2020年度メッセージ

 

2021年3月28日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第58章6節~14節、新約 マタイによる福音書 第16章21節~28節
説教題:「主に従い行くは」
讃美歌:546、86、138、331、540

2020年度、最後の主日から始まる一週間が、受難週と重なりました。今年度を振り返ると、今まで経験したことのない困難な日々でした。それでも、工夫を重ね、主の日の礼拝をまもり続けることができたことを主に感謝します。皆さんも、心揺れる一年だったかもしれません。「主よ、なぜですか?いつまで、見て見ぬふりをなさるのですか?愛の神であられるあなたが、なぜ世界をこのまま放っておかれるのですか?」
今朝の み言葉でも、ペトロは主イエスをいさめました。なぜ、いさめたのか?主が「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と弟子たちに打ち明け始められたからです。主イエスは、ペトロの、「あなたはメシア、生ける神の子です」との告白を受けて、「生ける神の子であるメシアは、苦しみ、死ななければならない。そして三日目に甦る。神がそのようにお定めになっている」と打ち明け始められたのです。しかしペトロは、主の言葉を受け入れることができませんでした。「愛の神が、義(ただ)しい方であられる主イエスに、そのような仕打ちをなさられるはずがない」と。
ペトロは、主をわきへお連れして、いさめたのです。「主よ、あなたは義しい方です。神の み子です。み心にかなう方です。そのような方に神が苦難をお与えになるはずがないではありませんか!」主イエスを愛し、思うあまりの言葉であることは確かです。けれども、その言葉の中にひそむ、神の み心を先取りしようとする心、神の み心を勝手にわかったつもりで自分の考えを神に押し付ける罪を、主イエスはご存知なのです。神の み心を分かったつもりで、神の前に立ち、まるで露払いのように先導しようとする。それはサタンの仕業である、と主は言われます。
主は振り向いてペトロに言われました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」わたしの邪魔をするな、わたしの前に立つな、そこをどけ、と主は言われるのです。
私たちも時に思うのです。主の前に立って、主に意見したくなるのです。「主よ、とんでもないことです。あなたは愛の神なのですから、義しい方なのですから、○○してください。」
神さまの思いである み心は、人間の思いと異なるのです。天が地より高いように、み心は、私たちの思いをはるかに超えているからです。それなのに、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と み心を退けようとするならば、それはやはりサタンの仕業に加担している。「あなたはわたしの邪魔をする者」、そのように主から言われてしまうのです。
ペトロにはそれほど深い思いはなかったかもしれません。主イエスを愛するがゆえの発言だったに違いないのです。しかし、ペトロの発言は、結果として、主イエスが、ご自身の身を惜しまれることに繋がってしまう。主イエスを神から引き離すこと、み心に背くことに繋がってしまうのです。しかし主イエスは、そのようにペトロをお叱りになった後、弟子としての務めを教えてくださいました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」
すでに主は、十字架への道を歩んでおられます。そして、「わたしの前ではなく、わたしの後ろについて来なさい」とおっしゃるのです。人間的に考えれば、どんなに理不尽に思われることも、どんなに重い十字架であっても、私たちの先に立ち、導いてくださる主イエスが、全てを承知していてくださる。全てをご存知でいてくださるのです。そのことに「ただ信頼して、後ろからついて来なさい。わたしの前に立つのではない。後ろからわたしについて来なさい。」主イエスは、そうおっしゃってくださるのです。
神さまのご計画は、人の目には「惨めな敗北」としか映らない主イエスの十字架の死でした。けれども、主は言われたのです。「しかし『三日目に復活することになっている』。この希望を信じて、わたしに従って来なさい」と。
私たちの「自分の十字架」とは何でしょうか?それは差し当たっては「惨めな敗北」としか思えない困難かもしれません。病気や理不尽な出来事かもしれません。あるいはまた、主の弟子としての務めとも言えるでしょう。主が私たちに求められたこと、それは、誰からも褒められない隠れたところで善を行うことです。敵を愛し 赦すこと、敵のために祈ることです。これまで読んできた み言葉の数々です。それらは、この世では敵への敗北を認めることです。けれども、人の目に敗者と見えた十字架の主イエスは、三日目に甦られました。私たち主の弟子は、その道をひたすら後ろからついて行くのです。勝利を求める自分が敗北を味わい、死んでこそ、主の甦りの命に与り得るのです。
コロナ禍の2020年度が終わります。今年度も、たくさんの命が失われました。コロナだけでなく、愛する家族を失い、泣き崩れる方々に心を痛めた一年でした。新年度もコロナ禍は続くかもしれません。けれども、主は全てを み手の中に治めていてくださいます。だからこそ、私たちは神のことを思い、祈りたい。「主の み心がなりますように」と。
主は、私たちの命を慈しんでくださり、私たちの悲しみも苦しみも全て承知しておられます。ですから、私たちは復活の勝利をただ信じ、心から安心して、主に従えばよいのです。主は言われます。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」
主は言われるのです。「自分の欲望を優先し、自分に敵対する者をやり込め、勝ったつもりになることにどれほどの価値があるというのか?そのときあなたは自分の命を失ったのだ。私の弟子ではなくなったのだから。そしてあなたは、自分自身で自分を買い戻すことはできないのだ。」
受難週が始まりました。悔い改めの祈りを、朝に夕にささげたい。苦しみも悲しみも全て主にお任せし、安心して、喜んで主に従いたい。後ろからついて行きたい。その歩みの先には、「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いる」と主イエスが言われた、喜びの日が待っているのです。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、あなたのことを思わず、人間のことを思ってしまう罪を お赦しください。全てを み手に委ね、み心をいささかも疑わず、主に従い続ける者としてください。主の み名によって祈り願います。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。主よ、困難な生活を強いられている方々、孤独を抱えている方々、病と闘っている方々を強め、励ましてください。礼拝後、長老選挙の開票を選挙管理委員によって行います。主の み心が示されますように。来週の主日はイースター礼拝をささげます。聖餐にも与ります。主よ、東村山教会に連なる兄弟姉妹と共に主の甦りを喜び、聖餐に与ることができますよう一人一人の体調を整えてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくは み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年3月21日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 列王記上 第8章41節~45節、新約 マタイによる福音書 第16章13節~20節
説教題:「天の国の鍵」
讃美歌:546、14、191、Ⅱ-111、539

今朝、私たちに与えられたのは、マタイ福音書第16章13節以下です。コツコツとマタイ福音書を読んできた日々を山登りに譬えるなら、山頂に到着した、と言ってよいかもしれません。なぜなら、主イエスの弟子シモン・ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という「キリスト告白」を境に、主イエスのご受難がいよいよ明確に語られ始め、十字架の死、そして復活へと続いて行くからです。
主イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行かれたとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と、お尋ねになりました。主は、ご自分を「人の子」と表現されました。主が、ご自身を「人の子」と言われるとき、特別な意味が込められています。「人の子」とは、旧約聖書で預言されてきた、世を審判なさる、天から遣わされる御方です。弟子たちも、主が「人の子」と言われるとき、主ご自身のことと理解していました。弟子たちは答えました。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
マタイ福音書にこれまで繰り返し登場しました洗礼者ヨハネは、主イエスと同時代の預言者。旧約聖書の預言者エリヤ、エレミヤは、真実を求めた孤独な預言者でありました。苦しみながら、最後まで神さまに立ち帰るよう人々に語り続け、殉教したと言われていますが、主イエスの時代には、優れた預言者として認識されていました。そのため、人々の中には、主イエスはエリヤ、エレミヤの再来ではないかと言う人がいたのです。これを聞いて主は、続いて、弟子たち自身に問われました。「それでは、あなたがたは わたしを何者だと言うのか。(傍点追記)」12弟子の中で、まっさきにシモンが答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」。
私たちが洗礼を受けるとき、試問会があります。皆さんにもご記憶があると思います。「あなたは、主イエスをどのような方と信じますか」。私たちは答えるのです。「主イエスは、私の救い主であると信じます。主は、今も生きて働いておられる神の御子であると信じます」。そうして私たちは、洗礼を授けられました。私たちも神の子とされたのです。全てのキリスト者のこの出発点が、シモンの告白にあります。主は、シモンを祝福してくださいました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」
「シモン、あなたは幸いだ。神だけがお持ちの知恵を、神ご自身が、あなたに授けてくださった。だから、あなたは幸いだ。」主イエスは、そう教えてくださいました。祝福してくださいました。ペトロの告白も、私たちの告白も、神だけがお持ちの知恵を、神ご自身が、授けてくださったから、できたことなのです。あの先生に導かれた、ということはありましょう。あのキリスト者に導かれた、ということもありましょう。しかし、信仰の告白は、人間が教えてできるものではないのです。神ご自身が、シモンに、また私たち一人一人にも、見せてくださった真理なのです。主イエスは続けて言われました。
「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしは この岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力も これに対抗できない。わたしは あなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」「神が選び、神ご自身が信仰を授けられたあなたを、わたしも岩(ペトロ)と呼ぼう。私は、あなたの上に、私の教会を建てる。」 
主イエスは、シモンに「岩」という意味の「ペトロ」というニックネームをつけ、そのように言われました。「わたしの教会」と言われているのは、もちろん建物のことではありません。主イエスの御言葉を宣べ伝える群れとしての教会です。「生涯、私の言葉を伝え歩け」と、主ご自身が、ペトロを遣わしてくださったのです。
神がお選びくださり、主イエスが岩と呼んでくださったペトロは、決して頼りがいのある人物ではありませんでした。調子にのっては叱られ、肝心なときには逃げ出した。岩のように強く、揺るがない、土台として立派な者ではなかったのです。ただただ、神が選んでくださり、神ご自身が、「ナザレのイエスが生ける神の子キリストである」という知恵を授けられた者であるがゆえに、岩として頂いたペトロ。その岩に建てられている教会もまた、「主イエスこそ、生ける神の子キリストである」という知恵を授けて頂いた人びとの群れなのです。東村山教会も、全国、全世界の諸教会も、全てがこの御言葉によって建てられているのです。
だから、「陰府の力も これに対抗できない。」と主は言われます。「陰府の力」と訳された言葉は、ギリシア語で、「陰府の門」という言葉です。聖書協会共同訳は、「陰府の門も これに打ち勝つことはない」と訳しております。念の為に確認しておきたいのですが、陰府は、悪いことをした人間が追い込まれる地獄とは違います。全ての死者が赴くところです。誰もが、陰府の門をくぐらなくてはなりません。避けることはできない。しかも、くぐったら戻って来られない。陰府の門の力は強大で、一方通行であることは、誰もが知っています。主イエスも、このあと十字架の死によって、この門をくぐり、陰府に降られました。ところが、神さまは三日目にこの陰府の門をこじ開けてくださり、主イエスを甦らせてくださいました。「主イエスこそ、私の救い主」と信仰を告白し、主に従う者たちにとって、陰府の門は、もはや恐るるに足らないものとなったのです。
主イエスは、宣言してくださいました。ペトロ、そして私たちに。「陰府の力も これに対抗できない。」「陰府の門を、もう恐れなくてよい。私によって、天の国は始まったのだから」と。天の国とは、天の支配、神さまのご支配です。私たちは、神さまが治められる平和の国の住人です。主イエスは、ペトロに その「天の国の鍵」を託してくださいました。
主イエスが、父なる神さまから託された天の国の鍵。本来であれば罪深い人間に授けられることなどあり得ない大切な鍵。けれども、主イエスはその鍵をペトロに託されたのです。託されたペトロは、主の十字架によって赦された恵みを生涯語り続けました。教会に生きる私たちにも、同じ使命が与えられています。牧師はもちろん、長老、執事、教会員の皆さん、全てに同じ使命が与えられているのです。
私たちは主の十字架によって、罪を赦され、「神の子」として頂きました。神を父と呼べる者として頂きました。それは決して、私たちの力によるものではありません。神さまが、罪の中で立ち上がれない私たちを激しく悲しまれ、引き上げてくださったから。そして、「主イエスこそ、今も生きて働いておられる神の御子、キリスト」という真理を、神ご自身が、私たち一人一人に示してくださったからです。もはや、「死は絶対」ではなくなりました。私たちは、神さまの永遠のご支配に憩っている幸いな住人です。たとえ、地上の死によって、一度は陰府の門を通ったとしても、いつかおとずれる甦りの朝、主が起こしてくださる喜びの朝が、必ず来ることを確信しているのです。
主イエスはおっしゃいました。「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」「つなぐ、解く」とは、「禁じる、許可する」、「門を閉じる、開く」ということです。「滅びか、救いか」ということです。天の国、天のご支配は、主イエスによって全ての人に開かれました。しかし、門を閉じるも、開くも、私たちに任されています。主イエスの御言葉を、全ての人に届けるために、私たちは召されているのです。困難な歩みかもしれません。しかし、神さまが治めていてくださり、主イエスについて行く歩みです。祈りつつ、喜びつつ、今週も共に励みましょう。<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、これからも私たちに聖霊を注ぎ、福音の喜びを語り続ける者としてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。昨晩も東北地方で大きな地震がありました。不安の中にある方々を強め、励ましてください。被災地にある諸教会の上に聖霊を注いでください。今週、手術を控えている姉妹がおられます。主よ、あなたが常に姉妹に寄り添い、お支え下さいますよう祈ります。孤独の中にある方々、哀しみの中にある方々、生きる希望を失っている方々、痛みと闘っている方々もおられます。どうか、それらの方々に聖霊を注ぎ、「私は一人ではない、どんなときも神が共におられる」との信仰を与え続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年3月14日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ミカ書 第3章5節~12節、新約 マタイによる福音書 第16章5節~12節
説教題:「神に逆らう敬虔」
讃美歌:546、68、250、258、545B、427

聖書を読んでいて不思議に思うことの一つに、登場する人物たちが、少しも立派でないばかりか、むしろ情けない面が包み隠さず描かれている、ということがあると思います。
主イエスの12人の弟子たちも、どんなときも、主に従い続けた信仰深い者たちとは言えません。主イエスとの関係を三度も「知らない」と否定したペトロ。疑い深いトマス。そして、主を裏切ったがゆえに、自ら命を絶ってしまったイスカリオテのユダ。主イエスはなぜ、弱さを抱えた普通の人を弟子として選ばれたのだろうか?もっと優秀で、もっと人柄もよく、主の弟子に相応しい人がいたはず。それなのに、なぜ、この12人なのか?
若い頃、私はそのように感じておりました。しかし、今は思わなくなった。むしろ、主イエスの選びには深い意味があるのだな、と主の選びに感謝するようになりました。弟子の弱さと私の弱さが重なるからです。ああ、私もペトロだ。ああ、私もトマスだ。主イエスを「私の救い主と信じます!」と信仰を告白したにもかかわらず、目の前の困難に心を奪われ、他者の言葉に心が乱れ、どこまでも主に信頼し続けることを忘れてしまう。弟子たちの姿が、私自身に重なるのです。

主は、私たちの弱さをどこまでもご存知であられる。私たちの傲慢な心もご存知であられます。「私は正しい、絶対に間違っていない」という驕りもご存知であられる。だからこそ、折あるごとに、大切な警告を語ってくださるのです。今朝の短い御言葉の中でも、主イエスは、二度も語られます。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」。

パン種とは、小麦粉を膨らます酵母です。少量であっても、ぐんぐんとパンが膨らむ。パンであれば美味しくもなりますが、ほんの少しでパンを大きく膨らませる「パン種」は、当時のユダヤの社会では、神さまから離れようとする人間の、どうしようもない根性を譬える言葉でありました。
主は、弟子たちを心配して、ファリサイ派とサドカイ派の教えを警戒するように、とおっしゃったのです。ファリサイ派もサドカイ派も、ユダヤ教の権威ある指導者でした。しかし、その心は神さまから遠く離れてしまっていました。主の御心に従うのではなく、自分が神の前に立ち、神に先立って歩こうとしていた。だから彼らは、主イエスが邪魔だったのです。ファリサイ派もサドカイ派も、きちんと礼拝を献げ、祈りを献げ、献金を献げ、それぞれのやり方で律法を大切にしていました。しかし、由緒正しい血統を誇り、「私こそが正しい!」と信じ込んで、他者を裁き、導こうとする。そのような、如何にも敬虔な態度に隠れた傲慢な根性を、主イエスは見抜いておられました。だからこそ主は、弟子たちに注意を促すのです。「あなたがたの内にも、すでに、そのような心が入り込んではいないか?」

この日、弟子たちは湖を渡り、向こう岸に行くのに、うっかり、パンを用意するのを忘れてしまいました。パンを忘れた責任を互いになすりつけていたのかもしれません。「お前のせいだぞ」、「何だよ、お前こそ忘れてたくせに」、「そんなこと言ってる場合かよ。どうすりゃいいんだ」。今日食べるパンを持って来るのを忘れたことで、頭がいっぱいになってしまったのです。
彼らは、主イエスが祈り、パンを裂かれたことによって、5つのパンで5千人を、7つのパンで4千人を満腹させた、驚くべき奇跡を、身をもって体験したはずなのです。今回も主に願いさえすれば良いことなのです。それなのに、目の前の困難に心を奪われ、うろたえ、どうすればよいものか?と思い煩っている。
ジタバタし、頓珍漢な議論を続ける弟子たち。けれども、よくよく自分自身を顧みるとき、この頓珍漢な弟子たちの姿にも、私たち自身が重なります。私たちは、主に救って頂いた者たちです。主のお甦りの命によって生かされている者たちです。主の恵みを確かに知っているはずなのです。
ところが、困難が目の前に立ち塞がると、途端に、私たちの主が、どのような御方であられるかが分からなくなってしまう。目の前の困難に心を奪われ、自分で何とかしなくては、とジタバタしてしまう。私たちはジタバタする必要などないのに。主に先立って、困難の矢面に立つことなど、求められてはいないのに。
私たちは、主イエスに信頼し、主の背を見つめ、主について行けば何の心配もいらない。これ以上、安心なことはないのです。主イエスが求めておられる信仰は、そのように主の後ろからついて行く信仰です。己の業に頼ることなく、また勝手な判断で己の罪に絶望するのでもなく、ただただ、己の弱さを認め、聖霊の導きを祈り、神さまの愛を信じて、主の救いを待ち望む信仰なのです。
思い煩いに捉われているとき、私たちは神さまのご支配を見失っています。すでに神の国の平安の中にいるのに、その恵みが分からなくなっています。見えないままで歩いても、神さまからどんどん離れてしまうばかりです。私たちは、聖霊の働きなしに、見失った神さまのご支配を見出すことはできません。思い煩い、神を見失ったままで、自分だけで何とかしようと自分の行いに頼り、自分の力で神の国を勝ち獲ろうとすれば、たちまち、パン種の入ったパンのように、罪は膨れてしまうのです。改革者ルターは、思い煩いに陥ったときには、「思い煩いをそのままにして、神に向かって祈り求め、あなたが悩んで片付けようとしているすべてを、神がととのえてくださるよう願いなさい。そして、あなたは、自分のために心を砕いてくださり、自分の気がかりをみな思い切ってお任せすることのできる神をもっていることに感謝しなさい。」と私たちを励ましています。
 他の誰でもない、全能であられる神ご自身が、私たちのために心を砕いてくださるのです。先立って進んでくださる主イエスに従って、後ろにくっついて、安心して、祈りつつ、共に歩んでまいりましょう。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、目の前の困難に心を奪われる私たちです。主よ、困難なときこそ、聖霊の働きを信じ、あなたが良い方向に導いてくださると信じる信仰をお与えください。どのようなときもあなたの愛、御子の憐れみ、聖霊の働きを信じる者としてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。先週の木曜日、3・11を迎えました。あの大震災から10年。被災された方々の今なお癒えない痛みを語る姿が報道されました。多くの方々が「あの日、なぜ私はあのような行動をしてしまったのか?愛する人を救うことができなかった。それなのに、私は生き残ってしまった」と自らを責めておられる。胸が苦しくなりました。主よ、どうすれば、これらの方々に主の赦しが届くでしょうか?深く傷つき、苦しんでいる方々に、主の愛、赦しが届きますように。今も、自分を責め続けている方々が、今の苦しみ、痛み、思い煩いをすべて注ぎ出すことのできる神さま、主イエスに出会うことができますように。どうか聖霊を注いでください。どうか私どもを用いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年3月7日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第49章7節~9節、新約 マタイによる福音書 第16章1節~4節
説教題:「神の時のしるし」
讃美歌:546、10、85、Ⅱ-1、377、545A

主イエスは、舟に乗って異邦人の住む地から、ユダヤ人の住む地に戻って来られました。すると、待ちかまえていたかのようにファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、主を「試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った」のです。
「試そうとして」という表現は、マタイによる福音書を読み進めてきた中に、一度だけ登場しました。第4章に「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。(4:1)」とありますが、「誘惑を受けるため」と「試そうとして」が同じなのです。悪魔が主イエスを試そうとした。その場面で使われた言葉が、ここで再び用いられているのです。しかし今度は、人間が悪魔に代わって、主を「試そうとして」言うのです。「天からのしるしを見せてほしい」。あなたが天から来たことを証明して見せろ、証拠を見せろ、と試した。第4章の悪魔のささやきが重なります。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。(4:6)」
悪魔は、「神の子なら、神殿の屋根から飛び降りたらどうだ。天使たちが支えるだろう」と迫ったのです。そして今度は、何と人間が、主を試そうとしている。この人間は、どういう人々でしょうか?いかにも悪そうな、神をも恐れぬ人々でしょうか?違います。ファリサイ派とサドカイ派。どちらもユダヤ教の指導者。そのような人々が悪魔に代わって主を試みている。ファリサイ派も、サドカイ派も、人々を導く特別な存在であったはずなのに、彼らの心に住みついた悪魔が姿を現し、主を試そうとしているのです。
ところで、2つの派は主イエスの時代、ユダヤ社会で指導的立場にありましたが、それぞれの主張は異なり、張り合っていました。まずサドカイ派。エルサレムの貴族、祭司たちによって構成されていた。いわゆる上流階級。特権を利用し、生活は豊か。時の権力者と妥協し、宗教的であるより、政治的。魂の生活を重んじるより、祭儀的な営みを守ることに固執していた。その結果、民衆の心からは、かけ離れてしまったのです。
対するファリサイ派。「ファリサイ」は「分離」を意味する言葉。言ってみれば「分かたれている派」。当時、ユダヤの人々の信仰も、政治も、望ましくない状況にありました。しかし、そのような社会で、ファリサイ派は、「せめて私たちだけは、純粋な信仰を保ち、義しい生活に生き続けよう!」と一所懸命頑張っていた。しっかり立とうとしていた。サドカイ派のように世と折り合いをつける人々から、「我々は一線を画す。区別する。」そういう生活を大切にしていたのです。それゆえ、民衆から恐れられることもありましたが、むしろ、「さすがファリサイ派」と尊敬されていた面もあったのです。
そのように、ファリサイ派とサドカイ派はまるで水と油。対立している。それなのに、その二つ派がタッグを組み、主イエスを試そうとやって来た。なぜ、主を試そうとしたのでしょうか?
主イエスのお姿が見えていないからです。主が、真の神であられることが見えていない。神の国の到来を語り、愛を語り、赦しを語り、数々の癒しを異邦人の地でも心を込めてなさり、また数々の奇跡をなさられた主イエス。そのお姿は、多くの預言者が語って来たメシアそのものなのに、しるしはいくつもあるはずなのに、見えていない。彼らが信じ、実践する流儀から、主は外れる。主が語り、実現された真の救いが、彼らが期待する救いではなかった。「ナザレのイエス」という田舎者がメシアでは困るのです。
主イエスの時代、ユダヤはローマ帝国に支配され、国を失っている状態が続いておりました。「神の救い」が分からない。神を見失っている。その中で、ファリサイ派もサドカイ派も、互いの流儀を大切にすることで、ユダヤ民族のプライドを保ち続けようと努力していた。頑張っていた。それぞれの信じ方でメシアに期待していた。
けれども、そのような心には、主イエスにおいてすでに始まった「神の時のしるし」を見ることはできなかった。「天からのしるしを見せてほしい」と願っていながら、拒否しているからです。ユダヤの民に救いをもたらすために来られた主イエスを、当のユダヤの民が拒否している。主イエスの嘆きが響きます。2節。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」
主イエスが来てくださったことによって、主の み言葉に、主の み力に、「救いの時のしるし」はいくつも現れています。主の み声が聞こえます。「あなたがたは見抜くことができていない。真の救い主がここにいる。繰り返し救いを語っているのに、あなたがたに届かない。私の姿、私の業、私の言葉に、『神のご支配』を感じ、信じることができていない。私がいるのに、見えないのか?」
主イエスは、少し前に読みました第12章でも、「先生、しるしを見せてください(12:38)」と要求する律法学者やファリサイ派の人々に対し、次のように答えておられる。「ヨナが三日三晩、大魚(たいぎょ)の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。(12:40)」
福音書記者マタイの信仰の目は、旧約聖書に描かれているヨナが、三日三晩、大きな魚の腹の中にいた後に救われた物語を、主イエスが十字架で処刑されれた後、三日目の朝に甦られたことの預言として、見ているのです。そしてこのたびの第16章でも、「ヨナのしるし」について語りますが、今回は解説を加えていません。主イエスがこれ以上のしるしを拒否されたことを印象づけるかのように、「彼らを後に残して立ち去られた。」とだけ記すのです。
ファリサイ派とサドカイ派の人々を後に残して立ち去られた主は、この後、どこに向かわれたのでしょう?十字架です。十字架への道を一歩、一歩、父なる神さまの御心に従って、歩みを進められるのです。
私たちは今、受難節を過ごしております。主イエスのご受難を心に刻みつつ、罪を悔い改める時です。主イエスを試そうとして、天からのしるしを要求し、十字架へと追いやったのは、「自分たちは困難な時代の中で、誰よりも神を愛し、神を信じている」と思い込んでいた人々でした。「悔い改め」とは、神に向かって方向を転換する、向き直る、という意味を持つ言葉ですが、向き直る必要など少しも感じていなかった人々が、神を見失っていた。見失っていたから、方向転換しようにもできなかったとも言えます。禍(わざわい)の中で、神を見失うおそろしさがここにあります。自分の力で何とか踏ん張って立とうとしているうちに神を見失ってしまう。目の前の困難に目を奪われ、神さまも、神さまが与えてくださる「しるし」も、見えなくなる。他人事ではないのです。
私たちは今、「時代のしるし」が見えているでしょうか?神さまのご支配の中で生かされている恵みが見えているでしょうか?禍の波によって、主の愛を見失い、不安に押し潰されていないでしょうか?主は、そのような私たちのために、十字架で死んでくださり、甦ってくださいました。十字架こそ、甦りこそ、天からのしるしです。主は、生きておられる。死なれたままではない。主イエスによって示された神の愛から、何ものも私たちを引き離すことなどできないのです。
明確に示されている「神の時のしるし」に感謝し、これからも主の十字架と甦りの喜びを皆さんと共に語り続けたい。心から願います。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、どんなときも、「天からの救いのしるし」である み子の十字架と甦り、そして再臨の約束を見失うことのないよう み霊を注ぎ続けてください。主イエス・キリストの み名によって、祈り願います。アーメン。
<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。先週、愛する神の家族が天に召されました。昨日、姉妹がどんなときも「天からの救いのしるし」を信じ、通い続けた礼拝堂で葬儀が執り行われました。主よ、悲しみの中にあるご遺族に慰めを溢れるほどに注いでください。3月となりました。疫病の収束が見えない中、不安の中にある方々、病の中にある方々、痛みを抱えている方々、孤独を感じている方々に聖霊を注いでください。震災から10年を迎え「なぜ、あの日、愛する人を助けることができなかったのか」と今も ご自分を責めている方々を慰め、お支えください。11日が過ぎても、被災地のこと、また全国、全世界で被災された方々の慰めを祈り続ける者としてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年2月28日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第107篇17節~22節、新約 マタイによる福音書 第15章29節~39節
説教題:「主の愛に養われて」
讃美歌:546、23、290、532、544

主イエスは、異邦人の地で娘の病に苦しみ続ける婦人に出会ってくださいました。異邦人である婦人が、主に信頼し、「主よ、どうかお助けください」と、祈り続けたことを喜んでくださり、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」とおっしゃってくださいました。そして、ティルスとシドンの地方を去り、ガリラヤ湖のほとりに戻って来られ、何をするよりもまず、山に登られたのです。
山は特別な場所。神さまの前に立つ神聖な場所です。旧約聖書にも、山は神聖な場所として登場します。モーセは、山で神さまから啓示を受けました。エリヤは、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。(列王記上19:4」」と訴えるほどの挫折を経験したとき、神の山ホレブに行き、そこで主から新たな任務を受け取りました。
主イエスもまた、異邦人の地からご自分のフィールドへ戻られるにあたって山に登られたのは、父なる神さまに み心を問い、任務を頂くためだったのではなかったか?
そこへ、噂を聞きつけた大勢の群衆がドッと押し寄せました。私の娘も癒して頂きたい!息子も癒して頂きたい!親、伴侶、友も癒して頂きたい!ただその一心で、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を、山で祈っておられる主イエスの足もとに連れてきて、寝かせたのです。そして主は、これら多くの人々を癒してくださいました。
ところで、注意深く読んでみますと、ここは「ガリラヤ湖のほとり」とは言え、まだ異邦人の土地であったことが随所に伺えます。群衆が賛美したのは「イスラエルの神」であったとわざわざ書いていること、最後は舟で移動していること等から、癒された大勢の群衆は、異邦人であった可能性が高い。
イザヤ書第35章に、このような御言葉があります。「弱った手に力を込め/よろめく膝(ひざ)を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』
そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。(35:3~6)」
ユダヤの民がいつか、やがて現れる、きっと現れると待ち焦がれたメシアの到来を告げる、イザヤの預言です。主イエスによって、「口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き」、主イエスの圧倒的な力に心を震わせ、「イスラエルの神を」高らかに賛美したのが異邦人であったとすれば、異教の民であるはずの人々、イスラエルの民から、「神の恵みの外にいる」と思われていた人々が、主イエスに神さまの力を見ることができた、ということになります。カナンの婦人の信仰に通じる主イエスへの信頼は、これに続く弟子たちの姿と対照的です。
主イエスの群衆への愛は続きます。主は、弟子たちを呼び寄せて言われました。「群衆が かわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」
ところが、弟子たちは、主に訴えました。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に 十分食べさせるほどのパンが、どこから手に
入るでしょうか。」彼らは、かつて5つのパンと2匹の魚が男だけで5千人の胃袋を満たした主イエスの奇跡を経験したはずです。にもかかわらず、主の力を忘れてしまったのでしょうか?異邦人であるはずの群衆が、主イエスに 神さまの力を見ているのに、一番近くにいる弟子たちは、主イエスの力を理解せず、信じていないかのような記述です。
私たちは、弟子たちを笑えるでしょうか?私たちは、主に結ばれ、主に生かされている。主を信じている。洗礼を受け、礼拝をささげている。それなのに、目に見える現実に心を奪われ、主の圧倒的な力を見失うことがあるように思います。目に見える現実が気になり、ああでもない、こうでもない、どうしよう、と思い悩んでしまう。不安でたまらなくなる。弟子たちの姿は、全く他人事ではない。弟子たちの姿は私たちの姿そのものです。しかし主は、弟子たちを叱責することなく、おろおろしている弟子たちに「パンは幾つあるか」と言われた。「あなたには何があるか?」主は、私たちに与えられている賜物に目を注いでくださるのです。弟子たちは、「七つあります。それに、
小さい魚が少しばかり」と答えました。主は地面に座るように群衆に命じ、7つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてパンを裂き、弟子たちにお渡しになりました。
そのとき、やっと弟子たちは思い至ったのではないでしょうか?「あっ、そうだ!主が与えてくださる恵みは、尽きることがない!」弟子たちは、配っても配っても尽きることのない恵みを改めて心に刻んだことでしょう。それは、困難が過ぎ去り、はじめて主の恵みに思い至る、そのような私たちの姿と重なります。
ところで、主イエスが弟子たちを呼び寄せて言われた「群衆がかわいそうだ」は、深いお言葉です。「かわいそうだ」と訳されたのは、スプランクニゾマイというギリシア語。この言葉は、「かわいそう」というより、もっと深い意味がある。岩波訳は、「この群衆に対して、私は腸(はらわた)のちぎれる想いがする。」と訳しています。
もちろん、「かわいそうだ」と訳して間違いではありません。けれども、スプランクニゾマイは、内臓、すなわち腸や肝臓、腎臓などを指す名詞スクランクノンに由来する言葉。内臓は聖書の時代、人間の感情の座であると見なされていたため、憐れみ、愛等の意味になったのです。つまり主イエスの「かわいそうだ」は同情するというより、主イエスご自身も同じ痛みを味わっていてくださる。それも腸(はらわた)がちぎれるほどの痛みをもって群衆の飢えに心を寄せてくださる。それが主イエスの愛であり、憐れみなのです。主の憐れみは、どこまでも深く、ついには十字架に至るのです。これほどの主イエスの断腸の思いに、また神さまの力に、ただ信頼していればよいのに、目に見える現実に心を奪われ、支配されてしまい、何とかしなければ、とおろおろと思い悩む私たちは、何という愚か者でしょう。
主は来てくださった。私たちの神は、私たちと共にいてくださるのです。今日こそ、この恵みを落っことさないように、しっかりと心に刻みつけて持ち帰ろうではありませんか。
改めて、イザヤの預言を味わいたい。「弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』
そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。(35:3~6)」
主イエスによって、イザヤの預言が成就しました。そして今も、私たちのために働いておられる。日々、語り続けてくださるのです。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
主は、私たちのところにいらしてくださいました。今日も、私たちは神さまのご支配の中に安心して住まわせて頂いている。「安心して、ここに住みなさい。」と語り続けてくださるのです。どんなに厳しい困難の中にあっても、先が見えない日々であっても、真の光なる主が共におられる。私たちの痛み、苦しみ、悩みを、主ご自身も腸のちぎれるほどの想いを持って憐れみ、圧倒的な力を示しくださるのです。主の恵みを感謝し、私たちも日々、主を賛美してまいりましょう。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、御子が、私たちの悲しみ、痛みに腸の ちぎれる想い持って憐れんでくださることを感謝いたします。私たちも隣人の悲しみに心を寄せ、共に主の憐れみを祈る者としてください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。寒さの厳しかった2月も今日で終わります。寒さに加え、新型ウイルスの感染も収束しません。そのような中で命が守られたことを感謝いたします。それだけに、今も病床の闘いを続けなければならない者、人生の厳しい闘いを耐えている者を思います。4月からの進路が示された者もあれば、試練の中にある者がいることを思います。どうか、どのような試練に襲われても、主よ、なぜですか!と問わざるを得ない日々であっても、主にある希望を失うことのないよう聖霊を注ぎ続けてください。今日から新しい機材を用いてオンラインで礼拝を配信しております。そのために労している者を祝福してください。また、ライブ配信によって、今、それぞれの場で祈りを合わせている者にも祝福を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年2月21日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第119篇137節~144節、新約 マタイによる福音書 第15章21節~28節
説教題:「立派な信仰とは」
讃美歌:546、3、191、266、543

今朝の御言葉を読んで、心がざわつきはしないでしょうか?困り果て、主イエスに救いを求める女性に対して、主イエスは あまりに つれないのではないか?どうして主イエスは、まるで もったいぶるかのように 女性を拒絶されたのだろう?と。少なくとも、すんなりと心にしみこむように入ってこない。私たちの この心のざわつきの根源にあるものは何なのでしょうか?
今朝の御言葉は、「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。」から始まります。ティルスとシドンというのは、地中海沿岸の港町です。主イエスが伝道されていた ガリラヤ湖の西側からだいぶ離れている。ここはもう ユダヤ人の地域ではありません。ユダヤ人が「異邦人」と見下していた人々の住む地域です。
旧約聖書において、イスラエルの民は、神さまから特別に選ばれた民です。神さまから依怙贔屓していただいている民と言っても良いかもしれません。「我々は神に選ばれた特別な民」という選民意識は、長い歴史の中でいつしかユダヤ人以外の民を「異邦人」として区別し、見下す心となり、ユダヤの民の中に深く根を張ってしまいました。
しかし、神さまは、そのようなユダヤの民のために、主イエスをお遣わしになられました。主は、「ユダヤの民への伝道」という特別な使命を父なる神さまから与えられて、世に来られたのです。ところが、ユダヤ教の指導者であるファリサイ派の人々、律法学者たちは主を認めようとしません。認めないどころか、「どうやってイエスを殺そうか」と画策したのです。そのような律法学者たちとの議論にお疲れになられたのかもしれません。深い悲しみを抱いて異邦人の土地へ難を避けるように来られたのです。
しかし、この地にも、主イエスの評判は届いていました。そして、そこには疲れ果てた異邦人の女性がおりました。女性は悲しみの中から叫びました。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」本来、異邦人は、イスラエルの民が信じる神を信じていません。他の神々を信じる異教徒であるはずです。しかし、彼女は叫んだのです。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」
「ダビデの子」とは、ユダヤ人が待望する「メシア」の称号です。従って、この呼びかけは、そのままで「旧約聖書で預言されたメシア、それはあなたです」との信仰告白なのです。カナンの女が、それまで一度も会ったことのなかった主と出会い、いきなり、「主よ、ダビデの子よ」と信仰を告白したのです。
 カナンの女のことは、ほとんど書かれておりません。よって、想像するしかありませんが、この女性の娘は、非常に重い病を患っていた。何に頼っても、どこへ行っても癒されない。必死の思いで主イエスにすがりついたのです。
「しかし、イエスは何もお答えにならなかった」。主イエスは、この女性のしぼり出すような必死の叫びに対して、沈黙で答えられたのです。それでも、女性は、叫びながらついて来ます。私たちの心はざわつきます。どうして、主イエスは女性の叫びに耳を傾けてくださらないのか?それどころか、主は、おっしゃるのです。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。
しかし、女は来て、主の前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と叫ぶ。「それでも、主よ、わたしの主よ、わたしはあなたのものです。だから、助けてください」。
ところが主は、今度は、はっきりと拒絶されました。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。これは、「当時のことわざにこういうものがあった」と言われております。「人が最も必要としているものをあらぬところに投げ捨てておくな」というような意味であったようです。
主は、このことわざに「ある意味」を持たせておっしゃいました。子どもたちは、イスラエルの民。小犬は、カナンの女を含む異邦人。
私たちは困惑します。心がざわつきます。こんなことを主イエスが本当におっしゃったのだろうか?ところが、この女性は違うのです。ゆるがない。ざわつかない。主の お言葉を そのまま受け入れる。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
女性は言うのです。「主よ、あなたのおっしゃることは全く正しい。あなたの拒絶は正しい。間違いはない。わたしには、救っていただく資格がない。値打ちもない。でも主よ、お考えになってみてください。子どもたちが食卓についている。子どもたちはパンを頂いています。パン屑がテーブルからこぼれ落ちる。そうしたらパン屑は、きっと、テーブルの下の小犬が喜んで食べるはず。それを誰がとがめるでしょうか?パン屑まで取り上げるものがおりましょうか?主よ、私は余りもので十分なのです。」
この女性は、ただ必死だっただけかもしれません。藁にもすがる、そのような思いだったかもしれません。けれども、「わたしは値打ちのないもの。わたしは主の恵みにあずかるのにふさわしくないもの。でも主よ、あなたの恵みはどこまでも大きく、溢れるばかり。こぼれるばかり。私にはそのおこぼれで十分なのです」と訴える女の叫びを、主イエスは「立派な信仰」と受け入れてくださいました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と祝福してくださった。その瞬間、娘の病気は癒されたのです。
主は、カナンの女の信仰を「立派だ」と言われました。この場に、もしも、ファリサイ派の人々や、律法学者たちがいたとしたら、ますます敵意を燃やしたのではないかと思います。彼らは自分たちこそ神の民。小犬ではなく子ども。主の食卓に着くにふさわしい者と自負していたからです。
 ところが、主の食卓に招かれている子どもであるはずのユダヤの人々が、自分たちを救うためにこそ来てくださった神の子を殺してしまいました。カナンの女が、何を言われても、どこまでも「主よ、あなたのおっしゃることが正しい」と主にへりくだった姿と対照的。「わたしたちの求めるメシアは、このような者ではない。わたしたちが正しい。イエスは間違っている」と、主を十字架へと追いやったのです。私たちの心のざわつきの正体が ここにあります。「主が、このようなことを言われるはずがない。主は、私たちの救いのためにいらしてくださったのだから。」と、主の救いを、さも当たり前のことのように思う心が、主の御言葉にざわつくのです。
私たちも、ユダヤ人ではありません。異邦人です。主が、ユダヤ人のために来られた方であることに心をざわつかせるとするならば、それは主を十字架へと追いやる心です。神さまの正しさを否定する傲慢が、主を十字架へと追いやり、殺してしまった。ところが、まさしくこのことによって主の恵みは溢れ出し、こぼれ落ち、全く資格のない部外者であった異邦人をも潤してくださったのです。
ユダヤ人たちから追われるように異境の地に来られた主イエスが、「立派だ」と受け入れてくださった信仰にこそ、私たちの生きる道があります。神がお定めになられたことを、「アーメン」と受け入れ、溢れ出し、こぼれ落ちる恵みを待つ信仰です。このカナンの女の信仰の物語を、「わたしの物語」として大切に、「アーメン」と味わいつつ、歩んでまいりましょう。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、あなたの正しさに、「アーメン」と祈り続けるものとしてください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も聖霊を注ぎ続けてください。東北地方の大きな地震から1週間が経過しました。たくさんの被害が発生しました。どうか、困難な生活を強いられている方々を慰めてください。今朝も、教会での礼拝を慕いつつ、それぞれの場所で礼拝をささげている方々、病と闘っている方々、痛みを抱えている方々に聖霊を注いでください。この世には不正があり、差別があり、虐待があり、貧困があります。主よ、世界の人々が御前にひれ伏し、神さまの正しさに生きるものとなりますよう、お導きください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年2月14日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 出エジプト記 第20章1節~17節、新約 マタイによる福音書 第15章10節~20節
説教題:「人を汚すもの」
讃美歌:546、19、258、259、542、Ⅱ-167 

主イエスは、エルサレムからイエスを陥れようとやって来たファリサイ派の人々と律法学者たちに、「あなたがたの行いは、神の御心から遠く離れてしまっている。神の言葉を無にし、神の掟を破っているのは、あなたがたの方だ!」と厳しく告発なさいました。それから、群衆をそばに呼び寄せて、まず、このようにおっしゃいました。「聞いて悟りなさい。」
私たちは、色々な情報を耳にします。けれども、その情報の意味をよく吟味することを疎かにしてはいないでしょうか?聞いたことを勝手な解釈で、わかった気になるのは危険です。「神の言葉」がいつの間にか、「人間の掟」として本来の神の御心から遠く離れていったのも、発端はそういうことだったかもしれません。主イエスは、そのような私たちをよくご存知であられる。神さまは、いったい何を伝えようとしておられるのか、聞いて、悟ることが大切、とおっしゃり、その上で、「口に入るものは人を汚(けが)さず、口から出て来るものが人を汚す」と語られました。
すると、弟子たちが近寄って来て、こう言いました。「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」。弟子たちにしてみれば、「ファリサイ派を刺激するのは イエスさま、あなたのためになりません。」そのような、良かれと思っての言葉だったかもしれません。しかし主は、「木」と「盲人」の例話を用い、ファリサイ派の人々の罪を糾弾されたのです。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。」
詩編 第1篇は、天の父によって植えられた木の幸いを賛美します。「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず/主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。(詩編1:1~3)」
ファリサイ派の人々は、自分たちこそ、もっとも神に近い民と信じて疑っていません。自分たちこそ、この詩編の詩人のような者であると信じ込んでいた。しかし、愛していたのは自分たちの言い伝えであり、口ずさんでいたのは人間の戒めだった。口ずさむ人間の戒めによって人を裁き、自分自身を汚していたのです。自分たちが振りかざす「正義の ものさし」によって、終わりの日には自分自身が裁かれることに気づいていなかった。神の掟に従っているつもりで、神の言葉を無にし、神の掟から自分たち自身を排除していた。そのことを主は、「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。」と言っておられるのです。
今、社会問題になっているのは、SNSでの誹謗中傷です。他者の過ちを徹底的に裁き、人格を否定するコメントは、他者を死へと追いやる毒に満ちています。
主イエスは、どこまでも人間の心の闇をご存知であられる。だからこそ、群衆を呼び寄せて「よく悟って欲しい」と言われたのだと思います。神の御心から遠く離れた人の掟と、自分の価値観で、あなたは間違っている!と人を裁く罪は、現代も聖書の時代と何も変わっていません。私は正しい。私は間違っていない。その思いで、他者を切りつける。私は清い、と信じ込んで発する言葉が、自分自身を汚しているとも知らずに。聖書の時代も今も、私たちの心の闇はどこまでも深い。だからこそ、神さまは十戒を与えてくださったのです。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」
「たとえ、あなたを認める人がいなくても、私は認める。私はあなたを愛し続ける。なぜなら、私はあなたの神だから」と宣言なさる神が、すぐに自分の正義を振りかざしたがる私たちに、互いに愛し合い、支えあって生きよ、と与えられた掟、それが十戒なのです。
主は続けられます。「そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」盲人とは、光を失っている人。肉体的に目が見えていても、いなくても、十戒の中に神さまの愛の光を感じられる人もいれば、感じられない人もいる。
主は、神さまの愛の光を失い、隣人を裁くことで、自らを神のように輝かそうとする人を「盲人」と言っておられるのです。光なる神を仰がず、また神ではなく人の言葉によって人を導こうとする。「それでは、一緒に穴に落ちてしまう」と警告しておられるのです。
このとき、弟子たちも、主の御言葉の意味を悟っていない。ペトロが代表して、主に尋ねました。「そのたとえを説明してください」。
主は言われました。「あなたがたも、まだ悟らないのか。 すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口(あっこう)などは、心から出て来るからである。」「礼拝のしおり」10頁をお開き頂くと、第6戒「殺してはならない。」第7戒「姦淫してはならない。」第8戒「盗んではならない。」第9戒「隣人に関して偽証してはならない。」そして第10戒「隣人のものを欲してはならない。」とある。また、聖書協会共同訳は、「悪口」を「冒瀆」と訳しております。冒瀆は神への冒瀆。つまり、第1戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」に通じます。主が語られた「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口」そのすべてが十戒と重なる。このような言葉で、主は、弟子たちに何を伝えようとされたのでしょうか?ファリサイ派の罪を暴き、ファリサイ派の人々、律法学者たちを打ち砕いてスッキリしたかったのでしょうか?ファリサイ派の人々、律法学者たちの罪は、誰の心にもある。弟子たちの心。そして、私たちの心にも。だから、主は悲しんでおられる。「あなたがたも、まだ悟らないのか。」
主は、ご自身にも、また私たちにも真実なる御方です。私たちの心にある「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口」を「まあ、いいよ」とは決しておっしゃらない。私たちを痛めつけるためではありません。いかに、私たちが悲惨であるか、自分勝手であるか、そのことをきちんと見つめて欲しい。そのとき、自分たちが順守していた人間の言い伝えが神の掟の前で音をたてて崩れる。私は正しい、あの人は誤っている、という思いがいかに間違っており、いかに傲慢であるか、主は教えられるのです。その上で、私たちを恵みへと招いてくださる。罪の赦しへと招いてくださる。
主イエスこそが、私たちが口から吐き出す汚れた言葉を十字架の上で受け止め、私たちの罪を嘆き、苦しみ、悶え、死んでくださった。だから、今朝の御言葉は、「私のそばに来て、十字架の愛によって、生きるように」との招きなのです。
確かに、私たちの世には人を汚す言葉が溢れています。私たちの心にもそのような悲惨がある。しかし、神さまは私たちに御子を与えてくださったのです。主は、私たちの悲惨を担い、十字架の死によって赦し、清めてくださった。その驚くべき恵みが、私たちの塞がれた目を開いてくださる。私たちの汚れた口は清められ、「御言葉」という流れの畔(ほとり)に植えて頂き、昼も夜も主の教えを口ずさむ者とされたのです。私たちは、御言葉から命の水を頂いているのですから、人を貶める言葉ではなく、人を建て上げる言葉を語ることができる。裁く言葉ではなく、励まし、慰める言葉を語ることができるのです。主を慕い、喜びつつ、主に従う者たちでありたい、心から願います。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、人を裁く言葉ではなく、励ます言葉を語る者としてください。主の教えを愛し、昼も夜も口ずさむ者としてください。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も、聖霊を注ぎ続けてください。昨夜、東北地方を大きな地震が襲いました。10年前の地震と重ね、不安の中にある方々を強め、お支えください。神学校の働きをおぼえて祈ります。昨日、東京神学大学 芳賀学長より「追加入学者選抜のアッピール」と題して、緊急の文書が届きました。新型ウイルス感染の状況が影響し、献身者の数が少なくなっているようです。主よ、コロナ禍の今こそ、命の水である御言葉を宣べ伝える者が必要です。各神学校の働きをこれからもお支えください。そして、私たちの群れから、伝道献身者をお与えください。今日も、それぞれの場所で礼拝をささげている兄弟姉妹を強め、励ましてください。特に病、痛みと闘っている方々を慰め、溢れるほどに聖霊を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年2月7日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第29章13節、新約 マタイによる福音書 第15章1節~9節
説教題:「神の言葉を無にしないために」
讃美歌:546、16、291、Ⅱ-1、252、541 

主イエスの弟子たちは、驚きの連続でした。主は、僅か5つのパンと2匹の魚で群衆の身も心をも満たされた。さらに、荒れ狂う湖上を歩き、舟に乗り込まれた。その瞬間、嵐が静まった。そのとき、弟子たちは「本当に、あなたは神の子です」と主を拝んだのです。
主イエスと弟子たちが到着したのはゲネサレト。ガリラヤ湖北西にある温暖で肥沃な平原です。そこへも、主の癒しを求めて人々が押し寄せました。しかし、主イエスが力を発揮すればするほど、殺意を つのらせる人々がいました。ファリサイ派の人々と律法学者たちです。第12章で、主が片手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」とおっしゃって、病を癒されたとき、ファリサイ派の人々は、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し」始めました。従って今朝の第15章でファリサイ派の人々と律法学者たちが、わざわざ100㎞以上も離れたエルサレムから主のもとへ来たのは、ただの物見遊山ではない。目的がある。具体的には、エルサレムにあるユダヤ教の最高法院(サンヘドリン)から使者として送り込まれた。第15章は、そのようなピリピリとした場面からスタートするのです。
「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」ファリサイ派の人々や律法学者たちは、律法に加え、父祖からの言い伝えを大切に守っておりました。その一つに、食事の前に手を洗うというものがありました。手の洗い方まで、こと細かな決まりがあったようです。
私たちも今、教会に到着すると、まず手を消毒します。コロナ対策ですが、ファリサイ派の人々と律法学者たちが要求している手洗いは、趣旨が違います。衛生上の問題ではなく、異邦人との断絶が背景にあるのです。
日常生活においては、汚(けが)れた存在である異邦人と接触しなければならない。そこで、手を洗うことによって異邦人たちとの断絶を示したのです。主イエスは、そのような考えに対して、「否」と言われる。あえて、規定に従うことを拒まれ、エルサレムにも、主イエスと弟子たちが手を洗わずに食事をしていることが伝わったのです。ファリサイ派の人々と律法学者たちは、「父祖からの戒めを軽んじた!」と、エルサレムから乗り込んできたのです。
主イエスは、彼らの質問に対して、質問をもって切り返されました。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」
十戒の第五戒、出エジプト記 第20章には、こう記されています。「あなたの父母(ちちはは)を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。(20:12)」また、申命記 第5章には、こう記されております。「あなたの父母(ちちはは)を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。(5:16)」
神さまは、モーセを通して、父 母を敬うことを求めておられるのです。当時、「神さまへの供え物は、それが年老いた両親のために必要な食糧であったとしても、いったん供えた物を取り下げることは認められない。」と規定されていました。けれども、この規定を盾に、父 母が飢えているのに、「これは 神さまへの供え物なので、あなたたちに食べさせる物は無い」と、父 母に対する憎しみを正当化する、ということがあったのかもしれません。
もしかすると、皆さんの中にも、父 母との関係に深く傷ついた方がおられるかもしれません。そうであれば、礼拝で十戒を唱えるとき、「あなたの父母を敬え」はどうしても声に出すことができない。声に出していても、毎回、胸が痛む。「父と母を敬う」こと、神の戒めに従うことは、簡単ではないのです。
神学生時代、十戒を指導してくださったのは、大住雄一先生でした。大住先生が、十戒について、キリスト教ラジオ放送局 日本FEBCで語られた内容が一冊の本にまとめられ、教文館から発行されております。今、コロナのため休会となっておりますが、壮年会では、この本を用いて、十戒を学んでおります。先生は、このように語られます。「老人を敬うことと神を恐れることはつながっている。(中略)つまり、父母との関係は主なる神との関係と重なってくるのです。(中略)私たちはときに、人間的には父母を赦せないことがあります。けれども、その父母のために主は契約を与え、愛してくださって、この父母に忠実を尽くされた。私たちの主なる神がそうであるならば、私たちはその父母に対する主なる神の誠実を受け入れることができるのではないかと思います。主が私たちを愛してくださるというのは、つまり私たちの父母に主が真実であられるということでしょう。その主の真実を私たちが受け入れるならば、主がその真実を父母に尽くしておられることも受け入れることができるのではないかと思うのです。」
神さまは父 母にも十戒を授けられた。主が真実に父 母を愛しておられるがゆえに。だから、神さまは私たちに神さまの愛抜きで父 母を敬うのではなく、神さまの愛ゆえに父 母を大切にすることを求めておられるのです。だからこそ主は、ファリサイ派の人々と律法学者たちに、あなたたちのしていることは偽善なのだ、と、預言者イザヤの言葉をもって、闘われるのです。
「偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』」
私たちの心は、神さまの近くにいるでしょうか?神の掟を守ろうとする余りに いつの間にか人間の掟に縛られ、神の言葉を無にしてしまってはいないでしょうか?神を礼拝しているつもりで、倫理的な掟、道徳的な理想像に縛られてはいないでしょうか?
 神さまが求めておられる心。それは、偽善ではない、虚偽でもない、真実な心、誠実な心。真実な神さまがいつも私たちと共におられる。その恵みに、生かされている心ではないでしょうか?
 自分の弱さ、犯した過ちに真実でありたい。誠実でありたい。自分の弱さ、犯した過ちを取り繕い、口先で謝罪するのではなく、真実に自分の弱さ、犯した過ちを認め、主イエスに赦しを願う。そのとき主は、御手を広げ、「あなたの罪は赦された」、「あなたは清い」と宣言してくださるのです。決して、ファリサイ派の人々や律法学者たちが言うように「手を洗う」から「清い」のではない。神さまへの献げ物を欠かさないから清いのでもないのです。私たちの清さは、神さまが備えてくださる。その清さを「アーメン」とそのまま頂き、感謝する心こそが、神さまの近くに在るのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、むなしくあなたをあがめる者ではなく、あなたの清さに「アーメン」と感謝し、あなたの言葉に誠実に生きる者としてください。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も、聖霊を注ぎ続けてください。孤独があります。偽りがあります。怒りがあります。恐れがあります。主よ、どうか私たちの世を深く憐れんでください。特に、深い孤独の中で生きる気力を失い、さまよっている魂に聖霊を注ぎ、主にある希望を見いだすことができますようお導きください。2月、新しい進路を決断する季節でもあります。どうか、どのような状況になっても、主が共におられ、力強く導いてくださるとの信仰を失うことのないようにお導きください。今日も、礼拝に集うことのできなかった方々、体調を崩している方々、病と闘っている方々を深く憐れみ、祝福をお与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年1月31日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ダニエル書 第10章19節、新約 マタイによる福音書 第14章22節~36節
説教題:「恐れをつき破って響く声」
讃美歌:546、61、262、273B、540 

主イエスは、圧倒的な恵みのみ業により、群衆の空腹を満たされました。それからすぐ、「弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられ」たのです。  
弟子たちは、まごついたにちがいありません。しかし、主のご命令。舟に乗り、向こう岸へ出立しました。その間、主は群衆にも、家へ帰るよう命じられました。それから主は、祈るためにひとり、山に登られたのです。
ユダヤの人々の祈りには、二つの姿勢があったようです。一つは、天を仰ぎ、はっきり目を開き、手を高く伸べて、神さまに向かって、大きな声で祈る姿勢。五つのパンと二匹の魚を受け取られた主は、天を仰いで賛美の祈りを唱えられました。では、お一人で山に登られたこの夜も、天を仰ぎ、目を開き、手を高く伸べて、大きな声で祈られたのでしょうか?想像の域を出るものではありませんが、それはどうも違うように思うのです。かつての口語訳聖書は、こう訳しています。「群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。」そうです。人目を避け、おひとりで、ひそかに祈られた。
 ユダヤの人びとのもう一つの祈りの姿勢。それは、先ほどの姿勢と正反対。手のひらも顔も、地面に体を投げ出すようにして祈る。主イエスのひそかな祈りは、この姿勢であったのではないかと思うのです。そしてその祈りは、弟子たちの信仰のための祈りであったでしょう。困窮している人々のための祈りでもあったでしょう。もう少し想像することが許されるのであれば、洗礼者ヨハネの死を受けてご自分の十字架を見据えておられたのではないか。ゲツセマネの園での祈りに通じる、み心を問う祈りではなかったかと思うのです。「父よ、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
主イエスは、弟子たちから離れ、ただおひとりで夜を徹して祈られました。そして神さまの み力と み心の示しを頂き、山を下りられたのです。
一方、弟子たち。湖面に吹き下ろす逆風のため、舟は波にもまれるばかりでいっこうに前に進まない。弟子の中にはペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネという元漁師が四人もいる。湖を取り囲む山々からの吹き下ろす逆風は経験がなかったわけではないと思われますが、それでも、ここまでの逆風、高波は経験したことがない。すっかり夜は更け、真っ暗で何も見えません。このまま舟がひっくり返って死んでしまうのではないか。弟子たちの恐怖が極限まで達したそのとき、湖の向こうから誰かがこちらへ近づいて来る。それも歩いて!!「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげ」ました。いよいよ死の世界から迎えが来た!弟子たちはもう半狂乱だったに違いない。しかし、そのとき、暗闇の中から、弟子たちの恐怖をつき破るようにして声が響きました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」弟子たちは、力強い主イエスの み声にどれほど力づけられたことでしょう。主よ、あなたでしたか!!ペトロは喜んで言いました。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」主は言われました。「来なさい」。
ペトロは、「来なさい」との主の言葉の力によって、舟から降りて水の上を歩き、主の方へ進んで行きました。湖上を歩かれる主を「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた その男が、水の上を歩いたのです。それほど、主の言葉には力がある。主イエスの み言葉の力は、神の み力に他ならないからです。ペトロは主の「来なさい」というご命令の力によって、水の上を歩き、主イエスのもとへと進んだのです。
しかしです。主イエスとペトロの物語は終わらない。ペトロは主の言葉によって歩いたのですが、歩いている途中で、「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけ」てしまいました。ただ主の み言葉に身を委ねて歩いていればよかったのに、疑ってしまった。おぼれかけたペトロは叫びました。「主よ、助けてください」。
ペトロは、沈みかけて、小さな子どものように、「主よ、助けてください」と叫んだ。しかし、このなりふり構わない、不格好な叫びこそ、主イエスが私たちに求めておられる信仰なのです。信仰とは、決して小難しい理屈ではない。もう駄目だ、このままでは沈んでしまう、死んでしまう。そのとき何に頼るのか。誰を頼みとするのか。
「わたしの助け主」、「わたしの救い主」はどなたなのか。イエスよ、あなたです。主よ、助けてください!主は、この叫びを信仰と言ってくださるのです。こんなにありがたいことはありません。沈みかけたら、良い行いをしなければならない、ではありません。整った祈りをせよ、でもない。ただ、切羽詰まってすがりつくような「主よ、助けてください」との叫びを、主は祈りとして喜んで受け入れてくださるのです。主は、すぐに手を伸ばし、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言って、しっかりと捕まえてくださいました。ペトロが「主よ、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と願ったように、私たちも主イエスのように歩きたい、主イエスに従って歩きたいと願う者です。そして、主のみもとで、主の力に生かされているはずなのに、嵐を恐れてしまうことがある。高波におぼれてしまいそうになることがある。主のご命令を、主のみ言葉を疑ってしまうことがある。
主の言葉を疑ったペトロ。信仰が薄く、小さい、と主に言われてしまったペトロ。けれども、だからと言って、ペトロがその名前のように岩のような揺るぎのない厚く、強く、大きな信仰、強靭な信仰を抱いていれば沈まなかったのかというと、そうではないように思います。主イエスのご命令があるから、主イエスのみ言葉があるから、ペトロは、また私たちは嵐の波の上を歩くことができる。主イエスは決して変わらないお方です。何があっても「来なさい」と言われた言葉に責任を持ってくださる。主イエスが「来なさい」と言われたら、その言葉はそのまま全能なる神さまの招きです。たとえ、逆風が吹いても、高波が襲ってきても、恐れることなく、安心して歩くことができる驚くべき力を私たちに与えていてくださるのです。
ペトロはうろたえた。しかし、結果として、そこに意味がありました。うろたえ、怖くなり、沈みかけたことで、ペトロは叫ぶことができたのです。「主よ、助けてください」と。その叫びに対して、どこまでも真実であられ、ご自分のお言葉「来なさい」に誠実であられる。主は、すぐに手を伸ばして捕まえてくださり、引き上げてくださったのです。
主イエスとペトロが「舟に乗り込むと、風は静まった。」そして、 「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言って」主イエスを礼拝しました。
 ここに、心に刻みたい真実がある。「本当に、あなたは神の子です」との信仰告白、弟子たちが祈って、祈って、信仰を深めたから、告白できたのではありません。主イエスが助けを必要としている者に神の力を、神のご意志をお示しくださった。だから告白することができた。
主イエスは、助けを必要としている者たちのため、「主よ、助けてください」と叫ぶ者たちのために、父なる神さまの力と ご意志を示してくださいます。そして、「本当に、あなたは神の子です」と信仰を告白する知恵と力をくださるのです。
さて、「一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着」きました。「土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服の
すそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされ」ました。
皆さんも感じられたことでしょう。主の癒しを求め、「服のすそにでも触れさせてほしい」と願った人々の祈りは、ペトロの「主よ、助けてください」に通じるものです。主イエスの圧倒的な力をただ信じ、まっすぐに願い求める。そのような祈り、叫び、願いを主は「信仰」と喜び、大いに祝福してくださるのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、主が共におられることを確信させてください。恐れを砕いてください。疑いの心を吹き消してください。「幽霊だ」と脅える目と心を、あなたが塞いでください。強い風ではなくて、どのようなときも あなたを見る目を お与えください。主にある平安を日々、感謝する者としてください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も、聖霊を注ぎ続けてください。受験のシーズンに入りました。コロナ禍で一所懸命に努力してきた受験生をまもり、支えてください。教会学校の子どもたちのために祈ります。教会学校の子どもたちも不安を抱えております。どうぞ子どもたちを憐れみ、しっかりとお支えください。子どもたちに加え、たくさんの方々が、将来への不安を抱えております。それらの方々に、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と語り続けてください。あなたを知らず、どなたに救いを求めてよいのかわからない方々に、主イエスをお示しくださり、不安の中にある方々が「主よ、助けてください」と叫ぶことができるよう、信仰をお与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年1月24日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 出エジプト記 第16章33節~36節、新約 マタイによる福音書 第14章13節~21節
説教題:「それをここに持って来なさい。」
讃美歌:546、12、287、502、539 

私たちは今朝も使徒信条を唱えました。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」そうです、私たちは「全能の父なる神を信ず」と告白し、「主イエスは全能の父なる神の独り子」と告白する群れです。第1主日は、ニケア信条をもって信仰を告白します。ニケア信条は、主イエスは、「まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものは この方によって造られました」と告白します。主イエスは、人間と区別され、超越した聖なる存在であられる。そのお方が人として、私たちの世に天から降って来られた。そして、私たちの弱さを私たちよりも深いところで、ご自分の痛みとして受け止めてくださるのです。
今朝のマタイによる福音書第14章13節以下の み言葉は、主が神さまと同質であられること、さらに私たちの弱さをご自分の痛みとして深く憐れんでくださることが記されている「奇跡物語」です。子どもの頃から教会に通い続けている方は繰り返し聞いてこられたことでしょう。
「奇跡物語」と申しました。物語、しかも奇跡となると、どこか、おとぎ話のような現実味のない話という印象を持たれるかもしれません。「奇跡などあり得ない。私たちには関係がない。その証拠に、今に至るまで食糧問題は解決されていない。もし本当に神が奇跡を行われると言うのなら、コロナで職を奪われた生活困窮者のために、五つのパンと二匹の魚を増やしてみて欲しい。」そのようにもっともらしい顔で、つぶやきたくなる。 
けれども、今朝の説教準備をしているとき、み言葉が迫って来た。コロナ、コロナで大人も子どもも不安に襲われている今こそ、心に刻みたい み言葉であると強く感じたのです。
なぜそのように感じたか?私自身が、「私には、これしかない」とぼやく人生を歩んできたからです。中学受験での失敗。自分の能力の低さ、友人との違いを突き付けられた学生時代。社会人になってからも同僚と自分を比較する。すでに信仰を告白し、洗礼を受けていながら、神さまへの祈りを怠り、神さまの力を完全に信じることができずにいた。神さまの力を信じ、自分に与えられている賜物を信じ、できる限りの働きをしよう!あとは神さまに祈りつつ委ねよう!と思えず、自分の手元ばかりを気にしてぼやき続ける。牧師になった今でも、私には大きな声しかありません、とぼやく日がある。しかし、そのような私だからこそ、神さまは、大いなる奇跡物語を語るようにと示してくださったのではないかと思うのです。
弟子たちも呟き、ぼやいていた。ここは人里離れた所。夕暮れも近い。そろそろ解散させないと、大勢の群衆では食べるのに困ってしまう。そう思い、主に訴えた。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
弟子たちは自分の手元ばかり見ています。そして神さまではないよその場所に、手だてを求めてそわそわしているのです。でも、主は言われました。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは慌てました。そして、皆で声を合わせて訴えたのです。「主よ、ここにはパン5つと魚2匹しかないのです。草原にいる群衆は、男性だけで5千人。女性と子どもを含めると1万人、いや、もっとかもしれません。そんなことできっこないじゃないですか?」
 弟子たちが訴える間、主はどのような表情だったか?悲しいお顔だったかもしれません。あるいは真面目なお顔だったかもしれない。聖書には、主が語られた一言だけが記されています。「それをここに持って来なさい」。何と素晴らしい響きでしょう。
主イエスはまず、「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」と命じられた。突き放したようにも感じられる言葉です。「私が奇跡をおこして食べる物を与えよう」ではないからです。与えるのは弟子たち。しかしだからと言って、「あとはよろしく」といなくなってしまわれるのではない。「あなたがたが持っているものをすべて差し出しなさい。私を信頼して預けなさい。」と言われた。手元にあるものが多いとか少ないとか言わなくていい。自分で確保しなければ、と焦る必要もない。他者と比べる必要もない。あるものを持って来て欲しい。私に預けて欲しい。あとは私が祈る。父なる神さまに、この食べ物を祝福し、命の糧としてくださいと。今、あなたに与えられている恵みを私に預けなさい。そうしたら、私が祈り、祝福し、再びあなたに渡す。だから私を信じ、疑うことなく、すべてを差し出して欲しい。」主イエスがおっしゃるのです。神さまと同質であり、すべてを造り、すべてを備えてくださるお方である主イエスが。
弟子たちは、少し、いや、相当に戸惑ったかもしれない。それでも、弟子たちは主イエスに従い、5つのパンと2匹の魚を差し出したのです。主イエスは祈り終えると、5つのパンを両手で裂き始められました。弟子たちは、裂かれたパンを草の上に座っている群衆に、「どうぞ」とドキドキしながら与え始めた。どれだけ与えても、パンは無くならない。みんなが満足し、そのうえ、さらに12の籠がいっぱいになるほどのパン屑が残りました。これが主イエスの み業。神さまの み業なのです。
改めて思います。私たちも呟く。「私には大きな声しかありません。」「私には祈ることしかできません。」そのとき、主は深く憐れんでくださる。「あなたにも素晴らしい賜物が与えられている。それなのに、『これしかない』と呟くのか。とても悲しい。あなたは祈ることができるね。祈れることは、何と素晴らしいことか。祈りの言葉を私に差し出してごらん。」
 私事になりますが、銀行を退職し、キリスト教ラジオ放送局 日本FEBCに転職したとき、私は傲慢でした。「私には、銀行での経験がある。小学1年から教会に通い続けている。その私が転職した。これまでの経験を駆使してラジオ伝道に励もう。」しかし、神さまにすべてを預けていませんでした。貯金も、生活の糧も確保した上での転職。中途半端な献身。神さまはご存知でした。すぐに挫折することを。そして言われたのです。「すべてをここに持って来なさい。あなたの元銀行員としてのプライドも、家族の生活も、これまでの蓄えも、すべてを差し出してよい。私が父なる神に祈り、祝福し、再びあなたに与える。あなたは私が与える恵みを、ただ配ればよいのだ。そのことが、皆の心を満腹にするのだよ。」
そのときは弟子たちのように戸惑いながら、日本FEBCを辞め、神学校に入学しました。でも今、すべてを神さまに委ね、献身することができて本当に良かったと心から思います。私たちがどれほど小さな者であっても、ほとんど何も持っていないと思っていても、かすかな声で祈ることしかできなくても、それでも主は、「大丈夫。それをここに持って来なさい。」と言ってくださいます。そして、主を信じて差し出しさえすれば奇跡はおこるのです。隣人を救うために、み言葉を届けるために用いてくださいます。主は、私たちの心からのささげものを喜び、大きな恵みに変えてくださるのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、「これしかありません」とぼやく罪をお赦しください。どうか、喜んであなたにすべてを差し出し、再び あなたから与えられる恵みを感謝して与え続けるものとしてください。主の み名によって祈ります。アーメン。

2021年1月17日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 列王記下 第17章13節~14節、新約 マタイによる福音書 第14章1節~12節
説教題:「世との戦い」
讃美歌:546、8、375、381、545B 

少しずつ読み進めております28章からなるマタイによる福音書。今朝から後半の第14章に入ります。第14章はこのように始まります。「そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちに
こう言った。『あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。』」
ガリラヤ地方の領主ヘロデは、主イエスによる数多くの奇跡の噂を聞き、「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。」と恐れました。もちろん、主イエスはヨハネの生き返りではありません。しかし、ヘロデは恐怖にとらえられているのです。
洗礼者ヨハネは、主イエスに先立ち、神さまによって立てられた預言者でした。ユダヤの荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝え、世の不正を正し、人々を悔い改めへと導いていたの
です。主イエスは、そのヨハネに洗礼を授けてもらおうと、ガリラヤからヨルダン川まで来られました。ヨハネは驚きました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしの ところへ来られたのですか。」しかし、主はお答えになられました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」こうしてヨハネは主イエスに洗礼を授けたのです。
ヨハネは、世の不正に真正面からぶつかり、正そうとしました。たとえ相手がヘロデであろうとも、決して見逃さない。時の権力者に意見することは、当時の社会では命がけです。しかし、そのようなことでひるんだりしない。欲望を満たすため、自分の兄弟フィリポの妻へロディアと結婚したヘロデに、ヨハネは言い続けました。「あの女と結婚することは律法で許されていない。」
権力者にとって、罪を指摘されることは耐えられない屈辱です。この時点でヘロデは、ヨハネを殺すことも可能。けれども、民衆を恐れたのです。なぜか?人々がヨハネを預言者として尊敬していたからです。もしも姦淫の罪を指摘されたことで腹を立て、ヨハネを殺してしまったら、民衆が騒ぎ出す。そうなると騒乱罪で、ローマ皇帝から罰せられる。ヘロデはそのことを恐れてヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていたのです。神さまを信じ、何ものをも恐れないヨハネと、神さまを信じることなく、民衆を恐れ、ローマを恐れ、死者を恐れるヘロデ。対照的な二人です。
ヘロデが、ほとぼりがさめるのを待っていたか、そのまま終身刑にするつもりだったのかわかりませんが、自分で手をくだすことを恐れた。けれども、事態はヘロデの思惑に反して、転がり始める。ヘロデの誕生日の宴席で、へロディアの娘が踊りをおどった。ヘロデは上機嫌。娘に「願うものは何でもやろう」と誓って約束して
しまった。まさかヨハネの首が欲しいと願うなど一ミリも思って
いなかったに違いありません。しかし、つい誓ってしまったことで、取り返しのつかないことになってしまう。「すると、娘は母親に唆
されて、『洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください』と
言った。王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首を
はねさせた。」
私はこの箇所を読むと、いつも思います。ヘロデの行為は他人事ではないと。私にも経験がある。クラスの仲間が同級生をいじめている。私もその流れにのって同級生をいじめてしまった。中学生の私が犯した過ちです。リスクの高い商品を販売することは、顧客に不利益を被らせるかもしれない。でも、支店長に今月は何としてもノルマを達成したいと思います!と営業会議で約束してしまった。この顧客に印鑑を頂けばノルマ達成。
追い詰められていた私は、高齢の方に対して、「こちらの商品は、購入した金額から値が下がるリスクはありますが、長期的に保有していれば値が上がる可能性が高いと思います。」と勧めてしまった。上司に怒鳴られることを恐れた。人事評価が下がることを恐れた。ヘロデのように、恐れてしまった。ヨハネのように、恐れること
なく、義しく生きたい!と願っているつもりでいたけれど、心の底
では自分には無理だ、と諦めていたのです。それは突き詰めれば
神さまを忘れ、神さまを信じられなくなっていた、ということです。
私たちの信仰生活は、「恐れ」との戦いかもしれません。世にある限り、あらゆるものが私たちを神さまから引き離そうと襲って来る。病、権力、災害、人の目、それらを恐れる心との戦いです。しかしヨハネは知っていた、神さま以外、何ものも恐れるに足らないと。なぜなら、全能なる神さまが共にいてくださる。たとえ死んでも、神さまと共に在る死は終わりではないから。確かに私たちは弱い。しかし、様々なことを恐れている自分の愚かさを嫌というほど思い知ったとき、主が共にいてくださることが、他に比べるもののないほどの恵みであることに気づかされる。弱い者であるがゆえに、
神さまが共にいてくださる。神さまの強さに信頼してよい。「私は
強い。主が共にいてくださるから。」そう言って良いのです。
 ヨハネの弟子たちは、ヨハネの遺体を引き取って葬り、主に報告しました。もしかすると、ヨハネの弟子たちは主イエスに、ヨハネの理不尽な死に一刻も早く行動してください!と嘆願したのかも
しれません。ヨハネに代わり、ヘロデを懲らしめて欲しい!世の不正を正し、悪い者をバッサ バッサと倒す正義の味方のような救世主を願った。しかし、主イエスはそのような行動はなさいませんで
した。
主は、舟に乗ってそこを去り、ひとり、人里離れた所で祈られました。み心を問うために。神さまの「時」が満ちるまで、神さまの み心に従って生きるために。そして、「時」が満ちたときに、私たちの罪を背負って、十字架につかれるために。
そのお姿は、私たちに世との戦い方を教えてくださる。私たちは世に不正があるとき、自分の罪を痛感するとき、自暴自棄になるのではありません。神さまの み翼の陰に身を委ね、高ぶる心を静める。恐れがあるなら、神さまに打ち明ける。そして、み心を問い続けるのです。そのとき、十字架から み手を広げ私たちを招いておられる主が迫ってまいります。主は心を込めて語ってくださいます。「私は、どんなときもあなたを守る。だから、あなたは強い。どんなときも恐れなくてよい。私はいつもあなたと共にいる。」
私たちの愛する讃美歌の一つに「主われを愛す」があります。『主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも/恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す。』今は共に歌うことができませんが、心の中で歌いつつ、世の戦いを共に戦い抜きましょう。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、すぐに恐れを抱く私たちです。どうか、憐れんでください。「恐れなくてよい。私はいつもあなたと共にいる。」との み声を聞き続ける者としてください。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは 聖霊の助けを頂か
なければ、主の み心を生きることはできません。今週も、聖霊を
注いでください。今日1月17日は、26年前に阪神淡路大震災が発生した日です。6,434人もの尊い命が奪われました。現在も深い悲しみの中にある方々を憐れみ、慰めをお与えください。主よ、世界中で新型コロナウイルスの感染者が増え続けております。世界、また日本に恐れがあります。それでも日々、心を込めて医療に従事している方々を強め、励ましてください。教会での礼拝を求めつつ、様々な理由のために礼拝を休んでいる方々の上に、私たちと等しい祝福をお与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年1月10日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第13章15節~17節、新約 マタイによる福音書 第13章53節~58節
説教題:「主よ、硬い心を開いて下さい」
讃美歌:546、7、194、250、545A、427

再び緊急事態宣言が発令されました。今日から、ヒムプレーヤーでの奏楽とし、声に出しての賛美は宣言が解除になるまで中止します。礼拝後の定期長老会で、今後の教会活動について協議しますが、み心を問う時間となりますよう、祈りを合わせていただきたいと思います。
皆さんも、コロナ禍のため、年末から年始にかけ、故郷に帰ることなく、また、ご家族がいらっしゃることもなく、過ごされた方が多かったと思います。私も冬の休暇を頂きましたが、実家には帰りませんでした。
ところで、皆さんは「故郷」という言葉にどんなイメージをお持ちでしょうか?「生まれ育った懐かしい土地」ならば、悪くないイメージだと思います。けれども、小さい頃に苦労を重ねた方にとって、「故郷」は、できれば思い出したくないネガティブなイメージかもしれません。私は横浜で育ちましたので、横浜の景色を見ると懐かしい気持ちになります。また、毎週通った鎌倉の教会とその周辺も大好きな場所です。脱サラし、伝道者として用いられている私ですが、母教会の方々は今でも「毅朗くん、大丈夫?」と母に尋ねてくださるようです。母教会の方々にとって私は、今でも小学生の「たかおくん」なのかもしれませんが、あなどって そのようにおっしゃるのではありません。いつまでも少々頼りない者ではありますが、そのような私が伝道者として神から立てられていることを喜び、祈ってくださる。しかし、主イエスの場合は違いました。主イエスが故郷の人々から喜んで受け入れられることはなかった。いや、受け入れられないどころか馬鹿にされ、拒まれ、見捨てられたのです。
主イエスがどのような思いを胸にして故郷へお帰りになったのかはわかりませんが、故郷ナザレへお帰りになられると、いの一番に、会堂(ユダヤ教の教会)へ行かれました。そして 他の町や村でもなさったようにナザレでも、天の国について教えられたのです。しかし、幼少時代の主イエスを知っている人々は驚いて、ささやき合いました。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。(13:54)」主イエスの力、み言葉の権威を怪しんだ。ファリサイ派の人々が、主イエスの力を悪霊によるものだと言ったときと同じです。主イエスの力が、天からの力であると信じられなかった。主イエスを大工のヨセフの長男坊としか見ることができず、「神の子」とは思えない。そのように、主イエスにつまずいたのです。主イエスの低さだけに目が行ってしまった。
なぜでしょう?自分が高いところにいるからです。高いところにいて下ばかり見ているから主の高さに気づけない。下ばかり見て、神を仰ごうとしない。神さまに、聖霊の注ぎを求めようとしないのです。聖霊の助けなしに、神さまの み心はわかりません。聖霊の助けなしに、主イエスを真の神さまとして仰ぐことはできないのです。 
少し細かい話になりますが、57節に、「このように、人々はイエスにつまずいた。」とあります。「つまずいた(εσκανδαλιζοντοエスカンダリゾント)と訳された原語の時制は「未完了過去」になります。つまり、ただ一度、主イエスにつまずいた、ではなく、継続している。つまずいたままであった。人々は呟きをやめなかった。主イエスの低さを馬鹿にし続け、「これほどまでに低い者は私たちが待ち続けたメシアではない」と拒み続け、ついに、十字架で処刑することを求めたのです。そして、主イエスが心を込めて愛し、憐れみ、教え続けた弟子たちすらも、主イエスを見捨てて、逃げ出してしまった。
故郷の人々のつぶやきは、決して他人事ではありません。私たちも天を仰ぐことを怠り、今このときも生きて働いておられる主イエスを無視して、高みに立ち続け、隣人に不誠実であり続けるなら、ナザレの人々のつぶやきは私たちのつぶやきです。
主は、誰からも尊敬されず、見捨てられた。低さの極み、惨めさの極みを主は経験なさいました。しかし、主イエスの低さ、惨めさこそが神の み業であった。神の み心であった。主イエスの低さ、惨めさが、私たちの希望になるのです。十字架ほどの低さは他にありません。たとえ、私たちがどのような試練に襲われ、どれほどの暗闇の底に落ちようとも、そこには主の十字架があるのです。自分が高いときには低いものとしか思えなかった十字架の主の高さが、暗闇の底でわかる。誰に見捨てられようと、神はお見捨てにはならないことがわかる。神の子であられる主が、全ての人に見捨てられ、神さまからも見捨てられて、私たちの希望となってくださったからです。十字架ほどの低さはありません。同じように、十字架ほどの高さもないのです。十字架の主を仰ぎ続ければ、私たちは失望しない。主は、十字架を仰ぎ続ける者を見捨てられることはないのです。
今朝の旧約聖書の み言葉エレミヤ書を記した預言者エレミヤの人生も試練の連続でした。故郷アナトトの人々から若造とあなどられ、エルサレムの人々から田舎者とあざけられつつ、「立ち帰れ、イスラエルよ(4:1)」と語り続けた。その結果、40年以上も人々から迫害されたのです。主イエスは言われました。57節後半、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである(13:57)」。
私たちも悩むのは家族への伝道です。家族は私たちの弱さ、過ちを知っているからです。愛する家族こそ救われて欲しいのに、教会や信仰の話題を避けてしまうのです。しかし、そのままでは、天の み力を信用しなかったナザレの人々と同じ。主を失望させる不信仰な者です。たとえ家族、また故郷の人々から「えっ、あなたがクリスチャン?」と笑われ、つまずきを与えても、胸を張って言いたい。「欠けだらけの私だからこそ、主の十字架にすがるしかなかった。私は知った。イエスさまこそ、人々から、『お前が神の子?』と鞭で叩かれ、唾まで吐きかけられた。そのお姿に私は打たれた。そこまでして、私を愛し、赦してくださる主イエスの愛に私は救われた。だから私は、主に従う者となったのです。」
 もっとも低いところに立ってくださった、もっとも高い方こそ、私たちの救い主イエス・キリストです。共に、主の十字架を仰ぎつつ、「主よ、私たちの硬い心、すぐに高いところに立とうとしたがる心を開いて下さい」と、祈り続けたい。もしも、私たちが胸を張って誇るとするならば、自分の低さ、弱さを誇りたい。そこだけが、十字架の尊さを知ることのできる唯一の場所なのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、私たちの硬い心を開いて下さい。自分の低さ、弱さを誇りつつ、十字架の尊さを愛する家族に伝道する者として下さい。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も、聖霊を注ぎ続けてください。主よ、新型コロナウイルスの感染拡大が止まりません。医療に従事している方々、保健所の方々、またたくさんの方々が疲れ果てております。仕事を奪われ、今日一日、食べることに困窮している方々もおります。どうか、一日も早く終息へと導いてください。東京都も再び緊急事態宣言が発令されました。午後の長老会で今後の教会活動について協議します。主よ、み心をお示しください。今日も礼拝をおぼえつつ、様々な事情で礼拝を休んでいる方々が大勢おられます。その場にあって祝福をお与えください。体調を崩している方々、病と闘っている方々を憐れみ、癒しの み手を差し伸べてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2021年1月3日 日本基督教団 東村山教会 第1主日・新年礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 箴言 第2章1節~8節、新約 マタイによる福音書 第13章44節~52節
説教題:「かけがえのない宝」
讃美歌:546、28、411、353、544

2021年が始まりました。新しい年も皆さんの上に主の祝福と平安を祈ります。新年最初の主の日に与えられたのは、「天の国」のたとえとなりました。44節。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」
おそらく、盗まれたり、火事で燃えたりしないように財産を土に埋めておく、ということがあったのでしょう。持ち主が宝を埋めた場所を忘れ、そのままであったかもしれません。あるいは、持ち主が死んで代替わりし、埋められた宝は放置されたまま。その宝をある人が偶然見つけたのかもしれません。見つけた人は、地主に内緒で持ち物を売り払い、畑ごと宝を自分のものにする。わかり易いと言えば わかり易い「たとえ」ですが、不思議にも思える。「私は知りませんでした」と白を切り通せば、ギリギリ許されるかもしれません。しかし、少々ずるい やり方だと思うのです。
主は続けられます。45節以下。「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」商人が良い真珠を探している。何のためか?当然、商いのため、儲けるためです。そして、高価な真珠を見つけた。商人は慌てて出かけて行って、持っているものを売り払い、高価な真珠を手に入れた、というのです。これはどういうことでしょう?たとえば、高価な真珠が期間限定で驚くほど安く売られていたなら、「このチャンスを逃す手はない!」と興奮するかもしれません。
しかし、良い真珠が、高い値で売られている。どんなに良い真珠であったとしても、持ち物をすっかり売り払って手に入れたところで、この人は商人です。すっからかんになって手に入れた真珠を、この商人はいったいどうするのか?商人を辞めてでも真珠を手に入れた、ということなのでしょうか?普通の感覚では考えられないことです。けれども、それこそが天の国の性質なのです。
神さまが備えてくださる天の国は、広い畑に隠された宝、あるいは あちこち探し回らなければ見つからない高価な真珠のように隠されています。また その天の国の価値も、神さまが目を開いてくださらなければ、隠されたまま。神が目を開いてくださらなければ、どんなことをしてでも宝を手に入れようとする人のやり方も、商人の行動も不思議であり、理解できないのです。
それでも、主のたとえ話に耳を傾けていた弟子たちは、幸いにも これら二つのたとえ話を、「不思議な物語」ではなく「私の出来事」として喜んで聞くことができました。
マタイによる福音書 第4章18節から22節にはこう書いてありました。「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。」
全てを捨て、主に従った弟子たちにとって、「天の国」のたとえに登場する人の姿は自分自身でした。「主こそ私の喜び、私の宝。主に従い、主と歩む命こそ、何ものにも替え難い宝。持ち物を売り払ってでも手に入れたい宝。」感謝しつつ、喜びつつ、聞くことができたのです。
「天の国」のたとえに隠されている大いなる宝、その価値を、発見できるかできないかは、私たちの歩みを左右します。「信仰の生命線」と言ってもよい。朝に夕に、いつも祈り続けたい。「主よ、私の目を開いてください。『天の国』のたとえを『私の出来事』として受け入れることができますように。」
聖霊の働きにより、私たちの目が開かれたとき、私たちの目に見えるのは、たとえ話とは、まるであべこべの真実です。たとえでは、「天の国」という宝を得るために持ち物を売り払うのは私たちのはずです。ところが、実際には、神ご自身が、全てを売り払うかのようにして独り子を世に遣わされた。そして、主の十字架の死によって、私たちをかけがえのない「宝」として買い取ってくださったのです。だからこそ、網が湖に投げ降ろされ、網がいっぱいになると、岸に引き上げられる たとえの厳しさが、何ものにも代え難い恵みとなるのです。
47節以下。「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。」
網を投げ入れる人々は天使たち、魚は私たちです。泳ぐ魚に自分の良し悪しがわからないように、私たちも自分の良し悪しなどわかりません。なぜなら、良し悪しを判断なさるのは主 御自身だからです。しかし、私たちは恐れなくてよい。なぜか?神の御子が、燃え盛る炉の中に投げ込まれたからです。泣きわめくことも、歯ぎしりすることもなく、黙って十字架の上で死なれた。
父なる神さまは、世の終わりの日に、網にかかる魚を、みな、良い魚とするために、そこまでしてくださった。だから悪い魚は一匹もかからないはずです。神さまは、網いっぱいの良い魚を期待して 網を投げ入れてくださるのです。
私たちは、「今日こそ、主の御心に生きたい!」と願いつつ、過ちを繰り返してしまう愚かな者です。「どの瞬間も、神さまに見られて大丈夫。心の隅々まで汚れなく清い私」と言える人は誰一人おりません。だからこそ、主の十字架は尊いのです。主の十字架のゆえに、私たちは引き上げられる網の中で、御声を聞くことができる。「大丈夫。あなたの罪は赦された。あなたは十字架によって救われたのだ。」これ以上の喜びはありません。主の十字架による赦しこそ、私たちの「かけがえのない宝」です。持ち物をすっかり売り払ってでも手に入れたい大いなる福音、天の国なのです。
主イエスは、弟子たちに問われました。「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちが「分かりました」と言うと、主は言われました。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」主は、「天の国」のたとえから福音を聞き取った弟子たちに、「あなたは学者だ」と言われました。学者というと偉い先生を思い浮かべ、「私とは関係ない」と思ってしまいます。これも不思議な み言葉ですが、他の訳では「天の支配のための弟子になった聖書学者(J.シュニーヴィント)」あるいは、「天の王国のための弟子とされた律法学者(岩波訳)」とも訳されています。天の国の弟子とは、日々、犯してしまう過ちを主に告白し、「あなたの罪は赦された」と、罪の赦しを宣言して頂ける者です。その喜びの中で、「御国を来たらせたまえ」と祈り続ける者です。つまり「天の国のことを学んだ学者」とは「天の国」の喜びを人々に伝える者であり、「天の国」の喜びを学び続ける者なのです。どなたから学ぶのでしょう?私たちの先生は主イエス。私たちは、「天の国小学校」の生徒です。この学校には、卒業式がありません。生涯学び続けるのです。時に、愛する先生から愛の鞭を受けることがあります。それでも、私たちは愛の鞭が希望を生むことを知っている。どこまでも、主を信頼してよい。人生のすべてを主に委ねてよいのです。
主の弟子として、生涯をかけて学ぶからこそ、「天の国」の喜びを誰かに教えたくなります。恩師である主イエスに倣って語るのです。旧約聖書の御言葉。新約聖書の御言葉。どんな日も私たちを成長させてくださる。喜びを倉に納めたままではもったいない。御言葉を倉から取り出して、人々に喜びを伝えるのです。そのために、私たちは目を開いて頂いたのです。今年は、昨年以上に深刻な一年になるかもしれません。けれども、私たちは神さまのご支配のもとに生きる平安、かけがえのない宝を与えられています。新しい年も、主イエスに学び、主イエスに倣って「かけがえのない宝」を語り続けてまいりましょう。<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、新しい年も「御国を来たらせたまえ」と日々、祈り続ける者としてください。どうか、「かけがえのない宝」である御言葉を倉に納めてしまうのではなく、語り続ける者としてください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も、聖霊を注ぎ続けてください。新しい年を迎えました。しかし、何とも重い気持ちを抱えております。主よ、一日も早く疫病を終息させてください。年末年始も関係なく医療に従事している方々、不安を抱えている方々、孤独の中にある方々を強め、励ましてください。新年礼拝をおぼえつつ、それぞれの場所で祈りをささげている方々の上に私たちと等しい祝福を注いでください。特に、病と闘っている方々、入院している方々、痛みを抱えている方々がおられます。それぞれの痛みを和らげ、癒しの御手を差し伸べてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2020年12月27日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第78篇1節~4節、新約 マタイによる福音書 第13章24節~43節
説教題:「成長を待ちたもう主」
讃美歌:546、24、120、Ⅱ-196、543

2020年、最後の主日となりました。この一年を締めくくる主の日。その日に与えられた み言葉は、「天の国」について主イエスが教えてくださった
たとえ話となりました。主イエスはおっしゃいます。「良い種を蒔く者は人の子(人の子とは主イエスを指します)、畑は世界、良い種は御国(みくに)の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。(マタイ福音書13:37~39)」
教会は、天の国のさきがけとして立てられています。建物としての教会ではありません。神さまのご支配のもとにある 御国の子らの群れとしての教会です。主イエスが世にいらしてくださり、天の国、神さまのご支配が始まりました。
私たちの教会も、世に立てられている諸教会と力を合わせ、天の国の完成に向かって働くのです。そのような私たちに今朝、主イエスは告げておられます。「私が良い種を蒔くところには、もれなく悪魔も 悪い種を蒔いていく。悪魔は常に神に敵対するから、それは 避けられないことなのだ」。そう言われると、すぐに心配する私たち。そして、「毒麦はすべて取り除かなくてはならない」と思い込むのも私たちです。
聖書には、ユダヤ教の中で「ファリサイ派」と呼ばれる人々が登場します。ファリサイ派の人々は、厳しい戒を自分にも他者にも課し、「戒めを完璧に守る我々ファリサイ派は、神の国に入ることができる。反対に、戒めを完璧に守ることできない愚かな者は、世の終わりの時、神の厳しい審きにあう」と考えたのです。
ファリサイ派は、群れ全体を清く保つことに全力を注ぐ。塵一つ見逃さないように。少しの汚(けが)れもないように。しかし、真(まこと)の審判者 主イエスはおっしゃる。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。(13:29~30)」
私たちは、主イエスの み心を知っているつもりになっています。「そうだ!イエスさまは誰をも招き、誰をも受け入れ、誰をも排除されない。」けれども、いざ教会に異質な人、群れを乱す人がいると、主の み心「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」を忘れ、やっきになって「毒麦を抜こう」とするのです。かつて青年会のリーダーを担っていたとき、対応の難しい青年がおりました。その人がいるとほぼ毎回 口論が始まる。リーダーとして彼の主張を排除してはいけない。けれども、心では「この人がいなければ青年会運営も楽なのに」と呟いていたことを今でも忘れません。
では、主イエスが言われた「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」は、教会にどんなに難しい人、和を乱す人がいても、じっと耐え、我慢しなさい!ということなのでしょうか?私は、そうではないと思います。教会から毒麦を追い出さない、排除しない、とは、何があってもじっと耐え、我慢しなさい!ということではありません。目線を変える。その人の嫌な面、耐えられない面に向けられた心を、クリスマスの夜、無力な乳飲み子として罪の世に裸で放り込まれた み子に向ける。み子に信頼するのです。
十字架を仰ぐ。すると、私たちの罪が迫ってくる。間違っても「私は清い」などとは言えない者だ、ということがわかる。み子を寄ってたかって十字架につけて殺したのは私たちです。そのような私たちの罪の ど真ん中に、み子はお生まれくださった。それほどの神さまの圧倒的な愛を心に刻みつつ、「私が赦されたように、あの人も主に赦される」と信じる。毒麦を抜くことに躍起になるのではなく、「私こそ毒麦であるにもかかわらず、主の十字架によって赦された」ことを心から感謝する。そして、感謝の応答として、毒麦としか思えない人とも力を合わせ、共に主に向かって成長することを祈り合う。そのような群れが、天の国のさきがけとして立てられている教会なのです。
教会は、「私の罪が み子を殺した。だからこそ、み子が私に宿られた!」と信じる者の群れです。「主が十字架で死なれ、私の罪を帳消しにしてくださった。だからこそ、私はあの人とも、この人とも生きていける!」と信じる者の群れなのです。
「私たちは、罪の赦しを信じる群れ。」この一点に教会が立つとき、人間的な判断で「あの人は毒麦!」と審き、引っこ抜き、私たちの力で清い聖なる集団を作ろう!とは言えません。主の十字架は、罪人を罪人であるがゆえに天の国、神さまのご支配へと招いてくださるのですから。教会は、罪人の集まり。清廉潔白な人の集まりではないのです。主の十字架がなければ生きられない罪人が罪を赦され、聖なる者とされ、神さまを喜び、誇る者の集いです。「我は聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず。」と毎週唱えるのは、このゆえなのです。
さらに主イエスは言われます。「天の国はからし種に似ている(13:31)」。「からし種」は、主イエスの み言葉です。私たちの群れに、み言葉が蒔かれています。私たちの群れも色々なことがあります。時に、深く傷つくこともある。なぜ傷つくか?敵をも愛そうとするとき、傷つくことは避けられないからです。それでも主は、傷つきながらも、互いに赦し合い、祈り合うことで、天の国が広がり、大きく成長することを信じ、待っておられる。毒麦もいつの日か良い麦に変わる!必ず変わる!と本気で信じ、待っておられるのです。
主イエスはこうも言われました。「天の国はパン種に似ている。(13:33)」パン種は、ユダヤの人の間では悪いもののたとえとして用いられる言葉です。「パン種を入れないパンこそが清い」と考えられていた。けれども主は、人々からパン種のように「悪いもの」と馬鹿にされ、排除された徴税人ザアカイ、娼婦マグダラのマリアに、「あなたこそ、神の国へ招かれている」と言われた。そこには 主の憐れみと、明確な思いがある。「神の国は、自分が神さまの み心からどれほど離れているものなのか、骨身に染みて知っている者によって作られる。」
救い主は待っておられます。「私は誰ひとり、毒麦として炉に投げ込むことを欲しない。すべての人を良い麦として収穫したい。」私たちも主の忍耐を感謝し、主に従い続けたい。確かに、私たちの罪は赦されました。けれども、私たちは良い麦にも、悪い麦にもなり得る。なぜなら、良い麦、悪い麦、その判断は、終わりの日、真の審判者であられる再臨の主が下されるからです。間違ってもその判断は私たちの業ではないのです。つまり私たちが、この人は良い麦か?この人は悪い麦か?と悩む必要はない。私たち教会のなすべきことはただ一つ。どこまでも、み言葉に信頼し、赦し合い、仕え合うことです。み言葉が勇気をくださいます。み言葉が励ましてくださいます。主が共にいてくださいます。み霊が私たちの内に働いてくださいます。確かに、赦し合い、仕え合うことは簡単ではありません。深く傷つくこともある。勇気のいることです。しかし、大丈夫。神さまは生きておられる。赦し合い、仕え合う私たちを全力で支えてくださる。溢れるほどに み霊を注いでくださるからです。この一年の神さまの恵みを感謝し、新しい年も愛する皆さんと歩んでいきたい。心から願います。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、毒麦をも「育つままにしておきなさい。」と言われた主の み声を聞き続ける者としてください。小さな からし種が成長し、大きな木になることを信じ、愛し合い、赦し合い、仕え合う群れとして教会を健やかに成長させてください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは 聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も、み霊を注ぎ続けてください。この一年もあなたによって生かされ、礼拝をささげることが許されたことを心から感謝いたします。同時に、様々な理由により毎週の礼拝を教会でささげることが難しくなった方々がおられます。どうかそれぞれの場で礼拝をささげている方々を憐れみ、み霊を注いでください。この一年、多くの方々が見えるところ、見えないところであなたに仕えてまいりました。長老の皆さん、執事の皆さん、奏楽者の皆さん、教会学校の皆さん、礼拝委員、伝道委員、財務委員、奉仕委員、バザー奉仕者、問安委員、ぶどうの木編集委員、図書係、壮年会、婦人会、清掃奉仕、書の奉仕者、まだまだたくさんの奉仕者があなたに仕えてまいりました。それぞれの働きを労ってください。新しい年も共に喜んで主に仕える者としてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2020年12月24日(木)日本基督教団 東村山教会 クリスマス讃美夕礼拝 説教者:田村毅朗
聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書 第2章15節~21節
説教題:「さあ、ベツレヘムへ行こう」    
讃美歌:103、109、111、112

今年一年を振り返る時、私たちは 世の中が目まぐるしく変化したことを感じます。今も、不安と混乱が世界を覆っています。世界は、暗闇の中を手探りで進んでいるようです。このクリスマス讃美夕礼拝も、今年は、飛沫感染を防ぐため、最後の一曲を除いてオルガンの奏楽に耳を傾けます。
いったい、いつまでこのような日々が続くのか?先がまったく見えません。それでも、こうして今、ローソクの光が灯されました。そして、私たちの手元にもペンライトの光が灯りました。この光は、天使がクリスマスの夜にもたらした希望が、私たちひとりひとりにも灯されたことを表します。
先程、ルカによる福音書 第2章15節以下を朗読して頂きました。天使たちは、羊飼いたちに救い主の誕生を告げて、天に帰って行きました。天使たちの賛美と共に、眩い光に包まれていた野原に、再び暗闇と静寂が戻ったのです。
私たちも、今は厳かな心もちでクリスマスを祝っておりますが、教会をあとにすると、この世は先の見えない闇に覆われていることを感じます。そのように考えるとき、暗闇と静寂に再び覆われた羊飼いたちの行動は、不安と混乱の世を生きる私たちに、進むべき道を示しているように思うのです。
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちはどうしたでしょう?「ああ、あれは幻だった。」といつものように羊の群れの番に戻ったでしょうか?聖書は記します。「『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。(2:15)」
羊飼いたちは 闇の中で立ち上がり、ベツレヘムへ向かって歩き出したのです。当然、スマホはありません。グーグルで検索もできません。ただただ、「天使が知らせてくださった出来事を見たい!」その一心で、「急いで」ベツレヘムへ行った。天使を通して語られた主の知らせを疑わなかった。「嘘か真か、一応確認しに行こう」ではない。「幻ではない」と信じた。天使のもたらした光は消えていない。羊飼いたちの心にともされ、明るく輝いたのです。今、私たちの手元にも光がともったように。羊飼いたちの心に真の光が届けられた。この光を信じ、立ち上がり、光に導かれ、ベツレヘムに「急いで」向かった。その結果、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てたのです。
羊飼いたちは、神さまが与えてくださった「しるし」を見つけることができました。たとえ暗い闇の中でも、希望がないように思えても、神さまはいつも私たちと共にいてくださる。その「しるし」として、神さまの み子が、天から降り、私たちの世にいらしてくださった。それも、誰かの保護がなければ たちまち死んでしまう無力な赤ちゃんとして。宿屋から門前払いされ、家畜の餌を入れる飼い葉桶に低く、貧しく生まれてくださった。この小さく弱い赤ちゃんこそ、神さまが私たちに与えてくださった平安、どんなときも神さまは私たちを愛し、いっしょにいてくださるという約束のしるしなのです。
羊飼いたちは、その場にいた人々に 幼子について天使が話してくれたこの「しるし」のことを伝えました。けれども、聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思いました。母マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らせました。また羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神さまをあがめ、賛美しながら、自分たちの生活の場である野原へと帰って行きました。「しるし」を受け取った者の進むべき道が示されています。「あなたはどうするのか?」と聖書は私たちに語りかけています。「不思議に思っておしまいなのか?この出来事をすぐには理解できなくとも心に納めて、大切に思い巡らせるのか?神さまに感謝して、喜んで自分たちの生活の場へと帰って行くのか?」
今年は、コロナのことがあり、心まで塞いでしまう日々でした。しかし、神さまへの心まで塞ぎ、閉ざしてしまうなら、これほど悲しいことはありません。「どんなにクリスマスの出来事を知識として知っても、私たちの心が『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と動かなければ、礼拝堂を出ればそれでおしまい。また来年まで、クリスマスの出来事を封印して、神さまがいつも、どんなときも私たちと共にいてくださることを忘れてしまう。それは、せっかく天使が灯してくれたあかりを消し、闇の中を歩くようなものだ」と聖書は私たちに言うのです。
羊飼いたちは、天使から灯された光を信じ、光に導かれ「しるし」を発見し、「しるし」に隠された「救いの真理」を見つけることができました。私たちの心にも今、光が灯されました。この光は、「『しるし』を探し出し、信じ、賛美しつつ、おのおのの生活の場で喜んで生きよ!」と促しています。
私たちの生活の場も、様々な闇に覆われているかもしれません。けれども、真の「しるし」である御子を「私の救い主!」と信じ、告白するとき、「イエスさまは、どんなときも私と共に生きてくださる!」という希望が、私たちの行く道を照らすのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、この一年、世界は深い闇に覆われたようでした。新型コロナウイルスによりたくさんの尊い命が奪われました。愛する家族を失った方々を慰めてください。今、この時も懸命に医療に従事している方々がおります。どうか、み手をもってお支えください。さらに、経済活動の自粛により仕事を奪われた方々、住む家を奪われた方々もおります。その結果、生きる気力を失い、彷徨っている方々もおります。主よ、それらの方々を深く憐れみ、聖霊を溢れるほどに注ぎ続けてください。私たちも、それぞれに痛み、苦しみ、悲しみ、悩み、不安を抱えております。暗闇に覆われてしまったかのように立ち尽くす日もあります。犯した罪に心が縛られ、自分が嫌になる日もあります。どうか、暗闇の中にあっても、恵みの光なる み子を信じ、感謝して歩む者としてください。各被災地で困難な生活を強いられている方々、孤独を抱えている方々、差別と偏見に苦しむ方々、争いの中にある方々、寒さと飢えに苦しんでいる方々に愛と祝福を注ぎ続けてください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

2020年12月20日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第7章14節、新約 ルカによる福音書 第2章8節~14節
説教題:「クリスマスの奇跡」
讃美歌:546、102、108、Ⅱ-1、114、542

私にとって、東村山教会の愛する皆さんと迎える6度目のクリスマス礼拝となりました。昨年のクリスマス礼拝は、94名の皆さんと共に御子の ご降誕を喜び、祝いました。あれから一年。全員がマスクを着用、密を避けるべく分散礼拝でのクリスマス礼拝となりました。聖歌隊賛美、記念撮影、また愛餐会もありません。その意味では、心から「おめでとう!」と喜べない状況かもしれません。けれども聖書は、明確に「喜びの訪れ」を告げるのです。
ルカによる福音書に登場する羊飼いたちも、希望に満ち溢れる状況にはありませんでした。「羊飼い」というと、牧歌的な のどかなイメージを思い浮かべますが、当時のユダヤ人たちの間では馬鹿にされ、さげすまれた職業であったようです。貧しく、羊の餌である青草を求め、野宿をしながら移動して暮らしていました。できることなら 雨風をしのぐ家に住み、温かい寝床で寝てみたい。でも、その願いが叶うことはありません。
その夜も、羊飼いたちはいつものように羊の群れの番をしていました。寒く、静かな夜。たき火の炎から少し離れれば お互いの顔もよく見えない。想像してみると、世界からぽつんと取り残されたような心持ちになりそうです。「真夜中だから暗い」だけではない、「心を覆っている闇」を感じます。この先も続くと思われる闇。確かに、朝が来れば物理的には明るくなる。けれども、羊飼いたちの心の闇は変わらない。この闇を「孤独」や「あきらめ」と呼ぶこともできます。「孤独」や「あきらめ」の闇を、私たちも知っています。「孤独」や「あきらめ」を一度も味わったことがない、という方はおられないはずです。それでいて、「孤独」や「あきらめ」も慣れてしまえば意外に辛くはなくなる。「これが私の運命」とあきらめ、孤独に耐え続ける。動こうとしない。変化を求めない。この「闇」は、迷い込んだら 道を見失って出て来られない 霧のように深いのです。
ところがです。主の天使は、羊飼いたちの心を覆っている深い「闇」のまん中に降り立ち、羊飼いたちに近づきました。突然、起こるはずのない変化が起こった。明日も、明後日も続くはずの「闇」に光が差したのです。主の天使が羊飼いたちに近づいた そのとき、主の栄光が周りを照らし、朝日が昇ったかのような明るさに包まれたのです。暗闇に慣れてしまった羊飼いたちは、「非常に恐れ」ました。私たちも変化を恐れる。未知のものを恐れます。だからこそ、天使は宣言したのです。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
昨日は、いづみ愛児園の子どもたちが、この礼拝堂で聖誕劇を演じてくれました。「恐れるな」と二人のかわいい天使たちが宣言したのです。私たちも今朝、改めて天使の宣言に耳を傾けたい。
天使は、「あなたがたのために」と語りかける。「あなたがた」とは、「どうせ私は馬鹿にされている」と卑屈になり、「どうせ私はひとりぼっち」としゃがみ込んでいる「あなたがた」です。そのような「あなたがたのために、今日、救い主がお生まれになった。この喜びを、私は真っ先にあなたがたに伝えに来たのだ。」と天使は宣言するのです。天使は続けます。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
「あなたがたへのしるし」とは、どのようなしるしなのでしょうか?今日はイザヤ書 第7章14節を朗読して頂きました。改めて朗読いたします。「それゆえ、わたしの主が御(おん)自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」
「インマヌエル」とは、「神は我々と共におられる(マタイ福音書1:23)」という意味です。天使は言うのです。「あなたがたはひとりぼっちではない。神が、あなたがたと共におられる。その『しるし』として、神の み子が、人の姿、それも弱く小さな赤ん坊の姿で世に降って来られた。まことの神が、神であることに固執せず、まことの人になられた。それも、羊飼いのように泊まる場所をもたない貧しい者となられた。」
 今日の箇所の少し前、6節に「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカ福音書2:6~7)」とあります。神の御子にもかかわらず泊まる場所がなかった。枕するところがない。まことの神が、枕するところのない羊飼い、馬鹿にされる羊飼い、さげすまれている羊飼いが迷い込んでいる闇の いちばん奥底まで降りて来てくださった、ということなのです。
そして、このクリスマスの奇跡は、羊飼い限定ではないのです。天使は宣言しました。「この喜びは、民全体に与えられる大きな喜びである。」そうです。民全体。世の全ての人々。つまり、私たちにも告げられたのです。そのような驚くべき喜びを告げた天使に、天の大軍が加わり、神を高らかに賛美しました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
まばゆいほどの光と圧倒的な大合唱の後、天使はその場を離れ、天へ帰って行きました。辺りには再び夜の静寂が戻る。しかしです。天の光に照らされた羊飼いたちは知ったのです。羊飼いの心の周りを覆っていた霧は晴れ、心にはロウソクの明かりのような希望の光がともったのです。「私たちは孤独ではない。頼るべき方がおられる。」ということを。このクリスマスの光は、民全体を今も、そして永遠に照らし続けています。天使は告げたのです。民全体に!
 主の天使の宣言は、クリスマスの光に照らされ、神の愛を知った全ての者に、「恐れるな」、「じっとしているな」と変化を促します。具体的には、全ての人に愛を注ぐよう促す。クリスマスに生まれてくださった御子イエスは、私たちに「主の祈り」を教えてくださいました。
ルカ福音書 第11章3節以下「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」
主イエスは、「わたし」でなく、「わたしたち」と共に祈り合うことを教えてくださった。さらに主は、自ら弟子たちの前に跪き、弟子たちの足を洗いつつ、互いに仕え合うことを教えてくださいました。
 「主の祈り」の心を、互いに仕え合うことを、クリスマスの今日こそ、心に刻みたい。「共に仕え合い、共に生きる」。口で言うのは簡単ですが、実践するのは なかなか難しい。
全ての人と共に生きることは、自分との闘いになります。皆が皆、気の合う人ということはないからです。「羊飼いが善人であった」などとは何処にも書かれていません。むしろ、「羊飼いは嘘つきの代名詞であった」と書いている書物もあるほどです。天使が、真っ先に福音を知らせたのは、そのように人々からさげすまれ、仲間うち以外には友達を持っていなかったと思われる羊飼いたちであった、ということを忘れてはなりません。主イエスが来てくださったのは「民全体」のため。「あなた」と「隣人」との間に、主イエスは来てくださったのです。そして今も、いつも共にいてくださいます。そのことを「信じ、共に生きよ」と隣人が与えられています。御子が、「共に生きよ」と示しておられる隣人は、「仲良しのあの人、私に良くしてくれるこの人」だけではありません。苦手な人、顔も見たくない人も隣人なのです。
主は、「あなたがたにはそれができる、私が来たのだから」と、いつも我々と共にいて励ましていてくださいます。そのような主イエスの招きを信じ、変化を恐れず、「隣人に向かって、戸を開ける勇気を お与えください」と祈り続けたい。そして、全ての隣人とクリスマスの挨拶を交わすのです。「クリスマス、おめでとうございます。あなたのために、わたしのために、わたしたち全ての者のために、救い主がお生まれになられました。」
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、私たちの心を覆ってしまう闇に主の御降誕の光をともしてくださり感謝いたします。どうか、希望の光を、全ての隣人と分かち合うことができますよう お導きください。主の御名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も、み霊を注ぎ続けてください。御子の御降誕を喜び、祝うクリスマス礼拝を感謝いたします。そして、一人の兄弟を東村山教会に連なる神の家族として加えてくださり重ねて感謝いたします。どうか、兄弟のこれからの歩みの上に これまでと同じように み霊を注ぎ、力強く導いてください。喜びのクリスマス礼拝にもかかわらず、様々な理由の為に礼拝を休んでおられる方々が大勢おられます。主よ、孤独を感じているなら、「あなたは孤独ではない、私はどんなときもあなたと共にいる」と語り続けてくださいますように。私たちも特定の人だけを愛するのではなく、全ての人を愛し、共に祈り続けることができますよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2020年12月13日 日本基督教団 東村山教会 第2主日・第3アドベント礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第43章8節~15節、新約 マタイによる福音書 第13章16節~23節
説教題:「あなたの目、あなたの耳は幸いだ」
讃美歌:546、95、Ⅱ-112、Ⅱ-37、541、Ⅱ-167 

主イエスは、弟子たちに言われました。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」「幸いだ」と訳された言葉は、「山上の説教」の「心の貧しい人々は、幸いである、」と同じ「幸い」。「おめでとう」という祝福の言葉です。弟子たちは、「山上の説教」を思い起こしたかもしれません。主イエスのメッセージはシンプル。「私を見ているから、あなたがたは幸いだ。」言い方を変えるなら、「おめでとう。あなたがたは、私を見ている。私の言葉を聞いている。神さまがあなたがたをお選びくださった。それはなんと幸いなことか。」
私たちは、アドベントの時を過ごしています。その中で、このような会話をなさったかもしれません。「いつもと違うクリスマスですね。」昨日も東京では621名の人が新型コロナウイルスに感染したと報道されました。コロナ報道が当たり前になり、毎日、感染者の数、医療現場の苛酷な現状が報じられる。来週のクリスマス礼拝も、第1、第2の分散礼拝。イースター礼拝に引き続き聖歌隊の賛美、愛餐会もありません。やはり、いつもと違うクリスマス。
長老会でも色々な角度からコロナ対応について協議しておりますが、今日も第1礼拝の後に臨時長老会を招集し、クリスマス礼拝、クリスマス讃美夕礼拝の会衆賛美について協議することにしております。飛沫感染を防ぎつつ、それでも、「クリスマスにせめて一曲はクリスマスの讃美歌を賛美したい!」という声も大切にしたい。しかし、教会からクラスターを出すことは絶対に避けなくてはならない。本当に悩ましいことです。
そのような日々を過ごしていると、主イエスの「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」という祝福のみ言葉を、私たちはどこか上の空で聞き流してしまうかもしれません。
私たちも主イエスの弟子です。「主イエスを私の救い主と信じます!」と信仰を告白し、洗礼を授けて頂いた。私たちの内に主がおられ、私たちも主の内にいる。その事実が大きな喜びであり、幸いであることを知っているはずなのに、私たちの目、耳が主イエスから離れ、コロナに振り回されているように思うのです。だからこそ主は、私たちの目を開き、耳を開くべく大切なメッセージを用意してくださったと思うのです。主イエスは愛をもって語ってくださいます。 
「よくよく聞いて欲しい。イザヤも、エレミヤも、エゼキエルも、アモスも、ホセアも、多くの預言者も正しい人たちも、あなたがたが見ているわたしを見たかったのに、見ることができなかった。聞きたかったのに、聞けなかった。わたしと出会うことが許されていなかった。けれども、わたしは来た。あなたがたはわたしを見ている。わたしの言葉を聞いている。どんなときも、あなたがたと共にいる救い主とは、わたしである。そのわたしとあなたがたは出会い、結ばれた。だから、あなたがたは幸いなのだ。幸いなあなたがた だからこそ、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。一度聞いておしまいではない。聞き続けるのだ。そうでなければ、せっかくあなたがたに蒔かれた福音の種は、悪い者に奪われてしまう。枯れてしまう。実ることができずに終わってしまう。しかし、聞き続け、悟ることができれば、30倍、60倍、100倍の実を結ぶのだ。これは本当のこと、『アーメン』なことなのだ。私が約束したのだから。」
確かに、私たちの信仰生活は、「種を蒔く人」のたとえの通りです。「主が共におられるなら、なぜこんな目にあうのか!」艱難や迫害が起こる。そのとき私たちは躓く。まっすぐ主イエスを見よう、聞こうとしても、しらずしらずに茨に覆われるように神さまが見えなくなることがある。思い煩いに落ち込んでしまう日がある。反対に、順調なときには、そのことがかえって主を仰ぐ目を曇らせ、財産、地位、名誉、学歴を誇り、驕り高ぶる日もある。私たちの信仰生活は常に悪魔に待ち伏せされていると言っても過言ではありません。
いったい、主イエスが言われた「良い土地」とはどのような人なのでしょう?「御言葉を聞いて悟る」とは何を悟るのでしょう?どうすれば私たちは30倍、60倍、100倍もの実を実らせることができるのでしょう?実は、私たちは、自分が「良い土地」であるのかないのかは わからない。しかし、それでいいのです。収穫は神さまの み業だからです。
良い実(み)を実(みの)らせることができているか?私たちが判定できるものではありません。事実、ファリサイ派の人々は、「私たちは、多くの実(み)を実(みの)らせている!」と自負していました。「聖なる種子」を蒔いてくださった方が父なる神さまであるように、成長させてくださるのも神さま。収穫なさるのも神さま。働いてくださるのも神さまである。そのことを悟るなら、どのようなときも共におられる神さまを信じ、神さまを仰ぎ続けていれば何も恐れることはないのです。
私たちがなすべきことは単純明快です。「あなたの目、あなたの耳は幸いだ」との主の み言葉を素直に喜び、感謝すればよい。それでも、目が塞がれる日があれば、「主よ、目を開いてください!耳を開いてください!み言葉を聞かせてください!」と祈り続ける。今も生きて、私たちのために働いておられる主を信じ、「待ち伏せている悪魔から救ってください!」と祈り続ければよいのです。
「幼子のような信仰、何も持たない、持ちえない土地が、良い土地である」と父なる神さまにおっしゃって頂けるのです。そのような神さまを信頼し、喜び、誇り、日々み言葉を口ずさみ、祈り続ける。そのとき、豊かな実り、驚くべき実りがもたらされるのです。
来週のクリスマス礼拝では、一人の求道者が洗礼へ導かれます。高校時代に蒔かれた種が、神さまによって成長し、洗礼へと実った。先週の洗礼試問会で語られた信仰告白への道のりを伺いながら涙が溢れました。「ああ、本当に福音の種は蒔かれているのだな。本当に良い土地に蒔かれた種は成長し、神さまが備えた『時』に実を結ぶのだな」。クリスマス礼拝では、私が洗礼を授けることになりますが、種を蒔き、成長させてくださったのは、父なる神さま、子なる神さま(キリスト)、聖霊なる神さまです。本人も驚くような神さまのご計画により洗礼へ導かれる。そして、これからも成長し続ける。神さまのなさる驚くべき みわざ、奇跡です。これからも共に働いてくださる主、実りをもたらしてくださる主に信頼し、主を仰ぎ、主に聞き続けたい。それこそが私たちの幸いなのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、み子を仰ぐ目、み言葉を伺う耳をお与えくださり感謝いたします。たとえ艱難や迫害、世の思い煩いや富の誘惑に負けても、「幸いである」と語ってくださる主を仰ぎ、御言葉を伺い続ける信仰を日々 お与えください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、
主の み心を生きることはできません。今週も、聖霊を注ぎ続けてください。
アドベントのとき、希望を抱いて み子のご降誕を待ち望む時です。けれども、日々の報道を通し、私たちの心は沈んでしまいます。主よ、働く場を奪われ、希望を失っている方々。限られた人数でコロナに感染した患者さんを治療し、看取っている方々、感染リスクに怯えつつ、ライフラインを守るために働いている方々を憐れみ、お支えください。今日もアドベント礼拝をおぼえながら、様々な理由により教会にいらっしゃることのできないお一人お一人を憐れみ、「幸いだ」との み言葉が、「この私にも告げられている」と喜び、信じることができますよう強め、励ましてください。来週はクリスマス礼拝です。一人の求道者が信仰告白、洗礼へ導かれたことを感謝いたします。来週のクリスマス礼拝で信仰を告白し、洗礼、そして聖餐の祝いに与ることができますよう聖霊を注いでください。どうか、一人でも多くの方々とクリスマス礼拝をささげ、午後は、教会学校の子どもたちと共に子どもクリスマス礼拝をささげることができますよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2020年12月6日 日本基督教団 東村山教会 第1主日・第2アドベント礼拝 説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第6章9節~13節、新約 マタイによる福音書 第13章1節~15節
説教題:「天の国の秘密」
讃美歌:546、94、Ⅱ-83、Ⅱ-1、234A、540

「種を蒔く人」のたとえは、親しみ深いものです。キリスト教保育の幼稚園、保育園、またミッションスクールでもよく語られるメッセージです。皆さんの中には、小さい頃に見た紙芝居の絵を思い浮かべた方もおられることでしょう。たいへん印象に残ります。そのためかもしれません。この たとえ話の前後に書かれていることは、たとえ話に比べるとそれほど親しんでいない方が多いのではないでしょうか?そこで今日は、今までの知識を捨て、新鮮な思いで み言葉に耳を傾けたいと思います。
主イエスはその日、家を出て、湖のほとりに座っておられました。おそらく、父なる神さまと対話なさるおつもりだったかもしれません。けれども、大勢の群衆が主イエスのそばに集まって来たので、主は舟に乗って腰を下ろされた。そして岸辺にいる群衆に向かって「種を蒔く人」のたとえを語られたのです。その後、弟子たちは主に近寄り、尋ねました。「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」。主はお答えになられました。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。」
ショックなお言葉です。たとえを用いるのは、「神さまが大勢の群衆には天の国の秘密を悟ることを許しておられないから」と語っておられる。主イエスの居場所を探し、見つけ、期待して耳を傾けている大勢の群衆。その群衆には天の国の秘密を悟ることが許されていないというのはいったいどういうことなのでしょう?弟子たち以外は、永遠に救われることがないのでしょうか?
さらに追い打ちをかけるように厳しい言葉が続きます。12節「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。」
私たちは、この み言葉をどのように理解したらよいのでしょう?主イエスはただ冷たく、岸で聞いている人々を見捨てておられるのでしょうか?
先週の み言葉を思い起こしたいのですが、誰もが、天の父の御心を行い、主の兄弟姉妹として生きることを欲しておられるのは主イエスご自身です。その主イエスが、たとえを用いて話すことしかできないのは、どれほどもどかしく、悲しいことであったでしょうか。主は、「どうせ話しても理解できない」と諦めておられない。だから、たとえを話してくださったに違いありません。
どうしたら、天の国の秘密を悟ることができるだろうか?今はできなくても、父なる神さまがお定めになられたとき、天の国の秘密を悟るため、大勢の群衆に届く言葉、印象に残る言葉で、たとえ話という種を蒔かれたと思うのです。主は続けられます。14節、「イザヤの預言は、彼らによって実現した。」
「実現した。」と訳されている言葉は、岩波書店訳(佐藤 研先生)はこう訳しておりました。「こうして、〔以下のように〕語ったイザヤの預言が彼らにとって〔余すところなく〕満たされるのである、」。
主は、余すところなく満たされた その先の希望を見ておられる。「イザヤの預言が完全に満ち切って、もうどこにも余すところがなくなったとき、父なる神さまがお定めになったそのとき、神さまは彼らを癒してくださる」との希望が迫って来るように思うのです。
今朝、マタイによる福音書と共に朗読して頂いたのは、イザヤ書 第6章の み言葉でした。11節以下を朗読いたします。「わたしは言った。『主よ、いつまででしょうか。』主は答えられた。『町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで。』」
イザヤの預言が余すところなく満たされたそのとき、人々の悟らない心、理解しない心が何をしたか?主イエスを十字架につけた。主にとって、耐え難い苦しみでありました。しかし主は、十字架の死を希望として、たとえを語ってくださったのです。
続くイザヤ書 第6章13節。「なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。」
「聖なる種子」とは、神の命を宿した力の源泉です。私たちの悟らない心のために、十字架の上で焼き尽くされ、切り倒された主イエスこそ、「聖なる種子」です。だからこそ主は、まだ耳も目も閉ざされている大勢の群衆に向かって、諦めることなく、種を蒔いてくださる。「種を蒔く人」は主イエスご自身であり、「時」が満ち、預言が満たされる「時」に切り倒され、「聖なる種子」として多くの実りをもたらしてくださるのも主イエスなのです。この福音の喜び、希望に立って、改めて、「種を蒔く人」のたとえを心に刻みたいと思います。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」 
パレスチナの種蒔き、日本の種蒔きとは趣(おもむき)が異なるようです。日本ではまずよく耕し、畝(うね)を立て、しるしをつけ、そこに丁寧に種を蒔き、土をかぶせる。
一方、パレスチナでは、とにかく種を蒔く。ジャン=フランソワ・ミレーの絵画『種まく人』のようにザーッと蒔き、それから耕すのだそうです。だから道に落ちたり、土の浅いところに落ちたり、茨の間に落ちたりということが起こる。それでも、蒔いた。無駄になるかもしれないとわかっていても。
私たちの伝道も似ているかもしれません。チラシを蒔く、チラシを見て来る人が一人でもいれば大感謝。計算では割が合わないのです。主イエスの名の元に立てられている幼稚園、保育園、学校の働きも同じ。種蒔きです。とにかく蒔くのです。実を結ぶか、結ばないかは、蒔くときにはわからない。それでも信じて蒔く。実りは私たちの業ではなく、すべて神さまの み業なのですから。
実際、不思議としか思えないようなことが私たちに起こっている。私たちが今ここに集まっているのは、いつであったか思い起こすことができなくても、どこかで蒔かれた み言葉の種子が芽生え、育っているからに違いないのです。
父なる神さまは悟らない者であった私たちのために、クリスマスの日、御子キリストを与えてくださいました。主は、「どうせ無駄になってしまうから」と諦めることなく、「いつの日か必ず実を結ぶ」と信じ、種を蒔いてくださった。そして、ついには私たちの救いのために十字架で死んでくださり、「聖なる種子」として甦り、今も私たちの中に生きておられる。その証が、聖餐の祝いです。聖餐に与るとき、主イエス・キリストという「聖なる種子」が私たちを永遠に生かしてくださることを感謝をもって味わうのです。そのような御子の救い、天の国の秘密を悟ることが私たちにも許された。御子が生まれてくださらなければ、十字架で死んでくださらなければ、私たちは救われないままでした。罪に苦しみ、頼る方を知らないままでした。アドベントのとき、日々、主に立ち帰りつつ、大切にすごしてまいりましょう。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、目を開いてください。耳を開いてください。天の国の秘密、あなたのご支配の秘密を悟らせてください。死に脅える時にも、「聖なる種子」であられる御子が私たちと共に生き続けてくださる喜びを思い起こすことができますように。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も、み霊を注ぎ続けてください。
 第2礼拝後に洗礼試問会を行います。受洗準備の学びも続けてまいりました。先週の金曜日の学びの後に、心を込めて受洗への思いをあなたに伝えることも許されました。主よ、洗礼試問会を祝福し、明確に信仰を告白することができますように。み心なら、クリスマス礼拝で兄弟を洗礼へとお導きください。
 今日も礼拝、聖餐を願いつつ、それぞれの事情により礼拝に出席することのできなかった兄弟姉妹がおられます。主よ、その場にあって祝福してください。新型コロナ・ウイルスが終息しません。医療従事者も疲れております。愛する家族を失い、深い悲しみを抱えている方も大勢おられます。主よ、一人一人を強め、励ましてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2020年11月29日 日本基督教団 東村山教会 第5主日・第1アドベント礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第133篇1節~3節、新約 マタイによる福音書 第12章46節~50節
説教題「神の家族」
讃美歌:546、Ⅱ-112、403、Ⅱ-157、539             

 いきなり私事になりますが、今日は私の誕生日です。53年前の今日、母のお腹からオギャーと生れた。母にとって最初の子どもです。後から聞いた話ですが、母は、お腹の中に私がいるとき、神さまに祈ったようです。「神さま、男の子であれば、将来、牧師として用いてください」。神さまは、母の祈りを聞いておられた。弱く、欠けの多い私だからこそ、主は牧師として用いてくださると信じます。
 私の大切な日が日曜日と重なった。しかも、アドベント第1主日と重なった。さらに神さまは嬉しい誕生日プレゼントを用意してくださった。第1礼拝では転入会式が執り行われ、新しい「神の家族」が東村山教会に加えられました。
 今日の説教題、「神の家族」といたしました。私たち教会員にとって、「神の家族」という言葉は何の違和感もありません。しかし、街を歩いているほとんどの皆さんにとって、「神の家族」と言われても、ピンと来ないかもしれません。そのような方々に、「神の家族」とは、どのような家族を意味するのか、肌で感じて頂くには、やはり教会に通い続けて頂くことが一番だと思います。
 私は、小学1年から教会に通うようになりました。血を分け合った肉の家族と同じように大切な「神の家族」との出会いが与えられている。「神の家族」の祈りと支えによって、今日まで生かされた恵みを主に感謝します。教会には、赤ちゃんから、お年を召された方まで幅広い世代の兄弟姉妹がおられる。その一人一人が、天の父に招かれ、出会い、主を賛美している。なんという恵み、なんという喜びでしょうか。
「神の家族」である私たちに与えられた み言葉に登場するのは、主イエス、主イエスの母マリアと兄弟たち、そして群衆です。主イエスが群衆に話しておられると、母マリアと兄弟たちがやって来て、家の外で話が終わるのを待っていた。しかし、主イエスは群衆に向かって話し続けておられる。そこで、ある人が気を利かせて、主に伝えたのです。「御覧なさい。母上と御(ご)兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」。けれども、主イエスは驚くべき回答をなさられました。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
親切心で伝えた人の気持ちを考えると、気の毒に思えます。せめて、「教えてくれてありがとう。でも、わたしの母とは、肉の母を指すのではないのですよ。わたしにとって兄弟とは肉の兄弟を指すのでもないのですよ。」とおっしゃってくださればと思ったりします。
皆さんも、主イエスの態度に驚かれたかもしれません。イエスさまらしくないな~。まるで反抗期の息子のよう。冷たく、薄情に思える。このように、私たちは主イエスの お言葉、行動に戸惑いを覚えることがあります。イエスさまともあろうお方が、このような言葉を発せられ、このような行動をお取りに
なるなんて。そのとき、私たちは罪を犯している。主の み心を問うことより、私たちの思いを優先しているからです。なぜ、主イエスはこのように言われたのか?なぜ、このような行動をお取りになられたのか?と問うこともせず、祈り求めることもせず、これまでの自分の経験、思い込みで主を裁いてしまうのです。
46節に、こう書いてあります。「イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。」外に立っているのです。母と兄弟は。主イエスの話を聞いていない。聞こうとしていない。
おそらく主イエス、30歳頃までは母マリアの長男として、父ヨセフと兄弟たちと一緒に働いていたはずです。それなのに、ある日を境に家を飛び出してしまった。とにかく、話し終わるのを待ち、働き盛りの息子を連れて帰ろうとしたのかもしれません。少なくとも、「外に立っていた」のですから、主イエスの話を聞こうとしていない。それは、主イエスのお言葉に戸惑う私たちの心にも通じるようです。
けれども主イエスは、そのように「外に立っていた」者をも招き入れようとしてくださる。主イエスは、弟子たちの方を指して言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」。
「見なさい。」で思い起こす み言葉があります。ヨセフと婚約はしたものの、結婚前に聖霊によって身ごもったマリア。愛するマリアを苦しめることのないよう、夫ヨセフは縁を切ろうと決心した。そのヨセフの夢に主の天使が現れて言いました。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。(1:20~21)」そして福音書記者マタイは続けて、このすべてのことが起こったのは、『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(1:22~23)」という預言者イザヤの言葉が実現するためであった、と語るのです。
「見よ」との み言葉には力があります。私たち、見ているようで見ていない。理解しているようで理解していない。信じているようで信じていない。だから預言者イザヤも、そして主イエスも、「見なさい」と言われるのです。心の目、心の耳を開き、わたしを見て、わたしに聞いて欲しい。ほかの誰でもない。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。皆がわたしの母、兄弟になる。わたしの天の父の御心を行うなら、だれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
教会生活が長くなると、主の発言に慣れて、驚かなくなるかもしれません。けれども、よくよく考えるとこれ以上ない驚くべき み言葉ではないでしょうか。主イエスは「だれでも」と言われるのです。「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」と言われるのです。
主の天使が、婚約中のヨセフに語られた言葉を、このときのマリアは忘れていたのかもしれません。「この子は自分の民を罪から救う」を心に刻んでいれば、慌てて息子を追いかけることはなかったかもしれません。しかし、主イエスが言われた「見なさい」を通し、マリアの目は 開かれたのではないでしょうか。「息子は、聖霊によって神から授かった。そのイエスが、神の子の務めを果たすべく家を出て、天の父の御心に生きるよう語り続けている!」
主イエスは教えてくださいました。なぜ神の子が人として世に生まれたのか。なぜ生まれ育った家、肉の家族から離れることをいとわず、天の父と神の家族に仕える道を歩まれたのか?答えはシンプル。私たちを「わたしの母、兄弟、姉妹」と呼んでくださるため。だれをも天の父の子どもとし、天の国に迎え入れてくださるためです。主は、弟子たちの方を指して言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
今回、説教準備を通し、改めて気づいたことがあります。当然と言えば当然ですが、今朝の み言葉と、続く「種を蒔く人」のたとえは密接に繋がっているということです。
主イエスの み言葉を聞いて、喜んでいるだけでは足りない。主イエスの奇跡を目の当たりにして驚き、興奮しているだけでも足りない。主イエスの み名を知っているだけでも足りない。たとえ、主イエスを産み、育んだ母マリアでも、主イエスと共に育った兄弟でも、そのままでは「神の家族」、主の兄弟、姉妹、また母になることはできません。
反対に言えば、主が示されたただ一つの条件、「わたしの天の父の御心を行う」なら、「だれでも」主の兄弟、姉妹、また母になることができる。大切なことは、「天の父の御心」を日々、心に刻み続けることであり、それを行うことにあります。主イエスは「山上の説教」を通し、「天の父の御心」をお示しくださいました。たとえば、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。(5:16)」であり、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたが天の父の子となるためである。(5:44~45)」であり、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。(6:33)」であり、「人を裁くな。(7:1)」です。
しかし、私たちは主イエスが心を込めて求められた一つ一つに「完璧に守りました!」とは言えない弱い者です。それなのに、礼拝に招かれ、共に座っている。
詩編 第133篇でダビデも歌うのです。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。(133:1)」
主の御降誕を待つアドベントに入りました。アドベントは悔い改めの時です。自分の罪を悔い改めつつ顔を上げると、私たちの罪のために十字架で殺された主イエスのお姿が迫ってまいります。次に顔を横に向けると、主イエスに罪を告白し、赦して頂き、永遠の命を約束された神の家族が共に座っているのです。誰もが招かれています。希望を失い、孤独に襲われている方々に、主の招きを届けましょう。「あなたも主の兄弟、姉妹になれる。あなたも主の母になれる。主イエスに罪を告白し、主に従うことを決断すれば、だれでも、主の兄弟、姉妹、また母となる。」

<お祈りを致します>
主イエス・キリストの父なる御神、あなたが常に私たちを招き、天の父の御心に生きるよう求めてくださることを感謝いたします。み子の兄弟、姉妹、また母としてふさわしい者として導いてください。主イエス・キリストの み名に
よって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主のみ心を生きることはできません。今週も、私たちに み霊を注ぎ続けてください。
東村山教会に連なる神の家族に、一人の姉妹を加えてくださり感謝いたします。
どうか、姉妹を祝福し、聖霊を注ぎ続けてください。アドベントに入りました。しかし、コロナウイルスの猛威は今も続いております。不安を抱えている方々、希望を失っている方々が多くおられます。どうか、闇の世にまことの光として遣わされた主イエスの光を心に刻みながら、希望をもって歩むことができますよう導いてください。今日もアドベント第1礼拝をおぼえつつ、様々な理由のため礼拝を休んでいる兄弟姉妹をその場にあって強め、励ましてください。愛する家族を失い、哀しみを抱えている者を慰め、励ましてください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2020年11月22日 日本基督教団 東村山教会 逝去者記念 主日礼拝説教  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第32章15節~20節、新約 ヨハネによる福音書 第14章18節~21節
説教題「いのちの主に結ばれて」
讃美歌:546、9、244、522、545B             

説教を始めるにあたり、逝去者記念主日礼拝に招かれた 皆さんの上に、主イエスの慰めと祝福を お祈りいたします。
今朝、私たちに与えられているのは、新約聖書ヨハネによる福音書第14章の み言葉です。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。(14:1)」という主イエスの み言葉から始まります。
こののち主イエスは、捕らえられ、十字架につけられ、死んでしまわれる。弟子たちは、親を失った みなしごのように、途方に暮れるのです。けれども主イエスは、「何が起ころうとも、心を騒がせる必要はない。神を信じ、私を信じていれば大丈夫!」と励ましてくださいました。そして、約束してくださったのです。「わたしは、あなたがたを放ってはおかない、必ず、再びあなたがたのところへ来るのだ。」
では、いったいいつ、どのような形で、戻って来るとおっしゃっているのでしょうか?主イエスは、十字架の死後、墓に葬られて三日目にお甦りになられました。冷たい墓の中から甦られ、「わたしの手の釘の跡に、脇腹の刺し傷に、手を入れてみよ」とおっしゃり、弟子たちの前に立ってくださった。一つには、この復活の出来事を予告しておられると考えて、間違いないでしょう。ですが、それだけでしょうか?復活された主の身体が目で見え、手で触れられるから、「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。(14:19)」と言われたのでしょうか?そうであれば、なぜ「世はもうわたしを見なくなる」と言われたのか?弟子たちだけに見え、世の人々に主のお姿が見えないはずはありません。肉眼で事実を見たからといって、主が言われたような「あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」という体験が起こるわけではありません。たとえ、肉の眼で見えても、「そんなことがあるわけない!」と信じなければそれまでです。
一方で、私たちのように肉眼で復活の主を見ることのできない者たちにも、「主イエスを見る」ということが起こる。この場で主イエスに励まされた弟子のひとりペトロは、のちにペトロの手紙一第1章にこう記しています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない すばらしい喜びに満ちあふれています。(1:8)」
主の愛弟子ペトロ。それなのに、主イエスが捕らえられ、十字架刑に処せられるときには 逃げ出してしまったペトロ。復活の主を肉眼で見たペトロ。聖霊の力によって立ち上がり、伝道に生涯をささげたペトロ。そのペトロが、復活の主を肉眼で見ていないキリスト者の、主イエスへの愛と信仰に驚き、信仰を与えてくださる神さまを高らかに賛美しているのです。
ペトロは興奮しています。「私は主イエスと生活を共にし、主の数々の奇跡を目の当たりにした。復活された主にお会いした。けれども、あなたがたは主を見ていないのに愛し、信じ、喜びに満ち溢れている。これは『大事件』。あなたがたにとって、もちろん私にとっても、人生の『大事件』なのだ!」
今日は、逝去者記念の礼拝をささげております。天に召された兄弟姉妹も、それぞれに復活の主と出会った。私が、信仰の履歴を把握している方々はそれほど多くはありません。それでも葬儀の備えをしている中で、信仰の遺言書やご遺族の証言を通して、お一人お一人が復活の主と出会い、信仰を告白された経緯に触れるとき、「神さまは、どんな時も生きて働いておられる!」と、心を揺さぶられる。試練に悩みながらも、希望をもって生きられたお一人お一人の人生には、確かに復活のキリストが共におられるのです。
ところで、19節で主イエスがおっしゃられた、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」の「わたしが生きている」と訳された言葉は、「今は生きているが、いつか死ぬ」ではありません。永遠に生きている。常に臨在する。つまり、いつまでも「現在形」です。
それに対し、私たちの「生」は、オギャー!と生れた瞬間から死に向かう。私たちが「生きる」と言うとき、どんなに生き生きと輝いて生きていようが、いつまでも「現在形」はあり得ない。地上での歩みは必ず終わる。「過去形」になる日が来るのです。
けれども、主イエスは言われます。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」主の いのちが永遠に「現在形」であるがゆえ、私たちのいのちも「永遠」となる。「私のいのちは、死で終わらない。キリストのように、永遠に生きることになる。」と言い得るようになった。主が約束してくださっている。主イエスが、十字架の死を突き破り、甦られ、私たちのところへ戻って来てくださったからです。
この驚くべき恵みを合理的、論理的に説明することは難しい。主イエスが神さまの内におられ、私たちが主イエスの内におり、さらに、主イエスもまた私たちの内におられることは、「理解する」とか、「証明する」ことでなく、どこまでも受け身の恵みです。
私たちがこの恵みを真理として感謝して受け取ることができるように、主は今このときも父なる神さまに執り成してくださり、神さまは聖霊を注ぎ続けてくださる。聖霊は、今朝ここに集められております全ての者に注がれているのです。
主は、2020年11月22日の今日も生きておられる。今も生きて働いておられる主に目を開いていただき、甦りの主を見て、福音の真理を知ったとき、私たちはひとりではないことを知るのです。そのとき、私たちは、神さまの内におられる主イエスの内におり、主イエスもまた、私たちの内におられる。父なる神、み子イエス、聖霊なる神、そして私たちは、そのように結ばれている。どんな被造物も、私たちを引き離すことはできない。それが、父なる神、み子イエス、聖霊なる神、そして私たちの結びつきなのです。
主イエスは、そうした結びつきが、私たちの人生の中でどのように現されるのかを示してくださいました。21節、「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
主イエスが語られた「わたしの掟」とは、互いに愛し合い、互いに仕え合うことです。これらの教えに先立って、主イエスは食事の席に着いた弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで丁寧にふいてくださった。「わたしの掟」を実践し、模範を示してくださいました。主は言われます。「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。(13:14~15)」
私たちは、主の掟を受け入れ、守るとき、「わたしは主イエスを愛している。」と言うことができます。神さま、主イエスに愛されていることがわかるのです。主イエスが私たちに ご自身を現してくださる。私たちも主イエスを愛するから、隣人どうし互いに愛し合い、互いに仕え合うことができるようになるのです。
復活の主が、私たちの中に生きておられます。私たちも復活の主の中に生きている。すでに召された兄弟姉妹、また あとに続く私たちも、復活の主イエスに抱かれて、死の闇から立ち上がらせて頂く甦りの朝が訪れる。驚くべき喜びであり、慰めです。生きているときも、死ぬときも、私たちは永遠に主イエスの者なのです。この喜びの福音を信じ、互いに愛し合い、赦し合い、祈り合い、仕え合いたい。主の溢れる愛の中で、主の掟に生きることができると信じて。

<お祈りを致します>
主イエス・キリストの父なる御神、み子の甦りと再臨を信じる者に、甦りの朝を約束してくださいましたから、心より感謝いたします。どうか、み子の掟に生きる者としてください。どうか、復活と再臨の信仰を与え続けてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主のみ心を生きることはできません。今週も、私たちに み霊を注ぎ続けてください。
本格的な冬を前に新型コロナ・ウイルスの感染者が急増しております。愛する者を失った方々の悲しみを癒してください。懸命に働いている医療従事者の心と体を支え、まもり続けてください。逝去者記念の礼拝をおぼえつつ、様々な理由で礼拝を休まれた兄弟姉妹が多くおられます。どうか、それぞれの場所でささげている祈りを受け入れ、私たちと等しい祝福をお与えください。特に、心と体に疲れをおぼえている方々、痛みを抱えている方々、深い哀しみを抱えている方々に癒しの み手を差し伸べてください。来週の主日からアドベントに入ります。コロナ禍であっても、永遠に変わることのない み子の救い、甦りの朝を信じ、クリスマスに備えることができますよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2020年11月8日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第2章29節~32節、新約 マタイによる福音書 第12章38節~45節
説教題:「まことのしるし」
讃美歌:546、28、121、447、544、427

主イエスに論争を持ちかけていた律法学者とファリサイ派の人々の何人かが、主イエスに、「先生、しるしを見せてください」と言いました。「先生」と呼びかけていますから、この人たちは 主から何かを感じたのかもしれません。あるいは、これまでの流れで考えると、やはり、これまでのように貶めようとしたのかもしれません。いずれにせよ、その言葉には、証拠を示し、私たちを納得させることができるなら、あなたをメシア(救い主)と信じてあげよう、との傲慢さがあります。
主イエスは、答えられました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」。「よこしまで神に背いた時代」とは、どんな時代なのか?「神に背いた時代」と訳された言葉は、昨年の秋に出版された聖書協会共同訳では「不義の時代」と訳されております。実は、新共同訳の前の口語訳でも「不義の時代」でした。この言葉の元の意味は、「結婚関係を破っている」、つまり「姦淫」という言葉と、同じ意味があるのです。単純に「正義の反対」というだけではない。生々しい意味がある。正しい愛を見失い、伴侶を裏切るように、神さまに背を向け、神さまを裏切っている。まことの愛がわからなくなっているから、「しるし」がないと落ちつかない。自分から裏切っておりながら、「あなたの愛が信じられない」と「しるし」を求めるのです。
主は続けます。「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚(たいぎょ)の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」
 旧約聖書に「ヨナ書」という預言書があります。神さまは、ヨナを預言者として選び、ニネベの人々に悔い改めを迫るよう命じられました。しかしヨナは、主の召しに逆らった。ニネベには「行きたくない」。ヨナは、ニネベ行きの舟ではなく、ニネベとは逆の方向に向かう舟に飛び乗ってしまったのです。  
神さまはお怒りになられ、ヨナが乗った舟は大変な嵐に襲われた。絶対絶命、今にも沈没寸前。ヨナは、「この嵐は私が神の言いつけに背いたからに違いない。私を海へ投げ込めば、嵐は静まるはずだ」と白状し、ヨナは、嵐の海に投げ込まれました。
けれども、主はヨナを見捨てませんでした。ヨナは大きな魚に飲み込まれ、死なずにすんだのです。ヨナは三日三晩、魚の腹の中で、自分の過ちを悔い改め、祈り続けました。三日後、主が命じられると、魚はニネベの近くにヨナを吐き出した。ヨナはニネベの街の人々に主の み言葉を伝え、悔い改めを迫り、ニネベの人々は悔い改めたのです。
 主イエスは、ご自分がいずれ処刑され、墓の中に葬られること、しかしそれは三日ほどであり、その後に甦ることを預言して、これを「ヨナのしるし」と言われたのです。
かつて、ニネベの人々はヨナの説教を聞いて、悔い改め、主の元に立ち帰りました。主は問うておられます。「あなたがたはどうするのか?私はヨナにまさる者である。あなたがたのために、ここに遣わされた。私が『まことのしるし』だ。わたしに立ち帰りなさい」と招いておられるのです。
主は、さらに続けられます。「また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」南の国の女王とは、シバの女王として知られ、多くの映画や音楽の題材となっています。イスラエルが最も栄えていた時代の王ソロモンの噂を耳にして、はるばる南の国からソロモンの知恵を聞くためにイスラエルまで旅をして来た。主は問うておられます。「あなたたちはどうするのか?わたしの言葉を聞くのか。それとも耳を塞ぎ、背を向けたまま立ち去るのか。」
ニネベの人々や南の国の女王に代表される異邦人は、律法学者、ファリサイ派の人たちから、真っ先に裁かれるべき者と考えられていました。主イエスは、「しかし、今のままでは裁きの時にはニネベの人々、南の国の女王を含む異邦人からあなたがたの方が裁かれてしまう、そのときは近づいている。いや、もうすでに始まっているのだ」とおっしゃっている。それでもなお、「今ここにいる私は、ソロモン王にもまさる者。父なる神によって、あなたがたのために遣わされて来た」と主は招いておられる。手を差し出していてくださる。それなのに、主イエスに背中を向け、主を裏切りながら「メシアの証拠を見せてみろ」と「しるし」を求める空しさは、この時代の律法学者、ファリサイ派の人々と現代の私たちも変わりません。
たとえば、本屋に行く。すると、平積みにされている本の中に、「スピリチュアル」関係の書籍が溢れている。また新聞広告や電車の中吊り広告にも、得体の知れない広告がある。たとえば、「死者の霊と対話した私」とか、「ずばり、あなたの前世はこうだった」とか、興味を惹きつける、様々な「しるし」を宣伝する「神々」がうごめいているのです。
なぜでしょう?皆が手っ取り早く、わかりやすい「しるし」を求めているからだと思います。それでいて、「私は自分の力でやっていける」と思い込んでいる。「誰にも倚りかかることなく、誰にも頼ることなく、自分を整え、保つことができる。私こそ、私の主人だ!」と胸をはっている。
けれども主は、「そのような人は、美しく整えられた空き家のようなもので、悪霊たちにとって、これほど住みやすい家はないのだ」と言われるのです。
 改めて43節以下を朗読します。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」
誰にも倚りかからない生き方、素敵に思える。自分のことは自分できちんと始末する生き方は、格好の良い生き方に思える。しかし主は、汚れた霊のしぶとさをご存じであられる。自分のことは自分で始末できると思っている人でも、突然の試練は避けられない。不安に乗じて入り込んだ七つの悪霊は語り始める。「私の言う通りにすれば大丈夫。」「いやいや、私の言う通りにすれば大丈夫。」「あなたが突然の試練に襲われたのは、あの人が悪い。すぐにあの人を呪い、楽になれ。」七つの悪霊によって心は大混乱になるのです。
私たちは神さま抜き、主イエス抜き、聖霊抜きで、何とかしようとする心を手放したい。そうでないと、いつまでも、「しるし」を求めてさまよい続けることになる。だからこそ、ご自身の命を「しるし」として与えてくださった主イエス、甦ってくださった主イエスを仰ぎたい。ヨナのように、180度、方向を変え、神さまに背を向けていた背中を反対にして、神に心を向けるのです。そうすると、神さまの光を溢れるほどに浴びることができます。眩しいほどの光によって、私たちの心の悪、ドロドロした汚れが照らされるのです。もちろん、ドロドロした汚れから目を逸らしたくなります。しかし、目を逸らしてはなりません。なぜなら、ドロドロした悪、汚れが主の十字架の光、甦りの光によって照らされ、赦され、取り除かれ、真っ白になったことに気がつけるからなのです。永遠の救いの「しるし」である主イエスの光が、「私」という家の隅々に行き渡り、輝き続けるのです。
十字架と復活、そして再臨の主イエスの光は、「私ひとり」のものではありません。私たちに注がれたように、主はすべての人に光を注いでおられるのです。共に赦し合い、愛し合える。主が聖霊を注いでくださるから。主が私たちをいっぱいの光で満たしてくださる。私たちに住んでくださる。その恵みを信じ、救いの「まことのしるし」であられる主イエスを仰ぎ続けてまいりましょう。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、私たちの心に、主キリストご自身が住んでくださる恵みを日々、心に刻ませてください。聖霊の働きを信じつつ、日々、祈りをもって、自らの心に巣くう憎しみの心、裁きの心に打ち勝って行く者としてください。今の時代を生きるすべての者を、み心のままに導き、祝福してください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も、み霊を注ぎ続けてください。世界が分断の危機に直面しております。アメリカでは新しい大統領が選ばれましたが、これからこそ、様々な対立が激しくなりそうです。主よ、対立する心ではなく、共に祈り、励まし合う心をお与えください。教会員の中に、愛するお父さまを みもとへおくられた姉妹がいます。ご遺族の上に復活と再臨の主の慰めを溢れるほどに注いでください。今日と来週に分けて行うバザーを祝福してください。また来週 予定しております秋の特別伝道礼拝を存分に用いてください。説教者 森島 豊先生にみ霊を注ぎ祝福してください。今日も様々な理由で礼拝に集うことのできない兄弟姉妹を覚えて祈ります。どこにあっても、主において一つであることを忘れることがないようみ霊を注ぎ続けてください。特に、体調を崩している方々、痛みと戦っている方々を強め、励まし、少しでも痛みを和らげてください。お願いいたします。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年11月1日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第51篇1節~17節、新約 マタイによる福音書 第12章33節~37節
説教題:「キリストで心を満たせ」
讃美歌:546、25、166、Ⅱ-1、529、543

主イエスは、ファリサイ派の人々におっしゃいました。「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦される。私に対する冒瀆であっても赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は、この世でも後の世でも赦されない。」
信仰を告白し、洗礼を受けた私たちが、意識して聖霊を冒瀆することはありません。しかし、目で見て、手で触れることのできない聖霊の働きに、どんなときも信頼し続けることはなかなか難しい。
私が小さい頃から通い続けた鎌倉の教会で青年会のリーダーを任されていたとき、聖霊の働きを冒瀆していたつもりはありません。しかし、どんなときも聖霊の働きを信じて、青年会を運営していたかと問われると、罪を認めざるを得ない。自分なりに「今日はこの流れで青年会を進めよう」と準備するのですが、なかなか予定通りにいかない。色々な発言をする人々を「面倒な人だな」と裁いている。すると、心に溢れていることが口から出て来てしまうのです。青年会仲間の言葉や行動に腹を立て、「こんな青年会ならリーダーを辞退したい」と不満を口にしたことを忘れることはありません。
あれから25年が経過していますが、今でも胸が痛みます。リーダーとして、もっと丁寧に仲間の声に耳を傾け、良い言葉を語れていたら。聖霊を信じ、「自分の力で何とかしなければ」ではなく、聖霊に委ねることができていたら、と。
主は、ファリサイ派の人々を「蝮(まむし)の子らよ」と呼び、「あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか」とおっしゃいました。蝮は蛇ですから常に地を這っていて、天を仰ぐことはない。そして、蝮には毒がある。「あなたたちは蝮だから、毒のある言葉で他者を殺すのだ」と主は言われる。非常に激しい言葉です。
主イエスの お言葉は、直接的にはファリサイ派の人々に向けられています。けれども、主が指摘しておられる言葉の罪は、ファリサイ派の人々に限った罪ではありません。聖霊を軽んじ、悪い言葉、つまらない言葉を発する罪は、いつも私たちの近くに潜んでいて、すぐに私たちの中へ入り込もうとするのです。
先ほど、私の経験を申し上げましたように、キリスト者どうし、教会だからと言って、「あの人はダメ」という言葉が聞かれない、ということはありません。その言葉を聞いて、「そんなことを言う人こそダメ」と言ってしまうこともある。
そのようにして「つまらない言葉」、「悪い実」は、「私は正しい、私は絶対に間違っていない」との思いからドンドン生まれ、互いに傷つけ合う。そのとき、私たちの心は自分の思いでいっぱいになるのです。
主イエスは言われました。「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」。「私は正しい、私は絶対に間違っていない」、「私が」、「私が」、で心の倉はパンパンに膨らみ、少しの隙間もない。どこにも神さま、イエスさま、聖霊の入る余地がないのです。
また、反対に人と比べて「自分はダメだ」と決めつけることも同じことです。心の倉の中は自分の行いと人の行いを比べることでいっぱいいっぱいになっています。聖霊は、今ここに生き、私たちに働いてくださる神さまの圧倒的な力です。聖霊は、今、私たちの内に働いていてくださっている。「私に信頼して、あなたはあなたの賜物を喜んで用いればよい」とおっしゃっている方を無視する言葉もまた、「つまらない言葉」、「悪い実」に他なりません。
裁きの日には責任を問われる。自分の言葉によって罪ある者とされる。今朝の み言葉は、まことに厳しいみ言葉です。
主イエスは、聖霊の働きを心から信頼し続ける人を、「良い木」に譬えられました。ぱっと見は、良い木のように見える人がいます。これまで繰り返し確認しているように、ファリサイ派の人々は真面目にコツコツと良い業を積み上げていた。積み木を積んで高い塔をこしらえるように、「善い業」を積み上げる。けれども、憐れみを必要とする人に対して憐れみを示さず、「あなたは、こんな間違いを犯している」、「こんなこともできないのか」と裁く言葉を口にし、立ち上がれないようにしている。それでは、自分が悪い木であることに気づかず、良い業と信じて、せっせと悪い実を実らせているにすぎない。そのままでは、自分の身に裁きを招いてしまう、と主イエスは心を痛め、深く嘆いておられるのです。
主イエスがファリサイ派の人々、また私たちに求めておられるのは、「あなたの発する言葉が、悪い実にならないようによく気をつけなさい!」ということではありません。「良い木として成長して欲しい。見せかけでなく、まことに良い木であれば、必ず良い実がなる」とおっしゃるのです。では、どのような木が「良い木」なのでしょう?
詩編 第1篇に慰めに満ちた み言葉があります。「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。(1:2~3)」
私たちは、決して自分の力で芽吹いたのではありません。主が おそば近くに植えてくださったのです。だからこそ、主が植えてくださった場所で、聖霊の注ぎを信じ、主の教えを愛し、昼も夜も口ずさむ。主の教えという河から水をいっぱい吸い上げ、口ずさむ。それが悪い実であるはずがありません。
讃美歌286番「神は我が力」の3節、4節はこのように賛美します。「神のみやこには 静かにながるる きよき河ありて み民をうるおす」、「み言葉の水は 疲れをいやして、新たなる命 あたえてつきせじ。」
私たちは、み言葉の水のほとりに植えられた木。聖霊を心いっぱいに注がれ、み言葉の水を吸い上げ、朝に夕に み言葉を口ずさむ。そのとき、互いのために祈る言葉が与えられる。互いを傷つける言葉ではなく、立ち上がらせる言葉となる。悪魔の誘惑に負けそうな日があります。そのときは口を閉じましょう。黙って、主の十字架を仰ぎましょう。主は十字架で肉を裂かれ、血潮を流されました。互いに傷つけ、裁き合う私たちのために。そして、三日目の朝、罪と死に勝利され、お甦りになられました。甦りの主が、聖霊なる神が、私たちと共におられ、私たちの内に今、働いていてくださいます。
これより聖餐に与ります。私たちは皆、赦されてここに立っています。互いに赦し合う者として、生かされています。聖餐はそのしるしです。どのようなときも、聖霊の働きを信じ続けたい。どのようなときも、主の教えを口ずさみ、良い木として成長したい。聖霊の働きにより、良い実がたわわに実ると信じて。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、み霊(たま)を注いでください。神さま、あなたの力が、今 私たちの内に働いてくださっていることに信頼し、感謝して み言葉の水を吸い上げ、朝に夕に み言葉を口ずさみ、互いのために祈る良い木として成長させてください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も、聖霊を注ぎ続けてください。疫病の不安が解消されないなか、様々な備えをして、礼拝をささげ、聖餐の祝いに与ることが許されました。深く感謝いたします。同時に、礼拝から遠ざかっている兄弟姉妹をおぼえます。たとえ、離れた場所にあっても、聖霊により一つとなり、互いに祈り、支え、励まし合っていくことができますようお導きください。どこにあっても、共に主の十字架を仰ぎ、み言葉の水を吸い上げ、良い木として成長させてください。来週、再来週とバザーを計画しております。例年とは違う内容となりますが、皆で心を込めて準備しています。どうか祝福に満ちたバザーとなりますように。15日には秋の特別伝道礼拝を予定しております。祈りつつ、心を込めて備えることができますよう導いてください。特に、説教者としてお立てくださった森島 豊先生を強め、励ましてください。22日は逝去者記念礼拝を予定しております。一つ一つの礼拝、バザーの上に聖霊を注ぎ、存分に用いてください。世界は感染拡大の渦の中にあり、混沌としています。弱い立場の者たちがますます傷つけられています。為政者たちに み霊を注ぎ、知恵を授けてください。私たちも、隣人の痛みに敏感であることができますように。み霊に信頼し、聞き従う者とさせてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年10月25日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第23章23節~32節、新約 マタイによる福音書 第12章22節~32節
説教題:「神の国は、来ている」
讃美歌:546、90、234A、375、542 

今日は第2礼拝を「家族礼拝」としてささげます。子どもと一緒に神さまを礼拝する恵みを心に刻み、祝福を共に祈りたい。また先週の金曜日は、教会員の葬儀が執り行われました。東村山教会最高齢の姉妹です。105歳でした。姉妹の葬儀に、5歳のひ孫さんが最前列で、おじいちゃんのひざに座って最後まで出席されました。
私も小さい頃から教会に通い続けておりますが、本当に教会は「いいな~」と思います。生まれも、育ちも、年齢も違う者たちが、聖霊の働きによって、出会いが与えられ、救いの中へ招かれている。私たちは、主イエスの血潮によって、神の家族として、ひとつになるのです。
スイスの改革者カルヴァンは、『ジュネーヴ教会信仰問答』に聖霊の働きについて、このように記しております。「われわれの心の中にいます聖霊は、主イエスの み力をわれわれに感じさせます。なぜならば、聖霊はわれわれを照らして、主のもろもろの恵みを知らせ、これをわれわれの魂に封印し刻みつけて、これらをわれわれの内に住ませるからであります。(問91)」
聖霊の働きに素直に感謝したい。もちろん、聖霊を目で見、手で触れ、「これが聖霊です!」と指し示すことはできません。けれども、先週の葬儀、そして今朝、神の家族と礼拝をささげている事実に、聖霊の働きを感じるのです。
今朝、私たちに与えられたマタイによる福音書には、聖霊ではなく、悪霊に取りつかれて目が見えず、口の利けない人が登場します。悪霊がこの人の中に住みついて、自由を奪ってしまった。二重、三重の苦しみを抱えている人が、主イエスのところに連れて来られたのです。
主イエスは、その人をいやされました。口が利けるようになった。目も見えるようになった。主によって悪霊が追い出されたのです。
 今朝の み言葉には、「ベルゼブル論争」という小見出しがつけられています。「ベルゼブル」とは悪霊の親分の名前です。しかし、本来の意味は「家の主人」でありました。「家の主人」は、家を代表する人物であり、決定権を持ち、経済を把握し、その家が立ちゆくように治める者です。
 私たちは、「主イエス」と言います。その心は、「私の主人は、イエスさま」との信仰告白です。当時のユダヤの人々ならば、「私の主人は、神さま」であるはずです。それなのに、「ベルゼブル」(私の主人)は「悪霊の親分」になってしまった。それだけ世の中が、悪霊に支配されてしまったと思わざるを得ない辛い状況だったのかもしれません。人々は今の世に失望していた。だからこそ、「ダビデの子」を切実に待ち望んでいたに違いありません。
「ダビデの子」とは、メシア(救い主)を指す言葉。国を奪われ、ローマの支配に苦しむユダヤの人々にとって、メシアの到来は、切実に待たれた希望でした。「メシアが到来すれば、苦しい状況から解放される。ローマからの独立を果たし、神の義(ただ)しさがあまねく行き渡り、平和に満ちた神の国がつくられる。」そう信じられていたのです。
そのようなとき、悪霊に取りつかれて目が見えず、口の利けない人が、主に癒された。癒された瞬間を目の当たりにした群衆は皆 驚きました。そして、大いなる期待を込めて言ったのです。「この人はダビデの子ではないだろうか」。目が見えず、口の利けない人を支配していた悪霊が追い払われ、解放された姿を目の当たりにした群衆は、そこに自分たちの解放を見たのです。
 私たちは群衆の驚き、またメシアへの希望を見倣いたい。群衆のように、主イエスの圧倒的な力に驚き、ひれ伏す思いを忘れたくない。神の み前で自分の無力さ、貧しさ、惨めさを真実に知っていることは、本当に大切であり、感謝なことです。
主イエスの癒しを目の当たりにした群衆は、自分たちがいかに何も持たず、途方に暮れるほど、自分の中に誇るものがないことを知っていた。だからこそ、メシア(救い主)の到来を信じ、希望を持って祈り続け、目の前におられる主イエスこそ、「ダビデの子ではないだろうか」と気づくことができたのです。
それに対し、ファリサイ派の人々はこの恵みに気づけなかった。ダビデの子の到来、メシア(救い主)の到来が見えず、「悪霊の頭(かしら)ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言ったのです。
なぜ、ファリサイ派の人々には見えなかったのでしょう?ファリサイ派の人々には、「我々は、掟をきちんと守ることによって徳を積んでいる。神に最も近いところにいて、丁寧に学んでおり、正しい者である。神の み心がわかっている。」という自負がありました。その自負が目を塞いだ。そして、「この人が悪霊を追い出すことができたのは悪霊の頭ベルゼブルの力を持っているからだ」と主張したのです。
主イエスは彼らの考えを見抜いて言われました。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。
サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。」
悪霊が悪霊を追い出すのなら、悪霊どうしが仲間割れをおこしていることになる。仲間割れをしていては、悪霊の支配は広がらず、悪霊の国は成立しない。
当時、ファリサイ派の中にも癒しの業、悪霊払いをしていた人がいました。主は問われます。もしも私が悪霊の頭の力で悪霊を追い出したのなら、あなたたちは何の力で悪霊を追い出しているのか?」「あなたたちの業は神の業?それとも、悪霊の業?」そして続けて言われました。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」
主は言われるのです。「神の国は、来ている。神の支配は、来ている。あなたたちのところに来ている。ここに来ている。ここに神の霊がある。ここに神の支配がある。あなたたちがまだ先だと思っている神の支配は、私によって到来したのだ。」28節で「来ている」と訳された言葉は、非常に強い言葉。「神の支配が急激に、突然に、あなたたちに向かって押し寄せて来た」と訳すことも可能な激しい言葉です。
突如、主イエスによってもたらされた神の国、神の支配は、嵐のように悪霊の頭を縛り上げ、勝利し、追い出してくださった。その上で、主は問われるのです。「あなたの主人は誰?聖霊なる神、それとも悪霊の頭ベルゼブル?」白か黒かです。グレーはありません。主イエスからファリサイ派の人々への問いは、私たちへの問いでもあります。
主はファリサイ派の人々、そして私たちに警告しておられます。「神の国、神の支配はすでに来ている。それなのに、わたしと一緒に働かない者は、わたしが一所懸命に届けている恵みを足で蹴散らかしているのだ。」私たちは主の警告を無視してはなりません。私たちを愛し、赦し、憐れんでくださるから、「これだけは忘れてはならない」と語ってくださる。「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世
でも後の世でも赦されることがない。」主の日ごとに、聖霊の注ぎを祈る私たち。イエスさまを主と呼ぶ私たち。それなのに礼拝を終え、世へ派遣された途端、助けを必要としている人の前を「面倒だ」と避けて通り過ぎ、「どうせ私は赦すことなどできない」と隣人を憎み、「あの人ばかり良い思いをして!」と文句を言うのなら、聖霊の働きを軽んじ、冒涜することになるのです。
詩編 第133篇に書いてあります。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」私たちは神の家族、主に結ばれた兄弟姉妹。聖霊の働きにより出会いが与えられ、共に主を賛美している。なんという恵み、
なんという喜び。神の国は、私たちのところに来ているのです。
主イエスが、もたらしてくださいました。そして神の国は、完成に向かっています。聖霊は、私たちをそのために用いてくださるのです。聖霊は日々、私たちの魂に恵みを刻んでくださっています。私たちの中で働いてくださる聖霊の力に信頼し、地の塩、世の光として、一歩、一歩、前進してまいりましょう。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、どうか、どのようなときも、主イエスによって、すでに神の国が到来したことを信じさせてください。どうか、聖霊の力を信じ、聖霊の力に促され、地の塩、世の光として、地上の命を全うする者としてください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り(こどもたちのためのいのり)>→共に祈りましょう。
「主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も、聖霊を注ぎ続けてください。」
主よ、子どもたちを祝福し、憐れんでください。子どもたちも、新型コロナウイルス感染防止のため、様々な制約を受けております。友達と元気に遊び、おしゃべりし、様々な経験を重ねる大切な時期を、マスクの着用を求められ、友達との距離を保ち、嬉しいお昼の食事も静かに食べなければならない日々を耐えております。どうか、小さな子どもから中高生に至るまで、神さまの祝福と聖霊を溢れるほどに注ぎ続けてください。父親、母親も、様々なストレスを抱えております。どうしても弱い立場である子どもたちに、ストレスがぶつけられます。虐待、いじめがあります。教育現場も大変です。だからこそ、聖霊の働きを信じ、私たち大人が、常に子どもたちの祝福を祈り続けることができますよう導いてください。日々、子どもと向き合い奮闘している両親、家族。保育施設、学校現場で日々、子どもと向き合っている保育士、先生方を強め、励ましてください。大人も子どもも互いに信頼し、支え合い、コロナ禍の日々を生きていくことができますようお導きください。「キュリエ・エレイゾン
主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。」

2020年10月18日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第36章22節~28節、新約 マタイによる福音書 第12章9節~21節
説教題:「救いの実現のために」
讃美歌:546、71、280、511、541 

 先週の木曜日、頌栄女子学院で十戒について話す機会が与えられました。
「礼拝のしおり」10頁をお開き頂きますと、このように書かれております。
「私たちはこの十戒を、私たちを縛る戒律としてではなく、福音の自由に主と共に生きる、神の招きとして受け止め、唱和します。」そのような思いで「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」と、皆で声を合わせるとき、力がわいてまいります。頌栄の生徒にも、
この部分に重点を置いて話しました。
 十戒は、私たちを束縛しません。天地のつくり主が私たちの神であられる。私たちを「子よ」と呼び、あらゆる束縛から解き放ち、自由をくださった神が、私たちの主である。この平安と、喜びの中で、神を神とする。神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する。それこそが、十戒を貫く芯の部分であり、それぞれの戒めは愛の生活のための具体的な道標(みちしるべ)なのです。
例えば、第六戒。「殺してはならない」。皆さんが、殺人の罪を犯すことは
ないと思います。しかし、神さまの前で「私は人を殺したことがない」と言えるでしょうか?「あの人さえいなければ」と思うことは、その人を消すこと、心の中で殺すこと。「それは、私を神とする生き方ではない。」と神さまは
おっしゃるのです。
先週は、安息日に麦の穂を摘み、食べ始めた弟子たちについての、主イエスとファリサイ派のやりとりを読みました。安息日の戒めを重んじる余り、戒めの根幹にある「憐れみの心」を失っているファリサイ派の人々を、主は、深く嘆かれた。「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。」主は、私たちに憐れみの心を求めておられるのです。
 さて、主イエスは麦畑を去り、会堂に入られました。すると、片手の萎えた人がいた。ファリサイ派の人々は、主がこれまでにも安息日に病を癒してこられたことを知っており、折あらば、あげ足をとってやろう!と罪に定める口実を探していました。チャンス到来!と主に尋ねました。「安息日に病気を治す
のは、律法で許されていますか。」主は答えて言われました。「あなたたちの
うち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。
だから、安息日に善いことをするのは許されている。」
「安息日に善いことをするのは許されている。」口語訳は、「良いことをするのは、正しいことである」と訳しています。「安息日に良いことをするのは、
律法に照らして正しい」とお答えになったのです。安息日は、まさに十戒の心、福音の自由に主と共に生きる、隣人と共に生きるためにあるのだと教えられた。片手の萎えた人を無視し、手を伸ばすことなく立ち去ることは、その人をひそかに殺すことになり、律法に反することであると、ファリサイ派の人々の間違いを示されたのです。律法の専門家を自負し、細かい安息日規定を順守して
いるファリサイ派の人々には聞き捨てならない挑戦的な言葉として受け取られたことでしょう。
 しかし主は、静かに正義を行われる。片手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」と言われた。すると、萎えた手が力を取り戻し、動くようになったのです。
本来であれば、片手の萎えた人が癒されたのですから、「よかったね」と喜べばよい。しかし、ファリサイ派の人々は掟に縛られている。主の癒しを受け入れられない。喜ぶ人と共に喜べない。なぜか?これまで自分たちが築き上げて
きた細かい規定こそが正しい!という自負があるからです。そのような律法
主義は、神さまの戒めから道を大きく外れてしまっています。異質な掟となっている。ファリサイ派の人々の律法は、「神の招きに安心して憩う」との本来の目的を忘れ、「己の行動を厳しく律し、その行いを神への『いけにえ』として
ささげる」ことが目的となってしまった。安息日に労働をしないのは、隣人と共に神に全てを委ねて平安を得るためなのに、何もしないことが目的になっているのです。
 ファリサイ派のような生き方を私たちは笑えるでしょうか?自分の考える「正しさ」を隣人に押しつけていないでしょうか?国どうしの戦争、隣人とのいさかいもそのように始まるのではないでしょうか?「自分を愛するように
隣人を愛しなさい」との戒めを授けられた人々が殺し合う。それぞれが「正義のための戦い」と主張する戦争は、今も世界のあちらこちらで続いており、
武器が無くならない現実があることを私たちは知っています。己の正しさを
主張し、己の安全をはかろうとするところに、隣人への憐れみはありません。隣人どころか、神さまさえ必要なくなる。事実、「ファリサイ派の人々は出て
行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」のです。
 主イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が主に従った。主は皆の病を癒してくださった。しかし、御自分のことを言いふらさないようにと固く戒められたのです。
マタイはその理由を、「預言者イザヤを通して言われていたことが実現する
ためであった」と記します。
18節、「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、
その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」
 主イエスは声高に人を裁き、己の正しさを宣伝して歩くことはしません。粛々と「正義」を成し遂げるために進んで行かれる。そのことによって「正義」がどのようなものかを私たちに教えてくださるのです。主が教えてくださる正義は、「私は正しくない。汚れている」と人生を諦めてしまっている人を責めたて、「あなたは救いからの落ちこぼれ」と切り落とすことはない。誰のことも、
見捨てることはないのです。
18節に、「彼は異邦人に正義を知らせる」とあります。「異邦人」は、神の救いには入れられていないと思われていた人々です。片手の萎えた人も、異邦人と同様に周囲の人々から「その人自身、あるいは先祖の誰かが罪を犯した
から罰を受けている。汚れている。救いからの落ちこぼれ」と見られていた。本人も、そのように思っていたかもしれません。
 しかし主は、そのような激しい嵐に もまれて倒れ、傷ついた葦のような人、まもなく消えてしまうロウソクのともしび のような人を生かし、立ち上がらせてくださる。「あなたも神さまの救いへ招かれている、それが神の正義だ」と
教えてくださるのです。
 ファリサイ派の人々が信じてきた正義は、神さまの正義からどんどん離れている。どんどん離れて行っていることに気づかない。仮に薄々気づいていたとしても、己の罪を認め、向きを変えることの難しさは、私たちにも覚えがあります。もう引っ込みがつかない。結果、自らの正義の剣をふりかざし、力づくでまことの正義を奪おうとする。
 しかし、そのまま主の正義が偽りの正義に負けることはありませんでした。神さまが定められた時に、定められた仕方で、主の正義が勝利する時まで、主は静かに ご自分を隠された。父なる神さまが、そのことを望まれたのです。
 ファリサイ派の人々の中に殺意が生まれた日、主イエスはすでに十字架に
向かって歩んでおられた。神に見捨てられ、救いから落ちこぼれたと本気で
思っている人々のために。そしてファリサイ派の人々、また私たちのために、十字架への道、正義への道、甦りへの道を静かに歩き通してくださいました。
 旧約聖書の時代、主イエスが来られるときまで、神さまが臨在する場は神殿でした。神殿は、神が共にいてくださる約束の場であり、証です。けれども、主イエスが神殿より大いなる者として、神が共におられることの証として、世にいらしてくださった。主イエスがいらしてくださったことにより、旧約聖書の神殿は役目を終えたのです。
 主イエスは、父なる神さまの定めに従い、いけにえ として十字架に架けられました。自分を捨てる いけにえは 愛であり、憐れみです。主は、ご自分の命と引き換えに、愛のない いけにえを求める掟に縛られた人々を、解放して
くださったのです。そして父なる神さまは、三日目に、「神が共におられる」
新しい約束のしるしとして、主イエスを甦らせてくださいました。こうして、主の正義が偽りの正義に勝利したのです。
 主は、私たちに願っておられます。「安息日は、あなたたち皆が、神の愛に
安心して憩う日。苦しんでいる人の痛みに寄り添い、思いやり、祈り合う日。どうか、己の正義で裁き合うことなく、私の正義に生きて欲しい。私は、あなたがたの神であり、いつもあなたがたと共にいるのだから。」

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、己の正義で隣人を裁く私たちを憐れんでください。どうか、苦しんでいる人の痛みに寄り添い、思いやり、祈り合う者としてください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。主よ、今も世界には戦いがあります。武力を用いての戦いのみならず、言葉の戦いがあります。己の正義をふりかざし、目の前で苦しんでいる人に心を寄せることを疎かにする私たちです。どうか、様々な痛みを抱えている人を憐れんでください。私たちも、あなたの正義に生き、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くことができますよう導いてください。疫病の終息まで時間がかかりそうです。疲れ果て、生きる気力を失っている人に主にある希望をお与えください。今日も体調を崩し、疫病を恐れ、また痛みを抱えているため、礼拝に出席することのできない兄弟姉妹がおられます。どうか、それぞれの場で礼拝をささげているお一人お一人を祝福してください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年10月11日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第23章33節~40節、新約 マタイによる福音書 第12章1節~8節
説教題:「まことの平安」
讃美歌:546、52、265、Ⅱ-95、540、Ⅱ-167

 ある安息日、主イエスは弟子たちと麦畑を通られました。空腹に襲われた弟子たちは、麦畑に入り、実った麦の穂を摘んで食べ始めたのです。すると、ファリサイ派の人々が、ここぞとばかり大声で主イエスに言いました。「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」。
 マタイによる福音書も、今日から第12章に入ります。1節は「そのころ」から始まります。「そのころ」と訳された元の原語(εκεινω エケイノゥ)は、はっきりとした、特別なときを示す言葉です。日常ではない、特別な事が起こった「まさにその時」と強調されているのです。
どんな「時」だったのか、先週の み言葉を確認したいのですが、主イエスはこのように招きの言葉を語られました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(11:28)」。
 主イエスから、全ての者への招きの言葉です。まことの安息、まことの平安を主が備えてくださり、私たち全ての者を招き入れてくださった。まさにその時、安息日に関する主イエスとファリサイ派の論争が起こった。結果、ファリサイ派は主イエスの殺害を画策し始めた。つまり主の十字架への道が「まさにその時」動きだしたのです。その時、主イエスが備えてくださるまことの安息と、ファリサイ派の考える安息が、激しくぶつかり合った。
主の み声が聞こえます。「あなたがたの安息は、まことの安息ではない。掟に縛られ、平安を得ていない。そればかりか、常に目を光らせ、掟を順守できない者を裁き、憐れみの心を失っている。」
創世記に「安息」について書かれています。「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。(創世記2:2~3)。」
神さまが天地を創造され、七日目に休まれたように、私たちも六日間働き、七日目に休む。神さまが祝福し、聖別された第七の日を「安息日」とし、仕事から離れ、神さまのもとに集い、新しい力を頂き、日々の生活へと送り出して頂くのです。
 ユダヤの人々は、仕事から離れる日を「安息日」と呼び、一所懸命まもった。真面目にまもった。働かないよう注意した。けれども、だんだん心配になってくる。
「安息日に、こんなことをしても大丈夫だろうか?労働になるかもしれない。この程度の労働なら罪にならない?いや、罪かもしれない。」
律法学者は、真剣に議論した。実際、「働かないように!」と言ったって、腹は減る。食事を用意しなければならない。その場合、どうしたらよいか?「前の日に用意した食事をあたためて食べるのは大丈夫」と決めた。一日何歩までなら歩いても良いか?「何百歩」と決めた。このような掟が次々に生まれた。そして、この決まりの通りに生きていれば、罪にならない。掟を順守すれば、神さまの祝福から漏れない、と安心したのです。
 しかし、「掟を順守すれば安心」というからには、順守できなければ祝福から漏れることになる。ファリサイ派の人々は、順守できない人を裁き、「祝福からの落ちこぼれ」というレッテルを貼ったのです。
本来、神さまから七日目に安息を頂き、「平安を得なさい」と招かれた「安息の日」が、いつの間にか、祝福から漏れないためにドキドキ ヒヤヒヤする日になってしまったのです。
私たちの世でも、日曜日に働いている方は大勢おられます。電車、バス等の運行に携わる人がいる。台風が気になる。朝、情報を発信してくれる人がいる。教会の帰り、食事を楽しむ。食事を提供してくれる人がいる。スーパーで働いている人がいる。警察、消防、救急、病院、介護は24時間。日曜日の保育所もある。運送も24時間。そのような人は神の祝福から漏れるのでしょうか?聖書の時代も色々な人がいた。その日の食事もままならない人もいたでしょう。
 主の弟子たちも潤沢に資金があったとは思えません。三食、きちんと食べることのできない日もあったに違いない。当然、お腹が空く。そのとき、麦畑があった。朝から何も食べていない。当時、貧しい人が他人の畑で麦の穂を摘み、食することは貧しい人々の権利として認められていましたから、弟子たちは、穂を摘み、口に入れました。しかし、ファリサイ派の人々はそれを見とがめた。「あなたがたは、安息日の掟を軽んじた。そのような弟子たちを放置しているあなたも神を軽んじている。許せない!」
 ファリサイ派の人々は誤解していますが、主イエスは「律法や安息日など、どうでもよい」と言われているのではない、ということを、私たちは心に刻みたいと思います。主は、人々が互いに平安に生きるために与えられている律法がねじ曲げられていることを、悲しまれるのです。主は、み言葉を例に示し、ご自分がどのような存在であるかをはっきりと示されました。
3節、「ダビデが自分も供(とも)の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供(とも)の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。(12:3~4)」
サムエル記上第21章には、ダビデがユダヤの王になる前の様子が書かれております。神さまによって、次の王と指名されたものの、そのためにかえってサウル王からつけ狙われ、命からがら逃げ回っていたときのエピソードです。
ダビデは腹ぺこで神殿に逃げ込んだ。そして、祭司アヒメレクに泣きついたのです。「それよりも、何か、パン五個でも手もとにありませんか。ほかに何かあるなら、いただけますか。(21:4)」祭司アヒメレクは、ダビデを憐れみ、祭司しか食べることの許されない聖別されたパンを与えた。ダビデは空腹が満たされ、新しい力を得ることができたのです。
さらに主イエスは言われました。5節、「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。(12:5~6)」
安息日は、仕事から離れ、神さまの「平安」を求める人々が神殿に招かれる。神殿には、神さまに仕える祭司が礼拝を司る役目を負っている。祭司にとって安息日は働く日。神の栄光のために働く祭司が、安息日に休まなかったから、と裁かれることなどあり得ません。
主は言われました。「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。」別な翻訳(柳生直行訳)では、「よく聞くがいい。ここにいるのは、神の宮よりもさらに大いなる者である。」と訳されておりました。私はこちらの訳の方が心に響きました。
主イエスは言われるのです。「神の宮で神に仕える祭司に許されていることが、神の宮と比較できない大いなる者である私に仕える弟子が空腹で苦しんでいるのに、麦の穂を摘んで食べることに何の問題があると言うのか。」  
主イエスは、ご自分が神によって立てられたダビデ王より、また、神の宮であるとされていた神殿よりも、はるかに大いなる者であると明らかにされた。「私は、神そのものである」と宣言された。そして言われたのです。
7節、「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。(12:7~8)」。
主イエスは、私たち全ての者に安息を与えてくださる お方です。安息は、私たちが努力して獲得するものではありません。互いに目を光らせていなければ失ってしまうものでもありません。安息日に働かなければならない人がいる。それぞれの事情もあるのです。
神さまの光に照らされたとき、いびつでない人間はひとりもいません。皆、飢え渇いている。目が塞がれている。手足が萎えている。だからこそ、私たち全ての者に安息が与えられる。主イエスが、ご自分の命と引き換えに まことの平安を約束してくださったのです。
主イエスが、途方に暮れている私たちに「安息日だから、今日はじっとしていなさい。明日、出直しなさい」と言われることは決してありません。なのに、どうして私たちが「それは神の み心ではない」と言えるでしょう?主イエスは、まことの神として、私たちの必要に応じて日用の糧を与え、塞がれた目を開き、萎えた手足に力を与えてくださる。そのために主は、私たちの元に降って来てくださいました。大切なのは 主の憐れみに全てを委ねること。すると、まことの平安を与えられる。主の憐れみによって平安を頂いたのですから、私たちも憐れみの心で仕え合うことができるのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、 まことの安息、まことの平安を、主の憐れみによってお与えくださり、深く感謝いたします。どうか、まことの安息、まことの平安を与え続けてください。互いの欠けを指摘し合うのではなく、主イエスに倣う憐れみに、共に生きることができますように。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。今日は日曜日。安息の日です。しかし、今日も仕事をしている方が大勢おられます。特に、医療現場、介護現場等、待ったなしの現場で疲労困憊している方々に聖霊を注ぎ、まことの安息をお与えください。本当に皆、疲れております。将来が見えない不安に襲われております。どうか主よ、主にある平安に生きる喜びを お示しください。深い孤独を抱え、生きる希望を失っている方々がおられます。どのようなことがあってもあなたは私を見捨てることがないと心から信じる信仰を日々、お与えください。今日も様々な理由で教会にいらっしゃることのできない方々を憐れみ、どこにいても主が共におられることを思い起こさせてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年10月4日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第34篇16節~23節、新約 マタイによる福音書 第11章28節~30節
説教題:「誰でもわたしのもとに来なさい」
讃美歌:546、61、244、Ⅱ-1、517、539

今朝、神さまから与えられた み言葉「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」は、聖餐式に読まれる「招きの言葉」です。礼拝も賛美も制限せざるを得ない状況下、暫く聖餐の祝いにも与ることができませんでした。先月ようやく聖餐式を再開できたとき、この「招きの言葉」がいつにも増して私たちの心に響いたのではないでしょうか。私たちがどれほど この み言葉を欲していたか。どれほど聖餐を欲していたか。改めて思い知ったように感じました。知らない人から見れば、ひとかけらのパンと、ほんの一口の葡萄の液です。けれども、愛する皆さんと食卓を囲んだとき、大きな喜びに満たされた。教会に力強い風が吹いた。息を吹き返したような心地がいたしました。
 僅か半年前まで当たり前だったことができなくなり、代わりにマスク着用、うがい、手洗い、ソーシャルディスタンスの励行。そして自粛。しまいには「こんなことしても大丈夫かな?」と何をするにもビクビク。年を重ねた両親に会いに実家に行くことさえ、感染予防のためということもありますが、心の中は純粋にそのことだけを考えてはいない。他人の目も気になって、躊躇している。規則から外れていないか?常に誰かに監視されているような日々は、まさに重荷を背負わされているように感じます。
 「知恵ある者」と主イエスに呼ばれたファリサイ派や律法学者たちが人々を監視し、裁いていた聖書の時代と似ていると言ってよいかもしれません。いつまでこの状態が続くのか?今もゴールが見えません。
 だからこそ主は、不安に疲れ、重荷を負う全ての者を招いておられます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」私は、主の招きを心に刻むたびに感じます。「そうだ。主イエスは『だれでも』と語っておられる。『そこのあなたは来なさい。でも、そちらのあなたはだめ』ではないのだな。」
私事になりますが、かつて一人の信徒として教会に通っておりました。銀行に勤務していた頃、厳しいノルマと上司からのパワハラに心身ともボロボロでした。最近、話題となった合併銀行を舞台にしたドラマを見て、「ああ、あのような人は確かにいたな」と感じました。私も上司に命令されれば、「まずい」と思っても、組織に生きる者として上司に逆らうことなどできない。主の み心と違う世界にいると疲れる。様々な重荷に押し潰されるのです。
主の日の朝、突然、汚れのない男に変わることなどできず、疲れ果て、罪にまみれたまま教会に足を運ぶ。もし主イエスが、「疲れた者、重荷を負う者で、先週、何の罪も犯さず、正義に生きた者だけ、わたしのもとに来なさい。褒美として休ませてあげよう」と言われたら、罪の私は教会から去ることになったでしょう。しかし主は、「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招き続けてくださる。
しかも、主イエスのくださる「休息」は、ただひととき 日頃の苦労を忘れさせる、酒に酔っ払うようなものではありません。「休ませる」と訳された元の言葉は、「新しい、新鮮な命の力を与える」と訳せる言葉です。連休の後に、かえって体調を崩したりすることがあります。連休明けの朝、暗い気持ちになる。「こんなに憂鬱になるなら、休まなければよかった」と、思ったりする。あるいは、コロナ禍により、これまでノンストップで走り続けていたのが急に立ち止まらざるを得なくなる。しかし、このような休みは、体は休めても、心は不安に襲われ、全く休まらない。焦るばかりで休息とは程遠い日々。
主イエスがくださる休息は、そのような休息とは違います。たとえ、体は衰え、息も絶え絶えであっても、重荷に押し潰されそうになっても、主の日ごとに、「わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう。わたしがあなたに新鮮な命を与えよう」との招きの み声は、私たちの萎えた足に力を与えるのです。
 「あなたがたは、今日、ここから新しい命を歩み始める。それが私の与える休息、安らぎだ」と主は語っておられる。そして、続けて言われる。「わたしの軛を負いなさい。わたしに学びなさい」。主は、「わたしの元に来て休む」ことは、「わたしの軛を負う」ことであり、「わたしに学ぶ」ことだとおっしゃるのです。
「軛」は、牛や馬に荷物を引かせたり、畑を耕したりするときに装着させる道具。軛を装着することで、全身にかかる力を分散させ、効率よく荷物を引かせることができる。働くときにつけるのが軛。つまり、牛も馬も休むときには軛を外してもらい、家畜小屋で休みます。
ところが主イエスは、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われるのです。素直に考えると理解できません。主イエスの軛を負い、主に学ぶことで安らぎを得られる。いったい、どういうことでしょうか?主は言われます。「わたしは柔和で謙遜な者だから」。「柔和で謙遜な者」とは、主の お人柄を示す言葉ではありません。つまり、「私の人柄を学びなさい」ではないのです。
主イエスは、神さまの柔和と謙遜の証として世にいらしてくださいました。神さまの柔和そのもの、謙遜そのものであられる主イエス。主は、私たちを厳しく裁き、罰し、上から押さえつけ、自由を奪う軛として世に来られたのではありません。神さまの独り子であられる主イエスは、私たちに仕えるために父なる神さまによって世に遣わされました。神さまが、私たちに奉仕することを望まれたのです。
主イエスご自身がどこまでも低くへりくだり、柔和と謙遜の限りを尽くし、子なる神さまであられながら、人間と同じ者になられ、十字架の死に至るまで私たちに仕えてくださった。
そのようにして、主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」との招きの責任を負ってくださった。私たちの重荷を一緒に背負ってくださるどころではない。全部まるごと負ってくださった。私たちの安らぎのため。私たちが思い煩いにより、押し潰されてしまうことのないように。「遠慮することなく、あなたの全ての重荷をわたしに委ね、わたしにまかせきって良いのだよ」と心から招いておられるのです。
そして今朝、私たちは新鮮な命の力である聖餐に与る。罪にまみれた私たちの旧い体は主の十字架で流された血潮と、引き裂かれた肉と共に死んだことを心と体に刻みつける。さらに私たちは、主の甦りによって、永遠の命を得て、歩み出せるのです。
 皆さんも愛唱しておられる讃美歌291番は、このように賛美します。「主にまかせよ、汝が身を、主は よろこび たすけまさん。なやみは つよくとも みめぐみには 勝つを得じ。まことなる 主の手に ただまかせよ、汝が身を。」
 歌詞のように、私たちの人生は、主を信じたからといって何の苦労も悩みもなくなることはありません。年老いていけば体のあちこちが痛くなる。コロナ禍で、先の見えない世の視界が開けるわけでもない。これからの時代、私たちの重荷、私たちの悩みは益々強くなるでしょう。
 しかし主は、ご生涯をかけて「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招いてくださっているのです。
 「たとえ、あなたの悩みはつよくとも、神を信頼し、苦しみ、悩みはわたしにまかせなさい。わたしにまかせたら、わたしの軛を負いなさい。わたしの軛は、わたしのように、互いに愛し、互いに仕え、互いに祈ること。そのとき、あなたがたの疲れ、重荷は軽くなり、永遠の安らぎを得られるのだ。」

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、 疲れを嘆かずにおれない、私たちの弱さを憐れんでください。あなたの恵みの中で憩うことを学ばせてください。愛する兄弟姉妹と共に礼拝をささげ、聖餐に与ることが、すでに大きな安らぎです。その恵みを常に喜び、感謝することができますように。 主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。今日も神さまの招きを感じながら、それぞれの事情により教会に集うことのできなかった兄弟姉妹のために祈ります。体調を崩している方、痛みを抱えている方、仕事をしている方、心が疲れている方、深い重荷を抱えている方を憐れんでください。私たちもそれぞれに疲れをおぼえ、重荷を抱えております。だからこそ、自らの重荷を自分だけで抱え込むのではなく、互いに愛し、互いに仕え、互いに祈ることでそれぞれの重荷を負うことができますよう導いてください。11月15日には、森島 豊先生による秋の特別伝道礼拝を予定しております。主イエスが語られた「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」を信じ、伝道の心を熱くし、疲れ、重荷を負う方々が み言葉によって永遠の安らぎを得ることができますよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年9月27日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第31章31節~34節、新約 マタイによる福音書 第11章25節~27節
説教題:「神を知る幸い」
讃美歌:546、3、294、306、545B

 先週の主日、私たちは敬老感謝のときを持ちました。第1礼拝、第2礼拝でお名前を紹介し、今年は、詩編 第121篇の み言葉「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから(121:1~2)」と記されたお祝いのカードを差し上げました。 
カードを受け取られた皆さんは、どのように感じられたでしょうか?もしかすると、中には複雑な心境だった方もいらっしゃるかもしれません。「これまで生かしてくださった神さまに感謝している。けれども、足腰、視力、聴力とも衰え、今まで 苦もなくできていたことが、どんどんできなくなってきている。本音を言えば、『おめでとうございます』と言われても、幼い頃のようには喜べない。」
さて、今朝、私たちに与えられております み言葉は、主イエスの祈りです。その中に、「幼子のような者」という言葉があります。思いを巡らせているうち、次々と問いが生まれてきました。主イエスが祈られた「幼子のような者」とは、どのような者だろうか?主は年齢を意識して語られたのだろうか?そうであるなら、いくつまで「幼子」なのだろう?いや、年齢に関係なく、「幼子のような」心であれば、たとえ、敬老感謝のカードを頂く75歳以上であっても、「幼子のような者」に含まれるに違いない。そうであるなら、「幼子のような」心とは、いったい、どのような心なのだろう?
 25節で「幼子のような者」と訳されたのは、「ネィピ オイス(νηπιοις)」というギリシア語です。「幼児らしい、子供っぽい、単純な、未熟の」という
意味です。主イエスが「幼子のような者」と対比して祈られたのは、「知恵ある者や賢い者」。この世の常識で判断すれば、子供っぽい、未熟な人より、知恵があり、賢い者が重んじられるのは当然。けれども、主は、このように祈られた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これは御心に敵うことでした。」
 驚くべき祈りです。神さまは福音の真理を知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者に お示しになられた。しかも、それこそが神さまの御心であると、感謝しておられるのです。このことは大いなる恵みとして心に刻みたい。
 信仰に熱心であればあるほど、「私は、神さまが望んでおられることを熱心に学び、こんなことができ、あんなこともできます。」そのように考えがちです。しかし神さまは、ただただ、神さま、主イエスへの一途な心を求めておられる。ある人たちから、「子供っぽい」、「未熟だ」と言われるかもしれない。しかし、そのようなまっすぐな心にこそ、神さまの愛、福音の真理は示される、と主は、祈りを通して私たちに教えてくださっているのです。
 今朝は教会学校でも説教をさせて頂きました。与えられたのは、非常に高価な香油の入った石膏の壺を持って主イエスに近寄り、ありったけの香油を注ぎかけた女性の物語です。町中の人から白い目で見られるような、神さまの救いから最も遠い者と見られていた女性だったのではないかと言われております。それこそ知恵のある賢い者からは敬遠されていた女性だったかもしれない。
 主の弟子たちも、この女性の過剰でストレートすぎる行為に憤慨したのです。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことが
できたのに。(マタイによる福音書 26:8〜9)」
 私たちはどちらかと言えば、弟子たちに共感をおぼえるでしょう。教会財政は尊い献金で支えられている。何かを購入するとき、このことは伝道にとってプラスになるかを第一に考える。当然のことです。もし、ある教会員が自分の考えで、教会の資金をドーンと用いてしまったら、たとえそれが本当に大切なことであっても、弟子たちのように私たちは憤慨するかもしれません。
 けれども、主イエスは言われたのです。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。(26:12〜13)」
 この女性は、自分が神さまの み心からどれほど離れてしまっているかを知り、主イエスに救われ、感謝の思いを伝えたい!と思ったとき、それこそ子ども
じみた方法しか思いつかなかったのかもしれません。幼い子どものように、主イエスに私の愛を伝えたい!主に癒され、愛されている喜びを伝えたい!そのような主イエスへの一途な思いで行動した。主の前に幼子のような者だった。反対に、憤慨して「こんな無駄遣いをして」と女性を裁いている弟子たちは、主イエスに ただただつき従う者として歩み始めたのに、いつの間にか、「自分たちは主イエスに選ばれた」と自分自身をひとかどの者であるかのように勘違いし、「知恵ある者や賢い者」になってしまったのかもしれません。
主イエスから「知恵ある者や賢い者」と言われた人々、おそらくファリサイ派と呼ばれた人々や学者たちと考えられますが、彼らは、決して不信仰では
ありません。聖書を隅から隅まで熱心に研究している。それも、ただ研究しているだけではありません。研究したことを実践している。み言葉に生き、救い主の到来を祈ることに心を砕いている。それなのに、肝心なときに救い主の
到来に気がつくことができなかった。そればかりか、主イエスを罵り、激しく拒み続けた。そして、十字架の死に至らしめたのです。
主の弟子たち、また私たちも例外ではありません。私たちは熱心であれば
あるほど、いつの間にか自分の正しさにこだわりがちです。「私は、主のためにこういう奉仕をしている。このように正しい生活をしている。」
けれども、知恵があり、賢い者である学者たちが「取るに足らない者たち」、「不信心な罪人」と馬鹿にしていた者たちこそが、神さまに選ばれ、主イエスを救い主と信じる信仰を与えられた。父なる神さまと子なるキリストにしか
知ることのない驚くべき救いのご計画を、肌で感じ、主イエスの み言葉、主
イエスの祈りに すがり続けた。そのような まっすぐな心を父なる神さまは
大いに喜び、祝福してくださる。この世に、これほどありがたいことがあるでしょうか?自己責任を問われ、自助を求められ、人に頼るのではなく、どこまでも自分の力で生きることを求められる。もちろん、自分の力で生きることは尊いことかもしれません。全てを否定することは それこそ罪だと思います。
しかし、主がおっしゃるのです。「幼子のような者にお示しになりました」と。「自分が自分が、自分で自分で、ばかりだと、隠されてしまう。神さまからのあなたへの愛、憐れみ、赦しが見えなくなるよ。」
 端的に言えば、私たちがどれほどの者か。ということです。本来、神さまに本気で すがる。頼る。しがみつくしかない者であるはずなのに、熱心に打ち
込んでいるうちに自分の賢さ、知恵に見惚れてしまう。主は、そこに潜む罪を教えてくださるのです。「あなたの知恵が、神の知恵に勝るというのか?あなたの行いが、私の十字架に勝るというのか?」
 私たち人間どうしですら、相手に対し偉ぶり、「あなたより私は知恵がある。あなたより私は賢い」という態度で接すれば、誰も本音を語ってくれません。まして、神さまは「天地の主」です。私たちの創り主であられます。
 福音は隠されています。意地悪ではありません。神さまは すぐにでも覆いを剥がしたいと願っておられる。けれども、こちらが知恵ある者、賢い者として神さまと向き合おうとしている限り、神さまは福音を隠し続けられるのです。
 主イエスは、小高い丘の上で、またいくつもの町、小さな村で、心を込めて説教をなさいました。けれども、いっこうに悔い改めない人々。神さまの方に向きを変えない人々がいる。しかも、それらの人々は「知恵ある者、賢い者」と周囲から尊敬を集め、自分でもそのように思い込んでいる。
 これでは、主イエスから「伝道はもうおしまい」と言われても仕方がありません。しかし、主イエスは感謝しておられる。父なる神さまに。「天地の主で
ある父よ、あなたをほめたたえます。」驚くべき祈りです。
 伝道に失敗し、なかなか自分の思いが相手に伝わらない。私であれば、怒り、神さまの み心を疑ってしまうかもしれません。しかし、主は失敗を感謝して
おられる。まさに幼子のように。「たとえ試練に襲われても、神さまがこの試練を悪いようにはなさらない。いや、私が苦しみ、排除され、十字架の上で殺されることが神さまの み心に適うのなら、どうかそのことを実現してください」と、どこまでも神さまに すがりつき、神さまを信じ、祈り続けておられる。
そのような主も、香油を注がれた直後、ゲツセマネで祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。(マタイによる福音書 26:39)」
私たちにも、この祈りが許されています。主イエスのように、神さまに泣いていい。主のように、神さまを「父よ」と呼んでいい。主のように、「御心の
ままに」と祈ってよいのです。自分自身で「私は役に立たない」と思う日は、むしろそのことを喜び、主に すがり続けたい。おごり高ぶる日は、今朝の主
イエスの祈りに立ち帰りたい。幼子のように。そのとき、父なる神さまは私
たちをギュッと抱きしめ、「子よ、私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と語り続けてくださるのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、おごり高ぶることの罪の恐ろしさを心に刻みました。主よ、幼子にしてください。愚かな、傲慢な知恵をあなたが打ち砕き、あなたの み心を受け入れる、へりくだった者としてください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。疫病の不安が続いております。そのため、日々の生活に困窮している方々が
おります。休みなく働いている医療従事者がおります。教育、保育、介護等の現場でも、不安の日々を過ごしております。どうか、それぞれの現場で働いている方々が疲れ果ててしまわないようお支えください。困難な状況も、神さまが必ず良い方向に導いてくださると信じる信仰を日々、お与えください。体調を崩している方々、心が塞いでいる方々、喪失感に襲われている方々、悲しみを抱えている方々、生きる希望を失っている方々に、日々、聖霊を注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年9月20日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第6章16節~21節、新約 マタイによる福音書 第11章20節~24節
説教題:「わたしの声が聞こえないのか」
讃美歌:546、10、250、252、545A

 今朝のマタイによる福音書の み言葉でまず心に刻みたいのは、「不幸だ」と訳された み言葉です。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。」コラジン、ベトサイダとも、主イエスが「天の国」について教え、多くの奇跡に力を尽くされたガリラヤ湖畔の小さな町の名前です。主イエスは、そのコラジン、ベトサイダを「お前」と呼び、「不幸だ」と言われます。直前の20節に、「イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。」とありますから、主イエスがこれらの町を断罪しておられるように感じるかもしれません。しかし、「不幸だ」と訳されたギリシア語の意味を心に刻むと、少し違うかな?と思います。
「不幸だ」と訳されたのは、「ウーアイ(ουαι)」というギリシア語です。ギリシア語辞典には、こう書いてあります。「(悲嘆、悲痛を表わす『ウェッ!』)何と悲しいことか、悲しいことよ(『あなたたちのことを考えると、私の胸は張り裂ける!』の意味。『禍(わざわい)あれ』ではない)」。つまり、主イエスがコラジン、ベトサイダに対し、「お前は滅びろ!」と、バッサリ裁いておられる、というより、思わず呻き声を漏らしてしまうほどに、「何と悲しいことか、何と辛いことか、お前たちは神に裁かれる。死者の行く陰府(よみ)に落ち、天に上げられることは永遠にない。私は何のために あれほど悔い改めを促し、数多くの奇跡を行ったのか。コラジン、ベトサイダ、お前たちが裁かれ、滅んでしまうのは耐えられない悲しみ。私の胸は張り裂ける!」と、主は悲しみ、苦しみ、呻いておられるのです。
 ところで、皆さんは誰かから、呻くような思いで叱られた経験があるでしょうか?私は今も忘れません。恩師の呻きのようなゲンコツを。恩師に頌栄女子学院で働くことを報告させて頂いたとき、「後にも先にも殴ったのは田村だけだ!」と言われました。私は恩師に殴られ、ようやく目が覚めた。今も心から感謝しております。中学2年の私。自分をコントロールできなかった。あの日、職員室で叱られなければ、取り返しのつかないことになっていたと思います。 
 21節以下の主の お言葉は、福音書が記録している主が語った言葉の中でも、最も厳しい言葉の一つと言えます。けれども、主が思わず漏らされた「ウーアイ」という呻き声からは、主の深い愛が聞こえるのです。
 「コラジン、ベトサイダ、お前たちは、私の奇跡を知っている。それなのに、なぜ悔い改めないのか?カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか?このままでは、『陰府』にまで落とされる。裁きの日に、重い罰に苦しむあなたがたの姿が私には見える。私の胸は張り裂けそうだ!」
 カファルナウムもガリラヤ湖畔の町。コラジンやベトサイダより、大きな、豊かな町であったようです。皆さんの記憶にも新しいと思います。主イエスが山上の説教を終え、重い皮膚病を患っている人を清くされ、その後に入られたのがカファルナウム。カファルナウムは、主イエスがガリラヤ伝道の拠点とされた町であり、何度も奇跡を行われました。
一方、ティルス、シドン、ソドムは、旧約聖書の創世記、イザヤ書、エゼキエル書などに繰り返し登場する町。堕落した、異教の町としてユダヤの人々によく知られていた町であり、神さまによって滅ぼされた町の代表格。それらの町より、カファルナウムの方が重い罰を受けることになるとは、ユダヤの人々にとっては寝耳に水のような み言葉だったに違いありません。
今朝のマタイによる福音書のもう一つの大切な み言葉は「悔い改め」です。聖書における「悔い改め」は、「罪を悔いて反省すること」と言うよりも、元々の言葉の持つ意味は、向きを変えること。心の向き、からだの向きを神さまの方へ変える。向きを変え、神さまへ帰る。それが「悔い改め」です。
もしかすると、コラジン、ベトサイダの人々は、向きを変える必要を感じていなかったのかもしれません。カファルナウムに住む人々も、「自分たちは特別に多くの奇跡を行って頂いた。自分たちは特別に選ばれている」と思っていたに違いありません。「自分たちは、ティルス、シドン、ソドムのように堕落などしていない。真面目に礼拝し、お祈りし、献金している。」
そのような思い、私たちにも覚えがあります。「4連休。多くの人は秋の行楽を楽しんでいる。でも、私は違う。今日も礼拝。もちろん、私は神さまを向いている。」そのように安心している私たちに、主イエスは眼差しを注ぎ、呻いておられるかもしれません。「今日も、あなたは礼拝をささげている。けれども、形式的になっていないか?どんなときも、神さまを向いているか?神さまに背を向けていないか?感情的に人を裁いていないか?あなたたちの世に不正はないか?不正を諦め、見て見ぬ振りをし、不正の上にあぐらをかいていないか?」
言葉が出ません。主の「ウーアイ」との呻きを、信仰の耳をもって聞くとき、私たちはうなだれるしかないのです。
私たちも重い罰、厳しい裁きを受けて当然の存在です。仮に、粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めの祈りをささげたとしても、私たちの全てをご存知の主から、「あなたの祈りは、パフォーマンス!」と言われてしまうかもしれません。 
主はコラジン、ベトサイダ、カファルナウムを、苦しみの呻きが漏れるほどに悲しまれた。同じように、私たちの世を悲しまれ、呻いておられるに違いない。 
それなのに、私たちは今日も、父なる神さまから名前を呼ばれ、礼拝に招かれている。本来なら、徹底的に裁かれ、ソドム以上の重い罰を受けるべき私たち。けれども、今日も生かされ、礼拝に招かれ、主を賛美することが許されている。なぜか?主イエスがソドムよりも重い罰をたった一人で引き受けてくださったから。心からの呻きを、十字架まで続けてくださったから。
主は、悔い改めない町に向けて語られた裁きの言葉を、最後はご自分に向け、十字架で死なれた。まことの神さまであられるのに、陰府にまで落とされたのです。
疫病の蔓延により世界が進むべき道を見失っている今こそ、主イエスの呻き「ウーアイ」を心に刻みたい。主が私たちに求めておられることは、ただ一つ。主の呻きをしっかり聞き取り、神さまの方へ向き直り、帰ることです。私たちに代わって十字架に架かり、陰府にまで落とされた主イエスから目を逸らさないことです。神さまに向き直り、主の十字架を仰ぐとき、私たちは神さまの厳しい裁きの剣が、私たちではなく、主イエスに振り下ろされたことを知るのです。もう、粗布をまとい、灰をかぶることを求められていない。それほどの愛と赦しを心に刻むとき、主イエスの呻き「ウーアイ」を心に刻むとき、私たちの心は悔い改めの祈りへと導かれます。自分の十字架を担い、主イエスに従い続けたい。主は十字架を担う力、主に従う心を、聖霊によって日々、注ぎ続けてくださるのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、主の呻きを聞き取る者としてください。私たちは、主が数多くの奇跡を行ってくださったカファルナウムのように、他の多くの者に先立って救いの中へ招かれました。この喜びに相応しい者として、日ごとに悔い改め、主に従って歩む者としてください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。
先週も複数の教会員から近況を伝えるお手紙、お電話が届きました。ある方はご自宅で転倒し、今、病院で生活しておられます。ある方は、足の痛みが続き、教会への移動が難しく、ご自宅で礼拝をささげておられます。ある方は、礼拝に復帰できる日を信じ、祈りを深めておられます。主よ、それぞれの場で礼拝をささげている兄弟姉妹を強め、励ましてください。たとえ、礼拝堂で礼拝をささげることができなくても、主が共におられることを忘れることがないようおまもりください。コロナ渦にあって、地球上の多くの問題がうもれてしまっているのを感じています。しかし、今このときも争いがあり、貧困があり、虐げられている人々がおります。主よ、どうか、弱い立場の人々に希望をお与えください。愚かな争いをやめ、隣人に愛をもって接し、互いに助け合う知恵を、私どもにお与えください。まことの悔い改めをもって、あなたの み声に聞き従うことができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年9月13日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 マラキ書 第3章23節~24節、新約 マタイによる福音書 第11章7節~19節
説教題:「聴く耳は何処に?」
讃美歌:546、15、239、242、544、427

主イエスは群衆に言われました。16節。「今の時代を何にたとえたらよいか。」主は、深く嘆いておられます。なぜ嘆いておられるのか?皆がブツブツと呟いているからです。ヨハネが禁欲的な生活をしていると、「あれは悪霊に取りつかれている」と呟く。主が徴税人や罪人と食事を楽しんでおられると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と呟く。
主イエスが「今の時代」と言われた聖書の時代、そして私たちが生かされている時代、私たちの呟きが何一つ変わっていないことに恐れを抱きます。
私たちは日々、心から願う。「今日こそ、神さまと人に謙遜に仕えたい。」しかし、どんなに頑張っても自分の思いが相手に伝わらない。それどころか、攻撃される日もある。すると、その人を赦せない。それが私たちの姿です。
まさに広場に座って、「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。(11:17)」と すねる子供たちと同じ。そのとき主は、私たちに言われるのです。「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
「知恵」とは何でしょう?詩編に書いてあります。「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。(111:10)」、箴言にも書いてある。「主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め(9:10)。」
主は、「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。(11:7)」と問われました。「あなたがたには立派な目、立派な耳、立派な口がある。それなのに何を見、何を聴き、何を呟くのか?なぜ斜めに見、斜めに聴き、呟くのか?あなたがたには知恵があるはずだ。どうか、まっすぐに洗礼者ヨハネの言葉に耳と心を向け、そして私が世に遣わされた意味を正しく理解して欲しい。」
主は、今を生かされている全ての者に、主の み心を素直に見つめ、み言葉を聴き、主に従って生きる「知恵」を求めておられるのではないでしょうか?
主イエスは洗礼者ヨハネを「預言者以上の者である」と言われました。なぜ「預言者以上の者」と言われるのか。一つの鍵は12節の み言葉です。「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」
この、「天の国は力ずくで襲われており」と訳された言葉は、別の訳も可能で、「天の国が力ずくで激しく入り込む」という意味にもなります。つまり、両方の理解が可能な言葉なのです。
天の国が力ずくで入り込んで来たために、天の国が激しく襲われている。激突している。とてつもない勢いの力どうしが両側から正面衝突して両者一歩も引かずの状態。それが、ヨハネが活動し始めたときから始まった、と言われているのです。
ヨハネは、荒れ野で「天の国は近づいた。悔い改め、洗礼を受けよ」と呼ばわりました。天の国、神の国がいよいよ我々人間の世に激しく突入してくる。神ご自身が、ついに飛び込んで来られる。とうとう神と、人の世の新しい歴史が始まるのだ!と告げ知らせたのです。
主イエスが、力ずくで、世に飛び込んで来られた。天の国を世にもたらすために。それなのに、世の人々は「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ(11:19)」と力ずくで襲いかかり、激しく罵り、十字架に架けて殺してしまった。それは、誰の仕業でしょうか?誰の罪なのでしょうか?そうです。ブツブツと呟く私たちの仕業です。主イエスの到来を自分に都合の良いように受け入れようとする。けれども、「私の考えていたメシア像とはどうも違う」となると、途端に呟きだす。「笛を吹いたのに、踊ってくれない。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれない。これは、私の思い描いていたメシアじゃない。」「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。(7:1)、偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。(7:5)」と命じるようなメシアは邪魔。うるさいだけ。主の み言葉に耳を塞ぐ私たち。目の中の丸太に気づかず、兄弟の目にある おが屑を取り除こうと躍起になる私たち。私たちは、そうやって主イエスを十字架に追いやり、殺したのです。
そのような私たちを主イエスは深く嘆いておられます。だからこそ、今朝も私たちを招きつつ、語ってくださるのです。「耳のある者は聞きなさい」。「子供のように『何々してくれない』と他者を批判し、神さまを攻撃して呟くあなたは、何を見、何を聞いているのか?常に み言葉に触れ、み言葉を通して正しく神さまを畏れ、祈り続けて欲しい。」主イエスは、ただまっすぐに主に向かい、聴く耳を求めておられるのです。
どこまでも小さく、低く、弱くなられた主イエスが天の国です。私たちのところへ、力ずくで飛び込んで来てくださいました。そして主は、天の国で最も小さな者として激しく襲われ、十字架の上で息を引き取られました。その後、陰府(よみ)にくだり、三日目の朝、甦られた。主を信じる者を、天の国に生きる者とするために。力ずくで主を排除した者にもかかわらず、主の十字架と復活を信じるだけで、天の国の小さな者の一人として数えてくださるために。
主は言われます。「あなたがたが、認めようとすれば分かること。聞こうとすれば分かること。わたしは聴く耳を求めている。聴く耳、すでにあなたにも与えられている。沈黙し、ヨハネの声、わたしの声に耳を傾け、『天の国』に招かれている喜びに心を踊らせて欲しい。」
旧約聖書の最後で、預言者マラキはこう語っています。「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。(3:23~24)」
マラキは、預言者エリヤの再来としてヨハネの到来を預言しました。だからこそ主は、「彼(ヨハネ)は現れるはずのエリヤである。(11:14)」と語られた。そして「耳のある者は聞きなさい(11:15)」と全ての者を「天の国」へ招いておられるのです。マラキが預言したように、父なる神さまは私たちを「子」と呼んでくださっているのです。私たちは当たり前と思っていないでしょうか?神さまを「父」と呼べる幸いを。父なる神さまは、すぐに呟く私たちが、子として、父なる神にちゃんと心を向けることができるように、ヨハネを遣わしてくださいました。その上で、主イエスを、「これはわたしの愛する子、わたしの天の国」と、送ってくださったのです。私たちが破滅せずにすむために。撃たれることがないために。
呟くことなく、心を高くあげ、主の み前に沈黙したい。「耳のある者は聞きなさい」との主の み声に喜んで従い続けたい。心から願います。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、私たちはすぐに不平不満を呟いてしまう者です。どうか、主の み前に沈黙し、み言葉に聞き従う者としてください。主を畏れる知恵を授けてください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。先週の金曜日、9月11日を迎えました。アメリカで同時多発テロが起こってから19年となりました。突然、愛する家族を失った方々の深い悲しみを癒してください。聖書の時代、そして今の時代、弱い者が虐げられ、強い者が奢り昂ります。どうか、全ての者が主を正しく畏れ、主を愛するように互いに愛し合う心を忘れることがないよう導いてください。特に、疫病により仕事を奪われ、困難な生活を強いられている方がおられます。それらの方のために、何ができるか問い続ける者としてください。今日も様々な理由で礼拝を休んでいる方がおられます。それらの方に、何処にいても主が共におられることを忘れることのないよう聖霊を注いでください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2020年9月6日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第53章1節~3節、新約 マタイによる福音書 第11章2節~6節
説教題:「真理につまずくな」
讃美歌:546、19、121、Ⅱ-1、334、543

主イエスの み言葉によって大きな力を頂いた弟子たち、そして主ご自身も、方々の町で教え、宣教されました。
そんなある日、ヨハネの弟子たちが、ヨハネ先生の伝言を携え、主イエスを訪ねて来ました。
マタイによる福音書において、洗礼者ヨハネが最初に登場したのは第3章。ヨハネは、ユダヤの荒れ野を拠点として禁欲的な生活をしつつ、人々に「メシア(救い主)の到来が近い!」と告げ知らせ、悔い改めを迫り、ヨルダン川のほとりで洗礼を授けていました。主イエスも、ヨハネから洗礼を受けようとされた。ヨハネは慌てて言いました。「あなたは、待ち続けたメシア。わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべき。」と、主イエスの洗礼を思いとどまらせようとしたのです。しかし、主はお答えになられました。「今は、止めないでほしい。」その結果、ヨハネは主イエスの言われたとおり、主に洗礼を授けたのです。
そのヨハネが、今は牢に閉じ込められている。理由は ヘロデ王の不義を公然と批判したからです。荒野で禁欲的な生活を自らに強いていたヨハネですから、牢獄暮らしに物理的に耐えることはそれほど困難ではなかったはずです。また、面と向かってヘロデ王を批判するような人物ですから、死を恐れることもなかったでしょう。
しかし、いよいよ「死」が迫って来たとき、自分がこれまで信じてきたことに対する確信が揺らいだのかもしれません。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。」とあります。弟子たちが逐一報告してくれる情報を耳にしていた。しかし、どうも思い描いていたような審きが行われている様子はない。待望のメシア(救い主)が到来したはずなのに。メシア(救い主)によって不義は一掃されるはずではなかったか。だからこそ、これまで人生を賭けてメシアの到来を宣べ伝えてきた。しかし、相変わらずヘロデはのうのうとのさばっており、自分は牢に繋がれている。もう時間がない。いつヘロデ王に殺されてもおかしくない。死ぬのなら、私のしてきたことが無駄でなかったことを確認して死にたい。このままでは死んでも死に切れない。そのように考えたとしてもおかしくありません。ヨハネは、メシア(キリスト)の最も小さく貧しい僕として生き、そして死にたかったと思うのです。それなのに、メシア(キリスト)は思いも寄らぬ姿で来られた。僕である自分よりもさらに低く、小さく、貧しく、無力な姿で現れた。
主イエスの低さ、小ささ、貧しさ、無力さに、ヨハネの信仰は揺らいだ。これまで信じ、宣べ伝えて来たことは幻だったのか?メシアはまだ来ていないのか?救いはまだ先なのか?ほかの方を待たなければならないのか?牢の中で不安は膨らみ、破裂寸前だったかもしれません。
私にも、心が破裂し、壊れてしまいそうになったことがあります。ヨハネの心とあの頃の私が重なる。脱サラし、主のお召しと信じ、意気揚々と転職したキリスト教ラジオ局で本当に何をやってもうまくいかない。銀行員のときも何をやってもうまくいかないことがありました。それでも、「家族を養うため」と割り切れた。しかし、ラジオ局への転職は神さまのお召しと信じていた。主の愛を電波を通し、教会のない地域の皆さんに伝える働きを主から与えられたと信じ、転職した。それなのに、「牢の中でうずくまる」ような日々。本当に何をやってもうまくいかない。あの頃の痛み、まもなく香り出す金木犀の甘い香りが漂うと思い起こす。本当に苦しい日々でした。なぜ、そんなにも苦しかったのか。主から与えられた働きと信じていたからです。一所懸命 働いた。それなのに神さまは、私をサポートしてくださらない。一度、神さまを疑ってしまうと、その思いから抜け出せない。ズブズブと沈んでしまう。ついには、「私が信じていた神さま、イエスさまは幻だったのか」と心が病んでしまった。どんなに辛くても銀行では14年半働くことができた。しかし、ラジオ局はたった40日で退職。それは、救い主の到来を疑ったからに違いありません。
不安に襲われたヨハネ、弟子たちを通し、主イエスに率直に尋ねました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」主イエスは弟子たちにお答えになられました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
主イエスの答えは「はい。」でも「いいえ。」でもない。聞く者に信仰の耳を求められます。しかし主は、ヨハネにイザヤ書の預言が成就しつつあることを思い起こさせてくださったのです。イザヤ書にはこのような み言葉があります。「弱った手に力を込め/よろめく膝(ひざ)を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が涌きいで/荒れ地に川が流れる。(イザヤ35:3~6)」主イエスがヨハネの弟子たちに語られた み言葉に重なります。さらに主は続けられます。「わたしにつまずかない人は幸いである。」主の み言葉が私たちにも迫ってまいります。
私たちは皆、「ヨハネともあろう人がここに至って道に迷うとは」などと言えない者です。少なくとも私は転職後、道に迷いました。主イエスにつまずくことは誰にでもあることなのです。
残念ですが、「イエスさまを信じれば、今までと違った人生が訪れると思っていた。それなのに何も変わらない。」そう呟き、教会を離れてしまう人は少なくありません。たとえ、教会から離れず、礼拝に出席していても、このように考えてしまうこともあるでしょう。「神がおられ、キリストが到来したのに、なぜ、世に不正が溢れ、争いがあり、自然災害、新型コロナウイルスに苦しまなければならないのか?」悪魔は、私たちにささやく。「キリストは、小さく、低く、無力だ。キリストなんか信じるのをやめたらいいよ。無力だから。」そのように私たちを誘惑する。
しかし、そのときこそ、神さまからの招きのときです。私もどん底を味わうことで、「ああ、それでも私は神さまを信じ、イエスさまにすがりつくしかできない。主よ、すぐにつまずき、疑う私だからこそ、これからも導き、歩むべき道をお示しください」と祈った。その結果、今がある。疑い、迷いのとき。主イエスにつまずき、倒れたとき。そのもっとも深い闇に、主がおられることを知る。自分が今、初めて訪れた闇に、すでに主がおられたことを知るのです。
主イエスは、真の低さ、真の貧しさ、真の弱さをもって、十字架への道、苦難の道、呪いへの道、死に至る道をすでに歩み出しておられる。神さまの救いのご計画に従って歩み出しておられる。どこまでも無力な姿を貫き、十字架に向かって歩みつつ、やがてヘロデによってもたらされるヨハネの死も、自らの十字架と甦りにより、幸いな死になることを見つめておられるのです。だからこそ、主は宣言された。「わたしにつまずかない人は幸いである。」
主イエスは、十字架で血潮を流されました。しかし、死で終わりではありません。主は甦られました。「幸いである」と訳された言葉は、山上の説教の み言葉「心の貧しい人々は、幸いである」と同じ祝福の言葉です。主は、つまずきそうなヨハネ、また私たちを、「甦りのいのち」へと招いておられるのです。
今、私たちの前に聖餐が備えられました。すぐに不安になり、神さまは共におられるのだろうか?主イエスの到来を信じてよいのか?と疑い迷う私たち。だからこそ主は、目で見、口で味わえる聖餐を備えてくださった。そして今、私たちに宣言しておられる。「わたしにつまずかない人は幸いである。」
主イエスの招きの み言葉を、信仰の耳をもって聞きとることができるよう、主に つまずかないよう、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈りつづける者でありたい。心から願います。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、主の祝福に溢れた み言葉を、信仰の耳をもって聞き続ける者としてください。主イエスにつまずくことがないように。主イエスにすべてを委ねたことを永遠の喜びとすることができますように。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。台風10号が奄美地方、九州に接近しております。それぞれの地に教会があります。どうか不安の中で礼拝をささげている方々をおまもりください。7月の大雨の被害で苦しんでいる方々がこれ以上、苦しむことのないよう、おまもりください。今日も礼拝を憶えつつ、様々な事情により休んでいる方々に私たちと同じ祝福をお与えください。特に、肉体の痛み、心の痛みに苦しんでいる方々があなたにつまずくことなく、平安に今週もすごすことができますようおまもりください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年8月30日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第8章16節~18節、新約 マタイによる福音書 第10章40節~第11章1節
説教題:「主の小さな者の喜び」
讃美歌:546、82、217、273B、542

 主イエスは、12人の弟子たちを福音伝道の旅へ送り出す み言葉を語られました。その最後に、このように言われました。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。(10:40)」
 弟子は師に従う者です。十二弟子だけでなく、主イエスに従って、この世を生きる者、信仰を与えられ この世を生きる者は皆、主イエスの弟子です。つまり、私たちも皆、主の弟子。今朝、主イエスは私たち一人一人におっしゃるのです。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。(10:40)」
「あなたがた」にそれぞれの名前を入れて味わいたい。「〇〇を受け入れる人は、わたし(主イエス)を受け入れ、わたし(主イエス)を受け入れる人は、わたし(主イエス)を遣わされた方(父なる神さま)を受け入れるのである。」驚くべき み言葉です。私たち一人一人が、主イエス、神さまを代表する者だと言われるのです。私たちは一人の例外もなく主イエスと等しく扱われるべき者として、生かされ、それぞれの場へ派遣されているのです。
主イエスは言われました。「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。(10:41)」
 今朝の み言葉を受け、12人の弟子は出発し、主イエスのように行く先々で主イエスの名によって病を癒し、メシア(救い主)の到来を告げた。主イエスの み言葉を預かり、主イエスの代理人として み言葉を運んで歩いたのです。
ここに繰り返し登場する「受け入れる」という言葉は、文字通り、旅をする弟子たちを喜んで迎え、宿を提供する、という言葉。互いを尊い者として喜んで受け入れ合う。それはそのまま我が家へ主イエスをお迎えすること、神さまをお迎えすることになるのです。
さらに主は、念を押して言われます。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(10:42)」ある訳では、「その報いを失うことはないであろう」となっています。神さまが保証してくださる報いは永遠なのです。
一杯の水を飲ませる行為。蛇口をひねれば水が出るのが当たり前の現代では些細なことに思われます。けれども、聖書の時代です。一杯の水は家族の命綱。つまり、見返りを期待できるような権力と財産の持ち主に飲ませる一杯の水と、金貨も銀貨も銅貨も持たず、袋も下着も履物も杖も持たず、見るからにみすぼらしい主の弟子たちに差し出す水では、その重みが違います。普通に考えれば報いは期待できない。ところが主イエスは、永遠の報いを保証する、と言われるのです。
 8月、今年も猛暑の日々ですが神学生時代、学部4年の夏の教会実習を四国西南地区の諸教会で経験させて頂きました。約40日でしたが、自分の覚悟のなさ、情けなさを突きつけられる日々でした。特に、愛媛県 山間部にある教会の礼拝堂に簡易ベッドを設置して頂き、真っ暗な礼拝堂でぽつんと一人で寝泊まりした経験は、忘れられません。一週間でしたが、色々なことを教えられました。
 その教会のベテラン牧師から、「あなたの発言には、元銀行員の匂いがぷんぷんする。あなたの言葉は上滑りしている。」と容赦ない言葉を頂き、実習の評価はボロボロでした。
 けれども、教会の皆さんは、未熟な私を、神さまが お立てくださった預言者、正しい者として受け入れ、手厚くもてなしてくださいました。実習のときに限ったことではありません。神学生の頃から現在に至るまで、何処にあっても、行く先々で、「冷たい水一杯」のような愛と励ましを頂いていることを感謝しております。そして私を受け入れてくださった方々に、神さまによって、永遠の報いがあるとは、何と嬉しいことかと思うのです。それは、伝道者だけのことではありません。ここに座っておられる皆さんが、主イエスと一つになっている。父なる神さまと一つになっている。主イエスを、神さまを代表する者として、立てられているのです。
 「キリストの弟子」とは、それほど尊い存在。神さま、主イエスと、等しく語られるほどに値打ちのある存在であると、主イエスが語っておられるのです。私たち一人一人のこととして。おそるべき奇跡です。
 それなのに、私たちは他者の評価を気にして生きてしまう。賞賛の声にも、批判の声にも敏感。他者の評価に一喜一憂し、振り回される。そのような思いから自由になれない。しかし、主イエスは言われるのです。「誰が何と言おうと、あなた自身がどう考えようと、わたしの弟子であるあなたは、わたしと、わたしを遣わされた神さまと等しい者として扱われるべき存在なのだ。あなたは、それほどに尊く、大切な、かけがえのない存在なのだ。」素直に心に刻みたい み言葉です。
 同時に、私たちは小さな者です。ときどき、「私は教会のお荷物。年を重ね皆さんに迷惑をかけてばかり」と嘆く方がおられます。高齢の方だけではありません。色々な状況の中でなかなか礼拝に通えない。そのことに引け目を感じている方もおられるでしょう。しかし主は、私たちがそのような考えで「小さな者」と自分を嘆き、卑下することを求めておられるのではありません。主が「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(10:42)」と言われた心は、主に従う「小さな者」なのです。私たちが従う主イエスは、大きな者であられたか?それとも「小さな者」であられたか?そうです。「小さな者」であられた。どこまでも小さく、低くなられ、十字架を背負い、十字架に架けられ、最期まで神さまに従順であられた。私たちは、どこまでも小さくなられた主に従って生きる者。だから「小さな者」なのです。
 どのようなときも忘れてはなりません。私たちは、主に従う「小さな者」であることを。主が、私たちのために成し遂げてくださったことは、どのようなことであったかということを。主イエスご自身が、どこまでも小さく、貧しく、弱く、低くなってくださった。そうであるなら、主に従う私たちも、貧しく、弱く、低くなって、主に従い続けたい。貧しく、弱く、低く、小さな者として主と共に歩み続けるのです。
 主が示してくださった愛を携え、隣人に仕え、恵みを語る。貧しく、弱く、低く、取るに足らない「小さな者」として主に従って歩むからこそ、私たちが届ける神さまの恵みを受け入れる人に、永遠の報いをもたらすことができるのです。愛する家族に。隣人に。たとえ、その日が彼ら、彼女らの最後の一日であったとしても。「あなたが信じる神の愛、主イエスの赦し、永遠の命を私も信じます」と、その人が受け入れるなら、永遠の報いを主と共に届けたことになるのです。私たちにとって、これほどの喜び、慰めがあるでしょうか。
私たちは、そのような喜びの日、慰めの日を約束され、それぞれの場へ派遣されていく。主の目に価高く、尊い者として頂いた私たちだからこそ、小さく、低く、仕える者として今週も喜んで歩めるのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは他者と比較し、落ち込みます。そうかと思うと、驕り、高ぶります。罪深い私たちをお赦しください。主よ、真実に小さな者としてください。真実の愛、赦し、憐れみを必要としている方に真実の愛、赦し、憐れみを喜んで届けることができますよう導いてください。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の
み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。
猛暑とコロナの8月が終わります。今までと違う8月となりました。それでも、第1礼拝、第2礼拝、動画配信を通し礼拝をささげることが許されましたから感謝いたします。しかし、猛暑のため、コロナの不安を抱えているため、体調を崩しているため、礼拝に通う気力が萎えているため、礼拝を休んでいる方がおられます。どうか、それらの方々が生きる希望を失うことのないよう、主にある希望を保ち続けることができますよう聖霊を注いでください。コロナ渦により世界中が大きな不安に襲われております。そのため、自国第一主義が当然のようになっております。「この取引は自国のためになるのか?」そのような考えに支配されております。主よ、どうか大きな者を目指すのではなく、真実に小さな者としてください。どうか、冷たい水一杯を必要としている人から目を逸らすことなく、私たちが頂いたたくさんの恵みに感謝し、喜んで冷たい水一杯を差し出す知恵と勇気をお与えください。特に、被災地で困難な生活を強いられている方々、深い孤独を抱えている方々、生きる希望を失っている方々を支え、導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。



2020年8月23日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第49章1節~6節、新約 マタイによる福音書 第10章34節~39節
説教題:「主イエスに従う道」
讃美歌:546、54、195、332、541  

主イエスは、弟子たちを派遣するにあたって言われました。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。(10:34~37)」
これは本当に主の み言葉なのか?耳を疑いたくなります。私たちは、平和の王として世に来てくださった主イエスを信じています。しかし主は、「剣をもたらすために来た」と宣言し、「敵対させるために来た」と続けられる。「剣」は平和を分断するものです。思わず、「イエスさま、それはあんまりです!」と言いたくなります。けれども、み言葉を繰り返し、繰り返し読んでいると、主イエスの み言葉の奥にある強い覚悟が伝わってきます。
ご家族と同居している方は、今朝、ご家族からどのような言葉をかけられたでしょうか?新型コロナウィルス感染症のリスクに加え、猛暑も続いている。「それなのに礼拝に行くのですか?」と言われたかもしれません。そのとき、小さな闘いが生じる。ご家族の意見を尊重するべきか?礼拝に行くべきか?
私が高校生の頃、まず私が洗礼を受け、続いて妹が洗礼を受けた。母、私、妹の3人がキリスト者となった。その結果、一家を支えている父だけが洗礼を受けていない。父もある時期、礼拝に通っておりました。しかし、次第に教会から離れてしまった。そして今も洗礼を受けておりません。そのため実家で声に出して食前の感謝の祈りをすることは、ほとんどありませんでした。
今朝の み言葉を読み、思い起こしたことがあります。以前 紹介したことがある韓国のドキュメンタリー映画『赦し』の中のエピソードです。連続殺人犯に妻と息子を惨殺された男性。深い悲しみと嘆きの中、主イエスに救われ、主に従って生きる!と受洗。犯人を恨み続けるのではなく、「あの人もキリストによって罪を赦された」と信じ、「私もあの人を赦す」と決めたことで、残された家族が離れてしまった。娘たちに加え、身内からも理解されず、気でも狂ったか?と非難され、ひとりぼっちになってしまった。
傍にいて、寄り添って欲しい娘たちが離れてしまった。主イエスに従い、主イエスのように、自分に架せられた十字架を背負って生きようとするとき、愛する家族が敵となることが現実に起こる。そのように言われた主イエスの言葉が、実際にこの男性に起こったのです。
主は言葉を続けて言われました。「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。(10:38)」たとえ家族の全てがあなたに敵対し、あなたから離れて行くとしても、それでも私の歩む道を、あなた自身の十字架を背負って、ついて来なさい!と、主イエスは言われる。
このとき、主イエスは すでにご自分が十字架を背負い、十字架によって処刑される覚悟を決めておられたのです。主イエスが「剣をもたらすために来たのだ」と言われたとき、主の眼差しの先にあったのは、「十字架」という剣だったのです。つまり、主が語られた剣は、人に向けるためのものではなかった。ご自分に向けられ、振り落とされるものだったのです。
実際、主イエスが十字架刑に処せられるとき、主は荊(いばら)の冠を被せられ、鞭打たれ、人々の嘲笑を受け、家族のように共に過ごした弟子たちに裏切られ、見捨てられ、刑場(けいじょう)ゴルゴタの丘に向かう道を、十字架を背負って歩かれました。
十字架を背負い、刑場に行かれ、殺された主が言われます。「自分を殺すための十字架を背負い、ついて来るのでなければ、あなたはわたしにふさわしくない。自分の命を守るために、わたしだけに十字架を背負わせ、自分は背負わない。憎しみを受けるのではなく、憎む側に回る。わたしと共に剣を受けるのでなく、敵対する者に剣を振りかざす。そのような生き方は、わたしにふさわしくない。」
十字架は死刑の道具。罪人(ざいにん)を殺すための道具。つまり、「十字架を背負う」とは、自分を縛りつけ、自分を殺す道具を担いで生きること。「これさえなければ楽に生きられるのに」という重荷を担いで行くのです。先ほどの映画に登場した男性も、主イエスに従わなければ、愛する娘たちと敵対せずに済んだはず。家族から憎まれるより、家族と共に殺人犯を憎み続けるほうが楽だったかもしれない。けれども、主イエスの十字架の愛、罪の赦しを知ってしまった。知ってしまったからには、主に従わずにはいられない。葛藤を抱えながらも。
主イエスは神さまであり、全く罪のない お方です。それなのに、罪人の中の罪人として十字架で処刑されました。父なる神さまは、罪人を殺す剣(十字架)を愛する独り子に向けられたのです。
なぜか?主に全くふさわしくない私たちを救うためです。実際、このとき主イエスから派遣された弟子たちの内、誰一人、主イエスと共に殺された者はおりません。主イエスを裏切り、隠れてしまったから。誰一人、己の十字架を担った弟子はいなかったのです。
だからこそ神さまは、み子を甦らせてくださいました。み子は死なれたままではありませんでした。み子の甦りによって、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。(10:39)」との み言葉が成就した。厳しい み言葉が、私たちを励ます み言葉となった。私たちもそれぞれに与えられた十字架を背負い、主イエスに従う者として頂いたのです。
主イエスは甦られました。神さまを愛し、主イエスにふさわしく生きることより、家族への愛を優先してしまう私たちのために。主イエスは甦られました。敵対する者の身勝手な言葉に怒り、平和ではなく、剣を振りかざしてしまう私たちのために。主イエスは、キリストにふさわしくない私たちの罪を背負い、罪人として処刑されました。けれども、死で終わりではない。父なる神さまによって甦らされたのです。私たちは、み子の十字架と甦りのゆえに、主イエスにふさわしい者として新しくされた。主イエスの甦りの命に生きる者とされたのです。逃げ出してしまった弟子たちは、主イエスの復活の後、まるで人が変わったかのように伝道に邁進し、多くが殉教したと伝えられています。
私たちも絶望に倒れたままではなく、主イエスと共に立ち上がらせて頂いた。主の十字架と甦りによって生かされている私たちの命は、主イエスの命なのです。だから主は、「あなたも、敵対する者を赦し、愛することができる。あなたも、十字架を背負える。もしあなたが、あなたを憎んでいる隣人を憎み続けるなら、あなたはわたしを憎むことになる。わたしはその人のためにも死に、甦ったのだから。」主は、憐みの眼差しを注ぎつつ、私たちに語ってくださるのです。
私たちは、このようにどこまでも深い主イエスの愛を、すでに知っております。ご自分の独り子をも惜しまず、私たちに与えてくださった父なる神さまの愛を知っております。このような驚くべき恵みを、証して生きようとすることが、私たちの最も大切な家族に理解してもらえないほど、苦しいことはありません。けれども、そこでもなお、主の愛を証し続ける者であることを、主と共に十字架を担い続ける者であることを、誰よりも何よりも主を愛する者であり続けることを、ひたすら主に祈り求め、この世の生を全うしたい。私たちの証する主の愛が、今は理解してくれない大切な者たちにも向けられていることを感謝しつつ歩みたい。その歩みは、いつの日か、愛する家族が「主イエスこそ、私の救い主!」と信仰を告白する日に繋がっていることを信じて。
<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちのような者でさえも、あなたの み子の十字架を担い、自分の十字架を担うことができるようにしてくださっていることを感謝いたします。どうか、私たちが、滅びではなく、命に向かって、歩み続けているとの確信を持ち続けることができますようお導きください。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。私たちの世では、自分が神さまになったかのように剣を振りかざし、神さまの眼差しを無視しているかのような日々が続いております。その結果、弱い立場の方々が希望を失い、厳しい生活を強いられております。主よ、希望を失っている方々に主にある平安を与え、私たちになすべきつとめを果たす知恵と勇気をお与えください。今、病、痛み、試練に苦しんでいる方々を憐れんでください。苦しみの中にあっても、神さまが与えたもう十字架を、誠実に担い続けることができますように。そして、いつの日か愛する家族、友人が神さまを信じ、イエスさまを私の救い主と信じます!と信仰を告白する日が与えられますよう聖霊を注ぎ続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

2020年8月16日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第31章6節、新約 マタイによる福音書 第10章26節~33節
説教題:「恐れずに、真理を語れ」
讃美歌:546、16、290、520、540  

私は小学校1年生から教会に通い始めました。小学生の頃は、分級の先生や友人との触れ合いが楽しく通っていましたが、漠然とではあっても、「神さまに愛されている」という幼い信仰は私の中に芽生え、育まれておりました。
6年生になると横浜の小学生は、日光に修学旅行にまいります。華厳の滝、竜頭の滝を楽しんでいるときはみんなでワイワイでしたが、東照宮では友達も先生も手を合わせておりました。しかし、私は手を合わせませんでした。同じことは中学校でも経験しました。修学旅行、奈良の薬師寺でお坊さんから講話を伺うとき、「俺は聞かない!」と反発したことを覚えています。それでも、先生や友だちの手前、目立たぬようにしていた記憶があります。
また銀行員の頃、浅草支店では恒例行事として三社祭への参加を求められました。土曜日の早朝、全員が出勤。雷門中部町会の法被を着て、神輿を担ぐのです。すでに結婚しておりましたので、妻と長男も応援に駆り出され、神輿を担ぎ、「ソイヤーソイヤー」と声を出しながら練り歩いた。そして翌日の日曜日はいつものように教会に通い、教会学校教師として み言葉を語り、礼拝に連なりました。明らかに矛盾していることを、土曜と日曜に行っていたのです。
今でも、銀行員という立場を優先したことを、自分の弱さとして思い起こします。子どもであれ、大人であれ、人の目を全く気にせず、「十字架と甦りの主イエスこそ私の救い主」と信仰を告白し続けることは、決して簡単なことではありません。
しかし、主イエスは私たちが挫けてしまわないよう、繰り返し、繰り返し、私たちを励まし、支えてくださる。他の誰でもない、十字架と甦りの主イエスが「人々を恐れてはならない。」と励ましてくださる。それは、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないから」です。
私たちは、隠されている真実を知っています。私たちの中で語ってくださる霊の声を聞いています。霊の声は、主の十字架と甦りによって成就した救いが、明らかにされることを望んでおられます。主イエスによる救いの喜びが、世界の隅々にまで言い広められることを求めておられます。そのために主は、弱い私たちを選び、それぞれの賜物を存分に用いてくださるのです。
主イエスは日々、「恐れることはない。安心しなさい。わたしはあなたがたを遣わす。」と語り続けてくださる。繰り返し、繰り返し「恐れるな」と私たちを慰め、励まし続けてくださるのです。
主イエスは続けられます。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。(10:28~31)」
たとえ今、雀が地に落ちるように倒れたとしても、それは、父のお許しがあってのこと。それは、神さまが定められた時なのです。苦しみの日、悲しみの日、地に落ち、地上の命が終わる日、その全てが神さまの眼差しの中で起こる。生きているときも、死ぬときも、私たちは神さまの愛の み腕の中に在るのです。主イエスは、何度も慰め、励ましてくださいます。「だから、恐れるな。」それは、私たちが常に人を恐れ、死を恐れる者だからではないかと思います。
主イエスは「地獄」という言葉を用いることで、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる お方を指し示しておられます。神さまは隣人を主の恵みの外へ誘う者、あるいは、自ら主の愛の み腕から飛び降り、堕落していく者を永遠の火に投げ込む力を持っておられる。しかし、私たちは知っているのです。神さまは、私たちが地獄で滅ぼされることを望んでおられないことを。
魂も体も地獄で滅ぼすことのできる神さまは、人々が滅びることを、これっぽっちも望んでおられない。私たちが父なる神さまの愛を素直に信じ、神さまの愛の み腕の中に住まうとき、体の死は死ではなくなる。「神を恐れる」ことは、地獄で滅ぼされる日を震えながら待つことではありません。父なる神さまの愛を信じ、希望を抱いて全てを委ねきることなのです。
先週の主日は長崎へ原爆が投下された日。そのため、様々な番組が放映されましたが、録画しておいたEテレ「こころの時代」を視聴しました。8月9日に放映されたのは、「弱さを希望に」というタイトルで、カトリックの修道士小崎登明(おざきとうめい)さんの歩みでした。長崎に原爆が投下された日、苦しむ人々を助けることができず、見捨てた自分。その小崎さんを変えたのが、長崎で修道院を創設したコルベ神父の存在でした。コルベ神父は、長崎を離れ、母国ポーランドに戻った後、アウシュビッツ強制収容所に送られ、他の収容者の身代わりとなって亡くなったことで知られております。小崎さんは、コルベ神父の身代わりによって生かされた方を、現地に訪問、そのときに受けた思いを長崎の中学生に語り部として語り続けておられます。
1941年7月、強制収容所から脱走者が出たことで、連帯責任として無作為に選ばれた10人が餓死刑に処せられることになりました。番号で呼ばれた囚人たちの中から、一人のポーランド人軍曹が泣き叫んだ。「私には妻子がいる!」この叫びを聞いたコルベ神父は、「私が彼の身代わりになります。私は、カトリックの司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。そして、コルベ神父は地下牢の餓死室に押し込められ、殺されたのです。コルベ神父は、殺されました。けれども、今朝の主イエスの み言葉を生き抜いた。永遠に生きる者として、地上の命を終えたのです。
小崎さんは語っておられました。「原爆の日、私は苦しむ人々を見捨てた。一方、コルベ神父は苦しむ男の身代わりになった。原爆の日に戻り、見捨てた人々に出会ったら、私はどうするだろう?原爆が投下される前、繰り返し私にビンタした先輩を心から赦し、手を伸ばし助けることができるか?それはわからない。今も、私の中に人間の弱さが残っているから。でも、コルベ神父を知ったからには、見捨てることはできない『大丈夫か』と声をかけたい。」
小崎修道士の証言を聞き、「自分の弱さから目を逸らすことなく弱さを認めることによって、与えられる希望がある」と教えられました。私たちもまた、主の十字架を知った者として、主イエスを知らないふりなどできません。
主イエスは続けます。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないという者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。(10:32~33)」
主は、憐れみの眼差しを注ぎつつ、私たちに命じられます。「あなたは生きているときも、死んだのちも神さまの愛の中に在る。だから、何も恐れず人々の前で『私は、主イエスの仲間です』と告白しなさい。私も、『あなたの仲間だ』と父なる神に証言する。だから、恐れるな。私から片時も離れるな。どんなときも、私にくっついて歩け。あなたは私の仲間だ。」
主イエスが語ってくださる。「あなたは私の仲間である」と。主は、すぐに神さまの愛を忘れ、怖気(おじけ)づく私たちだからこそ、十字架に架かり、甦られたのです。その主イエスを私たちに与え、甦らせてくださったのは、他の誰でもない、父なる神さまです。すべてが神さまから私たちへの愛であり、救い。だから、私たちは人々を恐れる必要がないのです。
甦りの主イエスは、今朝も語っておられます。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。(10:31)」主イエスの慰めに満ちた み言葉をどんなときも、私たちの耳に響かせ、今週もここから、主と共に一歩を踏み出しましょう。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、人々の前で はっきりと主イエスのみを自分の主として仰ぎ、言い広める勇気をお与えください。主イエスこそ、私たちの希望であり、あらゆる恐れに打ち勝つ道であることを悟らせてください。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。梅雨が明けてからの連日の猛暑の中、こうして礼拝に招かれ、共に礼拝をささげられる恵みを感謝いたします。けれども、猛暑のため、仕事のため、体調を崩しているため、あるいは新型コロナウイルス感染症を恐れ、それぞれの場所で礼拝をささげている兄弟姉妹がおられます。どこにいても人々を恐れることなく、主に信頼し、主と共に平安に歩むことができますようお導きください。地震、津波、豪雨、原発事故等で被災された方々に生きる勇気と希望をお与えください。私たちも被災された方々を忘れることなく、祈り続けることができますように。今、短い夏休みを過ごしている子どもたちをおまもりください。さらに2学期に向けて様々な準備をしている先生方の心身の健康をおまもりください。世界中でウィルスとの闘いは続いています。医療に従事しておられる方々を み手をもってお支えください。諸国の為政者たちに知恵と勇気を授け、恐れによって築かれている頑丈な垣根を取り払ってください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年8月9日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第1章4節〜10節、新約 マタイによる福音書 第10章16節~25節
説教題:「わたしはあなたがたを遣わす」
讃美歌:546、6、183、338、539、Ⅱ-167  

先週から、主イエスが弟子たちを町や村へ派遣するときに与えてくださった み言葉を ご一緒に読んでおります。それは、主イエスが弟子たちを励ます「はなむけの言葉」であり、弟子たちを思いやる「愛の言葉」であり、主の弟子とは、どのような者であり、これから先どのような試練が待っているのかを「予告する言葉」であり、さらに迫害への「忍耐を求める言葉」でもあるのです。
私たちの教会では、「礼拝のしおり」を用いて礼拝をささげております。開くことが可能な方は、「礼拝のしおり」12ページを開いてくださるとわかりますが、大きく<派遣の部>とあり、その下に「頌栄」、「祝祷」、「アーメン三唱」、「後奏」と書かれております。「祝祷」の下に米印で、このように書かれております。「祝祷は、会衆が新たな七日の旅路に出(いで)行くことを祝し、それぞれの遣わされる場で主の弟子として良き愛の証しがなされるように、三位一体の神の御名によって世へと送り出します。」
私も、週ごとに、このような「派遣」の意識を抱いて「アーメン」と祈っております。「祝祷」を中心とした<派遣の部>は、ご一緒に読んでおります主イエスの み言葉の響きが ギュッと詰まったものなのです。
12人の弟子たちが主によって派遣されたように、私たちも派遣される。主イエスの み言葉、主イエスの平和を運ぶつとめに遣わされるのです。それが、どのようなことなのか?主イエスがなぜ、このようなことを語られたのか、どのような思いで弟子たちを派遣されたのか、主イエスの思いにしっかりと耳を傾けたいと思います。
主イエスは言われます。16節、「狼の群れに羊を送りこむようなものだ。」まともに考えれば、誰が考えても、ひとたまりもない無謀な派遣です。飢えた狼の大きな口に、ガブリと飲み込まれて終わり。けれども、主イエスから弟子たちに与えられた み言葉の権威、また力は、狼の群れにとって命取りになる。何と、羊である弟子たちが狼の群れに破滅をもたらす、それも、あの悪名高きソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む!と主は宣言されました。  
創世記 第19章にはこう書かれています。「主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。(19:24~25)」主イエスは裁きの日、弟子たちを拒む者たちには、ソドムやゴモラ以上の罰を受けると宣言されたのです。
「だから、」と主は言われます。「蛇のように賢くあれ。人々を警戒しなさい。無条件に『馬鹿』がつくような正直を貫くことはない。時に蛇のようにスルリと逃げ出すことがあっても問題ない。みすみす狼に飲み込まれてジ・エンドになるな!」そうです。主は、「何が何でも、自ら飛び込んででも殉教しなさい!」とはおっしゃらない。
また、こうも言われます。「鳩のように、偽りなく素直であれ。」さらに、私たちを強め、励ましてくださる驚くべき恵みを語られるのです。19節、「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である(10:19~20)。」
読めば読むほど心に響く驚くべき恵みの み言葉です。絶体絶命のピンチでも何も慌てることはない。恐れることもない。逃げ損ない、捕まったとしても、何も困ることはない!言うべき言葉は必ず与えられる!そのようなときこそ、聖霊なる神さまが語る言葉を授けてくださる。その内なる、霊なる み声に、素直に身を委ねれば「万事大丈夫!話すのはあなたではなく、聖霊なのだ」と主イエスは宣言してくださった。
そうです。インマヌエルの主イエスが、どんなときも私たちと共におられ、共に働いてくださる。たとえ、狼の群れの中であっても、主に養われる羊の群れは、飼い主なる主イエスと共に在るのです。私たちは、何も心配する必要がない者たちなのです。
ところで、新共同訳聖書には小見出しがあります。もちろん小見出しがあることで、「ああ、ここにはこのようなことが書かれている」とすぐに理解できるメリットがあります。しかし、その反対もある。ああ、ここはこのようなことが書かれているなら、今の私にはあまり関係ないと思ってしまうリスクもあります。その意味で、今朝の16節から25節は、「迫害を予告する」と小見出しにあることで、もしかすると、「今の時代、主イエスの時代のような『迫害』は存在しないから、あまり関係ない」と読み飛ばしてしまうかもしれません。
私たちを取り巻く世界、差し当たって「迫害」と言われるほどの激しい痛み、苦しみはないように思っている。教会に通っているからと言って警察に捕まるような世の中ではない!と思っている。しかし、本当にそうでしょうか?
主イエスは、私たちにこそ、問うておられるはずです。「あなたがたの日々において、本当に迫害はないか?」SNSでの誹謗中傷を苦にした人々が、命を断つ。感染症にかかった人や、医療従事者への差別がある。難民が溢れ、人身売買が行われている。
今日は8月9日、長崎に原爆が投下された日。一瞬の閃光(せんこう)の後、地獄のような光景が広がった。それから75年もたつのに、世界は今も、核兵器の脅威にさらされている。そのような今の世に、「迫害はない」と思うのなら、それは神さまの求めておられる義(ただ)しさから目を逸らし、口を閉ざし、主に派遣された羊としての役目を放棄しているからではないでしょうか。
私たちがもしも、今朝の み言葉の美味しいところだけをつまみ食いするのであれば、主イエスは深く悲しまれるに違いありません。主は言われました。「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」
主は問うておられます。「あなたがたは、捕まらないように逃げる ただの蛇になっていませんか?偽りなく鳩のように素直ですか?あなたの中で語ってくださる、父の霊を無視してはいませんか?」霊の み声に真剣に耳を傾け、霊に従おうとするとき、21節の、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。」は、21世紀の現代の世を言い当てている み言葉として私たちに迫ってきます。
主イエスに従う道には迫害があるのです。けれども、迫害のただ中に立つことによって与えられる霊の み声は、「死を恐れず闘い抜け!」ではありません。「最後まで耐え忍び、救われて欲しい!」と語られるのです。
使徒言行録に登場する伝道者の姿を思い起こしたい。迫害され、逃げる先々で主の十字架と復活、そして再臨の約束を語り続けた。その結果、福音の喜び、主の平和が広がっていったのです。それでも、まだ、主の平和が世界の隅々に行き渡っているとは言えません。まだまだ平和を携えて行くべき隣人は、たくさんいるし、そこで苦しい目にあったときに逃げ出す新天地もまた山程残っている。なくなることはないのです。23節にあるように、なくなって追い詰められるその前に、人の子 主イエスは再びおいでになる。だから、安心してとことん父の霊が語ってくださる「主の平和」を語り、「主の平和」を届けたい。
私たちを派遣されたのは、主イエス。私たちの先頭を歩いてくださるのも、主イエス。その主イエスが「ベルゼブル(悪霊)」と悪口をたたかれるのなら、その弟子たちが「悪霊の奴隷」と言われるのは当然です。けれども、「ベルゼブル」とは、元を正せば、「家の主人」を意味する言葉です。私たちは、洗礼によって正式に神の家族とされます。私たちの家は教会であり、「家の主人」は主イエスなのです。
狼たちから「悪霊の奴隷」と罵られても、私たちの「家の主人」主イエスは、「私に従いなさい」と、主イエスのように生きることを望んでおられます。しかし同時に、主人であられる主イエスのように罪人として十字架で滅びることなど求めておられない。
主は、私たちが滅びることなく、永遠に生きるために、罪人として死なれ、三日目の朝、復活してくださった。そして今日も、私たちに尋ねておられる。「この救いの恵みを信じますか?」そのような主イエスの問いに対し、鳩のように素直に、「はい、信じます!」と信仰を告白することによって、私たちの罪は赦され、滅ぶことのない永遠の命を約束されるのです。この驚くべき恵みを、主の平和の福音を、主の愛を、証しするために、今日も、私たちはここから派遣されていくのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、どのようなときも、あなたの羊として生き続けることができますように。蛇のように賢く、鳩のように素直な心で、日々、信仰を告白し、主の平和を証しするものとして用い続けてください。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。今日8月9日、長崎に原爆が投下され75年となりました。今も核の脅威はなくなりません。いまだに世界のあちこちで争いがあります。どうか諦めることなく、主の平和を祈り続ける者としてください。私たちの近くにも、誰からも愛されていないと悩み、殻に閉じこもっている方々がおります。良き隣人となることができますよう、主よ、どうか お導きください。今朝も様々な理由で礼拝を休んでいる方々がおります。病のため、痛みのため、仕事のため、どうか、それらの方々を憐れみ、私たちと等しい祝福をお与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年8月2日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第52章7節〜12節、新約 マタイによる福音書 第10章1節~15節
説教題:「平和を配る つとめ」
讃美歌:546、11、222、Ⅱ-1、502、545B  

主イエスは、父なる神さまに祈られました。弟子たちも祈りました。「働き手を送ってください。」そして、父なる神さまから12人の働き人が示され、主イエスにより、12人が任命されました。12人は、天の国の収穫のために、神さまからの使いとして、町や村に送り出されたのです。12人を送り出すにあたって、主イエスは汚(けが)れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす権能をお授けになられました。この権能、特別な能力は、神さまのものです。つまり、大胆な言い方をするなら、主イエスは12人に、「これから先、あなたがた12人は私と一つになる。あなたがたの語る言葉は私の言葉であり、あなたがたが行うわざは私のわざとなる」と送り出された、と言って過言ではないのです。
宗教改革者ルターは、「キリスト者、およそ主イエスを信じて、主に従って行く者は、『小さなキリスト』になる!」と言いました。つまり、任命された12人にとどまらず、主に従う私たちにとって、今朝の み言葉はとても大切です。私たちはキリストとして、それぞれの町や村に遣わされているのです。
しかし、勘違いしてはなりません。言うまでもなく、キリストのように感謝され、尊敬され、崇められるためではありません。小さなキリストとして、死に至るまで、父なる神さまに仕え、隣人に仕える者として遣わされたのです。それは、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と書いてある通りです。そうです。私たちは、ただでいただいたのです。「ただ」つまり、代金を払っていない。代わりに何かを差し出したわけでもない。賜物として、神さまからいただいたのです。何をいただいたのか?平和です。主と共に生きる平和、平安を ただでいただいたのです。
死も、災いも、苦しみも、悲しみも、主が共にいてくださるなら、怖れるに足らない。それが主の平和です。ただでいただいたのです。私たちが何かよい奉仕をしたからいただいたのではありません。主の平和をいただくにふさわしい、優れた事業、立派な事業を成し遂げたからいただいたのでもない。むしろ、十字架と復活以前の十二人がそうであったように、自分の利益を第一に考え、おっちょこちょいで、仲間の中で重んじられることを求め、臆病に震え、逃げ出し、疑い、迷い、裏切り者であるにもかかわらず、「ただ」で主の平和をいただいたのです。
だから、主は命じられる。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。ただで配って歩きなさい。私と共にある平和を配って歩きなさい。大金どころか、小銭も持つな、かばんも、着替えも、履物も、杖も持って行くな」と言われるのです。
私事になりますが、妻と三人の子どもがいる状態で神学校を受験するとき、将来の生活に不安をおぼえなかった、と言うと嘘になります。それでも、生活に困ったことは一度もありませんでした。いつも、驚くほど神さまが多くの方々を通して助けてくださり、何の心配もなく今に至っていることを心からの感謝をもって報告することができます。
つまり、主イエスによる12人への命令は、「やせ我慢しなさい!」ではない。「働く者が食べ物を受けるのは当然だから、何も心配する必要はない」。神さまから ただでいただく平和に生きる者は、武器を持たずに歩いても心配無用なのです。恵みの中を、主と共に歩くから裸足で大丈夫。そして、「平和があるように」と、主の平和、平安を配って歩くのです。12節の「平和があるように」とは、「シャローム」というユダヤ人の挨拶のことばです。日本人はあまりしませんが、互いに抱き合い、「シャローム(平和があるように)」と挨拶することは、ユダヤ人にとって珍しいことではありません。けれども、主イエスはこの「平和があるように」を特別な挨拶として12人に伝えるのです。13節、「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる」。
平和を受けるにふさわしい人とは、どのような人でしょうか?すでに語ったように、私たちはふさわしくないのに平和を受けた。それなのに、今度はふさわしい人を探せ!と主は言われる。主イエスが矛盾したことを語られるはずがありません。つまり、主の言われる「ふさわしい人」は、私たちが考える「ふさわしい人」ではないのです。主の言われるふさわしい人、それは「山上の説教」で語られた貧しい人。飢え渇いている人。悲しむ人です。病に苦しみ、患い、神さまからの祝福を飢え渇くほどに求めている。必死に、主の平和を求める。自分で誇るものを持っていない。まさにゼロ。だから、「平和があるように」と挨拶を受けるにふさわしい人なのです。
私たちは、ルターが表現したように「小さなキリスト」です。主の平和、平安をいただくにふさわしい者として、主が眼差しを向けてくださり、ただで、主の平和、平安をいただいた。そうであるなら、私たちも「小さなキリスト」として、じっとしていられません。「私には特別な力もありませんし、『小さなキリスト』にふさわしくない者です」という言い訳は成り立たない。すぐ主に言われるでしょう。「私が、あなたをふさわしい者として見つけ、平和を与えたのだ。『平和があるように』と挨拶して欲しい!」
そうです。私たちは皆、主の十字架と復活により、お金で買うことのできない罪の赦しと永遠の命、さらに「小さなキリスト」という称号まで、ただでいただいた。だからこそ、堂々と、犯してしまった罪にいつまでも縛られることなく、罪を赦され、永遠の命を約束された者として、病の苦しみ、死の悲しみに うずくまっている人々を訪ね、「天の国は近づいた。いや、すでに始まっている。だから大丈夫!あなたも主の平和に招かれた!」と平和に飢え渇いている方々を抱きしめ、主の平和を伝え、与え続けるのです。
主は続けられます。「あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」
キリスト者には、それほどの権威が与えられています。よくよく考えると、大変なことです。畏れ多いことです。しかし、だからこそ、何とかして、与えられた持ち場で、示されている隣人に、「主の平和」の喜びを伝えたい!
私たちは、そのように、主なる神さまから「小さなキリスト」としての権威、権能を授けられ、派遣されているキリスト者の群れなのです。
コロナ渦の時代にあって、「平和があるように」と挨拶をしながら、隣人を抱きしめることは難しい。気になっている方々を訪ね歩くことも難しいです。しかし、今朝も礼拝の動画配信を通し、主の平和が届くと信じたい。主にある希望を抱き「天の国」に向かって歩み続ける私たちの姿を届けたい。たとえ、愛する人を訪問することができなくとも、日々の祈りにより、主の平和に飢え渇いている方々に、いつの日か主の平和が届き、真に平安な人生を歩むことができるよう、収穫の主に願い続けたい。主は私たちを用いて、平和を届けさせてくださるのです。その確信を持って、私たちも「小さなキリスト」として喜んで主の平和、平安を届けたい。心から願います。

<祈祷>
私たちの平和となっていてくださる 主イエス・キリストの父なる神さま、主が私たちと共におられ、どんなときも平和、平安をもたらしていてくださることを感謝いたします。どの町、どの村にも平和、平安を失い、苦しんでいる方々がおります。主よ、私たちを平和、平安を造り出す者として用いてください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。8月となりました。平和を祈る月です。しかし、世界は今、新型コロナウイルスの感染拡大により不安に包まれています。人と人、国と国の対立が激しくなっております。どうか、不安の中だからこそ、主にある平和を互いに祈り合うことができますよう導いてください。私たちを用いてください。どうか、悲しみの中にある方々、嘆きの中にある方々を、主にある平和で包んでください。今月も分散礼拝を続けることになりました。さらに動画配信も続けます。今日も礼拝に出席できない方々がそれぞれの場で礼拝をささげております。主よ、私たちもただで主の平和を頂きました。どうか、与えられた賜物を喜んで主のご栄光のために用いることができますように。そして、一人でも多くの方々が主にある平和を知り、いつの日か信仰を告白し、洗礼へ導かれますようお祈りいたします。今朝も体調を崩しているため、仕事のため、心が塞いでいるため、礼拝を休んでいる兄弟姉妹がおります。どうか、その場にあって主の平和をお与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年7月26日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エゼキエル書 第34章11節〜16節、新約 マタイによる福音書 第9章35節~38節
説教題:「主イエスの思い」
讃美歌:546、26、213、324、545A  

主イエスは、全ての町や村を巡り歩かれました。それぞれの町や村の会堂で、み言葉の説き明かしをしてくださいました。さらに、神の国が、すぐそこまで来ている。いや、すでに始まっている!と、新しい生き方を教えられたのです。そして、どの町、どの村でも一人一人の求めに向き合ってくださり、ありとあらゆる病を癒してくださったのです。
けれども、行かれた先々で主イエスの心を痛めたのは、人々の弱り果て、打ちひしがれている姿でした。36節に、「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」と書かれています。
言葉を尽くして教え、ありとあらゆる病や患いを癒しても、きりがない。福音書記者マタイは、群衆の姿を「飼い主のいない羊(羊は、旧約聖書以来、神の民をあらわします)」と表現するのです。主イエスが村から村、町から町へ移動なさるたびに、後ろ髪を引かれる思いであったようすが目に浮かびます。
聖書の時代、群衆は弱り果て、打ちひしがれておりました。そして今朝、み言葉を読んでいる私たちの時代も、聖書の時代と少しも変わることのない世の有様であると認めざるを得ません。新型コロナウイルスの感染拡大は、終息の兆しが見えず、職を失う方が増えています。地震、津波、原発事故、豪雨災害により家族や住まいを失い、途方に暮れている方々がおられる。NHKの海外ドキュメントでは120万人ものシリア難民の現状を報じておりました。新型コロナウイルスの感染拡大で、レバノン政府が非常事態を宣言。弱い立場のシリア難民は、それでなくとも貧しいところに経済がストップしたのですから、深刻な影響を受けている。お金がない。食べるものがない。生きるために、最後の手段である臓器売買をしなければならないほど追い込まれている。インタビューに答えた女性の瞳は、角膜を失ったため、白く濁っておりました。
つまり、今朝の み言葉は聖書の時代限定の出来事ではないのです。確かに、主イエスが日本を含む世界の町や村を一つ残らず回られたわけではありません。けれども、主イエスは日々、私たちに聖霊を注いでおられる。今日も、世界の町や村の人々が弱り果て、打ちひしがれているのをご覧になり、どれほど深く心を痛めておられることかと思うのです。弟子たちに命じられたように、東村山教会に連なる私たちにも、悔い改めを求め、真剣な祈りを求めておられるのではないでしょうか。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」主の み言葉が激しく迫ってまいります。
主イエスは、弱り果て、打ちひしがれている群衆を「深く憐れまれ」ました。ある神学者の翻訳は「はらわたをつき動かされた」と訳しておりました。元の言葉は、「スプランクニゾマイ」。「スプランクノン(内臓)」という言葉に由来します。「心は内臓にある」と考えられていたことから生まれた言葉ですが、まさに、腸(はらわた)が えぐられるような痛みをもって、一人一人の苦しみをご自分の苦しみとしてくださった主イエス。主は、はらわたを激しくつき動かされ、手を差し伸べ、打ちひしがれている一人一人を立たせてくださったのです。
人々は、主イエスにいつまでも私の町、私の村にいて欲しい!と願ったに違いありません。主イエスを失いたくなかった。主イエスが来られるまで、困り果て、弱り果てている群衆を十把一絡(じっぱひとからげ)に「哀れな人々」と、上から目線で指導する者は何人もいたでしょう。たとえば、ファリサイ派と呼ばれる指導者たちの多くがそうであった。しかし、主イエスのように腸がえぐられるような痛みをもって、一人一人の苦しみに寄り添い、深く憐れまれ、救いへと導いてくださる お方は誰一人いなかったのです。
主イエスは、激しく心を痛めつつ弟子たちに言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
このあと弟子たちは、主イエスに任命され、働き手として各地へ派遣されて行きます。主イエスのように腸(はらわた)の底から人々の苦しみに寄り添い、真の飼い主に導く者として、派遣されて行く。そして私たちも、この町に派遣された者たちです。私たちは日々、み言葉に立ち帰り、収穫の主に願い続けることを求められているのです。
ところで、聖書において「収穫」は、神さまの審きを意味します。麦を刈り取り、良い麦は倉に納め、悪い麦は火に投げ入れるように、神さまが私たちをお審きになられる。けれども、審き主として神さまが私たちの元へ お遣わしくださったのは、主イエスでありました。困り果てている私たちを深く憐れんでくださる主イエス。十字架に架けられ、殺されるそのときにも「父よ、彼らをお赦しください」と祈られた主イエスです。私たちの内 誰一人、悪い麦として火に投げ入れられることを、これっぽっちも望んでおられない。だからこそ、共に働く働き手を求めておられるのです。
み子 主イエスが世にいらしてくださったことにより、神さまによる収穫、刈り入れが始まった。主イエスによる救いの業が始まったのです。私たちは、この救いの業を「福音」と呼びます。火に投げ入れられ、滅びることが「福音」であるはずがありません。主イエスは、弱り果て、打ちひしがれている人々はもちろんのこと、頑なに主イエスを拒むファリサイ派の人々すらも、悪い麦として滅びることを願っておられない。だからこそ、今朝も私たちに祈りを求めておられるのです。
「愛する兄弟姉妹、あなたがたの隣人が滅びに向かって突き進むのを黙って見ているのは、腸がえぐられるように辛い。この痛みを私と一緒に分かち合い、あなたがたにも担って欲しい。毎日 祈って欲しい。『主よ、一人も滅びることのないように、働き手を送ってください』。」
主イエスが再び私たちの世にいらしてくださる再臨の日、この日に収穫は完了します。主イエスに救っていただいた私たちは皆、この日を喜んで待ち望む良い麦です。また私たちは、主イエスに導かれる羊の群れなのです。
主イエスは、いつも私たちと共におられます。主は、今日も私たちと一緒に働いておられる。だから私たちは良い麦であり、主の羊であると同時に、主の手、主の足、主の目、主の口として、福音の喜びを、収穫の日の希望を隣人に運んで行くために派遣されている働き手でもあるのです。
一人一人に心を寄せ、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くために、私たちは派遣されています。私たちの主が、求めておられます。「あなたも働いてほしい。私のように。あなたも祈ってほしい。わたしのように。」

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、主の憐れみに与ることによってしか、真実に生きることのできない私たちです。主よ、私たちを憐れんでください。主の深い憐れみを携えて、病んでいる方々、苦しんでいる方々の傍らに座り、それらの方々の痛みを分かち合い、泣く人と共に涙を流しながら、主の慰めを分かち合う者としてください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。新型コロナウイルスの感染拡大により、世界が混乱しております。どうか世界の町や村で弱り果て、打ちひしがれている方々を憐れんでください。全国の被災地で今朝も み言葉を語り、福音宣教の業に仕えている諸教会を強め、励ましてください。また、困難な状況の中で献身者を育てている神学校の働きを強め、励ましてください。私たちも日々、収穫のために働き手を送ってくださるよう、祈り続けることができますように。湿度の高い日が続いております。体調を崩している方々、心が塞いでいる方々を憐れんでください。今日の午後、前倒しで8月の定期長老会を行います。新型コロナウイルスが終息しない中、難しい協議を迫られております。主よ、長老会を導いてください。主の み心に叶った協議をすることができますように。本日も様々な理由で礼拝を休み、それぞれの場で祈りをささげている方々を強め、励ましてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年7月19日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第35章3節〜6節、新約 マタイによる福音書 第9章27節~34節
説教題:「あなたがたの信じているとおりになるように。」
讃美歌:546、4、162、258、544  

主イエスは、驚き、騒ぎ、うわさを広める人々の元を離れ、進まれました。すると、二人の盲人が、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びながらついて来たのです。けれども主イエスは、これまでのようにすぐに立ち止まり、振り返ることはなさいませんでした。何も答えずに家に入られたのです。
それでも主は、二人の盲人が家に入るのを拒むことはなさいませんでした。主イエスが家に入られると、盲人たちも家に入り、主の おそば近くに寄って来たのです。そのとき初めて、主イエスは彼らと向き合い、口を開かれました。「わたしにできると信じるのか」。彼らは「はい、主よ」と答えました。この「はい、主よ」に、神さまが求めておられる私たちの信仰のありようが描かれています。主の問いかけに、ただ、「はい、主よ」と答えるのです。
神さまは、私たちに難しいことを求めてはおられません。求めているのは、主の「あなたが求めていることを、わたしにできると信じるのか」の問いに、「はい」と素直にうなずく心。その心を主イエスは「信仰」と呼んでくださり、喜んで受け入れてくださるのです。
主イエスは、盲人たちのまっすぐな信仰を喜び、二人の目に触(さわ)り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われました。すると、二人は目が見えるようになった。ずっと目が見えなかった二人。主イエスの手が目に触(ふ)れた瞬間、ついに見えるようになった。そして、目の前に、目を癒してくださった主イエスのお顔がはっきりと見える。もしも私が盲人の一人なら、嬉しくて、涙が溢れるにちがいありません。
ところが、主は厳しく命じておられる。「このことは、だれにも知らせてはいけない」。30節に、「厳しくお命じになった。」とあります。原文には、さらに強い意味がある。「激しく怒(おこ)って命じられた」とも訳せる み言葉なのです。鼻息荒く、激しく怒(おこ)って命じられた。なぜ、それほどまでに厳しく沈黙を命じられたのでしょう?この問いを解く鍵は、二人の盲人の、「ダビデの子よ」という主イエスへの呼びかけにあります。「ダビデの子」という呼び名は、旧約聖書の時代から、永く人々から待望されていたメシア(救い主キリスト)を指す称号です。その意味では、この目の見えない二人の人たちには、主イエスの真(まこと)の お姿がきちんと見えていた。しかし、主イエスは人々が待望している「ダビデの子」つまりユダヤの伝説的な偉大な王の再来!と見られることを否定なさったのです。ユダヤの人々は、政治的な強力な指導者を求めていた。
強大なローマ帝国に対抗し、独立を勝ち取る。ユダヤの民を一つにまとめ、牽引し、君臨する王。それが「ダビデの子」という呼び名の中にひそむ人々のメシア像でした。
主イエスは、人々の誤解にもとづくメシア像と闘わなければならなかったのです。だから、盲人たちに沈黙を命じられた。しかし、「目が見えるようになった」喜びに震え、有頂天になっている二人には、主の厳しさが届かない。目が見えるようになった!自由に歩ける!自由に走れる!喜びが爆発し、外へ出るや否や、そこら中を駆け回って主イエスのことを言い広めたのです。

主の癒しは続きます。今度は悪霊に取りつかれて口の利けない人が、連れて来られます。盲人たちの大騒ぎの様子に懲り懲りして、さすがの主イエスも癒してくださらなかったのでは?と思いきや、この口の利けない人も癒され、ものを言い始めたのです。
群衆は「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と驚嘆しました。「イエスは、並の預言者ではない。ひょっとすると、ダビデの子、メシアなのかもしれない。」しかし、遠巻きに驚いているだけです。それは、すぐ後に書かれているファリサイ派の人々の言葉にいつ取り込まれてしまうかわからない呟きでしかありません。ファリサイ派の人々は言いました。「あの男は悪霊の頭(かしら)の力で悪霊を追い出している」。盲人たちの「はい、主よ」との信仰の対極にある、頑(かたく)な心、固い心です。
主イエスが求められるのは、素直な心、柔らかな心。ただ、「はい」と頷く。すべてを委ねる。それに対し、ファリサイ派の心は頑な。主の「わたしにできると信じるのか」との問いに、「いいえ」と反発し、「はい」と首を縦に振らない。ファリサイ派の人々は、主イエスによる癒しの奇跡を、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」の一言で終わらせてしまうのです。
主イエスは、人々が求める王の道とは全く逆の道を選び、その道を黙々と進まれる。主イエスは、父なる神さまの み心に忠実に生き続けられた。十字架に向かって突き進まれたのです。
ファリサイ派の呟きは、この後も主が十字架の死へ進まれる道に、ちらちらとつきまとい、群衆を巻き込んでいきます。ファリサイ派の人々の頑なさ、呟き。またそれに巻き込まれている群衆の姿は、決して他人(ひと)事ではありません。
今年も大きな災害が各地に発生。さらに疫病が蔓延。そのとき、私たちの心も固くなる。「本当に神さまが全能なら、なぜ、こんなことが起こるのか?」と疑いが生まれる。み言葉を素直に受け入れられなくなる。疑いの心こそ、主イエスを十字架に架けた頑な心です。主を否定する心、その心は、私たちにもある。その心が主イエスを十字架へと架けたのです。
「こんなにひどいことがあるなら、神はいない!救い主も幻!メシアは目障り!イライラする!」と。 
私たちも今朝、主イエスから問われています。「あなたは、わたしにできると信じるのか」。ただ主の力を信じ、生涯、主に応えたい。「はい、主よ」と。
主イエスと盲人の問答。どこかで聞いたことがあります。「信じるのか」。「はい。信じます」。この簡潔な問答は、洗礼入会式の問答と同じ。主イエスの問いに、「はい、主よ」と頷き、頭を垂れる信仰です。信じ続ける自信など必要ありません。迷う日もある。疑う日もある。心が塞いでしまう日もある。「信仰の人」アブラハムも、主の祝福の約束を疑い、笑ってしまう日もあった。
しかし、それでも主の祝福の約束を信じた。理由も分からず、主の示す道を黙々と歩き続けた。日々、「はい、主よ」と主に従ったのです。
突然の試練に襲われても、理不尽な理由で隣人から非難されても、これまでの歩みがすべて失敗であったと思っても、罪の私を愛し、赦し、憐れみ、私のすべてを導いておられる主に信頼し、委ね、ついていく。人々から「おまえは馬鹿だな。こんなにひどい試練に襲われても、まだ神を信じるのか?」と呆れられても、「はい。わたしは主を信じ続ける。なぜなら、主は全能であり、私だけでなく、あなたも、すべての人を愛し、赦し、憐れんでくださる。だから私はたとえ今、厳しい試練の中にあっても、自分を信じられなくても、私に命を与え、生かしてくださる神の愛を信じる。過ちを繰り返し、罪赦される資格のない私。それなのに主は、私のため、またあなたのためにも十字架で死んでくださった。それ以上、何を求めることがあるのか?主の十字架によって示された神の愛から私たちを引き離すものは何もない。」
伝道者パウロも語ります。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他(た)のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマの信徒への手紙8:38〜39)」今なら、「新型コロナウィルスも、水害も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」のです。神の愛こそ、私たちの永遠の喜びであり、平安なのです。主イエスの問いに「はい」と答える心は、主の平安に包まれます。主イエスは、私たちを平安へ招いておられます。主は、そばに寄って来る者を拒まれることはないのです。
主イエスは日々、私たちがそばに寄って来るのを待っておられる。そして、問うてくださるのです。「わたしにできると信じるのか」。そのとき、私たちは喜んで、「はい、主よ」と答えたい。すると、主の手が私たちの塞がれた心の目に触れられる。心の目の鱗が落ちる。心の目が見えるようになる。
すると見えてくる。私たちの目の前に立っておられる主イエスが。釘の跡のある み手を広げ、「あなたの罪は赦された」と罪の赦しを宣言してくださる主の み顔が見える。そのとき、私たちの心も体も主の平安に満たされるのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、今朝の赦しの み言葉を感謝いたします。どうしてもあなたの愛、あなたの赦しを疑ってしまいます。しかし、試練の中にあるときこそ、「はい、主よ 信じます」という素直さを失うことがないよう、お導きください。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。主よ、豪雨災害があります。さらに疫病があります。多くの方々が試練の中にあります。悲しみの中にあります。どうか、私たちを深く憐れんでください。どうか、悲しみの中にあるときこそ、疑いの中にあるときこそ、主イエスによって示された愛を思い起こすことができますよう導いてください。今日も様々な痛みとたたかっている方々、「はい、主よ」と信仰を告白し、洗礼を受けながら、様々な理由により教会から離れている方々をかえりみてください。そしてまた、教会に帰ってくることができますよう導いてください。疫病により世界も混乱しております。どうか、世界の指導者たちが今こそ自国の利益だけを追い求めるのではなく、困難な中にある国のことに心を寄せることができますよう導いてください。対立でなく、対話を求める心をお与えください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。



2020年7月12日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第77篇5節〜16節、新約 マタイによる福音書 第9章18節~26節
説教題:「娘よ、元気になりなさい。」
讃美歌:546、2、71、266、543、427  

主イエスは、洗礼者ヨハネの弟子たちに、主と共に生きる「新しい生き方」を教えておられました。ちょうどそのとき、ユダヤ教の指導者が血相を変えて主イエスのそばに来て、ひれ伏して言いました。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
今朝の み言葉はマタイ福音書に加え、マルコ福音書、ルカ福音書に記されております。いくつかの違いがありますが、大きな違いとしては、マルコとルカは指導者の娘が死にそうであって、まだ死んでいない。だから、少しでも早く主イエスに癒して頂きたい!と駆け込んで来たことは納得できます。しかし、マタイ福音書は、「わたしの娘がたったいま死にました。」死んでしまったのです。ですから、ジタバタしてもしょうがない。そう私たちは考えます。しかし、父はひれ伏した。そして、主イエスに懇願するのです。「でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
今朝の み言葉を読むと、思い起こす事があります。私事になりますが、娘が生後半年の冬、高熱が出ました。ちょうど正月休み。救急病院に行くほどでもないと勝手に判断し、休み明け、妻が近所の小児科に連れていきました。私は銀行に出勤。夕方、連絡が入り、緊急入院との知らせ。慌てて病院に向かいました。小児科医から告げられた一言は、今も忘れられません。「お嬢さんは、髄膜炎です。厳しい病です。最善の努力を約束します。けれども、お嬢さんが元気になる確率は3分の1。亡くなる確率は3分の1。後遺症が残る確率は3分の1。今夜が山です。」言葉を失いました。
病院通いの日々の中、ユダヤ教の指導者である この父親の、「イエスさま、どうか手をおいてやってほしい。そうすれば娘は生き返るにちがいない」という常識的に考えれば無茶な祈りの言葉は、私たち家族にとって「灯」でした。たとえ厳しい状況に思えても、私たちは いのちを治めておられる主に、祈ることができる!全能であられる主に真正面から訴えることができる!そのことを教えていただいた み言葉でした。
ユダヤ教の指導者である父親の切実な祈りのことばを聞いて、主イエスは、立ち上がってくださいました。彼について行かれた。弟子たちも一緒。もしかすると、洗礼者ヨハネの弟子たちもついて来たかもしれません。ちょっとした行列です。 
そこへ、ある娘が近寄って来ました。12年間も患って、出血が続いている。婦人病の一種だったと言われていますが、ユダヤ教徒たちの間では信仰的に汚れた病気とされていたようです。ですから 表立って主イエスに訴え、主に触れることは遠慮したのかもしれません。それでも、服の房に触れることができたら治していただけるに違いないと信じ、主イエスの後ろから近寄りました。そして、人込みに紛れ、主の服の房に本当に僅かな時間、そっと、気づかれないようにそっと服の房に触れたのです。
驚くべき出来事が起きました。触れたか、触れないか、しかも、直接、主に触れたのではありません。後ろから、主の服の房に触れた。それなのに、主は振り向いて、娘をじっと見つめられたのです。娘は慌てたでしょう。「どうしよう、怒られてしまう。」
すると、主イエスは予想もしない一言を発せられたのです。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」何度読んでも、力強く、やさしい、ありがたいお言葉です。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」その瞬間、苦しみ続けた病が治った。辛く、厳しい12年。待ち焦がれた癒しの瞬間は、あまりに突然おとずれたのです。
思い起こします。何の前触れもなく、突然、「お嬢さん、明日退院です」と言われたときの、ある意味拍子抜けするような、急に雨雲がスコーンとそこだけ抜けて青空が覗いたような感覚と、同じ病棟で病と闘っているたくさんの子どもたちとご家族に申し訳ない気持ちになったことを。
主イエスの み業は、私たちの思いを遥かに超えています。私たちは今までの経験で色々なことを考えます。たとえば、「誰でも、苦労し、努力すれば報われる」とか、「悪いことの後には、良いことが待っている」と。しかし、現実はそうとは限らない。理不尽な死があります。治らない病もある。
確かに、指導者の娘は起き上がり、12年間も患って出血が続いている娘も治った。しかし、「二人は、いつまでも地上で生き続けた」とは書かれていない。地上のいのちを終える日が来る。どれだけ真心を込めて、一所懸命に祈っても、願い通りにならない祈りもあるのです。それでも、私たちには今朝の み言葉が与えられた。主イエスの「娘よ、元気になりなさい」は、私たちの心に深く迫ってくる。ほんの少し、服の房に触れただけなのに、すぐに振り向き、見つめてくださった御子の眼差しが私たちを包んでくださる。
私たちは、今、この瞬間も、振り向いて、見つめてくださる主の眼差しの中にある。まさか!と思うような突然の悲しみ、苦しみ、痛み、また、神さまの元へと帰るいのちも、全て主の眼差しの中にあるのです。たとえ、願った通りにならなくとも、私たちの神は、いのちの神であられる。そう信じるとき、私たちは強い。絶望しない。救いの中にあるのです。
この娘も「汚れた者である」ことを嘆き続けた12年間、ひっそりと生きてきた。それでも、希望を抱いていた。たとえ かすかな声であっても、心が折れかけ、途切れ途切れになっても、祈り続けた。天を仰ぎ続けた。生涯、自分の真上の空はスコーンと晴れないかもしれない。それでも、主に望みを置くことを知っていた。だからこそ、主イエスの服の房に、祈りを込めて触れたのです。
私たちの信仰は、私たちの力で獲得したものではありません。み言葉により与えられた。主が与えられたのです。それにもかかわらず、主は私たちを眼差しで包み、「あなたの信仰があなたを救った。」と励ましてくださるのです。
さて、主イエスの一行は指導者の家に到着しました。そこには、死者が出たときの慣例通り、笛を吹く者たちや大勢の泣き女が集まり、騒いでいました。主イエスは言われました。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」
人々は、主イエスをあざ笑った。彼らには、主イエスのおっしゃったことがわらかなかった。主が、いのちの神であられることを知らなかった。いのちの神にとって、死んだ者は皆、神に手を取られ、名を呼ばれ、眠りから覚める日を待つ者なのです。
あざ笑い、騒ぎ続ける群衆を外に出すと、主イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになられた。すると、少女は眠りから覚め、起き上がったのです。何と静かな、平安な光景でしょう。
娘が入院していた間、妻は毎日、娘の枕元で、この讃美歌を口ずさんでは、その歌詞に励まされていたと言います。「やすかれ、わが こころよ、主イエスは ともにいます。いたみも苦しみをも おおしく忍び耐えよ。主イエスのともにませば、たええぬ悩みはなし。やすかれ、わがこころよ、月日のうつろい
なき み国は やがてきたらん、うれいは永久(とわ)に消えて、かがやく み顔あおぐ いのちの さちをぞ受けん。」
私たちは例外なく、いつの日かこの世の命を終えます。けれども、この少女のように、定められた日に主に起こしていただく日が必ず来るのです。私たちが望みを置く主は、いのちの神さまです。私たちは皆、いのちの主の眼差しに包まれているのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、いのちの み言葉を感謝いたします。様々な悩みがあります。痛みもあります。主よ、日々語り続けてください。「元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」どうか、信仰を与え続けてください。主の み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。主よ、被災され、希望を失い、嘆きの中にある方々を深く憐れんでください。どうか、それらの方々に聖霊を注ぎ、主にある希望をお与えください。体調を崩され、入院された教会員がおられます。主よ、どうか慈愛に満ちた眼差しを注いでください。癒しの み手を触れてください。お願いいたします。主よ、7月も分散礼拝を続けることを み心と信じ決定いたしました。どうか、新型コロナウイルスを一日も早く終息へとお導きください。み心ならば、聖餐の祝いに安心して与る日をお与えください。蒸し暑い日が続いております。体調を崩し、今日も礼拝を休んでおられる方々を強め、励ましてください。どこにいても、あなたの眼差しが私たちに注がれていることを忘れることのないよう導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年7月5日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第40篇1節〜7節、新約 マタイによる福音書 第9章14節~17節
説教題:「主が共にいてくださるから」
讃美歌:546、69、167、21-81、355、542  

主イエスは、喜んで徴税人や罪人と食事をされました。ファリサイ派の人々にとって、徴税人や罪人と食事をすることは、想像することすらできない汚(けが)れた行為でした。だから質問したのです。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。
主は言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」先週、皆さんと味わった大いなる招きの み言葉です。
14節に「そのころ」とあります。新共同訳では13節と14節の間に小見出しがついており、時間の経過を感じます。しかし、13節と14節はどうも繋がっているようです。実際、口語訳、そして新しい共同訳、どちらも「そのとき」と訳しています。つまり、マタイのような徴税人や「罪人」と後ろ指をさされて生きてきた人々と主イエスが一緒に食事を楽しまれた「そのとき」と考えて良いと思います。
ファリサイ派の人々に続き、洗礼者ヨハネの弟子たちが主のところに来て、尋ねたのです。「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」。
ヨハネの弟子たちは、徴税人たちや罪人たちはもちろんのこと、主イエスと弟子たちまでもが、食事を心から楽しんでいる様子に、違和感を覚えたのかもしれません。
洗礼者ヨハネを中心とするユダヤ教の一派は、ストイックに神さまに仕えていたようです。清く貧しい生活を自分たちに課し、悔い改めに励む道、神さまに仕える証として、日常的に断食を励行していたのです。
 その心はこうだったかもしれません。「私たちは、神さまをないがしろにしている今の世を憂い、歯を食いしばり、頑張って、神さまの み心を生きるべく、血のにじむような清い生活を続けている。それなのに、この人たちは、能天気に浮かれ、ぶどう酒まで飲み、わいわい、がやがや、飲み食いしている。」
 主イエスは、このときはヨハネと行動を別にしておられましたが、主イエスも、ヨハネから洗礼を受けられましたし、いっときは、ヨハネたちと行動を共にしていたと考える学者もおります。実際、第4章で読んだように、主イエスは悪魔から誘惑を受けられるため、荒れ野で40日もの間、昼も夜も断食をなさられた。そして、断食の直後、激しい空腹を覚えられているところで、悪魔の誘惑を受けられたのです。主イエスは、悪魔の誘惑に対して、言われました。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。(4:10)」
 主イエスは、サタンに向かって言われた み言葉を忠実に生きられた。十字架の死に至るまで。人々の期待する新しい王さま像、メシヤ像を否定し、悪魔を退け、ご自身を人々の罪の贖いとなられる道を歩み始めたのです。
主イエスは、招きの言葉を語りかけてくださいます。「断食では、罪の悔い改めを証することはできない。古い生き方に固執するのではなく、これまでの生き方、これまで大切にしてきたことを捨て、真の救い主である私と共に歩む生き方を私と共に始める。それこそが、悔い改めに生きる道なのだ。」
主イエスは、敬虔なユダヤ人たちから「罪人」とさげすまれていた人々に心を寄せ、憐れみの眼差しを注ぎ、癒しを与え、友となってくださり、一緒に歩いてくださった。上から目線で、「あなたがたはこのように歩みなさい!」と命ずるのではありません。しゃがんでくださり、手とり足とり、歩調を合わせ、時に笑い、時に「辛かったね」と涙を流し、新しい生き方を教えてくださった。この新しい生き方の細かな教えは、「山上の説教」で読んでまいりましたが、つまりそれは、平たく言えば、結婚披露宴に招待され、花婿と一緒にご馳走を食べ、美味しいぶどう酒を楽しむような晴れ晴れとした生き方だと、主イエスはおっしゃるのです。
 主イエスの み声が聞こえます。「どんなに胸を叩き、悔い改めても、あなたの力ではどうにもならないではないか。断食は悪いことではない。けれども、空腹に耐え、うつむいて、座り込んで、罪を悔い改める。そのような断食は、もう必要がなくなった。私という花婿が、一緒にいるのだから。」
主イエスは、断食によって神さまに己の清さを訴えるという無謀な努力から私たちを解放するために、世にいらしてくださいました。神さまと人間の間にある深い谷は、断食では埋めることなどできないのです。その深い谷を、主は軽々と飛び越え、私たちのところへいらしてくださった。「だから、もう自分たちの罪を嘆く必要はない」と言ってくださるのです。
そのうえで、主イエスはご自分が神の小羊として全ての人の罪の代償として十字架に架けられる日の来ることを預言されました。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。」主イエスの み言葉にはどこまでも深い愛と覚悟があります。ただ言いたいことだけ言って、後は知らない!ではない。厳しい言葉に聞こえることがあっても、そこには、深い愛と主イエスの十字架への覚悟、父なる神さまに従う覚悟、『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』との み言葉に生き抜く覚悟があるのです。
まさに、主イエスによる十字架の預言、ご自身を神さまへの献げものとなさる覚悟こそ、私たちに「古い生き方を捨て、新しい生き方に生きるように!」と促す揺るぎない根拠なのです。
主イエスご自身が預言されたように、花婿が奪い取られるときがおとずれました。古い革袋 つまり、私たちの古い生き方が破れたのです。古い生き方、古い革袋を捨てきれずにいる私たちのために、主イエスは死なれました。革袋は破れた。新しいぶどう酒は主イエスです。新しいぶどう酒は流れ出た。真っ赤な血が十字架の上で流された。そのとき、古い革袋である罪の私たちも死んだ。そして、神さまは主イエスを復活させてくださいました。
主イエスの十字架と復活が、「私のための出来事」と信じるとき、私たちの罪のからだ、古い革袋は、主の十字架と共に死ぬ。破れる。私たちの古い生き方、古い革袋は、主の復活と共に全く新しいものとされる。それも、「長もち」どころではない。永遠に破れることのない、新しい革袋になるのです。
私たちは、自前で新しい革袋を用意する必要はありません。たとえ、新しい丈夫な革袋を用意しても、実際は穴だらけ。しかし、主イエスが用意してくださった新しい革袋、新しいいのちは、永遠に生き続ける。いつまでも主イエスといっしょ。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラテヤの信徒への手紙2:20)」と胸をはって、喜んで言うことができるのです。
神さまと私たちの間にある決して断食で埋めることの出来ない深い谷には、主イエスの十字架という橋が架けられました。主の恵みにより、私たちは一人の例外もなく、本来であれば絶対に渡ることのできない罪の深い谷を渡れる者となったのです。
「主が共にいてくださるから」私たちは永遠に喜べる。喜んで生きられる。嬉しいことです。感謝なことです。たとえ悲しみの中にあっても、主が共に いてくださる。私たちは、そのように恵みを数えつつ、喜んで歩む者として、日々、新しくされているのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、「主が共にいてくださるから」私たちは自前で新しい革袋を用意する必要がなくなりました。感謝いたします。喜びの中でも、悲しみの中でも、主が共にいてくださることを、いつも知り続ける者として立たせ、生かしてくださいますように。主の み名によって祈ります。
アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。主よ、南九州では記録的な大雨で甚大な被害が発生しております。大切な命が失われました。今年も大雨の季節、そして台風の季節となります。どうか被災地で困難な生活を強いられている方々、懸命に救助活動をしている方々、医療関係者を強め、励ましてください。新型コロナウイルスの感染症リスクを避けながらの避難所生活を強いられている方々を憐れんでください。主よ、体調を崩している方々、心が塞いでいる方々、痛みを抱えている方々、思い煩いの中にある方々を憐れみ、聖霊を注いでください。私たち、それぞれに悩みを抱えております。家族との関係、職場での人間関係、学校での学び、進路のこと、病のこと、そのとき、私たちの人生を、主イエスご自身の存在をもって祝福していてくださることを忘れてしまいます。それほどに、深い悩みに襲われることがあります。どうか、そのようなときこそ、主イエスが執り成しの祈りを今、このときもささげておられること、主イエスが共にいてくださり、どんなときもしっかりと支えてくださることを忘れることがないよう、お導きください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年6月28日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ホセア書 第6章6節、新約 マタイによる福音書 第9章9節~13節
説教題:「全ての者への招き」
讃美歌:546、93、238、312、541   

主イエスは進み続けられます。罪人を招き、救うために。脇目も振らず進まれるのではありません。罪に足もとをすくわれ、立ち上がれなくなっている人がいれば、決して見逃されない。
主イエスは収税所の前を通られました。収税所。税金を納める所です。ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人にとって、ローマに税金を納めるだけでも屈辱。しかも、税を集める徴税人が、あろうことか同胞のユダヤ人。それも、税を集めるにとどまらず、その特権を笠に着て、規定以上の税を集め、私服を肥やしている。その結果、徴税人は、人々から「ローマの手先」、「人でなし」、「罪人の最たる者」と後ろ指を指され、「近づくのも汚らわしい」と徹底的に嫌われていたのです。
主イエスは、収税所で「今日の税収はいくらになるだろう?また、どれだけ懐に入れられるだろう?」と、計算しているマタイをご覧になった。「いつの日か、罪の泥沼から立ち上がりたい」と思ってはいるものの、ある意味 居心地の悪くない罪の泥沼に座り込み、自分への儲けを勘定していた。そのようなマタイに目を注がれた。そして呼ばれたのです。「わたしに従いなさい」。
 徴税人への主イエスの招きは、マタイ福音書に加えて、マルコ福音書、ルカ福音書にも書かれています。けれども、マルコ福音書、ルカ福音書では、主イエスから「わたしに従いなさい」と言われた人の名前が「レビ」となっているのです。なぜマタイ福音書だけ「マタイ」なのか?推測するよりほかありませんが、第10章2節に記されている十二弟子の名の中に「徴税人のマタイ」とあることから、マタイも主イエスに救っていただいた徴税人のひとりであったことは間違いないと思います。よく知られていたレビのエピソードに、マタイは自分の姿を見た。「これは自分に起こった出来事だ」、とマタイは言いたかったのではないかと思います。聖書は、私たちに、自分の出来事として読むようにと招く書物です。主イエスの眼差しは、また「わたしに従いなさい」との み声は、私たちにも向けられているのです。 
 私は、銀行で働いておりました。当然ですが、銀行では多くの収益を銀行にもたらせば評価される。反対に、収益をもたらさなければ、給料泥棒!と言われる。次第に追い込まれ、犯罪ギリギリの営業もなかったとは言えません。
そんなとき、収税所に座っているマタイへの招きを読むと、「いつの日か、私にも、イエスさまが声をかけてくださらないかな。そうすれば、日々、評価される苦しみから解放される」と考えた。
しかし、そう思いながらも立ち上がれず、罪の泥沼に座り込んでいたある日、「わたしに従いなさい」という み声を聞いた。そして今、マタイへの招きの み言葉を語る恵みが与えられている。だからこそ、感じるのです。「今朝の み言葉はマタイだけへの招きではない。全ての者への招きであると。
マタイは立ち上がって、主イエスに従いました。「主に従う」とは、すべてを捨てること。学歴も、経歴も、財産も捨てる。もちろん罪の泥沼も、痛みも捨てる。抱えているものを捨ててよいのです。なぜなら、主が「わたしに従いなさい」と招いておられるから。だから、安心して主に委ねてよいのです。
マタイは、頭で理解したというより、全身で感じたに違いありません。真実の光なる主イエスの輝きに触れた瞬間、それまで「自分の全て」と信じていた財産も贅沢な暮らしも光を失った。そして、真実の光なる主イエスに向かって立ち上がり、従う者となったのです。
主イエスは、マタイを含め、すでにお召しになった弟子たちと食卓を囲まれました。そこへ、マタイの徴税人仲間、信心深いユダヤ人から白い目で見られていた罪人が大勢やって来て、一緒に食事の席についたのです。
彼らは、主イエスと同じ食卓につきたくてやって来たはずです。彼らが押し寄せた動機は、「俺たちも、イエスさまに招かれている!」とマタイのように全身で感じたからだと思います。理屈ではない。「マタイが招かれたなら、俺たちも、イエスさまに招かれている!」
釧路にいたとき、忘れられない出会いがありました。かつてススキノを拠点としたヤクザであった井上 薫牧師が、春採教会で「賛美と証し夕べ」と題して伝道集会を行ってくださったのです。私は緊張を強いられました。なぜか?井上先生曰く、「現役の方々」が複数来られると告げられたからです。実際、白いダブルのスーツに身を包み、ヤクザ映画から出てきたような女性連れの方、盗みや薬物中毒の末に刑務所で服役し、社会復帰の道を模索している方が幾人も来られ、井上先生の賛美とメッセージに涙を流しておりました。先生ご自身も、かつて薬物依存による幻聴、幻覚に苦しまれた。そのような日々の中、聖書と出会い、主イエスの招きを信じ、洗礼を受けられた。そして今、巡回牧師として全国、全世界で主イエスの招きを語り続けておられます。先生に言われました。「罪を犯した人たちは敏感です。ちょっとした言葉遣いで、その人が自分をどのように見ているか、すぐにわかります。だから、特別に意識せず普段通りに接してください。」
主イエスの食卓につめかけた徴税人や罪人も、同じだったかもしれません。自分を馬鹿にする目、見下す目に敏感だった。彼らは、もしかすると律法への知識に乏しかったかもしれません。貧しく育ち、今日を生きることで精一杯。律法どころではない。
けれども、信心深いファリサイ派の人々から見れば、徴税人や罪人と食卓を囲むことは、罪の泥沼に座り込み、ドロドロに汚(よご)れている人をそのまま家に上げ、一緒に食事をするようなもので、考えられないことだったのです。ファリサイ派の人々は、弟子たちに尋ねました。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。
主イエスは、悲しみの眼差しをファリサイ派の人々に注ぎ、言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
主イエスの み言葉を、私たちも今朝、一言一言、しっかりと心に刻みたい。私たちに無縁な み言葉ではないからです。
私たち、ファリサイ派と聞くと、すぐに「ああ、イエスさまを試し、イエスさまから嫌われている人たち」と判断します。しかし、それは違います。確かに、そのような面もありますが、真面目に神さまへの信仰に生きる人々です。神さまから示された戒めを心に刻み、厳格に守り、きちんとささげものをし、信仰的に汚(よご)れないよう、罪の泥沼に座らないよう、気を遣って真面目に生きる人たち。主イエスが「丈夫な人」と言われるのは、皮肉でも嫌味でもないのです。
ファリサイ派の人々を「丈夫な人」と認められた。その上で、み言葉を続けられるのです。「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」
この『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』は、本日の旧約聖書ホセア書第6章6節の み言葉の引用です。けれども、少しニュアンスが異なります。主イエスが「憐れみ」とおっしゃった言葉は、ホセア書では「愛」となっています。「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」
主イエスは、丈夫な人に、憐れみの心を求めておられるのです。一般に日本人は「憐れみ」を受けることを好みません。寄り添う心、慈しむ心、と言ってもよいでしょう。実際に、「慈しみ」としている訳もあります。「神が喜ばれるのは、いけにえではない。憐れみだ。寄り添う心、慈しむ心だ。自分自身の丈夫さ、清さに拘(こだわ)るあまりに、汚(よご)れてしまった罪人を深く憐れむ心を疎かにするなら、神さまの み心を心に刻むべく、もう一回ちゃんと 聖書の み言葉を学びなさい!」と言われるのです。
新共同訳は「行って学びなさい。」と訳しますが、原文は「出ていけ!」という厳しい み言葉です。けれども、厳しさの中に、主イエスの憐れみが響きます。
「ホセアの預言を軽んじるな!自分の正しさ、清さを守ろうと張り巡らした高い壁に気づいて欲しい!そこから立ち上がり、出て行って、神さまの愛に立ち帰って欲しい!」と徴税人マタイだけでなく、丈夫なファリサイ派の人々をも、招いておられるのです。
主イエスは、最後に言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」主イエスは、どんなにドロドロに汚(よご)れてしまった人にも、「あなたたちは、清くないから神の国にふさわしくない」と言われません。「一緒に食事を楽しもう!」と喜んで招き入れてくださる お方です。同じように、道を間違え、汚(よご)れてしまった者たちとの間に高い壁を築き、己の清さを守ることに一所懸命な人にも、「あなたたちは自分の清さを守るために憐れみの心を忘れているから、神の国にふさわしくない」とも言われない。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。あなたがたの清さを保つためのいけにえは、私自身。だから、安心して私の食卓に着きなさい」と言われるのです。
主イエスは、全ての者を招いておられる。主は、病人である私たちの主治医として、私たちをどこまでも深く憐れみ、汚(よご)れることをいとわず、罪の汚名をかぶり、私たちを罪の泥沼から立ち上がらせてくださった。十字架の上で自らを いけにえとし、血潮を流され、肉を裂いてくださった。私たちは、 一人残らず、救いの「しるし」である主の食卓、聖餐の食卓に招かれているのです。
残念ながら今、主の食卓を皆さんと一緒に囲むことができておりませんが、主の食卓を囲むとき、私たちは皆、罪を赦され、清められた喜びに包まれるのです。今朝も、主イエスは全ての者を招いておられます。「わたしに従いなさい。あなたも、罪を赦され、清められた者として、憐れみに生きることができる!」

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、日々、「わたしに従いなさい」と招きつづけてください。すぐに罪の泥沼に座り込んでしまう私たちを憐れんでください。そして、あなたの憐れみに生きるものとして私たちを用いてください。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。
今、罪の泥沼に座り込んでいる方々を憐れみ、聖霊を注いでください。犯した罪に苦しみ続ける人、人を赦せない苦しみを抱えている人、それぞれが共に、あなたから罪を赦された者であることを知り、主イエスによって和解し、共に祈り合える日が来るよう導いてください。4月から皆さんと一緒に聖餐に与ることができておりません。6月から礼拝とみ言葉と祈りの会を再開することができました。どうか、ウィルスへの感染に配慮しつつ、再び、聖餐の祝いに与ることができますよう導いてください。梅雨に入り、湿度の高い日々が続いております。体調を崩し、礼拝を休んでいる方々、心が塞いでいる方々、様々な痛みを抱えている方々を憐れみ、聖霊を注いでください。新型コロナウイルスの蔓延により、世界の情勢が不安定になっております。主よ、今こそ、世界の指導者、そして世界の人々が「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」を心に刻み、互いに立ち上がり、あなたの愛、あなたの憐れみに生きるものとして導いてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年6月14日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 創世記 第22章7節~8節、新約 ヨハネによる福音書 第1章35節~42節
説教題:「来なさい。そうすれば分かる」
讃美歌:546、9、164、225、539    

今朝は、年間主題の み言葉「来なさい。そうすれば分かる」をご一緒に心に刻みたいと思います。2月下旬、新年度の年間主題を祈りつつ求め、与えられたのが、「来なさい。そうすれば分かる」でした。「愛する者をとにかく教会に連れて来る。そうすれば、必ず主イエスの眼差しが捕らえてくださる」と信じ、一年間、皆さんと一緒に、祈りつつ伝道に励みたいと思っていました。
ところが4月以降、皆さんと礼拝をささげることが難しくなった。その意味では、年間主題の変更を検討するべきだったかもしれません。けれども、社会に不安が渦巻く今だからこそ、どんなときにも変わらない主イエスの招き、主イエスの眼差しに捕らえられている喜びを、一人でも多くの方に知らせたいと強く思うのです。

ヨハネによる福音書 第1章35節から42節で、繰り返し用いられる言葉があります。「見る」という言葉です。主イエスが弟子を見つめられる。弟子も主イエスを見つめ返す。眼差しが交わる。そのようなドキドキする場面です。
まず登場するのは、洗礼者ヨハネです。ヨハネは、「主イエスこそ、世の罪を取り除くために、神が我々に与えてくださった神の小羊である。我々の罪を神に執り成してくださるキリストである」と信じておりました。
ヨハネには、たくさんの弟子がおりましたが、その日は二人の弟子が一緒におりました。その前を、主イエスが歩いておられた。ヨハネは主イエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と叫びました。
すると、二人の弟子は、それを聞いて、主イエスに従ったのです。主イエスは振り返り、彼らが従って来るのをじっと見つめられました。そして、お尋ねになりました。「何を求めているのか」。
二人はまだ、目の前の方がどのような方であるのかがよく見えておりませんでした。そこで、「どこに泊まっておられるのですか」と問い返したのです。
「どこに泊まっておられるのですか」の「泊まる」という言葉には、「繋がる」という意味があります。ヨハネによる福音書で有名な み言葉の一つに、ぶどうの木の譬えがあります。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。(15:5)」この「つながっている」と、「泊まっておられる」が同じ言葉なのです。
主イエスは答えられました。「来なさい。そうすれば分かる」。この「分かる」という言葉には、「見て、分かる」という意味が含まれております。
主イエスは、弟子たちの問いを受け止めてくださり、「来て、見ればわかる。私に泊まり、私に繋がり、私の眼差しに住みなさい」と招いておられるのです。
その日、二人は主イエスの元に泊まり、主イエスに繋がっていただきました。その時刻を、「午後4時ごろのことである」と書いてあります。時刻を記すほど、嬉しい、重要な出来事であった。あの日、あの時、私は主イエスの眼差しに捕らえられた。あの日、あの時、私も主イエスを見つめ返した。二つの眼差しが交わった。その喜びは、その人を永遠に生かす喜びなのです。

ところで、洗礼者ヨハネの言葉を聞き、主イエスに従った二人の弟子の一人の名は、アンデレと言いました。アンデレは、「まず自分の兄弟シモンに」会いました。41節で、「会って」と訳された言葉は、「見つける」という言葉です。
アンデレは、まず兄弟シモンに「主イエスに出会った喜びを伝えたい!」と願った。「喜びを知って欲しい!」と願い、シモンを探し、見つけた。
早速、アンデレはシモンに言いました。「わたしたちはメシアに出会った」。この「出会った」という言葉は、「ヘウレーカ」というギリシア語で、「発見した!」「見つけた!」という強い喜びの言葉です。かのアルキメデスが「アルキメデスの原理」を発見したとき、風呂の中だったようですが、裸のままで飛び出し、「ヘウレーカ!ヘウレーカ!」と叫び続けたという逸話が残っています。こういう発見の喜びは、私たちの暮らしの中にもあります。
例えば学生時代、どうしても解けない数学の問題があって、特に図形の問題など、あれこれ考え、線を書き加えたり、消したりしているうちに、あるとき、答えに至るヒントが、そこだけスポットライトがあたるようにはっきり浮かび上がる瞬間がある。あるいは、大切なものを無くしてしまって、家中ひっくり返して、ようやく見つけ出したとき。そのような発見の喜びは、探している時間が長ければ長いほど大きいものです。
アンデレは、叫びました。「シモン、私は救い主キリストに出会った!ついに出会ったのだ!」ユダヤの民は長い間、メシアを探し続けていた。メシアは必ず現れる、と聖書に書いてある。けれども、いつ、どこに現れるのだろうか?アンデレは真剣に探し求め、まず洗礼者ヨハネに会いに行き、ヨハネの弟子となった。そのヨハネから「あの方こそ、メシアである!」と言われ、主イエスに従い、見つめられ、招かれた。そして、主イエスの元に泊まり、主イエスに繋がっていただき、「主イエスこそメシア(キリスト)である!」と発見したのです。

発見の喜びは、私たちを突き動かす。アンデレも突き動かされた。愛する人を主イエスのもとへ連れて来たくなった。すぐに兄弟シモンを探しに行き、シモンを見つけ、腕をぐいと引っぱり、大声で叫んだのです。「シモン、いいから、とにかく来て見て欲しい!そうすれば分かるから!」
アンデレは、シモンの腕を引っ張り、主イエスの元へと連れて行きました。そして、シモンも、アンデレのように、主の眼差しに捕らえられたのです。
主はシモンを見つめて、言われました。「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファと呼ぶことにする」。
 「ケファ」とは、ヘブライ語で「岩」を意味する言葉です。ギリシア語では、「ペトロス」。このときシモンは、「ペトロ」という新しい名前を主イエスからいただいたのです。ケファという名前には、「わたしは この岩の上に わたしの教会を建てる(マタイによる福音書16:18)」と主イエスが お選びになった、という意味があります。シモンは、教会の土台として、教会をつくっていく者として、主イエスに見つけていただいたのです。
 ケファ(ペトロ)は、後に、このように手紙に記しました。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。(ペトロの手紙一1:8~9)」
 確かに、今を生かされている私たちは、主イエスを肉の目で見ることはできません。だからこそ、思い起こしたい。私たちはどのように教会に招かれたか?シモン・ペトロがそうであったように、家族に連れて来られたかもしれません。あるいは、何となく教会に足が向いたかもしれません。どのような経緯であっても、そのときすでに私たちは、主イエスの眼差しにじっと見つめられていたのではないでしょうか?主イエスの眼差し、招きの中で、行って、見て、主の眼差しに捕らえられた。主イエスに繋がる者としていただいたのです。

 たくさんの人に愛されてきた讃美歌に「ああ主のひとみ」があります。「ああ主のひとみ、まなざしよ、三たび わが主を否みたる よわきペテロを かえりみて、赦すはたれぞ、主ならずや。」「きのうもきょうも かわりなく、血しおしたたる み手をのべ、『友よ、かえれ』と まねきつつ 待てるは たれぞ、主ならずや。」
 どんなときも変わらずに私たちに注いでいてくださる主の眼差しを、私たちは普段どれほど感謝しているでしょうか?主の眼差しなど届いていないかのように振る舞ってはいないでしょうか?また思い煩う日々を過ごしてはいないでしょうか?

 洗礼者ヨハネは、主イエスを指して「見よ、彼こそが世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました。主イエスは、すぐに主の眼差しに背を向け、忘れ、愛を放棄してしまう私たちのために、神の小羊として十字架に架かり、その血潮で私たちを清めてくださったのです。そして、「友よ、私に泊まりなさい。私は毎日、あなたの帰りを待っている。」と、深い憐れみの眼差しをもって招き、清い者として、世へと遣わしてくださるのです。罪の赦しと主に用いて頂ける喜びは、時代がどのように変化しようと、変わることはありません。私たちはこの喜びを胸に、それぞれの賜物を用いて、愛する者に主イエスの招きを語り続けるのです。「来なさい。そうすれば分かる」。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、主イエスを見ることができますように。主イエスが私たちに日々、憐れみの眼差しを注いでくださることを喜ぶ者としてください。愛する人をその喜びへと招き続ける者としてください。主の み名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。主よ、先週から皆さんとの礼拝を再開することが許され、深く感謝いたします。けれども、ご自宅での礼拝を続けている方もおられます。主よ、どこにあっても、主の瞳、主の眼差しを感謝し、招きに応えることができますようお導きください。梅雨に入りました。蒸し暑い日が続き、体調管理が難しい季節です。痛みを抱えている方の痛みを和らげてください。新型コロナウイルス感染防止のため、様々な活動が自粛されました。その結果、たくさんの方々が職を失い、大きな不安に襲われております。どうかそれらの方々が希望を失うことのないようお導きください。差別と偏見が蔓延しております。どうか、対立ではなく融和への祈りを篤くすることができますように。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年6月7日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第65章1節~7節、新約 マタイによる福音書 第8章28節~34節
説教題:「滅びへの勝利」
讃美歌:546、14、161、Ⅱ-1、224、545B  

本日から 皆さんと一緒に神さまを礼拝することが許され、胸がいっぱいです。この2ヶ月、動画配信による礼拝を続けておりましたが、やはり何とも淋しい思いでした。
2ヶ月の間に色々なことがありました。愛する姉妹が み許に召されました。まだ、信じられない思いです。嬉しいこともありました。求道を続けておられた姉妹が、ペンテコステの日に洗礼へと導かれました。そして今日から、椅子を空け、マスクを着用し、2回に分けてではありますが、皆さんと一緒に神さまを礼拝できることは、大きな恵みであり喜びです。
私たちは今、マタイによる福音書を通して、主イエスと弟子たちの旅を、一歩一歩、一緒に歩むように辿っています。主イエスは弟子たちに「わたしに従いなさい」と命じられ、弟子たちと一緒に舟に乗り込まれました。
嵐を乗り越え、やっとの思いで辿り着いたのは、対岸のガダラ人の地方。異教徒たちの住む町です。自分たちとは異質な人々が住んでいる。それだけでも弟子たちの緊張は高まります。
案の定、いきなり怖ろしい形相の二人組がこっちに向かって来ます。悪霊に取り憑かれた二人の狂暴さは、「だれも その辺りの道を通れないほどであった」と記されております。何らかの精神疾患を患っていたのかもしれません。非常に狂暴なので、町から追放されたのでしょう。墓場をねぐらとしていた。考えただけで逃げ出したくなるような状況ですが、先頭を歩まれる主イエスは遠回りなどなさいません。神さまから示される道を、どんな障壁があろうと、全く自由に、ずんずん突き進まれるのです。突き進んで来られる主イエスに、二人は墓場から出て、突然、叫びました。「神の子、かまわないでくれ。まだ 、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」
二人は完全に正気を失っています。二人の体を悪霊が乗っ取り、自由自在に操っているようです。ですから、これは二人の言葉ではなく、悪霊の叫びと言ってよいでしょう。神さまから、私たちの心の闇を光へと解放するために遣わされた主イエスを、真っ先に「神の子」と認めたのは、弟子たちでも、信仰深い人でもなく、悪霊だったのです。
悪霊は、自分がいずれは神さまに滅ぼされる者であることをよく知っていた。だからこそ、神さまの力に敏感だった。そして、叫んだのです。「ちょっと待て!今はまだそのときじゃないだろう!俺たちを滅ぼすのはまだまだ先のはずではないか!いくらなんでも早すぎる!」
悪霊が狼狽し、慌てている姿は滑稽にも思えます。けれども、この二人ほどの狂暴さではないにせよ、私にも、後で振り返ると、何であの時、あのようなことをしてしまったのか?何であの時、あのような言葉を発してしまったのか?と呆然とすることがあります。カッとなったり、イライラしたり、人を責めてしまったり。
私たちの心も、闇のような悪霊に支配されてしまう。闇の中にいるとき、真の光であられる主イエスが迫ってこられると、慌てて背を向け、光を照らさないで欲しい!と叫んでしまう瞬間を私たちも知っています。そのような心の闇を知っていれば、悪霊の狼狽を滑稽な姿!と笑えません。
悪霊が怖れていた「その時」とは、「世の終わりの時」、主イエスが再び、天から世に遣わされる「再臨の時」です。「再臨の時には、俺たち悪霊は、神さまに審かれ、滅ぼされる」と知っていたのです。
どんなに抗えないように思えても、一番強いのは悪霊ではないのです。どんなときも私たちを愛し、赦し、憐れんでくださる主イエスこそ、勝利者です。とても抗えないと思ってしまう狂暴な力。それは病気であったり、死であったりします。愛する者が死んでしまった。もう生きていても意味がないと本気で思ってしまう。心を支配しているのは「死」です。死んだら楽になる。死んだら苦しまないですむ。まさに「死」という悪霊の虜になってしまう。
あるいは、自分でコントロールできなくなるような怒りの感情であったり、怖れであったり、言葉の暴力であったりします。SNSでの誹謗中傷を苦に、自ら命を絶たれた女性のことが報じられました。中傷する者も、中傷された女性も、悪霊に滅ぼされてしまったようで胸が痛みます。だからこそ私たちは、今朝の み言葉を真の救いとして心に刻みたい。どんなに絶対的に思える悪霊の力、滅びの力も、父なる神さまを怖れ、神さまから遣わされた主イエスに「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」とジタバタし、慌てて、狼狽している。その意味では、私たちは大いに笑い、喜べるのです。「そうだ!悪霊を支配しているのは神の子!心の闇を支配しているのも神の子!神の子 主イエスが私を愛し、赦し、憐んでくださる。私は、神の子 主イエスと洗礼によって結び合わされた!」私たちは今朝、洗礼の恵みを神さまに感謝いたします。私たちは独りぼっちで生きているのではありません。悪霊も怖れる神の子 主イエスに結ばれて生きているのです。
ところで、神の子に怖れをなした悪霊はどうしたでしょう?何とかその場を切り抜けようとあがきました。世の終わりの日、世と道づれに滅びるのは仕方がないとして、まだ、そのときでもないのに滅びるのは勘弁して欲しい!と、神の子に懇願した。「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と叫んだのです。
豚はユダヤの民にとっては汚れた動物とされ、遠ざけられていましたから、ユダヤ人と関わりのないところ、神さまと関係のないところでなら、生かしておいてもらえるだろうと思ったのかもしれません。
主イエスは「行け」とお命じになられました。しかし、これが悪霊にとっては計算ミス。「行け」とお命じになられた神の子の圧倒的な力を計り損ねた。「悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ」のです。
日本語では伝わりにくいのですが、この み言葉をギリシア語の原文で読むと興味深い表現になっております。「豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み」は単数形、つまり「豚の群れ」を一つの単位として単数で書かれている。
しかし、「水の中で死んだ」は複数形になっているのです。つまり、豚の群れだけでなく、悪霊たちも死んでしまった、滅んだのです。本来、悪霊たちは世の終わりに滅びるはずなのに、まだそのときではないと思っていたのに、呆気なく滅んだのです。
救いが完成するのは、主イエスの再臨のとき、終わりのときです。しかし、それまでの世は悪の力、滅びの力、罪の力に屈服しているのではないのです。
主イエスは、既に勝っておられます。一言「行け」とお命じになられるだけで、悪霊を滅ぼされた お方です。圧倒的な力をお持ちの主イエスが、この後、どのような道を歩まれたか?悪霊の力に支配されてしまった世の人々の「殺せ!殺せ!」という叫び声に沈黙を貫き、十字架の上で呪いの死を引き受けられた。一声(ひとこえ)発せられさえすれば、それらの人々もろとも悪霊を滅ぼすことなど訳も無い主イエスが、そうなさらなかった。悪霊に負けた世の人々の身代わりとなり、神さまの怒りの矢面に立って死んでくださった。けれども、神さまは、その主イエスを勝利者として、甦らせてくださったのです。
主イエスは、父なる神さまを信じ、み心に従い、悪霊の力、滅びの力、あらゆる暴力に、愛をもって立ち向かい、愛によって勝利されたのです。
なお困難な日々が続くでしょう。ギスギスした心と心がぶつかる日もあるでしょう。けれども、私たちは悪霊を滅ぼされた神の子と結ばれたのです。神の子と結ばれた者として、闇の支配から解放されたのです。そのために、神の子
主イエスは、愛によって悪霊に勝利された。私たちも神さまに招かれ、神さまの愛に生きる者として世に遣わされた神さまの子どもなのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、闇が支配しているかのような世にあって、み子が成し遂げてくださった勝利を、私たちの確信とすることができますように。日々の生活において、主イエスの勝利を信じ、確かな歩みを造り上げていくことができますように。望みを持って生き、望みを持って死ぬことができますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。主よ、先週はペンテコステの恵みを感謝いたします。さらに求道を続けておられた姉妹への洗礼の恵みを感謝いたします。姉妹の歩みをこれからも祝福してください。主よ、この世を悪霊が支配していると錯覚してしまうような出来事が続いております。人種差別があります。暴動があります。殺人があります。私たちの心の闇を憐れんでください。私たちもそのような事件に心を奪われるとき、み子の勝利を忘れてしまいます。どうか、「行け」と命じられ、悪に勝利された み子の力を今こそ思い起こさせてください。本日から教会に連なる方々、教会学校の子どもたちとの礼拝を再開することができました。感謝いたします。皆さんと共に、礼拝の再開を祈り続けてまいりました。様々な状況が整い礼拝に出席できた者、残念ながら教会での礼拝を断念し、それぞれの場で賛美している者にあなたの愛と憐みを注いでください。新型コロナウイルスとの闘いは長期戦になりそうです。どうか、あなたの愛と憐れみを信じ、望みをもって生きることができますように。痛みを抱えている方、心が塞いでいる方、悲しみの中にある方を支え、導いてください。教会のために献身的に仕えておられる長老を強め、励まし続けてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年5月31日 日本基督教団 東村山教会 ペンテコステ礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第31章31節~34節、新約 使徒言行録 第2章1節~13節
説教題:「教会が命を受けた日」
讃美歌:546、68、181、21-81、500、545A    

聖霊降臨日。教会が命を受けた喜びの日を、私たちは今朝、それぞれの場で迎えております。教会に命が吹き込まれた日を記念するペンテコステの礼拝を皆さんと一緒に礼拝堂でささげることができないことは、淋しく思います。
けれども、今朝は、私たちの教会にとって、特別な朝です。嬉しいことに、先ほど、礼拝に先立ち洗礼式が執り行われました。昨秋から求道を続けておられた姉妹が、聖霊降臨の喜びの日に、信仰を告白し、父なる神、子なる神 キリスト、聖霊なる神の み名によって洗礼を授けられ、すべての罪を赦され、賜物として聖霊を注がれたのです。

ドイツの改革者マルティン・ルターは言いました。「聖霊降臨日、この日にキリストの み国は始まった。」聖霊降臨日に始まったキリストの み国は、聖霊の み力によって成長を続け、東村山の地でも拡がり続けております。驚くべき恵みであり、大いなる喜びです。

この日、弟子たちは聖霊の降臨を信じ、一つになって集まり、祈っておりました。弟子たちは、甦られた主イエスが天に上げられてから10日間、主に命じられた通り、エルサレムを離れず、聖霊が降るのを信じ、心を合わせて熱心に祈り続けていたのです。
すると、突然、その瞬間が おとずれた。激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いたのです。凄まじい音だったと思います。続いて炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったのです。そのとき、弟子たちの心が、体が、まるごと生まれかわるような驚くべき喜びに満たされました。それは、端(はた)で見ている人の目を通すと、ぶどう酒に酔っているように見えたのです。

13節に、「しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた。」と記されております。なぜ、このような み言葉が記されているのか?不思議に思います。敢えて記す必要がないようにも思えます。それでも、酒に酔うと陽気になり、声の大きくなる人がいることも事実です。ある神学者は、13節の み言葉をこのように語っておられます。

「このことから弟子たちに与えられた喜びがいかに大きく、かつ人々の目にあきらかにそれとわかる形であらわれたものであったかということが理解できる。私たちの信仰生活もこのように だれの目にも あきらかであるほどに喜びに満ちたものでありたい。」

聖霊に満たされた弟子たちは、“霊”が語らせるままに、堂々と、声を張り上げ、語り始めました。黙っていられなくなった。“霊”が語らせる言葉が、次から次へと口から溢れ出したのです。しかも溢れ出した言葉は、彼らが普段話すことも、耳にすることもない ほかの国々の言葉でした。
大きな物音に驚き、集まって来たユダヤ人たちの中には、様々な国で生まれ育った者たちがいて、懐かしい故郷の言葉で神さまの み業が語られているのを聞いたのです。

初めは呆気にとられていた人々は、聖霊によって力を受けたペトロの力強い説教によって悔い改め、「主イエスは私の救い主!」と信仰を告白し、その日のうちに、実に3,000人が洗礼を受けたと、聖書は告げるのです。
洗礼を受けた3,000人は、罪を赦され、賜物として聖霊を受けました。こうして、キリスト者の群れである教会が生まれたのです。教会が命を受けた喜び、キリストの み国が始まった喜びは、聖霊が導き、語らせるままに世界に拡がり、私たちの教会も命を受け、成長を続けているのです。
ペンテコステの日に始まったキリストの み国は、聖霊の力に満たされ、その力が溢れ出し、拡がっていく。私たちもキリストの み国に召され、キリストの み国に加えられているのです。何と言う喜び、何と言う恩寵でしょうか!

 私たちは酒に酔っているのではありません。主イエスが約束されたように、聖霊が降り、力を受け、教会が世界に拡がり、そして今朝、私たちの教会にも新しく救われ、神さまの子どもとなった者が加えられたのです。この喜びは、酒に酔って得られる喜びとは比較になりません。

 甦りの主イエスに出会い、回心し、洗礼を受け、「主イエスこそ、私たちの救い主」と生涯 語り続けたパウロは、このように聖霊を表現しました。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。(コリントの信徒への手紙一12:3)」
パウロの言葉を言い換えると こうなります。賜物として聖霊を受けた者なら誰でも、「主イエスこそ、私たちの救い主」と言える!ということです。

私たちに日々注がれている聖霊なる神さまの み声を軽んじてはなりません。私たちは聖霊を受けている喜びに慣れてしまってはいないでしょうか?私たちに働いてくださる聖霊の力にもっと信頼したい。「私など その器ではない」と黙ってしまうのではなく、「年をとってしまった」と諦めてしまうのでもなく、「主よ、どうぞ私を お用いください」と祈り求めたい。

教会に連なる私たちの使命は、聖霊の力を頂き、「主イエスこそ、私たちの救い主」と語り続けること。罪の赦しと永遠の命を語り続けることです。そのために私たちは日々、聖霊を注いで頂いている。力を受けているのです。教会は世界へと拡がり、聖霊の注ぎにより、日々、力を受けているのです。ご一緒に、聖霊の力を頂き、聖霊に信頼して立ち上がり、それぞれの賜物を用いて、喜んで、福音伝道の業に邁進してまいりましょう。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、聖霊降臨の恵みを お与えくださり、深く感謝いたします。それでも、愛する兄弟姉妹と共に礼拝堂で聖霊降臨の恵み、受洗者が与えられた恵みを喜ぶことができず、淋しく思います。主よ、どうかそのような私たちに霊の炎を注ぎ続けてください。たとえ どこにあっても主において一つであると信じる心をお与えください。聖霊によって力を受けた恵みを感謝し、喜んで語り続ける者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。主よ、祈り続けていた求道者の姉妹が信仰告白、洗礼へと導かれ、聖餐の祝いにも与ることが許され、深く感謝いたします。どうか、姉妹のこれからの歩みも、これまでと同じように導き、お支えください。数名での礼拝も2ヶ月となりました。今日は礼拝後に長老会を招集し、6月からの活動について協議いたします。どうか み心をお示しください。主よ、愛するお母さまを みもとへと送られた姉妹がおられます。どうか、復活の主の慰めを姉妹とご遺族の皆さまの上に溢れるほどに注いでください。主よ、教会の交わりに加え、様々な交わりを断たれ、孤独に苦しんでいる方々、懸命に医療に従事している方々、職を失い途方に暮れている方々、学校に通うことができず、在宅で学んでいる方々、様々なツールを用いて教育に従事している方々を強め、励まし、聖霊を注いでください。他者を裁く心ではなく 赦す心を、他者を貶(おとし)める言葉ではなく 励ます言葉をお与えてください。キュリエ・エレイゾン 主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。



2020年5月24日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 申命記 第31章6節、新約 マタイによる福音書 第8章23節~27節
説教題:「なぜ怖がるのか」
讃美歌:546、13、126、302、544  
 
皆さんは、教会から何をイメージされるでしょうか?多くの方は「十字架」を思い浮かべられるかと思いますが、「舟」も、古くから教会や その関連施設のシンボルマークとして利用されてきました。釧路におりましたときに園長を務めていた幼稚園のシンボルマークは舟であり、教会の外壁にも舟が描かれておりました。それは、今朝 私たちに与えられております み言葉に由来します。舟に乗り、主イエスと一緒に沖へ漕ぎ出すことに、主の弟子として生きることを重ねてイメージしたのです。
主イエスと弟子たちとの航海。それは、穏やかに晴れ、舟を前に進めるのにちょうど良い風が吹いている日ばかりではありません。
「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。」と、書かれています。
み言葉は、私たちに教えます。主イエスが乗っておられるからといって、激しい嵐が舟を避けてくれないことを。主イエスと共に歩む教会も、ときに、激しい嵐に襲われることがあるのです。
 実は、この「激しい嵐」と訳された言葉は、「激しい振動」、「地震」を意味します。地震ですから、湖の地底から突き上げるような激しい揺れです。福音書記者マタイは、嵐を表現するとき、それは、我々の立っている場所がぐらぐら揺らいで、ひっくりかえるようなものであることを示そうとしたのかもしれません。
 もしも、地震のような激しい嵐に襲われたら、私たちはどうすればよいのでしょうか?答えは単純と言えば単純です。「わたしに従いなさい」と招いてくださる主イエスに従い、主イエスがなさっておられるようにするのです。では、主イエスは大揺れの舟で何をしておられたでしょう?何と、眠っておられた。立っていられないほどの激しい揺れ。波にのまれ、舟は沈没寸前。そのようなこれまで一度も経験したことのないような非常事態の最中、主は眠っておられるのです。「どうにでもなれ!」と開き直っておられるのではありません。弟子たちの存在を無視しているのでもありません。
 主イエスは、神さまへの信頼のゆえに、どんなに激しい嵐、どんなに激しい揺れであれ、そこに枕を据えられるのです。立っている所がひっくり返るほどグラグラと揺れる大きな試練であっても、「それは絶対的なものではない!」と私たちに態度で示してくださるのです。
 けれども、その お姿は私たちにはすぐには理解できません。どうしてこんなときに眠っておられるのか!弟子たちは、主イエスにすがりつき訴えました。「主よ、助けてください。おぼれそうです」。
 私たちも、主イエスに従います!と誓い、洗礼を受け、主イエスの乗られた舟に乗り込みました。しかし、「こんなはずでは!」と叫びたくなるような試練に襲われることがあるのです。先月、主によって召された私たちの信仰の友が教会の印刷物であります『ぶどうの木』に記しておられます。
 「洗礼をうけて間もなく、難病(中略)にかかり、元気が取り柄であった私には、青天の霹靂でした。病の戦いの中で与えられた み言葉がコリントの信徒への手紙二 第12章9節でした。初めは、子育てと一進一退の病状の中で、み言葉を信じ素直に受け止めることが出来ませんでした。病の戦いが信仰の戦いでした。」
 私たちの友に与えられた み言葉、コリントの信徒への手紙二 第12章9節を朗読いたします。『すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』
 この方にとって、この み言葉が、「眠っておられる主イエス」となりました。この方も初めは、この み言葉を信じ、素直に受け止められなかった。しかし、「眠っておられる主イエス」を見つめ、み言葉から目を逸らさず、難病を受け止められない心、動揺する心と闘った。み言葉にすがりついて、闘ったのです。
 激しい嵐を怖れ、眠っておられる主イエスに必死にすがりついた弟子たちに、主は言われました。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」。弟子たちを突き放す言葉には思えません。その反対。憐れみに満ちている。「怖がることはない。あなたがたと同じ舟に私が乗っているではないか。それなのに、何をそんなにビクビクしているのか。何をそんなに怖れているのか。」
 主イエスは、「人の子には枕する所もない。」と言われました。つまり、この世には安心して眠るところがない お方として天から降って来られたのです。
 主イエスは、その一方で「激しい嵐が絶対的な力ではない」こともご存知であられる。激しい嵐に襲われても、父なる神さまの み心をどこまでも信頼し、眠ってくださるのです。主イエスはすべてをご存知。父なる神さまが私たちを見捨てることも、見放すこともないことを知っておられる。
 だからこそ、主は安心して、眠っておられる。その お姿を、私たちに示してくださる。「激しい嵐を怖れるな。安心して眠りなさい」と日々、私たちに語り続けてくださるのです。
主イエスは起き上がり、風と湖とをお叱りになられました。すると、激しい嵐が静まり、凪になったのです。
マタイは、その瞬間をこう記しました。「人々は驚いて、『いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか』と言った。」
「弟子たちは驚いて」ではありません。「彼らは驚いて」でもありません。あえて「人々は」と記した。「人々は」に思いを込めた。マタイの熱い思いとは、主イエスによる嵐を静める救いの出来事は、2000年前の舟、教会に乗っていた弟子たちだけの救いではなく、福音書を読む全ての人に約束された救いである。風と湖を従わせる主イエスを見なさい。激しい嵐に襲われ、波にのまれそうになっても、神さまの み心を信じ、安らかに眠っておられる主イエスを見なさい。み言葉の力に驚き、主イエスがどれほど力ある お方なのか、しっかりと心に刻んで欲しい!という熱い思いが込められているように思うのです。
確かに、嵐を嵐と思わず、嵐に飲み込まれない歩みは簡単ではありません。信仰の闘いがある。けれども主イエスは、東村山教会という舟にも乗り込まれ、平安を約束してくださった。本当に感謝なことです。その舟に私たちは今朝、離れた場所で礼拝をささげていても一緒に乗り込んでいるのです。激しい嵐に襲われても、足元がグラグラと揺れても、主イエスによって、嵐に支配されることはない。主イエスのように、信仰によって平安を勝ち得(う)るのです。
私たちは一人ではありません。力ある神さまが私たちと共におられます。力ある主イエスが私たちの舟に乗っておられる。地震のような激しい嵐も たった一言で静める力を持っておられる主イエスは、最も激しい闘いを十字架の上で闘い抜き、復活によって、私たちのために、永遠の平安を勝ち取られたのです。この確かな土台に立って、私たちも平安に眠る。自由に眠る。主イエスのおられる所で、主イエスのように、主イエスが約束してくださった平安に包まれて、天の国への舟旅を続けてまいりましょう。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、激しい嵐にうろたえ、たじろいでしまう私たちです。信仰の薄い私たちを、憐れんでください。主よ、信仰の薄さに、心を奪われるより、主イエスの大胆な眠りに、目を注ぐ者としてください。今、激しい嵐のような試練に襲われ、不安と緊張を抱えている方々を深く憐れみ、お支えください。どうか、騒がしい私たちの心を静め、安らかな心へと導いてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。主よ、牧師と数名の長老による礼拝が続いております。今日もそれぞれの場で礼拝をささげている信仰の友をお支えください。激しい嵐に襲われた弟子たちのように、私たちも、主イエスを仰ぐことより、激しい嵐に心を奪われ、うろたえる者です。主よ、激しい嵐に襲われているときこそ、安らかに眠っておられる主イエスを思い起こすことができますようお導きください。今、あらゆる交わりから引き離され、深い孤独に襲われている方々、もう二度と教会に行くことができないのではないか?と悩んでおられる方々に、主にある希望、主にある喜びを思い起こさせてください。主よ、来週に予定している受洗試問会を導いてください。どうか、受洗を志願しておられる方が明確に信仰を告白し、聖霊降臨日に、洗礼の喜び、聖餐の喜びを味わうことができますように。来週の主日、長老会を行います。礼拝再開に向けての祈りを深め、長老会に知恵と勇気を与え、み心にかなった協議を重ねることができますよう お導きください。主よ、悲しみの中にある方々、嘆きの中にある方々、医療に従事している方々に聖霊を注ぎ、主にある平安と希望を抱いて一日、一日を歩むことができますよう お導きください。キュリエ・エレイゾン主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。



2020年5月17日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 ダニエル書 第7章13節~14節、新約 マタイによる福音書 第8章18節~22節
説教題:「キリストに従う覚悟」
讃美歌:546、12、124、494、543   
 
主イエスによる数々の癒しを目の当たりにした群衆の興奮はどれほどだったでしょうか。人々は続々と集まってきます。もしも、主イエスが偽の預言者、偽善者なら、癒された人々を自分の周りにとどめ、人々から褒められるままにしたでしょう。けれども、主イエスは群衆の求める救い主、群衆を率い、広い道を進み、ローマ帝国の圧政からユダヤ民族を解放する理想の王になることを拒否されたのです。
主イエスは、天から遣わされた神の独り子として、ご自分の使命、神さまの目的を知っておられました。主イエスの眼差しの先には十字架があるのです。そうした細く険しい道を進むに当たり、主イエスは「わたしに従いなさい」と弟子たちに言われました。群衆から離れ、ガリラヤ湖の向こう岸に行くように弟子たちに命じられたのです。主イエスに癒して頂きたいとやって来た人々が まだまだいたはずです。それらの人々をそのままにして湖の向こう岸に行くことは、主イエスにとって痛みであり、試練だったに違いありません。
悪魔がささやくのです。「お前は、こんなにも癒して欲しいと懇願している群衆を見捨てるのか?本当に神の子なら、彼らのもとにとどまり、すべての者を癒すべきではないか?」第4章で読みました「荒れ野の誘惑」が再びここで具体的な形として描かれているように思います。しかし主イエスは悪魔の誘惑に負けることなく、十字架への道を歩まれるのです。
そのとき、群衆の中からある律法学者が進み出ました。「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」。けれども、主イエスは不思議な み言葉を発せられました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
鍵になる言葉は、「人の子」です。今朝のこの箇所以外にも、主イエスが ご自分のことを「人の子」と表現されている み言葉は福音書の中にいくつも見つけることができます。マタイは、「旧約聖書ダニエル書の預言が主イエスによって実現したのだ」と信じ、喜んで記したのです。主イエスが ご自分を「人の子」と言われたとき、主イエスの お心にあったのが先ほど読んだダニエル書第7章13節〜14節の み言葉だと思われます。改めて一部を朗読いたします。「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り/『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み/権威、威光、王権を受けた。」
律法学者の頭に浮かんでいたのも、同じ み言葉だったかもしれません。律法学者も このダニエル書に描かれた栄光に満ちた救い主の姿を主イエスに見た。だからこそ従いたい!と申し出たはずです。けれども、主イエスは言われる。「私は父なる神さまから遣わされた『人の子』。やがて、そのような姿で再び世にあらわれるが、今、この地上においては枕する所もないのだ。」
神さまの権威を持っておられる方が、安心して眠る所がない、とおっしゃる。神さまのご支配を見失い、思い煩いの渦(うず)に巻き込まれている私たちと同じ者になってくださったというのです。父への信頼のゆえに、あらゆる思い煩いから自由であるはずの父なる神さまの み子が、私たちと共に生き、枕する所のない者となってくださる。私たちに天というふるさとを用意し、神さまの子どもとして迎え入れてくださるために、み子は天のふるさとを離れ、「人の子」となられた、とおっしゃるのです。律法学者は、面食らったことでしょう。
さて、いよいよ「湖の向こう岸へ行こう!」となったときです。弟子の一人が主イエスに申し出ました。先ほどの律法学者と違うのは、すでに主イエスの弟子になっているところです。本来であれば、ただただ主イエスに従い続ける者です。それなのに、いざ、となったときに慌てて、向こう岸に行く前に、「父の葬りをさせてほしい」と言い出したのです。ドキッ!とします。私も父親が亡くなったら、実家に駆けつけたい!と願うでしょう。私を愛し、育み、祈り続けてくれた父母の葬りは大切。主イエスの時代も、律法に「汝の父母を敬え」とあります。
けれども、主イエスは命じられた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」そして、主イエスは舟に乗り込んでしまわれるのです。この弟子がどうしたのか、聖書は教えてくれません。今朝、私たちも、主イエスから「わたしに従いなさい」と招かれています。覚悟を問われているのです。
それにしても、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」とはどういうことでしょうか。ここでも、主イエスが「人の子」として私たちの中に飛び込んでくださったことを思い起こしたい。十字架と復活によって、私たちに天という ふるさとを用意してくださり、神さまの子どもとして迎えてくださった恵みを胸に刻み直したい。
主イエスは、父なる神さまによって世に遣わされ、苦しみを受け、十字架で私たちの身代わりとなって神さまに審かれました。主イエスに従い、舟に乗り込んだ弟子たちも、主の十字架に背を向け、主イエスを裏切ったのです。
そのような弟子たちのためにも 主イエスは十字架の死を成し遂げられ、復活によって永遠に天のふるさとに憩う者としてくださった。この救いは、弟子たちにとどまりません。父の葬りをしたいと願った弟子の父親、また私たちも、この救いに招かれているのです。私たちのため、さらに主の救いを知らない愛する者たちのためにも、主イエスは復活によって死に勝利してくださった。そして、天に昇り、今は、全能の父なる神さまの右に座っておられる。そして、来たるべき終わりの日、生ける者と死ねる者とを審くために再び世にいらしてくださるのです。
主イエスによる審きの日は、喜びの日、慰めの日です。審かれるべき私たちの罪は、主イエスが担い、取り去ってくださったからです。十字架によって、私たちが受けるべき呪いを引き受けられた。だからこそ私たちは、たとえ試練や迫害の中にあっても、うなだれた頭を天に挙げ、「人の子」主イエスの再臨を待ち望むことができる。再臨のとき、ダニエルの預言が成就する。「人の子」によって、永遠の国が完成し、新しい時代が始まるのです。
神さまから、主イエスに託された大いなるつとめは、この世の「葬り」ではありません。葬りの先にある永遠の命。生きている者、すでに死んだ者、全ての者の救いです。だからこそ主イエスは「わたしに従いなさい。父の葬りは真の命を知らない者たちに任せ、あなたはあなたのつとめに励みなさい」と言われるのです。
主イエスの救いに招かれた者のつとめ、主イエスに弟子として召し出された者のつとめ、それは、主イエスによって成就された永遠の命を宣べ伝えることです。天の国の完成のための備えをすることです。たとえそれらが、身内からは面と向かって罵られ、世間からは「何と言う恩知らず!親不孝者!」と陰口を叩かれることであっても。
主イエスは、そのような陰口を叩かれる代表として、枕するところのない日々を過ごされました。私たちは主イエスに従う僕。この世の論理、しきたりから自由になって、主イエスのあとに喜んで従う僕なのです。
私たちの国籍は天にあります。よって、主イエスのように、私たちにもこの世に枕する所はないのです。私たちは信仰を告白し、洗礼を授けられました。そのような私たちは、終わりの日の喜びに向かって、人の子に従い続ける覚悟を求められるのです。
私たちは今、主イエスの道を歩いています。主イエスの道を、先を歩まれる主イエスの背を見つめつつ、主にある兄弟姉妹と一緒に歩いている。私たちの歩みには喜びがあり、平安があり、そのゴールには私たちのふるさと、神の国、天の国があるのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちの心を天の国へ引き上げてください。この世に生かされるかぎり、天の国を用意してくださった、主イエスの背を見つめつつ、どのようなときも、確かな歩みをしていくことができますように。望みを持って、主の栄光を現すことができますように。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。主よ、新型コロナウイルスの猛威により 世界が混乱し、対立が深まっております。疑心暗鬼になっております。どうか、創造主なるあなたのみを畏れる心をお与えください。さまよう私たちを憐れみ、主にある平安をお与えください。希望を失い 闇の中にある方々、疲れ果て 立つことのできない方々、今、この時も医療に従事している方々を憐れみ、生きる希望をお与えください。巷には他者を憎み、ののしる言葉が溢れています。どうか、他者をののしる言葉ではなく、他者を励まし、慰める言葉を語る者としてください。本日は、教会学校もオンライン礼拝をささげることができました。淋しい思いをしている子どもたちを強め、励ましてください。今朝も、それぞれの所で礼拝をささげている兄弟姉妹を憐れみ、祝福を注ぎ続けてください。特に、体調を崩している方々、痛みを抱えている方々、「私は誰からも必要とされていない」と心が塞いている方々を強め、励ましてください。「神さまに必要とされない人は誰一人いない」との愛の真理を忘れることがないよう導いてください。キュリエ・エレイゾン主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。



2020年5月10日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第53章1節~12節、新約 マタイによる福音書 第8章14節~17節
説教題:「奇跡が指し示す光」
讃美歌:546、24、269、527、542、427    

主イエスが 故郷(ふるさと)ナザレを出て、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、多くの人々に神の国を宣べ伝え、奇跡を行い、最期 十字架で息を引き取られるまでの期間は、短い説で1年、長い説で3年ほどのようです。そのように短い日々の日常がどのようなものであったのか、マタイは私たちに教えてくれています。
少しずつ、時間をかけて読んでまいりました山上の説教から、今朝の癒しのみ業まで、マタイは一日の出来事として書いています。実際に一日の出来事だったのかわかりませんが、主イエスの日常が、休む暇(いとま)もなく人々に仕えるものであったことがわかります。
主イエスは この日、朝から小高い山に登られ、山上の説教と呼ばれる たくさんの み言葉を語られました。説教が終わり、山から下りられると、重い皮膚病の人を癒され、ローマの百人隊長の僕を癒され、「一休みしよう」と思われたのかもしれません。ペトロの家へ向かわれました。すると、ペトロのしゅうとめが熱を出して寝込んでいたのです。
主イエスは、しゅうとめの手に触れられました。すると、しゅうとめの熱は下がり、元気になったのです。癒されたしゅうとめは 起き上がって主イエスをもてなしました。けれども、主イエスの一日はまだ終わらない。夕方になると主イエスの癒しの奇跡を目の当たりにした人々が、悪霊に取りつかれた大勢の人を連れて来たのです。
もう日も暮れかけている。一日中、人々のために働かれた主イエスの疲労はどれほどだったかと想像するだけでクラクラします。けれども、主イエスは「言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」のです。
文字通り“息つく暇もない”一日です。おそらく、これが主イエスの日常。人々に仕え、人々に尽くし、一日一日を過ごされた主イエス。そのような日々が十字架の死へと続くのです。
だからマタイは、「それは」によって、16節から17節へ繋ぐのです。「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』」
今朝は マタイによる福音書に加え、旧約聖書 イザヤ書 第53章を朗読して頂きました。マタイが引用したのは、イザヤ書 第53章4節の み言葉です。改めて、朗読いたします。
「彼が担ったのは わたしたちの病/彼が負ったのは わたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。」
マタイは宣言します。「イザヤの預言が、主イエスによって成就された」と。今朝のマタイによる福音書 第8章17節には、旧約聖書と新約聖書を結ぶ虹のような七色の光が輝いているように思うのです。
17節の「病を担った」と訳された原語には、病をただ「担う」という意味に加え、病を「背負って、持って行ってしまう」、病を「取り除いてしまう」という意味であるようです。そのように、主イエスがお生まれになるより何百年も前に書かれたイザヤの預言が、主イエスによって実現した!とマタイは喜び、書き記した。主イエスは、私たちの患い、病のために休まず働かれ、仕えられ、十字架の死によって「私たちの病を背負って、持って行ってくださった」と、主イエスの お姿を私たちに正しく教えてくれているのです。
新型コロナウイルスの流行により、普段は健康なつもりでいる私たちの病が、今まさに暴露されているように思います。病とは、単にウイルスへの感染だけではありません。病のもたらす不安に とらわれてしまって、途方に暮れてしまう。疲れ果ててしまう。絶望し、破れかぶれになってしまう。八つ当たりをする。他者の行動が許せない。見えないウイルスに怯え、差別的になる。気がつくとしかめ面になっている。文句が増える。
これが私たちの病んでいる日常です。普段は自分でも気がつかないかもしれませんが、ふとしたことであらわになる私たちの病。そして、そのような病の根底にあるのが、「神から見放された」と思い込んでいる孤独。「死んだらおしまい」という恐怖。神さまの光りに背を向ける闇。そのような「罪」こそが、私たちの「病」に他なりません。
けれども主イエスは、私たちのそうした病を愚かな罪として放置されることはありませんでした。主イエスは、神さまと等しい身分であるにもかかわらず、私たちが あえいでいる苦しみの中に飛び込んでくださった。主イエスは、どこまでも低く低くかがみ込み、私たちに仕え、尽くし、十字架の死に至るまで、私たちに仕え抜いてくださった。私たち全ての者の病を背負い、持って行ってくださったのです。
マタイによって示された主イエスの お姿は、闇を照らす光です。日常生活において、主イエスの お姿を正しく思い浮かべることは非常に大切。主イエスは、私たちの歩むべき道を照らす光なのです。
主イエスは山上の説教において、「幸いである」と、病とは無縁な、朗らかで、健やかな日常を語ってくださいました。先ほど述べた私たちの病める姿と対極にあるものです。
けれども、主イエスは 私たちに 到底無理な超人的な生き方を要求しておられるのではありません。「山上の説教における健やかな日常、神さまに造られて、天から賜る恵みを となり人と分かち合って生きる日常は、病を癒され 元気になったあなた本来の生き方なのだよ」と主イエスは私たちに教えてくださるのです。
主イエスに癒して頂いたペトロのしゅうとめは、起き上がって 主イエスをもてなしました。この「もてなした」と翻訳された原語には、「サービスをした」、「仕えた」、「奉仕した」という意味があります。
今朝、私たちは、心をひとつにして、病からの解放を祈りつつ、この祈りの先にある 私たちのあるべき姿を見ています。ペトロのしゅうとめの、主イエスに癒して頂いた喜びに満ちて 仕える姿です。それは、休む暇(いとま)もなく私たちに仕えてくださり、十字架によって私たちの患いを背負い、私たちの病を持って行ってくださった主イエスに倣い、生涯 主イエスに仕える姿です。
どこにいても、私たちは主イエスが示された愛の業を行うことができます。主イエスの十字架によって、病を癒して頂いたからです。「主イエスが癒してくださったから、愛に生きることができる」と信じる。信じて行う。それこそが私たちの信仰なのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、み子の十字架によって私たちの病を癒し、取り去ってくださったことを深く感謝いたします。どうか、恵みに信頼して、み子が示された愛の業に生きるものとしてください。喜んで仕えるものとしてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の み心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。主よ、緊急事態宣言が延長されました。なお暫くの間、愛する方々と共に礼拝をささげることが叶いませんが、どうか、どこにあっても喜んで主を賛美し、礼拝する心をお与えください。新型コロナウイルスの猛威により、私たちの病が露呈されております。どうか、主が共におられ、私たちの病を担われた恵みを思い起こすことができますように。どうか、医療現場で奮闘している方々、ライフラインをまもり続けている方々、教育、保育現場で奮闘している方々、介護現場で奮闘している方々、先の見えない不安に日々、襲われている方々を強め、お支えください。主よ、新型ウイルスを一日も早く終息させてください。同時に、様々な病で苦しんでいる方々が大勢おられます。どうか、病に苦しむ方々が いつの日か「主イエスこそ、私の救い主」と信仰を告白し、洗礼の恵みへ導かれますよう お導きください。キュリエ・エレイゾン主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年5月3日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 サムエル記下 第7章28節~29節、新約 マタイによる福音書 第8章5節~13節
説教題:「ただ、みことばをください」
讃美歌:546、187、Ⅱ-80、21-81、267、541   

5月、第1の主の日となりました。自宅での祈りのときにも、主は共にいてくださいます。外出自粛期間は尚しばらく続きますが、主から賜る祝福と平安を感謝し、喜び、賛美しつつ、一日、一日を過ごしてまいりましょう。

大切なみ言葉があります。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる(マタイによる福音書 4:4)」。主イエスが荒れ野で悪魔から誘惑を受けられたときの み言葉です。今朝も父なる神さまは命の糧である み言葉を備えてくださいました。ご一緒に読んでまいりましょう。

百人隊長と呼ばれる人物が登場します。ローマ帝国の支配下にある異国から来た兵隊100人の隊長です。複雑な立場であったようです。ローマの権威を委ねられているとはいえ、「我々は、父なる神さまから選ばれた特別な民」との民族意識の強いユダヤの人々から見れば、百人隊長は よそもの。神さまの救いの外にあると考えられていました。ましてや、にっくき支配者、ローマの手先である。そのような ユダヤの民との関係性を背景に、主イエスによる 癒しの出来事がおこったのです。
「さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、『主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます』と言った。(5節~6節)」
カファルナウムという町に主イエスが入られました。カファルナウムは、ガリラヤ湖 北西岸、小さな入江にあり、主イエスがガリラヤ伝道の拠点とされた町です。当時の人口は約5万人。東村山市の人口が約15万人ですから、三分の一の規模です。それでも当時、カファルナウムは通商の中心地であり、ガリラヤ湖畔 随一の繁栄を誇っておりました。通関料を取り立てる収税所があり、百人隊長指揮下の ローマの軍隊も 駐屯していたのです。ユダヤの人々から、よそ者と見下されていたとはいえ、それでも、カファルナウムで百人の兵隊をローマ帝国から任されていたのですから、権威があったことは間違いありません。その百人隊の隊長が主イエスに近づき、懇願したのです。「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」。
ひれ伏して「主よ」と懇願した。「わたしの主よ」とひざまずいた。そして、「わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と訴えました。
「主よ、わたしの僕を清くしてください」でも、「わたしの僕を癒してください」でもありません。主イエスに、僕の苦しみを伝えただけ。「主よ、御心ならば」という信仰が、ここに表れていると思います。
主イエスは答えて、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われました。もしも私が隊長であれば、「ありがとうございます!すぐにいらしてください。本当に助かります」と、主イエスの手を引っ張り、走り出したかもしれません。けれども、百人隊長は こう言いました。
「主よ、わたしは あなたを自分の屋根の下(した)にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕は いやされます。わたしも権威の下(もと)にある者ですが、わたしの下(した)には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他(た)の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。(8節~9節)」
「私には、あなたさまに わざわざいらして頂く資格など これっぽっちも ございません」と へりくだるのです。そして、主イエスの み言葉の力を100%信じている。「言葉だけでは不安、実際に手を触れて頂かなければ信じられない」ではないのです。主イエスの手を引っ張り、走り出すことなど これっぽっちも感じていない。「ただ、みことばをください」と、主イエスの みことばの力を信じている。神さまの権威の圧倒的な力を心得ているのです。

主イエスは、百人隊長の信仰に驚かれました。ユダヤの民にとって神さまの救いの外にあると見られていた異邦人が、主イエスの前に徹底してへりくだり、徹底して信頼していることに、びっくりされたのです。それから、「神の民」を自負するユダヤの民にも、これほどの信仰を見たことがないと嘆きつつ言われました。
「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。(10節b~12節)」
キリストの「キ」の字も知らない人々が東や西から大勢やって来て天の国に入るのに対し、一所懸命に祈り、犠牲をささげ、神さまの み前に正しい生活をしてきた、と自負する者たちが 天の国の門から外の暗闇に追い出され、泣きわめいて歯ぎしりすることになる。そのことを主イエスは心から嘆いておられる。その上で百人隊長に言われたのです。

「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。(13節)」すると、そのとき、つまり主イエスの み言葉が発せられた瞬間、僕の病は癒されました。
どうしても私たちは「信仰」を小難しく考えてしまいます。「今こそ、信仰を失わないように頑張る。」「私は、あの人のようにしっかりとした信仰がなくて情けなくなる。」このように信仰の小ささを嘆くことが多い。
けれども、主イエスが求めておられる信仰は、「ただ、みことばをください」と ひざまずく信仰。百人隊長の「ただ、ひと言おっしゃってください。」なのです。信仰は、「どれだけ苦労してきたか」とか、「どれだけ損をしてきたか」とか、「どれだけ熱心だったか」とか、そういうものではありません。信仰は、今日、今 ここで聞いた み言葉を、幼子のように ただ信じれば 完全なのです。

今朝も限られた讃美歌のみの礼拝なので歌うことはできませんが、それでも祈りつつ、3曲を選びました。その一つが、第2編80番、『み言葉をください』です。3節の歌詞を紹介いたします。「み言葉をください、草におく露のように、生命の主よ。人と人との こころかよわず、争いなやむ 世界のために。」
この歌詞のとおり、今 世界は人と人との心が通わず、争い、悩みの中にあります。けれども、主イエスはそのような私たちに憐れみの眼差しを注ぎつつ、命の糧を用意し、食べさせ、慈しみ、育んでくださるのです。私たちはいくつになっても神さまの子ども、父なる神さまに食べさせて頂かなければ、すぐに飢えて、死んでしまう無力な幼子。それが私たちです。父なる神さまの み前に自分の業を誇るのではなく、低く低く、幼子として「主よ、今日も命の み言葉をください」と祈り求めればよいのです。主は、私たちの祈りを待っておられます。

私たちは今、神さまから問われています。「あなたを生かしているものは 何ですか」。私たちには、命の糧である み言葉がある。み言葉そのものである主イエスが、今日も私たちと共におられる。幼子のように信じる心で絶えず祈り求めたい。「主よ、ただ みことばをください。心かよわず、争い悩む 私たちのために。」

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、今朝も 命の糧である み言葉を感謝いたします。主よ、みことばをください。心かよわず、争い悩む 私たちのために。主よ、愛し合い、赦し合い、祈り合い、支え合う者としてください。主イエス・キリストの み名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。主よ、新型コロナウイルスの猛威により、世界中が悩みの中にあります。人々が皆、疲れを覚え、攻撃的になっているように感じます。どうか、私たちを憐んでください。希望を失っている方々、不安を抱えている方々、差別されている方々、嘆きの中にある方々に愛と憐れみを注ぎ続けてください。「愛されない」と嘆く者でなく、愛する喜びに生きる者としてください。全国、全世界の教会を励まし、導いてください。困難な時だからこそ、み言葉を語り続ける教会を用いてください。神さまを知らず、さまよい続けている人々に命の糧である みことばを届けることができますように。キュリエ・エレイゾン主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年4月26日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 エレミヤ書 第17章14節、新約 マタイによる福音書 第8章1節~4節
説教題:「主よ、御心ならば」、
讃美歌:546、7、298、512、540  


愛する皆さまの上に、私たちの内に生きて 働いてくださる主イエスの祝福と平安がありますよう お祈りいたします。

4月26日 第4主日の朝となりました。皆さんと礼拝堂で、礼拝をささげることができなくなり 1ヶ月が経とうとしております。心が萎えてしまいそうになります。けれども、インマヌエルの主が私たちと共におられます。今日も、私たちに必要な命の糧である み言葉をくださいます。神さまは、み言葉により私たちを生かし、励まし、慰めてくださるのです。
多くの感染症がそうであるように、新型コロナウイルスに感染された方々も差別と偏見にさらされています。いつの時代も、人々から恐れられ、忌み嫌われる病が存在するのです。
聖書の時代、ユダヤの社会では、重い皮膚病は、汚れた病として律法で規定され、祭司から「清くなった」と認めてもらえなければ、たとえ息があっても、社会的には「死」を宣告されたような病でした。
旧約聖書レビ記に こう書かれています。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。(レビ記13:45~46)」
けれども、今朝の み言葉に登場する重い皮膚病患者は、大胆にも規定を破り、主イエスに近寄り、ひれ伏して、言ったのです。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります(マタイによる福音書 8:2)」。
これほど大胆な信仰告白があるでしょうか?「主よ!」と呼び、告白するのです。「私の主、私の救い主はあなたしかおりません。」そして、「御心ならば」と続ける。「あなたが神ならば、私を救ってくださるのは当然ではないですか!」と救いを強要するのではありません。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」なのです。
神さまの権威の前に ただただ ひれ伏し、「私を清くすることがおできになるのは、あなたのみ」と告白し、御心に信頼するのです。
すると、主イエスは手を差し伸べ、その人に触れられました。重い皮膚病の人に近づくだけでも「汚れる」と言われていたのに、主は手を差し伸べられた。

ところで、新共同訳聖書の「重い皮膚病」は、口語訳では「らい病」、新しい聖書協会共同訳では、「規定の病」と翻訳されております。
日本聖書協会は、「適切な訳語をめぐって『らい病』から『重い皮膚病』へと改訳されてきたヘブライ語『ツァラアト』(ギリシア語では『レプラ』)については、特定の病を指す差別的なニュアンスを避け、『律法で規定された病』との意味合いで『規定の病』と訳すことにした。」と解説しています。いずれにせよ、律法で規定され、社会的に「死んだ者」というレッテルを貼られた者の痛み、悲しみは同じ。「汚れた者」として忌み嫌われ、見殺しにされ、律法によって規定され、人里離れたところで暮らさなくてはならなかった。そのような深い痛みを抱えている人を主イエスは見捨てない。手を引っこめない。深い痛み、苦しみ、悲しみに手を伸ばし、触れてくださる。そして、「よろしい。清くなれ(マタイによる福音書 8:3)」と言われたのです。
「よろしい。癒されよ」ではなく、「よろしい。清くなれ」です。主イエスはなぜ、「癒されよ」ではなく、「清くなれ」と言われたのか?病を癒すだけではなく、「御心を成し遂げる」覚悟がおありだからです。
「御心」とは、全ての者が主イエスの ゆえに清い者となる。汚れた者、律法によってはじき出される者ではなく、全ての人に、清い者として生きて欲しい。そうした御心を成し遂げるために、主イエスは世に来てくださったのです。

山上の説教を語り終えた主イエスは、多くの癒しをなさいました。それは、何か特別な力を誇示するためでなく、「誰一人、無駄な命はない。誰一人、神の救いから漏れてはならない。神は全ての人の救いを欲しておられる」との御心を伝えるためです。
主イエスは、「汚れた者」として社会から分断されてしまった者を解き放ってくださる。社会だけでなく、自分でも、「捨てられた者」、「神から見放された者」と思い込んでいる者に、手を触れ、引き上げ、救いの み言葉を与えてくださる。そして、主イエスの進まれる道は、十字架へと続くのです。
主イエスは、山上の説教で語られたように、律法を廃止されません。むしろ、「律法に従い、社会的な地位を取り戻すように」と、このように言われました。
「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。(マタイによる福音書8:4)」その上で主イエスは、御心に従い、十字架の死を成し遂げ、三日目の朝、甦られました。神さまの律法を完成し、神さまの愛の御手の中に私たち全ての者を「清い者」として取り戻すために。この恵みを忘れてはなりません。


先の見えない不安の中、愛する姉妹が召されました。けれども、主イエスが手を引っ込められることはありません。悲しい別れに心が乱れるときも、孤独に心塞ぐときも、「主よ、御心ならば」とひたすら御心に信頼して、与えられた命を 弱いながらも、罪深いながらも、悔い改めつつ、「主の御心に生きよう」とする私たちに、主は御手を差し伸べて 触れてくださる。そして、「あなたは清い。私の十字架と復活の故に」と宣言してくださる。「清い者」として生かしてくださる。
ご一緒に、主から与えられる かけがえのない日々を、「主よ、御心ならば、あなたによって清くされた私を あなたの手、あなたの足として用いてください」と祈り続けたい。そして、主の救い、主の清さを頂いた喜びに溢れ、主の御心がなることを祈り求めてまいりましょう。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と日々、信仰を告白することができますようお導きください。主よ、罪にうずくまる日があります。しかし、あなたはそのような私たちに御手を差し伸べ、触れてくださり、十字架と復活によって罪を清めてくださいましたから感謝いたします。どうか、清くされた者として、主の栄光を現わす者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。主よ、愛する姉妹が天に召されました。深い悲しみの中にあるご遺族、教会に連なる私どもに十字架と復活、そして再臨の主イエスの慰めを豊かに注いでください。主よ、新型コロナウイルスの猛威により、世界が悲しみ、痛み、嘆き、苦しみ、不安に襲われています。世界中が差別と偏見の罪に蝕まれているように思われます。特に、困難な状況でも日々、医療の現場で働き続けている方々を強め、お支えください。子どもたちも自宅での生活を余儀なくされております。学校、教会にも通えず、友達にも会えず、淋しい思いを抱えております。主よ、どうか不安の中にある全ての者の孤独に、悲しみに、苦しみに、御手を差し伸べて触れてください。み言葉をください。御心に信頼する喜びを知ることができますように。キュリエ・エレイゾン主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


2020年4月19日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教 説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 詩編 第92篇1節~16節、新約 マタイによる福音書 第7章24節~29節
説教題:「キリストの言葉に生かされて」
讃美歌:546、1、Ⅱ-111、304、539   
        
先週は、新型コロナウイルス感染防止のため、司式の長老と動画配信をしてくださる長老、そして私の3名でイースター礼拝をささげました。
4月5日の主日礼拝以降、教会に連なる皆さんと共に礼拝をささげることができていないことは、やはり淋しいものです。今、お一人で生活しておられる方は、なおさらでしょう。主の日に教会に行けないことは、淋しいというより、大変に辛いことです。
昨年7月28日から、今日4月19日までの9ヶ月、主イエスの山上の説教に耳を傾けてまいりました。昨年の夏、まさか3人で礼拝をささげる日が来るとは、考えもしませんでした。東村山教会だけでなく、今、全世界の教会が、猛烈な嵐の中にあると言ってよいと思います。そのような中、今日 山上の説教を読み終えます。主イエスが山上の説教の最後に語られたのは、「砂上の楼閣」という ことわざの語源にもなった「家と土台」の譬えです。
「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。(マタイによる福音書 7:24~27)」
私たちにとって、「岩」とはなんでしょう?主イエスは言われます。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」すなわち「岩」は、主イエスの み言葉、山上の説教で語られた私たちの宝とも言うべき み言葉です。そしてまた、その宝の み言葉を、身をもって実践された主イエスご自身でもあります。
改めて、山上の説教を思い起こしてみましょう。主イエスから、たくさんの課題を頂きました。「腹を立ててはならない。」「復讐してはならない。」「敵を愛しなさい。」「良いことをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」「明日のことまで思い悩むな。」「人を裁くな。」等の行いの数々。
毎週の説教でも語ってまいりましたが、どの み言葉も、到底、自分の力では行うことができないことばかり。自分の努力や誓いの言葉は砂のように もろいものです。嵐のような苦難に襲われると、主イエスの み言葉を実践することが難しくなる。つまり、主の み言葉の前に私たちは皆、倒れるしかないのです。
私たちは、一人の例外もなく、これらの主イエスの み言葉によって審かれるべき存在です。主イエスの審きによって倒れ、火に投げ込まれる存在なのです。にもかかわらず、今、私たちは生かされ、なお主イエスから「私の言葉を行いなさい」と招かれている。諦められていない。主イエスは、「それでも あなたがたは私の言葉を行うことができる」と言われる。なぜ、そのように言って頂けるのでしょう?私たちは、主イエスの十字架によって主と共に倒された その場所で、主イエスの復活によって 主と共に甦らされ、立ち上がらせて頂き、み言葉に立ち続ける者とされたからです。それこそが、「洗礼」という出来事です。そのようにして、私たちは岩の上に自分の家を建てた「賢い人」として頂いたのです。
つまり、真面目に堅実に生きる人が賢い人ではありません。自分の力を信じ、歯をくいしばり、頑張って、苦労して、岩の上に家を建てるのではないのです。 
主イエスの み言葉に立ち続ける私たちの人生は、岩によって囲まれ、守られています。たとえ、家を倒すような豪雨、濁流、突風にもビクともしません。もうダメだ!と逃げ出したくなるときも、主イエスの み言葉が力を与えてくださる。十字架と復活の主イエスが平安へと導いてくださる。だから、私たちは倒れない。頑丈な岩である主イエスの み言葉は、私たちを悔い改めへと導き、赦し、永遠に生かしてくださる土台なのです。
使徒パウロは、山上の説教の み言葉を私たちのために実践し、真実のものとしてくださった主イエスの従順を、フィリピの信徒に宛てて書き送りました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピの信徒への手紙2:6〜8)」

主イエスは、神さまと等しい お方です。にもかかわらず、私たちのところにまで低く低く降りて来てくださった。そして、私たちに み言葉をくださり、神さまの み心に従い 十字架の死を成し遂げ、復活によって、永遠に滅びることのない「岩」となってくださった。神さまに従っているつもりでいながら、神さまに背を向け、主イエスとは無関係な砂の上に家を建て、その立派さに惚れ惚れしている愚かな私たちの主となってくださったのです。「山上の説教」は、このような驚くべき恵みを私たちに指し示すのです。
新型コロナウイルスという嵐が吹き荒れる今こそ、私たちの土台が明らかにされます。私たちは、主イエスの み言葉によって倒して頂いた者たち。私たちは、十字架の主イエスと共に倒され、十字架の主イエスと共に死んだのです。

けれども、主イエスは甦られた。私たちも 甦りの主イエスと共に新しい命を与えられ、主イエスによって 立ち上がらせて頂いたのです。そして今日も、私たちの中に復活の主が生きておられ、私たちの岩となってくださり、私たちの主となってくださる。私たちを支えてくださる。だからこそ、私たちは激しい嵐にも倒れることなく、主イエスの道を歩むことができるのです。
主イエスこそ、激しい嵐にも揺るがない岩。主イエスこそ、私たちの主人。私たちは、私たちの中に生きておられる復活の主イエスの手足となって歩む僕(しもべ)。主イエスを主人として生きるとき、私たちは自ずと、土台とする岩の確かさを証ししているのです。
キリストの み言葉に生かされ、キリストの み言葉に力を頂き、キリストの手足となって歩み続ける。私たちが無力であるからこそ、キリストの力が働き、み心を行うことができる。キリストが良い実を結ばせてくださるのです。
私たちは日々、岩なる み言葉によって、支えられ、導かれています。今朝も、私たちは離れて礼拝をささげております。しかし、同じ岩を土台として立っている。私たちは 十字架と復活の主イエスによって繋がっているのです。たとえ激しい嵐の中にあっても。この大いなる恵みを、共に主に感謝いたしましょう。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる御神、山上の説教を読み終えることがゆるされ、心より感謝いたします。主よ、岩なる み言葉によって私たち一人一人を支え、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。新型コロナウイルス感染防止のため、今日も3名での礼拝となりました。主よ、それぞれの場で礼拝をささげている兄弟姉妹を支え、導いてください。主よ、新型コロナウイルスに感染した方々が、差別と偏見を受けております。さらに、家族、また医療に従事しておられる方々まで差別と偏見を受けております。私たちの罪を お赦しください。主よ、深く傷ついていらっしゃる方々を憐れんでください。私たちも、先の見えない不安の中にあります。どうか、このようなときこそ、岩なる み言葉を支えとし、共に愛し、共に赦し、共に憐れみの心で接し合う者としてください。特に、激しい痛み、深い孤独に襲われている方々を慰め、深い愛で包んでください。主よ、教会員のご夫妻に新しい命があなたから与えられましたから感謝いたします。主よ、新しい命の上に、また三人になったご家庭の上に、祝福を豊かに注いでください。キュリエ・エレイゾン
主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。



2020年4月12日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教(イースター礼拝)  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 イザヤ書 第25章6節~10節、新約 ヨハネによる福音書 第20章24節~29節
説教題:「道は、続いている。」
讃美歌:546、153、243、Ⅱ-1、385、545B、Ⅱ-167
        
 私たちは今朝、特別な思いを抱いてイースターを迎えました。イースター、主イエスが死に勝利された喜びの日。主が永遠の命を勝ち取られた日。見ないのに、主の復活を信じる者にとって、歓喜の叫びをあげる日。高らかに復活の主を賛美する日です。
 しかし、今年のイースター、何とも複雑な思いを抱えております。主イエスを愛し、主の甦りを信じる私たち。それなのに、新型コロナウイルスの流行により、イースター礼拝を、愛する兄弟姉妹と共に礼拝堂でささげることができない。動画配信を見ることができるならまだ良いのですが、それもできない方は、淋しさの中でイースターの朝を迎えておられるかもしれません。その思いは、今朝の御言葉に登場する主イエスの12弟子の一人、ディディモと呼ばれるトマスの複雑な思いと重なって、私たちの心に響いてきます。

 先週、私たちはそれぞれの生活の場で主イエスの み苦しみをおぼえる受難週を過ごし、感染予防のため、受難日晩祷も中止となった中、それぞれに受難日を迎えました。受難日、主イエスが処刑された日です。その日を、弟子たちはどのように迎えたのか 聖書は多くを語りませんが、一つ言えることは、トマスも含め、弟子たちは皆、主イエスが処刑される場から逃げたということです。誰も立ち会っていないのです。
私たちは弟子たちを「情けない弟子たち」と批判することはできます。けれども、いつも思うのです。もしも私も弟子の一人であれば、間違いなく、皆と同じように、自宅に鍵をかけ、「お前はイエスの弟子だな」と、摘発され、処刑されることを避けたに違いないと。
人は不安に襲われると、一人だと益々不安になります。そこで弟子たちは、皆で集まり、ユダヤ人から摘発されないよう家の戸に鍵をかけ、震えていたのです。けれども、その中にトマスはおりませんでした。

トマスは 今日 読んでおります御言葉から、「疑い深い」と言われております。けれども、他の個所を読むと、納得のいかないことにはとことんこだわり、主イエスに食らいつく。しかし、いったん腑に落ちたことには熱い男であった。真面目で、自分に正直な男という人物像が浮かび上がってきます。それだけに、主イエスを裏切った罪を深く後悔したに違いありません。
自責の念は、もしかすると、三度 主イエスとの関係を否定したペトロに負けないほど深いものであったかもしれません。それほどの心の痛み、息苦しさ、無力感、敗北感、自責の念から解放されるには、どうしたらよいのか?

このときトマスは、もしかするとイスカリオテのユダのように、死に場所を探して、一人さまよっていたのかもしれません。「私は主を裏切ってしまった。あんなに私を愛し、赦し、憐れんでくださった主を殺してしまった。私には、生きる資格などない。」しかし、死にきれず、気づくと弟子仲間の集まっている家に戻って来たのではないかと思うのです。
すると、息を潜めて隠れていたはずの仲間たちが異様な興奮に包まれているではありませんか。「わたしたちは主を見た」。トマスは一瞬、何が何だかわからなかったはずです。仲間たちの興奮した声、喜びに、置いてけぼりをくった情けなさ、やるせない思いは想像に難くありません。トマスの孤独、苛立ち、疑い、迷いが、今、それぞれの場で礼拝をささげている私たちに迫ってきます。
それからの一週間、トマスは他の弟子たちとの間に目に見えない大きな壁を感じ、孤独はますます際立っていたはずです。トマスの孤独は、外出自粛で鬱々としている私たちの孤独にも通じるかもしれません。

昨日、「新型コロナウイルスによる死者は、世界で10万人を超えた」と報じられました。「主イエスが死に勝利してくださった」と信じる。しかし、「私も新型コロナウイルスによって命が奪われるかもしれない」という不安と疑いの中、イースターを迎えた私たちも、「わたしたちは主を見た」との み言葉に、トマスのように叫びたくなるかもしれません。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
けれども、主イエスは、私たちの心のバリア、鍵を打ち砕き、私たちの真ん中に立たれる。不安と疑いの真ん中にしっかりと立ってくださるのです。
トマスが孤独を噛みしめ、他の弟子たちに心を閉ざし、鍵をかけ、もっとも辛いとき、復活の主イエスが再び弟子たちの家に来られ、弟子たちの真ん中にお立ちくださった。そして、「あなたがたに平和があるように」と祝福された。さらにトマスを見つめ「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われたのです。
トマスはその場に座り込んだかもしれません。主イエスのお言葉、主イエスの力、主イエスの愛、主イエスの憐れみ、主イエスの赦し、主イエスの励まし、主イエスの慰めが一気に注がれた。立っていられないほどの圧倒的な力。
その瞬間、トマスは心の底から信仰を告白したのです。「わたしの主、わたしの神よ」。他の言葉はいりません。主イエスも、これ以上の言葉を求めておられない。私たちも日々 復活の主に「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白し続けるのです。孤独を感じ、「いつになれば、愛する皆さんと礼拝をささげることができるのだろう」と不安を感じても、私たちの真ん中に復活の主が立っておられる。そして、「あなたがたは平和である。なぜなら、どんなときも、復活の私があなたがたの真ん中に立っているから」と語り続けてくださるのです。

復活の主イエスは、トマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」けれども、それまでの トマスの経験にまったく意味がないのではありません。すべての経験が「わたしの主、わたしの神よ」という告白に繋がっているのです。孤独、後悔、疑いも、「わたしの主、わたしの神よ」との信仰告白への辛い経験、悲しい経験、罪深い経験であった。でも、そのすべてを通して、「私を救うのは、あの人でも、この人でも、私でもない。復活の主イエスのみ!」と心の深いところに刻んだのです。
トマスは変わりました。それも自分の力、努力によって変わったのではありません。復活の主イエスが出会ってくださったことで、新しい命に生き始め、神さまの みもとへ続く道を歩き始めたのです。

主イエスは甦られました。そして今も、私たちの主、私たちの神さまとして、私たちの中に生きて、真ん中に立ち、私たちを生かしておられます。この、私たちの目には見えない 驚くべき主イエスの恵みが、確かにあるから、たとえ、困難な状況が続くことになったとしても、私たちは神さまにすべてを委ね、主イエスと共に永遠に歩み続けることができるのです。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、どうか、「わたしの主、わたしの神よ」と日々、信仰を告白させてください。どうか、「見ないのに信じる人」としてください。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。

<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。主よ、新型コロナウイルスの流行により、喜びの朝をそれぞれの場ですごしておられる方々に御子の復活の喜びを届けてください。10万人を超える方々が召されております。主よ、厳しい痛みの中にある方々に慰めを注いでください。日本でも、路上での生活を強いられている方々、職を奪われてしまった方々、先の見えない不安の中にある方々、孤独を感じている方々が大勢おられます。主よ、私たちを憐れみ、復活の希望に生きる者としてください。主よ、本日のイースター礼拝で予定していた洗礼式を、ペンテコステ礼拝において執り行うことができますようお導きください。キュリエ・エレイゾン主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。



2020年4月5日 日本基督教団 東村山教会 主日礼拝説教(受難週礼拝)  説教者:田村毅朗
聖書箇所:旧約 出エジプト記 第20章2節~7節、新約 マタイによる福音書 第7章21節~23節
説教題:「父の御心」
讃美歌:546、85、136、Ⅱ-1、304、545A     

本日から受難週に入りました。受難週は、主イエスの苦難を心に刻み、悔い改めの思いへと導かれて過ごすときです。その中で、2020年度がスタートしました。しかし今年は、いつもと様子が違います。教会学校は休校。聖餐も見合わせます。加えて、礼拝を40分以内に抑えることを先週の臨時長老会で決断しました。さらに、刻一刻と変化する状況から、最終的には牧師と数名の長老のみで礼拝をささげるという決断を致しました。これまで経験したことのない苦難に直面しております。 
先週から 主日礼拝の動画配信をスタートしました。苦難のとき、礼拝を慕いつつも足を運ぶことのできない皆さんと共に、場所は違っても心を一つにして礼拝をささげ、難局を乗り越える力と知恵を、主に祈り求めてまいりましょう。主にあって、勇気を出してまいりましょう。
私たちには今朝も、主の御言葉が与えられております。新年度、最初の礼拝にあたって、私たちに与えられたのは、主イエスが山上の説教のしめくくりに語られた、一瞬 言葉を失うような御言葉です。また、受難週を過ごす私たちを、悔い改めに導く灯(ともしび)のような御言葉なのです。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。(7:21)」
皆さんはどのように お感じになられたでしょうか?「信仰を告白し、洗礼を受け、礼拝をまもり、献金をささげている。教会の奉仕、お祈りも大切にしている。それなのに、天の国に入れない、なんていうことがあるのか?」不安に感じられたかもしれません。「えっ、天の国への資格試験があるのですか?」と驚かれたかもしれません。
もしも、そのように思われたなら、主イエスの苦難を思い起こして頂きたい。主イエスは、いったい何のために十字架で死なれたのでしょうか?自分の罪を認め、悔い改め、神さまに委ねる者に、罪の赦し、永遠の命を与えてくださるために、主イエスは苦しまれ、十字架で死なれたのです。山上の説教を語っておられるのは、他でもない、十字架と復活の主イエスです。この御言葉を語られたときも、主イエスは十字架への道を歩んでおられるのです。
主イエスは、自らの死をもって道を拓き、繋いでくださった「天の国」から、誰ひとり脱落して欲しくないからこそ、心を込めて語っておられるのです。
天の国に入るために必要なことは、主イエスの十字架と復活が、私のためである、と信じることです。
ところが、私たちは つい「苦難の道を一所懸命に歩むのがキリスト者だ」と力が入ることがある。たとえば、「神さま、私は主イエスの御名によって真面目に生きてまいりました。立派な業も重ねてまいりました。」と天の国の門の前に立って 胸を張れる生き方こそ、キリスト者に相応しいと思ってしまう。それが、天の国に入るための「天の父の御心を行う」ことだと勘違いしてしまう。
 けれども、そのような生き方には罪が隠れています。私たちが「主の御名によって、『私が』良い業を行った。こんな業をした!あんな業もした!」と、業を誇るとき、私たちの心は主イエスの十字架による大いなる愛、赦し、憐れみに背を向け、果てしなく離れてしまっているのです。
主イエスは、そのような私たちを深く憐れみ、「自分の業を誇り、どうだ!と胸を張る、それは神さまの御心とは違うよ」と導いてくださっているのです。
天の父の御心を行うこと。それは、脆(もろ)く、欠けだらけの「土の器」である私たちを神さまが用いて、御心を行ってくださることに他なりません。そこにおいても私たち自身が、神さま抜きで立派な器であろうと考えるなら、天の父の御心とは かけ離れてしまうのです。
神さまは すべてのものの創り主。私たちは 神さまが良いものとして造ってくださった被造物。神さまは 私たちの父で、私たちは 神さまの子どもです。すべてを治め、導いてくださる父なる神さまの御前に、幼子として、神さまに信頼し続ければよい。「私が、私が」と肩に力を入れなくてもよいのです。「私はこれだけのことをしました」とかっこつける必要もないのです。神さまから与えられる一日一日を感謝し、主イエスの十字架のみを頼みとし、それぞれに与えられた賜物を用いているなら、私たちはすでに天の国に生きています。主イエスの御苦しみと復活が、私たちの救いだからです。
今、世界が新型コロナウィルスに震えています。しかし、受難週に語られた主イエスの御声は今も、そして永遠に響き続けます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネによる福音書16:33)」受難週を、苦難の日々を、主イエスの十字架と復活に望みを置き、共に祈りつつ、互いに気遣い、励まし合って過ごしてまいりましょう。

<祈祷>
主イエス・キリストの父なる神さま、どうか不安に襲われている私たちを深く憐れんでください。どうか自分の業を誇る者ではなく、御子の十字架と、復活を頼みとし、御子を通して示された、神さまの愛と赦しと憐れみを喜び、誇る者としてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。


<執り成しと主の祈り>→共に祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは聖霊の助けを頂かなければ、主の御心を生きることはできません。今週も日々、聖霊を注ぎ続けてください。主よ、新型コロナウィルスにより、世界が大変なことになっております。東京も急激に感染者の数が拡大し、悩みましたが、今日から牧師、長老のみの礼拝をささげております。主よ、どうか今、それぞれの場所で礼拝をささげている兄弟姉妹を強め、励ましてください。愛する者が召され、深い痛みの中にある方々の上に慰めを注ぎ続けてください。苛酷な医療現場で、今この時も働いておられる医療従事者を お支えください。主よ、先の見えない不安の中にある私たちを憐れみ、復活と再臨の希望に生きる者としてください。キュリエ・エレイゾン主よ 我らを憐れみたまえ。天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン