愛しておられるのだろうか?と疑ってしまいそうになります。主よ、わたしたちの頑なな心を、あなたの愛で溶かしてください。柔らかな心をあなたがわたしたちに、世界の指導者に取り戻させてください。あなたの平安で世界を満たし、ひとりひとりの魂を満たしてください。そして、主と共にある、そのことだけに根ざす平安と喜びと望みを、あなたからいただいて、この場所から家族や共に生きる人びとのところへと出かけて行くことができますように。今、すべての者をあなたの愛の中に、平安の中に置いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。
天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年1月22日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第9章1節~6節、新約 ヨハネによる福音書 第1章1節~5節
説教題:「暗闇を照らす光」
讃美歌:546、24、187、453、539

 本日から、ヨハネによる福音書に耳を傾けてまいります。ヨハネによる福音書を、はじめから通して説教していくのは わたしにとって初めての経験です。少し緊張もしていますが、皆さんと一緒に読めることを嬉しく思っております。
さて、新共同訳聖書には、ゴシックの小見出しがあります。またその下に、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ福音書と共通する部分がある場合、他の福音書の箇所が記されています。たとえば、第1章19節以下の小見出し「洗礼者ヨハネの証し」には、マタイ第3章1節~12節、マルコ第1章2節~8節、ルカ第3章15節~17節とありますので、すべての福音書に共通して書かれているエピソードであることがわかります。しかし、第1章1節~18節までの み言葉は、ヨハネ福音書にしか書かれておりません。そして読めば読むほど味わい深く、また、この福音書全体を貫く芯のような み言葉であると感じます。そこで、本日から暫くの間は、この1節から18節までを何回かに分けてお話しすることにして、毎主日、1節から司式者に朗読して頂くことにしました。心を開いて、大切に読んでいきたいと思います。
 今日は、最初ですので、皆さんと一緒にいくつか確認しておきたいことがあります。まずは、誰がこの福音書を書いたのか、ということです。ヨハネによる福音書ですから、ヨハネという人物が書いたのだろうと考えます。ヨハネと言えば、6節から登場する洗礼者ヨハネが思い浮かびますが、早い時期に殉教していますから、違います。次に思い浮かぶのは、主イエスの12弟子の一人、ゼベダイの子ヨハネです。かつては、このヨハネが書いたものと考えられていましたが、研究が進んだ今日(こんにち)では、その可能性もないようです。
では、いったい誰が書いたのでしょう。読み進めていくと、第 13章に「裏切りの予告」とゴシックの小見出しのある23節に、「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。」とあります。この主イエスの愛しておられた弟子が書いたのではないか、という説があるようです。しかし、名前は出てきません。福音書記者が誰であるのか、不明なのです。ヨハネという名であったかどうかも定かではない。けれども、この福音書の作者が、主イエスが深く愛しておられた弟子のことを書いたとき、この弟子こそが、わたしである、そのような思いで登場させたのではないかと想像することができます。本当に直接その場にいた人なのか、そうではなかったのか、ということが問題なのではなく、わたしも主に愛されている、読み手のあなたも主に愛されている、その確信をもって作者は、この人物に自分自身を、そして読み手をも、投影しているのではないかと思います。そのように、わたしたち自身も主から愛されている者として、福音書の中に立ちたい。主の愛を感じながら、福音書の中に立つようにして み言葉を味わっていきたいと願うのです。
 さて、加えて確認しておきたいのは、この福音書はどのような時代に、どのような背景があって書かれたのか、ということです。紀元95年に、ドミティアヌスという皇帝の名による大迫害がありました。ヨハネ福音書が執筆されたのは、紀元80年代末から90年代にかけての頃と考えられておりますので、大迫害に苦しみながら書かれていたか、その直前に書かれたのか詳しいところはわかりませんが、いずれにしても、ヨハネ福音書を生んだ教会は、命の危険を覚えるほどの厳しい状況に置かれていたのです。またローマ帝国による迫害だけでなく、同胞であるユダヤ人たちからも、異端者として激しい憎しみの対象とされていたと考えられています。どこにも居場所がない。まさしく暗闇のどん底のような時代です。その暗闇の中から、光を指し示す福音書が生まれたのです。
今の日本では福音書が書かれた時代のような迫害こそありませんし、教会に行っているからといって同胞からあからさまにつまはじきにされることもありませんが、社会全体を包んでいる闇は深く、わたしたちの心も、うっかりすると暗闇に支配されてしまいそうになります。それでも、わたしたちを照らす光は来たと、ヨハネによる福音書は宣言します。ヨハネ福音書が語る光を見つめながら、光に導かれながら、進んでいきたいと願います。
福音書はこのように語り始めます。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」皆さんも気づかれたように、わたしたちが一般的に用います言語の言(げん)に葉っぱの葉(は)という字を書く、言葉という表記ではなく、言語の言(げん)という文字だけを用い、ふりがなで「ことば」と読ませる形をとっています。ちなみに、岩波訳は「はじめに、ことばがいた。」と訳していますが、漢字ではなく平仮名で「ことば」と表記し、「いた」という表現を用いて、ことばが持つ命を表しています。そういうところからも、この「言」はわたしたちが普段コミュニケーションの手段として用いる「言葉」とは、まったく違う次元のものであることがわかります。口から出てすぐに消えてしまうような、まるで葉っぱのような、そういう軽いものではない。重さがある。確かさがある。初めから永遠に至る、時空の無限の広がりを持っている。そして「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」とあるように、「言」には創造の力がある。すべてのものが造られる以前から、神さまと共に存在し、神自身でもあり、すべてのものはこの「言」によって造られた。元のギリシア語は「ロゴス」という単語です。神のことば、みことば、ひいてはキリストの福音と訳されることもあります。神さまの力ある「言(ロゴス)」が神さまから発せられたとき、「言(ロゴス)」は、すべてのものを造り、すべての命を造ったのです。
ヨハネ福音書の冒頭の この不思議な み言葉と響き合うように、旧約聖書冒頭の天地創造の物語が聞こえてくる気がいたします。創世記 第1章1節から3節。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」神さまの「言」の力、「言」の命が、ほとばしるような、躍動するような み言葉です。そうして「言」によって造られた光が世の初めを照らしたように、「言」が肉体をもって主イエス・キリストとして世に降って来てくださった。命を宿した神の「言(ロゴス)」が、ヨハネ福音書の時代の暗闇にも、わたしたちの世の暗闇にも、人間を照らす光として来てくださった。そう、ヨハネ福音書は告げるのです。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」神の「言」の内に命があり、人間を照らす光として、わたしたちのもとに来てくださったのです。生きた神の「言」が、すぐに暗闇の中に落ち込んでしまうわたしたちを神の子とし、生き生きと生かすために、人間の姿をとって、主イエス・キリストとして、世に来てくださったのです。
ヨハネ福音書は続けます。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」実は、後半の「暗闇は光を理解しなかった。」という部分は、訳によってだいぶ趣が変わってきます。新共同訳に似ている訳としては、文語訳があります。「光は暗黑(くらき)に照る、而(しか)して暗黑(くらき)は之(これ)を悟ら ざりき。」意味が少し違ってくるのは、岩波訳。「その光は闇の中に輝いている。闇はこの光を阻止できなかったのである。」聖書協会共同訳。「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」口語訳も「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」となっていました。まったく反対の意味ともとれるくらい違う響きを持つ、二通りの訳があるのです。どう考えたらよいのでしょう。「悟る」「理解する」と、「勝つ」「阻止する」と、それぞれ翻訳されている元のギリシア語は、「捕える」という意味の単語です。一方は、闇は光を理解できなかった、頭で、あるいは心で、捕えることができなかった。また一方は、両方の手で、ガッチリ捕らえることができなかった。摑まえそこねた。征服することができなかった。そういう解釈の違いがあるようです。どちらの訳がいいのか、言語と聖書に精通する先生方ですら意見の分かれるところですけれども、違うことを言っているようで、実は違うからこそ、一つの真実を語っていると言っても良いのではないか、とも思います。暗闇は光の本質を理解することができなかったから、光を、キリストを、殺したのです。ところが、光を殺して勝ったつもりでいた暗闇ですが、キリストは復活なさいました。そして、キリストの光は2000年後の今なお、わたしたちの光として、輝き続けているからです。
イザヤ書に、このような預言の み言葉があります。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。(55:11)」暗闇が光を理解しなくとも、神さまの「言」の内には命があり、人間を照らす光として、神さまの み心を成し遂げ、神さまからの使命を果たし、暗闇に勝利したのです。どんな暗い闇のような世にあっても、わたしたちには、この神の「言」、キリストの光が与えられており、勝利が約束されているのです。

<祈祷>
天の父なる神さま、命の み言葉を感謝いたします。
主よ、この世は暗闇に覆われているようです。まことの光として み子を世に遣わしてくださり、感謝いたします。暗闇の中で輝いている主イエスへの望みを日々、お与えください。
主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。主よ、あなたの恵みを最も必要としている者たちを顧みてください。病床にある友を励ましてください。年老いて、ここに来る力を失っている者に慰めを与えてください。それぞれの家にある悩みを顧みてください。病んでいる者を看取り続ける人を、年老いた者をいたわり続ける人の労苦をあなたが慰めてください。
争いがあり、憎しみがあり、もはや この世は滅びるよりほかないのではないかと望みを失いそうになります。どうぞ、そのような困難の中でなお、キリストの光を映して立つ教会を、支えてください。
わたしどもの教会をあなたの光で満たし、皆で祈り、互いに助け合い、慰め合う群れとし、平和を告げることのできる教会として用いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。
天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年1月15日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第23篇1節~6節、新約 ペトロの手紙一 第5章12節~14節
説教題:「主の恵みに踏みとどまれ」
讃美歌:546、9、294、Ⅱ-167、545B

 昨年5月1日から読み続けてきたペトロの手紙一も、今日で最後となります。ペトロは手紙を締めくくる言葉を、このように記しました。「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、 あなたがたに このように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。」
シルワノという人物が、執筆を担ってくれていたことがわかります。シルワノは、エルサレム教会で「預言者」と呼ばれ、伝道者パウロの第二次伝道旅行にも同伴。パウロの片腕として働いたテモテと共に、パウロの宣教を支えた人物です。そのシルワノが、ローマで晩年を迎えていたペトロの働きを手伝っていたのです。元はガリラヤの漁師であったペトロですから、もしかしたら、ギリシア語で文章を書くことは得意ではなかったのかもしれません。けれども、何としてでも伝えたいことが、ペトロにはあったのです。
ペトロ自身が書いたように、短いと言えば短い手紙かもしれません。パウロの手紙と比べてみると、確かに短い。それでもペトロが、「短く手紙を書き」と記したのは、手紙の長さのことを言っているだけではないと思います。神さまの恵みの広さ、深さ、豊かさは、いくら書いても書き足りない。そのような思いからの言葉ではないでしょうか。だからこそ、「どんなことがあっても、この恵みから離れてはならない」とペトロは訴えるのです。
ペトロの手紙は、特定の人物への手紙ではありません。手紙の冒頭に、「各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。(1:1)」とありました。わたしたちも、天を本国として遥かに仰ぎ見ながら、この地に仮住まいをしている選ばれた者たちです。
ペトロは、まさか2000年後、見たことも聞いたこともなかったほど遠くの国の わたしたちが、手紙を読むことなど想像すらしなかったことでしょう。それでも、この手紙によって、こうして今、わたしたちにも、たくさんの励まし、慰め、恵みが届いているのです。
ペトロは、「勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。」と記します。「勧告」と訳された言葉には、「慰め」、「励ます」という意味もあります。主イエスの福音を聞き、 慰めと励ましを受けた者は、キリストに従って生きる力を得ます。平和を実現する勇気を得ます。そのように、キリストの福音は、 昨日までの自分をかなぐり捨てて、新しい命で、一歩を踏み出すことを促す勧告となります。ペトロが、「これこそ神の まことの恵みである」と書いているとおりです。
「まことの恵み」を与えていただく資格など、わたしたちには ありません。わたしたちは、すぐに神さまに背を向けます。わたしたちは、人の悪口を言ったり、人を赦せなかったりする自分が、「神さまに背を向けてさえいれば、神さまからも見えていない」と心のどこかで思っているのではないでしょうか。けれども、神さまは、わたしたちが「大丈夫、見られていない。」と思っている罪を知っておられます。それなのに神さまは、わたしたちをどこまでも愛しておられる。わたしたちのために祈り、わたしたちが悔い改めるのを待っていてくださる。神さまの恵みは、いつもわたしたちの先回りをしています。だから、「まことの恵み」なのです。偽りのない、「まことの恵み」です。
ペトロは、わたしたちに告げるのです。「この恵みに しっかり踏みとどまりなさい。」「愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。」わたしたちが日々、心に刻むべき み言葉です。自分の罪を知り、悔い改め、キリストに従ったペトロからの最後の勧告として、今日も、明日も、心に刻みたい。「この恵みに しっかり踏みとどまりなさい。」「愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。」
 ペトロは続けます。13節、「共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。」「バビロン」というのは当時の隠語で、ローマを指します。バビロンは、かつてイスラエルの民を支配していた国です。ペトロの時代、イスラエルを支配していたのはローマでした。かつてバビロンの奴隷であったイスラエルの民を、神さまが解放してくださったように、ローマの支配も永遠ではない。神さまが必ず解放してくださるとの望みが、この隠語に表れているのかもしれません。
ここに、「マルコ」の名前が登場します。「マルコによる福音書」を記したマルコです。マルコは、ペトロの通訳として働きました。使徒言行録 第12章には、ペトロが、天使によって牢屋から解放されたとき、まっすぐにマルコの家に向かった、というエピソードが記されています。そのときマルコの家には、大勢の人が集まり、ペトロの解放のために祈り続けていました。ペトロとマルコがどれほど信頼し合っていたかが伝わってきます。ペトロは、マルコや 冒頭で紹介したシルワノに支えられて、手紙を最後まで記すことができたのです。
 今、わたしたちの心にかかっているのは、礼拝出席が困難な兄弟姉妹のことです。「個人情報の保護に関する法律」のため、週報に消息を記すことが難しいのですが、それでも、御言葉と祈りの会
では、本人の了解を得て、できるだけ消息を伝えるようにしております。そのときに大切に共有していることは、「それぞれの理由で、今は教会から離れているが、誰もが神さまに選ばれ、愛され、恵みを頂き、キリストと結ばれた神の家族。」という思いです。
ペトロは、手紙の最後に祈りを記しました。「キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。」わたしたちは皆、罪人であったのに、主イエスの十字架と甦りにより、罪を赦され、キリストと結び合わせて頂きました。わたしたちは、キリストに よって一つです。互いに裁き合い、切り捨てるのではなく、互いの弱さを認め合い、一緒に歩くために、一つとされているのです。
今、世界も、日本も、大きな渦に巻き込まれていることを感じずにはおれません。共に神さまの赦しの中に招かれているのに、互いを信頼できず、裁き合い、相手を打ち負かそうとする。教会も例外ではありません。共に神さまの み前に立ち、自分の低さを知らなくてはならないのに、気がつくと神さまより高い場所に立って人を裁いている。そして、「どうせ、祈っても無駄」と悪魔に抵抗することを諦めてしまう。その姿を、ペトロは黙って見ていられない。晩年、自分の死がそれほど遠くないことを予感する中で、神の家族がまことの恵みから脱落していくのは耐えられない。だから、この手紙を記したのだと思います。
ペトロの時代も、今も、教会には様々な課題があります。しかし、教会は、神さまの恵みに踏みとどまってきました。わたしたちは皆、弱い。すぐに恵みから離れそうになる。けれども、神さまは、ペトロを通して語りかけていてくださるのです。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(5:7)」神の恵みの、何と深いことでしょう。誰一人、神の恵みからこぼれることはない。誰一人、神から忘れられることはない。わたしたちは皆、キリストと結ばれ、神さまから日々、愛の口づけを受けているのです。そうであるなら、教会に連なる仲間が、主の恵みに踏みとどまり、与えられた命を全うすることができるよう祈り続けるのは必然のことです。裁き、切り捨てるのではなく、共に歩むことは、わたしたちが担うべき十字架です。キリスト共に、平和を祈りましょう。キリスト共に、支え合いましょう。キリストと共に、喜び合いましょう。キリストと共に、涙を流し合いましょう。キリストと共に、神のまことの恵みにしっかり踏みとどまる。それが、キリストに結ばれたわたしたちの使命であり、喜びなのです。

<祈祷>
天の父なる神さま、主イエス・キリストと結ばれた者として、まことの恵みに踏みとどまる者としてください。愛の口づけによって互いに挨拶を交わし、主の平和を祈り合う者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。世界が、日本が、争いの渦に巻き込まれています。主よ、世界の動きに責任をもつ人びとに、あなたを畏れる心を与えてください。一人の命を大切にすることができますよう導いてください。 病床にある者に、孤独を抱えている者に、すべてに勝利しておられる キリストと結ばれている確信を与えてください。様々な不安に襲われている者に、あなたがいつも心にかけていてくださることを信じ、すべての不安を安心してあなたに委ねる信仰を日々、与えてください。教会から離れている者たちが、あなたのまことの恵みにしっかり踏みとどまることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年1月8日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第50章4節~9節、新約 ペトロの手紙一 第5章8節~11節
説教題:「力の神に望みを置いて」
讃美歌:546、14、238、286、545A、427

 東村山へ赴任する前におりました釧路では、教会の働きに加え、幼稚園の働きも与えられていました。卒園を控えた年長児にとって最後の遠足は、動物園遠足でした。ある年、驚く経験をしました。当時の一番人気は、アムールトラの双子の兄弟タイガとココアでしたが、タイガは肉片を喉に詰まらせて死んでしまい、ココアだけになっていました。いつもは、のっそのっそと広い園舎を歩いているココアですが、その日は珍しく機嫌が悪く、威嚇したり、檻に体をぶつけたりしていました。怖がって泣き出す園児を「ココア、さびしいのかな。いつもは優しいのに。」となだめた記憶があります。
 ペトロは、悪魔について、「ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」と表現しました。獅子とトラの違いはありますが、不機嫌だったアムールトラの姿が思い出されました。檻の中であれば何の心配もありませんが、わたしたちの敵である悪魔は、わたしたちの周りをほえたけりながら探し回っている。身を慎んで目を覚ましていないと、あっと言う間に食い尽くされてしまう。それほど、わたしたちは弱いとペトロは記すのです。わたしたちにも覚えがあります。悪魔とは思いもよらない魅力的な姿で近づいてきて、気がついたときには、もう遅いのです。
 ペトロにも、経験がありました。主イエスを「知らない」と三度も否定してしまった夜に。目を覚ましていたつもりのペトロの隙を見逃さないのが悪魔です。「知らぬふりをした方が安全だ。イエスの仲間だ、と言ったが最後、捕まって、殺されてしまうに決まっている。大丈夫。お前だけじゃない。現にみんな逃げ出してしまってここにはいないじゃないか。」そんな言葉で近づく。
ペトロは、悪魔に負けました。まったく抵抗することができなかった。敗北を味わった者として、同じ過ち、同じ苦しみを味わわせたくない。その一心で、一所懸命手紙を書き、そしていよいよ筆を置く直前に、念を押すように語りかけたのです。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」
 ペトロは、自らの敗北を通して、大切なことを学びました。どうすれば、悪魔の誘惑に抵抗することができるかを。それは、身を慎むことです。自分を低く抑えるのです。それも、神さまとの関係において自分を抑える。神さまの み前に立ち、神さまに心を向けることで抑えるのです。抑えていただく、と言った方がよいかもしれません。神さまの み前に立つと、「自分がどれほどの者か」ということがおのずと見えてきます。自分の力で、自分を制御することは不可能です。自分ではなく、神さまにしっかり捉えていただくのです。これは、先週の「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。(5:7)」の続き、といってもよい。敵である悪魔に抵抗するには、神さまに頼るほかないのです。
 ペトロは続けます。「目を覚ましていなさい。」目を覚ますとは、どういうことでしょう。第一は、神さまを礼拝することです。週の初めの日、心を込めて礼拝をささげる。これが、わたしたちの心の目覚ましです。第二は、日々の祈りです。朝ごとに、「天の父なる神さま」と呼びかけることは、悪魔に抵抗する力になる。「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。」と祈る。朝、慌てて身支度して、そのまま出かけてしまうのではなく、「わたしは光の子。主イエスと共に生きる者」と心の目をちゃんと覚まして神さまを仰ぐのです。第三は、自分の十字架を背負い続けることです。主は言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マルコによる福音書8:34)」自分を捨てることは勇気のいることです。でも、自分を捨てなければ、十字架を背負うことはできないのです。自分の力で背負おうとすると、とてつもなく重い十字架ですが、神さまの み前に立って、小さく弱い自分を知り、ただただ、先立って悪魔と戦っていてくださる主イエスを見つめ、主と共に歩み始めると軽くなる。そして、悪魔に抵抗できるのです。
 ペトロが、「あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。」と続けるよう、悪魔との戦いは、信仰を与えられた者なら誰もが皆、経験するものです。わたしたちの戦いは、孤独な戦いではなく、すべての信仰者と共に戦っているのです。それだけではありません。神さまご自身が、すべての信仰者と共に戦っていてくださる。主イエスが、先陣を切っていてくださる。わたしたちは生涯、この恵みから離れてはなりません。たとえ、自分だけ世界から取り残されたように思っても、自分の弱さに嫌気がさしても、神さまがわたしと共に悪魔と戦っていてくださる。その事実を忘れてはならない!とペトロは、それこそ遺言のように手紙の最後に記しているのです。
ペトロは続く10節に、こう記します。「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」
今日は新年2回目の礼拝ですが、新しい年を導く み言葉として墨で書いて張り出しておきたい み言葉です。日々、わたしたちは苦しみを経験します。誘惑にも負けます。「しかし」なのです。ペトロが記した「しかし」は、大きな「しかし」だと思います。
肉体の衰えに悩む。家族の体調が悪くなる。子や孫の将来が気になる。思い煩いは次から次へ増えていく。悪魔がささやく。「礼拝なんかしている場合か?今、やるべきことがあるだろう?神さまに委ねる?現実逃避以外の何ものでもない!」けれども、いや、だからこそ、「しかし」なのです。「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」できることなら、皆さんと声を合わせて唱和したい。それほど、力強い、慰めと励ましに満ちた み言葉です。
神さまは、あらゆる恵みの源です。神さまが、主イエスにより、わたしたちを、永遠の栄光へ招いてくださいました。今、試練の中、苦しみの中にある者には、永遠の栄光へ招かれている実感がないかもしれません。それでも、わたしたちは知っています。あの時、あの苦しみがあったから、神さまの愛と招きを知ったことを。
ペトロは10節後半に、「しばらくの間 苦しんだ」と記します。苦しんでいる者には、苦しみは長く感じられます。しかし、神さまには、特別な ご計画があるのです。神さまは、苦しみの先にある永遠の栄光を見ておられます。永遠の栄光とは、「完全な者」とされ、「強め、力づけ」られ、「揺らぐことがないように」されることです。「完全な者とし」と訳されている言葉は、口語訳聖書では、「いやし」となっていました。信仰者は、獅子と戦うように、悪魔と戦い続ける。当然、繰り返し深い傷を負うのです。その傷を自分でいやすことは困難。わたしたちをよく知っていてくださる神さまにしか、本当の意味で傷をいやすことはできません。しかも神さまは、いやすだけでなく、完全な者、悪魔に負けない者にしてくださるのです。また、「強め、力づけ」とあります。これは、「岩のように固く、強いものにする」という意味です。わたしたちは、苦しみの中で、神さまの恵み、支えを強く感じることができます。神さまへの信仰が岩のように固く、強められていくのです。そして、「揺らぐことがないように」とあります。これは、「土台を据える」という意味です。
伝道者パウロの み言葉を心に刻みたい。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。(コリントの信徒への手紙一3:11)」わたしたちは、自分で土台を据えるのではありません。イエス・キリストという揺らぐことがない土台を、神さまが既に据えてくださったのです。わたしたちは、その上で信仰生活をしていくのです。
今日の説教題は、「力の神に望みを置いて」としました。わたしたちはすぐに眠りこけてしまう弱い者です。いつも目を覚まして神さまの前に立ち続けていなければ、ほえたける獅子のような悪魔に食い尽くされてしまいます。しかし、今日も礼拝に招いていただきました。今日も「神さま」と祈ることが許されました。ただただ神さまの憐れみ、聖霊の助けによる恵みです。眠りこけてしまうわたしたちでも、神さまは絶対に諦めないで、日々、信仰と、希望と、愛を注ぎ続けてくださいます。そのような力の源であられる神さまに望みを置き、わたしたちは今日を生きることができる。だから、ペトロは心を込めて祈るのです。「力が世々限りなく神にありますように、アーメン。」 
わたしたちも、「主の祈り」を祈るように、この祈りを祈りたい。いつまでも、神さまが強くあってくださるように。ほえたける獅子のような敵である悪魔ではなく、「ただ神にのみ栄光あれ」と。「ただ神にのみ力が、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」この祈りを祈る時、わたしたちの傷はいやされ、強められ、力を与えられ、キリスト・イエスにあって揺らぐことのない者、永遠の栄光に生きる者とされるのです。

<祈祷>
天の父なる神さま、苦しみ、不安の中にあるときも、あなたの恵みを感じることができますように。どんなときも「ただ神にのみ栄光あれ」と祈る者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いでください。心にかかっている者たちがおります。わたしたちの家族、教会の仲間、職場の同僚たち、数え尽くすことができないわたしたちの隣人に、愛とあなたの真実に生きる思いとを与えてください。病める者に、悩みの中にある者に、試みを受けています者に、年若き者に、年老いた者に、それぞれに相応しい助けを与えてください。平和の世界でありますように。至るところで争いが続いています。命が粗末にされています。人間の愛も、正義を語る声も、平和を願い求める思いも虚しいとさえ思われる世界です。望みを失わない歩みを わたしたちに、そして、まだあなたを知らない者たちにも与えてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2023年1月1日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第55篇17節~23節、新約 ペトロの手紙一 第5章5節~7節
説教題:「神の力強い御手の下で」
讃美歌:546、28、411、Ⅱ-1、333、544

2023年の新年礼拝を1月1日に愛する皆さんと一緒にささげられる恵みを主に感謝いたします。
私事になりますが、昨年末、大切な二人の信仰の先輩を、主の みもとに送りました。一人は、わたしたち夫婦の結婚の証人であり、子どもたちの小児洗礼の教保の任を担ってくださった方。もう一人は、説教でも紹介したことのあるハンセン病の元患者の方。二人とも、わたしたちにとって大切な神の家族だったので、今もぽっかりと穴が開いたような心もちです。二人とも弱っていると聞いておりましたので、心の準備はできていたつもりでした。けれども、召されたという事実は心に重く、「ああ、もうお二人と親しく語り合うことはできないのだな」と思うとただただ淋しく思うのです。そのような気持ちを抱えながら、説教準備を致しました。すると、準備をしているうちに、ペトロの手紙の み言葉が、二人の友からの慰めと励ましのように聞こえてきたのです。二人の人生はまったく違うものです。でも、一つだけ同じことがある。それは、失意の中で、痛みの中で、主イエスと出会ったこと。そして、神さまが、心にかけていてくださることを信じ、思い煩いは、何もかも神さまにお任せして、与えられた地上での命を、主と共に歩んだ、ということです。残念ながら二人の葬儀への出席は叶いませんでしたが、二人の信仰に励まされながら新年礼拝の備えをし、そして今日、皆さんと一緒にペトロの手紙一の み言葉を読んで、新年をスタートさせることができるのは、大きな恵みであり、慰めとなりました。
ペトロは、長老たちへの勧めを書いた後、「若い人たち、長老に従いなさい。」と続けます。クリスマス礼拝の前の週は、長老たちへの勧めの言葉を読みましたから、「ああ、今度は、長老を支える教会員へのメッセージが始まるのかな」と思いますが、それはただ一言「長老に従いなさい。」で終わるのです。そしてペトロは、「皆」と続けます。「皆 互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです。」
「謙遜を身に着けなさい。」という言葉には、「エプロンを首から前にかけるように身に纏う」という意味があり、当時、奴隷たちがエプロンを身に着けたやり方を指すのだそうです。奴隷のような謙遜を身につけなさい、ということです。奴隷のような、と言われると、卑屈なイメージが思い浮かぶかもしれません。でも、それは違います。神さまの前で高慢に歩むのではなく、どんなときもわたしたちを愛してくださる神さまに、心を込めて仕えるのです。
先週の木曜日、説教塾の学びをオンラインで受けました。加藤先生が塾生の質問に心を込めて答えてくださる学びです。このような質問でした。「加藤先生は、讃美歌の『不快語』についてどう考えますか?」先生は、讃美歌111番を紹介してくださいました。「神の御子は今宵しも/ベツレヘムに生れたもう。」と始まる、クリスマスの讃美歌です。2節の歌詞は、以前は「賎の女(しずのめ)をば母として/生れまししみどりごは、」でしたが、現在は、「おとめマリヤ母として/生れまししみどりごは、」に修正されています。先生はおっしゃいました。「修正するのはおかしいです。賎の女という言葉は、謙譲語、謙遜な言葉であって、差別の意図はありません。最近は、僕(しもべ)という言葉も以前ほど使われていません。かつて、キリスト者が自らを『主の僕』と呼ぶのは当然でした。神さまの前に、賎の女として、僕として、奴隷として真実にへりくだる。謙遜は大切。」と教えてくださいました。誰よりも主イエスが、まさに、そのように謙遜であられました。
使徒パウロが書いたフィリピの信徒への手紙に、キリストの謙遜がどのようなものであったかが記されています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(2:6~8)」形ばかりの謙遜ではありません。すべてのものを創り、愛し、導かれる神さまに、どこまでも信頼して従う謙遜です。
ペトロは続けます。6節、「だから、神の力強い御手の下(もと)で自分を低くしなさい。」冒頭で紹介した二人の信仰の友は、わたしがサラリーマン時代に、悩んでいたとき、いつも静かに耳を傾けてくださいました。口を挟むことなく、「そうか、それは辛いよね」と共感してくださった。そして、心を込めて祈ってくださいました。若輩者を相手に、そのように接するのは簡単ではないはずです。相手より優位に立ち、「そんな考えではダメだ」と指図することは魅力的なことだからです。神さまの力強い御手のもとで謙遜に生きる喜びを知らなければ、とてもできることではありません。
ここで「低くしなさい」と言われている言葉は、「今すぐ、低くされなさい」という言い方です。自分より経験の乏しい者から、何かを指摘されると、ムッとしてしまうわたしたちですが、ムッとしている場合ではないのです。すべての者の造り主のもとに、今すぐ立ち帰り、その恵みの中に立ち、自分がどれほど小さく低く貧しい者であるかをわきまえなければなりません。できるとか、できないとか、あれこれ言っている暇はないのです。ペトロは続けて記しました。「そうすれば、かの時には高めていただけます。」
「かの時」とは、終わりの時。神さまが、わたしたちに約束してくださった救いの完成のときです。先ほどのフィリピの信徒への手紙のキリストの謙遜についての記述には、続きがあります。
「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(2:9~11)」神さまの み旨に従って、人を救うために、死に至るまで謙遜に生きられたキリストを、神さまは、「高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」それが、「神の力強い御手」のわざです。その神さまの力強い御手が、救いの完成のときには、わたしたちをも、高く上げてくださる。ここに、信仰者が謙遜に生きる目的があります。希望があります。謙遜は卑屈になることではありません。心を高く上げて、主の み声に従い、主を見上げて、生きるのです。
しかし、いざ実践となると、頭ではわかっていても、どうしたらよいのか途方に暮れる。そんなわたしたちに、ペトロは続けて語りかけます。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」
「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださる」。わたしたちが自分で心配しなくても、神さまが心配してくださるのです。神さまが、心にかけていてくださるのです。どんなときも神さまが共におられる。わたしたちは、どんなときも、神さまの力強い御手にしっかりと捉えられている。まもられ、ささえられている。だから、あれこれ心配せずに神さまにお任せしてよいのです。神さまの力強い御手にすべてを委ねてよいのですから、どうしたらよいのかと途方に暮れて思い煩うことはないのです。思い煩うことは、神さまの力を疑うことです。人間の傲慢です。
「お任せしなさい」という言葉には、何かを何かに投げつける、という意味があります。思い煩いは神さまに向かって投げつけろ、ということです。思い煩いは、いつでもしつこくわたしたちにまとわりついてくるものです。それを引きはがして神さまにぶつける。「引きはがしては投げ、引きはがしては投げ、それでよいのだ」と言われているのです。
主イエスも、十字架の死を前に、神さまに思い煩いを投げつけるように、祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。(マタイによる福音書26:39)」
どこまでも神さまを信頼し、思い煩いをぶつける祈りです。この祈りによって主イエスは、十字架の死へと進まれました。そして、十字架の上で肉を裂かれ、血潮を流されたのです。只今から聖餐の祝いに与ります。十字架の主イエスを目で見、口で味わい、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈られた主イエスのように、謙遜に生きる力をいただくのです。
新しい年2023年。互いに謙遜を身に着けたい。神の力強い御手の下で自分を低くしたい。神さまの御力と愛を信じ、思い煩いは、何もかも神さまに任せたい。神さまが、わたしたちのことを心にかけていてくださるのですから。

<祈祷>
天の父なる神さま、慰めと励ましに満ちた み言葉を感謝いたします。あなたの力強い御手のもとで自分を低くする者としてください。思い煩いは、何もかもあなたに任せる者としてください。これからも、わたしたちを、わたしたちの教会を心にかけていてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、わたしたちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。主よ、あなたの慰めと励ましの み言葉を必要としている者がおります。教会に来ることを知らない者、偶像に心を奪われている者、悲しみと惨めさの中で望みを失っている者、肉体の弱さを抱える者がおります。それらすべての者をしっかりと捉え、離さないでください。み子が弱く、低くなられたように、お互いに謙遜を身に着け、助け合う世界を作らせてください。新しい年も、何が起きるか分かりませんが、たとえ、何が起きても、み言葉によって支えられ、主の日ごとに集まる礼拝によって慰めを得ることができますように。お互いを兄弟、姉妹とし、慰めの中に立たせてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年12月25日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第7章10節~17節、新約 ルカによる福音書 第2章1節~20節
説教題:「あなたの救い主」
讃美歌:546、98、108、Ⅱ-1、115、543

説教を始めるにあたり、クリスマス礼拝をこの礼拝堂で、また、ライブ配信でささげている皆さんの上に、祝福と平安をお祈りいたします。
もう20年近く前のことですが、山歩きを趣味としておりました義理の父が、小学生だった長男を、散策に連れて行ってくれたことがありました。とても長くて暗いトンネルがある道でした。トンネルを進んでいきますと、道がカーブしているため、途中、本当の真っ暗闇になるのだそうです。試しにヘッドライトを消すと、もうどっちが前か後ろかも分からなくなる。歩いていれば必ず出口に着くと分かっていても、真っ暗闇は不安になります。軽口でもたたいていないと怖かったのかもしれません。遠くに見える入口を背に暗いトンネルをおちゃらけたようすで進む長男の写真が残っています。その写真を見、遠くに出口の光が見えたときのホッとした様子の土産話を聞きながら、羊飼いたちが野宿していたクリスマスの夜の暗さを思いました。
羊飼いたちが夜通し羊の群れの番をしていた野原も、暗闇に覆われていました。たきびくらいは たいていたでしょうけれども、少し離れれば互いの顔もよく分からないほどでありました。夜の暗さですから、朝が来れば明るくなると分かっていますが、それでもやはり、心細いものではなかったかと思います。
ところが!突然、真っ暗な夜空を切り裂くように天が開き、そこから、天の光がドッとあふれ出て来たのです。あまりの眩しさに目がつぶれる!と思ったかもしれません。思わず目をつぶった羊飼いたちが恐る恐る薄目を開けてみると、開かれた天の戸口から、主の栄光の光と共に天使が現れたのです。天使は、恐れおののいている彼らに告げました。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
そして、それに続いて天の大軍が続々と降って来て、空 一杯に賛美の声が響いたのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」それまで静まり返っていた野原に響く大コーラス。わたしたちも、ハレルヤコーラスを聞いたり歌ったりする機会がありますと、心が高鳴りますが、羊飼いたちの聞いた賛美の歌声たるや、どれほどのものであったかと思います。やがて天使たちは天に帰って行き、天の戸口は再び閉じて、暗闇と静寂が戻りました。天から溢れ出ていた光は消え、歌声も聞こえなくなりました。
羊飼いたちを包んでいた地上の暗さは、実際の夜の暗さだけではなく、そのまま当時の人々を包んでいた時代の暗さでもありました。ローマ皇帝アウグストゥスから戸籍登録の勅令が出され、従わなければなりませんでした。支配者から数えられ、税金を取られ、必要があれば労働を課され、兵士として命を差し出さなければならない。それが現実だったのです。そういう暗闇に、天の光の眩しさ、美しさ、天の賛美が、洪水のように押し寄せてきた。圧倒的な恵みが押し寄せてきた。それが、クリスマスの夜の出来事でした。
 当時の人びとは、暗闇のような時代の中で、いつか必ず、悲惨な状況から神さまが救い出してくださる。救い主が、助けに来てくださる、と信じて待ちこがれていました。しかし多くの人々が求めていたのは政治的な解放をもたらす救い主でした。ローマ帝国をけちらし、ユダヤの国を取り戻す、そのような救い主を求めていたのです。そのために人々は、真の救い主が見えなかったのかもしれません。救い主を見ようとしない、そこにも、わたしたち人間の暗さがあります。救い主はほんとうにひっそりと、暗闇の時代に潜入していらっしゃるかのようにベツレヘムの馬小屋でお生れになりました。天上の輝きと喜びとは対照的に、地上の暗闇はどこまでも暗く、羊飼いたち以外は目を閉じて、眠っており、救いを見ることができなかったのです。
 「救い」とは、何でしょう。当時のユダヤの人々が求めたように、政治的に征服されていなければ救われているのでしょうか。もしそうであるならば現代の多くの国の人々はもっと平安であるはずです。街のクリスマスイルミネーションとは裏腹に、孤独を感じる人は少なくありません。心の奥底には、自分でも見たくないから蓋をして閉じ込めている、もやもや、ドロドロした闇が眠っている。あまり長い時間 閉じ込めたままでいると、その闇の存在を忘れていることがあるかもしれません。自分の心の底の闇の深さは、わたしたち自身でも気付いていないかもしれませんし、自分ではどうすることもできないのです。そのような心の奥底の闇に、あのクリスマスの夜の野原のように天の光が射してこそ、本当に救われるのではないでしょうか。心の奥底の闇を照らしていただいて、自分の底の闇の暗さにはじめて気づき、その罪を救い主に赦していただいてこそ、わたしたちは自由になれるのではないでしょうか。眩しいほどの天の光にさらされてはじめて、わたしたちは自分の闇を見ることができます。そして、そのとき、驚くことにすでに救いはわたしたちに届いており、救われていることを知るのです。
 個人的な経験を話すことをお許しください。わたしはある時期、犯した罪に悩み、ドーンと心が落ち、罪の意識に、グルグル巻きにされたように支配されていました。「このまま生きていてよいのか」と思いました。すでに洗礼を受けていましたが、わたしの心を支配していたのは、「お前の罪は絶対に赦されない」という悪魔の囁きでした。そんなとき、本当に不思議な出来事でしたが、机に飾っていた十字架が、今まで経験したことがないほどリアルに、力を持って、わたしの心に飛び込んできたのです。「そうか!イエスさまは、自分で自分を赦すことができず、このまま生きていてよいのか、何もかもなかったかのように教会に通っていてよいのか、と悩み、罪の鎖にグルグル巻きにされているこのわたしのために、十字架で死んでくださった。十字架で死ぬために、あのクリスマスの夜、どこまでも小さな姿、どこまでも無力に、何の飾りもなく、裸で生まれてくださった。わたしの罪を赦し、『生きよ』と宣言してくださるために、お生れくださったのだ。」それこそ、光の洪水のように、圧倒的な恵みが押し寄せて来たような感覚でした。イエスさまの誕生の光が、悩みの中にあったわたしを下かも、上から、横から、斜めから、包み込んだのです。そのとき、わたしの目から涙がボロボロと溢れていました。
改革者ルターは、天使の告知について、このように語りました。「神は、このような宝を母の膝の上に置かれるだけではなく、私にもあなたにもお与えになって、『彼はあなた自身のものである。あなたは彼を味わうべきであって、天においても地においても、彼の持っているものはみな、あなたのものである』と言われる。」
 クリスマスの物語は、わたしたちひとりひとりのために起こった出来事です。神さまは、ユダヤの人々が救い主を待っていた時間よりもずっと長く、ずっと深く、人間が神さまのもとに立ち帰ることを待っておられました。待って待って待っていたのに、それでも神に背を向け、互いにいがみ合い、互いに相手を自分の意のままにしようとする、そのような どこまでも愚かな わたしたちを、「もう我慢ならないから滅ぼしてしまおう」とはおっしゃらなかったのです。神さまは、どうしても見捨てることができない。「何としても救いたい」と心から望んでくださり、わたしたちが悔い改める前に、わたしたちを赦し、救おうとして、ついに行動を起こされた。 み子を地上に遣わしてくださったのです。待ちに待った、神さまの救いの大事業がついに始まった!だから天はあれほどの喜びに溢れていたのではないでしょうか。想像をたくましくすると、もしかしたら、羊飼いたちのもとに姿を現した天使はあまりに嬉しくて勇み足で教えに来てくれたのかもしれない、そんな気もいたします。神さまは救い主をどこまでも暗い地上に送ってくださいました。わたしたちを暗闇から天の光の中へと救い出すために。羊飼いたちのみならず、すべての人のために。自分で自分を赦せない者のために。隣人を赦せない者のために。「神などいない」とクリスマスも世の楽しみを追い求めている者のために。日々の生活に困窮している者のために。不安の中にいる者のために。病の床にある者のために。戦禍で苦しむ者のために。すべての者が平安に生きることができるようになるために、み子は、真の救い主として生まれてくださったのです。
今、わたしたちの前に主の食卓が備えられました。2022年、最後の食卓です。一年を振り返りつつ、あのときも、このときも、イエスさまが共におられたことを感謝し、ご一緒に与りたいと思います。み子が生れてくださらなければ、聖餐に与ることはできませんでした。み子が生れてくださらなければ、わたしたちは罪の鎖にグルグル巻きにされて繋がれたままでした。しかし、み子はお生れくださいました。わたしたちをどこまでも愛し、赦し、生かし、み子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るために。それほどまでの神さまの愛をわたしたちは皆、受けています。その目に見える証し、それが聖餐の祝いです。クリスマス、おめでとうございます。真にあなたの救いのために、主イエス・キリストは、お生れになりました。

<祈祷>
天の父なる御神、この世は今、暗闇に覆われているように思えます。それでもあなたは、わたしたちと共にいてくださいますから、感謝いたします。たとえ闇が深く、濃く感じても、み子キリストが、真の光としてわたしたちを照らし続けてくださいますから感謝いたします。どうか、すべての者に あなたの光が届き、皆があなたへと立ち帰り、み子キリストの者として平安に生きることができますよう、聖霊を注ぎ続けてください。主イエス・キリストの お名前によって、祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。ここに来ることのできていない兄弟たち、姉妹たちを思います。病床にあります者を顧みてください。悲しみの中にあります者をあなたが深く慰めてください。クリスマスの日にも礼拝に来ることができなくなっている者も、あなたの顔が向けられ続けていることを信じることができますように。この町の人びと、この国の人びと、この世界の人びとに、クリスマスの祝福を与えてください。主に向かって正しく心を向ける幸いを味わわせてください。世界がうめきの中にあります。平和への試みが挫折する経験を繰り返しています。全世界に、そして、一人ひとりの家庭に、職場に、学校に、平安を与えてくださいますように。傷を負わせ、傷つけられる世ではなくて、慰め合い、慰められる世に変えられますように。クリスマスの喜びを一人でも多く心豊かに味わわせてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年12月24日(土)日本基督教団 東村山教会 クリスマス讃美夕礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:新約聖書 ヨハネによる福音書 第1章1節~5節
説教題:「光は闇の中で輝いている」    
讃美歌:102、107、114、112

説教を始めるにあたり、讃美夕礼拝をこの場で、またライブ配信によってささげている皆さんの上に、クリスマスの祝福を お祈りいたします。
2022年、皆さんにとってどのような年だったでしょう。喜びの時があったかと思えば、立ち止まり、前に進めない時があったかもしれません。わたしたちに共通のこととしては、新型コロナウイルスによる感染症との付き合い方が少しずつわかってきたとはいえ、まだ出口は見えません。東村山教会の中だけでも、この一年、教会に連なる仲間たちの衰えを感じています。コロナ禍が続き、病院や施設で過ごす教会員を自由に訪問することが厳しく制限されています。自宅で生活していても、重症化リスクを抱えているために、出かけられない者もいます。そうこうするうちに体力が落ち、心が沈む。そういう仲間たちのことを思うと、やり切れない気持ちになります。
また、衝撃であったのは2月から始まったウクライナとロシアの戦争です。テレビ画面の向こう側では、たくさんの涙が流され、皆が平和を願っているのに、戦いは止められないままです。北朝鮮からのミサイル発射も繰り返されており、わたしたちの国は、これを恐れてこれまでの国のあり方をくつがえそうとしています。異常気象による被害も世界各地であとをたちません。それほど報道されることのない搾取、衝突、迫害、弾圧もあります。まさに世界が、すっぽりと暗闇の中に閉ざされてしまっている。わたしたちを包んでいるその暗闇は、ますます暗さを増している。そのような中で、わたしたちは今日、12月24日を迎えました。
 ヨハネによる福音書は、主イエスを救い主と信じているためにユダヤ人社会からは異端者として扱われ、ローマ帝国からも迫害を受けて、まさに暗闇のどん底にあった教会の中から、生まれた福音書です。この福音書は、クリスマスの出来事から書き始めるにあたり、まず、不思議なことばを記しました。
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
「言(ことば)」とは、主イエス・キリストを指しています。暗闇の中で、主イエス・キリストが輝いている。わたしたちを包んでいる暗闇は、とてつもなく暗い。それでも、わたしたちには光が輝いている、わたしたちのために光が来てくださり、その栄光の光が、わたしたちを照らしている。主イエスがおられた時代だけでなく、ヨハネによる福音書が書かれた時代だけでもなく、今も、変わらずに、わたしたちを照らしている。クリスマスの出来事は、長く続いた闇の時代が光の時代に変わった、そういう事件だ。いったいいつまで暗闇が続くのか。そんな不安にかられるときも、必ず、神さまはわたしと共におられる。眠れない夜、不安な夜が続いても、神さまはわたしと共におられる。そのことが、キリストの誕生により、真実となった。どんなに闇が深く、濃く感じても、キリストがお生れくださった。キリストが、暗闇の中でまことの光として輝いている。そのように、み言葉は わたしたちに語りかけているのです。
「言は、主イエスである」と申しました。そこで、「言」を「キリスト」と読み替えて、朗読してみます。「初めにキリストがあった。キリストは神と共にあった。キリストは神であった。このキリストは、初めに神と共にあった。万物はキリストによって成った。成ったもので、キリストによらずに成ったものは何一つなかった。キリストの内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」 
主イエスがお生れになられた当時のユダヤは、ローマ帝国の支配に苦しんでいました。苦しみの中で、人々は救い主、キリストの到来を待っていました。旧約聖書 詩編 第30篇にこのような み言葉があります。「泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。(30:6)」
暗い夜のような闇の時代の中で、夜明けの光を待つような期待だけが、旧約聖書の時代の人々の心を支えていたのです。泣きながら夜を過ごす我々にも、いつか喜びの歌を歌い交わす朝が必ず訪れると、人々は望みを失うことなく、待ち続けました。キリストの到来を。主イエスの誕生は、この朝の光が現実のものとなった出来事なのです。
ところが、いざキリストが地上に来られたとき、人々は拒絶したのです。思っていたのと違う。弱々しい貧しい赤ん坊が我々の救い主であるはずがない。キリストはもっと颯爽として、栄光に輝く王の姿で来られるはずだ。そう言って、せっかく光が来たのにその光を見ようとせず、目をかたくつぶり続けることを選んでしまいました。
さきほどの詩編と同様にキリストの到来を待ち望んで書かれた み言葉をもう一つ紹介します。イザヤ書第60章1節。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光は あなたの上に輝く。」
朝は来たのです。わたしたちのための光が、わたしたちのところに来て、わたしたちを照らしているのです。旧約聖書の時代の人々は、いつか来るキリストを待っていましたが、わたしたちにはすでにキリストが与えられています。光を受け入れ、朝の光の中で目をあけてよいのです。キリストの光の中で目を覚まし、わたしたちのために与えられた光を仰いで、その光を浴びて、光を映して、光を反射させて、わたしたちの周りをキリストの光で照らして歩むところに平和が生まれるのです。神さまから与えられる一日一日をわたしたちの光と共に、主イエス・キリストと共に歩みたい。「光は暗闇の中で輝いている。」アーメン。クリスマス、おめでとうございます。

<祈祷>
天の父なる神さま、この世は今、暗闇の中に閉ざされているように思えます。それでも、あなたは、わたしたちと共にいてくださいますから、感謝いたします。たとえ闇が深く、濃く感じても、み子キリストが、まことの光としてわたしたちを照らしていてくださいます。み子の光を映し、み子と共に、平和を実現する者として、わたしたちを用いてください。主イエス・キリストの み名によって、祈ります。アーメン。

2022年12月18日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第34章11節~16節、新約 ペトロの手紙一 第5章1節~4節
説教題:「神からの委任」
讃美歌:546、191、237、331、542

アドベント第4主の日を迎えました。ペトロの手紙一を共に読み進め、キリスト者として生きる試練と幸いを味わい、悔い改めの祈りに導かれつつ、クリスマスを待つときとなりました。わたしたちは、ペトロの手紙一を5月1日から読み始めましたが、今日からいよいよ最後の章、第5章に入ります。ゴシックの小見出しに、「長老たちへの勧め」とあります。今日の箇所、もしかすると、「今日の み言葉は、長老たちへの勧めだから、わたしにはあまり関係ない」と思われた方がおられるかもしれません。確かに、長老たちへの勧めです。しかし、長老たちは、わたしたち一人一人が祈って投票して、選出されます。ですから、長老でないから関係ないと、のんびり構えてはおれません。長老の働きのために、心を込めて祈り、支えることは、教会に連なる者、皆のつとめです。また、わたしたち皆に選ぶ者としての責任があるのと同時に、わたしたち皆が、選ばれる者でもありますから、その心構えが必要です。そして、実際に投票するのはわたしたちですが、祈り、神さまの み心を問いつつ、投票するのですから、選ぶにしても、選ばれるにしても、そこには神さまの み力が働かれます。畏れつつ、み言葉に耳を傾けたいと思います。
ペトロは、「わたしは長老の一人として」と、自らを長老と呼んでいます。長老には、宣教長老と治会、これは会を治めると書きます。治会長老の二つがあります。牧師は宣教長老。福音を宣べ伝える長老です。それに対して、東村山教会で奉仕している8名の長老は治会長老。牧師と共に教会を治める長老です。長老は、他の団体にあるような委員とは違います。何を協議するにしても、決め事をするにしても、ただ皆の意見をまとめればよいというわけではありません。
使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一に、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(12:27)」と書きました。教会は、キリストの体なのです。従って、長老に求められることは、教会が、キリストの体となるように世話をすることです。一人一人が、キリストの体の一部として生きるように、世話をするのです。
ですから長老のつとめは、ただキリストを信じる者の団体の運営というのではありません。一人一人が、体の一部なのですから、誰もキリストから離れて死んでしまわないように、よく気をつけて世話をするのです。手や足が体から離れてしまっては、キリスト者として生きていくことはできないからです。教会に、キリストの血が通(かよ)って、キリストの体に相応しく生き生きと、生活することが大切なのです。体をつくるものは食べ物です。主イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる(マタイによる福音書4:4)」とおっしゃいました。福音の み言葉が、教会をつくります。礼拝において同じ福音を聴き、共に成長していくために心を砕いて配慮することが、長老に求められています。
 さて、ペトロは、「わたしは長老の一人」と呼んだ上で、「キリストの受難の証人」と続けます。主イエスのご受難に際しては、ペトロは逃げ出してしまいました。その意味では、「キリストの受難の証人」とは言えません。それなのになぜ、「キリストの受難の証人」と言うことができるのでしょう。それは、逃げ出したにもかかわらず、赦していただき、救っていただいた恵みを知ったからです。自らの惨めさを知ったからこそ、キリストの受難によって救われた恵みを、真実に証言できるのです。わたしたちも罪人です。それなのに、キリストのご受難によって救われ、キリストの者としていただきました。愛していただくのにまったくふさわしくない者なのに、愛していただいています。キリストが苦しみ、十字架に架かって、わたしたちを愛してくださいました。教会は、そのことを証しして生きてこそ、教会です。キリストが、苦しみつつ、愛してくださったように、苦しみ、傷つきながらも愛に生きてこそ、キリストの体なのです。
続けてペトロは、自分を「やがて現れる栄光にあずかる者」と言います。キリストの救いとは、罪が赦されるだけではありません。罪が赦され、救いが完成することです。わたしたちは罪を赦していただきました。それは本当です。
けれども、この地上の生活において、わたしたちはなお、闘わねばなりません。主イエスのように敵をも愛そうとつとめて、挫折するのです。まだ道半ばなのです。それでも、わたしたちには救いの約束が与えられています。救いが完成するとは、主イエスが、栄光を伴って再びこの世にいらしてくださる時に、その約束が実現して、まことに神の子としていただき、栄光の中に迎え入れられることです。教会は、その日を確信し、来るべき栄光の光を希望をもって仰ぎ見、その光に照らしていただきながら、キリストを証して生きていくのです。
ペトロは、「長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として」、「長老たちに勧めます。」2節。「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。」
ペトロには、生涯、忘れることのない主イエスとの対話がありました。ペトロが、甦られた主にお目にかかった時の対話を、福音書記者ヨハネは、第21章にこう記します。「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた。二度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの羊の世話をしなさい』と言われた。三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』イエスは言われた。『わたしの羊を飼いなさい。』(21:15~17)」
ペトロも、今、長老たちに、同じ言葉で勧めるのです。「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。」と。主イエスは、「この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われ、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われました。長老もまた、「わたしを愛しているか」と問われ、「愛している」と答えて、「わたしの羊を飼いなさい」と言われています。キリストの羊を飼うことは、キリストを愛することと深く結びついているのです。キリストを愛するから、教会を、生きたキリストの体となるよう、注意深く世話していくのです。
ペトロは、神の羊の群れを、「あなたがたにゆだねられている」と表現します。教会は、神さまのものです。信徒のものでも、牧師のものでもありません。長老たちは、神さまから神の羊の群れを「ゆだねられている」のです。よくよく考えると驚くべきことです。全能なる神さまが、「わたしの羊をあなたに任せた。」とゆだねてくださっている。信用していただくには到底値しないわたしたちです。それなのに神さまは、わたしたちが、どれほど欠けが多く、愛することにおいてほころびだらけの者であるかをよくよくご存知の上で、そのようなわたしたちを信用して、仕事を任せてくださるのです。なぜそこまで信頼していただけるのでしょう。それは、ただただ、恵みによります。信用に値しない者であるのにもかかわらず、神さまは愛してくださり、クリスマスの夜、み子を与えてくださいました。そして、み子の命をもって、神の子にまったく相応しくないわたしたちの罪を赦し、神の子として生きよ、と言ってくださいました。だからこそ長老は、「強制されてではなく、神に従って、自ら進んで」また、「卑しい利得のためにではなく献身的に」世話をするのです。
ペトロは、さらに勧めます。3節後半。「群れの模範になりなさい。」それは、決して、「何か立派なことをして、羊の群れである教会員を感心させなさい」と言うのではありません。どこまでも神さまを信頼し、神さまに従順になることです。キリストご自身が、そうあられたからです。ペトロは、「そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。」と、確信を持って宣言します。「大牧者」とは、主イエス・キリストのことです。主イエスが、再び世に来られる時、すべてのことは、明らかになり、約束されているわたしたちの救いも完成するのです。
今日、ペトロの手紙一と共に朗読されたのは、旧約聖書エゼキエル書 第34章の み言葉でした。15節以下を改めて朗読いたします。「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」羊を飼うのは、神さまの み業なのです。何と力強い、慰めに満ちた み言葉でしょう。わたしたちを お造りになられた神さまが、ご自身で養い、憩わせ、失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くしてくださる。エゼキエルの預言は、主イエスによって実現しました。だからこそ、長老たちは安心して、主と共に、神さまからゆだねられた群れを牧していくことができるのです。決して、神さま抜き、キリスト抜きで世話をするのではないのです。すべては、はじめからの神さまの ご計画に基づいています。長老たちに先立って、主イエスが、百匹の羊の中の一匹が失われたら、九十九匹をおいて、その失われた一匹を探しに行くように、神に背を向けるわたしたちを、どこまでも探し続けてくださいます。その上で、神さまは、ご自分の群れを長老たちにゆだねてくださるのです。だから、神さまの み心に従って、キリストを愛し、しぼむことのない栄冠を受ける日を待ち望みつつ、喜び勇んで世話を続けるのです。愛するキリストの体を、生きた体として、血を通(かよ)わせてゆくのです。

<祈祷>
天の父なる御神、見えるところ、見えないところで献身的にあなたに、教会に、そして、あなたからゆだねられている兄弟姉妹に仕えている長老たちを強め、励ましてください。わたしたちも、あなたからいただいた賜物を用いて、共に祈り合い、支え合い、励まし合って歩む者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。主よ、病床にあります者、看取っている者、あなたから心が離れてしまっている者がおります。どうぞあなたの顧みがありますように。たとえ、ここで共に礼拝をささげることができなくとも、あなたを信じて生きる幸いと、キリストの者としていただいた喜びに生きることができますように。生活に困窮している者、寒さに震えている者、戦禍にある者に、主にある平安をもたらしてください。土曜日のクリスマス讃美夕礼拝、来週のクリスマス礼拝、午後の教会学校こどもクリスマスに集おうとしている者の体調を整え、多くの者と一緒に主のご降誕を心から喜ぶことができますよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年12月11日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第9章3節~6節、新約 ペトロの手紙一 第4章17節~19節
説教題:「苦しみの意味」
讃美歌:546、97、Ⅱ-96、285、541、Ⅱ-167

 アドベント第三主日を迎えました。この季節になると思い出す歌があります。クリスマスページェントの劇中歌です。以前勤めていた湖畔幼稚園でも、今週の土曜日に礼拝堂で行われる いづみ愛児園のページェントでも歌われています。他の歌も色々歌われているのに、なぜか耳に残っているのです。歌詞を少し紹介します。まずマリアとヨセフが宿の扉を叩いて歌います。「トン、トン、トン、やどやさん、どうか ひとばん とめてください。」宿の主人が答えて歌います。「どこのおへやも いっぱいですよ。」
 クリスマス。神の み子がわたしたちのために世に来てくださったのに、どこも満室。わずかな隙間もない。この歌が不思議と耳に残るのは、歌の親しみやすさもありますが、わたしの心はどうだろうか。わたしたちの教会はどうだろうか。クリスマスの夜のベツレヘムの宿のように、イエスさまではない何かでいっぱいになってはいないだろうか。イエスさまを外に追い出すようなことをしていないだろうか。そんな思いが与えられるからかもしれません。
 今朝 読もうとしております み言葉は、「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。」という言葉で始まります。「神の家」とは、何でしょう。使徒パウロは、テモテへの手紙一で、このように言っています。「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。(3:15)」神の家とは教会です。建物ではありません。生きておられる神さまのお住まいとしての教会です。またパウロは、コリントの信徒への手紙一に このように書きました。「あなたがたはキリストの体(からだ)であり、また、一人一人はその部分です。(12:27)」その教会が裁かれるときが来ている。教会がキリストの体として生きているのか、そのように生きているつもりで、いつのまにかキリストを追い出し、教会として死んでしまっていないか。神さまが、裁きを お始めになる。「今こそ」、「裁きが始まる時」とペトロは記しました。来年でも、10年後でもなく、今です。神さまが「今こそ、裁きが始まる時」とお定めになって、もう始まっているのです。
 ペトロの手紙一を読み始める前に ご一緒に読みましたマタイによる福音書の中で、主イエスが語られた裁きの預言の場面がありました。少し長いですが、朗読するので お聞きください。「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時から お前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔と その手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』(25:34~45)」
 教会は、気の合う人どうしのサロンではありません。気が合おうが合うまいが、神さまから、「共に教会を形成しなさい」と、同じとき、同じ場所に置かれているのですから、互いに、主イエスに仕えるように仕え合い、受け入れ合って、大切にするのです。主イエスがわたしたちにそうしてくださったように。そうでなければ、主イエスを追い出していることになるのです。
 互いに仕え合うこと、受け入れ合うことは、簡単ではありません。ときに、痛みを伴います。傷つきます。「一所懸命愛そう」と努めても、みんながみんな、素直に愛を受け入れてくれるとは限らないからです。愛してくれる相手だけを愛せばよいのなら、簡単なことです。愛してくれない人をも、愛するのです。キリストがまさにそのようにわたしたちを愛されました。生まれるときから追い出され、地べたに囲いだけの、ほとんど屋外と変わらない馬小屋で産声を上げ、「十字架につけろ、十字架につけろ」という群衆の叫びを受けながら、それでも愛してくださいました。教会は、そのキリストの体なのですから、愛そうとして傷つき、苦しむのであれば、それはキリストの苦しみに参与することであり、キリストの愛に参与することなのです。それは、先週読みました箇所ではこのように言われていました。「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。(4:13)」そのような、キリストの者としての苦しみは、裁きの日につながっています。苦しみは、今このときだけの問題ではないのです。まず、「神の家から裁きが始まる」というのはそういうことです。神さまの家、祈りの家にふさわしく、神さまが、今、わたしたちを清めようとなさっているのです。わたしたちがキリストに従う苦しみは、終わりの日のわたしたちの救いの完成のしるし、と言ってもよいのです。
忘れずにいたいのは、「神さまは、わたしたちを本当に ご自分の者とするために、お裁きになるのだ」ということです。裁くことが、神さまの目的ではないのです。裁きによって、神さまは、わたしたちをいっそう深く、いっそう強く、ご自分に結びつけ、ご自分の者になさろうとしておられるのです。それほどに、神さまはわたしたちを愛しておられるのです。それほどに、わたしたちのことを何とかして救おうと、あらゆる努力をしていてくださるのです。どこまでも、わたしたちを神の子とするために、鍛えておられるのです。わたしたちが、苦しみながら、傷つきながら、「それでも愛せ」と言われているのは、父なる神さまの鍛錬なのです。
ヘブライ人への手紙にはこのように書かれています。「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。』あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。(12:5~7)」わたしたちの苦しみは、ただの苦しみではなくて、神さまが、わたしたちを本当の子として愛しておられるからこその苦しみなのです。
ペトロは続けます。「わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。『正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか』と言われているとおりです。」ペトロの言葉は、教会の仲間たちに向けられています。これは決して、不信仰な人への同情でも、軽蔑でもありません。神の民、キリストの者だからこそ、鍛錬していただいている。救いの約束が与えられているからこそ、愛することに何度挫折しようとも、救いの完成のために、諦めてはならないのです。わたしたちのその生き方は、まだ救いを知らない人を、キリストへと導くことになるのではないでしょうか。神さまが、そのように用いてくださるに違いありません。
そして、ペトロは、確信を持って勧めます。19節。「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」洗礼によって、神さまの子どもとされた者は、どこまでも愛をもって鍛えてくださる父なる神さまの み心に従って苦しむのです。わたしたちは、み子主イエスによって、神さまの実の子どもとして頂きました。我が子として、わたしたちを鍛えてくださる神さまが与えてくださる、裁きの日のための鍛錬ですから、苦しくとも、信頼して、喜んで受け取り、互いに仕え、赦し合う群れを、共につくってゆくのです。「父よ、助けてください。力をください。」と祈りながら。「真実であられる創造主に自分の魂を」安心してゆだねてよいのです。
神さまは、わたしたちを造られたお方です。わたしたちの弱いところも、いい加減なところも、そのすべてをご存知であられます。悪い行いをしているという自覚すらなかったわたしたちを、「わたしは、神さまの み心に反していたのだ」とわからせてくださり、悔い改めの祈りへと導いて、洗礼によって、わたしたちを主イエスとひとつに結びつけてくださいました。だから、わたしたちは、どんなに厳しい試練の中でも、何度ころんでも、立ち上がることができるのです。そのようにわたしたちを成長させてくださるのは、神さまのどこまでも深い愛以外のなにものでもありません。それほどに、わたしたちを愛し、育んでくださる神さまなのですから、すべてをゆだねてよいのです。また、ゆだねればこそ、神さまに従って善い行いをすることができます。
この後、讃美歌285番を、ご一緒に賛美します。「この世を主に ささげまつり、かみのくにと なすためには、せめもはじも 死もほろびも、何かはあらん、主にまかせて。」わたしたちの父である神さまが、わたしたちの歩むべき道を示してくださいます。険しい道です。しかし、救いに続く鍛錬の道です。主にゆだねて、主の み足を辿る先にある、誉れをしっかり見つめて、進んでゆきましょう。

<祈祷>
天の父なる神さま、あなたはわたしたちを本当の子どもとして愛し、鍛錬してくださいますから感謝いたします。辛いとき、苦しいとき、「父よ、助けてください」と祈る心をお与えください。どんなときもあなたが共におられると信じ、善い行いをする者として用いてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。全世界の諸教会を憐れみのうちに覚えてください。特に、戦禍のもとにあります教会、迫害のもとにあります教会、自分の小ささ、弱さを恥じるばかりで、なにひとつできないと思っているような教会を み心のうちに留めてください。今朝も礼拝を慕いつつ、ここに来ることのできない兄弟、姉妹たちのことを思います。病床にあります者、コロナ禍のため面会を制限されている者、もはやここに来ることのできなくなっている者を特別に顧みてください。愛する家族が召され、悲しみの中にあります者をあなたが深く慰めてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年12月4日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 マラキ書 第3章1節~5節、新約 ペトロの手紙一 第4章12節~16節
説教題:「わたしたちはキリストのもの」
讃美歌:546、96、132、Ⅱ-1、273B、540

「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」「愛する人たち」と、ペトロは改めて呼びかけています。「愛する人たち」。キリストに愛していただいているがゆえに、兄弟姉妹とされ、互いに愛し合うために集められている、教会の仲間のことです。わたしたちのことです。「愛する」というと、何か甘い響きを感じて、温かな、やわらかい関係を思い浮かべるかもしれません。けれども、「愛する人たち」という呼びかけに続いて語られるのは、「火のような試練」です。闘いです。キリストがわたしたちを愛してくださったのも、わたしたちがキリストを愛したからではありませんでした。わたしたちは、キリストを拒んだのです。クリスマスの夜、ベツレヘムの街には、マリアとヨセフの泊まる場所がなかったように、わたしたちの心は、他のことでいっぱいだったのです。そして、ついに、「十字架につけろ」と叫んだ群衆のように、わたしたちの心は神の愛を拒んだのです。それなのに神さまは、キリストは、わたしたちを愛してくださいました。そのようなわたしたちを愛してくださること、それはそのまま、キリストにとって、「火のような試練」ではなかったでしょうか。それでも、わたしたちは愛していただいている。「愛する人たち」、と呼ばれているのです。だから、愛することはそのまま、試練です。愛し合うとは、苦しくても、キリストによって生きることです。キリストから力をいただいて、教会全体で苦しみながら、励まし合いながら、キリストのために生きるのです。
「火のような試練」とありますが、塚本虎二先生による聖書翻訳は、冒頭の12節をこのように訳しています。「愛する者よ、試煉のため君達に起こった烈火の苦難を何か異常なことが臨んだかのように驚き異(あや)しむな。」当時のローマでは、キリスト者への激しい弾圧がありました。その中でも、本気で敵をも赦し、キリストのように従順に生きることほど、辛いことがあるでしょうか。それでも、キリストこそが烈火のような試練を受けてくださったのだから、キリスト者であるわたしたちが試練を受けるのは、言わば当たり前のことで、何も いまさら驚くようなことではないではないか。わたしたちは、そのように呼びかけられているのです。
わたしたちは、試練に襲われると、「神さまから見捨てられた」と思い込んでしまいます。わたしも、試練に遭うたびに「神さま、あなたを信じていることで、どうして、こんな経験をしなければならないのですか?」と心が乱れ、何度、主イエスに背を向けてしまいそうになったことか。ところが主イエスは決して、わたしたちを見捨てたり、諦めたりなさらないのです。
ペトロも、主イエスが捕らえられ、裁判にかけられているそのとき、「この人も、あのナザレのイエスの仲間です。一緒にいたのを見ました」と告発されました。三度告発され、三度とも、「そんな人は知らない」と誓って打ち消してしまいました。試練に、耐えられませんでした。自分も捕まってしまうのではないか?殺されるのではないか?恐ろしくて、「そうです。わたしはあの方の弟子です。あの方を愛するものです。」と言えなかったのです。それでも、神さまは、そのようなものたちのために主イエスを甦らせてくださいました。甦られた主イエスは、ペトロに尋ねられました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」そのように、ペトロが裏切った数と同じ三回、尋ねてくださいました。そして、ペトロが立ち直る力を与えてくださいました。ペトロを立ち上がらせ、「キリストの愛に生きたい」と願う人たちをペトロに託して、言われました。「わたしの羊を飼いなさい。」わたしが愛する者たちを愛して、導きなさい、と託されたのです。愛する苦しみを、託されたのです。わたしたちもまた、この愛する苦しみを担って欲しい、わたしの仲間になって欲しい、と呼ばれているのです。
ペトロは手紙に続けてこのように記しました。「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」ペトロが主イエスから託され、「愛する人たち」と心を込めて呼びかけた教会の仲間たちも、キリストのものであるがゆえの迫害を受けました。燃えさかる炎のような試練です。耐えられずに、信仰を捨てた者がいたでしょう。あるいは、信仰を保つことができるか不安を抱えている者がいたでしょう。ペトロには、一人一人の苦しみが、痛いほど伝わっていたと思います。だから、心を込めて励ますのです。「愛する人たち、思い起こして欲しい。キリストの愛の激しさを。苦しみ抜きながら、愛することを止めておしまいにはならなかったキリストを。わたしたちが何度裏切り、何度拒んでも愛してくださっているキリストを。」キリストの苦しみの一端を担(かつ)ぎ、主イエスについていくことが求められています。その苦しみは、ただの苦しみではありません。鉱石を火に入れ、不純物を取り除き、純度を高めるように、苦しみながらキリストの言葉を聴き、苦しみながらキリストに力を頂くうちに、おぼろげだったキリストの お姿が、はっきり見えてくるのです。あきらめずに、何度でもわたしたちを立ち上がらせてくださるキリストを、知るのです。わたしたちのキリストにかけるのぞみが、はっきりとした再臨の希望へと鍛え上げられていくのです。キリストが、再び世にいらしてくださる再臨のとき、圧倒的な喜びに満たされる。その日のビジョンを、いっそう強く、はっきりとした、明確なものにしていくのです。
さらにペトロは、宣言します。14節。「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」わたしたちは時々、教会に通い続けることを非難されることはあっても、迫害や弾圧を受けることはありません。けれども、キリストの愛に生かされているものとして、人を愛そうとするとき、そこには必ず試練があります。愛してくれない人を愛することは苦しみです。どんなに非難されても愛することを止めないことは辛いことです。けれども、そのようなわたしたちは幸いだ、とペトロは言うのです。なぜなら、「栄光の霊、すなわち神の霊が」わたしたちの上にとどまってくださるからです。わたしたちの闘いは、孤独な闘いではありません。たとえ、倒れそうになっても、神さまが、わたしたちに走り寄り、しっかりと抱きしめ、み言葉によって慰め、聖霊によって励まし、必要な知恵と力を与えてくださるのです。だから、わたしたちは闘うことができるのです。
最後にペトロは、「今、あなたがたが受けている試練、苦しみは、キリスト者としての苦しみか、それとも、犯した罪による苦しみか、よく吟味しなさい」と忠告しています。15節。「あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。」避けるべき苦しみと、受けるべき苦しみがあるのです。
まず避けるべき苦しみです。具体的には、「人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者」です。まず「人殺し、泥棒」といった、誰にも「犯罪」と分かる例が挙げられ、次に、「悪者」と、一般的な言い方がなされて、最後、「他人に干渉する者として」と述べられています。正義感が強すぎ、他人に干渉するおせっかいな人が、ペトロが伝道した教会にいたのでしょう。「自分が正しい」と思っているとき、人の行いが目について仕方ないとき、自分をよく見つめて、気をつけなくてはなりません。互いに根気強く話し合い、愛をもって赦し合い、励まし合い、和解の道を探ることは、キリスト者としての苦しみです。しかし、自分が絶対正しい。あなたが間違っている。キリスト者にあるまじき行為だ、と断罪して相手を苦しめ、自分をも苦しめることは避けるべき苦しみです。大切なことは、その苦しみがキリストのための苦しみか、それとも、自分のための苦しみか吟味することです。キリストのために苦しんでいるつもりが、実は、自分のために苦しんでいることがあるのです。
わたしたちは、主イエス・キリストに結ばれたものです。主が再びいらしてくださるときを喜んで待ち望むものたちです。洗礼は、わたしたちをキリストとひとつに結び合わせ、キリストのものとします。主が共におられます。途方に暮れるとき、嘆きの中にあるとき、キリストの名のために非難されるとき、主が共にいてくださいます。わたしたちと共に苦しみ、わたしたちと共に嘆き、わたしたちと共に泣き、わたしたちと共に喜んでいてくださいます。その恵みの証である聖餐の祝いに、これから与ります。主の み苦しみを心に刻み、その苦しみに参与する力をいただきます。愛する力をいただきます。神さまの み名のために働く力を感謝していただきましょう。

<祈祷>
天の父なる神さま、あなたの愛と赦しと憐れみにより、わたしたちをみ子キリストのものとしてくださり心より感謝いたします。み子はわたしたちを赦すために、十字架の苦しみを受けてくださいました。わたしたちもキリスト者として苦しみを受けるなら、決して恥じることなく、あなたをあがめるものとしてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。主よ、世界がうめきの中にあります。戦争の終結を求めつつ、今も殺し合いが続いています。どうか、み心を行ってください。全世界に、そして、一人一人の家庭に、一人一人の職場に、学校に、平安を与えてください。傷を負わせ、傷つけられる人の世ではなく、慰め合い、慰められる人の世に変えてください。体調を崩している者がおります。看取っている者もおります。将来の生活に不安を抱えている者もおります。主よ、み子キリストによる望みを失うことがないよう、聖霊を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年11月27日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 出エジプト記 第34章1節~9節、新約 ローマの信徒への手紙 第14章7節~9節
説教題:「生も、死も、主のもとで」
讃美歌:546、93、94、332、539

本日は、逝去者記念礼拝です。今回は、第1アドベントと重なりました。クリスマスを迎えるための備えのときでありますアドベントに、逝去者記念礼拝をささげられる幸いを主に感謝いたします。
逝去者記念礼拝は、信仰によって兄弟姉妹とされ、共に教会を形成し、わたしたちよりも先に教会に連なる者にとっての本国である天へと旅立たれた信仰の先輩たちの歩みを想い、その一人一人に働かれた神さまの恵みを感謝する時です。また、わたしたちも、神さまの定められた「時」に、死を迎えることを忘れないための礼拝でもあります。
ドイツの神学者ルードルフ・ボーレン先生の最後の著作となった『祈る』という本に、このような祈りの言葉があります。「自分が必ず死ぬのだ、ということをわきまえます。この書物を開くたびに。自分を死を超えて生きさせることはない、ということを。」この祈りは、普段せわしなく過ごし、今日も明日も明後日も当然やって来るものと思っているわたしたちを、はたと立ち止まらせます。差し当たって健康であっても。若いひとも。この祈りは、今朝のローマの信徒への手紙を記したパウロが、自分の死が近いことを意識して、弟子テモテに宛てた手紙の み言葉から生まれた祈りです。この手紙にはパウロの遺言のような、愛してやまない、そしてもしかしたら少し頼りない弟子のために切々と祈るような言葉がつづられています。
わたしたちは、自分が必ず死すべき者であることを忘れないようにしなければなりません。例外はないのです。今日は記念として礼拝堂の後方に信仰の先輩方の写真を並べておりますが、いずれ、わたしたちの写真も並べられます。
脅しているのではありません。「自分も、必ず死ぬ。」その事実と、神さまの み前で真剣に向き合うとき、先に召されていった人の祈りの中に、自分が立っていたことを知らされるのではないでしょうか。そして、その祈りに支えられて、キリストのお姿が、心の中に見えてくる。祈りへと導かれる。わたしたちキリスト者の歩みは、そのようにして今日(こんにち)まで続いてきました。
今朝、ご一緒に読みます み言葉は、伝道者パウロが、当時はまだ生まれたばかりであったローマの教会の仲間たちに宛てた手紙です。7節。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。」わたしたちとは、キリスト者のことです。信仰を与えられて教会に連なって生きる者です。時代が変わっても、場所が違っても、教会は このみ言葉を読み続けてきました。「わたしたちは皆、このように生き、このように死ぬのだ」と。「自分のために生きる」とは、「自分ひとりで生きている」ということです。「自分ひとりで生きている」とは、「ひとりぼっちで生きる」、「孤独に生きる」ということです。キリスト者は、「孤独」ではありません。どんなときも、主イエスが共におられます。だから、キリスト者の中には、「だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人」はいないのです。生きるときも、死ぬときも、主が共におられるのです。
み言葉は続きます。8節。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」「主のために」というのですから、わたしたちは主イエスの お役に立つために生き、主イエスの お役に立つために死ぬのだ、ということです。み言葉の前で、わたしたちは、はたと立ちすくみます。わたしは、このように生きているだろうか?一日の終わりに、今日も主のために生きたと言えるだろうか?誰かと接するときも、自分が大事にされることを望んでいたのではないか?そのような思いに落ち込んで、「やっぱり自分はダメだ」と諦めてしまいそうになる。けれども、み言葉は続くのです。
9節。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」み言葉は、落ち込んでいるわたしたちを奮い立たせます。キリストが死んだのは、そして、甦られたのは、いったい何のためか。先に召された人にとっても、生きているわたしたちにとっても、主となられるためではないか。主ご自身が、「あなたは、わたしのものだ」とおっしゃって、その愛を示すために、死んで、甦ってくださった。あなたは、それを信じているではないか、と。
今日は、アドベント第1礼拝でもあります。み子イエスは、十字架で死ぬために、また死から甦るために、世に生まれてくださいました。なぜ、十字架で死なれたのか?わたしたちの罪を赦すためです。自分勝手に、相手の気持ちも考えず、自分のために生きようとするわたしたちの罪を赦すために、主は十字架で死んでくださいました。そして、そのようなわたしたちと一緒に、永遠に生き続けるために、甦ってくださったのです。ひとりぼっちで自分のために生きようとするわたしたちを、ご自分のものとして抱きしめて、「一緒に生きよう」と、立ち上がらせてくださるために、主は死なれ、甦ってくださいました。そのために主は、無力な小さな赤ん坊の姿で、真っ暗なクリスマスの夜に、生まれてくださいました。だから、わたしたちはアドベントの日々を、真っ暗な夜の闇のような自らの罪を悔い改めながら、光なるキリストを待ち望むのです。
今朝の み言葉は、「洗礼を受けた者は皆、このように生きなければならない!」という命令とは違います。ここに書かれているのは、ありのままの事実です。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」この み言葉に、わたしたちは、心から「アーメン。本当にそのとおり」と言ってよいのです。そうでなければ、せっかく主イエスが死んでくださったのに、そのキリストの愛と恵みを否定することになってしまいます。せっかく暗闇に灯されたクリスマスの光を吹き消しながら生きるようなものです。主ご自身が、わたしたちの中で生き、光となってくださり、祈っていてくださるのです。わたしたちは、ただ「アーメン、そのとおりです」と信じて生きるのです。
わたしたちは、地上のいのちを、神さまにお返ししなければなりません。それがいつかはわかりません。しかし、わたしたちは一人ではないのです。わたしたちのために いのちを捨ててくださった主が、わたしたちを抱きしめ、「あなたは、わたしのものだ。わたしと共に生きよう」と今も、これからも、一緒にいてくださるのです。地上のいのちを終えるときも、その先もずっと。
わたしたちにとって、「主のために」生きるとは、例えば何か人のためになる素晴らしい社会事業を立ち上げるような、そういう華々しい成果をあげることに限りません。もちろん、そういう働きもその人が主から賜った恵みの証の一つです。しかし、たとえ目が不自由になっても、耳が不自由になっても、寝た切りになっても、主が、このわたしに「生きよ」と与えてくださっている「今日」という一日を、祈りつつ心を込めて生きる。それが、主のお役に立つのです。主が、あなたはここで生きなさい、と置いてくださった自分の持ち場で、神さまから賜った恵みを感謝しつつ、生きるのです。一人ではなく、主と共に。主が与えてくださった仲間と共に。
「主のために」死ぬことも同じです。共に生きてきた主に在る兄弟姉妹たちのために祈りながら、まだ主の愛を受け入れることができずにいる愛して止まない者たちのために祈りながら、主が召してくださる「時」に、すべてを主に お任せして安心して地上の いのちをお返しするのです。
わたしたちは皆、そのようなたくさんの祈りに支えられています。そして、主イエスは、これまでも、今も、これからも、わたしたちと共に歩み続けてくださいます。主の愛の中で生かされる喜びが、共に歩んだ信仰の兄弟姉妹を生かしたように、わたしたちをも生かしています。主イエスの愛の中で生きる喜びが、一人でも多くの方に届きますように。

<祈祷>
天の父なる神さま、あなたがいのちをくださいました。あなたにいのちを お返しするその日が必ず来ることをわきまえる者としてください。最期まで、あなたから賜った恵みを証しながら、祈りながら、主イエスと共に歩ませてください。主イエス・キリストの お名前によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。逝去者記念、第一アドベント礼拝の恵みを感謝いたします。今日、あなたによって礼拝に招かれたご遺族お一人お一人の上に、甦りと再臨の主の慰めを祈ります。不安を感じるとき、孤独を感じるとき、あなたがいつも共にいてくださることを思い起こすことができますよう、聖霊を注いでください。主よ、今、病と闘っている者、痛みを抱えている者を慰め、愛を注いでください。世界を覆う闇に、まことの光として み子がお生れくださったにもかかわらず、わたしたちの世はいまだあなたの恵みを拒み続けています。戦争により深く傷ついた者、愛する家族を失った者、住む家を失った者に、主にある望みを お与えください。わたしたちすべての者に、特に、諸国の指導者に、あなたの平和をこそ慕う、篤い思いを お与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年11月20日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第33章5節~6節、新約 ペトロの手紙一 第4章10節~11節
説教題:「神さまの みわざのために」
讃美歌:546、11、196、391、545B

「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神の さまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに 仕えなさい。」わたしたちは今日、この み言葉を味わうために、一人一人、神さまから名前を呼んでいただいて、集まってまいりました。この み言葉を聞いて、もしかしたら、「わたしには、特別な賜物など何もない」と思った人がいるかもしれません。あるいは、「昔はそれなりに色々できたけれど、今はもう すっかり年をとってしまってわたしには何も残っていない」と思った人もいるかもしれません。周りの人を見て、「何で わたしには あの人のような賜物がないのか」と嘆いたり、うらやんだりすることさえ、あるかもしれません。
けれども、天地創造の始めから、万物の終わりに至るまで、人間には思いもよらないほど大きな愛で、救いのご計画をすすめていてくださる神さまは、そのご計画にしたがって、「あなたには、この務めを担って欲しい、そのために必要な力、知恵、勇気を、わたしはあなたに授ける」と、わたしたち一人一人に賜物をくださっているのです。
世の中には色々な人がいます。エリート街道まっしぐらの人がいれば、挫折を繰り返し、回り道の人生を歩んでいる人もいます。たとえば、生まれつきの病で、あるいは後天的な重い病で、不自由な生活を強いられる人がいます。本人も家族も、当事者にしかわからない大変な苦労があることでしょう。けれども、その人のいのちも、神さまがお授けになった大切ないのちです。何よりも神さまの助けを必要とするいのちです。おごったり、高ぶったりしないいのちです。神さまにいちばん近い特等席に座り、生きる力をいただくことができます。周りの人は、この人に働かれる神さまの力を、間近に見ることができるのです。
この場でも何度か紹介したことのある知人は、ごく若い頃にハンセン病を患い、その後遺症のために目は見えません。年老いたために耳が遠くなり、腎臓も弱くなって、週3回の透析が欠かせません。それでも、北から南まで、かかわりのある教会のために、1時間以上かけて毎日、祈っておられます。わたしたちの東村山教会のためにも、祈っていてくださいます。御殿場にある療養所までお見舞いに伺うと、いつもこちらが励まされて帰って来ます。この人の姿に、神さまの み力が顕れているのを見て、勇気が湧いてくるのです。
神さまの救いの ご計画は、わたしたちの思いをはるかに超えています。あまりに深く、高く、広すぎて、わたしたちにはとうてい恵みとは思えないこともあるのです。だから、ちっぽけな自分に思えても、何の賜物も授かっていないように思えても、今日、こうして与えられているいのちを感謝して、すべてが賜物と思って生きるなら、その姿は、誰かを支え、誰かを励まし、その賜物を授けてくださった神さまの素晴らしさを伝えることができるのです。その反対に、どんなに大きな賜物を授かっていても、その賜物をはじめから自分のものであったかのように当たり前に思うなら、それは不幸なことです。何よりも、万物の終わりの日には、その生き方にふさわしい審きを受けることになってしまいます。
 授かっている賜物を、神さまからの大いなる恵みであると知っていることが大切です。神さまから、宝物を お預かりしているのです。はじめから持っているものなどありません。すべてが、神さまからの賜物です。生まれたばかりの小さな いのちも、年老いてあちこち痛くて、どうにかこうにか生きているいのちも、「今日、この日を生きよ」と神さまから授かっている大切な賜物です。そのことを知っているなら、わたしたちは「恵みの善い管理者」です。神さまのご栄光を現すことができます。
み言葉は続きます。11節、「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。」
当時は、ペトロのような指導者とは別に、神さまの恵みを語る役目を担う人がいたのでしょう。わたしたちの教会で言えば、牧師以外では、教会学校の教師は語る者でありましょう。もっと広い意味で言えば、「コイノニア・ミーティング」などでは、わたしたち皆に、神さまの恵みを語る機会がありますから、その意味では、わたしたち一人一人が、「語る者」と言うこともできるのではないかと思います。いずれにしても、まず わたし自身をかえりみて思うのは、果たして自分は説教者にふさわしい者だろうか、ということです。わたしたちが考えるいわゆる才能という意味で言えば、開き直るわけではありませんが、残念ながら、誰をも唸らせる説教者ではない、と自覚しております。また牧師に限ったことではなく、「コイノニア・ミーティング」などで話すのは苦手という人は多いのではないでしょうか。しかし、ペトロがここで求めていることは、そういうことではないのです。「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。」と、ここには書かれています。神の言葉を語るのにふさわしい人、特別な人、そういう意味とは、違うようです。考えてみれば神さまの言葉を語るのにふさわしい人などいるでしょうか。「神の言葉を語るにふさわしく語る」ということは、神さまの言葉の前で、自分がどれほど小さな者であるか、取るに足らない、語るにふさわしくない者であるかを骨身に染みて知っている。だから、神さまから、言葉と力と勇気をいただいて、神さまの豊かな恵みをそのまま語る。そういうことではないでしょうか。
奉仕もまた同じです。「奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。」とあります。神さまが、力を与えてくださるのです。今日、いのちが与えられている。それは、ただただ神さまの み国を、わたしたちの間に実現するためです。神さまの平和を わたしたちの間に実現するためです。互いに祈り合い、赦し合い、愛し合い、もてなし合い、仕え合うためです。そのための力が、わたしたちには与えられています。わたしたちの主、イエス・キリストこそが、その力の源です。
わたしは、中学高校の6年間を横浜の関東学院で学びました。この学校の校訓は、「人になれ 奉仕せよ」です。初代院長の坂田 祐(たすく)先生が第1期生の入学式に述べた言葉です。坂田院長は後年、この校訓に「その土台はイエス・キリスト也」という言葉を書き添えたそうです。キリストこそが、賜物を生かして奉仕するための、確かな土台なのです。
洗礼は、主イエスとわたしたちとを結びつけます。わたしたちの罪を赦すために十字架で死んでくださり、復活してくださり、わたしたちといつも共にいて力をくださる主イエスが、洗礼によって、わたしたちの中に生きてくださるのです。その み力を信じて、神さまからいただいた今日のいのちを、神さまにお返しする思いで、精一杯、生きるのです。
今朝、ペトロの手紙とあわせて読んだイザヤ書に、こうありました。「主は あなたの時を堅く支えられる。知恵と知識は救いを豊かに与える。主を畏れることは宝である。(33:6)」わたしたちは弱く、乏(とぼ)しい。そのことを知れば知るほど、わたしたちは主にあって強く、豊かなのです。自分の力ではどんなに難しく思えても、主イエスが、わたしたちと共に生きていてくださるから、わたしたちは、万物の完成に向かって、赦し合い、愛し合って平和をつくり、神さまの素晴らしさを賛美しながら生きていくことができるのです。「栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。」
<祈祷>
天の父なる神さま、授かった賜物に感謝し、神さまを畏れつつ歩む者としてください。み子キリストを土台として互いに仕える者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。皆それぞれに悩みを抱えております。孤独を抱えております。「誰もわたしを助けてくれない」と嘆いている者がいるのです。主よ、望みを断ち切られたように思うところで、かえってそのような闇にこそ、あなたが光として共におられること信じることができますように。多くの人々が世界の平和を祈っております。しかしなお真実の平和をつくることができず、不信と憎しみのゆえに武器を増やし、ミサイルを発射し、殺し合いが続いています。戦争により愛する家族を失った者、住むところを失った者、今日を生きることもままならない者がおります。主よ、世界を憐れんでください。力ある者を謙遜にしてください。自分こそ正義を握っていると思っている者を、へりくだった思いに変えてくださいますように。様々な理由により、教会から遠ざかっている者に、あなたの愛を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年11月6日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第48章12節~16節、新約 ペトロの手紙一 第4章7節~9節
説教題:「心を込めて」
讃美歌:546、13、266、Ⅱ-1、342、544

 「万物の終わりが迫っています。」ドキッとする言葉です。先週も北朝鮮からミサイルが発射され、テレビ画面が変わり、警報が発せられました。ウクライナでは今も戦争が続き、核兵器使用の可能性まで、ほのめかされています。地球温暖化により世界の各地で山火事や洪水があとをたちません。ついに世界の滅亡が迫ってきたのかと、不安をおぼえ、世をはかなむような思いになる。しかし、ペトロが「万物の終わりが迫っています。」と書いたのは、「脅し文句」のようなことではありません。また、諸行無常、何事にもいつかはおわりがある、というのでもありません。ペトロは、すべては神さまの救いのご計画に従って、「万物の終わりが迫っています。」と言っているのです。
神さまは天地をお造りになり、世界を始められました。同じように、終わりも、神さまが終わらせられるのです。自然も、人間も、すべてのものは神さまのご支配のもとにあります。すべてが、神さまの ご計画に基づいています。神さまが「光あれ。」とおっしゃった世のはじめから、ご計画は完成に向かっており、神さまは世の終わりのときまでの明らかな見通しをもっておられます。「万物の終わり」に向かって、救いの ご計画を着実に進めておられるのです。
終わりのときがいつ、どのように来るのか?わたしたちにはわかりません。けれども、すべてのものは わたしたちの主である神さまの ご計画に従って、終わりに向かっている。完成に向かっている。わたしたちにそのことを知らせるために、主イエスは、神さまのご計画に従って、世に来てくださいました。
 主イエスは、ガリラヤで伝道を始められたとき、「時は満ち、神の国は近づいた。(マルコによる福音書1:15)」と宣言されました。「神の国」というのは、神さまがすべてを支配する、ということです。神さまによる完全な ご支配が近づいている。キリストが来てくださったことによって、わたしたちは、「万物の終わり」を、救いの完成の日として、望みをもって待つことができるようになったのです。そして、キリストが再び来てくださることによって、神さまの救いは、完成されます。すべてのものの造り主であられる神さまが、救いを完成なさる日。すべての罪人が救われる日。わたしたちはその日を信じて、待ち望んで生きる者としていただきました。「だから、思慮深(ぶか)く ふるまい、身を慎んで、よく祈り」つつ生きるのです。
「身を慎しむ」という言葉には、「健全な考えを持つ」という意味があります。世の終わりなんか、まだまだ先のことと思って居眠りするのではなく、あるいは、どうせ終わるならやりたい放題、好き勝手に生きようというのでもなく、また、不安に心を乱すのでもなく、心を整理整頓しておく。常に目覚めた思いを持って、正しく判断する、ということです。ただただ、神さまのご計画に信頼し、み言葉に信頼して、み業が完成される日を望み見て、祈りつつ歩み続けるのです。どんなに不安を煽られたとしても、神さまの ご計画の完成を信じるから、平安に生きることができます。神さまが、そのための力をくださいます。強くしてくださるのです。神さまのご計画に従って、主イエスが再び来てくださる。その日、万物は終わり、救いは完成します。その日を心待ちにして、祈ること。愛すること。互いにもてなすこと。それら一つ一つの行いに、真心を込めるのです。
改革者ルターは、7節の「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。」を「祈りに対して裸になれ」と訳しました。自分の思いを隠すことなく、素直に、また大胆に祈る。恐れないで祈る。祈ってよいのです。わたしたちの祈りは、心を乱して望みを失っている者の祈りではありません。終わりの日の望みがあるから、すべてを神さまに委ねて、感謝と賛美を祈ることができるのです。
続く8節でペトロは、「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」と勧めています。もしかすると、ペトロが伝道した教会において、対立があり、互いに愛し合うことが難しくなっていたのかもしれません。これは、わたしたちにとっても決して他人事ではありません。教会生活で「愛」に躓く人は少なくないからです。「あの人のことを思ってできるだけのことをしたのに裏切られた。」「あの人のことをあんなに愛したのに、あの人はわたしよりも別な人といつも一緒にいる。」「あの人のことも、この人のことも、愛することに、もう疲れてしまった。これ以上、傷つきたくない。」このような愛の挫折は、誰でも一度は経験しているのではないでしょうか。わたしにも覚えがあります。一所懸命になるあまり、青年会の仲間と口論になり、つい強い口調になってしまった。相手の青年は教会から離れていきました。相手のためにと思ってのことでしたが、それはやはりひとりよがりの愛でありました。わたしはこんなにあなたのためを思っているのにどうしてそれがわからないのだ、そのような自分勝手な思いでしかなかった。それが、もしも本物の愛であったならば、「多くの罪を覆」っていたはずだからです。互いに赦し合えていたはずなのです。
「多くの罪を覆う愛」それは、わたしの罪をも覆ってくださった主イエスの愛を知ることなしには実現できません。自分も罪人であるという心で、愛するのでなければ、相手を傷つけるばかりです。「わたしにも、あなたにも罪がある。けれども、主の十字架は、わたしの罪も、あなたの罪も覆ってくださった。だから、互いの罪を暴き合うのではなく、傷を包帯で包むように、覆い合おう。赦し合おう。」と、今朝、わたしたちは勧められています。
 主イエスは、「主の祈り」において、「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」と祈りなさいと教えてくださいました。この赦しの祈りが、わたしたちを本当の愛に生きる者へと導きます。罪を赦し、赦される。本当の愛は、そこにこそ、あります。相手を生かし、自分も生かされる愛です。そのような愛の業として、「不平を言わずにもてなし合いなさい。」と言われています。
 大切なのは、「不平を言わずに」です。誰でもひとをもてなすときには、色々と考え、準備をします。色々と心を砕いて骨を折れば、つい不平を口にしてしまうこともあるかもしれません。もてなすことは大変なのです。期待通りの反応がないこともあります。不平の一つも言わずに もてなし合うことなど、ほとんど不可能に思われます。わたしたちの、ほんとうになけなしの、雀の涙のような愛ではどうしようもありません。しかし、そのように貧しい者であるにもかかわらず、神さまは わたしたちを愛してくださり、主イエスを遣わしてくださいました。わたしたちを赦し、キリストの愛に生きる者としてくださいました。そして神さまの ご計画に従って、世の終わり、救いの完成の日のために、あなたも働いてほしいと、名前を呼んでいただいたのです。強めていただいているのです。かっこつけずに、裸になって、神さまに「互いに愛する者としてください。互いに赦し合う者としてください。互いにもてなし合う者としてください」と祈ることが許されているのです。わたしたちは、キリストによって一つとされています。キリストによって神さまの子どもとされ、兄弟姉妹とされています。その驚くべき恵みに包まれ、これから聖餐の祝いに与ります。共に罪を赦された者として赦し合い、神さまのご計画の完成に向かう歩みを進めてゆくために、わたしたちは共に この食卓に招かれました。感謝をもって、主の恵み深さを味わい、力をいただいて、たとえ半歩でも、昨日より前へ、進んでゆくのです。

<祈祷>
天の父なる神さま、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈る者としてください。心を込めて愛し合い、不平を言わずにもてなし合う者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。あなたによって与えられる、新たに生かされる力を必要としている者が病床にあります。厳しい人生の闘いの中にあります。年老いても、年若くても、それぞれに知るこの闘いの中にあります。言葉足らぬ わたしたちの弱さを超えて、弱さを突き抜けて、あなたの言葉がその人びとに届きますように。主の励ましと慰めがありますように。来週の主日、秋の特別伝道礼拝をささげます。祈りつつ準備しておられる森島 豊先生を祝福し、存分に用いてください。礼拝後は、バザーを予定しております。たくさんの働き人が与えられ、感謝いたします。互いに愛し合い、感謝して奉仕することができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年10月30日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第26章11節~15節、新約 ペトロの手紙一 第4章3節~6節
説教題:「神に従う生活」
讃美歌:Ⅱ-78、447、543

 ペトロは、この手紙のはじめの一行からずっと、信仰を保つことに苦労している仲間たちに向けて、言葉を尽くして励ましてきました。先週読んだ第4章2節では、「あなたがたは洗礼を受けたことで、罪とのかかわりを絶った者たちだ、だから、残りの生涯は、人間の欲望に生きるのではなく、神の御心に従って生きよ」と勧めました。さらにペトロは、勧めます。3節。「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。」
ペトロが、これほど具体的に記したということは、仲間たちの中に、キリストを信じる前の生活に戻ろうとしていた者が少なくなかったのだと思います。ペトロたちの宣教を通してキリストと出会い、主の救いを信じる信仰へ導かれた。しかし、それまでの生活からきっぱりと足を洗い、完全に抜け出すのは容易ではありません。かつての遊び仲間からのプレッシャーもあったことでしょう。キリストを信じて生活をしているのにかえって迫害を受けていれば、キリストに従う意味を見出せなくなる人も出てきてしまう。再び、欲望に負けてしまう者が、一人や二人でなく、相当数いたのではないかと考えられます。
ペトロは言うのです。「もうそれで十分です。」「あなたがたはキリストと出会い、欲望に従う生活の虚しさを思い知ったはず。すべての罪を主の十字架の死によって、赦して頂いた恵みを経験したはずだ。」と、仲間たちの信仰を案じて語りかけるのです。
「泥酔、酒宴、暴飲」等は、サラリーマンであれば、皆さん通る道でありましょう。わたしにも覚えがあります。最寄駅を乗り過ごして終点まで行ってしまったこと等は情けない思い出ですが、それらが信仰者にとっての生命線だというほど悪いことであるのには理由があります。酔っぱらっている間、キリストを見失っているからです。神さま以外のものに、心を奪われているからです。これらと並べられている「偶像礼拝」も、神さま以外のものを、一番大事にすることです。これも、この世に生きていればそう簡単なことではありません。銀行員時代のわたしは、日曜日にはかろうじて教会に通い続けておりました。しかし、翌日になると、み言葉より、支店長の言葉に絶対服従です。仕事を終えて、電車の窓に映る自分の顔を見ては、「今日のわたしは、キリストを主として生きただろうか?」と落ち込む日々でした。また、このようなことも思い出されます。
今日は家族礼拝。今日一緒に礼拝をささげた子どもたちのように、わたしも教会の子どもとして皆さんから愛され、祈られ、成長させて頂きました。幼少から教会に通い続けたことで、たくさんの教会員の生き方に触れてきました。ある方は、わたしが献身し、神学校に入ったとき、自分のことのように喜んでくださいました。そのときの告白は今も忘れられません。「毅朗くん、僕は、牧師になりたかったんだ。それで賀川豊彦先生と同じ神戸神学校に学び、賀川先生と社会活動もしたんだ。でも、牧師になれなかった。いや、なってはいけなくなった。戦争で辛い経験をしてしまったから。だから、君が牧師になると聞いて、本当に嬉しくて、嬉しくて。毅朗くん、僕が叶えることのできなかった牧師になる夢を叶えて欲しい。毎日、祈っているからね。」はっきりそうとは語られませんでしたが、戦地で壮絶な経験をされたのです。命令に逆らえず、律法で禁じられている「汝殺すなかれ」を破ってしまった。だから、わたしは牧師になってはいけない、そのように心に決めたのだと思います。主の み心に従って生き続けることの、何と難しいことでしょう。
だからこそ、わたしたちは、主イエスの十字架の贖いを信じ、洗礼を受け、罪とのかかわりを絶って頂きました。そして、肉における残りの生涯を神の御心に従って生きよう、と決断したのです。もう十分なのです。主イエス以外の何かに引きずられて人に言えない傷を負うのはもう懲り懲りなのです。
ところが、この世ではキリスト者は異邦人なのです。郷に入っては郷に従えと周りからの圧力がかかります。昔の仲間から『どうした、お前。カッコつけるな。また一緒に吞もう。どうせ死んだら終わりだ』と言われる。酒宴を断れば、『お前、そんなやつだったか』と不審に思われ、そしられる。変なやつだ。付き合いにくいやつだと言われることを覚悟しなければなりません。
では、洗礼を受け、キリスト者になることは、自由を奪われ、窮屈な人生を送ることなのでしょうか。それは違います。確かに、礼拝を最優先にし、神さまに従って生きるとき、陰口や不当な扱いを覚悟しなければなりません。でも、あらゆる誘惑や、外からの圧力に従わなくてはならないことこそ、不自由以外の何ものでもありません。誘惑に襲われる日も、痛みを感じる日も、神さまは知っていてくださいます。そしてすべてを、御心のままに導いてくださいます。この平安が、喜びが、わたしたちを、あらゆる外からの圧力に対して、誘惑に対して、自由にします。キリストを愛するから、わたしたちはまことの意味で自由なのです。
ペトロは続けます。5節。「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。」新共同訳では訳されていませんが、原文は、「裁く」という言葉の前に、「すぐに」という言葉があります。新改訳は、このように訳します。「彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。」神さまは、いますぐに裁きを行うことがおできになられる。しかし、その裁きを、猶予してくださっているのです。それは、すべての人が悔い改めることを真剣に望んでおられるからです。そのことを、わたしたちは忘れてはなりません。わたしたちは皆、すぐにでも裁かれるべき存在です。
それにもかかわらず、主イエスの十字架の死、贖いの死によって、罪を赦され、肉における残りの生涯を生かされています。神さまから愛されています。だから、欲望のままに生きるのではなく、主に感謝し、一日一日を礼拝者として、歩み続けるのです。
ペトロは続けます。6節。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」ペトロは「死んだ者にも福音が告げ知らされた」と記します。第3章19節でご一緒に読みましたように、ここでも、主イエスが陰府(よみ)にまで福音を告げ知らせてくださったことが語られています。すでに死んだ者にも、福音が届けられているのです。人間の目から見れば、人の死は裁きの結果で、死は、すべての終わりと見えるかもしれません。けれども神さまは、どの人にも、生死をこえて神さまの みもとで安らかに生き続けることを願っておられるというのです。神さまは誰一人、裁きによって永遠に死の中に閉じ込められることなどあってはならないと、切に願っておられるというのです。
取り違えてはならないのは、洗礼を受けたからといって、神さまの審判を免れることはできない、ということです。神さまの目に、義しいとされる人は一人もいません。だからこそキリストは、わたしたちに代わって、前もって神さまの裁きを受けてくださった。十字架に磔(はりつけ)にされ、神さまから見捨てられるという苦しみを受けてくださったのです。この救いを信じる者が一人も滅びないで、神さまの みもとで永遠に、平安に生きる道を、整えてくださったのです。神さまの裁きを、怖れないで希望をもって待つことができるようにしてくださったのです。そうであれば、わたしたちの日々の生き方が変わらないのは、主の恵みを足蹴にするに等しいことではないでしょうか。わたしたちは、再臨の主イエスによる審判を待ち望む者として、主に仕えたい。これまであらゆる欲望に負け、楽な道を選んできたわたしたち。過ちを犯した後の惨めさに苦しんできたわたしたち。けれども洗礼は、そのようなわたしたちを、主イエスと結び合わせてくれました。だからこそ、わたしたちは、神の御心を問いつつ生きるのです。子どもたちの救い、神学生の歩みを祈り続けるのです。罪赦された者として、共に励まし合い、愛と赦しと祈りに生きることを、神さまは、わたしたちに望んでおられるのです。

<祈祷>
天の父なる神さま、主の十字架によって罪赦された者として、あなたの御心を問いつつ生きる者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

こどもたちのためのいのり→共に祈りましょう。
主よ、教会学校の子どもたち、日本の子どもたち、世界の子どもたちを祝福し、憐れんでください。病に苦しむ子どもがおります。戦禍に震える子どもがおります。日々の生活に困窮している子どもがおります。いじめに苦しむ子どもがおります。主よ、悩み、苦しんでいる子どもたちに寄り添い、溢れる愛を注ぎ、「あなたはひとりではない、どんなときも、わたしがあなたと共にいる。」と語り続けてください。わたしたちは、2020年の春から疫病に苦しんでいます。教育現場、保育現場は、今もたくさんの制約があります。それでも子どもたちは、学びに、部活動に励んでいます。主よ、いつの日か、マスクを外し、互いの笑顔を分かち合いつつ、学校生活を楽しむことができますよう導いてください。子育てに励む保護者、保育現場、教育現場で奮闘している保育者、先生方を強め、励ましてください。教会学校、キリスト教保育、キリスト教学校の働きをこれからも存分に用いてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

2022年10月23日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第63章7節~9節、新約 ペトロの手紙一 第4章1節~2節
説教題:「罪に対する武装」
讃美歌:546、71、142、380、542

 先週の木曜日、勤務している学校で保護者向けの「聖書の集い」が行われました。今年度、4回の責任を与えられています。今回は2回目で、駆け足ではありましたが、ペトロの生涯をたどりました。語りながら、改めて、主イエスの おそば近くで仕えたペトロの、本当にたくさんの経験と、心の歩みに、思いを馳せました。主から声をかけられて弟子となり、喜びも失敗も味わいながら主に従って旅をしたこと。主が予告された通りに捕らえられてしまったとき、恐怖のあまり主との関係を否定してしまったこと。主の十字架の死。そして甦られた主によって再び立ち直らせていただいたこと。そういう、ペトロの歩みをたどるとき、わたしたちは、わたしたち自身の人生を振り返るような思いを与えられるのではないでしょうか。
今、わたしたちは、そのペトロの肉声が聞えてくるような手紙を読んでいます。もちろん言葉は日本語に訳されたものですし、時代も、状況も異なります。けれども、何度も失敗を重ね、後悔を背負い、復活の主イエスに立ち上がらせて頂いたペトロの声が、聞こえてくるような気がするのです。ペトロは、言葉を尽くして「キリストに倣うように」と勧めてきました。それは第4章に入っても変わりません。1節。「キリストは肉に苦しみを お受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。」
「武装しなさい」と、今朝、わたしたちは呼びかけられています。なぜ武装するのか?闘いがあるからです。迫害を受けていた当時の人たちは、文字通り、肉体の苦しみや死の恐怖との闘いの最中(さなか)にありました。また、死の恐怖に負け、主イエスとの関係を否定してしまったペトロにとって、キリストの受けられた苦しみは、そのまま自分の罪でありました。今の時代には迫害がないからといって、わたしたちに関係ないことではありません。わたしたちの中にも、体の痛みを抱えている者があります。また死ぬことがまったく不安でない人はいないでしょう。日常を生きている中でも、キリストに従う生き方か、そうでない生き方か、わたしたちはいつも分かれ道に立っています。そういう痛みや不安や、さまざまな試練によって、キリストに従い、神さまの おそばで生きることを放棄してしまう気持ちと闘うのです。キリストの お苦しみと、その苦しみによってもたらされた、信じられないほどの大きな恵みを知らされていないままのわたしたちであったならば、それほど真剣に罪と闘う必要はなかったかもしれません。良くないなぁ、弱い自分だなぁと思いはしても、まぁ仕方ないか、みんなも同じだし、と妥協したところで、どうということはありません。けれども、わたしたちは知ったのです。神さまが、わたしたちの目を、耳を、開いてくださったのです。主イエスが、わたしたちの罪を赦すために、神さまの御心に従って、苦しんでくださったことを、知ったのです。主は苦しみ抜いて、死に際しても、神さまの御心に従うことを、止めておしまいになりませんでした。だから、わたしたちも、神さまの思いを無視して、自分の思いによって生きようとする、わたしたち自身と闘うのです。わたしたちの罪、弱さ。これではダメだと思いながら、妥協する心。「どうせわたしは」と諦める心。神さまを信じ切れずに絶望する心。それらと闘うのです。そのためには武装が必要。丸腰では太刀打ちできないのです。腹を立てないようにしよう、人に親切にしよう、そんな当たり前とも思われることにすら、何度失敗してきたことでしょう。わたしたちは本当にもろい。だから武装しなければならないのです。
「キリストは肉に苦しみを お受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。」とペトロは言います。主イエスがお受けになった苦しみは、わたしたちを罪から絶ち切りました。このことを心に刻みつけて、武装するのです。もしも今、肉体の苦しみと闘っている人であれば尚更、キリストの足跡をたどっているのだという心で、罪に打ち勝つのです。罪の結果はどういうものでしょう。それは、主イエスのお苦しみを見ればわかります。主の十字架は、本来、わたしたちが受けなければならない苦しみでした。主イエスは、その苦しみを、代わりに受けてくださったのです。そして、そのように恐ろしい罪と闘って、勝つ道もまた、主イエスの お苦しみを見ればわかってくるのです。洗礼を受けるということは、主イエスと一つになって共に罪に死んで、主と共にまったく新しい命に甦ることです。主イエスの十字架が、このわたしのための救いであることを信じ、神と人との前で信仰を告白し、洗礼を受けることで、神さまの恵みを知らずにいた自分は死ぬ。そして、神と共に生きる命が与えられるのです。これが、洗礼であり、罪に対する武装です。キリストの十字架と復活が、すでにわたしの罪を赦し、わたしを救って、神さまの おそばで新しい命に生きる者としてくださっている。その信仰こそが、確かな武装なのです。
 ペトロは続けます。「肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。」キリストを信じ、キリストの救いを受け入れたとき、わたしたちは十字架のキリストと一つにされます。罪に支配され、罪に生きてきたわたしたちが、「罪とのかかわりを絶った者」とされるのです。それでも、日々、様々な誘惑がわたしたちを襲ってきます。そのときは、何度でも思い起こすのです。「わたしは罪とのかかわりを絶った者。ただただ、キリストの十字架の死によって、罪とのかかわりを絶ち切って頂いたのだ。」と。
ペトロは、罪とのかかわりを絶った者の生き方を記しました。2節。「それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。」地上の命には、限りがあります。残された時間はそれぞれ違います。すべてに定められた「時」があります。だからこそ、一日一日を感謝して、いつも神さまに御心を問いながら、大切に生きるのです。
ペトロは、この手紙を記しながら、自らの生涯を振り返っていたに違いありません。漁師だった頃の自分。主イエスに「恐れることはない。今から後(のち)、あなたは人間をとる漁師になる。」と召し出された自分。一番弟子という自負に酔い、常に人の評価を気にしていた頃の自分。主を三度も裏切ってしまった惨めな自分。主が十字架で死なれた日の絶望。主が甦られ、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と三度も重ねて尋ねてくださり、立ち上がらせていただいた その日の思い。その後、伝道者として奮闘した日々。そして、残された地上での命を意識する自分。これまでの生涯を振り返りつつ、肉体をもって生きる残りの生涯を意識しているからこそ、今、迫害に苦しみ、信仰が揺らいでいる仲間たちに、呼びかけるのです。「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれているあなたがた。信仰の実りとして魂の救いを受けたあなたがた。罪とのかかわりを絶ったあなたがたに、キリスト者の歩みがかかっている。天の国の実りがかかっている。どうか信仰を捨てないで欲しい。どうか人間の欲望にではなく、神の御心に従って、生きて欲しい」と。ペトロが経験したすべての喜び、悩み、苦しみ、挫折、痛みを通して与えられたメッセージが、「人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるように」なのです。
何かをするとき、何かを判断するとき、誰かに接するとき、これは、自分の欲望を満たすための行為か、それとも、神さまの御心に従う行為か、まず立ち止まり、祈るのです。「主よ、このことはあなたの御心に適うことでしょうか。それとも、わたしの欲望を満たすための行為でしょうか。」と。信仰にもとづく「祈り」もまた、罪に対する武装です。「主よ、わたしの罪は御子の苦しみによって赦されました。洗礼を授けられ、罪との かかわりを絶っていただきました。主よ、あなたの御心に従い、あなたの子どもとして肉における残りの生涯を生きる者としてください。欲望にではなく、あなたの愛と赦しに生きる者としてください。」主は、わたしたちの祈りを待っておられます。声がでなくても、肉体の目や耳が不自由になっても、主は共にいてくださるのです。
ペトロは、あの夜、自分も捕まって拷問されるかもしれないと思うと、恐ろしくて、全力で主イエスとの関わりを否定してしまった自分の罪、弱さを知っているからこそ、今、あのときの自分と同じように主との関係を絶とうとしている仲間たちに、それはあまりにも悲しい。わたしのような情けない思い、惨めな思いをあなたがたにはさせたくない。本当にキリストは、わたしたちの弱さ、罪の代償である苦しみをその肉体にお受けになられた。そのことによって、わたしたちは皆、罪とのかかわりを絶たれた者なのだ。これほどの恵みを忘れてはならない。どうか、残された地上での日々を、神さまの おそばから離れずに歩み続けて欲しい。いや、歩むことができる。なぜなら、どんなときも、あなたをまもる光として、イエスさまご自身が、あなたの武具として、あなたを包んでいるのだからと、もしかしたら涙を流しながら、手紙を書いたのではないかと思います。
先週の礼拝後、東村山教会最高齢の姉妹を施設に訪ねました。施設の決まりで、制限時間20分という短い時間でしたが、近況を伺い、一緒に祈りました。皆さんのお祈りが嬉しく、支えになっています、と笑顔で報告してくれた姉妹は、「神さま、すべてが恵みです。感謝いたします」と祈られました。週に三度の透析は、それこそ肉の苦しみです。それでも、神さまから与えられている肉における残りの生涯を一所懸命に生きておられる姿に、励まされました。
わたしたちは、キリストの苦しみによって罪赦された者として、神さまが決められた「時」に、地上の命を終えます。けれども、定められた約束の日には、キリストが、起こしてくださいます。このヴィジョンが、信仰が、わたしたちの平安であり、喜びであり、希望であり、武装なのです。

<祈祷>
天の父なる神さま、み子の死と甦りにより、罪とのかかわりを絶つ者としてくださり感謝いたします。主よ、あなたの御心に従って、肉における残りの生涯を生きる者としてください。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。多くの人びとが平和を祈っております。けれども、なかなか真実の平和を造ることができず、お互いの不信と憎しみの故に武器を増やしている世界を憐れみのうちに覚えてくださいますように。どうか、主の平和を世界にもたらしてください。世界の片隅に隠れたように、しかし真実の愛に生きようとし、小さな者の傍らに立ち続けている者を祝福してください。肉の衰えに苦しむ者がおります。それでも、どのような状態になっても、あなたが共におられ、「父よ」との祈りに「子よ」と応えてくださることを信じますから、感謝いたします。主よ、悩み、苦しむ者を憐れみ、これからも祝福を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年10月16日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ミカ書 第6章6節~8節、新約 ペトロの手紙一 第3章19節~22節
説教題:「安らかな良心」
讃美歌:546、9、199、529、541

わたしたちは、今朝も、この礼拝堂に集まってきました。何か特別な事でも起こらない限り、教会へ来るのに命の危険を感じることはありません。しかし、世界に教会が生まれて間もない頃、キリストの名のもとに集まることは、命がけの行為でありました。
ペトロの手紙の宛先のキリスト者たちの群れも、主の日ごとに、信徒の家にそっと集まり、礼拝をささげておりましたが、ローマの兵士たちは、そこに踏み込み、次々とキリスト者たちを捕らえたのです。中には、洗礼を受けていない者もいたことでしょう。洗礼を受けていない者たちも捕らえられ、殺された。そこで、切実な問いが生まれたのです。「洗礼を受けずに死んだ者は、キリストの救いに与れるか、それとも無理なのか。」ペトロは、答えました。「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。(3:18~19)」
十字架で死なれた主イエスは、葬られたあと、静かに甦りを待たれたのではなく、陰府(よみ)にくだり、死んだ者たちにも福音を届けてくださいました。福音を知らずに死んでいった人々に、「皆わたしのもとに来なさい。わたしはあなたがたを救うために十字架で死に、ここへ来た。」と宣教されたのです。手紙を読んだキリスト者たちは、この言葉にどれほど励まされたことでしょう。わたしたちもまた、両親や、伴侶や、子どもたち、孫たちの救いを祈る者として、この み言葉に励まされて、ますます祈りをあつくするのです。
死者が行くとされている、「陰府」というところがどんなところなのか、わたしたちには知る由もありませんが、主イエスはそこまでして、すべての人を救おうとなさったのです。十字架にかかって死なれて、もう十分、とはお考えにならなかった。ひたすら、とことん、人間を救おうとなさったのです。その主イエスの愛は、神に背き続けて死んでいった者に対しても、区別なく向けられていると、ペトロは続けます。20節。「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」
ノアの箱舟の物語。人々の心が神さまから離れ、好き勝手に、互いに奪い合って生きている状態をご覧になった神さまは、人間を創造したことを後悔なさった、と聖書には書かれています。そして、神さまはついに、ノアとその家族以外の者たちを滅ぼしてしまおうと決意なさったのです。ノアは、カンカン照りの空の下で、神さまから示された通りに、舵(かじ)も帆(ほ)も櫂(かい)もない、途方もなく大きな箱のような舟を、来る日も来る日も、黙々と造り続けました。その様子を見ても、人々は神さまの み心に目を向けようとはしませんでした。ノアの信仰をあざ笑い、ついに、洪水で滅ぼされてしまったのです。キリストは、このように神に背き続けて死んでいった者たちをも、救おうとなさいました。芥川の短編小説『蜘蛛の糸』のようにではなく、直接、陰府にまで出向いて、救いの み手を、差し出されたのです。
人間の不従順は、ノアの時代だけの話ではありません。ペトロが手紙を記している時代にも、主イエスを救い主と信じる群れを迫害する者がいました。そして今も、世界には迫害に苦しむ教会があります。そこでペトロは、ノアの時代の不従順な人々を、「主イエスの救いに耳を塞いだ人」の代表として記したのです。すでに死んだ人々が、どうやって救われるのかということについては、書かれていません。その先のことは、わたしたちには知らされていない。神さまだけがご存知です。わたしたちに知らされているのは、主イエスは、陰府をさまよっている不従順な魂をも見捨てることなく、心を向け、神さまの愛を、赦しを、救いを、直接、届けに行ってくださった、という恵みです。信仰を告白することなく召された、わたしたちの大切な者たちの死をも、主は み心にとめていてくださるということです。しかも、それぞれのいるところにも福音は届いているという恵みを、わたしたちは信じてよいのです。
神さまの恵みは、わたしたちがいくら考えたところで理解できるものではありません。神さまがわたしたちを救おうとしてくださる思いの深さは、いくら言葉を尽くしても語り尽くすことはできません。神さまの忍耐、独り子なるキリストを世にお遣わしになられ、十字架につけ、陰府にまでくだらせ、伝道させ、そして甦らせるほどの愛、赦し、救い。驚くべき恵みです。
わたしたちは日曜日ごとに礼拝において使徒信条を唱えます。「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり」と告白します。これはただ、「陰府を通過された」というだけのことでなく、主イエスの愛を心に刻むための信仰の告白なのです。わたしたちは、「主イエスは、あらゆる人間、神さまに背き続けた人間をも、救おうとされた」という恵みを信じ、神さまの み前に毎週、告白しているのです。主イエスは、ひたすらに、人間を救おうとされました。主イエスは、悲しむ者、罪に苦しむ者の友となってくださいました。それだけではなく、神さまに背いている人間を救うために、父なる神さまから捨てられ、十字架に架かって死なれました。さらに、陰府にくだってまでも、罪に捕らえられている魂を救おうとされたのです。
わたしたちは、今朝の み言葉、また使徒信条を通して、主イエスのわたしたちへの愛の激しさを、心に刻みます。主イエスの救いの、何と大きいことでしょう。主イエスは死んだ人のためにも福音を語られたのですから、主の力の及ばないところは、どこにもないのです。天上にも地上にも陰府にも、福音の及ばないところはない。主イエスは、その み苦しみによって、天においても、地においても、陰府においても、救い主となられたのです。
ところで、20節後半に「この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。」とあります。水の中を通ってノアとその家族の八人が救われた事実を心に刻みたい。八人が、水をくぐって救われた。これは、信仰によって救われる者は、「水」すなわち「洗礼」によって救われるということを示しています。ペトロは喜びと感謝をもって記します。21節。「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚(けが)れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。」
洗礼は、罪の生活の終わりであり、神さまと共に生きることを信じる生活の始まりです。ペトロは、「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではない」と書きました。水で、体がきよめられるのではないのです。洗礼は、神さまに対して、正しい良心を願い求め、またそれが与えられる。その証なのです。「正しい良心」とは、何の心配もしていない、後ろめたいところがひとつもない、安らかな良心です。罪が赦されていることを知っているから、それを心の底から信じているから、安心していられるのです。たとえ不安に陥りそうになるときでも、洗礼を授かっていることを思い起こし、神さまがいっしょにいてくださることを確信して、神さまに「正しい良心をください」と祈り求め、平安で健やかな、キリストに従う心をいただくことができるのです。甦りのキリストに結ばれて、神さまとの永遠の生活を信じ、どこまでも神さまと共にあるいのちに生きる者とされる。洗礼がそれを保証するのです。考えれば考えるほど、驚くべき恵みです。
キリストは甦られました。陰府にまで福音を宣べ伝えられました。そして、今も生きて働いていてくださいます。神さまの右に座り、わたしたちのために執り成していてくださいます。キリストの愛、赦し、救い、み力が及ばないところは、どこにもないのです。そのキリストが、わたしたちとしっかり繋がっていてくださいます。わたしたちを創造し、限りない情熱をもって愛してくださる神さまが、わたしたちと共にいてくださいます。だからわたしたちは、これからも、神さまに正しい良心、安らかな良心を願い求めて生きるのです。良心がゆらぎ、悪へと引きずられそうになるときこそ、「わたしは洗礼を受けた。罪を赦された。すべての支配者であるキリストと結び合わされた」と繰り返し、繰り返し、思い起こして祈るのです。
不安なとき、侮辱を受けるとき、権威をふりかざす者におびやかされるとき、自分が洗礼を受けたこと、キリストと結び合わされていることを思い起こす。洗礼こそ、わたしの救いの保証であると。わたしたちの主、キリストこそ、勝利者であると。キリストの支配が及ばないところはないのです。陰府の世界にも、救いは届いているのです。こうして、神の み子が、人となって世にいらしてくださった目的は、果たされました。キリストが、わたしたちの罪に勝利してくださったことによって、わたしたちも、キリストと共に、勝つのです。罪から自由になり、死をも越えて、安心して、祈りつつ、主のもとで生きるのです。キリストに従って、生きるのです。

<祈祷>
天の父なる神さま、洗礼によって驚くべき恵みを与えられた幸いを感謝いたします。また、洗礼を受けることなく召された者に み子が福音を届けてくださる幸いを感謝いたします。主よ、争いの続く世界にあって、不安を抱くわたしたちを憐れんでください。たとえ、どのようなことがあっても、真実の支配者であるあなたを信じ、安らかな良心を願い求めて生きる者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。世界の平和のために祈ります。戦い、争いを少なくしてください。あなたの み心に適った方法で解決され、ひとりでも多くの者が無益の血を流さなくてすみますように。少しでも社会に不正が行われることがなくなりますように。病床の友を顧みてください。厳しい病床の闘いの中でも、あるいは、肉体は健康であっても人生の闘いに疲れている者に、「恐れることはない。甦りの主は共にいてくださる」との確信を お与えください。それ故に、愛に望みを抱くことを得させてください。それ故に、地上の生活を 終わりの日に至るまで、望みを抱いて歩むことを得させてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年10月9日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第69篇5節~14節、新約 ペトロの手紙一 第3章17節~18節
説教題:「神が お望みになるなら」
讃美歌:546、24、235、259、540、Ⅱ-167

 先週は、63名の皆さんと共に聖餐に与ることができました。聖餐に与った後には、いつも聖餐感謝の祈りをささげます。日本基督教団口語式文にのっとって祈りますから、毎回同じ言葉で祈りますけれども、祈りの言葉を口にするたびに、まことにアーメンと、心を奮い立たせていただく祈りがあります。それは、「キリストの復活の力を知り、その苦しみにあずかり、おりを得ても得なくても、みことばを宣べ伝えることができますように。」との祈りです。
 復活されたキリストは、弟子たちに言われました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。(マルコによる福音書16:15)」ペトロは、この宣教命令を心に刻み、伝道の業に立ち上がりました。その結果、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地にキリスト者が起こされたのです。けれども今、各地にいる仲間は、皆、苦しんでいる。信仰を与えられたことで、迫害され、苦しんでいる。だからペトロは、苦しむ仲間たちを励まそうと手紙を書いているのです。実際、ペトロの手紙一には、「苦しみ」、「苦難」といった言葉が18回も登場します。ペトロの手紙一とほぼ同じ長さのヨハネの手紙一には、「苦しみ」、「苦難」という言葉はひとつも出てきません。それほどペトロは、迫害を受けて苦しむ仲間たちを何とか励まそうと心を砕いているのです。
17節。「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。」ご一緒にここまで読んでまいりましたように、無慈悲な主人にも心から従い、夫に従い、妻を敬う。「やられたらやり返す」というのではなく、祝福を祈る。そういう具体的な善、善い行いの勧めを、ペトロは書いてきましたが、そのような善を行う生活が目指すところは何でしょうか。キリストに従って生きて、苦しむ先に、何があるのか。それは、神さまの御心がなることです。主イエスはおっしゃいました。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆 永遠の命を得(え)ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。(ヨハネによる福音書6:38~40)」ヨハネによる福音書 第6章の み言葉です。すべての人が神さまの救いの恵みの中に入れられることが神さまの御心であると、主イエスはおっしゃいました。そうであれば、善を行うことは、即ち、福音を宣べ伝えることであると言うことができると思います。わたしたちは、この時代のキリスト者たちのように命の危険にさらされているわけではありませんが、キリストに倣って生き、福音を宣べ伝えることは決して楽なことではありません。日々の祈りと、覚悟が必要です。
ペトロは「悪を行って苦しむよりは」と記しました。悪を行って苦しむ経験は誰もが知っているのではないでしょうか。神さまが悲しまれるとわかっているのに、つい、悪口が口をついて出てしまう。悪にひきずられてしまう。そのときは、その方が楽に思えるからです。しかし、楽だと思って悪い方にひきずられても、その後、ずっと苦しいのです。自分の良心が自分を責める。人の目を恐れる。その時、はじめて、「しまった」と思うのです。そうなることは、はじめから分かっていたはずなのに。
善を行い、福音を宣べ伝えることは、神さまが喜んでくださることです。そうであるならば、神さまの御心のために善を行って苦しむ方が、いっときの感情にひきずられて、悪を行って苦しむより、よいに決まっています。けれどもそうかと言って、わたしたちが苦しむことを、神さまが望んでおられるわけではありません。神さまは、すべての人が救われて、平安の中で喜んで生きることを望んでおられます。本来なら、善いことをして苦しむことだって、神さまは望んでおられないと思います。善を行って、互いが平和と愛に包まれて喜んで暮らすことができたら、どれほど幸いでしょう。でも一方で、神さまは、この世で善いことをする者が苦しみにあうことも知っておられたからこそ、わたしたちにキリストを与えてくださったのです。
ペトロは続く18節で、キリストを指し示します。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。」ここには、キリストが、わたしたちを救うために何をなさったか、ということが、そのまま書かれています。キリストは、まったく、正しい方であられました。それなのに、正しくない者たちのために苦しまれました。死なれました。わたしたちには、とうてい耐え難いことです。もしもわたしたちが誰かの罪を被って死ななければならなくなったとしたら。考えただけでゾッとします。とても黙ってはおれません。ましてや、わたしたちはキリストのような正しい者ではない。それなのにペトロは記すのです。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。」と。正しい方なのに正しくない者のために死なれたのだ、と。驚くべきことです。なぜ「も」なのか。それは、わたしたちは正しくないのに、キリストと同じように聖なる者としていただいている、ということではないでしょうか。「ただ一度」のキリストの死によって、わたしたちの罪は赦され、神さまのそばで生きる者としていただいたのです。
「ただ一度」。主イエスの死は、それほどの「決定打」だということです。どんな反論も挟む余地がなく、繰り返す必要がないほどの、最初にして最後の、最強で、決定的な、正義の勝利の固い約束なのです。キリストは、ただ一度、苦しみを受けてくださいました。わたしたちを、神さまのもとへ導いてくださるために。キリストのただ一度の苦しみが、わたしたちを聖なる者とし、神さまのもとへと導いてくださった。十字架のキリストが、わたしたちを、神さまのすぐそばに、「ここがあなたの居場所だよ」と、連れて行ってくださったのです。本来であれば、神に近づくことなど赦されないわたしたち。それが、キリストの苦しみによって、今では神さまを父と呼び、いつでも親しく祈ることができるようにしていただいたのです。このように、ただ一度のキリストの苦しみが、すべての者を、神さまのもとへ導くのです。そして、キリストは、これをただ信じなさい、見なくても信じる者は幸いだ、とわたしたちを呼んでおられます。今、このときも、わたしたちすべての者を、招いておられるのです。
ペトロは続けます。18節。「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」肉とは、神さまに逆らう思いです。霊とは、神さまです。神に逆らうわたしたち人間が、キリストを殺したのです。しかし神さまは、キリストを復活させ、生かしてくださったのです。キリストを殺したわたしたちを生かし、支え、キリストに従う力を与えるために。
主イエスは、おっしゃいました。ヨハネによる福音書 第16章33節。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネによる福音書16:33)」キリストは、神さまの力によって、わたしたちすべての者の罪に、また死に、勝利してくださいました。これを信じる者が、一人残らず、勝利者キリストの甦りの いのちを生きる者とされるために。復活のキリストの いのちが、わたしたちを生かし、力を与えていてくださいます。この恵みを喜んで、わたしたちの中で生きて働いてくださるキリストに従って歩みたい。福音を宣べ伝えたい。すぐに悪い思いに負けそうになる弱いわたしたちに、キリストの み言葉は、今日も勇気を与えてくださいます。わたしたちは、たとえ苦しむときも、ひとりではありません。すべての罪と死に勝利されたキリストが、わたしたちの味方として、いつも共にいてくださり、わたしたちの戦いを支えていてくださるのです。

<祈祷>
天の父なる御神、勝利者キリストを わたしたちにお与えくださり、深く感謝いたします。あなたがお望みになるなら、たとえ苦しむことになっても、善を行う者として導いてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。世界で争いが続いています。政治に責任をもつ者に、また、すべての者に、あなたが創ってくださった世界に対する責任を知り、その義務を果たし、無益な死をなくしてくださいますように。地上にある悲しみ、痛みの中にある者のために祈ることができますように。病苦の中にあります者のために、心の傷のために呻いている者のために、わたしたちの祈りが集められ、強められますように。迫害に苦しむ諸教会のために、わたしたちの祈りが深められますように。神学校日の説教を担っている神学生の上に、聖霊を注ぎ、大胆に み言葉を語らしめてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年10月2日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第8章11節~13節、新約 ペトロの手紙一 第3章13節~16節
説教題:「主こそ我らの望み」
讃美歌:546、8、162、Ⅱ-1、280、539

 ペトロの手紙一を読み進めています。先週は、「悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」という、わたしたち教会に属するすべての者への呼びかけを、心に刻みました。そのようにして、一週間の歩みを始めました。善いことを、平和を、追い求める生活へと出発し、そして今朝、それぞれの破れを抱えながら、ここに再び戻って来ました。
 今日わたしたちに備えられた み言葉は、「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。」と始まっています。けれども、もしかしたら、この世において、善いことに熱心な人は、人々から煙たがられるかもしれません。かつて、ある人からこのようなことを伺いました。いつも、わたしを励ましてくださる方ですが、その日は、少し顔を曇らせて、語り出したのです。わたしの子どもは、今、不登校である、と。きっかけは、友達のいじめを注意したこと。そのことで、いじめのほこ先を向けられて、不登校になってしまった。教会で育てられてきたから、イエスさまはみんなのことを愛しておられると信じている。だから、友達をいじめるのはやめよう!と伝えた。それなのに、「善い子ぶるな」といじめられ、不登校になってしまった。そう話す、その方の表情は今も忘れられません。
本来であれば、善いことに熱心であるなら、害を加えられることはないはずです。苦しみを受けることなどないはずです。それでも、この世では、善いことに熱心であれば、そのことをおもしろくない、と思う人がいます。
ペトロも善いことに熱心であるなら、本来であれば、だれひとり害を加えることなどないと手紙に書きました。しかし同時に、ペトロは、善いことに熱心であることは、この世では、必ずしも、安全ではないことも、知っていたのです。だからペトロは続けるのです。14節。「しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。」
全能なる神さまを畏れるよりも、人々を恐れて心を乱してしまうわたしたちのために、神さまは、どこまでも深い愛をもってキリストを与えてくださいました。たった一人の み子を十字架につけて、わたしたちの罪を赦してくださいました。そして み子を復活させてくださり、この復活のキリストの いのちはあなたのものだとおっしゃってくださいました。キリスト者の いのちは、キリストの復活の いのちなのです。使徒パウロは「生きているのは、もはや わたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。(ガラテヤの信徒への手紙2:20)」と書きました。ペトロも言うのです。「たとえ、わたしたちが受けている恵みによって苦しみを受けたとしても、それはキリストが、わたしたちの中に生きていてくださる証拠だ。人々を恐れたり、あわてて心を乱したりしないで、ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。」
「心の中でキリストを主とあがめなさい。」今朝の み言葉の中に、ともするとひっそり埋もれてしまうような短い勧めです。けれども、大切な大切な勧めです。「あがめなさい」と訳された言葉は、「聖なるものとしなさい」という言葉です。人々の目が気になる、心が乱れる、そのようなとき、「キリストこそ、わたしの神さま、わたしの救い主、特別な、聖なるお方である」と心の中で礼拝するのです。キリストは聖なるお方と言っても、はるか遠くにおられるのではありません。特別な、人間とは区別されるべき まことの神さまでありながら、ほかの誰よりも近しいお方。わたしたちを友と呼んでくださり、わたしたち以上にわたしたちの罪、弱さ、不安、痛み、悩み、苦しみをご存知であられる お方。そのようなキリストを、心の中に聖なる お方としてお迎えし、賛美することが「あがめる」ということです。
ペトロもキリストを三度も裏切った夜、人々が恐ろしくて、心を乱しました。キリストを聖なる お方とあがめることができなくなってしまった。キリストを まことの神さまとして畏れるより、人々の目を恐れ、大いに心を乱したのです。そのことは、ペトロの心に深い傷を残しました。そのペトロによる「心の中でキリストを主とあがめなさい。」との勧めは、自らの傷からにじみでた呻きのようであり、その傷を癒していただいて溢れる涙のような、勧めではないかと思います。
わたしたちの心の中は、今、どんな状態でしょう。人々の目を恐れ、心が乱れてはいないでしょうか。心の中は、すぐに色々な思いでいっぱいになります。色々なことが重なると、不安でいっぱいになる。望みを失い、恐れや絶望に支配されてしまう。望みを失うとき、人は生きていけません。
ペトロは心を込めて勧めます。「あなたの心の中いっぱいに、キリストに入っていただきなさい。キリストは、喜んで、あなたの心に入ってくださる。キリストを あなたの聖なる牧者としなさい。死にすら勝利されたキリストが あなたの味方になってくださる。これは、あなたの命に直結することなのだ。」と。
その上で、ペトロは勧めます。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口(あっこう)を言ったことで恥じ入るようになるのです。」尋ねられるまでは、ひたすら、熱意をもって、悪いことを言わず、善いことを行って平和を願い、追い求める。主に助けを求めながら。そして、もしも、「なぜあなたはいつもいつも善いことに熱心なのか」と尋ねる人がいたら、そのときには、いつでも証言できるように備えていなさいと勧められています。穏やかに、敬意をもって。大声を張り上げたり、相手を馬鹿にしたりすることなく、祝福を祈りながら。自分の身におきたキリストの救いを、何の足し算も、引き算もなく。そのように勧められていることを、心におさめておきたいと思います。
わたしたちがいくら頑張って声を張り上げて熱弁をふるったところで、わたしたちには、望みを与えることはできません。わたしたちにできることは、自分の身におこった救いを証しすることだけです。その先の、望みを与える、ということは、神さまの みわざです。
教会報『ぶどうの木』。97号まで発行されています。今、次号の原稿が集まり、まもなく発行予定です。皆さんは、『ぶどうの木』をどこからお読みになるでしょうか?「巻頭言」からお読みになるでしょうか。あるいは、最後紙面の「教会員登場」のコーナーからお読みになるでしょうか?「教会員登場」には、今まで76名の教会員が登場しました。キリストにある望みを、それぞれの言葉でありのままに語る証言を読むたびに、本当に神さまは生きておられ、いつもわたしたちと一緒にいてくださる、という確信を新たにしています。
わたしたちの抱いている希望について説明を求められたとき、間違ったことを言ってはいけないとかたくなる必要はありません。語るべきことを与えてくださる神さまを信じて語ればよいのです。恵みを受けるのにはまったく相応しくないこのわたしに、神さまがどのように呼びかけてくださったか。試練の嵐、後悔の沼、その中で経験した主の恵みを語ればよい。穏やかに、相手への敬意をもって。キリストに住んでいただいている、正しく、確かな、良心で。
 苦しいことがあった。失敗があった。後悔があった。自分で自分を赦せない思いがあった。でも、そのようなわたしのためにキリストの十字架が与えられている。復活の いのちが与えられている。キリストに結ばれて、わたしの中いっぱいにキリストが住んでいてくださる。わたしの罪は赦され、キリストに従って善い生活をする力を日々与えられて生きることができる。それがわたしの望みです。わたしの望みは、ただただ、主にかかっています。そのように、わたしたちひとりひとりの身におきた癒しの奇跡を語ることができるのは、わたしたちの喜びです。
わたしたちは、一週間の旅路をつまずきながら、ころびながらも、主の望みの証人として歩み、こうしてここへ帰ってまいりました。そして、今朝は主の食卓が備えられています。十字架で裂かれたキリストの肉と流された血潮に与ります。わたしたちの望みの食卓です。主の恵み深さを味わう食卓です。主が与えてくださる望みの証人として歩む力をいただく食卓です。ここからまた、主の望みの証人としての歩みを一歩、踏み出してまいります。

<祈祷>
天の父なる神さま、日々、心の中でキリストを主とあがめる者としてください。日々、「わが身の のぞみは ただ主にかかれり」と賛美する者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。悲しみの中にあります者、不安を抱えております者を、どうぞ励ましてください。病床にあります者、年老いて、教会に来る力を失っている者のことを思います。わたしたちが、いたわりの声を かけるべきであるのに、かけることのできないでいる人びとのあることを思います。熱心に教会に通っていたのに、教会から離れている者もおります。どうか、どこにあっても、あなたが共におられる喜びを忘れることのないよう導いてください。み心なら、いつの日か、再び教会に帰ってくることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年9月25日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第34篇13節~17節、新約 ペトロの手紙一 第3章8節~12節
説教題:「祝福を受け継ぐために」
讃美歌:546、23、191、290、545B

ペトロは、キリストによる群れの仲間たちに手紙を書いて、励まし、慰めました。仲間の社会的な立場は色々でした。召し使いたちがおり、妻たちがおり、夫たちもいる。それらの人々に向かって、ペトロは、「あなたがたは、神の愛によって赦され、生かされている。だから、神に従うように、召し使いであれば主人に、妻であれば夫に、夫であれば妻に従いなさい。」と勧めました。そして、「終わりに」、念を押すように勧めるのです。8節。「皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」
「同情し合い」と訳された言葉は、「共に苦しむ」という意味です。「自業自得」、「自己責任」ではない。心を寄せ、一緒に苦しむのです。続いて、「兄弟を愛し」とあります。兄弟とは、神さまを父と仰ぐ、教会に連なる兄弟。神さまを父と呼ぶ兄弟として、愛し合うのです。「憐れみ深く、謙虚に」なるのです。「憐れみ深く」と訳された言葉ですが、「はらわた」という言葉からできています。はらわたがギューッとなるほどの思いで愛する。心の底から痛みを分かち合うのが教会なのです。
聖書を読むとき、「このような生き方、わたしにはとても無理」と思って読むなら、ただうるさく、耳が痛いだけです。でも、わたしたちの弱さを知っておられる神さまが、「あなたにこそ、このように生きて欲しい」と勧めておられると信じて読むなら、聖書は、キリストによって色々な立場の人々を結び合わせ、愛でつなぎます。神さまが、そのように生きる力を与えてくださるのです。
だからこそペトロは、社会的立場の異なる者同士が、共にそのように生きようとするときに、まず大切なこととして、「心を一つに」するということを手紙に記したのではないでしょうか。
この時代の教会に、召し使いたちがおり、妻たちがおり、夫たちがいたように、東村山教会に属しているわたしたち、一人一人の社会的立場もさまざまです。生い立ちも、学歴も、仕事も、生活環境も、それぞれです。それでも、皆の心は一つに結ばれるのです。なぜなら、皆が、神さまに愛され、キリストの十字架のもとに集められて、共に礼拝をささげているから。共に罪を赦された者として、互いに「同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚に」仕え合うのです。わたしたちがもしも、「キリスト」という土台の石に立たず、それぞれの社会的立場に立ったままなら、いくら言葉を重ね、慰めても、その言葉が相手の心に響くことはないでしょう。けれども、わたしたちは、救われるはずのない者であったのに、神さまの深い憐れみを受け、キリストの十字架によって救われました。神さまの み子が、神と等しい身分を投げうって、世に来てくださり、わたしたちのために死んでくださったことを信じています。だから、わたしたちも互いの社会的立場ではなく、教会の土台の石である「キリスト」に立ち、共に神さまの方を向いてひざまずき、手を組み、祈るのです。共に救われた者として、いっしょに神さまを仰ぐのです。神さまの み子は、天におられたのに、何かと言っては争い、いがみ合っているわたしたちを深く憐れみ、天から降って来てくださいました。そして、あろうことか、そのようなわたしたちの罪をわたしたちの代わりに背負い、罪のない方が罪をひっかぶって、罰を受け死んでくださったのです。だから、ペトロは続けて記したのです。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」
「悪に対し、無抵抗であれ」というのではありません。悪に対して、祝福を祈るのです。祝福は、神さまからの恵み。神さまからの祝福が、この人にもありますように、と祈る。それが、キリスト者の大いなる使命なのです。祝福を与えられ、それでおしまい、ではない。祝福を受けたからには、祝福の恵みを語り、祝福のバトンを渡していく使命が与えられているのです。
主イエスは、十字架に架けられ、侮辱されながら、ただ沈黙しておられたのではありません。侮辱する者たちには、何も言われませんでしたが、父なる神さまに祈って言われたのです。「父よ、彼らを お赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。(ルカによる福音書23:34)」わたしたちは、そのようなキリストに従う者たちです。赦しを、祝福を、祈る者として、召し出されたのです。そして、ペトロは、「これらすべてのことは、旧約聖書に書かれているとおり」と、詩編の み言葉を引用して記したのです。「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
これは想像ですが、ペトロは、主イエスから、詩編の説きあかしを繰り返し聞いていたかもしれません。ペトロは、「詩編の み言葉のように生きたい!」と願っていたことでしょう。それでも、主イエスが捕らえられてしまったとき、舌を制することができませんでした。恐ろしさのあまり、偽りを語ってしまいました。主イエスを三度も「知らない」と言ってしまった。そして、主イエスは、十字架で処刑されてしまったのです。ペトロは、「そのわたしの罪を赦すために、主イエスは十字架で死んでくださった。そうまでして、わたしの罪も、あの人の罪も、この人の罪も、赦してくださった。そして幸せに日々を過ごしなさいと招いていてくださるのだ。」そのように、罪を悔い改めつつ、神さまに感謝して、詩編の み言葉を記したのではないかと思うのです。
わたしたちは皆、「舌」の恐さを知っています。親に対して、夫に対して、妻に対して、子に対して、舌で深い傷を与えてしまったことは、一度や二度ではすまない。反対に、誰かの舌で深く傷つけられたこともある。詩編の時代から、ペトロの時代を経て、今に至るまで、舌は、いつでも幸せな日々を簡単に壊してしまいます。そのことをよく知っているはずなのに、この教えが、キリスト者にとってどれほど大切かもわかっているはずなのに、「悪を言わず、悪から遠ざかり、善を行うのが、幸せな生き方であり、命を愛することである」と真正面から言われると、「わたしにはできない」、「都合が悪い」と、この教えの前を、横を向いて素通りしたくなってしまう。一週間の自分の歩みを振り返る。「キリストに従う者にふさわしいことをこの口は語れただろうか。」「善いことを行えただろうか。」「地の塩、世の光として生きているだろうか。」もうあきらめて開き直りたくなる。しかし、それでは、わたしたちの信仰が死んでしまうのです。たとえ何度挫折しようとも、それでも、すべての希望をキリストに託して、平和を追い求めるのは、わたしたちの使命なのです。
 わたしたちには、主イエスの十字架が与えられたのです。「目を上げて、この方を見よ。侮辱をもって侮辱に報いず、祝福をくださるこの方を見よ。この方の祝福を受け継ぐために、あなたがたは、神さまに名前を呼ばれたのだ」と招かれているのです。
「正直者が馬鹿を見る」という言葉があります。確かに、人を偽り、騙して、悪を行う者がはびこり、こつこつと真面目に、正直に生きている者が馬鹿を見るということが今の時代にもあるかもしれません。でも、聖書には記されているのです。「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」主の眼差しは、悪を言わず、善を行い、平和を願って求めつづける正しい者に注がれます。主の耳は、「舌を制し、善を行い、平和を造るための力をください」と祈り求める、わたしたちの祈りに耳を傾けてくださいます。「裁き」は、神さまの み業です。悪事を働く者に対しては、神さまの み顔が向けられており、まことの裁きを行われる神さまが、すべてをご覧になっておられます。正しい裁きをしてくださる神さまにお任せすればよいのです。わたしたちが、自分で、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報い」る必要はないのです。わたしたちは、そのような争いから自由にしていただきました。祝福を受け継ぎなさい、互いに祝福を祈り合って、幸せな日々を過ごしなさい、と解放していただいたのです。この口が、何か悪いことを言いそうになるときは、「神さま!!イエスさま!!」と呼べばよいのです。わたしたちは、このような恵みの中に入れられています。祝福を受け継ぐに値しない者、神さまに背く者であったのに、主の深い憐れみによって祝福をいただいたのです。祝福を受け継ぐために、命をいただいている。「この命を愛し、悪を言わず、祝福を祈り、善を行って、平和を追い求め、幸せな日々を過ごしなさい」と、こうして教会に集めていただいているのです。

<祈祷>
天の父なる御神、わたしたちの心を一つにしてください。同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚にしてください。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いることのないようにしてください。祝福を受け継ぐ者としてください。舌を制し、悪を言わず、唇を閉じ、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、追い求める者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。主よ、先週は敬老感謝のときをもつことが許され、深く感謝いたします。75歳以上の兄弟姉妹50名のうち、出席されたのは16名でした。この日を楽しみにされながら、病と闘っているため、体調を崩しているため、痛みを抱えているため、欠席された者の上にも、神さまの祝福がこれからも豊かに注がれますように。世界で争いが続いています。主よ、あなたの平和をもたらしてください。東京神学大学、各神学校の働きをおぼえて祈ります。祝福を受け継ぐための伝道献身者を起こしてください。神学校で学んでいる神学生、働いている教職員の歩みを力強く導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年9月18日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第2章18節~25節、新約 ペトロの手紙一 第3章1節~7節
説教題:「神のまなざしのもとで」
讃美歌:546、20、429、525、545A

今朝、わたしたちに与えられた み言葉は、結婚式によく読まれるものです。ペトロは、「召し使いたち」へ「心からおそれ敬って主人に従いなさい。」と勧めたあと、「同じように、妻たちよ」と呼びかけます。当時、妻たちは、「召し使いたち」のようで、夫の所有物のように考えられていました。それでもペトロは、勧めるのです。「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。」ペトロは、妻たちに、「夫の召し使いとして、夫に従いなさい」と勧めているのでしょうか?実は、7節にこうあります。「同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。」ペトロにおいて、「召し使いたち」も、「妻たち」も、「夫たち」も、「同じように」という言葉で繋がっているのです。「妻」と「夫」を入れ替えても、成り立つのです。では、「召し使いたち」、「妻たち」、「夫たち」は、何において同じなのでしょう?それは、神さまの み前では、皆、平等である、ということです。召し使いも、主人も、妻も、夫も皆、同じ。皆、神さまの み前では、真実に正しい者はなく、弱く、欠けの多い者です。それでも、主イエスの十字架の死によって、罪を赦され、神の子としていただき、生かされている。その意味で、皆が同じなのです。誰もが、神さまに愛され、主イエスによって罪を赦された者として重大な使命を与えられている。その使命は、「御国が来ますように。(マタイによる福音書6:10)」と祈ること。神さまの救い、恵み、平和を伝えることです。そのために、ペトロは、妻たちであれば、自分の夫に従うことを、夫たちであれば、「妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。」と、勧めるのです。
第3章1節。「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。」ペトロは、わざわざ「自分の夫に従いなさい。」と勧めます。「夫は、自分の夫で、ほかの人の夫であるわけはない。」と思われたかもしれません。けれどもどうでしょう。夫が自分の夫であることも、妻が自分の妻であることも、わかりきったことのようで、必ずしも そうではないかも知れません。夫であれ、妻であれ、神さまが、「あなたのための伴侶」として与えてくださった夫であり、妻である。そのことを、わたしたちは日々、よくわきまえているでしょうか?
私事になりますが、結婚式の誓約をいつも意識していますか?と問われるなら、下を向くしかありません。今朝の み言葉を通して、結婚式の誓約を思い起こしました。あの日、加藤常昭牧師は、新郎のわたしに問われました。「あなたは、今この中林和子を妻としようとしています。あなたは、真実にこのひとをあなたの妻とすることを心から願いますか。あなたは、この結婚が、神の みこころによるものと確信しますか。またあなたは神の み教えに従い、夫としての道を尽くし、常に このひとを愛し、敬い尊び、助け支えて、その健やかな時も、病める時も、堅く節操を守り、よき慰め手となることを誓いますか。」わたしは会堂いっぱいに響く大きな声で「誓います」と答えました。けれども、27年を振り返って思うのは、「よき慰め手」どころか、いかに自分中心に妻に接してきたことか、という思いです。夫も妻も、神さまが「あなたのために」と与えられた伴侶。どちらが偉いとか、偉くないということはないのです。神さまの み前では、平等なのです。そして、互いに伴侶を愛し、尊敬し、従い、仕え合うことは、神さまの み前に正しく立つことなのです。神さまの眼差しを感じつつ、生きることなのです。
ところで、第3章1節の「従いなさい」と訳されたギリシア語は、元は軍隊用語でした。「自らを服従させる」という意味の言葉です。そう言われると、理不尽な要求をされても歯を食い縛り、黙って従う姿を思い浮べます。けれども、ペトロが伝えたいのは、「一兵卒は、上官に服従」というものではありません。いやいや服従したところで、相手は喜ばないでしょう。そこに「愛」がなければ意味がありません。ところが、わたしたちの「愛」は、ほころびだらけの、弱いものです。相手の心ないひと言で簡単に崩れてしまう。
けれども、わたしたちには、具体的な使命が与えられています。神さまが大切な独り子 主イエスを世に遣わしてくださり、主の忍耐と服従によって始まった救いの完成です。天の国の恵みを、広く伝える使命です。ペトロは続けます。「夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。(3:1b~2)」 
夫に、妻に、従うよりも、自分の立場や権利を主張してしまうわたしたち。神さまは、そのようなわたしたちを愛し、赦し、救ってくださいました。神さまの愛と主イエスの忍耐への応答として、妻は夫に、夫は妻に喜んで仕える。伴侶の救いを、ひたすら祈り続ける。その姿を見て、「いずれあなたの伴侶も信仰に導かれるだろう」とペトロは励ますのです。
ペトロは続けます。「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。(3:3~4)」いささか時代錯誤な勧めと思われるかもしれません。けれども、時代がどんなに変わっても、神さまから与えられた伴侶の人格を愛し、敬い、尊び、助け支え、その健やかな時も、病める時も、堅く節操を守り、よき慰め手となることは、神さまの み前でまことに価値のある装いであることは変わりません。どんなに美しく着飾っても、そこに「愛」がなければ何の意味がありましょう。確かに、わたしたちの愛は完全ではありません。だからペトロは、アブラハムの妻サラはじめ信仰に生きた女性たちを指し示してこのように書いたのではないかと思います。「その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。(3:5)」
 自分の夫に従うのは、自分の力によるのではないのです。ただ、神さまに望みを託すのです。意地悪なことを言われたり、されたりする中で、忍耐することができる力の源はただ一つ。神さまに望みを託すことです。「神さまが知っていてくださる。」そのことを信じ抜くことです。神さまからの力を信じ、求めて生きてゆくことです。妻が信仰生活を続けることを嫌う夫がいます。しかし、妻の信仰生活が、もし真実で、神さまに仕えるように、愛をもって夫に仕える生活ならば、その生活は、夫の心に神さまへの畏れの種を蒔くことになるのではないでしょうか。今は「御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになる」日を信じ、神さまに望みを託して祈り、夫に仕え続けるのです。
最後に、ペトロが夫たちに勧める言葉をご一緒に味わいましょう。7節。「同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。」強いとか、弱いとかというと、肝心なところを取り違え、弱いのだから下だとか、いや、それは平等ではないとか、そういう議論に心を奪われがちです。また、うちの家庭の主導権は圧倒的に妻だ、などとうそぶきたくなる人もいるかもしれません。しかし、本当の問題は、そこにはありません。いつでも、夫にしても、妻にしても、相手の立場を守ることが大事なのです。自分の立場を主張し、自分が強い、自分が上だ、と言うのでなく、相手の立場を互いに一番大切にして、一緒に暮らすのです。互いの弱さを補って余りあるほどの神さまの深い愛が注がれ、命の恵みをいただいている者として、尊敬し合うのです。互いに、あるいは今は一方的であっても、そのように仕え合う暮らしの中で、ささげられる祈りは、最後に記されているように、すべて神さまに届き、その「祈りが妨げられることは」ないのです。
わたしの母は信仰者ですが、父は、まだ信仰に導かれておりません。わたしたちの群れの中にも、伴侶が信仰に導かれることを、神さまに望みを託して祈り続けている者がいく人もいます。毎日、心を込めて「み心ならば、伴侶に信仰が与えられますように」と祈り続けていることでしょう。その祈りを、神さまはよく知っておられます。そして、全能なる神さまは、「わたしに愛する力をください。仕える心をください。そして、愛する伴侶を信仰に導いてください。」というわたしたちの心からの祈りを、必ず実現してくださるのです。

<祈祷>
天の父なる神さま、つい自分を一番に考えてしまうわたしたちです。愛のない振る舞いをしてしまう日もあります。そのとき、あなたの愛を忘れていることに気づかせてください。主よ、愛する伴侶、両親、子どもたち、孫たちが信仰に導かれますように。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。主よ、過去に例がないほどの大型の台風が接近しております。み心ならば、少しでも被害を抑えてください。そして今、礼拝をささげている奄美、九州、中国、四国地方の諸教会を被害からおまもりください。世界で続く争いを一日も早くしずめてください。日々、尊い命が奪われています。嘆きの中にある者、怒りの中にある者、望みを失っている者を慰め、あなたの愛で包んでください。今朝も、様々な理由で礼拝を欠席された者がおります。特に、病と闘っている者を癒してください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年9月11日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第53章1節~12節、新約 ペトロの手紙一 第2章21節~25節
説教題:「主の傷にいやされて」
讃美歌:546、14、121、239、544、427

「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」ペトロは、召し使いという立場にあって苦しめられている人たちに、十字架のキリストを指し示し、このように記しました。これは、旧約聖書 イザヤ書 第53章4節の引用です。罪を犯したことのない主イエスが、罪人として十字架にかかって、その身にわたしたちの罪を担ってくださった。このキリストによる救いの恵みを、苦境にある信仰の仲間に何とかして伝えたいとペトロが思ったとき、この み言葉が、まず心に浮かんだのではないかと思います。「わたしは、この み言葉のゆえに、心からおそれ敬って主人に従いなさい、とあなたがたに勧めるのです」と。
主イエスは、罪とは無縁な方でした。ペトロは、弟子の一人として主イエスに従って歩き、食事をし、み言葉を聞き、数々の奇跡を目の当たりにしてきましたから、そのことをよく知っていました。その主イエスが、罪人として十字架にかけられることなど、あり得ないことでした。ところが、主イエスは、罪人として殺されることこそが、神さまの み心であることを知っておられました。だから、耐え忍ばれたのです。その み苦しみは、わたしたちには想像もつきません。わたしたちは、主イエスの み苦しみを、肉体的な苦しみとしてだけ見てはいないでしょうか。鞭で打たれた苦悶の表情。十字架に釘で打ちつけられた傷の痛み。その み姿を思い浮かべる。もちろん肉体の痛みは大変な苦しみです。けれども、それ以上に主イエスを苦しめたのは、「罪を犯した」者として十字架で殺されることではなかったでしょうか。それは、父なる神さまから見捨てられることを意味したからです。
「冤罪」という言葉があります。自分は無実なのに、出鱈目な証拠によって自白を強要され、死刑判決を受ける。あってはならないことです。想像を絶する苦しみです。「そんなことがあってよいものか」と憤りすら覚える。では、わたしたちは。主の十字架と何のかかわりもないのか。わたしたちは、罪とは無縁な方であられたキリストに、罪を着せたのです。主イエスは、わたしたちの代わりに、神さまから見捨てられた者として死なれました。その事実を心の深いところで、受け止めなければなりません。
ペトロは続けます。23節。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅(おど)さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」主イエスは、父なる神さまにすべてを委ねて忍耐されました。忍耐は、時に無駄なことに思われます。苦しみを辛抱しても、悪い者をのさばらせるだけで、何の役にも立たない、全く意味がないと感じる。しかし、主イエスは、神さまの み心のゆえに、忍耐が無駄ではないと信じ、十字架の死を耐え忍ばれました。ののしられてもののりし返さず、苦しめられても人を脅しませんでした。
苦しみを お受けになっている間、弁解すらなさいませんでした。わたしたちなら、ちょっと悪口を言われただけでも、耐えられません。そのようなわたしたちからすると、ただただ驚くべき、主イエスの お姿です。いったいなぜ、主イエスは沈黙を貫くことがおできになったのか?それは、「正しくお裁きになる方にお任せに」なったからです。神さまは、真実に、正しく、お裁きになられる方であることを、深くご存じだったからです。神さまの み心のための忍耐は、無駄に終わることがないのだと、知っておられたからです。だから、沈黙を貫かれた。人から、意気地なしのように言われ、軽蔑されても、なお、沈黙し、耐え忍ばれた。正しい裁きをなさる神さまをかたく信頼し、いっさいをゆだねられたのです。
ペトロは、悔い改めを祈るように、感謝して記しました。24節。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」
ペトロの心には、深い傷がありました。肝心なときに、主イエスを裏切ってしまった。「そんな人のことは知らない!」と、呪いの言葉すら口にして誓ってしまった。それを忘れることはなかったでしょう。しかし、その罪をも、帳消しにするために、主イエスが代わりに傷を受けてくださった。ペトロは、主の傷によって自らの傷をいやしていただいた者として、涙を流しながら記したのではないでしょうか。「わたしたちの罪は死んだ!まったく罪のない み子の十字架によって。想像を絶する主の み苦しみと忍耐によって。わたしたちの罪は死んだ!わたしたちは義しい者として生きてよいのだ!」と。
わたしたちもまた、ペトロのように、後悔に苦しむ者たちです。なぜ、あのとき、あのようなことをしてしまったのか?なぜ、あのとき、あのようなことを言ってしまったのか?あのとき、もっと他に何かできたのではないか?しかし、いくら苦しんでも、時間を巻き戻してやり直すことはできません。誰もが、傷を抱えつつ、生きています。わたしにも、自分自身の罪に、取りつかれたような時期がありました。「キリストによる、罪の赦しを信じます。」と信仰を告白し、洗礼を受けたにもかかわらず。過去に犯した罪が繰り返し心を襲ってくる。声が聴こえる。「お前の罪をわたしは全部知っている。」そのような声が聴こえてくると、息をするのも苦しくなってしまう。「わたしは、主の十字架によって罪を赦していただいた。罪のわたしは死んだ。」と自分に言い聞かせても、「お前は罪人だ。赦されるはずがない。」という声が勝ってしまうのです。そのようなわたしに、神さまが示してくださったのは、宗教改革者ルターの言葉でした。
ルターが、1521年、改革運動の協力者であったメランヒトンという人物に宛てた、手紙の言葉です。その一部を紹介します。「神はつくりものの罪人をお救いになりません。罪人でありなさい、大胆に罪を犯しなさい。しかしもっと大胆にキリストを信じ、喜びなさい。彼こそは罪と死とこの世との勝利者です。(中略)たとえ日に千度と殺人を犯しても、どんな罪でも私たちをこの小羊から引き離すことはないでしょう。これほど偉大な小羊によって私たちの罪の贖いのために支払われた代価が少なすぎると、あなたは思うのですか。大胆に祈りなさい。もっとも大胆な罪人になりなさい。」
犯した罪に押し潰されそうだったわたしは、この言葉と出会い、涙が溢れてきました。「そうか、イエスさまは、罪人のままのわたしをまるごと抱きかかえて、包み込み、いやしてくださった。そのとき、ひとつの傷も、何の罪もない方が、わたしの罪で傷つかれた。神さまから呪われた者として死んでくださった。これほど大きな代価が支払われたのに、まだわたしの罪が赦されていないなどということはあり得ないのだ」と。
なおもペトロは続けます。25節。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」「監督者」と訳されたギリシア語(エピスコポン)は、監視する人ではなく、「見守る人」「配慮する者」を意味します。キリストは、われわれを監視しておられるのではありません。わたしたちを罪人のまま抱きかかえて、包み込み、いやして、代わりに傷つき、死んでくださった方が、羊飼いのように、わたしたちを見守っていてくださる。羊のようにさまよっていたわたしたちは、キリストのもとに立ち帰ることができたのです。だから、キリストが、正しい裁きをなさる神さまに、いっさいをゆだねて、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さ」なかったように、わたしたちも、正しい裁き主であられる神さまに、安心して身をゆだね、キリストのもとで見守っていただきながら、キリストの歩まれたあとに従って歩んでゆくのです。
羊飼いであられる主イエスが、わたしたちを連れて行かれる道は、必ずしも平坦な道ばかりではありません。すべての人に心から仕える道は歩きにくいのです。転びそうになるのです。けれども、わたしたちを永遠に愛してくださる魂の牧者、見守ってくださる真実の羊飼いが今日も、わたしたちと共におられます。わたしたちの傷を、わたしたちに代わって受けて、いやしてくださった主イエスが共におられるから、正しく お裁きになられる神さまに、すべてを委ねて、どんなに困難な道であっても、少しずつでも、わたしたちは前へ進むことができるのです。わたしたちは、主イエスが引き受けてくださった傷により、キリストのところへ戻ることができたのです。
魂の牧者であられる主イエスのところへ戻ったわたしたちには、大切な使命が与えられています。21節。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」わたしたちが、キリストの受けられた傷により、いやされたのは、キリストのように、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せ」して、すべての人に心から仕えるためです。そして、そのことによって、今、迷子の羊のようにさまよっているすべての者が魂の牧者であられるキリストのもとへ戻って来て、共に神さまをあがめ、互いに平和に生きるようになるためなのです。すべてのものを造り、正しい裁きをなさる神さまが、それを望んでおられます。苦しみを耐え、わたしたちの罪を肩代わりしてくださったキリストが、共におられます。険しい道でも、苦しい道でも、キリストが「わたしのあとについておいで」と招いてくださるのです。わたしたちがキリストに従って忍耐するなら、その忍耐は決して無駄にはなりません。神さまは必ず、み心を全うされるからです。

<祈祷>
天の父なる御神、み子の傷によって、わたしたちの罪を赦し、義しい者としてくださり深く感謝いたします。主よ、罪赦された者として、すべての人を敬い、兄弟を愛し、あなたを畏れ、仕える者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。日々の報道を通して、この国の歩みに憂いを抱く者であります。世界の流れに大きな恐れを抱く者であります。どんなに祈っても、真実の平和を造ることができないのではないかとの深い疑いがわたしたちの心を捉えます。主よ、動揺することなく、どんなときもあなたが共におられ、み心を全うされると信じ、生きることができますように。戦禍にある教会、迫害の下にある教会、望みを失いかけている教会を強め、励ましてください。病床にあります者、痛みと闘っている者を慰めてください。実習を終えて東村山に戻られた神学生の疲れを癒してください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年9月4日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第42篇2節~11節、新約 ペトロの手紙一 第2章18節~21節
説教題:「神の御心を生きるために」
讃美歌:546、19、122、Ⅱ-1、332、543

ペトロは迫害されて苦しんでいる仲間に、励ましの思いを込めて送った手紙に、こう、書きました。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。」「召し使い」と訳されていますが、口語訳聖書では、「僕たる者よ」と訳されています。「僕」とは奴隷を意味する言葉です。ローマ帝国には、6千万もの奴隷がいた、といわれています。戦争のたびに、敵国から捕虜を連行してきて、奴隷にしたからです。戦争に勝つたびに、奴隷が増える。その中には、教養を持った人も少なくなかったことでしょう。主人と同じか、主人以上の人もいたかもしれません。キリストを信じる信仰の群れの中には、そのような奴隷の身分の者が少なくなかったようです。彼らに向かって、ペトロは、勧めるのです。「心からおそれ敬って主人に従いなさい。」
もしも今、上の立場の人から虐げられている人が目の前にいたら、わたしならどのように声をかけるだろうか、考えてみました。わたしの前に、夫の暴力に苦しんでいる人、会社でパワハラを受けている人がいる。その人に対して、わたしは何を話すだろうか。「それは辛いですね」としか言えないのではないか。では、ペトロは?聖書は、何と言っているか?「心からおそれ敬って主人に従いなさい。」と勧めるのです。もしかすると、今、不当な苦しみを受けている人は、がっかりするかもしれません。
聖書の み言葉は、その一部だけを読むと、「えっ?」と驚き、躓くこともあります。なぜ、無慈悲な主人を心からおそれ敬い、従わなければならないのか。読み進めると、ペトロは、こうも記すのです。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。」
主イエスの愛、十字架の死による罪の赦しを知らない人が読んだら、怒りに震えるかもしれません。あるいは、「えっ、本当にこんなことが聖書に書いてあるの?あなた、こんなことを信じているの?」と驚かれるかもしれません。
ペトロは、続けます。「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」み言葉の前に立ち尽くしてしまいます。あまりにも厳しい勧めのように思える。しかし、ペトロは苦しんでいる仲間の心の傷に塩を塗り込もうというのではありません。ペトロは、迫害に苦しむ仲間を励まし、慰めたいとの一心で、記したに違いないのです。心からおそれ敬って主人に従うこと、無慈悲な主人に従うこと、何も悪いことをしていないのに受ける、不当な苦しみを耐え忍ぶことは、神さまの御心に適うことなのだ、と。
銀行員時代、上司のパワハラを受けて心がバラバラになりました。後輩から、「田村さん、少しは課長に何か言ったらどうですか。よく毎回、毎回、黙っていられますね」と言われました。黙って耐えていたのは、信仰が強かったからではありません。実際、成果ゼロが続いていたのだから仕方がない。何も言えなかっただけです。それでも神さまは、そんな当時のわたしにも、今朝の み言葉を与えてくださいました。最初は「えっ、何だ、この み言葉は」と戸惑いました。しかし、繰り返し読んでいるうちに、イエスさまの十字架が迫ってきたのです。そして、思いました。「ああ、洗礼を受けていてよかった。十字架の主イエスは、わたしが今、受けている苦しみをすでに経験してくださったのだ。それも、わたしのために。」
これが み言葉の力です。最初は、戸惑うかもしれません。しかし、繰り返し読んでいるうちに、み言葉を通して、十字架の主イエスが共に苦しみながら、語りかけてくださるのです。
ペトロも、迫害を受けていたキリスト教会の指導者ですから、不当な苦しみを受けている中から、この手紙を書いていたことでしょう。そして、紀元64年。皇帝ネロの迫害によって、ペトロは殉教したと伝えられています。ペトロもまた、不当な苦しみを耐え忍んでいた。それでも、善を行って苦しみを受けるなら、それは神さまに喜ばれる誉になると信じ、仲間たちを励まし続けたのです。
ペトロは、ただ「主人に従いなさい」と勧めるのではありません。「心からおそれ敬って」と勧めるのです。先週の み言葉にもありました。「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」わたしたちは、わたしたちを造り、わたしたちを救ってくださった神さまの み前にひれ伏して礼拝しています。その思いの故に、どんな人に対しても、心から仕えるのです。たとえ今、仕えているのが、無慈悲な主人でも。
 信仰生活の中心は、すべての人を敬い、仕えることです。「仕える」とは、相手がどうであっても仕えるのです。相手が物分かりのいい、親切な人だから仕えるのではありません。嫌な人でも仕えるのです。ペトロも、「善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。」と勧める。なぜなら、そうでなければ、まことに神さまを畏れ、仕えることにならないからです。このことは、主人と奴隷だけのことではありません。家庭でも、職場でも、主なる神さまに仕えるように、心からおそれ敬ってすべての人に仕えるのです。
 わたしたちの群れの中にも、両親や、伴侶の介護をしてきた人、今も続けている人がいます。礼拝に出席し、聖餐の祝いに与りたいと願いながらそうできない人もいる。愛する家族とは言え、どんなときも心からおそれ敬って仕えることが苦しく思う日もあることでしょう。神さまに仕えるように、仕えたい、と思っても、相手の意地が悪く、時に暴言を浴びせられると、情けなくなり、涙が溢れ、心が折れてしまう。「心からおそれ敬って仕える」というより、「ただひたすら救いを祈り求めつつ耐え忍ぶ」という思いになるかもしれない。それでも神さまは、そのようなわたしたちを深く憐れみ、褒めてくださる、とペトロは記すのです。実際、19節に「それは御心に適うことなのです」と記し、さらに20節に「これこそ神の御心に適うことです」と記します。実は、19節、20節とも、「恵み(カリス)」というギリシア語が用いられています。岩波訳は、19節を「神の意識のゆえに悲しみを堪え忍ぶなら、これは恵みだからである。」と訳し、20節は「善を行なって苦しめられている時に、耐えているなら、これこそ神のもとでの恵みだからである。」と訳しています。何と、耐え忍ぶことは、神さまが誉めてくださることであり、わたしたちにとって、「恵み」である、とペトロは記すのです。なぜ「恵み」なのか。その理由をペトロは記します。21節、「あなたがたが召されたのはこのためです。」
ペトロは、キリスト者としてだけでなく、奴隷としても、二重の迫害に苦しむ仲間たちを、自分を励ますように励ますのです。「わたしたちは皆、不当な苦しみを耐え忍んで善を行い続けるために神さまの み前に召し出されたのだ。それは、悲しいことでも、惨めなことでもない。心から神に仕え、すべての人に仕えるために、わたしたちは恵みを受けて、キリストに従う者とされたのだ。」ペトロは続けます。21節、「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡(あしあと)に続くようにと、模範を残されたからです。」
キリストは、苦しみを通して、わたしたちキリスト者の模範となられました。わたしたちが苦しみを経験しているなら、それはすべて「キリストの苦しみ」を知る恵みの時になるのです。もちろん、苦しみの渦(うず)の中にある者にとって、苦しみは苦しみです。辛いことです。ある教会員が語ってくださったことを思い起こします。その方は、心が打ち砕かれる大変にショックな出来事を経験しました。泣き崩れる毎日でした。自分を責め、苦しみ抜きました。けれども、その苦しみを通して、主の十字架による愛と罪の赦しが、まことに自分のためであったと、改めて気づかされたのです。主の十字架の み苦しみの足跡を つまずきながら、時に ころびながら、やっとの思いでよろよろとたどる歩みの中で、圧倒的な恵みを、心の奥の深いところで、知ることができたのです。
わたしたちの模範は、キリスト以外にありません。そのキリストが、「わたしの歩いてきた足跡をたどって、ついておいで」と招いておられます。そして、主イエスの苦しみが、わたしたちを支えてくださいます。主イエスの足跡をたどる力を、くださるのです。そしてたとえ迫害の中で死のうとも、苦しみの中で死のうとも、神さまは、「よく頑張った。あなたにも永遠の命の冠を授けよう」と誉を与えてくださるのです。今、わたしたちの前に聖餐の食卓が備えられました。まことの神さまであるにもかかわらず、すべての人を愛し、すべての人を赦すために、神さまに従順であられた主イエス。主が受けられた不当な苦しみを目で見て、舌で味わい、心に刻む、聖餐です。感謝をもって共に与りましょう。

<祈祷>
天の父なる御神、み言葉を感謝いたします。たとえ善を行って苦しみを受けても、み子の足跡に続き、耐え忍ぶ者としてください。心からおそれ敬ってあなたに仕え、すべての人に仕える者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。主よ、この世界に、一人一人のいのちを大事にする思いを広げてください。人の痛みに気づいて、小さな愛のわざを増やしていく心がはぐくまれますように。心身の不調を抱えている者、病と闘っている者を憐れんでください。新学期が始まりました。悩みを抱えている子ども、いじめに苦しむ子どもに、あなたの愛が心の深いところまで届きますように。今日、夏期伝道実習最後の奉仕として、宇佐教会、午後は豊後高田教会で説教奉仕を担う神学生を強め、励ましてください。明日、祝福の中で東村山に戻ってくることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年8月28日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ゼカリヤ書 第8章20節~23節、新約 ペトロの手紙一 第2章13節~17節
説教題:「神の僕として自由に生きよ」
讃美歌:546、28、265、344、542
神さまは、御自分にかたどって人を創造されました。神さまは、男と女を祝福して言われたのです。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。(創世記1:28)」神さまは、人を創造され、すべてを支配せよ、と命じられました。それなのに、人は神さまから任された意味をはき違えてしまいました。わたしたち人間の今の姿は、とても、良い統治者とは言えないでしょう。神さまから見捨てられてもおかしくないわたしたち。それでも神さまは、わたしたちを愛することを諦めません。神さまは、主イエス・キリストを世に遣わされることによって、わたしたちへの愛を示されました。神さまが、わたしたちの救いのために遣わされた主イエスは、どこまでも神さまに服従なさいました。鞭打たれても、侮辱されても、反抗するどころか弁明すらなさらないまま、十字架で死なれたのです。このキリストの服従によって、神さまの愛が、わたしたちに示されたのです。
ロシアによるウクライナ侵攻から半年が経ちました。テレビに映し出される、人々の嘆き悲しむ顔、墓場で立ち尽くしている姿に胸がしめつけられます。国連は、6月末までに民間人、約4,700人の死亡を確認したとしています。未確認の人々、ウクライナ、ロシアの兵士を加えたらどれほどの数になることでしょう。なぜ神さまは、いつまでも争いを許しておられるのか?そのような、もやもやとした思いを抱えているわたしたちに、神さまは大変に厳しい み言葉を与えられました。「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。」
「人間の立てた制度」とは、国家の制度だけではありません。学校、職場、家庭、社会の秩序を維持するために人間の立てるあらゆる制度です。厳しい命令です。断固たる決意をもって従わなければならないのです。率直に感じたのは、今、戦禍の地で深い嘆きの中にある人々は、この み言葉をどのように聞くだろうか?という思いです。わたしたちは戸惑います。権力者にとって都合のよいとんでもない制度であっても従わなければならないのだろうか?そんなのは時代錯誤ではないか?確かに、ペトロの手紙が書かれた時代と今とでは社会の仕組は違います。けれども、ペトロがここで言いたいのは、もっと根本的な、社会がどんなに変わろうとも変わることのない、キリストに従う者の生き方なのです。国にしても、学校にしても、職場にしても、家庭にしても、そこで決められていることは、どんなことでも批判してはいけない、と言うのではありません。しかし、そこにも、神のために役に立つことがある。少なくとも、人が神に従って生きるために、役立つことがある。なぜなら、神は、「人間の立てた制度」によっても、「悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめ」てくださるのだから、とペトロは言うのです。神さまは、そのようにして、人の  つくった完全でない制度をも、お用いになるのです。
「従う」とは、自分がへりくだること。謙遜になることです。何にせよ、その下に、自分自身をおくのです。口で言うのは簡単ですが、難しいことです。だからこそ、ペトロは、「主のために」従いなさい、と命じるのです。ここで思い起こすのは、主イエスの み言葉です。主は、税金を納める問題について、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。(マルコによる福音書12:17)」と言われました。主イエスは、神さまのものを神さまに返すために、皇帝のものは皇帝に返すのだ、と命じられたのです。目をギュッとつぶって、心を殺して従うのではない。ただ、すべてをご存知でいらっしゃる神さまを信頼し、信仰によって、従うのです。どんな国家も、どんな社会も、すべてを治めておられる神さまがいちばん上におられる。神さまが生きて働いておられる。そのことを信じることなしに、神さまの下に立つことなしに、人の立てた制度に従うことなどできません。わたしたちは、自分自身を、神さまの下におくのです。神さまの上に立ち、「こんなことを許している神など信じられるものか」と言うことのおそろしさを、ペトロは言っているのではないでしょうか。
また、信仰によって従うのですから、主イエスが生きられたように従うことが求められています。主イエスは何を語り、どのように行動なさったのか。一言で表わすなら、「どこまでも従順であられた」ということです。十字架の死に至るまで。その主イエスと、わたしたちは洗礼によって結び合わせていただきました。だから、わたしたちが、主イエスの従順にならって生きることを、「わたしには無理」と最初から努力もせずに諦めてしまうのは、キリストによって示された神さまの愛を踏みにじることです。神さまの愛を汚さないために、主イエスのように従うのです。わたしたちがどこまでも神さまに信頼して従う姿を見て、世の人びとが、主を賛美するようになるために。神さまへの従順のゆえに、人間の立てた、完全でない制度にも、謙遜に従うのです。
ペトロは、「従いなさい」、「服従しなさい」と命じた上で、16節で「自由な人として生活しなさい」と命じます。「自由」と「服従」。正反対に思えます。一般的な考え方をすれば、自由な人は、他の人に従わないものです。どこまでも、自分の考えに従い、誰からも束縛されることなく、自由に生きる。しかし、聖書では、全く違うのです。自由な人は、神さまに従順になることのできる人。「自由」と「従順」が同時に成り立つのがキリスト者なのです。
ドイツの改革者ルターの名著に『キリスト者の自由』があります。その冒頭でルターは、「キリスト者は誰にも支配されない自由人である」と教えています。しかも、すべての人の僕となると語るのです。ペトロは、「自由な人として生活しなさい。」と言って、そのあとに、「しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。」と記しました。
人間は、どうすれば、自由になることができるのでしょう。最初の人間アダムと妻は、自由になろうとして神に背き、それ以来、人間は、罪と死の奴隷になってしまいました。人が自由になれないのは、自分の欲望から自由になれないからです。自分自身から自由になることができない。いつでも、自分が一番上に立っているのです。綺麗なことを口にしていても、内心は、自分のことしか考えていない。自分という重い鎖で、自分自身を縛り、自分の奴隷になっているのです。
人間が自由になるためには、「自分自身」から自由にされなければなりません。神さまに対して従順になった時、人間は、真実に自由になることができます。ペトロの言う、「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。」ということが、分かってくる。わたしたちが反抗ではなく、神さまに従順でいることによって、神さまに従わない者たちの発言の無知があらわになり、封じることができるのです。
それなら、どういう生活をしたら、自由になり、従順になることができるのでしょう。ペトロは、「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」と命じます。何と「すべての人」です。例外はないのです。どんな立場の人でも、どういう事情にある人でも、みな、同じように敬うのです。「敬う」と訳されたギリシア語の意味は、「評価する」です。評価するとは、「この人は50点」、「この人は80点」と点数をつけることではありません。評価するとは、すべての人を同じように評価することです。互いの存在を認め、大切にする。ペトロは、そのことなくして、誰にでも従順になれますか?そのことなくして、人間の立てた制度に従うことができますか?と、わたしたちに真剣に問うているのです。
ペトロは、また、「すべての人を敬い」の次に、「兄弟を愛し」と続けています。「兄弟」とは、「教会に連なる兄弟」を指します。すべての人を敬うことは、「教会に連なる兄弟」を大切にすることが前提であるからです。教会に連なる兄弟姉妹を愛することもできないのに、どうしてすべての人を敬うことができるでしょうか。教会の仲間であっても、すべての仲間を同じように愛することの難しさをわたしたちはよく知っています。なぜ難しいのか。和を乱す人を赦せないからではないでしょうか。そしてそのとき、わたしたちは、神さまの下に立たず、神さまの上に自分が立っていることに気づかずにいるのです。兄弟姉妹を憎んだままでは、自由にはなれません。それは、「その人の隣人となりなさい」と、そこに置いてくださった方に従わない生き方であり、わたしたちを憎しみという鎖で罪に縛りつける。そのようなわたしたちの共通の痛みを、神さまに差し出し、み前にへりくだることなくして、わたしたちの自由はないのです。
旧約聖書 箴言に、「主を畏れることは知恵の初め。(1:7)」とあります。何をするにも、誰とかかわるにも、まず、神さまを畏れる。神さまを畏れるとは、神さまを真実に礼拝することです。
神さまの み前にへりくだり、神さまに従うことのできない自分を差し出し、真実に礼拝するなら、すべての人を正しく敬うことができます。隣国を侵略している統治者をも、神さまは、愛しておられます。主イエスは、統治者の罪を赦すためにも、十字架で死んでくださいました。わたしたちは、神さまが統治者を愛し、平和を造り出す者として用いたいと願っておられると信じ、祈り続けるのです。そのためにも、まずわたしたちが教会の兄弟姉妹を真実に愛する。共に、神さまに愛され、主イエスの十字架によって赦していただいた者として、赦し合う。すべての人への証しとなるように、すべてを治めておられる神さまに信頼して、主イエスのように従順に生きたいと祈りながら生活する。あの人のためにも、この人のためにも、主イエスは十字架で死なれました。罪を赦そうとしておられます。それほどの神さまの愛に打たれた者として、自分の思いに従うのではなく、神さまに従順に歩む。これこそ、わたしたちの自由な、幸いな生き方なのです。

<祈祷>
天の父なる神さま、主イエスの贖いによって、わたしたちに自由を お与えくださり、感謝いたします。自由を与えられた者として、すべての人を敬い、あなたを畏れ、あなたの僕として生きる者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。主よ、ロシアによるウクライナ侵攻から半年が経過しました。今、この時も命が奪われ、嘆き、悲しむ者が大勢おります。統治者の心を、あなたに向けさせてください。あなたを畏れ、すべての人を敬う心へと導いてください。わたしたちも、主の み心が実現すると信じ、世界の平和を祈り続ける者としてください。病床にあります友のために祈ります。悲しみに心を閉ざしている者を、あなたの慰めを求める思いに立ち帰らせてください。教会に連なるすべての者をあなたが立ち上がらせてください。あなたから遠ざかっている者の心をもう一度呼び戻してください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年8月14日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 歴代誌上 第29章10節~16節、新約 ペトロの手紙一 第2章11節~12節
説教題:「神の訪れの日のために」
讃美歌:546、11、191、385、540、Ⅱ-167

「愛する人たち、あなたがたに勧めます。」ペトロは、「愛する人たち」と、各地に散らばっているキリスト者たちに向けて呼びかけます。この手紙が書かれたのは紀元1世紀。ギリシア語で書かれた手紙です。けれども、ペトロの この呼びかけは、わたしたちすべてのキリスト者に向けられている言葉でもあります。なぜなら、キリスト者は皆、彼らと同じように、神さまの愛を信じている者だからです。神に愛されている者として、互いに愛し合い、神の愛を広く伝えるために召し出された者同士だからです。ペトロは、「愛する人たち」とわたしたちにも呼びかけ、勧めるのです。「勧めます」と翻訳された元の言葉を辞典で調べると、「慰めを与える」という意味もあると知って、意外に思いました。しかし、よく考えてみれば、わたしたちは神に愛されている者同士。だから、互いに「愛する人よ」と語りかけ、励まし合い、勧め合って生きるのです。何という、慰めに満ちた生き方でしょうか。ペトロは、愛を込めて、共にこのように生きよう、と勧めるのです。あなたがたは「いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑(いど)む肉の欲を避けなさい。(11節)」
洗礼を受けたとき、わたしたちは皆、キリストと結ばれて、神を父と呼ぶことを許されました。天に ふるさとを持つ者としていただきました。だから、この世では、わたしたちは旅人なのです。わたしたちは今、天のふるさとに向かう、旅の途中にあるのです。海外旅行に出かけますと、「旅の恥は掻き捨て」とばかりに恥ずべき態度をさらす人がいたりするものですが、そのような姿は、現地の人から見れば、「日本人とは何という恥知らずな人種か」、と見られてしまうことでしょう。旅人は、言わば自国の代表です。わたしたちキリスト者は、神の国の代表として、この世を生きているのです。ペトロは、「だからこそ、この世で、立派に生活して欲しい」と強く勧めるのです。
「立派な行い」と言っても、その行いによって自分の立派さを誇るのではありません。わたしたちの持っているもので、神さまからの賜物でないものが一つでもあるでしょうか?さきほど朗読していただきました旧約聖書の み言葉は、ダビデ王が、神殿を造った時の祈りの言葉です。改めて、一部を朗読いたします。「このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。わたしたちは、わたしたちの先祖が皆そうであったように、あなたの御前では寄留民にすぎず、移住者にすぎません。(歴代誌上29:14~15)」ダビデ王が言うように、わたしたちにできることは、神さまから賜わったものを差し出して、神さまの素晴らしさを示すことだけです。それが、ペトロの言う立派な行いなのです。わたしたちが今、こうして生かされているのは、すべて神さまの恵みによるものです。わたしたちは、いただいている恵みによって、神さまの恵みの素晴らしさを示すために、「魂に戦いを挑む肉の欲を避け」るのです。
「魂」とは、「神さまの思いに従う生き方」です。そして、神さまの思いに従い、神さまに喜んでいただこうとする生活を、絶え間なく攻撃してくるのが、「肉の欲」なのです。「肉の欲」と言うと、漠然と食欲や性欲を思い浮かべるかもしれませんが、罪は、肉体だけが犯すものではありません。むしろ、心の中にこそ罪はあります。神さまが望んでおられる生活をしようとする魂を、邪魔しようとするすべてのものが、「肉の欲」なのです。疑い、対立、偽り、憎しみ、争い、絶望。数え上げればキリがありません。人と人が共に平和を築いて生きようとするとき、それらは絶えず戦いを挑んできます。名声や地位を望む心もまた、そのひとつでありましょう。ペトロもかつて、「誰が、弟子の中で一番偉いか?」という争いに心を奪われていました。ペトロ自身が、自分がどれほど「肉の欲」に弱い者であるかを知っていた。「肉の欲」の虜となって、「肉の欲」に身を任せて生きることは、お互いに何一つ良いことがないばかりか、神さまが深く悲しまれる、と自分自身の痛みとして、切実な思いで記したと思うのです。
私事になりますが、神学校を卒業し、最初に遣わされた釧路では、教会の働きに加え、幼稚園の働きも神さまから与えられました。そこでの日々は、大袈裟に聞こえるかもしれませんが、「魂に戦いを挑む肉の欲」との闘いでした。町内会の重鎮からこのように言われたことがありました。「園長先生、最近、幼稚園の評判がいいよ。園長先生が笑顔で、一所懸命に頑張っているからだ、とみんなが言っているよ。」わたしは、打ち消しながらも、まんざらでもない思いに浸ろうとする自分を感じていました。反対に、「前の園長は優れた園長だった」と言われると、ねたみの思いが湧いてくる。このような「肉の欲」との闘いは、皆さんにも経験のあることではないでしょうか?そして「肉の欲」は悲惨な結果をもたらし、ついには、教会を破壊してしまうことを、ペトロは深いところで知っていたからこそ、勧めるのです。「肉の欲」を避けよと。しかし、「避けよ」、と言っても仙人のような暮らしをしろ、と言うのではありません。俗世(ぞくせ)を離れ、自分の清さを保つために人との交わりも避けろ、というのではないのです。
ペトロは続けます。「異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」
「異教徒」とは、キリスト者でない人たちのことです。わたしたちは、キリスト者でない方々に囲まれて生活しています。その中で立派に生きることの難しさにもぶつかります。たとえば、町内会で日曜日に清掃奉仕がある。そのとき、「わたしはクリスチャンなので、日曜日は参加できません」と欠席しながらも、これでよかったのかと悩む。あるいは、割り切って礼拝を休んでも、これでよかったのかと悩む。どちらを選んでも悩むわたしたちに、神さまは、ペトロを通して、「異教徒の間で立派に生活しなさい。」と勧めておられるのです。
「立派」と訳された言葉、これは「良い」と訳すこともできる言葉です。そこで、「立派に生活しなさい」を直訳すると、「あなたがたの生活を良いものとして保ちなさい」となります。この手紙を読んだ当時の人々は、ローマ政府による迫害のもとに置かれていました。当時のローマは皇帝ネロに代表されるような暴君が支配し、後にドミティアヌス帝は自らを神として崇拝することを人々に強要しました。町内会の清掃どころの話ではありません。それでもペトロは、勧めるのです。「あなたがたの生活を良いものとして保ちなさい。肉の欲を避け、信者でない人々とも良い関係を築き、神さまが喜んでくださる生活をしなさい。『キリスト者とは立派な人たちではないか。』と言われるように歩み続けなさい。」と。「立派に生活」する上で、忘れてはならないことがあります。「立派に生活」する目的は、わたしたち自身が評価されるためではないということです。「立派に生活」するのは、「肉の欲」に身を任せて生きていたわたしたちを、それと闘う者へと変えてくださった神さまの愛に、一人でも多くの人に気づいてもらうためなのです。
 日曜日の近所の清掃奉仕の一つの答えとして、「平日に清掃させていただきます」と答える。あるいは、その日は、いつもより早く起きて聖書を読んで祈り、清掃奉仕に参加する。そういうことも答えの一つかもしれません。何が正解かなど、わかりません。「これが み心」と断定することのほうが、余程 恐ろしい罪です。悩んで良いのです。正しい道はどれなのか?神さまが望んでおられるのは、どうすることなのか、祈り求める。そして、「こうしよう」と心に決めた方に進み、「神さま、もし間違えているならどうか、お赦しください。そしてどうか、わたしの間違いをも用いてください」と祈るのです。そのようにして、周囲の人々と対立するのではなく、共に生き続ける。今は、キリスト者を良く思っていない人たちがいたとしても、聖霊の力が働いて、いつの日か、すべての人が神さまをあがめるようになることを信じ、「肉の欲」との闘いを続けるのです。神の僕、神の道具として、神に用いていただくのです。「立派な生活をしなければ」と頑張るのではなく、「肉の欲」の奴隷であったわたしをも憐れみ、愛を注いでくださる神さまの素晴らしさを、一人でも多くの人に示したいと、ひたすら願い求めるのです。キリスト者でない人たちの中で良い関係を築きつつ、神さまから与えられた賜物を用いて、一歩一歩、歩み続けるのです。その結果、いつの日か、わたしたちの家族、大切な者たちが、神さまをあがめる者とされたなら、これほどの喜びはありません。その日が、どんなに遠く思えても、わたしたちは み言葉を信じてよいのです。ペトロは記します。「あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」
 「訪れの日」。神さまが、この世を訪れてくださる日。わたしたち信仰を与えられた者にとっては、望みの日です。神さまは、人をさばくためにだけ、お出でになるのではありません。神さまは、最後には、すべての人が救われることを真剣に望んでおられます。すべての者を悔い改めさせ、救いに入れようと望んでおられるのです。「肉の欲」に身を任せ、互いにいがみ合い、争い合う者たちを、洗礼によって、キリストと結び合わせ、神さまに喜ばれる生活のために闘う者としてくださるのです。この世に遣わされた旅人として、キリスト者でない周りの方々とも良い関係を築きつつ、キリストと共に、歩み続けましょう。

<祈祷>
天の父なる御神、世に遣わされた旅人として、キリスト者同士は勿論、キリスト者でない人たちとも、良い関係を築くことができますように。神さまの ご栄光を映し出す道具として、わたしどもを用い、立派に生活する者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。明日は、敗戦記念の日を迎えます。自分たちだけが安全であれば、誰が死んでもかまわないという肉の欲から解き放たれますように。かつて、わたしたちの国が、そのような愚かな考えから起こしてしまった戦争を思い起こしつつ、切に祈ります。今、この瞬間も、世界の各地で争いが続いていることに恥を覚え、あなたの導きを真剣に祈ることができますように。病床にあります者に、わたしたちがほとんど何の手助けもできないままに祈りの中に覚えている兄弟姉妹のために、また、肉体は健康でありながらも心があなたから離れたために病んでおります者のために、あなたの顧みがありますように。もしそれがあなたの み心であるならば、わたしたちの言葉と行いが、あなたの慰めを語る道具として用いられますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年8月7日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第61章1節~4節、新約 ペトロの手紙一 第2章9節~10節
説教題:「光の民の つとめ」
讃美歌:546、7、215、Ⅱ-1、309、539 

 主イエスがお生まれになった夜、羊飼いたちは野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。すると、主の天使が近づき、主の栄光が辺りを照らしました。あかりといえば、空の星ぐらいであった暗闇から、急に真昼のような光に包まれたのです。何が起きたのかわからない羊飼いたちは、非常に恐れました。天使たちは言いました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカによる福音書2:10)」
 クリスマスの喜びは、クリスマス礼拝だけの喜びではありません。み子のご降誕は、暗闇の中にあった すべての民が、神さまの明るい光の中に入れられた出来事だからです。突然、神さまの憐れみを受け、光の中へ招き入れられた羊飼いたちは、早速、ベツレヘムに旅立ち、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てて礼拝しました。そして、キリストについて天使が話してくれたことを人々に知らせ、神さまの恵みを賛美しながら帰って行ったのです。
 今朝、わたしたちに与えられたペトロの手紙一の み言葉から、クリスマスの夜に突然、羊飼いたちを照らした光を思い起こしました。もちろん、わたしたちは羊飼いではありません。けれども、主イエスと結ばれる前は、それぞれに、暗闇の中におりました。教会では、洗礼を希望される方に、準備の学びの時間を持ちます。洗礼に至る背景は一人一人、異なりますが、いっしょに準備をしていく中で、皆さんの経験を聞きながら感じるのは、暗闇とも言える傷です。そして思うのです。だからこそ、神さまは、この人を憐れみ、「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れ」ようとなさっているのだと。
羊飼いたちが、突然、「光の中へと招き入れ」られたように、わたしたちも、それぞれの時に、「驚くべき光の中へと招き入れ」られたのです。キリストは、わたしたちの光です。キリストは、わたしたちが背負っていた心の傷を深く憐れみ、ご自分の傷として、十字架で背負ってくださいました。洗礼は、そのようなキリストと わたしたちとを、結び合わせるのです。わたしたちは、洗礼によって、暗闇の中から救われ、光の子どもとして、光と共に歩む者、光の民とされたのです。どうして、そのようなことがわたしたちの身に起こったのか?ペトロは記します。「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」
9節にありますように、洗礼によって、キリストに結ばれたわたしたちは、神に「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」です。祭司のつとめは、神に仕え、伝道することです。今朝の説教題を「光の民の つとめ」といたしました。神さまの光の中に入れていただいたわたしたち。キリストに結び合わせていただいたわたしたち、キリスト者一人一人が祭司であり、なすべきつとめは、伝道なのです。伝道と言われると、もしかすると、「わたしは穏やかに礼拝に出席したいだけなのに」と思う方がおられるかもしれません。また、「キリスト者の最大のミッションは、伝道である」と言われて、つい力が入り、家族や友人から煙たがられてしまうこともあるかもしれません。そういうとき、わたしたちは、わたしたちを包んでいる光に、慣れっこになってしまっているのかもしれません。あるいは、キリストの力によらず、自分の力で、何とかして光ろう、光ろうとしているのかもしれません。
ご一緒に思い起こしたい。信仰を告白し、洗礼を授けられた日のことを。わたしたちはあの日、聖書を完璧に理解したから、信仰を告白し、洗礼を授けて頂いたのでしょうか?少なくともわたしは、何もわかっていませんでした。キリストに結ばれて、キリストがいつも共にいてくださる確信と喜びだけがありました。キリスト者として歩み始めても、その歩みはたどたどしいものでした。しかし、わたしを「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった」神さまは、必要なときに、必要な仕方で、わたしがキリストの驚くべき光の中に既に入れられている者であることを、教えてくださいました。ときに試練に襲われても、それは神さまが与えたもうた試練でした。試練を与えたもう神さまは、いつも、必ず、キリストの光で照らしてくださっているのです。わたしたちが試練に襲われているときも、教会につながっていれば、先週、ご一緒に読んだ箇所にありましたように、教会の土台の石であるキリストが、わたしたちを支えていてくださるのですから、恐れることは何もないのです。
神さまは、どこまでも わたしたちに心を寄せ、憐れんでくださる お方です。神さまの憐れみを、もっともよくあらわしたのが、旧約聖書ホセア書ではないでしょうか?預言者ホセアの妻ゴメルが、姦淫の罪を犯して、子をはらみました。その結果、二番目の女の子を、主なる神さまは、ロ・ルハマ(憐れまれない者)と名付けさせ、三番目の男の子を、ロ・アンミ(わが民でない者)と呼ばせたのです。それでも神さまは、この二人の子どもを憐れまれました。そして二番目の女の子を、ルハマ(憐れまれる者)、三番目の男の子を、アンミ(わが民)と呼ばれるようになったのです。憐れまれるはずのない者であっても憐れまれたように、わたしたちも、神の民でないのに、神の民とされたのです。暗闇を歩んでいたのに、突然、光の中に入れられたのです。ペトロも、かつて主イエスを三度も、「知らない」と否定してしまった自分の罪を、忘れることはなかったことでしょう。だからこそ10節で、ホセア書を引用し、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」と神さまの憐れみの深さを記したのだと思います。
聖書の み言葉は、どんなときも、わたしたちを慰め、励ましてくださいます。僅かのことに傷つき、倒れるわたしたち。それでも、み言葉によって、いかにわたしたちが神さまの深い憐れみを受けているかが示される。たとえ、暗闇の中に戻りそうになっても、必ず神が、光の中へと、憐れみの中へと呼び戻してくださるのです。わたしたちは皆、「神のものとなった民です。」光なるキリストが、わたしたちキリストの群れの土台の石として、しっかりと支えていてくださいます。さらに、そこに連なるわたしたちの日々の歩みをも、支えていてくださるのです。
皆さんが洗礼を授けられたとき、「今まで、挨拶を交わしたこともなかった方が、なぜこんなにも喜んでくださるのか?」と不思議に思われたかもしれません。それでも今、キリスト者となり、受洗者が与えられると、自分のことのように嬉しく思うのではないでしょうか?そうなのです。一人の罪人が、暗闇の中から光の中へと招き入れられ、罪から救われた事実は、教会全体にとっても心からの喜びです。大きな恵みです。わたしたちは皆 共に、キリストと結ばれ、キリストがいつもいっしょにいてくださる、「光の民」なのです。わたしたちは、そのキリストの光を、それぞれの小さなランタンに灯すようにして、キリストの光で、それぞれの行く所、行く所を照らしながら歩き続けるのです。それが「伝道」ではないかと思います。
主イエスは、いつも山に登り、ひとり祈られました。わたしたちも主イエスに倣って祈るとき、語るべき言葉は与えられます。なすべきつとめも与えられます。必要なすべては、すでに与えられているキリストの光の中にあります。もしも近くに、暗闇の中でうずくまっている人がいれば、そっと寄り添う。何をしたらよいだろうかと慌てることはないのです。まずは、心を静め、その方の心が開くのをじっと待つだけでよいのではないかと思います。祈り求めれば、洗礼によって、わたしたちを「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業」が、必ず、働いてくださるのです。
「力ある業」とあります。これは、「卓越した力」を意味する言葉です。神さまの救いを、「卓越した、力ある業」とペトロは表現しました。確かに、神さまの救いの み業は、考えれば考えるほど、わたしたちの常識をはるかに越える、卓越した、力ある業です。その力によって、キリスト者として頂いたわたしたちは、神さまの「力ある業」によって救われた喜びを、そのまま運んで歩くのです。また、「広く伝えるためなのです」とあります。この言葉は、新約聖書では、ほかのどこにも使われていません。では、どのような言葉なのかというと、旧約聖書 詩編の中で、神さまの「力ある業」をほめたたえることを語るために使われているのです。そのうちの一つ、詩編 第71篇の み言葉を紹介いたします。「わたしの口は恵みの御業を/御救いを絶えることなく語り/なお、決して語り尽くすことはできません。(71:15)」神さまに救っていただいて、明るい光の中に招き入れていただいて、神さまの恵みの み業への賛美がとまらない。次から次へと溢れてくる。そのような思いをペトロは、詩編の作者の思いに重ねて記し、「あなたがたも、神さまの力ある業によって救われた喜びを、そのまま、素直に喜んで欲しい。ただただ神さまの驚くべき み業を喜び、賛美し、共にほめたたえよう!」と記したのではないでしょうか。神さまの「力ある業」に救っていただいた喜びを賛美して歩くのです。たとえ歩けなくなっても、目が見えなくなっても、耳が聞こえなくなっても、神さまが置いてくださったその場所で、キリストがくださった光で、辺りを照らすのです。神さまの光の中で、キリストと共にいる平安を喜んで、感謝して生きるのです。
羊飼いたちは、救い主を拝んだとき、大いなる恵みに驚き、感謝して、人々に伝え、大きな声で賛美しながら、それぞれの暮らしの中へと帰って行きました。「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を」賛美する声も、生き生きと喜んで生きる姿も、伝道となるのです。
今、わたしたちの前に十字架で裂かれたキリストの肉であるパンと、流された血潮であるぶどうの汁が備えられました。聖餐に与った後、「感謝の祈祷」をささげます。その中で、「おりを得ても得なくても、みことばを宣べ伝えることができますように」と祈ります。わたしたちは光の中に入れられています。伝道は、神さまの憐れみへの感謝の応答です。自分の力に頼らず、ただただ、飼い葉桶に生まれてくださった み子キリストの光を、喜びつつ、それぞれの場所に運び、その受けた光によって、辺りを照らすことができますように。

<祈祷>
天の父なる御神、あなたの深い憐れみを心より感謝いたします。主よ、あなたから頂いたキリストの光を、暗闇を抱えている一人でも多くの者に、届けることができますように。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。昨日は広島、明後日は長崎に原子爆弾が投下され、77年の記念の日となります。そして今もウクライナ、世界の各地で争いが続いております。主よ、平和を来らせてください。平和を実現する者をひとりでも多くし、とくに力ある者の中に、ひたすら平和に生きる願いを呼び起こしてください。教会に来ることもできず、また教会を知らない者の中に、あなたが与えてくださる平和を呼び起こしてくださいますように。豪雨災害により、深い嘆きの中にある者をあなたの愛で満たし、憐れんでください。なお厳しい気候が続きます。その中で、病床にある者を、望みを失ったような中で なお生き続けようとしている者を、あなたが顧みのうちに覚え、お支えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年7月31日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第118篇22節~29節、新約 ペトロの手紙一 第2章4節~8節
説教題:「キリストを礎として」
讃美歌:546、61、194、Ⅱ-195、545B

先週の主日礼拝に、明治学院中学校・東村山高等学校の10名もの生徒さんが、夏休みの課題として礼拝に出席されました。神さまは、中高生も、何十年も教会に通い続けている者も、等しく、一人一人の名前を呼んでくださいます。神さまは、主イエス・キリストという礎の上に、そのように呼び集められた一人一人を用いて、教会を建て上げられるのです。
ペトロは、「この主のもとに来なさい」と呼びかけます。第2章4節、「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」
家を建てるとき、現代の家の基礎はセメントで固めるのでしょうが、聖書の時代には、土台に石を据えました。この石が、しっかりしていなければ、家は崩れてしまいます。教会の土台の石は、主イエス・キリストです。ところが、ペトロは言うのです。「主は、人々からは見捨てられた石であった」。主イエスは、人間の目から見ると、土台には ふさわしくない石ころに見えたのです。そしてポイと捨てられた。主イエスは、群衆から「十字架につけろ!」と捨てられ、弟子たちからも捨てられて、十字架で死なれました。ところが神さまは、そのようにして人から捨てられ、殺された主イエスを、「選ばれた、尊い、生きた石」として用いられました。人間が「必要ない」と捨てた主イエスを、人間の救いのための、肝心要の土台の石として、据えられたのです。神さまは、わたしたちが捨て、わたしたちが殺した方を、わたしたちの罪を赦すために、お用いになられたのです。殺した張本人である わたしたちの、救いを支える土台の石として、据えられたのです。これは、わたしたちの目から見ると、驚くべきことです。天地がひっくり返るような、まさに、神の み業、としか言いようがありません。今朝の旧約聖書の み言葉 詩編 第118篇23節に「これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。」と書かれている通りです。
5節にある「霊的な家」とは、「神殿」、「教会」を意味する言葉です。神殿で働くのは祭司であり、教会で働くのは牧師です。祭司、牧師は、神さまに仕える者。ですから、もしかしたら、「神に仕えるのは祭司、牧師であって、信徒は、礼拝に出席していればよい」と考えがちかもしれません。確かに、礼拝に出席することは、ペトロの言う霊的な いけにえのひとつです。けれども、やはり、わたしたちキリスト者は皆、聖なる祭司として、神さまから名前を呼ばれ、神さまのみ前に、召し出されている者なのです。
ドイツの改革者ルターは、「霊的な家」である「教会」が造り上げられていくためには、三つの柱が必要と言いました。三つの柱とは、「聖書のみ」、「信仰のみ」、「全信徒は祭司」の三つです。ルターは、「全信徒は祭司」について、1523年に発表した『教えを判断し、教師を招聘し、任免する権利と力』というとても長いタイトルの書物に記しました。「キリスト者ひとりひとりが神のことばをもっており、神から教えを受け、祭司となるべく油を注がれていることは、だれも否定できまい。キリスト者は、キリストとともに祭司として聖別された、キリストの兄弟なのである。神のことばをもっており、神によって油を注がれているのだから、キリスト者は、自ら信仰を告白し、教え、また、教えを広める義務ももっている。」すべてのキリスト者に、神のことばが授けられているのです。皆が、祭司として 聖なる者とされているのです。だから、それぞれの仕方で、神さまの愛を伝えるのです。伝道のためにこそ、わたしたちは、神さまから名前を呼んでいただいたのです。
5節後半に、「神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」とあります。「霊的ないけにえ」とは、何よりもまず、神を賛美すること、つまり礼拝です。また、「霊的ないけにえ」とは、わたしたち自身です。わたしたち自身を、「イエス・キリストを通して」神さまに献げ、主の御用のために用いていただくのです。なぜなら、主イエスこそが、わたしたちのために、ご自分の命を、十字架で献げてくださったからです。
主イエスは、「霊的な家」である教会の土台となる「尊い、生きた石」です。わたしたちも、この揺るがない しっかりとした土台の上に、「生きた石として用いられ、霊的な家(である教会)に造り上げられるように」、「霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げ」るのです。わたしたち一人一人が、教会を形成する「生きた石」として、土台の石である、キリストの上に造り上げられる。それが、教会なのです。そして大切なことは、すべての者が、互いに「聖なる祭司」であることを認め合い、神を賛美し、キリストを通して自らを献げて、励まし合いながら、伝道していくことです。
ペトロは、これまで記したことの根拠として、旧約聖書の み言葉を紹介します。まず6節、「見よ、わたしは、選ばれた尊い かなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」これは、旧約聖書 イザヤ書 第28章16節からの引用です。イザヤ書が記されたのは、イスラエルの民が超大国バビロンの攻撃を恐れ、うろたえ、不安の中に置かれていた時でした。バビロンに並ぶ超大国エジプトに助けを求めるのか、それとも、軍事力を増強して迎え撃つのか。イスラエルは、慌てていたのです。慌てふためく神の民に、神さまは語りかけてくださいました。イザヤ書 第28章16節を朗読いたします。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試(こころ)みを経(へ)た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。」
イザヤ書の時代のイスラエルの民と同じように、迫害に苦しみ、進むべき道を見失っていたキリスト者たちの小さな群れに、ペトロは、イザヤ書を引用しながら、「慌てることはない」、「失望することはない」と励ましたのです。尊い生きた石、主イエス・キリストが、わたしたちの群れを礎として支え、守り続けていてくださる。だから、何があっても慌てなくてよい。失望しなくてよいのだ、と。
ペトロは続けます。7節、「従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』」。ペトロは、今度は、旧約聖書 詩編 第118篇22節の み言葉を引用して言うのです。家を建てる者が、「こんな石は何の役にも立たない」とポイと捨てた石こそが、キリストなのだ、と。神さまは、「人が捨てた この石こそ、人類の救いにとって不可欠な『隅の親石』である」と言われるのです。家を建てる者が、「役に立たない」と判断し、捨てた石。その石こそが、教会の土台となる石であり、わたしたちを罪から贖い、失望から救うのです。
神さまは、キリストの命と引き換えに、わたしたちに、決して失望することのない、永遠の望みを与えてくださいました。そして、十字架と甦りのキリストを土台とし、その上に、わたしたち一人一人を呼び集めて、教会として建て上げてくださるのです。十字架と甦りのキリストが、「隅の親石」として、がっちりと、教会を支えてくださるのです。
ペトロは、さらに念を押すように記しました。8節、「また、『つまずきの石、妨げの岩』なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。」キリストが、人々から必要ないものとしてポイと捨てられた、その惨めな姿だけを見るならば、わたしたちの救いの土台の石であるキリストは、「つまずきの石」となってしまいます。救いの土台の石につまずき、「何だ、邪魔な石め!」と呟くことは、「神など必要ない」、「救いなど必要ない」と言うことです。せっかく、神さまが、キリストによって開いてくださった天の国の門に、自分で「妨げの岩」を置き、神さまの み声に耳を塞ぎ、従わない、ということです。
ところが、実はその つまずきも、神さまはすべて知っておられる、というのです。すべては神さまのご支配のもとにあるのです。ペトロがそのように書いたのは、当時、迫害下に置かれていたキリスト者を励ますために違いありません。つまずく者たちが、彼らを迫害したのです。だからこそ、ペトロは心を込めて励ますのです。「あなたがたが今、迫害を受けていることも、神さまは ご存知であられる。神さまは、あなたがたを見捨てておられるのではない。だから、慌てなくてよい。決して失望しなくてよいのだ。あなたがたが立っている土台を見なさい。神に選ばれた、尊い、生きた石であるキリストが、あなたがたの土台ではないか。」
 わたしたちも今、望みを失いそうな日々を過ごしているかもしれません。「何の奉仕もできなくなったわたしは、教会のお荷物です。」と嘆く声が聞こえてくることがあります。「礼拝に出席するだけでも大変なのに、聖なる祭司として歩むなんてわたしには無理です。」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
けれども、そんなことはないのです。今日も生きて働いておられる主イエスが、わたしたちの土台なのですから。わたしたちは、小さな赤ちゃんから年老いた者まで、主イエスが、「わたしのもとに来なさい」と、招かれた者です。教会を建て上げるために、招かれた者なのです。神さまから必要とされていない人などいないのです。「わたしなんて」と呟いている場合ではないのです。イザヤが語った神の約束「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」に、心から「アーメン。本当にその通りです」と応える。そして、どのようなときも、わたしたちを支える礎でいてくださるキリストを「隅の親石」として信じ、「キリストには かえられません」と、神を賛美し続けるのです。 
 受付で手の消毒のときにお気づきになられたと思いますが、教会学校サマーフェスティバルに集まった子どもたち、また大人たちも一緒に、祈りを込めて、絵葉書を作成しました。ぶどうのちぎり絵に、ヨハネによる福音書に記されている、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(15:5)」の み言葉を添えました。その絵葉書を、問安委員会で選んだ10名の兄弟姉妹にプレゼントすることになりました。皆さん ぜひ署名をしてください。それぞれのお顔を思い浮べ、祈りつつ署名する。知らない人であっても、主にあって共に建てられている教会の仲間の苦難を思って署名する。このことも、神さまに喜ばれる霊的ないけにえです。10名の兄弟姉妹のみならず、たくさんの兄弟姉妹が、様々な理由で教会から離れています。その方々の名前を声に出して祈る。それもまた、キリストを礎として生きる喜びであり、神さまに喜ばれる「霊的な いけにえ」ではないでしょうか。そのとき、わたしたちも神さまに喜ばれる「聖なる祭司」です。神さまはそのように、わたしたち一人一人を「生きた石」として用いて、「霊的な家」として、東村山教会を造り上げてくださるのです。

<祈祷>
天の父なる神さま、あなたは、主イエス・キリストのゆえに、わたしたちを、聖なる祭司としてくださいましたから、深く感謝いたします。どうか、どのようなときも失望することなく、キリストを礎として、「キリストには かえられません」と賛美し、伝道の喜びに生きる者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。


<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。地上にある悲しみ、痛みの中にある者のために祈ることができますように。病苦の中にあります者のために、心に受けた傷のために うめいている者のために、わたしたちの祈りが集められ、強められますように。迫害の中にある者のために、わたしたちの祈りが深められますように。この世界の様々なことに責任を負っている者のために、あなたの導きと支えがありますように。すべての者を用いて、あなたが世界の平和を確かなものとしてくださいますように。この日も愛の業にいそしんでいる者を、あなたが強め励ましてくださいますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年7月24日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第34篇2節~11節、新約 ペトロの手紙一 第2章1節~3節
説教題:「生まれたての赤ちゃんのように」
讃美歌:546、6、183、284、545A

5月1日から読み進めておりますペトロの手紙一。本日から第2章に入ります。1節は、「だから」という接続詞から始まります。「わたしたちは、永遠に変わることのない神の言葉によって、全く新しく、生まれた者である!だから」とペトロは続けるのです。
わたしたちに与えられている福音は、人間の考えではあり得ない、大きな大きな恵みです。「主イエスを救い主と信じます!」と信仰を告白し、洗礼を受けた者は、罪にまみれていたわたしが死に、新しい命に生きる者とされる。洗礼によって、わたしたちは、全く新しい者として、生まれることができるのです。そして、新しい「わたし」の内には、愛なるキリストが住み続けてくださるのです。「だから」、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」いるはずなのです。けれどもペトロは、第2章の冒頭で、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て」去りなさいと記すのです。それはおそらく、ペトロが心を込めて励ましている諸教会に、悪意があり、偽りがあり、偽善があり、ねたみがあり、悪口があったからに違いありません。
それでは、わたしたちは、「ポントスからビティニアに至る教会は、何て罪深い教会なんだ」と一刀両断できるでしょうか?東村山教会に連なるわたしたちは、悪意を抱いたことはありません。偽りを語ったことはありません。偽善を働いたことはありません。ねたみを抱いたことはありません。悪口を呟いたことはありませんと胸を張って、神さまに誓うことができるでしょうか?わたしは牧師ですが、時に、ねたみを抱いてしまうことを告白しなければなりません。人の心を全てご覧になっておられる神さまの み前では、誰でも、それらが、具体的に口から出てしまったことも、口には出さなくとも、心の中で呟いてしまったことも、告白しないわけにはいかないでしょう。そして、洗礼を受けても、自分が何ひとつ変わっていないと嘆きつつ、愕然とするのです。ペトロも、そのような自分の罪を知っていたのではないでしょうか。わたしたちは、どうすれば、それらの悪を捨て去ることができるのでしょう。どうすれば、諦めずに、どこからともなく湧き上がってくる悪い思いと、全力で闘い、勝つことができるのでしょう。ペトロは続けます。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。」わたしたちは、洗礼を受け、新しく生まれたのですから、生まれたての乳飲み子です。生まれたての乳飲み子は、顔を真っ赤にして全力で泣きます。そして、生きていくために、物凄い力でちゅぱちゅぱと乳を飲むのです。赤ちゃんの吸う力はたいへん強い。生まれたての赤ちゃんは、まだよく目が見えていません。でも、口に何かが近づくと、それがたとえ指か何かであっても、ちゅぱちゅぱと物凄い力で吸います。生きるために。吸い付いたら離さない。わたしたちも、記憶になくとも、同じように乳を慕い求め、一心不乱にちゅぱちゅぱと物凄い力で吸っていたから、今があります。
ペトロは、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。」と心を込めて、真剣に記しました。そうでないと、すぐに信仰が死んだようになってしまうのです。「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」が、口から出てきてしまうのです。いや、口から出ないまでも、心の中に次々と湧いてきてしまう。そのような悪を捨て去るには、一つしか方法はありません。ただただ、生まれたばかりの乳飲み子のように、生きていくために、無心で、混じりけのない霊の乳を慕い求め続けるのです。そうでないと、わたしたちの信仰は成長することはできません。それどころか力を失っていき、やがて死んだようになってしまう。キリストの十字架も、復活も、なかったことにしてしまう。だから、2節でペトロは言うのです。「これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」わたしたちは、信仰を告白し、洗礼を授けて頂いたときに、罪にまみれた自分は死んで、まっさらな、新しい命を頂きました。主の十字架と甦りによって、罪を赦され、救われました。この救いは、ただ一度で、完全なものです。しかしまた、この救いの恵みの中で成長してゆくことは、新しい命を与えられたわたしたちの使命でもあるのです。生まれたからには、成長したい。生き生きと生きてゆきたい。生まれたての赤ちゃんはそんなふうに考えているわけではありませんが、本能的に、成長するために何が必要かを心得ており、ひたすらそれを慕い求めます。信仰もこれに似て、霊の乳を慕い求めることなしには、成長することも、せっかく頂いた救いを全うすることも、できないのです。
改めて考えたいのですが、わたしたちの肉体は、何も食べることができなくなると、やがて死んでしまいます。また好き嫌いばかりしていても健やかに成長できないでしょう。一度に食べ溜めすることもできません。信仰も同じ。毎日、必要なだけ栄養をとらなくてはなりません。そうでないと、心には悪意が溢れ、偽りを語り、偽善の仮面を被り、「なぜ、あの人は皆から愛されるのか?」とねたみ、「あの人、あれでもクリスチャン?」と呟いてしまうのです。それはもはや信仰生活とは呼べません。日々、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めな」ければ、キリスト者と言っても、名ばかりになってしまうのです。
毎日、思い出したいのです。洗礼を授けて頂いた喜びの日を。洗礼を授けて頂いた日は、罪にまみれた自分が死んで、新しい命を頂いた日です。その日のわたしたちは、まさに、「オギャー!」と生まれたばかりの乳飲み子です。そのように新しく生まれた日に、今日も、明日も、明後日も、毎日、立ち帰るのです。いくら信仰生活が長くなっても、十分成長したからもう栄養は必要ない、ということはないのです。乳離れして独り立ちすることが成長ではないのです。むしろ成長すればするほど、自分の力に頼ることの空しさを知り、自分の傲慢さを知り、そのような自分が神の愛に生かされている恵みを知り、日々、その日一日の生きる力を頂いて、毎日、新しく生まれた喜びの中で生きるのです。
新しく生まれた日、わたしの場合は高校生のときでした。月はじめの第1主日に洗礼を授けて頂きましたので、洗礼直後に聖餐の祝いに与りました。それまで見ているだけだった、主イエスの肉である四角いパンと、杯に入っている主の流された血潮である葡萄の液を、始めて口に含んだ。その瞬間、「ああ、本当にわたしは新しい命を頂いた。本当にわたしはイエスさまと結び合わされた。」と感じました。しかし、月日が経ち、社会人として生活していく中で、つい口から出てしまっていたのは、人に同調し、その場の雰囲気で発する適当な言葉や陰口でした。教会においてすら、「わたしは間違っていない!」という傲慢な思い込みによって、兄弟を裁いていました。そのとき神さまは、悲しいお顔で、成長したつもりでいるわたしを見つめておられたに違いありません。いや、過去のことではない。牧師とされた今も、人と自分を引き比べては、ムクムクと湧き上がってくるねたみの心と格闘する毎日です。
偽りも、偽善も、ねたみも、悪口も、全ては、人より自分を良く見せようという思いが表面化したものです。それらはみな、生まれたての赤ちゃんのものではありません。赤ちゃんは、そんなもので自分をガードしなくとも、泣いて求めれば守ってもらえることを本能的にちゃんと知っているのです。人と自分を比べたりもしません。自分と、自分を守ってくれる者との間の信頼関係だけで、十分なのです。わたしたちも日々、新しく生まれた日に立ち帰り、生まれたばかりの乳飲み子のように、悪意も、偽りも、偽善も、ねたみも、悪口も、全部脱ぎ捨てて、生まれたばかりの赤ちゃんのように裸になり、全く無防備になって、全ての力を神さまから頂くようにしなくてはならないのです。せっかくキリストが十字架に架かって、そこまでして、新しく与えてくださった、わたしたちの命がかかっているのですから、遠慮している場合ではないのです。無心に、神さまの思いを問い続ける。霊の力と導きだけを、ひたすらに求めて、み言葉に吸い付くのです。赤ちゃんは遠慮しません。「ママも寝不足、もう深夜だし、遠慮しておくか」などと考えません。朝でも、昼でも、夜でも、深夜でも、お腹が空くと全力で泣き、乳に吸い付く。そして満たされると、何事もなかったかのようにスヤスヤと眠るのです。赤ちゃんがお腹いっぱいになるとスヤスヤと眠るように、わたしたちも、霊の乳を慕い求め、吸い続けていると、安心して、神さまの懐に抱かれて、愛されている確信の中で平安に過ごすことができます。悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口が出る幕はないのです。
洗礼は、わたしたちを罪の状態から救い出します。一度救われたら、それで十分です。けれども、自分の救いについての確信が、ますます深められ、信仰生活が生き生きと、喜びに満ちたものとなるために、「霊の乳」である主の み言葉を慕い求めるのです。神さまの み言葉とは、永遠に変わることがない、神さまの恵みのお約束です。「わたしは、あなたを真実に愛している」との、お約束です。神さまが、わたしたちを愛してくださっている。これに勝る喜びがあるでしょうか?どんなときも、神さまはわたしたちと一緒にいてくださる。これほど安心で、力強い励ましが他にあるでしょうか?これほどの栄養が、永遠に、無尽蔵に備えられているのです。今日はもらえたけれど、明日はわからない、ということはないのです。求めるなら、毎日、必要なだけ頂けるのです。永遠に!また、この み言葉は、一切、まじりっけなしです。人間がつくるもののように、見かけをよくしようとか、口当たりよくしようとか、そんな小細工なしの、栄養満点の本物の恵み。力の源なのです。
「生まれたばかりの乳飲み子」が、「混じりけのない霊の乳を慕い求め」る。それは、個人の信仰に限ったものではありません。教会の成長もまた、同じと言えるのではないかと思います。東村山教会も、この地に神さまがおたてくださったときのスピリットを忘れることなく、「神さまがわたしたちを愛してくださっている」という約束の み言葉に生かされて、まだ神さまの愛を知らずにいるひとたちに、この確かな福音の み言葉を配り続けるのです。一日一日、その日その日に必要な力を頂きながら。すると、わたしたちの教会の足腰は鍛えられ、神さまの救いの完成に向かって成長していきます。そのように成長してゆけば、たとえ、わたしたちの肉体が動かなくなってきたとしても、たとえ、眼や耳が衰えようとも、いや、そのように弱ってくればなおさら、弱いところに働かれる神さまの力を、わたしたちは教会全体として共に味わい、はっきりと見ることができるのです。何と幸いなことでしょうか。
 続く3節に「あなたがたは、主が恵み深(ぶか)い方だということを味わいました。」とあります。ここに記されているのは、さきほど朗読して頂いた詩編 第34篇9節の み言葉「味わい、見よ、主の恵み深(ふか)さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。」です。ペトロは語るのです。「あなた方は、主が恵み深い方であられることを、その身をもって、また教会全体として、よく味わい、見て、知っているはずだ。そうであるならば、ますます、切実に、心から、神さまの み言葉を慕い求めずにはおれないでしょう?」
ちなみに、「恵み深(ぶか)い方」という言葉は、ギリシア語で、「クレーストス」といいます。「クレーストス」は、ギリシア語で、「クリストス」という言葉と響きがよく似ています。「クリストス」を日本語では、「キリスト」と言います。「主は恵み深い方(クレーストス)」と、「主はキリスト(クリストス)である」、二つの言葉が重なって響いてまいります。
わたしたちは、キリストの十字架と甦りによって、主が恵み深い方であることを知りました。わたしたちの主は、神さまの愛の証であられる、キリストです。ご自分の命と引き換えに、わたしたちに真実の救いをもたらし、甦りによって、互いに愛し合える者としての新しい命をくださったキリストです。キリストにより、わたしたちは、新しく生まれ、神さまの愛と、赦しの恵みをすでに味わいました。だから、共に神さまの恵みの中で、いよいよ成長していくのです。生まれたての赤ちゃんのように。
神さまが、わたしたちを愛してくださっている。キリストによって示されたこの愛の真理は、永遠に、変わることがありません。愛の真理は、わたしたちに、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を捨て去り、「はだかんぼ」の赤ちゃんのようになる勇気と力を与え、励ましてくださいます。わたしたちは愛されているから、愛し合い、仕え合う群れとして、救いの完成に向かって成長していくことができるのです。

<祈祷>
天の父なる神さま、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めることができますように。愛し合い、仕え合う群れとして、救いの完成に向かって成長していくことができますように。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。主よ、世界に平和を来らせてください。力ある者の中に、ひたすら平和に生きる願いを呼び起こしてください。今日は、江古田(えごた)教会の創立記念礼拝で加藤常昭先生が説教を担っておられます。主よ、先生の働きを存分に用いてください。病床にある友を思います。年老いて、ここに来る力を失っている者を思います。愛の奉仕に生きている者を顧みてくださいますように。思い煩いの中にある者に、望みの光を お与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年7月17日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第40章6節~8節、新約 ペトロの手紙一 第1章22節~25節
説教題:「キリストに従う生活」
讃美歌:546、93、187、448、544
先週の主日は、加藤常昭先生による力強い説教を通して、慰めと励ましを頂きました。ペトロの手紙一 第1章8節。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」先生が深く愛しておられる聖句により、わたしたちは、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれた者たちであることを、改めて心に刻みました。そして今朝は、「そのようなあなたがただからこそ、キリストに従って生きて欲しい」という、ペトロの勧めに耳を傾けます。勧めというよりも、キリストを信じ、天に国籍を持つようになったわたしたちは、こういう者なのだ、という宣誓と言った方がよいかもしれません。高校野球の開会式で行う、あの宣誓です。共にこのように生きていこう、いや、生きるのだと誓うペトロの後ろに、手紙を受け取ったキリスト者の群れがあり、そして、わたしたちもいるのです。22節。「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。」
 「真理を受け入れて」とあります。「真理」とは、何でしょう。ヨハネによる福音書で主イエスは弟子のトマスに言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。(14:6)」主イエスこそが、真理。即ち、神さまが、わたしたち人間を、独り子である主イエスをくださるほどに、愛してくださった、という事実です。ですから「真理を受け入れる」とは、神さまが、心から わたしたちを愛してくださる、その愛を、受け入れることです。その愛によって頂いた命を、生きることです。わたしたちは、神さまの愛の証である主イエスを受け入れ、清められて、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのだから、清い心で深く愛し合おう、と固く誓うのです。同時に、わたしたちは、偽りなく愛し合うことの難しさを知っています。「あの人がいるから、こんなことになった。あの人さえいなければ」と、いとも簡単に、あの人を消してしまう。わたしたちが深く愛することができるのはせいぜい、自分を愛してくれる人ぐらいです。けれどもそれは、突き詰めれば自分を愛しているだけのことです。しかし、ペトロがここで共に誓おうと求めている愛は、主イエスに従う愛です。主イエスの愛によって生かされることです。主イエスを受け入れた者は、すでに魂が清められて、「偽りのない兄弟愛を抱くようになった」。「偽りのない兄弟愛」を、魂の中に、グッと、突っ込むようにして頂いた。上辺だけでない。ふりをするだけでもない。「あなたの魂の中にあるのは、真理だ、キリストだ。よく見なさい。あなたはもう昔のままのあなたでは ない。あなたの中に在るキリストを、しっかり、離さずに抱  (いだ)き続けよう、いや、キリストにしっかり捕まえて頂こう」とペトロは言うのです。
また、ここでペトロは「兄弟愛」と言っています。ただ「愛」と言うのでなく、「兄弟愛」と言うのです。はっきりと相手を示すのです。何となく、イメージで、あったかい、やさしい気持ちでいなさい、というのではないのです。具体的に、今、あなたの隣りに いる、この人を愛しなさい、と具体的に相手を示すのです。具体的に愛することは、難しいことです。辛抱が必要です。兄弟でも、 親子でも、夫婦でも、職場でも、学校でも、教会でも、愛し合うには辛抱が求められます。ときにカチンとくる。カッとなる。それでも、お互いに辛抱するのです。互いを認め合い、尊重する。自分の中に湧いてくる悪い思いと闘うのです。どのような相手であろうと、その人のためにも、神さまは主イエスを与え、真実に愛し続けておられるからです。神さまの愛から漏れる人は、ひとりもいないからです。
だからこそペトロは、「清い心で深く愛し合いなさい」と勧めるのです。新共同訳は、「清い心で深く愛し合いなさい」と訳して
いますが、口語訳は、「心から熱く愛し合いなさい」と訳しています。また、岩波訳では「全力で互いに愛し合いなさい」と訳しています。できるか、できないか、勝つか、負けるか、などと考えない。勝つと信じて、全力で闘うのです。なぜ勝つと信じることができるのか?ペトロは続けます。23節、「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。」あなたたちは、今も生きておられ、永遠に変わらない生きた神の言葉によって、新しく生まれた者なのだから、必ず勝つ、必ず愛し合える。だから、全身全霊、力を出しきって闘い抜ける、共に闘おう、とペトロは励ましているのです。
ヨハネによる福音書に、ファリサイ派に属するニコデモというユダヤ人の議員が登場します。ニコデモは、主イエスに新しく生まれることについて真剣に問いました。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。(3:4)」すると主は、お答えになられました。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。(3:5)」「水と霊」とは、「洗礼と聖霊」のことです。わたしたちが全力で愛し合う闘いに立ち向かう ことができるのは、ひとえに、変わることのない神さまの愛の言葉を信じて、「洗礼と聖霊」によって、新しく生まれたことによるのです。決して、わたしたちの努力で愛の炎を燃やせ、というのではないのです。人間の考えや、経験や、努力のように、いつかは朽ちてしまうものによって頑張って生まれ変わろう、というのではないのです。わたしたちは、もっと確かな、「朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。」朽ちない種、すなわち生きた神の言葉とは、甦りのキリストです。主イエスは、わたしたちが「朽ちる」者ではなく、「朽ちない」者として新たに生まれるために、十字架で死なれ、甦られました。この福音の言葉を信じて、洗礼を受けるとき、わたしたちもキリストと共に十字架につけられ、罪のわたしは死に、また、キリストと共に、新しい人、清い人として新しい命に生まれるのです。
そのことについて、ペトロは、「『人は皆、草のようで、その 華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。』これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」と、イザヤ書の み言葉を紹介しています。
イザヤ書は、第1章から第66章に至る長い書物です。すべてを預言者イザヤが記したのではなく、第40章から第55章は「第二イザヤ書」といって、半世紀にわたるバビロン捕囚という苦難の 時代の末期に、「解放の時は近い!」と告げた別の預言者が記したものと言われています。その無名の預言者を「第二イザヤ」と呼ぶのです。紀元前587年から始まるバビロン捕囚により、イスラエルの民は遠くバビロンの地に連れ去られ、この時すでに半世紀が 経過していました。民族の危機を経験し、「神は、自分たちを見捨てられた」という絶望感にうちひしがれていたのです。第二イザヤも捕囚民の一員でした。民族の将来について絶望していた彼を、神さまは、預言者としてお召しになられたのです。
戸惑う第二イザヤは、絶望的な思いで語ります。イザヤ書第40章6節、「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。」神さまから「呼びかけよ」と言われても、長い苦難の中で、わたしは語る言葉を失ってしまいました」と嘆くのです。しかし神さまは、嘆く彼に望みの言葉を授けられました。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
イスラエルの民自身も、また、強大であったバビロニア帝国の力も、「草に等しい」もの。「主の風が吹きつけ」れば、たちまち枯れてしまう。しぼんでしまう。この世における人間の権力や勢力も、イスラエルの民の解放も、自らの力で獲得するものではない。
ただ、神の力によるものであることが示されています。「草は  枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」この一文は、すべての人間を徹底的に謙虚にすると共に、長い苦しみからの解放と神さまの言葉に信頼して生きることの確かさを強く示しています。バビロン捕囚という絶望的な敗北にも終わりのときがあったように、あなたがたの闘いにも、神によって勝利が約束されているのだと、ペトロも迫害に苦しむ人々に、愛を込めて記したのです。
ただ、ペトロは少しだけ、第二イザヤの言葉を変えています。第二イザヤでは、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」ですが、ペトロは、「主の言葉は永遠に変わることがない。」と記しました。「わたしたちの神の言葉」を、「主の言葉」と言い換えたのです。ペトロが記した、「主」は、十字架と甦りの主イエスです。死に勝利し、甦られた主イエスです。主の十字架と甦りによる愛と 赦しの約束は、永遠に変わることがありません。天地を創造された神さまが、人間を新しく生まれさせるために、主イエスを復活させられたからです。
洗礼によって、罪のわたしたちは死に、まったく新しい命を与えられました。たとえ今、厳しい試練の中にあっても、先の見えない不安の中にあっても、嘆きの中にあっても、自分の愛の貧しさに、やけになり、互いに愛し合う闘いを放棄してしまいそうなときも、「キリストを死者の中から復活させて栄光を お与えになった神を、キリストによって信じ(1:21)」、望みを持つことが
許されているのです。真実の望みを頂いたわたしたち。神さまに喜んで応えるのです。自分自身の一切を献げるのです。神さまの思いのままに用いて頂く生活を祈り求めるのです。神さまがお喜びに なられるように生きる決心をするのです。洗礼によって主イエスと結び合わされ、神さまの子どもとして頂いた者らしく、清い生活に励むことを約束するのです。罪を避け、汚れに染まらないように 真剣に、一所懸命に励むのです。力の限り、誤った欲望に勝とうとするのです。それが、「キリストに従う生活」です。キリスト者でありながら、「どうせ自分は罪人だ」とうそぶいて、罪と闘い  抜こうとしないのは、「キリストに従う生活」とは言えません。 たとえ、何度挫折しても、たとえ、自分の愛の貧しさに涙を流しても、わたしの中にはキリストがおられる。偽りのない兄弟愛がすでに与えられている。聖霊が働いてくださる、と信じ、「キリストに従う生活」を続けていくのです。辛抱しようとするとき、闘おうとするとき、それは、わたしたちが神さまの子どもであることを、 再確認する恵みのときでもあると思います。愛の闘いに負けそうになりながらも、「負けてなるものか!」と心を奮い立たせるとき、父なる神さま、子なる神さまキリスト、聖霊なる神さまは、必ず、わたしたちに力を注いでくださいます。そのとき、わたしたちの口から「どうせ」という言葉は消え、「しかし、主の言葉は永遠に 変わることがない。」が溢れるのです。わたしたちは、ペトロの、宣誓のような勧めの言葉に、「アーメン!」と大きな声で唱和し、キリストに従う者として、召されているのです。

<祈祷>
天の父なる神さま、偽りのない兄弟愛を抱く者とされた恵みを感謝いたします。わたしたちを、清い心で深く愛し合う者としてください。永遠に変わることがない主の言葉によって歩む者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けて下さい。主よ、様々な理由により、あなたから離れている者に、あなた自身が呼びかけてくださり、再びあなたに繋がることができますように。この世にあって、理解することのできない理不尽な闘いや悲しみの中にある数多くの者がおります。すべて憐れみのうちに覚えてくださいますように。わたしたちの国、わたしたちの世界を憐れみのうちに置いてください。共に生きていく喜びを、他の人を助けることのできる幸いを、どんな小さなわざの中でも学んでいくことができますように。病のため入院している者、礼拝に出席したくても礼拝に出席できない者に聖霊を溢れるほどに注いでください。午後に行われる「教会学校サマーフェスティバル」を祝福してください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年7月3日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第2篇1節~12節、新約 ペトロの手紙一 第1章20節~21節
説教題:「神の恵みの ご計画」
讃美歌:546、1、86、Ⅱ-1、280、542

「キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。」
わたしたちが、「キリスト」と信じるイエスさまとは、どのような お方なのか?わたしたちの「キリスト」は、どなたなのか?主イエスの地上での ご生涯に触れていると、もしかすると、見えなくなっているかもしれませんが、「キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていた」お方です。それは、言うまでもなく、神さまだけが、天地創造の前から、「キリスト」を知っておられた、ということです。わたしたちの救い主は、天地創造の前から、神さまと共におられ、神さまと共にすべてのものを創造された お方です。そして、神さまは、ご計画の最初から、ご自分がこれからおつくりになる世に、キリストを お遣わしになることを、すでに決めておられた、ということでもあります。キリストは、神さまのご計画に基づき、神さまのもとから、わたしたちのところに降って来られたのです。
わたしたちが「キリスト」を知ることが出来るのは、ベツレヘムにお生まれになり、ナザレで お育ちになり、ガリラヤを中心に多くの お働きをなさり、そして、エルサレムで十字架に架けられて死なれ、三日目の朝に復活されたイエスさまとしてのお姿だけです。しかし、それは、「キリスト」の一部にすぎません。キリストは、十字架で息を引き取られた後、神さまによって復活させられ、天に昇られました。それは、「今も生きておられる」ということであり、キリストは、父なる神さまと同質な お方、子なる神さまである、ということです。
わたしたちが救い主と信じる「キリスト」は、世界が天地創造の前から、父なる神さまと共におられ、今も生きておられる。そのかたが、神さまの ご計画の通り、わたしたちを救うために、いらしてくだ さったのです。決して、偶然なことではないのです。ある時 急に、父なる神さまが、わたしたちの罪を見て、驚き、キリストを お遣わしになられた、ということでもないのです。すべては、最初から  あった父なる神さまの救いの ご計画。すでにあった救いの ご計画が、現れたのです。ひとの目に見えるかたちで。
わたしたちの救いは、始めから、神さまのご計画の中に、置かれている。これほど確かな恵みがあるでしょうか。わたしたちは、神さまの永遠の、ほんの一点に存在するにすぎません。それなのに、神さまから覚えていただいている。だからこそ、わたしたちは皆、安心して、信頼して、キリストによる救いを いただくことができるのです。
「この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。」とあります。天地創造の前から続く、神さまの救いのご計画が、「終りの時代に」入った。救いのご計画が、完成に向け、締め括りのステージに移った。「救いの時」が始まったのです。ひとの歴史が始まって以来、ずっと繰り返されてきた罪の歩みから、神さまがわたしたちを贖い出してくださる、その救いの み業が、始まったのです。神さまは、キリストを わたしたちのもとにお遣わしになることで、救いのご計画が「終わりの時代」に入ったことを、わたしたちに示されたのです。
ペトロは、明確に宣言します。キリストは、「あなたがたのために現れてくださいました。」手紙を読んだ各地のキリスト者は、どれ ほど慰められたことでしょう。なぜなら、「あなたがた」といわれている人びとは、特別な人ではなかったからです。迫害に怯え、もしかすると、信仰を告白したことを正しいことだったのか?と悩み、信仰が揺れていたかもしれません。その姿は、わたしたちの弱さに重なります。互いに争い、奪い、殺し合っている。そのような、罪の重さに絶望し、また、自分のふがいなさに失望し、神さまの救いの み業が見えなくなる時もある。
しかし、神さまの救いの み業は、そのようなあなたがたのために、始めからの ご計画どおりに、キリストによって、始まっているのだ、と、ペトロは言うのです。本来であれば、とうの昔に神さまから見放されて当然のわたしたちのために、救いの ご計画は、終わりの時代、完成に向かって最終ステージに移っている。キリストが現れてくださったことが、死んで、甦ってくださったことが、その確かな証なのです。キリストが現れてくださったから、わたしたちは、神さまの愛を知りました。キリストが、十字架で死んでくださったから、わたしたちは、己の罪が赦されたことを知りました。キリストが復活されたから、わたしたちは、死が終わりではないことを知りました。そして、神さまの そばで、神さまの永遠の中で、生きる恵みを知ったのです。
だから、ペトロは続けるのです。21節、「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光を お与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神に かかっているのです。」
信仰は、ひとから あれこれ説明してもらったらわかるとか、一所懸命に聖書を読んで、色々な本も読んで勉強したら獲得できるとか、いうものではありません。
わたしたちは、ほんとうには、神さまのことを知り得ないのです。神さまが、ご自分の方から、ご自分を現してくださるのでなければ。まして、信じることなどできないのです。ただ、キリストに依らなければ。キリストが世に いらしてくださったことによって、初めて、わたしたちは、神さまの愛を知るのです。
ところで、21節の「神を、キリストによって信じています」と訳されている言葉と、そのあとの「神にかかっているのです」と訳されている言葉は、同じ言い方が用いられています。「エイス ゼオン」。神(ゼオン)という単語の前に、エイスという前置詞がついています。この「エイス」は、何かの内部へと入り込むことを意味する言葉です。それが、二回続けて用いられている。英語だと、「ⅰn God」です。「キリストを、死者の中から復活させて栄光を お与えになった神」の中に入り込む。わたしたちの信仰と希望とは、この神さまの中に、すっぽり、入り込んでいる。ただの前置詞、と言ってしまえば それまでなのかもしれません。しかし、ペトロの人生を思う時、この何気ない小さな言葉が、真理を指し示しているように思えてくるのです。
ペトロは、イエスさまが大好きで、心から尊敬し、いつも一緒に 行動していました。けれども、そのペトロですら、イエスさまと一緒にいたときには、自分が受けている恵みの大きさがどれほどのものなのか、ほんとうには、わかっていなかった。「自分は、イエスさまを神の み子と信じている。たとえ、一緒に死ななければならなく なったとしても、たとえ、他のみんなが離れて行ったとしても、自分だけは、絶対に、イエスさまから離れたりしない。」そう言っていたのに、いざそのときとなると、逃げ出してしまいました。その時にはまだ、主イエスの十字架の意味が分かっていなかった。イエスさまの死が、自分にとっての「ただ一つの希望なのだ」、ということが、  わからなかったのです。ほんとうに わかったのは、主イエスが復活なさったのち、天に上げられ、父なる神の右にお座りになり、栄光をお受けになったときでした。
主イエスが、父なる神さまの右に お座りになられたことが、どのようにしてペトロにわかったのでしょう。それは、聖霊が降り、力を頂いたからです。主イエスは、十字架に架けられる前に、弟子たちにこのように約束されました。ヨハネによる福音書 第14章26節。「しかし、弁護者、すなわち、父が わたしの名によって お遣わしになる聖霊が、あなたがたに すべてのことを教え、わたしが話した ことをことごとく思い起こさせてくださる。」また、このとき、こうもおっしゃいました。同じくヨハネによる福音書 第14章15節 以下。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を  守る。わたしは父に お願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、  永遠(えいえん)に あなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」
約束されていた聖霊が降ったとき。そのとき。それまでわかっていなかったことが、一度に わかったのです。自分が、神さまの大きな大きな恵みのご計画、天地創造の前からの救いのご計画の中に、自分でも知らないうちに、立っていたことに気が付いたのです。
 わたしたちは、キリストによって、「神さまの大きな愛のご計画」の中に召し出して頂きました。わたしたちの信仰も、希望も、何も かも、まるごとすっぽり、神さまの中にあります。
神さまの救いの ご計画は、前進しています。だから、神さまの  ご計画の中にいる わたしたちも、前進するのです。天地が造られる前から前進し続けてきた ご計画の完成に向かって。
いつも、そして永遠に、わたしたちと共にいて助けてくださる聖霊なる神さまに信頼し、前進するのです。たとえ、わたしたちが、愛に生きることができない自分のふがいなさに挫折しようとも、信仰も、希望も、神さまの中にしっかり守られて、在るのです。ちょうど、主イエスの死に際して挫折したペトロが、絶望の中から立ち上がったように、わたしたちも、立ち上がることができるのです。
今朝、わたしたちの前に、主イエス・キリストの食卓が整えられています。わたしたちの救いのために現れてくださった「キリスト」を目で見て、味わうことのできる食卓です。神さまは、すべてのひとに、この食卓に着いて欲しいと望んでおられます。すべてのひとがこの食卓に着く日が、天地創造の前からの、「神の恵みの ご計画」の完成の日なのです。今日はまだ共にこの恵みを味わうことが出来ない方にも、神さまは呼びかけておられます。その み声が、どうか、届きますように。祈りつつ、前進してまいりましょう。
<祈祷>
天の父なる神さま、どのようなときも、あなたに信頼し、前進する者としてください。不安なときこそ、わたしたちの信仰と希望は、キリストによって揺らぐことがないことを思い起こさせてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けて下さい。主よ、世界が揺れ、わたしたちの足元が揺らぐのではないかと思うこのとき、あなたが創造された世界に、あなたが与えてくださる祝福に変わりなく、真実の主が今も生きていてくださる ことに変わりなきことを明確に思い起こすことができますように。 あなたの確かさの中で、病床にある者、痛みを抱えている者を支えて ください。看病に生き続ける者を励ましてください。途方に暮れて いる者に道を示してください。疲れを覚えている者に真実の安息を
与えください。年老いた者に、どんなに年老いても変わらざる主に
ある望みを改めて教えてください。年若き者に、若いが故に軽んぜ
られることなく、一人前の力と知恵とをいつもあなたが与えてくださいますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年6月26日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第130篇1節~8節、新約 ペトロの手紙一 第1章17節~19節
説教題:「救われた者の生活」
讃美歌:546、71、167、Ⅱ-99、541

「あなたは誰ですか?あなたは何者ですか?ひと言で答えてください。」そのように改めて問われたら、どう答えたらよいのか。わたしたちは、答えに困るかもしれません。しかし、聖書は、はっきりとわたしたちに告げるのです。「そのとき、あなたは、このように答えなさい。『わたしは神さまの子どもです』。」
今朝の み言葉は、「また」という言葉で始まっています。その前に書かれていたのは「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」という  すすめでした。わたしたちは、聖なる方の子どもとしていただいたのですから、もはや「自分が聖なる者ではない」と絶望しなくてよいのです。わたしたち自身は、ちっとも聖なる者でないのに、「あなたは、今日から聖なる者だよ」と呼び出されて、ポン、と恵みの中に入れていただいたからです。暗いところにいたのに、神さまが選んでくださって、明るい光の中に入れていただいた。だからこそ、選ばれた者として、大切なことがある、とペトロは言います。
17節、「また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、『父』と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。」ペトロは言うのです。わたしたちが「父」と呼ぶことが許されている方は、「人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方」なのだ、それを忘れてはいけないよ、と。もしも、「自分は罪の中から救っていただいたから、もう安泰」と ばかりにウトウト居眠りを決めこんでいるような生き方をしていたとするならば、それは、聖なる神の子として相応しい生き方といえるのか?と。神を父と呼ぶことは、地上の親との関係のように多少のことは見逃してもらえる、というような甘えた関係であるはずがないのだ、と。そのように、ペトロは言うのです。
目を覚ましていることが求められています。いつも忘れてはならないことがあるのです。それは、わたしたちの父は、この地上の生活だけでなく、地上の生活の後にも、わたしたちの父であり続けられる方だ、ということです。そして、わたしたちは例外なく、この お方によって、「それぞれの行いに応じて公平に裁かれる」のです。「公平に裁かれる方」とありますが、「公平に」とは「顔に関係なしに」という意味の言葉です。つまり、神さまは、人の顔や、地位や、生活の仕方や、性格や、そういうことと関係なしに、誰をも公平に裁かれる、というのです。わたしたちが「父」と呼ぶことを許されている神さまは、どこまでも公平に、清くない者は み前から退けられる神さま なのです。だからこその、救いなのです。本来、退けられなければ  ならない者が、清くされたのです。救われたのです。裁き主であられる神さまを「父」と呼ぶことを許されたのです。
本来、主イエス以外、神さまを「父」と呼べる者は おりません。けれども、神さまは、「きずや汚れのない小羊のようなキリスト」を十字架に架けられました。それは、わたしたちを「神さまの子ども」とするためだったのです。主イエスの尊い血によって、わたしたちは罪の中から救い出されて、神さまを「父よ」と呼ぶことを許されたのです。
「神さまの子ども」と呼ばれるのに、相応しくない者であるにも
かかわらず、「聖なる者」として、「神さまの子ども」として、扱っていただいているのです。そうであるのに、「聖なる者」、「神さまの子ども」として相応しく生きようとしないのは、おかしなことです。
わたしたちは、この世にいるときも、地上の命がおわってからも、公平に お裁きになられる「神さまの子ども」とされているのです。そのことを真剣に心に刻むとき、わたしたちが、父なる神さまを畏れつつ歩むことは当然のことなのです。
もちろん、17節の み言葉を読めばわかるように、「畏れて」とは、畏れかしこむという字が用いられています。裁きがこわい、と恐れるのではありません。わたしたちの造り主であられ、わたしたちを救ってくださった神さまを、その恵みを、畏れかしこむのです。ただただ父なる神さまの恵みのゆえに、「神さまの子ども」にしていただいたことが、どれほどもったいないことか、ありがたいことなのか、それを忘れてしまわないように。この大事な恵みをいつの間にか落っことしてしまわないように。「わたしは、神さまの恵みのゆえに、『神さまの子ども』としていただいたのです。」と胸を張り、証ししながら、毎日を歩むのです。
今朝は、旧約聖書 詩編 第130篇の み言葉も朗読していただきました。4節に、「しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。」とあります。わたしたちは神さまに罪を赦していただいて、神さまを「父」と呼べるようになりました。この赦しは、神さまのものであって、決して、わたしたちの行いによるのではありません。この一点を間違えてしまうと、わたしたちはそれこそ、裁きの日をビクビク恐れながら待たねばなりません。行いを正しくしようとする生活においてすら、わたしたちは人を裁き、攻撃すらしようとする者であるからです。赦しは、神さまからの一方的な恵みです。
ペトロは続けます。18節、「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来の むなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」
「先祖伝来のむなしい生活」とはどんな生活でしょうか。先祖伝来ですから、人間がはじまって以来の生活です。今も続く、むなしい世の生活です。むなしい死があり、むなしい欲望がある。金さえあれば何でもできる、と思い込んでいる。強力な武器があれば、相手をねじ伏せられる、と思い込んでいる。あの人に従えば安泰、と思い込んでいる。金で、権力で、全てを支配できると思い込んでいる。金や銀を増やすこと、地球を滅ぼすことさえできる武器をまだ足りない、まだ足りないと増やすことに躍起になっている。神さまを畏れるよりも、人の目におびえて行動してしまう。それらすべてに、神さまを畏れて生活することを軽んじるわたしたちの罪があります。聖なる神さまが、今の世も、後の世でも、わたしたちの父であられるという真実を忘れている。そのような「むなしい生活」です。
わたしたちは、そのような滅びに至るしかない「むなしい生活から贖われた」のです!救い出されたのです!どうやって救われたのか?「きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血に」よって、救われたのです!神さまは、何の罪もない お方、神さまの独り子を、救い主キリストとして、このような どうしようもない人の世に送り、「ただ、この救いを信じ、わたしを『父』と呼び、わたしの子どもとして生きなさい!」と、わたしたちを救いへと召し出してくださったのです。この救いの中に、ポンと入れていただいた恵みを知るとき、そのときはじめて、わたしたちは犯した罪の深さを痛感するのかもしれません。わたしたちの罪は、神さまの み子の血によらなければ、救われないほど深く、重いものなのです。大切な独り子キリストを 十字架の上で殺すほどの 神さまの圧倒的な愛が、わたしたちを罪の奴隷状態から救ってくださったのです。
わたしたちは、そのように赦され、救い出していただいたのです。「それほどの恵みを、わたしたちの愚かさにより、無にしてよいはずがない。十字架を、ただの飾りにしてはならない」とペトロは言うのです。わたしたちは、「神さまの子ども」です。「きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血」によって、「神さまの子ども」としていただいたのです。だから、わたしたちは救われた喜びを歌うのです。平和をつくるのです。仕え合うのです。赦し合うのです。
先週の主日、春の特別伝道礼拝、転入会式を終えた後、東村山教会に連なる「聖なる者」の最高齢の姉妹を施設に訪ねました。姉妹は、約束の時間の前から施設の玄関で待っていてくださり、姉妹の息子さんと一緒に面談室に入りました。近況を伺うと、しみじみと言われたことは、「先生、わたしは日曜日の礼拝に出席したいのです。でも、外出することはなかなか難しく、どうしても教会に行けないのです。それでも、今日も神さまを礼拝し、教会の歩みを祈っておりました。」と笑顔で語ってくださいました。その後、まずわたしが祈り、続いて98歳の姉妹が心を込めて「父なる神さま」と祈られました。どんなときも、いくつになっても、「神さまの子ども」として日々の生活を感謝して歩んでおられることに、深い慰めをいただきました。
わたしたちは、どんなときも、いくつになっても、「わたしは、神さまの子どもです」と答えることが許されています。わたしたちは、どんなときも、いくつになっても、「天にまします我らの父よ!」と祈ることが許されているのです。この驚くべき恵みを、おかしな言い方ですが、ちゃんと驚いて生きることが、神さまを畏れる歩みであると思います。恵みがわからなくなってしまわないように、当たり前になってしまわないように、自分が本来どのような者であるのか、そして、このわたしが救われるために神さまの払われた犠牲が、どれほどのものであったか、この宝物を落っことしてしまわないように、聖霊の守りを祈りつつ、大事に、大事に、歩んでまいりましょう。父なる神さまに喜んでいただける実りが、その歩みの ひと足、ひと足に、実ることを信じて。

<祈祷>
天の父なる神さま、あなたを「父」と呼べる幸いを感謝いたします。同時に、あなたを「父」と呼べるようにしてくださった あなたの愛と憐れみ、み子の尊い血に感謝しつつ、あなたを畏れつつ生活する者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けて下さい。今、わたしたちのなすべきことは、あなたを畏れつつ拝むこと以外に何もありません。他の誰の言葉でもない、あなたの み言葉のみを聞くために心を注ぐ者として下さい。あなたの聖霊と み言葉だけに支配されるということが、どんなに豊かで すばらしいことであるかを、今、このところで知ることができますように。そのために、どうぞ祈りをもって支え合う者として下さい。長い間、教会に来ていない者たちのことを思わずにおれません。闘い続けている病床の者たちを顧みて下さい。不安の中で過ごしておられる者たちを特別に あなたが支えて下さい。いつ健康になるか分からない思いの中で、日々、祈りに生きている者たちをあなたが覚えて下さいますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年6月19日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第147篇1節~3節、新約 ルカによる福音書 第17章11節~19節
説教題:「教会って、何をするところ?」
讃美歌:546、12、191、527、540

多くの人が、忙しい日々の暮らしの中で、孤独を抱え、いやしを求めています。一方で、多くの人が、イライラしていて、匿名で ものが言えるSNSには、人を傷つける言葉が溢れています。今、「一方で」と申しましたけれども、実は、表裏一体であるように感じることがあります。皆が傷つき、いやされたい、助けを求めたい、と思っている。でも、どうすればよいかわからずに自分の痛み、苦しさを、  そのまま ほかの誰かに向かって ぶつけているだけなのかもしれません。けれども、そんなことをしても かえって孤独は深まり、傷口は膿んでいくだけです。
聖書には、イエスさまによるたくさんのいやしの奇跡が記されています。今日は、その中から、ルカによる福音書に綴られた一つの エピソードを、ご一緒に読みたいと思いました。イエスさまと弟子 たちの一行は、旅の途中にありました。その様子を思い浮かべてみたいと思います。
荒野(こうや)の中の一本道を、一歩一歩、歩いて進んでゆきます。遠くに、小さな村が見えてきました。その村の前で、声を張り上げて、叫んでいる人たちがいます。「イエスさま、先生、どうか、わたし  たちを憐れんでください」。叫んでいるのは、「重い皮膚病」を患っている十人の人たちでした。以前の聖書の翻訳では、「らい病人」という訳が用いられていました。もしかしたら、皆さんのお手元の聖書も、この訳が用いられているかもしれません。けれども、かつて、「らい病」と呼ばれ、今日(こんにち)「ハンセン氏病」と呼ばれている   病気とは、どうやら違う病気であったらしい、ということで表記が変更になりました。とはいえ、この「重い皮膚病」も、ハンセン氏病が長い間そうであったように、法で定められて、厳しい差別の対象になっていました。
この病気にかかった人は、村人たちにまじって暮らすことは許されていませんでした。社会からも、家族からも見捨てられて、村はずれで、ひっそりと、病気の者どうし、肩を寄せ合うように共同生活をしていたと考えられます。そこに、イエスさまが通られるという噂が届いたのです。イエスさまは、すでに、たくさんの病気の人を治しているらしい、と評判になっていました。そこで十人は、一緒になって、イエスさまを「出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と」叫びました。ほんとうは、イエスさまに走り寄り、すがりつき  たかったかもしれません。でも、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げたのです。それは、これまで嫌と言うほど、自分たちが人に近づいてはいけない者であると、思い知らされてきたからに違い ありません。
14節に「イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て」とあります。イエスさまは、彼らの前で立ち止まってくださいました。そして、この人たちの、悲しみを、苦しみを、痛みを、孤独を、見てくださったのです。そして、言われました。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。当時のユダヤの社会では、この病気にかかった者は、神さまから呪われている、犯した罪によって汚れている、と考えられておりました。肉体の病が、信仰の問題としてとらえられていたのです。そのため、ユダヤ教の祭司から、「あなたは病気が治ったから、村で生活してもよろしい」と、お墨付きをもらえなければ、社会復帰できなかったのです。
十人は、イエスさまの お言葉を信じて、祭司たちのところに向かいました。そして、その途中で、病気が治っていることに気がついたのです。聖書には、「彼らは、そこへ行く途中で清くされた。」と書かれています。この「清くされた」という言葉は、器などの外側を綺麗にするときや、この重い皮膚病のように宗教的に「汚れている」と される病が治るときに用いられる言葉です。十人のただれていた 皮膚も すべすべに戻ったのでしょう。
そのときまで、十人は、一緒に行動していました。しかし、病気が治ったことに気づいたとき、十人の行動は分かれたのです。自分の 病気が治ったことを知ったとき、十人のうちの九人は、そのまま祭司たちのところに行きました。ところが、十人の中の一人は、「自分が いやされたのを知って」、嬉しさのあまり大声で神を賛美しながら イエスさまのところに戻って来たのです。そして、イエスさまの「足もとにひれ伏して感謝し」ました。ある意味、九人は当然の行動を とったと言えます。いくら自分で、「もう治りましたから」と実家へ帰ったところで、祭司のお墨付きがなければ、村八分は解いてもらえない決まりだからです。だからこそ、イエスさまも「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました。社会的に清いと認められることが、九人にとって大事な願いだったのです。けれども、 一人だけは、そんなことは もうどうでもよい、と思うくらいに  大喜びで戻って来たのです。この人に一体何がおこったのでしょう。この人だけが、特別に感激屋の性格だったのでしょうか?
14節には「彼らは、そこへ行く途中で清くされた」とありますが、それに対して、15節には、「その中の一人は、自分がいやされた  のを知って」とあります。十人全員が、自分の体が「清くされた」  ことに気づいたとき、その中の一人は、ほかの九人とは違った「真実」を見たのです。自分が「清くされた」だけでなく、「いやされた」   のを知ったのです。「清くする」と「いやす」は、日本語訳では僅かな表現の違いのように思われますが、実は、聖書の中では区別して 用いられている言葉です。「清くする」と訳された「カタリゾー」という言葉は、ユダヤ教の宗教的な法律に照らして「清い」ことを示す言葉です。それに対し、「いやす(イーアオマイ)」という言葉は、  病気が治ることにも使われますが、そこから転じて、病気以外のあらゆる害悪、特に、罪からの解放と、そこに働かれる神さまの力を意識して使われる言葉です。この人は、自分の体の変化だけでなく、そこに働いてくださった神さまの力を見たのです。神の み手が、誰もが「汚れている」と忌み嫌い、恐れる、自分の傷口に触れて治してくださったのを、心の目で見たのです。そして、そのとき、この人は自分の病気が清くされただけでなく、神さまの み手が自分を丸ごと包み込み、まことに癒されて、自分を縛りつけていた病気や差別、宗教的な偏見からも、解放されて自由になったことを知ったのです。誰からも見捨てられ、自分でも、神から呪われた者であると思い込んでいたのに、神さまは わたしを見てくださった、触れてくださった、救ってくださった!果てしない苦しみから自由にしてくださった!その思いは賛美の歌になりました。
イエスさまは言われました。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美する ために戻って来た者はいないのか。」この言葉は、単純に、賛美するために戻って来なかった九人を、「恩知らずな無礼者」と言われたのではありません。イエスさまは、九人のために悲しんでおられるの です。九人にも、確かに神の力は働いた。九人の傷口にも、神の   み手は確かに触れた。けれども、九人は神を見ることができなかったのです。九人も、病気が快復し、社会復帰が叶ったことを大いに喜び、治してくれたイエスさまに感謝したに違いありません。しかし、病気が治ったという事実しか見ることができず、そこに働かれた神の
み手を見ることができなかったのです。自分の願いが叶って喜ぶのは当たり前です。けれども、そこで終わってしまうなら、自分の願いのために神を利用するのと同じことです。自分の願いのために神の力を利用し、叶えばおしまい、という生き方を、神さまは悲しまれるのです。
イエスさまは、九人のために悲しまれました。同時に、戻って来た一人のために、喜んで言われました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」イエスさまは、この人が、自分を丸ごと包んでくださった神の み手を見ることができたことを、喜んでくださったのです。信仰とは、自分の願いだけでなく、自分という人間を丸ごと包み込むようにいやしてくださる神の み手を見る目です。イエスさまは、その人に言われました。「あなたは今、病気が治ったことを喜んでいるだけではない。信仰によって、神の恵みを 見て、喜びに溢れている。信仰によって、あなたは自由だ。本当に   よかったね。これからは その信仰が、あなたの生きる力だよ。さあ立って、あなたの人生を歩いていきなさい。」
ここに、わたしたちが毎週毎週 日曜日の朝になると飽きもせず、いそいそ、うきうきと教会に通って来る理由があります。神さまが わたしに、触れてくださった、いやしてくださった、そして、いつ  でも教会へ戻ってくれば、イエスさまが喜んでくださり、語りかけてくださる。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを  救った。」その言葉をいただき、わたしたちはまた、一週間の歩みを始めるのです。
病と差別に苦しんでいた十人の人たちは、苦しい日々の中で、神の愛、イエスさまの憐れみを求めて、大きな声で祈ることができました。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」。神さまが、わたしたちの祈りを無視なさることはありません。立ち  止まってくださり、わたしたちの悲しみや苦しみを見て、知ってくださいます。すべてが わたしたちの望み通りに叶うわけではないかもしれません。それでも、わたしたちを愛してくださる神さまは、  わたしたちの望み以上に、自分でも気づいていないような心の奥の傷まで見て、知ってくださり、触れて、いやし、わたしたちを丸ごと包み込んで休ませて下さいます。今日ここへ集っているわたしたちは今、すでに救いの戸口に立っています。そして、戸口に立っているわたしたちを、イエスさまは、「ほかの九人はどこにいるのか。」と 探し、求めてくださるのです。神さまは、わたしたちとの真実な関係を求めておられます。必要なときだけ利用するようなうわべの関係ではない、真実な交わりを求めておられるのです。「あなたはどこにいるのか?わたしのところへ戻って来ないか」と日々、わたしたちを呼んでおられるのです。わたしたちは、孤独ではありません。わたしたちの いのちの創り主であり、わたしたちを愛してくださる神さまは、いつでも、わたしたちが神さまに いやしを求めることを、また、喜び歌いながら戻って来ることを、待っていてくださるのです。

<祈祷>
天の父なる神さま、どのようなときも、あなたの愛といやしに感謝し、あなたの足もとにひれ伏す者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。一人の姉妹の転入会式を執り行うことが許され、感謝いたします。さらに二人の兄弟の転入会も許され、重ねて感謝いたします。主よ、隠退なさられた先生、転入会なさられた兄弟姉妹の歩みの上に、これまでと同じように祝福を注いでください。今日は、春の特別伝道礼拝としてささげております。教会に初めて来た者も、何十年と教会に通い続けている者も、あなたが差別されることはないことを信じることができますように。知識の浅い深いにかかわらず、最も相応しい形で、あなたが わたしたちを捉えてくださることを信じさせてください。ここにいる者だけのことではありません。家に置いてまいりました者、離れて生活しております者、あなたから顔を背けてしまっている者、わたしたちの祈りも愛も叶わないと思ってしまう現実にあります者、彼らを皆、等しく捉えてくださいますように。病床の友を励ましてください。人生の闘いに疲れ果てている者に、望みを失っている者に、「自分はもう駄目だ」と思っている者に、誰の励ましの言葉も通じなくなっている者に、あなたの励ましが聞こえますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン

2022年6月12日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 レビ記 第11章45節、新約 ペトロの手紙一 第1章13節~16節
説教題:「聖なる方の子として生きよう」
讃美歌:546、66、280、452、539
キリスト者として生活しようとするとき、思うようにいかない
ことがあります。銀行員時代、年末は大忙し。それでも、どうしてもクリスマスイブの讃美礼拝に出席したかったので、上司の了解を
得て、定時に帰りましたが、何とも心苦しかった。案の定、翌朝、
上司から嫌味を言われました。あるいはこんなこともあります。どうしても好きになれない人がいる。つい、悪口が口をついて出てきそうになる。でも、そこで ひと呼吸おいて、その人のため祝福を願う。こちらの方が難しいかもしれません。大なり小なり、皆さんにも経験のあることではないかと思います。些細なことかもしれませんが、
わたしたちの生活はいつでも、何をするにしても、あちらへ行くか、こちらへ行くかの選択の連続です。いつも、いちいち自覚して選択している訳ではないかもしれません。それでも、何らか理由があって、わたしたちは行動するのです。それでは、キリスト者の行動の理由は、何でしょうか?
今朝の み言葉は「だから」から始まります。「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」この、「だから」の前に記されていることこそ、その理由でありましょう。わたしたちが日々の生活の中で、あちらへ行くか、こちらへ行くかを選ぶときの理由です。
わたしたちはいつでも、「だから」の前に示された理由があるから、選び、行動するのです。心を引き締め、身を慎んで、栄光と権威を
もって再び現れるキリストを待ち望むのです。
 「だから」の前には、わたしたちがキリストによって歩む理由が、示されているのです。まず、わたしたちは、聖霊によって新しい
いのちに生まれさせていただいた者であり、わたしたちの国籍は
天にあるからです。また、わたしたちはキリストによって、死すら、恐れる必要のない者とされており、キリストが世を審くために再び来られるからと言って、恐れずにすむ者とされているからです。さらに、わたしたちの この信仰は、わたしたちには思いもよらないほど豊かな、神さまの愛によって守られているからです。
「だから」、わたしたちは、あちらへ行くか、こちらへ行くか、と一つ一つ選択しつつ、希望をもって生きるのです。そうやって進んでいく道は、ある意味、不自由だなあ、と感じるかもしれません。けれども、キリストが再び来て下さるときを、わたしたちは恐れではなく、希望をもって、待つ者なのです。わたしたちが神さまの み心に従って道を選び、進んでいく力は、日々新しく、聖霊によって与えられ、守られているのです。「だから」、わたしたちは、どれほど邪魔され ようとも、どんなときでも、顔を上げ、「心を引き締め」る。それが、わたしたちキリスト者の自由なのです。
口語訳聖書では「心の腰に帯を締め」と訳されています。中東の人たちの姿を思い浮かべてみるとよいでしょう。長い、一枚布のような着物です。長い衣の裾をたくし上げ、腰に帯を締めることで自由に動けるようになる。つまり、「心を引き締め」るとは、神さまの み心を行うために、身支度をすること。日本人であればハチマキを締め、
タスキをかけ、裾をからげて、と言ったところでしょうか。そのようにしっかり、心の準備をして、み心に集中するのです。そうでないと、わたしたちの行動は、うっかり、いっときの感情や多くのことに引きずられ、しようがなかったのだと開き直ることになってしまいます。
また、ペトロは続けて、「身を慎んで」と記しました。「身を慎んで」、と訳されている言葉は、もともとは「酒を飲まず、しらふでいること」という意味の言葉です。いつでも自分を制御し、しっかりつかまえている、ということです。自分を制御できなければ、神さまに仕えることはできません。「神さまが、わたしを動かして下さる」などとうそぶいて、ただ待っていればよいのではないのです。一所懸命に仕え ようと力を尽くす、思いを尽くす。その一所懸命な思いを、神さまは どこまでも用いて下さるのであり、どこまでも助けて下さる。神さまは、そのように、わたしに期待をかけていて下さる。その期待に応えて、「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」と、ペトロは励ましているのです。
新共同訳では「ひたすら待ち望みなさい。」と訳されていますが、口語訳では「いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。」と訳されています。いったい何をひたすら、いささかも疑わずに待ち望むのか?どこに希望を置くのでしょう?「イエス・キリストが現れるとき」に与えられる恵み、救いの完成を、待ち望むのです。わたしたちは疑い深い。ほんとうだろうか、という思いが、もやもやが、心の中にたちこめる。
「イエス・キリストが現れるとき」とあります。しかし、キリストは すでに現れて下さいました。クリスマスにおいて、十字架において、復活において。すでに現れて下さったキリストが約束して下さったから、わたしたちにとって、キリストが再び現れる日は、おそろしい審きの日ではなく、恵みの日となりました。救いの喜びが完全な ものとして与えられる日を待ち望むことができる。再臨の約束は、 すでに現れて下さったキリストによって、与えられている恵みなのです。主がすでにわたしたちに現れて下さったという真実こそが、 わたしたちに与えられている「心の腰の帯」と言えるかもしれません。
わたしたちは、「すでに」と「いまだ」の間(はざま)を生きて   います。わたしたちは「すでに」、キリストの十字架のゆえに、父なる神さまと和解させて頂き、神さまの子どもとされています。しかし、未だ世界は罪の中にあります。ですから、待ち望むのです。
ペトロは続けます。14節、「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」「無知であったころ」、わたしたちは何を知らなかったのでしょうか。神さまに無知であり、神さまが望んでおられることに無知でした。
自分の欲望を満たすことを第一として、生活していたのです。しかし今は、キリストの者としていただきました。洗礼によって、新しい
いのちを与えられ、神さまの従順な子とされた。罪の自分は死に、
全く新しく生まれたのです。神さまによって、新しく生まれたのに、神さまの み心を思わずに自分勝手な思いに引きずられて行動を してしまうのでは、十字架も復活も無意味になってしまいます。
確かに、自分勝手な思いは、抜いても抜いても生え続ける雑草の ように、自分の力で追い出そうとしても、追い出すことは困難です。自分の中身が空っぽだとすぐに入り込んでくる。それでも、わたしたちの中にキリストが住んで下さり、キリストで満たされていれば、 欲望の入る余地はありません。疑いの入る余地もないのです。
ペトロは、続けます。「『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは 聖なる者だからである』と書いてあるからです。」ただ やみくもに 自分で聖なる生活をつくるのではありません。神さまが聖なる方 だから、聖なる方で満たされているから、わたしたちも聖なる者と なることができるのです。
今朝の旧約聖書レビ記 第11章45節を改めて朗読いたします。「わたしは あなたたちの神になるために、エジプトの国から あなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。」大切なことが二つ、記されています。一つは、「わたしは、あなたたちの本当の神になりたいのだ」ということ。もう一つは、「わたしは、そのためにあなたがたを救った」ということです。旧約聖書のイスラエルの民がエジプトから救われた、ということは、わたしたちならば、主の十字架によって救われた、ということです。
わたしたちは、神さまの深い愛により、主イエスの十字架によって、救われました。新しい いのちをいただきました。キリストが、わたしたちの心いっぱいに住んで下さり、心の腰の帯となって下さった。この救いは、神さまが心から願い、実現して下さった救いなのだ、と言うのです。だから、わたしたちが聖なる者になることは、わたし たちが、ただ何か理想をかかげて、自分の力で進んでいこう、ということではないのです。
 わたしたちは、いつも思い通りにできないかもしれない。望む通りに、すべての面で聖なる者になれないかもしれない。けれども、そのようなことを問いつめられているのではないのです。心の腰の帯をしっかり締め直して、「わたしは聖なる方によって新しい いのちに生まれたのだから、聖なる者になれる」と毎日、しっかり、心の腰の帯を締め直し、み心を行う備えをするのです。神さまは、わたしたちがどんな時も「神さまは聖なる お方である」と信じる者となるために、わたしたちを救って下さり、日々、聖霊を注いで下さいます。  神さまは、わたしたちの「聖なる者になろう」とする努力において、挫折し、気落ちすることのないように、いつでも、何度でも、「わたしが、あなたの神となり、あなたを救った。」と熱く語って下さるのです。神さまは、いつでも、わたしたちに生きる力、望みを与えて
下さる。疑い深いわたしたちに、聖霊を注ぎ、神さまを信じさせて
下さる。だからわたしたちは、神さまが聖なる お方であるように
聖なる者となれる。それが、達成できるか、達成できないかは、問題ではない。一日一日、心の腰の帯がちゃんと締められているか、自分はどなたの者であるのかを自分に確認して、本気で聖なる者として生きるかどうか、が大切なのです。
ペトロは勧めます。「神さまは、あなたがたが気落ちせず、進んでいくことができるように、すべて整えて下さった。だから、あなたがたは聖なる者になれる」と。神さまは、「わたしは聖なる者だからである」と言われます。どんな時も、どこにいても、神さまは、わたしたちに、「わたしは聖なる者だからである」と愛を持って語り続けて下さいます。わたしたちは、聖なる方の子として、「わたしは聖なる者だからである」との み声を、聞き続けることができる。だから  こそ、わたしたちも再臨の望みを抱いて、聖なる者として歩むことができるのです。
<祈祷>
天の父なる神さま、わたしたちが、聖なる者として歩むことができるよう すべてを備えて下さり感謝いたします。どのようなときも心の腰の帯を締め、身を慎み、主の再臨を喜んで待ち望む者として下さい。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。今日も争いが世界の各地で続いています。無益な人殺しが続いています。主よ、嘆きの中にある者と共に嘆き、主の平和を共に祈る者として下さい。信仰の仲間の中にも病んでいる者がたくさんおります。年老いて、ここに来ることができなくなった者もいます。人びとに介抱されながら ようやく生きている者もいます。たとえ、明瞭な言葉で「主よ」と呼ぶことができなくなっても、あなたがそばにいて下さることを信じることができますように。果てしなく続くかと思われる家族の看病の労苦をあなたが支えて下さい。若くても、肉体が健やかでも、魂はたちまちに病んでしまいます。信仰を捨てることさえできる、と思ってしまいます。そうした弱き心を、あなたがもう一度ここに招き寄せて下さいますように。ここに来ることが できない者にも、み言葉に生きる思いを甦らせて下さいますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年6月5日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第52章7節~10節、新約 ペトロの手紙一 第1章10節~12節
説教題:「あなたへの福音」
讃美歌:546、68、177、Ⅱ-1、500、545B

わたしたちは、主イエスの十字架による罪の赦しと、復活による永遠の救いの中へと招かれている者の群れです。わたしたちも与っている、主イエス・キリストによる この救いの恵みは、2000年前に突然明らかにされたものではありません。旧約聖書の時代から、預言者たちによって探求され、注意深く調べ、伝えられてきました。ペトロは、そのことを改めて、手紙に記し、この恵みが昨日今日に始まったことではなく、長い間、ずっと待たれていた神さまのご計画であり、確かなものであることを思い起こさせ、迫害の試練の中にあって、ともすれば揺らいでしまいそうな人々を励ましたのです。「この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。」ペトロの手紙を受け取った教会の人々、また、わたしたちも与っている恵みは、旧約聖書の預言者たちが、喉から手が出るほどに憧れ、探し求め続け、調べに調べたものなのです。
11節に、「預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。」とあります。預言者たちは、今わたしたちが与っている救いについて、一所懸命に探究し、注意深く調べました。けれども、自分たちの勝手な考えや、経験に照らして探求したのではありません。彼らの内に おられるキリストの霊に導かれて、探求し、注意深く、調べたのです。キリストの霊によって、キリストを探したのです。預言者たちは、
ただ「魂の救い」を知りたい!と願い、調べました。けれども、実は、神さまご自身が、預言者のうちに働いて、熱心に求めさせたのです。
 「自分たちの内におられるキリストの霊」とあります。皆さんの中に、「おやっ?」と思われた方がおられるかもしれません。旧約の預言者たちならば、まだ、キリストがお生まれになる前なのに、なぜ、キリストの霊が預言者のうちに働いたのか?しかし、よく考えれば何の不思議もない み言葉です。わたしたちの教会が告白し、今朝も告白したニケア信条に、こうあります。「主はすべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。」キリストの霊によらなければ、わたしたちに、どうして神さまのことが分かるでしょうか。キリストによらなければ、わたしたちに、どうして神の愛が分かるでしょうか。同じように、旧約の預言者たちの内にも、キリストの霊がおられるのです。預言者たちは、キリストの霊に導かれて、キリストの十字架と復活が、いつ、どのようにして、起こるかを探求し、注意深く調べ、そして、神さまから啓示を受けました。神さまご自身が、わたしたちが受ける救いを、預言者たちに示されたのです。
 ペトロは続けます。12節、「彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。」神さまの救いのご計画の、何と深いことでしょう。神さまの救いの、何という広がりでしょう。
 今日は聖霊降臨、ペンテコステを記念する礼拝です。ペンテコステ礼拝では、使徒言行録 第2章1節以下の聖霊降臨の場面を読むことが多いですが、5月から読んでおりますペトロの手紙一のこの箇所を読んで、聖霊降臨日に相応しいと思い、そのまま続けて語ることにしました。11節には「キリストの霊」と書かれ、12節では、「天から遣わされた聖霊」と書かれていますが、ペトロ自身も、ペトロの内に働かれる聖霊に導かれて、繰り返し語るのです。「わたしたちが信仰を持たせていただくには、聖霊の導きによるほかないのだ」と。もちろん、教会へ、信仰へ導いてくれる人との出会いも大切です。それでも、そのような人との出会いも、決して偶然ではないのです。たとえ、わたしたちが自分で求めて教会へ通うようになったとしても、それは、わたしたちの内におられるキリストの霊が働かれたからこそなのです。そして聖霊の働きによって信仰が与えられ、神さまが備えて下さるそれぞれの時に、信仰告白、洗礼へと導かれるのです。
 昨日は、本当に嬉しい、聖霊の働きを感謝する出来事がありました。東村山教会の今の礼拝堂の建設中、礼拝をまもるためにお借りしたのは、明治学院中学校、東村山高等学校の礼拝堂でした。その明治学院中学校で現在 学んでいる中学3年生の多くは、コロナ禍のため、入学してから一度も教会の礼拝に出席することができていないようです。天から遣わされた聖霊は、「この状況を何とかしたい」という熱意を、先生方の中に、授けて下さいました。そして昨日、この礼拝堂で中学3年生の皆さんと共に、礼拝する機会が与えられたのです。不安定な時代を生きている若い人たち。熱心に耳を傾け、賛美する彼らを前に、語りながら、さらなる聖霊の働きを、ひたすら祈り求めました。
 ペトロは、12節の最後に驚くべき言葉を記しました。「天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。」キリストによる救いは、何と「天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。」不思議な言葉です。わたしたちがすでに受けている恵みは、天使たちも知らなかった。神さまのすぐ側にいる天使たちでさえ、キリストによる救いを知らなかった。そして、「見て確かめたいと願っている」というのです。ここで、「見て確かめたい」と訳された言葉は、普通に願っているというより、自分の情熱を傾けている、という強い意味の言葉です。つまり、神さまがキリストによって与えて下さった救いは、天使たちですら、グイと身を乗り出し、必死になって、何としてでもこれを見たい、知りたいと願っているほど、不思議な、驚くべき福音であるというのです。天使たちがこぞって、我先にと覗き見ようとしている、そんな様子を想像すると、ワクワクしてきます。わたしたちに与えられている神さまの恵みは、そのような驚くべき、秘密の宝物のような恵みなのです。
 この恵みを受ける喜びについて、預言者イザヤは、聖霊に導かれてこのように記しました。イザヤ書 第52章7節。「いかに美しいことか/山々を行(ゆ)き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。」旧約の預言者であれ、のちの世の伝道者であれ、「あなたにも救いが来た」と告げてくれる人は、何と美しいことか、というのです。それは、その人たちが美しいのではありません。神さまのご計画の成就を待っていた者からみれば、そのように告げられることが、何と美しい、喜ばしいことか、とイザヤは語るのです。さらに、イザヤは喜びの情景を記しました。8節、「その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。彼らは目(ま)の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを。」
 「主がシオンに帰られる」とは、ほんとうに神が神になって下さる、皆が ほんとうに神を神として受け入れるということです。ほんとうに救いを受け入れて、皆が共に、声をあげて喜び歌うような生活が、わたしたちに用意されているのです。神さまは、深く、十分なご計画をもって、あらゆる人に聖霊を授け、天使たちでさえ望んでも得られなかった救いを、わたしたちにお与えになるのです。10節に、「主は聖なる御腕の力を/国々の民の目に あらわにされた。地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ。」とあります。すべての人です。どんな疑い深い人間にも、どんな悲しみのうちにある者にも、あらゆる民の前に、主は、その聖なる御腕を示し、その腕がどんなに大きな力を持っているかということをあらわして下さるのです。そのことを心から喜ぼうではないか、と預言者イザヤは、自分の内におられるキリストの霊に導かれて、語ったのです。
わたしたちの内にもキリストの霊がおられます。わたしたちは日々、聖霊に導かれ、福音の喜びを新たにしていただいて、一日一日を生きることができます。わたしたちはこれまでも、今日も、そしてこれからも、キリストの十字架と復活によって救われた者として、主と共に歩むことができるのです。もしも、わたしたちが日々の生活に疲れ、この恵みがどのような恵みかを見失ってしまいそうなときには、今朝の み言葉に何度でも立ち帰りましょう。希望を失いそうなとき、愛することができないとあきらめそうになるときには、聖霊の働き、キリストの霊の働きを、ひたすら祈り願いましょう。わたしたちは皆、この恵みを受けるために、神さまに選んでいただいた者なのですから。

<祈祷>
天の父なる御神、聖霊の働きを通して、わたしたちに主イエス・キリストによる救いの恵み、福音の喜びを告げ知らせて下さり、深く感謝いたします。これからも、聖霊の働き、キリストの霊の働きを、ひたすら祈り願う者として下さい。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。主よ、聖霊降臨の喜びと聖餐の祝いをお与え下さり、感謝いたします。しかし、世界には争いがあり、貧困があり、迫害があり、嘆きがあります。主よ、救いの恵みを受けた者として、聖霊の働きを信じ、諦めることなく、主の平和を祈り続けることができますように。望みを失っている者に、主にある希望を お与え下さい。昨日は明治学院中学校3年生の皆さんを聖霊によって教会へと招いて下さり、感謝いたします。嬉しいことに、早速、今朝の教会学校に二人の生徒さんが出席してくれましたから感謝いたします。どうか、これからの時代を生きていく若者たちに聖霊を注いで下さい。いつの日か、一人でも多くの者が、あなたの招きと聖霊の注ぎを信じ、信仰を告白し、洗礼へと導かれ、主の食卓に与ることができますよう導いて下さい。今朝も様々な理由で礼拝に出席することの叶わない仲間がおります。その場にあって、聖霊を注いで下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年5月29日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第17章5節~8節、新約 ペトロの手紙一 第1章8節~9節
説教題:「救いの喜び」
讃美歌:546、2、168、266、545A
ペトロは、いろいろな試練に悩まされ、くじけそうになっている人々に、手紙を記しました。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない すばらしい喜びに満ちあふれています。」
「言葉では言い尽くせない すばらしい喜び」です。どんなに言葉を重ねても言い尽くせない喜び。平安に満たされている喜び、慰めに満たされている喜び、力が湧いてくる喜びです。言葉でどんなに表現しても、キリスト者の喜びの一面に過ぎません。言葉では言い尽くせない すばらしい喜びが、こんこんと湧き上がる泉のように、尽きることがない。決して失望させられる恐れのない、堅固な、確かな喜びです。終わりの時、再臨の時に現れてくださるキリストを信じ、待ち望み、愛し続けるあなたたちは、そのような喜びで満ちあふれている、とペトロは言うのです。
わたしたちは、命を失うような迫害の中にはありません。それでも、体が思うように動かなかったり、痛みに悩まされたり、眠れない夜があったりします。当時、筆舌に尽くしがたい迫害を受けていた、この手紙を受け取った教会の人たちであれば尚更、24時間、365日、 いつでも どんなときでも 笑顔を たやさずにいたわけではないでしょう。だからこそ、ペトロは、手紙を受け取った人々を、そして、わたしたちを、わたしたちの喜びが確かであることの、その理由に 立ち帰らせ、励ましてくれているのではないでしょうか。「あなた がたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じて おり、言葉では言い尽くせない すばらしい喜びに満ちあふれて  います。それは、あなたがたが 信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」
ペトロは、はっきり断言するのです。「あなたがたの魂は救われている。魂の救いは信仰の実りなのだから」と。
改革者カルヴァンは、信仰について丁寧に記しています。「信仰は、冷静に物事を識(し)る のではなくて、キリストの愛のうちにいて、われわれが心を燃やすごときものである。信仰とは、キリストという御名そのものを握ることでもなければ、キリストの本質そのものを つかむことでもない。いなむしろ、キリストは われわれの方へ  向かっていらっしゃる、キリストご自身がわれわれに与え給う恵みによって そこにおいでになる、と考えることなのである。」
主イエス・キリストは、わたしたちが主イエスを知らず、神さまの愛を見失い、神さまに背を向けていたときに、十字架の死によって わたしたちの罪を赦し、復活によって死に勝利してくださいました。神さまに背を向けるわたしたちの救いを成し遂げるために、神さまは独り子を世に お遣わしくださいました。み子も、父なる神さまの み心を成し遂げるために、十字架で死んでくださいました。それほどまでに、父なる神さま、主イエス・キリストは、わたしたちを愛し、救ってくださったのです。主イエスは、いつでも、わたしたちの方へ、わたしたちを救うために、向かっていらっしゃるのです。わたしたちの主イエスへの愛がゆらぐようなときでも、向かっていらっしゃり、わたしたちから離れずにいてくださるのです。そのことを信じさせてくださるのもまた、聖霊なる神さまです。わたしたちの信仰は、 そのように与えられ、守られています。わたしたちの魂の救いは、 それほどまでに確かな、堅固なものなのです。主イエスご自身が、 今朝も、わたしたちと共にいてくださる。この信仰はわたしたちを あらゆるものから解き放ちます。自由にします。わたしたちは、ほかの誰のものでもありません。誰の支配も受けません。他人(ひと)の目を気にする必要もありません。この世にあって、まことに自由で あることができます。わたしたちを苦しめようと迫ってくるものがあったとしても、それが何ほどのものでしょうか。わたしたちには、主イエスがついているではありませんか。しかも、カルヴァンも記したように、信仰とは、努力して、身につけるものではありません。  わたしたちがよそ見をしていても、どこかへ逃げようとしても、恵みを与えようと どこまでもこちらへ向かってこられ、わたしたちに ぴたりとついてくださっている主イエス・キリストを、受け入れる ことです。しかも、わたしたちに それを可能にしてくださるのは、聖霊なる神さまなのです。これほど確かで、身に余る喜びがあるで しょうか。わたしたちを永遠に満たし、わたしたちから溢れ出し、 こぼれおちるほどの喜びです。
わたしたちの誰一人、主イエス・キリストを肉の目で見た人はおりません。でも、ここに座っている一人一人、また様々な理由で教会に集うことができず、それぞれの場で祈っている一人一人も、主イエスを愛し、主イエスの救いを信じる信仰を与えられています。言葉には言い尽くせない すばらしい喜び。何と幸いな恵みでしょう。わたしたちは、今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかも しれません。それでも、試練に悩むときも、神さまの救いの中で悩み、神さまから頂いている すばらしい喜びの中で苦難と闘えるのです。しかも、わたしたちの闘いには、勝利が約束されている。わたしたちから離れずにいてくださる主イエスは、死に勝利された方なのです。わたしたちが世を去るときも、わたしたちは 神さまの み手の中にあるのです。そのように、主のおそば近くで生きる幸いを預言者エレミヤはこのように記しました。今朝の旧約聖書、エレミヤ書 第17章の み言葉です。「祝福されよ、主に信頼する人は。主が その人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り/暑さが襲うのを見ることなく/その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく/実を結ぶことをやめない。(17:7~8)」
何と慰めに満ちた み言葉でしょう。主イエス・キリストを見た ことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない すばらしい喜びに満ちあふれているわたしたちは、水のほとりに植えられた木です。水のほとりに自分の力で生(は)えたのでは ありません。みことばの水が流れる水路のほとりに、主なる神さまによって植えていただいた木です。そして、そこに根をはったわたし たちは、豊かな み言葉の水を吸い上げて育ち、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々と茂り、干ばつの年にも憂いがなく、実を 結ぶことをやめないのです。信仰の実りとして魂の救いを受けた わたしたちへの、神さまからの大いなる救いの宣言です。わたしたちは、主イエス・キリストによって救われました。どんなときも、主が共にいてくださいます。わたしたちの自由は、主イエス・キリストによって守られています。だからわたしたちは、どんなときでも、主 イエス・キリストのゆえに喜ぶことができます。信じることができ ます。愛することができます。そして安心して、いや、むしろ心躍らせて、わくわくして、主イエス・キリストの再臨を待ち望むことが できるのです。できることなら、今ここで一緒に立ち上がって、共に声に出して、宣言したいほどです。「わたしたちは、キリストを見たことがないのに愛し、今 見なくても信じており、言葉では言い尽くせない すばらしい喜びに満ちあふれています。それは、わたしたちが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」この幸いを心に刻んで、まだ この喜びを知らない方々にも福音が届きますようにと祈りつつ この週も一歩一歩 前進してまいりましょう。

<祈祷>
天の父なる御神、み子を肉の目で見たことがないのに、わたしたちに み子への愛を与え、今 見なくても信じる信仰を与え、言葉では言い尽くせない すばらしい喜びに満たしてくださり心より感謝いたします。主よ、これからも み子を愛し、み子の再臨を信じる信仰を日々、お与えください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。ウクライナでの戦争が始まり、3ヶ月が経過しております。日々、たくさんの犠牲者が報じられているにもかかわらず、戦争終結の兆しが見えません。だからこそ、日々、主の平和を祈るものとしてください。深い悲しみの中にある方々に、主の慰めを注ぎ続けてください。主よ、アメリカの小学校で悲惨な事件が起きてしまいました。児童19人と大人2人が犠牲になっております。主よ、深い悲しみの中にある方々の上に、慰めを注いでください。戦争においても、学校においても、あなたの眼差しを忘れ、己の正義をふりかざす罪があります。主よ、どうか、わたしたちがどのようなときもあなたの眼差しを忘れることのないように導いてください。主よ、礼拝を休んでいる兄弟姉妹がおります。入院している者、痛みを抱えている者、施設で生活している者、家族の介護に励んでいる者、働いている者の上に、あなたの祝福を豊かに注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年5月22日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ゼカリヤ書 第13章7節~9節、新約 ペトロの手紙一 第1章6節~7節
説教題:「信仰の試練」
讃美歌:546、54、296、358、544

 先週は、年間主題にもとづく礼拝をささげ、礼拝後は、コイノニア・ミーティングを行いました。分団に分かれ、輪になり、近況を報告し、み言葉の恵みを喜び、分かち合いました。
キリスト者の喜びが、どのような喜びであるかを、ペトロは6節に記しました。「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。」「心から喜んでいる」と訳された言葉には、「喜び叫ぶ」という意味があります。歓喜の叫びをあげるほどの喜び。踊り上がるような喜びです。わたしたちは、キリストのもの!神さまに選んでいただいて、終わりの日の希望の中にいて、恵みと平和は日々、わたしたちに豊かに注がれている。この喜びは、叫び出しそうな、飛び出しそうな、素晴らしい喜び。わたしたちが招かれているのは、そのような喜びなのだ、とまずペトロは記したあとで、迫害に遭い、命の危険にさらされていた教会の人々を励ますように記しました。「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金より はるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」
どのような試練も、永遠に続く神さまの時から見れば、ほんの暫くの間のことにすぎません。永遠の希望を見つめるとき、地上の歩みは ほんの一瞬です。しかし、だからと言って、今おきていることを真剣にとらえなくてよいわけではありません。ペトロは、「いろいろな試練に悩まねばならない」と書きました。いろいろの困難な出来事を おろそかにするのではないのです。それらの出来事を、「試練」として受け取り、そして「悩む」のです。「困難が次々に押し寄せてくる」と言って、受身の姿勢でただ嘆くのでも、どうせ いっときのことと諦めるのでもないのです。いろいろな困難を、信仰を鍛える「試練」として、積極的に受け取り、だからこそ、今をどのように生きるのか、真剣に悩むのです。「悩まねばならない」のです。困難を、いやいや受け取っていれば、それは、自分にとって害になるだけです。しかし、神さまの力に守られて信仰生活をしているのですから、どのような困難も、信仰をさらにかたくするために、神さまがお与えになったものであり、神さまの恵みを知る またとない良い機会なのです。ペトロは、「試練も神さまからいただいた恵み。試練の中で、あなたがたの信仰は研ぎ澄まされ、磨き上げられ、金よりも はるかに尊い、素晴らしい値打ちを持つに至るのだ」と励ますのです。
ハイデルベルク信仰問答 問65には、このような問いがあります。「そのように、信仰だけが、われわれを、キリストとその恵みにあずからせるのであれば、そのような信仰は、どこから、来るのですか。」問いに対する答え。「それは、聖霊が、聖(きよ)き福音の説教によって、われわれの心の中にそれをおこし、聖礼典を用いることによって、それを、堅(かた)くしてくれるのであります。」
信仰は、神さまからのおくりもの。信仰は、わたしたちが努力して獲得するものではありません。聖霊なる神さまからの賜物なのです。主イエスの血潮による贖い。死からの復活。聖霊が働いて下さるのでなければ、どうして信じることができるでしょうか?神さまからのおくりものである わたしたちの信仰は、絶えず試練にさらされて、そのたびに悩み、神さまに助けを求め、また力をいただいて強められていくのです。
ペトロは、「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され」ると記します。信仰によって、悩みなどはなくなる、と考えられやすいものですが、そんなことはありません。悩みは、むしろ信仰によって増すかもしれません。主イエスを信じているのでなければ、適当に世の中と折り合いをつけて生きていけば良いからです。困難な出来事を運命と呪い、誰かを憎んで生きれば良いからです。試練を受けて悩み、真剣に主イエスに従って生きよう!とすることで、わたしたちの信仰は鍛えられるのです。鋼(はがね)は、火で熱して、トンテン トンテンたたけばたたくほど強くなります。そのように、信仰も鍛錬されるのです。鍛えられるのです。鍛えられて、純粋さを増すのです。聖霊の働きによって与えられた信仰が、聖霊の働きによって、いっそう純粋になるのです。純粋とは、不純物が入っていない状態、まじり気のない信仰です。真に神さまに対する正しい態度を持った信仰です。どんな困難があっても、祈ることができる信仰です。いつでも、何事もない時にでも、祈ることができる信仰です。人から嫌なことを言われても、されても、その人を赦し、その人のために尽くすことのできる信仰です。多くの誘惑の中にあっても、神さまに従うことを何よりの喜びとする信仰です。
試練のとき、皆さんにもそれぞれに救われた み言葉があると思います。わたしの人生にとって最大の試練のとき、わたしを救ってくれた み言葉は、ヘブライ人への手紙の一節でした。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。(12:5~6)」本当にその時は、鞭で打たれるような日々でした。これ以上、耐えられない!と、生きる気力も萎えていました。神さまから見捨てられたと本気で思いました。そんなとき、この み言葉が聖書から立ち上がるようにして迫って来たのです。神さまが語りかけて下さったと感じました。「あなたはわたしの子ども。わが子よ、わたしの鍛錬を軽んじてはいけない。わたしから懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、わたしは愛するあなたを鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打つのだ。」そのとき、ただただ涙が溢れました。そして、傲慢な心が打ち砕かれ、「よし、わたしのすべてを神さまに委ね、神さまが、わたしに望んでおられる道を歩ませて頂こう」と決心することができたのです。あの日、この み言葉に出会うことがなければ、こうして、ペトロの手紙一の み言葉を皆さんに説くことはなかったでしょう。
ペトロが手紙を書き送った教会が受けた試練、わたしたちが経験している試練、その大きさを比較することは無意味です。与えられる試練は、めいめいの信仰に必要な試練であるからです。
ペトロにとって最大の試練は、主イエスを、三度も知らないと否認した出来事であったと思います。このときペトロの信仰は、試練に負け、死んでしまったかのように見えます。しかし神さまは、主イエスの十字架と復活によって、ペトロの信仰を再生し、伝道者として立ち上がらせ、生涯、主の栄光を喜んで現す者として用いられました。ペトロの信仰は、神さまによって、「ただ神さまの栄光のために!」という純粋な信仰に鍛え上げられたのです。
ところで、「イエス・キリストが現れるときには」とありますが、
「現れ」という言葉は、ギリシア語の「アポカリュ プシス」という言葉です。これは、「遠くにいた者が やって来る」という意味ではありません。むしろ、ずっと共にいたけれども、隠されていたその存在が明らかにされるという意味です。実は、この「アポカリュ プシス」という言葉は、ヨハネの黙示録のタイトルでもあります。そこには、苦難の後に、キリストが再び来られ、新しい天と地が現れ、罪と死から完全に解放された世界が現れることが語られています。そのときにこそ、完全な意味で、わたしたちは「称賛と光栄と誉れ」を神さまに帰して礼拝をささげ、同時に、神さまから「称賛と光栄と誉れ」を受けることになるのです。その日のために、わたしたちは、すべて神さまから頂いたもので生かされています。信仰も、試練も、喜びも。
すべての与え主であられる神さまが、わたしたちに与えて下さった最大の おくりものこそ、主イエス・キリストです。主イエスの お姿は、今、わたしたちの目には見えません。けれども、今日もわたしたちのために祈り、わたしたちを支えていて下さいます。そして、いつの日か、本当にわたしたちの前に現れて下さるのです。その喜びの日を信じ、それぞれに与えられる試練に悩みながら、よりよく生きる道を主に求め続けましょう。主の鍛錬は、わたしたちの信仰を純度の高いものに鍛えます。そして、主の み業の完成のために、用いて下さるのです。

<祈祷>
天の父なる神さま、試練に悩むときこそ、み子の再臨を信じ、心から喜ぶ信仰を お与え下さい。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。世界のいたるところで争いがあり、憎しみがあり、迫害があります。今このときも、いろいろな試練に悩み、望みを失っているものがおります。主よ、それらの方々に聖霊を注ぎ、主にある希望をお与え下さい。今朝も礼拝をおぼえつつ、それぞれの場で祈りをささげているものがおります。心身に痛みを抱えているもの、いろいろな試練に悩んでいるものを憐れみ、み子の再臨のときにもたらされる称賛と光栄と誉れとを信じ、望みをもって生きるものとして下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年5月15日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 出エジプト記 第19章1節~6節、新約 ペトロの手紙一 第2章9節 
説教題:「キリストの民として歩む」
讃美歌:546、4、161、294、543

 2022年度が始まり、1ヶ月が経ちました。今年度の年間主題は、「キリストの民として歩む」と、掲げました。本日の箇所、ペトロの手紙一 第2章9節を胸に、共にキリストの民として歩んでいきたい、と考え選びました。そこで、今朝は第2章9節の み言葉を共に聴き、礼拝後は、2019年5月12日以来、3年振りとなるコイノニア・ミーティングを行い、年間主題「キリストの民として歩む」を分かち合いたいと思います。
ペトロは、迫害を受け、試練の中にある教会の人々に、「胸を張れ、誇りを忘れるな!」とキリスト者のアイデンティティを高らかに宣言します。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」「我々が、ほかの何者でもなく、まさに我々自身である」と、胸を張る根拠です。キリストの民の、誇りの源です。普通、民族の誇りというと、生まれ育った土地であったり、血筋であったり、歴史であったりします。そこから力を得て、胸を張る。自分たちはほかとは違うのだ、と誇りを持ちます。けれどもペトロは言うのです。キリスト者の誇り、力の源、「わたしたちが、わたしたちである」という根拠は、わたしたちの中には存在しない。ただ、ただ、神さまが選びとってくださったことによるのだ、と。
今朝、あわせて朗読していただいた出エジプト記 第19章5節から6節を改めて朗読いたします。「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
 これは、神さまが、イスラエルの民に語りなさい、とモーセに託された言葉です。「あなたがたが、わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば」とあります。「神さまの契約を守りさえすれば」というのは、神さまの恵みのお約束を信じていれば、ということです。あれをしたら、これをしたら、ということではないのです。ほかの神々や、おまじないや、目に見えるものに頼らず、「あなたはわたしの宝ものだ」と言ってくださる神さまの言葉に信頼してさえいれば、神さまは神の民の誇りを与えてくださるのです。ところが、イスラエルの民は、神さまの契約、恵みの約束を信じきることができませんでした。それでも神さまは、諦めませんでした。神さまの声に耳を塞ぎ、自分たちの論理で、自分たちの行いを正当化する民の身代わりとして、神さまの独り子、主イエスを十字架に架けられたのです。そこまでして、「あなたたちはわたしの民。わたしの宝もの」と救いの中、恵みの中へ招いてくださったのです。
わたしたちは、主イエスへの信仰を告白し、受洗したことにより、主イエスのものとなりました。神さまの聖なる民、神さまの宝ものとしていただきました。わたしたちの中には、何ひとつ誇るべきものはなく、胸を張る根拠もない。それでも、わたしたちは、神さまが選びとってくださった神の民なのです。神さまが「わたしの宝もの」と呼んで下さる民なのです。神さまのものとしていただいたわたしたちには、任務が与えられています。まことの王、主イエスに仕える祭司としての役目です。祭司とは、神さまと人の間に立ち、執り成しをする者です。具体的には、神さまの愛、赦し、憐れみから離れてしまった世界、隣人のために、神さまの愛、赦し、憐れみを祈り続ける。真の「王の系統を引く祭司」ですから、何ものにも支配されません。わたしたちは、神さまの深い愛により遣わされた主イエスによって、神の民としていただきました。だから誇りをもって、胸を張って、真の王、主イエスが、「このように生きよ」と言われたように、生きるのです。わたしたちには、その力が与えられているのです。
ペトロは、9節後半に記しました。「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」わたしたちは、どのように生きればよいかわからず、不安の中にいました。頼りない存在でした。胸を張れず、誇りを持てずに、力なくさまよっていました。どっちに進めばよいかわからず暗闇の中を もがくように生きておりました。しかし今は、 主イエスが その闇の中まで わたしたちを探しに来て下さり、わたしたちの名を呼んで、助け出してくださり、まぶしく あたたかな天の光の中に連れ出してくださいました。だから、わたしたちは、信仰が弱くなり、神さまのものとしていただいた恵みを忘れてしまうときでも、どんなに情けない自分かを思い知るようなときでも、そのような わたしたちでさえ見捨てずに「ご自分の宝としよう!」と言ってくださった、そのお約束を信じ、そのお約束に力をいただいて、顔を上げることができる。「神のもの」、神の「聖なる国民」として、歩むことができる。何ものでもないわたしたちを、神さまが、神さまの力ある業を広く伝えよ、と、求めてくださるからです。わたしたちはそのために、主イエスによって暗闇の中から助け出されて、光の中へと招き入れられたのです。
 皆さんの中には、様々な重荷を抱え、疲れ果てている方がおられるかもしれません。けれども神さまは、ペトロを通して、わたしたちに力強く宣言してくださるのです。「あなたがたは皆、聖なる国民、神のものとなった民である。それが、わたしがあなたがたに与えたアイデンティティ。あなたがたが わたしの民として歩む力の源なのだ。」その根拠こそ、主イエスが十字架で流してくださった血潮です。主の血潮によって、わたしたちは、罪を赦していただき、洗礼によって、キリストと結ばれて、神のもの、キリストのものとしていただいたのです。
今年度の年間主題「キリストの民として歩む」は、何か特別な働きをしよう!というのではありません。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」とのみ言葉に、毎日、朝に、昼に、夕に、立ち帰ることです。嬉しいときも、悲しみの中にあるときも、ピンチのときも、心折れそうなときも、「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」との み言葉に力をいただくことなのです。
み言葉は、隣人を自分のように愛そう、敵をも愛そうとして失敗し、下を向くわたしたちの顔を、何度でも上げさせ、誇りを思い起こさせ、力づけてくれるのです。このあと、コイノニア・ミーティングを行います。キリストの民として歩む恵みを大いに語り合いましょう。それぞれが抱えている課題も語り合いましょう。何よりも、ペトロが励ましている各地の教会は迫害に苦しんでいたのですから。み言葉に力をいただいて、キリストの民である誇りに日々立ち帰らせていただいて、共に愛し合い、赦し合い、祈り合いたい。「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった」神さまの力ある み業を証ししていきたい。何度くじけても、倒れても、そのようにして顔を上げ続ける。わたしたちの生活が、決して空しいものではないことを信じ、神さまが わたしたちに行ってくださった大いなる救いの業を証ししていきたい。神さまは、弱いわたしたちを選び、聖なる者としてくださいました。わたしたちを光の中へと招き入れてくださいました。この主イエスの十字架の贖いの恵みは、わたしたちだけの恵みではなく、すべての人への恵みであり、わたしたちは その恵みを広く伝えるために、神の民、キリストの民としていただいたのです。

<祈祷>
天の父なる神さま、わたしたちを選び、王の系統を引く祭司、聖なる国民、あなたのものとしてくださり感謝いたします。その恵みを心に刻み、喜んで宣べ伝えるものとしてください。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。主よ、世界に平和をもたらしてください。激しい争いの中、愛する人を奪われたもの、住むところを追われたもの、生活に困窮しているものを憐れみ、主にある望みを お与えください。今日は沖縄県が日本に復帰し、50年の節目の日となりました。今も様々な課題を抱えている沖縄の方々の痛み、苦しみをあなたが癒し、慰めてください。神さまの愛、み子の赦し、聖霊の働きを語り続けている沖縄の諸教会を強め、励ましてください。今朝も様々な理由で礼拝を休んでいるものがおります。体調を崩しているもの、痛みを抱えているもの、療養しているもの、働いているもの、感染症のリスクを気にしているものがおります。主よ、それらの方々に、日々、「あなたはわたしが選んだ民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、わたしのものとなった民である」と語り続けてください。いつの日か、教会で一緒に礼拝をささげることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年5月8日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第84篇2節~13節、新約 ペトロの手紙一 第1章3節~5節
説教題:「命の主に感謝を歌おう」
讃美歌:546、9、179、502、542、427

 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。」先週からペトロの手紙一を読み始めました。ペトロが挨拶を済ませて、いよいよ手紙の本文を始めるにあたって、まず記したのは、父なる神さまへの賛美でした。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。」それは、わたしたちが礼拝から一週間を始めることに通じています。救われた喜びを歌わずにはおれないのです。
わたしたちは、洗礼によって主イエスに結ばれ、一度死んで新しく生まれさせていただいた者の集まりです。先週も少し触れましたが、頌栄女子学院の生徒への自己紹介のとき、わたしは黒板に二つの生年月日を記しました。一つは、1967年11月29日。もう一つは、1985年10月6日。そして生徒たちに、このように紹介しました。「わたしには、二つの誕生日があります。一つは母のお腹から産まれた日。一つは、洗礼を授けられた日。高校3年生の秋、罪のわたしは死んだ。そして、新しい命を神さまからいただきました。『田村先生、本気で信じているのですか?』と不思議に思うかもしれないけど、本当に信じています。ただただ神さまの憐れみによって、罪を赦され、新たに生まれたのです。」
 事実、キリスト者は、その人の能力や功績などとは全く係わりなく、ただ、神さまの豊かな憐れみのご計画によって選ばれて、主イエスに結び合わされ、主イエスの十字架の死と共に死に、主イエスの甦りと共に全く新しい命をいただいたのです。この驚くべき恵みは、神さまからの一方的な「豊かな憐れみ」によるものです。3節の「豊かな憐れみ」とは、「沢山の憐れみ」という意味の言葉です。神さまが、沢山沢山愛して下さっている!その愛がどのように現れたか?
過ちを繰り返す わたしたちの心や体を殺して造り変えるのではありませんでした。神さまは、神さまの御子であられる主イエスを殺して、復活させて、それを信じる者は皆、「自分は死んで、新しく生まれたのだ!」と確信することができるようにして下さったのです!主イエスの十字架と復活は、ただ一度の出来事です。しかし、わたしたちは日々の生活の中で、この ただ一度の恵みを思うたびに、どれほど沢山の憐れみを受けているかがわかるのではないでしょうか。日々の暮らしは、思ったように出来ないこと、間違えることの繰り返しかもしれません。それでも、そのようなわたしのために、主イエスは血を流して下さった!そして復活して下さった!沢山の憐れみが、まるで追いかけるようにして、ついてくるのです。けれども、そんなにしょっちゅう間違っているのでは ちっとも生まれ変わったことにならないのではないか、と思われるかもしれません。では、新しく生まれたわたしたちは、どのように変わったのでしょう。
ペトロは続けます。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」驚くべきメッセージです。何と、どんなに自分がダメでも、希望が与えられている。どんなにダメな自分でも、絶望しなくてよいのです。そのうえ、神さまは、すでに、わたしたちのために天に財産を蓄えておられる。それも、朽ちない財産。汚れない財産。しぼまない財産を。それを、わたしたちは受け継ぐことができるのです。では、天に蓄えられている財産とは どのような財産でしょう?
旧約聖書において、イスラエルの民が受け継ぐ財産として約束されていたのは、乳と蜜の流れる国、カナンの土地でした。しかし、わたしたちに約束されたのは、土地のように誰かに奪われる心配はない。朽ちたり、汚れたり、しぼんだりもしない。本当に変わることのないもの。
神さま以外に、そのような存在があるでしょうか。神さまを受け継ぐ、と言うのがおかしければ、「神の国」と言えば良いでしょうか。主イエスは言われました。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆 従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民が その前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時から お前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』(マタイによる福音書25:31~34)」神の国は、「主イエスが再び世にいらして下さる再臨のときに完成する」と約束されているものですが、わたしたちが仮住まいしているこの世においては、「神さまが、いつもわたしと共にいて下さる」という確信が与えられている喜びの生活です。主は言われました。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。(マタイによる福音書24:35)」。決して滅びない、主イエスの救いの約束によって生かされている。このことを喜び、神さまがいつも共にいて下さることを感謝する、礼拝から礼拝へと続く生活、と言ってもよいと思います。
ペトロは続けます。5節。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」「終わりの時に現されるように準備されている救い」とは、主イエスによって、すでに与えられている救いです。ただ、今は、まだ、よく分からないところもある。しかし、終わりの時、御子の再臨の時には、はっきりと現される。だから、わたしたちキリスト者は、希望をもって、主イエスの再臨の時を待ちこがれるのです。ヨハネの手紙一第3章2節には、こう書かれています。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」わたしたちが御子をありのままに見て、御子に似た者となる日まで、わたしたちは、神さまの力により、信仰によって守られているのです。何と慰めと励ましに満ちた約束でしょうか。己の罪、弱さを痛いほど知っているペトロだからこそ、確信を持って記すのです。「あなたがたは、神の力により、守られている。」
ペトロから手紙を受け取った教会の人びとは、厳しい迫害を受け、困難の中にあったと言われています。「守られています」と訳された表現は、「道を先回りして見張る」という軍事的な意味に由来した言葉です。神さまがすでに「終わり」の地点から信仰者たちを見守っておられることを示しているのです。たとえ今、厳しい試練に襲われていても、たとえ今、先の見えない不安の中にあっても、神さまの軍隊が わたしたちの歩む道を、先回りして、見守っておられる。神さまの軍隊にかなうものがあるでしょうか。それほどの手厚い「守り」の中で わたしたちは今日を生かされている。だから、神さまを信じて、安心してよいのだ!とペトロは励ましているのです。
わたしたちは、自分の力の弱さを嘆かなくてよいのです。わたしたちは、このような、計り知れないほど大きな神さまの愛、憐れみ、赦し、甦りの約束に身を委ね、与えられた恵みを感謝していただいてよいのです。天の神さま銀行の頑丈な金庫に蓄えられている財産目録には、わたしたちの名前が刻まれ、終わりの日まで、神さまによって、厳重に管理されるのです。たとえ、外からの攻撃や、不安に負けそうになるときも、神さまは、わたしたちが崩れることがないように、先回りして、見守って下さるのです。
改革者カルヴァンは言いました。「キリストの復活は、無数の人間たちが、新しく生まれる力となりました。イエス・キリストの教会は、ひとつの復活によって生きているだけでなく、多くの復活によって生きているのである」。建物としての教会は、様々な理由によって、朽ちることもあるでしょう。けれども、教会に連なるキリスト者は、甦りの主イエスに結び合わされた者として、新たに生まれ、生き生きとした希望を与えられ、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者とされている。わたしたちには、「終わりの時に現されるように準備されている救い」がすでに備えられているのです。
 この後、讃美歌502番を賛美します。皆さんと賛美できる幸いを感謝いたします。今朝も1節のみの賛美なので、歌詞だけは3節まで味わいましょう。「いともかしこし!イエスの恵み。つみに死にたる 身をも活かす。主より たまわる あめの糧に、飢えしこころも 飽き足らいぬ。すくいのめぐみ 告ぐる われは、たのしみあふれ うたとぞなる。ほろびをいでし このよろこび、あまねく、ひとに えさせまほし。くすしきめぐみ あまねく満ち、あるに甲斐なき われをも召し、あまつ世嗣と なしたまえば、たれか洩るべき 主のすくいに。世にあるかぎり、きみのさかえと いつくしみとを、かたりつたえん。」
神さまの豊かな憐れみに心が震えます。ペトロと共に、また無数の復活のいのちに生きているキリスト者たちと共に、主イエスの復活にあずかった喜びを賛美しつつ、歩んでまいりましょう。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。」

<祈祷>
天の父なる御神、御子のご復活により、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としていただいた恵みを感謝いたします。主よ、世にあるかぎり、あなたの栄光と豊かな憐れみを語り続ける者として下さい。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。主よ、戦禍の中、不安を抱えている者、愛する人を失った者、生きる望みを失っている者を憐れみ、御子のご復活による、希望を抱くことができるよう、聖霊を注ぎ、あなたの力で お守り下さい。コロナ禍が収束せず、教会に通うことの困難な者がおります。また、心身に痛みを抱えながら生活している者もおります。主よ、憐れんで下さい。子どもたちを覚えて祈ります。新年度が始まり1ヶ月が過ぎ、心身に疲れを覚えているかもしれません。主よ、子どもたちを憐れみ、日々の歩みを通して、あなたへの信仰を育み、いつの日か信仰告白、洗礼へと導いて下さい。今朝の礼拝は、久し振りに奏楽奉仕を担って下さった姉妹によってあなたを賛美することが許されました。感謝いたします。心を込めて賛美をリードして下さる奏楽者を祝福して下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年5月1日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第90篇1節~2節、新約 ペトロの手紙一 第1章1節~2節
説教題:「神の国に生まれた あなたがたへ」
讃美歌:546、7、234A、Ⅱ-1、497、541

今日からご一緒に「ペトロの手紙一」を読んでまいります。ペトロは、このように書き始めます。「イエス・キリストの使徒ペトロから」。新共同訳では、「イエス・キリストの使徒ペトロから」と訳されていますが、原文のギリシア語では、まず始めに「ペトロ」という名前が書かれています。続いて「使徒」、そして「イエス・キリストの」と続きます。ペトロの元々の名前はシモンです。ヨハネによる福音書の第1章42節には、シモンの兄弟アンデレがはじめに主イエスに出会い、アンデレによって主イエスの元に連れて行かれたシモンと主イエスとの出会いのシーンが、とても印象的に記されています。「イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする』と言われた。」ケファ、というのは岩という意味のアラム語で、そのギリシア語訳が、ペトロです。ペトロ、という名前は、主イエスがシモンに与えた あだ名だったのです。また、先週読み終えましたマタイによる福音書の第16章18節にも、主イエスが「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」とおっしゃった記事がありました。ペトロは、手紙を書き始めるにあたって、何よりもまず、この主イエスからいただいた名前を、喜んで記したのです。そして、短い自己紹介を記しました。「わたしはペトロ、主イエスによって選んでいただき、じっと見つめていただいて、救われて、そして今、主イエスによって、あなたがたのもとに遣わされた者です。」と。
わたしも、先日、聖書科の授業を担当している頌栄女子学院の高校2年生の前で、「皆さん初めまして。一年間、聖書の授業を担当する東村山教会牧師の田村毅朗です。宜しくお願いいたします。」と自己紹介をしました。けれども、実は、わたしたちキリスト者は、この世で属している組織や学校の名ではなく、「キリストの者」と紹介すればよい。伝道者なら、「キリストの使徒」と紹介すればよいのだと、み言葉から教えられました。
自己紹介の次にペトロは、手紙の宛先を記しました。「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。」とあります。どうやら、この手紙は一つの教会にとどまらず 回し読みされたものと思われます。ペトロは、そのように各地に住んでいる「選ばれた人たち」へ手紙を記したのです。「選ばれた人たち」というと、特別な能力があった人たちのように思うかもしれませんが、ペトロ自身がそうであったように、ただただ、神さまの恵みと憐れみによって、選ばれ、キリスト者となった人たちです。ペトロは、そうして選ばれた人たちを、不思議な言葉で形容しています。
まず、「離散して」と表現します。元の原語ギリシア語は、「ディアスポラス」です。この言葉は、もともと、ユダヤ人たちが故郷(ふるさと)を追われ、異国の地に散らされた状態を指すものでした。その言葉をペトロは、「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地」のキリスト者に当てはめているのです。
 また、「仮住まいをしている」とあります。口語訳聖書は、「寄留している人たち」と訳していました。「寄留者」とは、自分の国ではなく、他(ほか)の国に滞在している人たち、外国に住んでいる人たちのことです。自分の国ではないところで生活している者が「寄留者」。けれどもペトロが手紙を書き送った人々は、故郷(ふるさと)から離散したユダヤ人ばかりではありませんでした。その土地に生まれ育った人々もいたことでしょう。東村山教会に連なるわたしたちの多くも、日本人として生まれ、日本で生活しているので、その意味では寄留者ではありません。けれども、「わたしたちは皆、神さまの選びを受けて、洗礼の恵みを頂いたときに、寄留者、仮住まいをしている者となったのだ」とペトロは言うのです。父なる神さまは、主イエスの使徒ペトロを用いて、全てのキリスト者に告げて下さるのです。「あなたを選んだのはわたし。あなたの国籍は天にあるのだ」と。
 ペトロは続けます。「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。」「父である神があらかじめ立てられた御計画」とは、どのような御計画でしょう?口語訳は、この箇所を「父なる神の予知されたところ」と訳しています。また新しい聖書協会共同訳も、「父なる神が予知されたこと」と訳しています。何となくピンときませんが、この箇所を、具体的に訳している神学者がいることを知りました。こう表現します。「世界が創造される以前から、払われている父なる神の愛の配慮」。神さまは、わたしたちが生まれる前、いや、世界が創造される前から、わたしたちを愛して、見つめて、選んでいて下さった。そして神さまは、み心にあったご計画の通りに、主イエスの十字架の死と甦りによって、わたしたちを救って下さいました。み霊(たま)を注いで、わたしたちを聖なる者として、神さまの恵みの中に迎え入れて下さったのです。ペトロは、この神さまの恵みを語るときに、わたしたちはキリストの「血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。」と表現しました。「注ぎかけていただく」と言うと、わたしたちは、水による洗礼をイメージしますが、それは取りも直さず、十字架の上で流された主イエスの血潮を注ぎかけられることを意味します。洗礼は、キリストの血によって清められたというしるしなのです。洗礼を受けたわたしたちは、聖餐の祝いに与ります。今日も、聖餐に与りますが、杯は主イエスの流された血潮を意味します。わたしたちキリスト者は皆、主イエスの血によって、み子と結ばれ、父なる神さまの子どもとされた!キリストと血で繋がり、聖なる者とされたのです!冒頭でペトロの自己紹介について述べましたが、受洗準備会で用いているアメリカ合衆国 長老教会の「はじめてのカテキズム」の問1は、こう問います。「あなたは誰ですか」。この問いに対する答えは、「わたしは神さまの子どもです」。洗礼によって、罪の自分は死に、そして、全く新しい命を頂いて、聖なる者、神さまの子どもとして、新しく生まれるのです!こうして洗礼を受けたわたしたちは、今や、地上にあっては仮住まいの身となり、天の国への旅人として生きています。洗礼を受けた者は皆、キリストの血潮によって聖なる神の子とされ、天に故郷(ふるさと)を持つ者とされるからです。使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙 第3章20節に「わたしたちの本国は天にあります。」と書きました。天の故郷(ふるさと)こそ、わたしたちの帰るべき本国、永遠の故郷(ふるさと)なのです。
 ペトロは、そのようなわたしたちキリスト者に、心を込めて祝福を祈ります。「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」キリスト者に与えられている恵みの一つは、「祈りの恵み」でしょう。先週も水曜日の午前と夜に「御言葉と祈りの会」がありました。毎週、皆さんの祈りに大きな力、励ましを頂きます。また、先週の金曜日の午後、限られた時間でしたが、東村山教会に連なる兄弟姉妹の中で最高齢の姉妹を訪ねる恵みが与えられました。4月に98歳になられた姉妹は、笑顔で迎えて下さり、わたしの祈りの後に、教会に連なる者への恵みと平和を、心を込めて祈って下さいました。ペトロの手紙を受け取った各地のキリスト者の群れも、使徒ペトロの祈り、「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」から多くの慰めと励ましを頂いたに違いありません。
 わたしたちが仮住まいをしている世は、今、戦争の只中にあります。既に2ヶ月が経過しましたが、終結の兆しは見えません。祈っても無駄のように思ってしまうかもしれません。それでも今朝、父なる神さまは、わたしたちのために「ペトロの祈り」を与えて下さいました。「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」ペトロは、キリストの血縁としていただいた、全ての者たちのために、万感の思いを込めて、まるで幼子のように、祈っているのです。ますます豊かに恵みを!もっともっと平和を!
わたしたちのからだの中には、キリストの血の注ぎによって、平和の王キリストが住んでおられます。わたしたちは、神さまの救いを知らず、望みを失っている者に福音を伝え、恵みと平和を祈るために、神さまから選ばれているのです!わたしたちは「仮住まいだから」と言って、腰掛けで今を生きるのではありません。すでに大いなる恵みを頂いているわたしたちには、やることがあるのです。世界の人々に、神さまの恵みと平和が、ますます豊かに与えられるように共に祈り続けましょう。そのために、わたしたちは選ばれ、赦され、主イエスと結び合わされているのですから。

<祈祷>
天の父なる御神、わたしたちを選び、聖なる者として下さったことを感謝いたします。世界の人々に、神さまの恵みと平和が、ますます豊かに与えられますように。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。主よ、ウクライナでの戦争が長期化しております。愛する家族を失った者、不安を抱えながら過ごしている者、深い嘆きの中にある者がおります。主よ、あなたの憐れみと慰めが豊かにもたらされますように。一日も早くそれぞれの国が武器を捨てることができますように。知床での事故も胸が痛みます。突然、愛する家族を失い、悲しみの中にある者を慰めて下さい。今朝も、教会での礼拝を願いつつ、様々な事情により、それぞれの場で礼拝をささげている者がおります。主よ、それらの者を憐れみ、新しい月も平安に歩むことができますように。主よ、わたしたちの群れの中に、愛する者を失い、深い悲しみの中にある者がおります。真の慰め主であられる あなたの愛と慰めを溢れるほどに注ぎ続けて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年4月24日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 出エジプト記 第3章12節、新約 マタイによる福音書 第28章11節~20節
説教題:「全ての人にのべつたえよ」
讃美歌:546、16、224、225、540

イースターの朝。主イエスの からだは、墓の中にはありません。困ってしまったのは数人の番兵たちです。たった今、彼らの目の前で大変なことが起こりました。大きな地震が起こり、稲妻のように光り輝く天使が天から降って来て、墓の入口を塞いでいた石をわきへ転がして、その上に座り、告げたのです。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」腰を抜かして青ざめているうちに、もう一組の目撃者だった婦人たちは、天使から「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」と告げられるやいなや、転がるように走って行ってしまいました。天使の姿も もう見えません。我に返った番兵たち。「どうしよう。まさか、墓から遺体が無くなるなんて。天使が現れた、と言ったって、祭司長たちに信じてもらえるだろうか。首をはねられてしまうかもしれない。」彼らは、びくびくしながら都に帰り、ことの顛末を報告しました。祭司長たちは長老たちと集まって、相談しました。「イエスの弟子たちは復活を宣伝して歩くに違いない。どうしたら彼らの先手を打って、民衆の心を我々の側につけておけるだろうか。」と。結論は「お金」で解決することでした。それも「多額の金」です。彼らは、兵士たちに多額の金を与えて、言いました。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」びくびくしていた番兵たちは、ホッとして、金を受け取り、命じられたとおりに任務を遂行しました。
祭司長たちも、長老たちも、番兵たちの報告する様子に、ただごとではないことを感じ取っていたはずです。そして、おおいに慌てたのです。焦ったのです。だから、お金で何とかしようとした。それも「多額の金」で。お金は魔物です。お金さえあれば何とかなると思い込んでいたのです。確かに、お金はないと困ります。上手に使えば、神さまの業に用いていただけることもあります。でも、お金そのものに力があると思い込んでしまうとき、わたしたちはいとも簡単に、神さまのご支配を軽んじてしまうようになるのです。
 今日で、マタイによる福音書を読み終わります。ちょうど3年前に、第1章1節から、皆さんと一緒に読み始め、少しずつ読み進めてまいりました。その全てを振り返ることはできませんが、「お金」は、色々な場面で語られてきました。第18章21節以下には、主イエスの「仲間を赦さない家来」の譬えがありました。莫大な借金を帳消しにされた家来が、僅かな借金をしている仲間に出会うと、捕まえ、首を絞め、「借金を返せ」と言い、牢に入れてしまった。そのことを知った主君は、家来を牢役人に引き渡しました。また主イエスは、第19章21節で、金持ちの青年に言われました。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年は悲しみながら立ち去りました。たくさんの財産を持っていたからです。そして、福音書の最後にも「お金」で解決しようとする祭司長たち、長老たち、また、多額のお金を与えられ、指示された通りに行動する兵士たちの罪が記されているのです。
 主イエスは、そのような祭司長たち、長老たち、兵士たちにこそ、罪の赦しを届けなければと思っておられたことでしょう。「彼らは、このままでは救われない。だからこそ、罪を赦された弟子たちには、やることがある。伝えることがある。」そのような思いを抱いて、ガリラヤに弟子たちを集められたと思うのです。
 わたしも銀行員だった頃、「お金」を扱う仕事に疑問を抱き、次第に悩むようになっていました。いつも心に引っかかっていたのは、銀行で働いていれば、まず安泰。でも、このまま生涯を終えてよいのだろうか?という思いでした。福音書記者マタイも、そうだったかもしれません。第9章9節以下に、収税所に座っていたマタイが、主イエスに伝道者として召された場面がありました。主は言われました。「わたしに従いなさい」。椅子に座っていたマタイはスッと立ち上がり、主イエスに従ったのです。その日の食事会には、徴税人や罪人も大勢やって来ました。そのとき、主イエスは言われたのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マタイは、召された日の、主イエスの招きの言葉を生涯、忘れることはなかったと思います。それまで収税所に座り、税金を徴収することしか考えていなかったマタイ。もしかすると、人々から嫌われ、その腹いせに、不正に税金を徴収していたかもしれません。主イエスは、そのようなマタイを、お召しになられたのです。
そしてマタイは、福音書の最後の最後に、ガリラヤの地で、復活された主イエスが、もう一度 出会って下さったこと、そして、使命を与えられて、送り出されたことを記しました。第28章16節には、「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」とあります。12人いた弟子は、すでに11人になっています。ユダが自ら命を絶ったからです。ユダは、銀貨30枚という僅かなお金と引き換えに、主イエスを売り渡してしまいました。そしてどんなに悔い改めの祈りをささげても罪は赦されないと思い込み、自ら命を絶って、罪の責任を果たそうとしたのです。また、「しかし、疑う者もいた。」とあります。弟子たちの中に、疑う者もいたのです。もしかすると、福音書を記したマタイ本人だったかもしれません。「わたしも信じることができなかった。疑ってしまった」と、福音書の最後に、罪の告白を記しているのかもしれません。そのように疑い、信仰の目が曇っている者に、主は、近寄って下さいました。そして、主イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たち、復活を疑う弟子たちを責めることなく、力強く命じられたのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
これほど励ましに満ちたメッセージがあるでしょうか?闇が支配しているように思える世において、武力が支配しているように思える世において、不正が蔓延しているように思える世において、天と地の一切の権能を神さまから授かっているのは、どの国の大統領でも、国王でもない。強い軍隊でもない。主イエスであられる。まことの神であられる主イエスが、わたしたちをも、弟子として召して下さり、派遣して下さるのです。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」
 とても難しいことに思えます。跳ね返されるかもしれない。「聴きたくない!」と耳を塞がれるかもしれない。それでも、主イエスは、「大丈夫、何も恐れることはない。何も不安に思うことはない。なぜなら、『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』のだから」と、わたしたちを伝道へと遣わして下さるのです。
わたしたちだけで伝道するのではありません。遣わされる所には、いつも共におられる主イエスがおられる。わたしたちと共に、み子も苦しんで下さり、祈って下さり、世の闇と闘って下さる。そして、父と子と聖霊の名による洗礼を、大いに喜んで下さるのです。主が、いつも共におられます。わたしたちは、ただただ感謝し、主が遣わして下さる所で、主が与えて下さる恵みを、喜んで伝えたい。主イエスの「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」を支えに、罪に苦しんでいる者、疲れている者、うずくまっている者に、罪の赦し、甦りの朝の喜びを語り続けていきたい。世の終わりまで、いつもわたしたちと共におられる主イエスと共に。
<祈祷>
天の父なる御神、励ましと慰めに満ちた み言葉を感謝いたします。み子 主イエスは、最後におっしゃられました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」主よ、闇が支配しているかのような世に、インマヌエルの福音を喜んで宣べ伝える勇気をお与え下さい。主イエス・キリストの み名によって祈ります。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。ウクライナからの報道に胸が痛みます。ついどちらが善でどちらが悪と決めたくなります。しかし、あなたの前には、皆が罪人であり、皆が赦されるべき者であります。どうか、一日も早く、皆が武器を捨て、大切な いのちをこれ以上、犠牲にすることのないよう導いて下さい。先週はイースター礼拝の恵み、聖餐の祝いを感謝いたします。しかし、どうしても礼拝を休まざるを得ない者がおりました。特に、入院している者、激しい痛みを抱えている者、あなたから心が離れてしまっている者を憐れんで下さい。それらの方々が、いつも共におられるあなたを忘れることのないよう導いて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年4月17日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第98篇1節~9節、新約 マタイによる福音書 第28章1節~10節
説教題:「喜びの朝」
讃美歌:546、15、153、Ⅱ-1、147、539    
 主イエスの お甦りを、全能の父なる神さまに感謝いたします。神さまは、わたしたちすべての者のために、主イエスを墓の中から甦らせて下さいました。喜びの日であり、慰めの日です。今年のイースター、わたしたちは特別な思いで迎えました。日々の報道のトップは、ウクライナの悲しみです。激しい戦闘により、多数の民間人が犠牲になっている。目を塞ぎ、耳を覆いたくなる報道に、イースターを迎えたからと言って、「おめでとう!」と手放しで喜んでいいのだろうか?と心の何処かでブレーキをかけてしまいそうです。思い巡らしたい。ウクライナの方々は、どんな気持ちでイースターを迎えただろう?ロシアの方々は、どんな気持ちでイースターを迎えだだろう? 愛する家族を奪われた者、避難した国で不安を抱えている者、言葉にならない呻きをあげていることでしょう。わたしたちの罪の深刻さが迫ってきます。しかし、それでも、だからこそ、主イエスは、死に完全に勝利して下さったのです。
 主イエスの甦りによってもたらされた大いなる喜びは、特定の人々、特定の地域、特定の時代に限定されません。すべての人、すべての地域、すべての時代の救いのために、神さまが成し遂げられた愛であり、喜びです。マグダラのマリアとヤコブとヨセフの母マリアに告げられた喜びは、二人だけの喜びではなく、主の お甦りを信じる すべての人々に与えられる喜びなのです。最初の甦りの日から今日(きょう)まで、キリスト者は皆、この世にあっては、どんなに辛い日も、「もう駄目だ」と思う日も、「甦りの主イエスが、今この時も、わたしたちと共におられ、支え続けて下さる」と信じて、おのおのの場所で希望をもって生きてきました。そして、甦りの主が再び世にいらして下さる再臨の日には、甦りの朝を迎えることを信じて、喜んで、天に召されていきました。イースターは、わたしたちの喜びの根拠です。根っこです。よりどころです。生きるときも死ぬときも、キリストのものであることを喜んでいる、わたしたちの支えです。
 安息の土曜日が終わりました。夜明けを今か今かと待ちわびていた二人の婦人が行動を開始しました。マグダラのマリアとヤコブとヨセフの母マリアです。主イエスが十字架で息を引き取られたとき、遠くから見守っていた大勢の婦人たちの中の二人です。また、この二人は、アリマタヤ出身のヨセフが主イエスの遺体を亜麻布に包み、岩に掘った新しい墓に納め、大きな石を転がしたその一部始終を見守り、ヨセフが立ち去った後も、そこに残り、墓の方を向いて座っていました。日没後、二人は帰宅したでしょう。深い悲しみの中で安息日を過ごしたに違いない。二人のマリアにとって、主イエスが繰り返し語っておられた「人の子は三日目に復活する」との み言葉が、真っ暗な心にともる灯(ともしび)になっていたかどうか、それは定かではありません。十字架で死んでいかれる様子をその目で見、墓の中へ納められる様子を見ていた二人のマリアにとって、死はあまりにも現実的で、決定的で、動くはずのないものであったことでしょう。それでも、二人のマリアが、アリマタヤのヨセフが立ち去った後も墓の方を向いて座っていた姿と、まだうす暗い明け方に墓を見に行った姿に、福音書記者マタイは、復活を信じて待ち望む心、神さまの約束のゆえに望みを捨てない心を描いたように思えます。他の福音書が主イエスの遺体に香油を塗りに行ったと書いているところを、「墓を見に行った」と書いているからです。絶望しない心を描き、わたしたちをも励ましている、と言っては読み込み過ぎでしょうか。いずれにしても、二人は、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こったのです。
 二人のマリアは、それでなくても、心が騒いでいるところに、大きな地震ですから、ひっくり返ったかもしれません。そのとき、主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのです。しかも、「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。」と書かれています。「白い衣」と聞くと、すぐに思い浮かべる出来事があります。主イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られたとき、主の姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった、「山上の変容」の出来事です。その日、雲の中から神さまの声が聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け(17:5)」。弟子たちは天の声を聞いてひれ伏し、非常に恐れた。しかし主イエスは震えている弟子たちに近づき、手を触れて言われたのです。「起きなさい。恐れることはない。(17:7)」と。さらに主は、山を下(お)りるとき、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない(17:9)」と弟子たちに命じられました。
 地震が起こり、石が動き、さらに、主の天使は稲妻のように輝き、衣は雪のように白い。「山上の変容」のときに、弟子たちが天の声を聞いて恐れ、ひれ伏したように、墓の見張りをしていた番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになりました。天使は二人のマリアに言いました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」「恐れるな」と、天使は呼びかけました。神さまの力の現実に触れるとき、恐れずにはおれません。それでも恐れなくてよい、恐れずに神の言葉をしっかり聴きなさい、と、神さまはいつでも語りかけて下さるのです。
 わたしたちは、「主は復活された」と言いますし、ここにもそのように訳されています。もちろん間違いではありません。けれども、厳密に言うならば、少し違います。なぜなら、主イエスにとって復活は、「能動形」ではなく、「受動形」の出来事だから。主イエスは、父なる神さまの力によって、復活させられた。厳密に訳すなら、「あの方は死者の中から復活させられた」となるのです。ちなみに、岩波書店訳では、「彼は死人たちの中から起こされた。」となっています。主イエスは、死人の中から起こされた。甦らされた。復活させられた。そのような神さまの圧倒的な力が宣言されたとき、婦人たちは、死人のように震え上がっている番兵たちとは対照的に、恐れながらも大いに喜んだ。顔を輝かせ、躍り上がって、喜んだのです。天使は、せかすように続けます。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
 天使は、矢継ぎ早に指示します。まず、見ること。見ればわかる。遺体がないことを。目で確認するのはそれで十分。誰かに盗まれたのではないかと疑う必要などない。素直に甦りを信じてよい。そして、行くのだ。伝えるために。婦人たちは、すぐに走り出しました!弟子たちに伝えるために!そのときです。甦りの主イエスが婦人たちの行く手に立っておられたのです。そして、「おはよう」と言われました。婦人たちは、びっくりして、喜んで、主の足を抱(だ)き、崩れるようにひれ伏しました。恐れつつ喜び震える二人のマリアに、主は言われました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
主イエスは弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と言われました。みもとから去って行き、散り散りになってしまった弟子たちを、「わたしの兄弟たち」と呼び、再び、集めて下さるのです。ガリラヤに。
ガリラヤ。主イエスが伝道を開始された場所であり、弟子たちのホームタウンで、彼らが主イエスによって召し出された場所。また、大勢の婦人たちが主イエスに従い、主イエスの お世話を始めた場所がガリラヤです。主イエスはそこから再び弟子たちを、今度はご自分の兄弟として、遣わして下さるのです。
 甦りの主イエスが、最初に発せられた言葉は、「おはよう」でした。「おはよう」と訳されたギリシア語は、「カイレテ」ですが、口語訳では、「平安あれ」と訳されています。また、岩波書店訳では、「喜びあれ」と訳されています。どれが正しく、どれが間違いというのではありません。父なる神さまによって死から起こされた主イエスが「おはよう」と声をかけて下さったことも嬉しいことです。「平安あれ」という祝福の言葉もありがたい。そして「喜びあれ」と言われたと思うと、本当に心が躍ります。どんなに不安な日も、どんなに苦しい日も、主は言われるのです。「わたしは甦って、あなたと共にいる。もう恐れなくてよい。喜んでよいのだ」と。
 主イエスは、婦人たちの行く手に先回りするように立ち、待っていて下さいました。そしてまた、先にガリラヤに行って待っている、と言って下さったのです。わたしたちが行くところ行くところ、何処に行っても、甦りの主イエスが共におられる。そして、「喜びなさい、
あなたがたを覆っていた恐れも、不安も、死も、罪も、そのすべてに、わたしは勝った。だから喜んで歩みなさい。たとえ死の淵にいるときでも安心してよい、喜んでいてよいのだ」とおっしゃって下さるのです。この喜びを携えて、わたしたちは、主の恵みを感謝し、それぞれの賜物を用いて、伝道の旅を続けるのです。そのとき、聖霊が必ず働いて下さいます。その結果、今はたくさんの不安を抱えている人々、恐れを抱いている人々も、甦りの主イエスに出会い、永遠に輝く大いなる喜びを抱く者として、わたしたちの群れに加わって、わたしたちの歩みは、天の国の完成に向かう兄弟姉妹の大行進となりましょう。そして、来るべき約束の日、み子の再臨の日には、先に天に召されていった多くの兄弟姉妹と共に、甦りの朝を迎えます。そして聞くのです。主イエスの「起きなさい。恐れることはない」との み言葉を。


<祈祷>
天の父なる御神、み子の お甦りを深く感謝いたします。恐れの中にある者、不安の中にある者に、み子が共におられることを喜んで宣べ伝える者として下さい。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。主よ、世界では争いがあり、嘆きがあります。だからこそ、あなたは み子を お遣わし下さり、甦りと再臨の喜びをお与え下さいましたから、感謝いたします。主よ、嘆きの中にある者を憐れんで下さい。どうか、ウクライナでの戦闘を終息へと導いて下さい。今日は小平霊園において、教会学校のイースター礼拝をささげることが許されました。感謝いたします。これからの時代を担う子どもたちを導いて下さい。信じられないような事件が続いています。子どもたちが望みを抱いて、たった一度の地上の命を喜んで生きることができますようお支え下さい。今日こそ、イースター礼拝に!と祈っておられた方々から欠席の連絡が入りました。主よ、どこにあっても、甦りの み子が共におられることを感謝いたします。これからも甦りの朝への望みを失うことなく、喜んで一日一日を歩むことができますよう導いて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年4月10日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 アモス書 第4章12節~13節、新約 マタイによる福音書 第27章57節~66節
説教題:「喜びへの備え」
讃美歌:546、26、136、Ⅱ-58、545B、Ⅱ-167    
 
受難節第6主日を迎えました。棕梠の主日。主イエスのエルサレム入城をおぼえる日であり、いよいよ受難週に入ります。2019年4 月28日に始まりました、わたしたちのマタイによる福音書を少しずつ読む歩みは、すでに ひと足早くエルサレム入城の記事を読み、今朝は、十字架で息を引き取られた主イエスが、埋葬される場面を読むことになりました。エルサレム入城から、五日後の出来事です。
金曜日の午後3時過ぎ、主イエスは十字架の上で息を引き取られました。ここに一人の人が登場します。「アリマタヤ出身のヨセフ」という人です。ヨセフは、ピラトに「主イエスの遺体を引き取らせてほしい」と願い出ました。ピラトは、ヨセフの願いを受け入れて部下に渡すよう命じ、ヨセフは、主の遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、新しい墓の中に納めました。
アリマタヤ出身のヨセフについて、マタイ福音書は、「金持ちで」、「イエスの弟子であった」とだけ記しています。ちなみに、マルコ福音書は、「身分の高い議員ヨセフ(15:43)」、ルカ福音書は、「善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた(23:50~51)」、ヨハネ福音書は、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ(19:38)」と記しています。アリマタヤという町の出身で、ユダヤの議会の議員でもあったらしいヨセフが、主イエスの説教、愛の業に心を打たれ、主の弟子となっていたのです。主イエスの死刑の決議の席に、どんな思いでついていたことかと、ヨセフの心の葛藤を想像したくなりますが、福音書記者マタイは、そのことには一切触れていません。議員であったことにも触れずに、ただ、彼がしたことを、淡々と報告します。ただ一つ、彼の気持ちを想像させる言葉は、「夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。」という言葉です。もしかすると、目立たないように日が暮れかけるのを待って、行動したのかもしれません。いずれにせよ、彼はピラトのところへ行き、主イエスの遺体を渡してほしいと願い出、ピラトは許可しました。できれば処刑に関わりたくないと思っていたピラトにしてみれば渡りに舟であったかもしれません。ヨセフは、主イエスの遺体をきれいな亜麻布で包み、自分のために用意していた新しい墓の中に納め、墓の入口は大きな石でふたをして、立ち去りました。
日が暮れて、その日が終わろうとしていました。誰もいなくなったと思われた墓の前に、マグダラのマリアと、ヤコブとヨセフの母マリアの二人だけが、墓の方を向いて、途方に暮れて、へたりこんでいた様子を、マタイは静かに、記しています。さて、翌日、安息日になりました。けれどもマタイは、ここで「明くる日、すなわち、安息日」とは書きませんでした。「明くる日、すなわち、準備の日の翌日」と書いたのです。「準備の日」とは、元々、安息日の準備をするための日です。その翌日なのですから、安息日と書けば良さそうなところを、マタイはわざわざ「準備の日の翌日」と書きました。不思議な表現に思えます。何か意図があるように思える。もしかしたら、マタイは、このように記すことで、アリマタヤのヨセフは、この後起こる復活の準備を行ったのだ、と言っているのかもしれません。主イエスを埋葬したアリマタヤのヨセフの気持ちは、想像するしかありません。けれども、主イエスの弟子であったヨセフにとって、主イエスの十字架刑を止められなかったことは非常な悲しみであり、また師事した先生の遺体が、他の罪人(ざいにん)の遺体と一緒に放っておかれることだけは見過ごせなかったのではないでしょうか。何もせず、見ないふりをすることなどできない。ヨセフを突き動かしたのは、ただただ「主のために」という思いではなかったかと思います。み子の復活を期待していたわけではないでしょう。今でき得ることを、ただ、主のために。その一心でしたことが、主イエスの遺体を真新しい墓に丁寧に葬ることであり、それが結果的に、主イエスの復活のための準備となったのです。
アリマタヤのヨセフが主イエスを丁寧に葬った「準備の日」。その翌日、即ち、安息日は、ユダヤの掟でどんな仕事もしてはならない日とされています。けれども、この、全ての働きの手を止めて、静かに祈る日に、バタバタと動き回っている人々がいました。普段、何よりも安息日を重んじているはずの、祭司長たちとファリサイ派の人々です。この日、彼らの心は平安ではありません。安息ではなかった。彼らの心を満たしていたのは恐れです。「『イエス』はうまく始末することができた。しかし彼の弟子たちが遺体を盗み出し、死者の中からの復活を宣伝したら、イエスを信じる者が爆発的に増えるに違いない。そうなれば自分たちの立場が危うくなる」と恐れた。主イエスの人気をねたみ、恐れ、「目障りだ」と十字架につけて殺したことで、平安を得たかと思いきや、恐れはさらに増したのです。彼らの心に充満した恐れは、彼らを支配しました。そして彼らは、恐れに突き動かされ、安息日の決まりを無視し、バタバタと工作に走り回ったのです。恐れはどこから来るのでしょう。幼子のように神さまを信じる心は恐れる必要がありません。どんなところにも、神さまの光がさす道を見出すことができるからです。恐れは、神さまを疑う心、信じない心から生まれます。神さまを信じられない以上、自分で何とかするしかないからです。そして、自分に都合のよい神さま像をつくり出して、まことの神さまを抹殺し、自分の力で、自分を守ろうとすることで、恐れはますます膨れ上がってしまうのです。安息日の祭司長たちやファリサイ派の人々の姿が、そのことを証明しています。
アリマタヤのヨセフが、ただひたすら、「主のために」でき得る限りを尽くした手立てが 復活の準備となり、まさしく「準備の日」にふさわしい行いとなったことと、祭司長やファリサイ派の人々が、「準備の日」の翌日、安息日に心を騒がせ、安息日に全くふさわしくない行いをしていたこととは、非常に対照的です。双方の姿を見つめるとき、はたと気づかされます。わたしたちもまた、今まさに「準備の日」を過ごしているのだということに。
今、世界中に、暴力があり、虐待があり、弾圧があり、貧困があり、迫害がある。なぜ?と思います。混乱します。考えても、考えても、主の み心はわかりません。今、わたしたちの信仰が問われています。み心がわからないことを恐れ、ただ自分を守ることにジタバタして、ますます恐怖に操られていくのか。み心がわからなくても、主の弟子として、主のために、今できることを行うのか。アリマタヤのヨセフにも主の み心はわかりませんでした。ただ主のために、何ができるか。主のために、今できることは何か。それだけを考え、行動したのです。それを神さまは、復活の準備として用いて下さいました。どんなに考えたところで、主の み心はわかりません。それは仕方のないことです。限りなく広く、深く、高い神さまの み心が人間にわかるわけがないのです。もしも「これこそ み心だ」と、主の み心がわかったつもりでいるならば、そのとき わたしたちは、罪の入口に立っているのかもしれません。確かに言えることは、神さまは、独り子を十字架につけて殺すために世に お遣わし下さったほどわたしたちを愛して下さっている、ということと、主イエスは必ず再びいらして下さるという再臨の約束が、わたしたちには与えられているということだけです。
この後、讃美歌 第2編58番を賛美します。今朝の み言葉にふさわしいと思い、選びました。いつもは1節を賛美していますが、今朝は、4節を賛美したいと思います。4節、「いずれの日 さかえもて/地にあらわれたもうや。知るをえず 知るはただ『そなえよ』との みことば。」わたしたちは、主イエスの再臨の日の「準備の日」を過ごしています。再臨の日がいつなのか、わたしたちには知らされていません。だからこそ、ただ、「主のために」と、力を尽くしたヨセフのように、たとえ今、自分のしていることが何のためになるのかわからなくても、与えられている一日一日を、ただ主の栄光を現すために、力を尽くし、互いに愛し合い、赦し合い、仕え合うことに一所懸命でありたい。主が、わたしたちのささやかな行いを、主の再臨のための「良き備え」として用いて下さることを祈りつつ。あるいは、たとえ二人のマリアのように主イエスを思って悲しみに暮れながら、座り込むしかできなかったとしても、復活の主イエスは、そのような者に、最初に出会って下さいました。神さまの恵みの、何と深いことでしょう。わたしたちは、わたしたちには想像もつかないほど広く、深く、高い神さまの愛の中に、生かされているのです。
<祈祷>
天の父なる神さま、どんなときも、あなたのみに信頼し、み子の死による罪の赦し、み子の復活、再臨を信じ、今、できることに一所懸命に生きる者として下さい。主の み名によって祈ります。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。主よ、ウクライナでの戦争を一日も早く終結させて下さい。嘆きの中にある者に、主にある慰めをお与え下さい。新年度が始まりました。新しい環境にある者を強め、励まして下さい。来週は、み子の復活を喜びます。愛する家族、友人をイースター礼拝に招く伝道の思いを強めて下さい。礼拝から遠ざかっている者が、イースター礼拝をささげ、聖餐に与ることができますよう導いて下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2022年4月3日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 アモス書 第8章9節~12節、新約 マタイによる福音書 第27章50節~56節
説教題:「本当に、この人は神の子だった」
讃美歌:546、121、Ⅱ-80、Ⅱ-1、285、545A     
2022年度が始まりました。この始まりの日に備えられたのは、4月17日のイースターを前に、主イエスが十字架の死を成し遂げられた み言葉となりました。主の十字架によって救われ、死は甦りの朝への入口と信じる わたしたちが、新年度を歩み出すにあたって、この み言葉が与えられましたことを、主に感謝します。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれた主は、再び大声で叫び、息を引き取られました。主イエスは、徐々に意識が薄れ、ついにこと切れたのではありません。身体の中に残っている息、力、思いの全てを振り絞り、命を お返しするように、神さまに向かって大声で叫び、息を引き取られたのです。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。神殿には、入口から入ってすぐのところに、聖所があり、その奥に、至聖所と呼ばれる場所がありました。至聖所は幕で仕切られ、大祭司が年に一度、贖罪日に入るほかは、誰も入ることが許されない最も神聖な場所でありました。その至聖所の入口にかかっていた垂れ幕は、罪の人間は神さまに自由に近づけないことを示し、神さまに近づくためには、罪の贖いが必要であるということを教えるための、大切な幕でした。そのような 神さまと人を隔てる幕が、主イエスの死の直後、上から下まで真っ二つに裂けたのです。主イエスが息を引き取られた直後、神さまと罪のわたしたちを隔てる幕が不要となった。いつでも神さまに近づくことができる。いつでも神さまに祈ることができるようになった。、み子の死が、どれほど驚くべき恵みであるかを、み言葉は、わたしたちに示しているのです。
 次に地震が起こりました。旧約聖書において地震は、神さまによる力強い行為の象徴であり、特に「さばき」のときに、神さまは地震によって その み力を示されると考えられていました。そして、「岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返」りました。墓の戸口を塞ぐための岩が地震によって転がり、墓の口が開いたのです。主イエスの死によって、人間の墓が開かれるのだ、と福音書記者マタイは、喜んで報告したのです。
 今朝の み言葉、時間的な順序に従って素直に読み進めていくと、混乱するかもしれません。主イエスが息を引き取られ、神殿の至聖所の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返り、そして、主イエスの甦りの後、墓から多くの聖なる者たちが出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。その後、百人隊長や主イエスの見張りをしていた兵たちによる告白、さらに、大勢の婦人たちの見守り、そして、アリマタヤのヨセフによる墓への埋葬と続く。読み進めるうちに、途中から置いてきぼりにされるような感覚になるかもしれません。
 しかし、このように時間的順序が、厳密な区別なく、ごちゃまぜに記されることが聖書にはあります。主イエスの死を、甦りの光が照らしているのです。み子の甦りの光によって、み子の受難、み子の死を見て、心に刻むことが大切なのです。マタイは、厳密な時間的順序に従って今朝の み言葉を記したのではありません。み子の死の直後、み子がお甦りになる前に、聖なる者たちの体が生き返ったわけではありません。マタイは、時間的順序や歴史的事実をそのまま記したのではなく、主イエスの死が成就したことで、主の甦りが現実となり、主の甦りにより、キリスト者の甦りも現実となる!とわたしたちに伝えているのです。
 使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一第15章に記しました。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。(15:20~24)」
甦りには順序があります。まず主イエス。次に信仰告白し、洗礼を授けられた者たちが甦る。マタイは、甦りの喜びを爆発させるかのように、甦りの約束を み子の十字架の死のすぐあとに、一気に記したのです。マタイの喜び、興奮が、わたしたちにも伝わってきます。わたしたちは、み子の死を嘆き、悔い改めを祈ると共に、喜びの朝に思いを馳せてよいのです。甦りの朝を約束されている者として、神さまに直接、み子を殺した罪を真実に悔い改めることが許されているのです。わたしたちは、み子の死によって罪を赦されたこと、さらに甦りの朝、墓から出て来て、体が生き返る者として、今、目の前に用意されている聖餐の食卓を心の底から感謝して味わえる幸いな者たちなのです。
さて、今朝の み言葉で忘れてはならないのは、「本当に、この人は神の子だった」という告白と、主イエスの死を遠くから見守っていた大勢の婦人たちの存在です。マタイは、み子の見張りをしていた百人隊長や兵たちによる「本当に、この人は神の子だった」との告白と、大勢の婦人たちが み子の死を見守っていたことを記録しました。百人隊長と部下たちは、ローマの兵隊です。彼らは、彼らの仕事、つまり十字架の見張りをしていただけですが、主イエスの死にざまや、それに伴う天変地異を目の当たりにして、恐れを抱き、「本当に、この人は神の子だった」と告白することとなりました。神の民であるはずのユダヤ人たちがこぞって、神さまを恐れず、神の子を十字架につけ、侮辱し、殺してしまったのに対して、ユダヤ人たちからは、神の恵みから漏れている、救われない人々だと信じられていた異邦人、ローマ人が、神さまを恐れる者として描かれているのです。
自分たちこそ神の民と信じて疑わないユダヤの民の罪は、わたしたちの罪でもあります。わたしたちも、時に、自分は絶対に正しい、間違っていないという思いに囚われ、目が塞がれ、真実が見えなくなるからです。己の正しさに固執して、神さまに背中を向け続けるのか。神さまの み力の前に ひざまずく者となるのか。わたしたちは日々、問われている。さらに、ひざまずくだけで終わらず、主に仕える喜びへと招かれているのです。
大勢の婦人たちは、遠くから み子の死を見守っていました。彼女たちは、ガリラヤで主イエスや弟子たちに仕えていました。男性優位の社会の中で、仕えることが自然のなり行きであったという見方もできましょうが、そうであればこそ、彼女たちは、まことに主イエスに救われたことを喜んでいたのだと思います。当時、人の数に数えられることなく、まともな扱いを受けることを知らなかった女性たちにとって、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ(18:4)」と教えて下さった主イエスから離れ、誰かに支配され、仕えさせられる生活に戻ることは、できなかったのではないでしょうか。主イエスに仕えることは、彼女たちにとって軽やかで、自由で、生きることそのものであった。だから離れられなかったのです。離れずにいた女性たちが偉くて、男性たちはダメだ、というのではありません。わたしたちは皆、主に仕える喜びの中に、自由の中に、主イエスの十字架によって、等しく招かれているのです。
聖餐の食卓が備えられました。甦りの光に照らされた祝いの食卓です。十字架の上で裂かれた主イエスの肉と流された血潮を、罪赦された者として頂くのです。主の食卓を囲み、いのちのパンをいただき、救いのさかずきを飲み、主にあって、わたしたちは一つです。新しい年度が始まりました。日々、「本当に、この人は神さまの子であり、神さまの愛であり、わたしたちの救いである」と信仰を告白し、感謝しつつ、ひと足、ひと足、互いに仕え合って歩んでまいりましょう。<祈祷>
天の父なる神さま、み子の甦りの光の中で、信仰を告白させて頂ける恵みを感謝いたします。「本当に、この人は神さまの子、神さまの愛、わたしたちの救い」と信仰を告白し続けることができますよう、聖霊を注いで下さい。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、わたしたちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注いで下さい。ウクライナでの戦争が続いております。主よ、嘆きの中にある者、悲しみの中にある者を慰め、主にある望みを お与え下さい。一日も早い戦争の終結を祈ります。新年度が始まりました。全国、全世界の諸教会の歩みを、力強く導いて下さい。特に、戦禍にある教会、被災地にある教会、様々な困難を抱えている諸教会を強め、励まして下さい。今日からユース・ミーティングを再開します。学部4年生になる神学生を中心に良き祈りの時、良き交わりの時となりますよう導いて下さい。今朝も礼拝をおぼえつつ、様々な理由で礼拝に出席することのできない者を強め、励まして下さい。特に、病を抱えている者、不安を抱えている者を強め、励まして下さい。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。